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戦国ちょっといい話35

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0001人間七七四年2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0303人間七七四年2012/11/05(月) 22:12:17.92ID:/CwFW1/+
それ戦場のデフォ
0304人間七七四年2012/11/05(月) 22:24:23.23ID:Yl2SYoHD
南北戦争の初戦の第一次ブルランの戦いもピクニック気分で観戦しに来た奴らがいたというし
あと、中国の春秋戦国時代あたりで見物に集まったやつに攻撃しかけたら敵軍のほうに逃げていって、
敵軍が混乱して勝利した話があった気がする
0305人間七七四年2012/11/05(月) 23:26:02.81ID:OUwdw2fR
それ以前に籠城前に城下の建物を焼き払ってるだろ
0306人間七七四年2012/11/05(月) 23:59:30.04ID:TGZNGda+
天下の豊臣軍相手に奮戦する忍の領民(ステマ)
0307人間七七四年2012/11/06(火) 02:10:52.46ID:NrhQ01hW
単にラスボスの無茶な水攻め命令に従ってたら地質が悪くて堤が潰れて
修復してるうちに小田原が先に降伏しちゃった、てだけじゃおもしろくないか
0308人間七七四年2012/11/06(火) 02:26:18.89ID:n3/tKjUe
たかが地方の小城の攻城戦だったはずなのに
豊臣武断派が三成=戦下手のカスって認識するようになった
歴史を変える大事件に発展
0309人間七七四年2012/11/06(火) 05:46:39.79ID:VmFqHNiw
別にあの小説出る前から堤壊したのは領民たちだったって風に語られてただろ

氏長の妻(三楽の娘)の指示で
0310 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:8) 2012/11/06(火) 06:31:52.97ID:mFbaVcSB
>>302
攻め手が大砲をドカドカ撃ち込んだんだっけ?
0311人間七七四年2012/11/06(火) 09:11:26.15ID:Azyn9z1G
板倉勝重の子、重宗が父に代わって京都所司代となり、祇園社に参詣に向かったとき、
神社の前に子供たちが集まって遊んでいた。
一人の子が「ひとつ、ふたつ…」と数字を数えていたのだが、ふと

「なんで『ひとつ』から『ここのつ』まではみんな語尾に『つ』がつくのに、『とお』には『つ』がつかないのかな」

と呟いた。
子供たちは静まり返りってしまったが、その中の9歳の少年が答えて言った。

「そりゃそうさ。5の時に『いつつ』と『つ』を二つ使ったから、10の分が足りなくなっちゃったんだよ」

このやりとりを聞いていた重宗は少年に興味を持ち、翌日さっそく彼を招待し、
上下に二つ重なった餅を食べさせて、尋ねた。

「今食った餅、上と下、どっちの方がうまかった?」

少年はしばらく考え込んでいたが、突然両手をポンと打って

「今鳴ったのは、左手?右手?」

と問い返した。
重宗はいよいよ感心し、取り立てて自分の側においた。
成長した少年は重宗の一の側近になったという。

                    「明良洪範続」
0312人間七七四年2012/11/06(火) 10:16:27.34ID:NbK2TydX
質問に質問で答えるんじゃねーよゴラァ
0313人間七七四年2012/11/06(火) 11:02:33.96ID:ebE36DLt
>>307
>>309
軍記物の「堤が決壊して大被害」とか実際あったんかな?
そんな被害出れば「やっぱ水攻め無理」って
方針変更を請う口実になるしそういうやり取りでもしそうだが。
成田記や関八州古戦録の通説には疑問が残る。
0314人間七七四年2012/11/06(火) 11:11:33.76ID:Azyn9z1G
>>312
口で説明するより実際に同じ気分を味あわせてやろうとか
そういう機転なんじゃない?
0315人間七七四年2012/11/06(火) 11:54:11.20ID:2g0szYjX
鳴ったのは右手?左手?って禅問答があるんだよな。
0316人間七七四年2012/11/06(火) 11:59:45.26ID:JBlHchof
頭の回転のよさをみたんだろな
0317人間七七四年2012/11/06(火) 12:13:23.15ID:NrhQ01hW
のちの落語の佐々木政談である
しかし板倉重宗から後世の政談ものっていろいろパクってるんだな
0318人間七七四年2012/11/06(火) 17:27:24.90ID:3lzC74sQ
>>311
旗が動いているのか?それとも風が動いているのか?
的な禅問答なんだろうね
「片腕しかない人の拍手の音を聴いてこい」て公案もあるけど禅て難しく感じる
なにが言いたいのかよくわからない
0319人間七七四年2012/11/06(火) 18:44:36.24ID:JBlHchof
思考を繰り返すのがいいんだろ
実際たのしいぞ
0320人間七七四年2012/11/06(火) 18:51:54.82ID:bajq3D94
禅は答えが永遠にでそうになくてうあああってなるわ
0321人間七七四年2012/11/06(火) 19:14:05.93ID:VS7Xiq+J
重宗「うあああ…よし、採用!」
0322人間七七四年2012/11/06(火) 21:42:57.03ID:X4XSCtLl

武田勝頼親子の首級が織田信長の目にかけられた。
信長はその首を見て、

「日本に隠れなき弓取りながら、運が尽きてしまわれた故に、
このような姿になられてしまったのだな…」と言った。

――『三河物語』
0323人間七七四年2012/11/06(火) 21:47:11.08ID:I7PVLNuq
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6681.html
さて真実はどっちだ
0324人間七七四年2012/11/06(火) 22:39:42.36ID:qW1WTpFy
まーくんから従兄弟殿へのちょっとした(?)お願いの手紙 

伊達政宗の真筆書状 発見される

能代市では(個人名の為 伏字)さんが、伊達政宗(一五六五〜一六三六)から初代藩主佐竹義宣に宛てたと見られる書状を発見。
県立図書館文書係の鑑定の結果本物と判明したものの、宛名が失われており文面から佐竹宛と推定された。しかし、伝承経路は不明のようだ。

 本文には「…大砲の火薬の質や量、あるいは矢蔵の定め書きなどを給わばありがたい。」などとある。

1976年(昭和51年)4月1日発行 秋田県広報あきたより抜粋 
秋田県広報ライブラリー 当該記事へのリンク ttp://common.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/167/167_046.html

※転載ここまで

親戚でありながら敵対していた筈の佐竹義宣宛にDQN政宗からの、見様によってはとんでもない文面の手紙である。しかも直筆!
単純に「分かんないから教えてクレクレ!」なのか「お前、どんだけ武器弾薬貯め込んでんの?ニヤニヤw」と、邪推しそうになる文

恩讐を乗り越え「かつての敵とも、腹を割って何でも話せるようになった」義宣と政宗の「俺達マジ親友!」の、仲のいい話…なのか
「…政宗め。こんな文が幕府に露見したらヤバイだろ!油断のならない奴め!」と、宛名を失わせた義宣の手筈の良い?話でした
0325財布激安/偽者2012/11/07(水) 01:09:52.23ID:sG8DeV6b
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0326人間七七四年2012/11/07(水) 12:39:36.10ID:O+mufkDX
まとめ見てたんだけど、武田信繁っていい話しか無いんだな
悪い話は討ち取られた位のもんかな?
信繁の悪い話無い?できが良すぎだろ
どっかの信繁と違って
0327人間七七四年2012/11/07(水) 13:50:36.21ID:bTp14Zmb
武田信繁は江戸初期から武士の鑑って神格化されてっから基本いい話しかない
0328人間七七四年2012/11/07(水) 16:22:24.33ID:qZT1KT+F
長野県長野市にある典厩寺は真田信之が武田信繁の菩提を弔うため、
それまでの瑠璃光山鶴巣寺の名を改めたもの。
本堂より左には自然石を用いた信繁の墓があると同時に、
武田上杉両家の討ち死にした者たちの弔魂碑がある。
なお境内には川中島合戦記念館があり寺宝を収蔵展示している
0329人間七七四年2012/11/07(水) 18:46:49.33ID:MXd1EikK
>>324
受け取った佐竹義宣のイヤそうな顔が目に浮かぶ
ろくな事は企んでないだろうと思わせる手紙だw
0330人間七七四年2012/11/07(水) 20:31:58.92ID:VQLJNFGf
この前小諸から東御市に向かう道を通った時にで信繁の墓があった

なんであそこなんだろう
0331人間七七四年2012/11/07(水) 20:51:17.81ID:FwEHAAEt
>>330
何の史料も確認していないから、極めていい加減な私見ではあるが、息子の武田信豊が小諸城主だからじゃないか?
0332人間七七四年2012/11/07(水) 21:28:01.04ID:eN+Vkod4
死んだ川中島にあるんじゃないの?
0333人間七七四年2012/11/07(水) 23:26:14.04ID:0jZUtu4Y
胴体が川中島の典厩寺で、首だけ息子のいる小諸まで運んだみたいね。
行った事ないけど写真で見る限り首の方がかなーりひっそりと祭られているような。
川中島で死んだしあっちの方が有名だししょうがないか。
0334人間七七四年2012/11/08(木) 16:52:32.06ID:3IV3NXbr
紀州頼宣に仕えた儒臣に奈波(那波)道円という者がいた。
その甥の奈波加慶という針医師が御供して紀州にいた時に、

和歌山一番の富豪・島孫左衛門という町人が長年病気に悩んでいた。
ある人がこの度加慶が来たのを幸いとして島に彼を推挙した。
その人が療治を頼むと加慶は「心得た」と答えた。

「それは良かった。この孫左衛門という人は和歌山で一番の有得人ですから、
他の病人よりも精を出して治療してくださいね」

加慶はつくづくと聞いていたが、その人が座を立とうとした時に…

「只今御頼みの病家への見廻りは御断り申す」

「なんと!? たった今治療を承知されたではないですか!
何故手を返すようなことをなさるのです!」

「始めは病人とばかり承ったので承知いたしましたが、あなたは富家だから
精を入れて治療しろと仰った。私は今日まで病には針を立ててきましたが、
金銀に針を立てたことはありませんので御断り申す」

――『良将言行録』
0335人間七七四年2012/11/08(木) 20:25:00.56ID:X1OGkpuB
江戸城本丸において、将軍家より隠密の相談がある時は、その昔はだいたい数寄屋にて行われていたのだが、
土井大炊頭利勝がある時思いつき、千畳敷の真ん中に将軍家に出て来て頂き、四方の金唐紙なども全て取り外し、
少しも隠れる場所の無いようにした所、誰であろうと、その相談の間、近づく者無く、相談の内容が漏れるようなことも
無くなったと、これは古き人たちが申していることである
(武野燭談)
0336人間七七四年2012/11/08(木) 20:50:56.90ID:I9N32n+s
天井と床下はどうなってたんだろう
0337人間七七四年2012/11/09(金) 09:10:16.64ID:cmBvDaDs
分厚いビードロで外からはモザイク模様に
0338人間七七四年2012/11/09(金) 11:02:11.50ID:gMeCskhA
>336忍者が周りにいれば入り込めない
0339人間七七四年2012/11/09(金) 11:33:56.01ID:uA14xTkd
本多様が天井は心配無いって言ってました
0340人間七七四年2012/11/09(金) 17:08:56.35ID:R0jiYxA7
伏見城築城の祝いの後、豊臣秀吉は井伊直政、本多忠勝、
榊原康政、平岩親吉に歳末の祝儀として密かに黄金を百枚ずつ与えた。

直政と忠勝はそのまま黄金を拝受して家康には告げなかった。

康政は「どうしたらよいでしょう」と家康に告げ、
家康は「下し賜れた物は受け取るものだ」と言った。

そして親吉は黄金を受け取らず、
「臣は関東奉公の身にて、その禄を受け衣食は常に足りている。
今主君の賜り物を貪っておいて、受け取ることなどできはしない」
と、黄金を使者に返し渡した。

このように私欲がなく正直な心の持ち主であったので、家康は親吉を
信康や義直の後見として附けたのである。

――『名将言行録』
0341人間七七四年2012/11/09(金) 17:36:56.26ID:Qm/GW8ed
200石以下(あくまでも目安)の武士の言行について語られてる資料って葉隠以外だとなにがある?
最近そのあたりの武士の逸話に興味があるのでご教授願う
0342人間七七四年2012/11/09(金) 20:42:02.56ID:YL2d4lQn
>>340
丁度この時分あたりか
「太閤秀吉は伏見の城を縄張りとする時に井伊直政に相談した」と
『武功雑記』にメモの様に書かれているけど
なぜ徳川家臣で陪臣である直政に相談したんだろ
0343人間七七四年2012/11/09(金) 20:45:58.65ID:Qe9oBR+n
>>342
秀吉政権では井伊直政は陪臣ではなく独立大名扱い。
0344人間七七四年2012/11/09(金) 21:21:35.38ID:cRRPWd/b
堀田加賀守正盛だだんだんに立身し、大身を仰せ付けられた頃、彼は土井利勝の屋敷に出向き、こう尋ねた

「小身の私が将軍家よりお取り立てして頂き、この様に大身の数に入り、家臣も多く召抱えることになりました。
そこでご相談なのですが、家臣を管理する目付役・横目役などを申し付けるべき人品は、どのような人柄の者が
然るべきだと考えていらっしゃるのでしょうか?
土井殿の賢慮をお伺いしたく、こちらへ参ったのです。」

この様にまめやかに尋ねた事に、土井利勝

「それは最初に、良きことに気が付きましたね。
役についての、人柄の吟味は尤もの事ですが、その中でも目付などに適した人品について、私にまで相談されるとは、
誠に奥ゆかしいことです。

あなたや私などは、将軍家のご威光のおかげを以って、方々へ饗応に招かれます。
その膳部は爽やかにして切り目正しく、季節折々の初物も食い甲斐があるように料理されて、
この料理が完成するまでの亭主の奔走はどれほどだっただろうか、などと考えている所に、
勝手より人が出てそっと『あの膾にはハエが止まっていました!あの刺身には蚊が止まりました!」などと
言ってきては、それ自体は何の意味もないことではあっても、聞いてしまってはどうしても気分がよくありません。

総じて、欠けた所のない人というのは稀です。ならばその人に適した分野を見立てて仕事に使うべきです。
酢や煎酒に蚊が入ったことまで、取り上げて尽く申し立てるような器量のものは、目付・横目には無用の人品です。

だからといって、砒素石や斑猫(どちらも毒薬)が堂々と入っているのを見逃してしまうような、
律儀過ぎる者も目付役には適しません。
と言うか、そんな者がもし本当にいたら、、それは毒石や斑猫と同じ有毒な存在です。
であれば、その人物の危険性をいち早く察知し、注進するような侍こそ、真の目付になるべき者です。

この大炊頭が家人に目付を申し付ける時は、例えば、人間の目は横に切れているのが天より与えられた姿であるが、
この目で物陰から覗いたり、目を眇めるなどして物を見ようとすれば、まっすぐに見るのとは違って
見損じもある。であれば、ただまっすぐに見たものを実として、途中に脇目をセず、向こうばかり見るのだと思えと、
そう申し付けています。」
と答えたのだという。
(武野燭談)

土井利勝の目付選抜法、というお話。
0345人間七七四年2012/11/09(金) 21:46:50.68ID:YL2d4lQn
>>343
聚楽第行幸などでも有力大名扱いでしたっけ
それにしても直江兼続以上の面白い立ち位置だったんだな
0346人間七七四年2012/11/09(金) 22:19:10.12ID:PZRa+Oyr
小牧・長久手の時に思いっ切り悪口書かれた相手に黄金百枚かぁ…。

館林城主にしろとアドバイスしたのもそうだが、秀吉は康政評価してたんだなー。
井伊と同等ってかなりすげー
0347人間七七四年2012/11/09(金) 22:57:21.58ID:PMNMRWSA
>>344
土井さんはホント官僚の鑑だな
0348人間七七四年2012/11/09(金) 23:15:06.62ID:iN8RimBy
秀吉の正室ねねには子が出来ず、それを秀吉は文句いい
ながらもとても良い夫婦だった。
0349人間七七四年2012/11/09(金) 23:19:30.89ID:m9LGRbKG
>『あの膾にはハエが止まっていました!あの刺身には蚊が止まりました!」などと
>言ってきては

俺のことか…
0350人間七七四年2012/11/09(金) 23:29:29.88ID:FsTELhoz
毒をみのがすのが律儀ってのがよくわからん
0351人間七七四年2012/11/09(金) 23:51:49.04ID:khQPPpsy
人を疑う事を知らない人間性って意味じゃないか
0352人間七七四年2012/11/10(土) 00:12:56.97ID:77PFQ/KV
訳の問題もあるだろうけどこれが律儀と呼ばれる行為なら
律義者と呼ばれた方の評価が大分変わってくるな
0353人間七七四年2012/11/10(土) 00:17:32.57ID:ghAmbUb8
>>350
加減を知らないってことじゃないかな
弛める部分も大事だと言われると毒にも気付かないほどリラックスして、
引き締めてやれと言われたらチリひとつ落ちてたくらいで打首だと騒ぐような
0354人間七七四年2012/11/10(土) 02:14:17.51ID:YaJkWQ2/
つまり目付に適しているかは目付きを基準にしろ、と
0355人間七七四年2012/11/10(土) 06:06:25.59ID:JcXIIyEn
>>343
井伊家は名門で官位も高かったからなー
0356人間七七四年2012/11/10(土) 14:33:05.51ID:CVfvJ0Ol
九条稙通は勇猛な人であった。

鬼神の如く世に恐れられた織田信長にはいずれの公家も媚びへつらったものだが、
この玖山公は立ちながら向かい会い「上総殿が入洛めでたし」と言って帰ったので、
信長は機嫌を悪くして「九条殿は我に礼を言わせに来られたか」と腹を立てた。

例え一令を失うとしても、公家の行跡を乱して御家の恥を残すまいという心故であろう。

「時勢に従わずに不用なことをなさる」と謗る者もいた。
または「『智者は惑わず、勇者は怖れず』ということだ」と誉める輩もいたのだとか。

――『日本史伝文選(戴恩記)』
0357人間七七四年2012/11/10(土) 19:36:26.09ID:ghAmbUb8
九条さん剛の者だな
蜂須賀小六、荒木村重との逸話もそうだけど、
織田信長は座敷の場でもタイマン一歩手前な状況になることあるな
すごく威圧感のあるタイプだったんだろう
0358人間七七四年2012/11/11(日) 00:52:36.28ID:U660Ng4G
津軽信義は幼少時代より母・辰姫とともに弘前藩飛び地大館に幽閉されていた。
その幽閉時代に母は死去、その後は乳母である船橋半左衛門の妻によって育てられた。
信義が藩主になると、国許の家臣をほとんど知らないために船橋半左衛門が重用されることとなったが、国許の家臣、特に譜代の家臣に不満が募った。
そこで、譜代の兼平信孝、乳井建定らが江戸の町屋に篭城し、船橋追放を幕府に訴えた。
これを受け、津軽信義は土井利勝、松平信綱、阿部忠秋らの尋問を受けることとなった。

まず土井利勝は、
「訴状によれば《主君のためにした》としているが平蔵殿(信義)はどのように考えるか」
対する津軽信義は、
「私が若輩のため、家臣どもはいきなり目安をもって公儀に訴え出てしまった。
藩邸より立ち退いた者には帰ってるように再三の説得をしたが、難題を申して聞き入れてくれない。
私には何が良いのか悪いのか判断がつかない。
この上はご公儀においてよろしく御裁断申し上げる。」

と、15歳ながら神妙な回答をしたため、土井利勝は
「若年ながらこの分別、私達も子を持つ者として考えさせられる。
特に平蔵殿には岳父がおらず親族も少ない。
相談相手もなく辛いことだろう。苦衷のほどはよく判る」
と、落涙した。これにつられて同席した幕閣も貰い泣きし、信義に対して「お構いなし」の裁定が下された。

余談であるがその後、津軽信義は、娘の萬を土井利勝四男・利房に嫁がせている。

尋問部分は白川亨さんの「石田三成とその子孫」に書いてあり、元の出典は『服部長門守宛、乾四郎兵衛、船橋半左衛門書状』のようです。
0359人間七七四年2012/11/11(日) 01:02:18.51ID:Km/8uD4Z
みんな涙脆いなw
それにしても土井利勝、松平信綱、阿部忠秋の三人の前で話すのは緊張しそうだなー
0360人間七七四年2012/11/11(日) 01:07:25.65ID:4fW2CcqC
>>358
そういや白川亨さんって、今年亡くなられたね。

武功夜話を真書として扱ったりミスはあったけど、実証的石田三成研究の
端緒をつけた人で、惜しい人を亡くしたものだ。
0361人間七七四年2012/11/11(日) 03:43:07.88ID:BonGPYJ3
で反抗した人達のその後はどうなったんだろう?
0362人間七七四年2012/11/11(日) 07:49:41.61ID:AKuoj+Ih
と後の宇都宮藩主が尋ねておられます
0363人間七七四年2012/11/11(日) 09:17:46.43ID:WHBQaoke
船橋半左衛門も兼平信孝・乳井建定も喧嘩両成敗で他藩お預けになり、
裁定に反発した藩士たちが両派問わず出て行って、城の警備にも事欠く有様になったそうな。
・・・あれ、悪い話?
0364人間七七四年2012/11/11(日) 10:46:09.62ID:EbGq1rt8
遅くなりましたが、前スレ>>911で「東国の戦国争乱と織豊権力 7」を教えてくれた人へ
本屋で軽く立ち読みして面白かったので購入しました
遅くなりましたが勧めてくれたこと感謝しています
0365人間七七四年2012/11/11(日) 17:12:12.93ID:l3BBkEkC
乳井とか孕石とか現在の観点からすると随分変な苗字だけど
当時はどうだったのかな?
0366人間七七四年2012/11/11(日) 17:35:47.60ID:4fW2CcqC
>>365
地名から取るケースが多いから違和感はなかったんじゃないかな。
0367人間七七四年2012/11/11(日) 18:20:14.93ID:qfQB4u93
俺もちょっと珍しい名字で電話の時は漢字毎に説明しなきゃならないんだけど(「大きい」の「おお」です、みたいに)、孕石さんってその場合大変だよなぁ・・・
0368人間七七四年2012/11/11(日) 18:27:57.00ID:NlOmgjI2
京の人から変な名字扱いされたのは、知ってる限りでは長宗我部さんくらいだな
0369人間七七四年2012/11/11(日) 18:32:01.13ID:d+NAPoUn
チョウスガメ、と読むらしい、おもしろき名なり
だったっけ?
0370人間七七四年2012/11/11(日) 18:50:02.47ID:Zn8sZOGz
変な名字じゃないけど「そのままかよ!自己顕示欲強いな!」と
思わずにはいられない名字ってあるよね、問注所さんとか

まあ実際に自己顕示が目的なんだけどさ
0371人間七七四年2012/11/11(日) 20:37:21.93ID:7MWZQl4Y
慣例でもあるやん
0372人間七七四年2012/11/11(日) 22:06:41.38ID:ljQD2uKs
永禄9年(1566)の春、北条氏支配下の三浦三崎の浦に唐船が入港した。
この船は錦の織物、様々な焼き物、沈香、麝香、珊瑚、琥珀の玉など、あらゆる商品を持ち来ていた。
その頃関東は富貴であったので、それら商品は尽く諸人買取り、唐船は売買の利を得て帰国した。

その中に唐人が多数この関東に留まり、目出度き所にこそ住むべきだと、帰国せずに、即ち小田原に居住した。
そこで町家を給わり商人となって、今もその子孫が多数、小田原に有るのだという。
(關侍傳記)

小田原に住み着いた唐人たち、というお話
0373人間七七四年2012/11/11(日) 22:11:20.53ID:4F/SxG4G
>>366
地名にもおかしな地名あるだろうが
血洗島とか。。
0374人間七七四年2012/11/11(日) 22:26:20.72ID:7MWZQl4Y
ういろう家が小田原に行ったのはそういう下地があったのか?
0375人間七七四年2012/11/12(月) 12:54:38.83ID:UPBETAUx
伊藤一刀斎にボコられた唐人も三浦に来てた人だったよね
けっこう定期的な入港があったのかも
0376人間七七四年2012/11/12(月) 15:21:35.21ID:Jl8rqVN2
定住したとこからして定期的な漂流船だろうな
0377人間七七四年2012/11/12(月) 17:48:02.81ID:prlFx6pi
武田信玄が上杉謙信と和睦しようと長遠寺の僧某を送って説得させた折のこと。
謙信は僧に向かって「甲斐の臣に向井与左衛門という者はいるか」と尋ねた。

「はい。おります」
「その人に刀傷はないか」
「はい。面に刀傷があります」

「おお、そうか! 実はな、むかし川中島の戦いで彼は姓名を名乗って
槍で私の背を突いた。その時、私は後ろを見て彼の面に一撃を加えたのだよ。
すでに死んだものと思っていたが…そうか、いまも無事であったか」

謙信はその時に着ていたと思しき槍の痕がある緑色の陣羽織を出して一つの書簡を
添え僧を介して与左衛門に送らせた。世にこれを倒勲状(さかさ感状)という。

大槻磐渓曰く、
「私が聞いたところによると、謙信は甚だ身の丈が大きいというわけでもなく
足を引きずって歩いていたというが、戦いともなれば黒い陣羽織を着し鉄製の
小陣笠を戴き、三尺の青竹杖をひっさげて士卒を指揮したという。

それを踏まえてこの逸話を見ると謙信の心の広きことを想像できる。かの勲状を
自分と敵対する者に与えてこれを賞したのは謙信の度量が広いからだ。そのような人が
どうして逆禿(悪僧、信玄)と親交を結ぶような下策に出るだろうか」

――『近古史談』
0378人間七七四年2012/11/12(月) 18:06:34.07ID:twErZys3
すごくいい話だと思ったのに、著者が余計なことを
0379人間七七四年2012/11/12(月) 18:07:11.08ID:twErZys3
訂正、著者じゃなくて大槻磐渓
0380人間七七四年2012/11/12(月) 18:53:43.32ID:HrpWlGHh
大槻磐渓曰くの後半部分がどう前半を踏まえてるのかわからねえw
0381人間七七四年2012/11/12(月) 19:46:03.26ID:/t0cDuhH
敵に背を向けて逃げて背中に傷を受ける悪い話だなw
0382人間七七四年2012/11/12(月) 20:29:42.40ID:Pw8IDJf4
なんだ、ただの軍神礼讚か
0383人間七七四年2012/11/12(月) 20:40:05.83ID:Kz1pjgFx
敵大将からの感状、しかも謙信からの感状
うらやましい(´・ω・`)
0384人間七七四年2012/11/12(月) 21:21:54.52ID:065CW0wl
>>374では同じく「關侍傳記」から外郎のお話

北条氏綱の時代、相州小田原では政道に私無く、民を慰撫したので、近国・他国の民も
北条氏の徳に懐いて家を移し、津々浦々の町人・職人、西国・北國より群れ来たった。
それにより小田原の街は、昔の鎌倉もどうしてこれほどだっただろうか、と思うほどの
繁栄を示した。

東は一織より板橋に至るまで、その間一里ほどに、棚を設置し数多の売買を行い、
山海の珍物・琴・碁・書・画の細工に至るまで尽く集まっていた。
異国の唐物でも未だ目にしたこともなく、まして聞いたこともないような器物を数知れないほど
積み置いていた、

小田原における交易売買の利潤は、京の四条、五条の辻にも勝っており、民の収入も豊かで、
小田原を支点にした東西交易は大変繁盛していた。

このころ北条氏は小泉という人物を町奉行に置いた。この人は賞罰厳重にして人の堪否を知り、理非分明にして
物の奸直を糺したので、人の嘆きも無かった。

ここに京都より外郎という町人が来て、様々な薬を売る中にも、透頂香という霊薬を売っていた。
これは長生不死の薬として、北条氏綱にも進上される事となり、小泉はこの外郎を連れて登城した。

外郎は氏綱の前でかの薬の効能を上げ、第一には口中の臭いを除き、眠気を消し去り、
命を延ばすのだと言上した。

外郎の言うところには
『この霊薬は唐にて仙人の秘薬でしたが、我々の先祖がこれを伝え、鎌倉の建長寺の開山・大覚禅師
来朝の時、共をして本朝に渡ってより、この地に居住しています。』
とのこと。

氏綱は
「実に珍しい貴物である。おぬしはここに居住せよ」
と申し付け、明神の前に町家を給わり、小田原に住むことになった。
今の小田原の外郎というのは、これである。

(關侍傳記)
0385人間七七四年2012/11/12(月) 21:50:32.00ID:GRmcnagB
当時の小田原の繁栄振りを見てみたいわ
今の物があって当然って感じの東京とは違う活気がありそう
0386人間七七四年2012/11/12(月) 23:10:12.21ID:1PEFadOE

レスが拾われるとはw
北条の内政チート話はよく聞くなぁ
滅ぼされなかった歴史が見たいもんだ
0387人間七七四年2012/11/12(月) 23:52:28.06ID:AH7QiWE5
小泉という町奉行は、江戸初期に多摩川を開拓した代官の祖先?
0388人間七七四年2012/11/13(火) 00:16:19.06ID:/UEP4ayn
>>387
小泉次大夫は元今川家臣だね
0389人間七七四年2012/11/13(火) 02:10:29.99ID:qkkxzYjz
本多正信は若年の頃より智慮のある人であった。

大高城を攻めて引き取るという時に諸人は「城中にある米をこのままにしては
たちまち敵のものとなってしまう。米を取り出して敵に渡さないようにしよう」
と皆々相談したが、そう簡単なことではなかった。

しかしこの時、弥八郎が「米をこのまま置いておいて一旦敵のものになったとしても、
明日には敵を追い払ってこちらのものにすればよいではないか。少しも気遣う
ことはない」と言うので、そのままにしたところ案の如く翌日には敵を追い払い
米もすべて味方のものとなった。

その見地は若年の頃より少しも違わなかったのである。

――『良将言行録』
0390人間七七四年2012/11/13(火) 03:57:44.86ID:p8VSHbSC
良将言行録ってのがあるんだ
知らなかった
0391人間七七四年2012/11/13(火) 18:05:18.32ID:m/OfymvL
福岡銘菓の「鶏卵素麺(そうめん)」で知られる福岡市博多区の老舗和菓子店「松屋菓子舗」(松江光社長)が
自己破産申請の準備に入ったことが12日、分かった。信用調査会社の帝国データバンク福岡支店によると、
負債総額は約2億5千万円。本店や福岡市内の百貨店で営業している計7店の閉鎖時期などについては不明。

 同社は1673年(延宝元年)創業。福岡市内の和菓子製造会社としては最も古く、
江戸時代に黒田藩に献上したとされる鶏卵素麺を主力商品に、ようかんや最中などを販売していた。
1996年に株式会社に組織変更。99年4月期には約5億2500万円の売上高があったが、
消費者の和菓子離れなどの影響で、2011年4月期は約3億2千万円に落ち込んでいた。
現在は福岡市・天神の岩田屋本店や福岡三越、博多大丸などに直営店を構えている。

 「鶏卵素麺」はほかのメーカーでも同名の商品がある。

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/333828
0392人間七七四年2012/11/13(火) 18:40:46.46ID:zTJiC/oF
北条と唐国との話が出たので北条五代記の該当部分をば
ただ逸話というほどの分量ではないので箇条書きでまとめるのはご容赦

・三浦三崎はガチの名勝
・名勝ってだけじゃなくて交通の要衝だし、水底は深いし、幾千艘つないでも余裕の良港すぎワロタw
・日本だけじゃなくて唐国にも知れ渡ってるマジスゲーwww
・氏政が三官っていう唐人に虎朱印判状渡して、唐国の黒船が来航したよ
・そいつら三崎の良港ぶりにめっちゃ驚いててワロタwww
・安藤豊前守が通訳交えて唐人と売買したよvv

八王子から外来の器とかそこそこまとまって見つかってるらしいし、
ある程度交易はあったっぽいね
0393人間七七四年2012/11/13(火) 19:24:48.74ID:12gephJg
>>391
鶏卵素麺はあまり旨くはなかったが古いメーカー潰れるのは残念
鶏卵素麺は南蛮の菓子だが、タイにも伝来してるみたい
日タイ交流協会のイベントで紹介されてた
>>392
三崎地図でみたら島と半島で囲まれてんだな
屋島とかあと鎌倉は人口島で同じような地形作ってるね
中世から近世の港の特徴なのかもな
0394人間七七四年2012/11/13(火) 19:29:47.40ID:1hq8lkjn
湾内が広くて水深が深くて沖からの風波を防ぐ
山がそのまま海底につながってるような場所で沖を半島や島で囲まれてる所が天然の良港になるんだろうな
0395人間七七四年2012/11/13(火) 19:48:13.33ID:B2/FBL9K
徳川家康がある時、このような事を言った

「家臣として、主君に向かって、志を立てて諫言を行うものは、大剛・大忠の者である。

平凡な人間には、思い切ったことは言えぬものだ。
何故なら、主君というのは恐ろしい者であり、それに向かって思い切って諫言を言おうとするのは、
大敵の中に駆け入るよりも大変な事だからだ。

大敵の中に駆け入った場合、高名して大利を得ることもあるし、勿論討ち死にするのも勇士の常とする
所であるから、何れにしても多くの者達がこれを励むものである。

ところが、主人の心と違うことを言って、主人に憎まれてしまっては、今自分が得ている身上を失う
どころか、その妻子まで含めて逃れがたい困難な事態になる。

そう言う事を知りながら、自分自身は勿論、妻子・兄弟の事をも顧みず、思い切って諫言を言ってくる。
そういう人間は大剛の忠臣である。必ず疎かにしてはならない。」

(武野燭談)

徳川家康の、諫言についての考えである。
0396人間七七四年2012/11/13(火) 23:00:25.70ID:6Ks1QsGY
この逸話、会社人だとどのくらいの地位から参考にすべきなんだろ?
0397人間七七四年2012/11/14(水) 00:12:02.48ID:mnbwLNRd
最低、部長クラスじゃないのか
課長係長の諫言をまともに聞く度量のある社長は少ないと思う
0398人間七七四年2012/11/14(水) 00:40:11.49ID:lc/a7xsd
彦左が頷いてる姿が目に浮かぶ...(´・ω・`)
0399人間七七四年2012/11/14(水) 01:16:30.68ID:LJ1S3Nzx
>>396
それを知りたい場合は葉隠を読むべきじゃないかな
0400人間七七四年2012/11/14(水) 05:56:16.83ID:0zIQU8jV
やばい、俺、朝鮮人かも。
家系図の一番最初が霧隠才蔵になってる。
0401人間七七四年2012/11/14(水) 06:41:40.36ID:DQ0CVsTB
諫言しやすさ

家康>>>>信長>>>>秀吉(晩年)
0402人間七七四年2012/11/14(水) 13:42:17.09ID:ngiMIftZ
>>396-397
部長になる頃には下にも家庭にも守るものいるからな〜
やっぱ諫言も才能だから、
ガキの頃から間違ってると思う事は怖い先輩にでも言うタイプじゃないと、
大人や役職ついてからでもなかなか言えない
中学の時の同級生にそのタイプいたけど、
そういう奴は大人になってもしっかりしてる
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