戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0219人間七七四年
2012/11/02(金) 18:33:46.18ID:jpUA5NAZ精一杯の意地でもある
それは家光公とかも憧れる浪漫っぽいもの
0220人間七七四年
2012/11/02(金) 19:05:31.57ID:Gr3+0d0y0221人間七七四年
2012/11/02(金) 19:49:32.15ID:KAsmxqonマキャベリストなら自分がいかにも純朴で誠実な人間と偽るんだよなぁ
0222人間七七四年
2012/11/02(金) 19:57:07.95ID:RfYzohGp0223人間七七四年
2012/11/02(金) 20:00:55.91ID:RfYzohGpマキャベリがでてきたから戦国スレとは思わなかった
0224人間七七四年
2012/11/02(金) 20:06:39.44ID:WYMSS6al0225人間七七四年
2012/11/02(金) 20:09:39.77ID:ZSlyWsU9彼は家康の関東移封後、武州川越三千石を与えられたのだが、ここに備後村という郷村があり、
その庄官は備後を名乗っていた。
これを知った忠利の家臣たちはこの備後に
「備後とはこの地の領主である殿の官名である。よってその名を改めよ。」
と伝えた。この時代、領民や家臣が主君と名乗りがかぶるのは不敬であり、この要請は常識的なことであった。
が、この備後は解明の要請を全く受け付けず、そのままの名乗りを押し通した。
そのうちに酒井忠利が領内を巡回した時、この庄官を呼び出し直接に言った
「お前の名はこの地の領主の名乗りと同じなのだ。よって改めよ。」
庄官は猛然と答えた
「これは近頃迷惑なことを承るものかな!私は人に勝って年貢を一番に納めています!
勿論公役に関しても他人よりも第一に勤めておりますれば、領主様からの掟に少しも背いて
おりません。それなのに、どんな過怠があって名を改めよと仰るのか!?
その上私の家は代々備後を名乗っておりますれば、改めること罷り成りません!
同じ名で都合がわるいというのなら、殿が名を改められよ!!」
領主に対して思い切ったことを言ったものである。ほとんど暴言であり、これで殺されても
全くおかしくはない。
が、酒井忠利は笑い出した
「ははは、そうか。年貢・公役を人より先に勤めるというのは一段と良いことである。
しからば己はここの備後よ。私は酒井備後守である!苦しからず、そのままにて居よ。」
そう、申し付けたそうである。
(武野燭談)
酒井忠利の温和、というお話。というかこの庄官ちょっと常識はずれに凄いw
0226人間七七四年
2012/11/02(金) 20:29:52.85ID:KAsmxqon村役人はその末裔という可能性あるな
なら改名はしにくそうだ
0227人間七七四年
2012/11/02(金) 22:06:39.59ID:sI1PbU8g0228人間七七四年
2012/11/02(金) 22:25:11.94ID:CqDydaVI今思いついたのは維新様だけど
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2900.html
0229人間七七四年
2012/11/02(金) 22:37:14.99ID:sPEjkkGK0230人間七七四年
2012/11/02(金) 22:40:50.89ID:WQI/aA300232人間七七四年
2012/11/02(金) 23:32:10.99ID:QTQCXNWi0233人間七七四年
2012/11/02(金) 23:35:03.21ID:rbbH17K00234人間七七四年
2012/11/03(土) 02:24:18.40ID:fReihmWi0235人間七七四年
2012/11/03(土) 08:45:37.07ID:3/lmW+3v0236人間七七四年
2012/11/03(土) 10:08:05.29ID:JUhweKVc0237人間七七四年
2012/11/03(土) 10:23:49.41ID:MuaxDSke0239人間七七四年
2012/11/03(土) 12:03:18.62ID:FEujK5a5まぁまぁ、教皇猊下が茶を振る舞って下さるそうですよ
宇喜多なんとかいう人も同席するらしいですし
0240人間七七四年
2012/11/03(土) 13:01:53.07ID:OVZAokdY0241人間七七四年
2012/11/03(土) 13:40:32.37ID:YRtqEtjsボルジアのカンタレラも砒素っぽい
まさに砒素は愚者の毒とはいえ確実なんだろうな
0242人間七七四年
2012/11/03(土) 13:45:30.13ID:2u3d0y0Bそういう技術がない時代には使い勝手がよさそうだ
0243人間七七四年
2012/11/03(土) 13:49:53.61ID:YRtqEtjs0244人間七七四年
2012/11/03(土) 13:54:18.33ID:wOSt/pQ5まあ砂加藤さんは普通に病死だろうけど。
0245人間七七四年
2012/11/03(土) 13:56:45.82ID:2u3d0y0B0246人間七七四年
2012/11/03(土) 14:49:09.32ID:wOSt/pQ50247人間七七四年
2012/11/03(土) 15:08:52.27ID:rNEhluPK松永のような茶の嗜みのある武将じゃないとダメだな
0248人間七七四年
2012/11/03(土) 15:13:45.21ID:LfaaJuzV石劣口藤
しれっと「劣」までいれちゃって
0249人間七七四年
2012/11/03(土) 15:23:06.92ID:xJFxG5ar石劣口藤
石劣萌泰
つまり、「石」田に「劣」ることで「萌」えをさそう光「泰」
というなぞかけ
0250人間七七四年
2012/11/03(土) 16:24:57.52ID:317oAYR8鍋島直茂が往来するごとに庶人らは皆出てきて拝伏していた。
ある日、直茂は近臣に向かい「衆人が拝しているのに黙しているのは
謙退の道ではない。だから駕籠から降りて答礼しようと思いはするのだが、
かえって下々も難儀ではないかと思い、いつも駕籠の中で目礼している」
と語った。
この話を聞いた庶民らは「尊い君でさえこのようなのだから我々も」と、
互いに謙退辞譲を守り、親睦を深めたのだとか。
――『名将言行録』
0251人間七七四年
2012/11/03(土) 18:05:09.21ID:y+3vNVB10252人間七七四年
2012/11/03(土) 19:10:29.32ID:LkV1dfyq0253人間七七四年
2012/11/03(土) 22:11:11.34ID:/Xo4EPr50255人間七七四年
2012/11/04(日) 00:13:18.66ID:9WFrkSKl>九頭竜川の戦いは、朝倉の軍勢、数千人が一向一揆の数万人の
>軍勢に勝利したといわれていますが
>これは両陣営、協議をして、合戦の決着を一騎打ちを何セットか
>やって(引き分けが無いように奇数のセット)
>勝った数が多いほうが合戦が勝利で、現場一帯を制圧でき
>負けた側は引き上げる、と決めて
>一騎打ちの団体戦をやって、朝倉側が大多数の一騎打ちに勝ち
>一向一揆は撤退をした、といわれています
これマジ?
0256人間七七四年
2012/11/04(日) 00:16:09.83ID:H6dQnCFz【疑問】スレ立てるまでもない質問10【戦国時代】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1347617351/
0257人間七七四年
2012/11/04(日) 05:42:58.19ID:e2+vd95b「毛利輝元は当初から自分に二心なく属してきてくれたので、ついに心安く全国を平定することができた。
そう考えると輝元の忠義は忘れがたい。
そこで、輝元の領国の中国を国替えして、もっと広い九州の九カ国を与えようかと思うのだが、どうだろうか?」と。
隆景は答える。
「仰せの通り、九州は輝元の現在の領分よりよほど広くはございますが、しかしながら、今の領国は
輝元の祖父元就が小身より一代で取り広めてきた国ですので、先祖の国を捨てて他所へ参ることは
何ほど領分が広くなりましょうとも、先祖の功労をむなしくするようにも思え、本意ではございません。
広い所へと国替えしていただこうという思し召しは誠にお恵み深いものと思いますが
どうか、そのままにしておいていただけますなら、ますます有難く存じます。
ことに、輝元は今の領地でさえ莫大でありますに、さらに領分広大となれますれば
殿下にも御後悔なさることがないともいないのが道理です。
どうか、お国替えはご遠慮したく思います。」
秀吉はその言葉に感じ入って言った。
「毛利をさらに大身にと思って国替えを考えてみたが、御辺の申すことは実にもっともなことである。
そのままにしておこう。
ことに、いよいよ大身となせば後悔もあるべきかと申すこと、実に率直な申され様、ひとしお感じ入った。」と。
『名将言行録』
0258人間七七四年
2012/11/04(日) 08:24:19.28ID:UOLerA8L0259人間七七四年
2012/11/04(日) 08:39:00.29ID:HTOordGe0260人間七七四年
2012/11/04(日) 10:08:24.53ID:mkRpOs590261人間七七四年
2012/11/04(日) 10:30:19.99ID:cgic6LnU大河『平清盛』で藤原基房役の細川茂樹が直政に扮し市中をパレードした。
そして悪い話の方では、前の佐和山城主だった石田三成が槍玉に晒されているようなので
井伊軍志にて紹介された、因縁めいた2人に纏わるちょっとだけいい話を。
七将による三成襲撃事件が起き三成が佐和山に退隠した後に、家康が向島より伏見に入城した。
徳川家重臣の直政は三成の伏見空き屋敷を宛てがわれそこに入った。
三成の伏見屋敷は玄関や広間はとても豪華なものだったが奥へ入ると雨漏りが酷く障子なども見苦しかった。
そんな惨状を見るにつけ直政の側近たちが嘲笑し厭味を言った。
「天下の治部少がよくもこんな邸に修繕もせずに居たものじゃ」
これを聞いた直政は側近たちを叱責した。
「治部少は常々表にあって奥に住む事無き故に屋敷の始末をかようにしておいたのじゃ。
さすがの男である。これを笑う者は彼に及ばぬこと千里の隔たりがある」
傍にいた岡本宣就が直接耳にし、後に知人に語った話である。
0262人間七七四年
2012/11/04(日) 10:40:27.66ID:C8Kf5hoS0263人間七七四年
2012/11/04(日) 10:41:44.22ID:icm06Elw豊前、筑前、筑後、肥後を与えて、輝元に九州取次を命じるプランだったけどね。(毛利家文書之三 955)
0264人間七七四年
2012/11/04(日) 10:43:07.53ID:7lWApD6b見えるところに金をかけるのは野暮、見えないところに金をかけるのが粋
という江戸っ子気質の由来である。
0265人間七七四年
2012/11/04(日) 10:54:36.75ID:NGamQBlm0266人間七七四年
2012/11/04(日) 11:04:47.83ID:cgic6LnU歪みのある地域だよなぁ
0267人間七七四年
2012/11/04(日) 11:11:06.21ID:HTOordGeひこにゃんの敵だから
0268人間七七四年
2012/11/04(日) 11:52:55.53ID:NGamQBlm0269人間七七四年
2012/11/04(日) 12:10:17.88ID:x9YkcM8m自分に厳しくて他人に甘い人だったら、もっと変わった結果になっただろうになー
0270人間七七四年
2012/11/04(日) 13:29:21.34ID:neduKvOu0271人間七七四年
2012/11/04(日) 14:45:39.01ID:tWppzQoQある時、御伽の者が豊臣秀吉に質問した。
「今の世に天下を取る器量の大名はいるのでしょうか」
「天下を取るには大気、勇気、智恵がなくてはならない。
この三つを兼ねた大名は一人もいないが、小者には二つ兼ねた者が三人おる。
一人は上杉の直江山城。これは大気と勇気があるが智恵が足りない。
二人目は毛利の小早川左衛門。これは大気と智恵があるが勇気が足りない。
そして三人目は龍造寺の鍋島飛騨守。これは勇気と智恵があるが大気がない。
大名にはこれほどの者もおらぬな」
――『名将言行録(葉隠)』
0273人間七七四年
2012/11/04(日) 15:13:41.06ID:cX669te+あれ、鍋島のほかには堀直政説があったのか
0274人間七七四年
2012/11/04(日) 15:25:09.70ID:JDuQXxSB小早川「この内じゃ一番軍功あると思うのに…」
鍋島「そうです、出世欲とかないです。
ましてや主家を乗っ取ろうなど思ってもいません。」
0275人間七七四年
2012/11/04(日) 15:35:43.39ID:ltxk5kGI0276人間七七四年
2012/11/04(日) 15:38:33.77ID:NGamQBlm0277人間七七四年
2012/11/04(日) 16:35:51.61ID:Hv3r7jEj0279人間七七四年
2012/11/04(日) 18:56:56.93ID:jeBPKPCb0280人間七七四年
2012/11/04(日) 19:02:08.22ID:jWniimTR源頼朝 知恵と大気はあるが勇気が足りない
北条義時 知恵はあるが勇気と大気が足りない
北条時宗 勇気と大気はあるが知恵が足りない
足利尊氏 大気はあるが知恵と勇気が足りない
0281人間七七四年
2012/11/04(日) 19:03:10.59ID:icRhLJ2S・・・クロカンの抑えってTERU殴る人だけだっけ?
0282人間七七四年
2012/11/04(日) 19:07:44.39ID:Hv3r7jEj「オマエのことライバルだと思ってるから!」
なんて言ったら相手の闘志に火つけるようなものだな
テンキューさまの教えにもあっただろ?
ライバル宣言して結果お互い高め合うことになるなんてマンガにしかない
ブラック企業が自由な社風で、
年齢、勤続年数ではなく実力を評価する、
という聞き心地のいい会社方針なのに殺伐としてるのはこれが原因だと思う
社員同士でしのぎ削らせれば業績上がるし、
社員同士が敵対するから、下剋上に向かいにくくなる
0283人間七七四年
2012/11/04(日) 23:10:11.41ID:7lWApD6b0284人間七七四年
2012/11/05(月) 01:31:11.82ID:Gzm50zS/0285人間七七四年
2012/11/05(月) 03:16:36.45ID:dUAoEaQp藤堂高虎の殉死の諌めについては、既にこちらに詳しいがhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-651.html
埋もれるには惜しい話を若干付け加えたい。
藤堂高虎は自分亡き後の家臣の殉死をおおいに嫌い、
一計を講じて大御所家康から殉死の禁止令を出してもらうことに成功した。
にもかかわらず、一人の家臣が家康に願い出た。
右腕を負傷していた彼は、
「私はこのような負具者にて、もはや生きていても甲斐がありません。
主君亡き後、どうか殉死することをお許しください。」
と求めた。
家康はこれを聞いて言った。
「和泉は我が代々の先鋒である。
もし、殉死厳禁の令に背く者が一人でもおれば、この先鋒の任を解く。」と。
のち元和元年のある日のこと。
高虎は領国の地図を広げて、家康の前にいた。
高虎は言った。
「伊勢伊賀は大坂へ出る要所にて、わが愚息大学には治められるはずもなく、
つきましては我亡き後は、他に移封して頂きたい。」
家康は地図を一瞥するとそれを横に押しやり、
「そこは誠に天から与えられた地である。他人を封じるような国ではない。
簡単なことじゃ。
いつぞやの殉死を願い出た節度を守る侍、
あの者を大学の傍らに置き、守護させればよいではないか。」
と答えたという。
「武将感状記」
0286人間七七四年
2012/11/05(月) 03:17:00.56ID:AECE9NJg戦場は矢や鉄砲が雨のように飛び交い、皆竹で盾を作り、それを環に並べて垣を作っていた。
そのうち信玄は陣を二隊に分けたいと考え、別働隊の飯富、板垣両将へ伝令を送ることにした。
そこで伝令役に米田某、三井某という二人が選ばれた。
米田は「盾の外は危険だから、内側を通って行こう」と提案したが、
三井は「殿に選ばれておきながら、矢や鉄砲を恐れてどうする。俺は外から行くぞ」
と聞かず、一人盾の外へ飛び出していった。
すぐに弾丸が降りそそぎ、三井は何発かくらいながらも、命からがらたどり着いた。
だがすっかり顔面蒼白になり、口も震えてまともにしゃべることもできない。
そんな三井の横で堂々と二将に伝令を伝えた米田は、陣を出ると笑顔で言った。
「それじゃあ、盾の外を通って帰ろうか」
三井が驚いて
「俺は行きのことで後悔してるのに、何でまた外を通らなきゃならん」
と言うと、米田は
「さっきお前と一緒に外を通らなかったのは、主命を果たせなくなるのを恐れたからだ。
しかしもう命も果たせたことだし、今さら何を恐れることもないだろう」
それを聞いて三井も頷き、二人は盾の外に出て、砲弾をかいくぐって本陣へ帰った。
そして米田は全く顔色を変えず、意気従容として信玄に首尾を伝えた。
これを見た三井は己を大いに恥じたという。
『武将感状記』
0287人間七七四年
2012/11/05(月) 03:24:52.04ID:AECE9NJg投稿かぶったスマン
司馬さんのせいか年とった家康は狡猾な悪役のイメージ強いけど
江戸になってからも結構温情深い話多いんだよ
0288人間七七四年
2012/11/05(月) 03:25:42.58ID:AECE9NJgが抜けた
ごめんもう寝ます
0289人間七七四年
2012/11/05(月) 07:54:47.53ID:mek9p20d家康との関係性によって、どう扱われるかも違うだろうし
0290人間七七四年
2012/11/05(月) 08:00:08.86ID:nvhuFaMZ0291人間七七四年
2012/11/05(月) 09:10:26.53ID:dUAoEaQp元和元年といえば高虎は60歳、
死ぬまでに15年もあるのに行く末を案じていたんだな、と。
0292人間七七四年
2012/11/05(月) 10:57:29.30ID:TMLjoXGtまさしくいい話だな
>>286
戦が続いてるのに、伝令一回終えれば死んでもいいってことはないだろう。
だいたい首尾を伝えるまでが伝令の仕事なんじゃないのか? これは米田さんの勝手な論理って気がするな。
0293人間七七四年
2012/11/05(月) 16:08:19.63ID:I1AfV08sところでせんせー、焼き味噌はおやつにはいるんですかぁー?
0294人間七七四年
2012/11/05(月) 17:16:19.93ID:GdowkEZz0295人間七七四年
2012/11/05(月) 17:49:39.74ID:CRdp7WOK鈴木正三は三河の人で、若き日には徳川家康に従い関ヶ原や大坂陣に従軍した。
正三は若い頃より人生に死があるということについて常々疑問を抱いていた。
彼はあまねく臨済や曹洞の老大家に参じて教えを受けていた。
そして元和より徳川家の威風によって世も静謐になったという時に、
正三は俄かに思い立って自ら髪を削り、刀もささずに老中の邸宅を訪れて
「九太夫は乱心してこの姿となりました。正三をそのまま法名とし、今より世を
遁れます。この由を上聴に入れられよ」と言い残し、江戸を離れて何処ともなく
出ていった。そして諸国を遍参すること十余年にして三河、のち江戸に帰って来た。
正三は常に門人に曰く「洒落仏法、ぬけがら坐禅は何の役にも立たないぞ。
眼を据えて歯を噛み締め、果眼(果たし合いの眼)になって群がる敵の中に躍りこみ、
敵の槍先に突き立つ覚悟で修行しろ」と教えた。
また正三は豪放な性格で小事に拘らなかった。病気の時には肉を食ってその身を養い、
少しも憚ることはなかったという。
――『近古禅林叢談』
0296人間七七四年
2012/11/05(月) 18:44:04.16ID:/CwFW1/+0298人間七七四年
2012/11/05(月) 18:58:12.21ID:iL59pcZo0299人間七七四年
2012/11/05(月) 18:59:23.52ID:QSo1zp0c農民は畑を南無阿弥陀仏と鍬で打ての人だからな
三河仏法
0300人間七七四年
2012/11/05(月) 19:08:10.12ID:zRJNpXrp隻腕の武士の刃は腹を切ることが出来るのか?
出来ぬ 出来ぬのだ
…いい意味で(´;ω;`)
>>286
面子があるとはいえ米田さんドSだなw
0301人間七七四年
2012/11/05(月) 19:42:45.86ID:iL59pcZo0302人間七七四年
2012/11/05(月) 20:40:25.33ID:PiXUy4480303人間七七四年
2012/11/05(月) 22:12:17.92ID:/CwFW1/+0304人間七七四年
2012/11/05(月) 22:24:23.23ID:Yl2SYoHDあと、中国の春秋戦国時代あたりで見物に集まったやつに攻撃しかけたら敵軍のほうに逃げていって、
敵軍が混乱して勝利した話があった気がする
0305人間七七四年
2012/11/05(月) 23:26:02.81ID:OUwdw2fR0306人間七七四年
2012/11/05(月) 23:59:30.04ID:TGZNGda+0307人間七七四年
2012/11/06(火) 02:10:52.46ID:NrhQ01hW修復してるうちに小田原が先に降伏しちゃった、てだけじゃおもしろくないか
0308人間七七四年
2012/11/06(火) 02:26:18.89ID:n3/tKjUe豊臣武断派が三成=戦下手のカスって認識するようになった
歴史を変える大事件に発展
0309人間七七四年
2012/11/06(火) 05:46:39.79ID:VmFqHNiw氏長の妻(三楽の娘)の指示で
攻め手が大砲をドカドカ撃ち込んだんだっけ?
0311人間七七四年
2012/11/06(火) 09:11:26.15ID:Azyn9z1G神社の前に子供たちが集まって遊んでいた。
一人の子が「ひとつ、ふたつ…」と数字を数えていたのだが、ふと
「なんで『ひとつ』から『ここのつ』まではみんな語尾に『つ』がつくのに、『とお』には『つ』がつかないのかな」
と呟いた。
子供たちは静まり返りってしまったが、その中の9歳の少年が答えて言った。
「そりゃそうさ。5の時に『いつつ』と『つ』を二つ使ったから、10の分が足りなくなっちゃったんだよ」
このやりとりを聞いていた重宗は少年に興味を持ち、翌日さっそく彼を招待し、
上下に二つ重なった餅を食べさせて、尋ねた。
「今食った餅、上と下、どっちの方がうまかった?」
少年はしばらく考え込んでいたが、突然両手をポンと打って
「今鳴ったのは、左手?右手?」
と問い返した。
重宗はいよいよ感心し、取り立てて自分の側においた。
成長した少年は重宗の一の側近になったという。
「明良洪範続」
0312人間七七四年
2012/11/06(火) 10:16:27.34ID:NbK2TydX0313人間七七四年
2012/11/06(火) 11:02:33.96ID:ebE36DLt>>309
軍記物の「堤が決壊して大被害」とか実際あったんかな?
そんな被害出れば「やっぱ水攻め無理」って
方針変更を請う口実になるしそういうやり取りでもしそうだが。
成田記や関八州古戦録の通説には疑問が残る。
0315人間七七四年
2012/11/06(火) 11:54:11.20ID:2g0szYjX0316人間七七四年
2012/11/06(火) 11:59:45.26ID:JBlHchof0317人間七七四年
2012/11/06(火) 12:13:23.15ID:NrhQ01hWしかし板倉重宗から後世の政談ものっていろいろパクってるんだな
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