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戦国ちょっといい話35

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0001人間七七四年2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0172人間七七四年2012/10/31(水) 22:11:22.22ID:K68WsBuF
島津義弘と膝跪栗毛


元亀3年(1572年)、薩摩の島津と日向の伊東が戦った『木崎原(きさきばる)の戦い』でのこと。

この合戦の前、島津勢の指揮官、島津義弘はある夢を見た。自分の乗っていた馬が
足を折ってしまうという夢だった。
夢の内容を菊一という盲目の僧に占わせると、それは次の合戦に島津が勝つという
お告げであるという。

馬が足を折ったなら当然馬から降りなければならない。

馬を降りるということは歩くことになる。

歩くこと、すなわち「徒歩(かち)」なので「勝ち」

なのだと。

(続く)
0173人間七七四年2012/10/31(水) 22:11:55.45ID:K68WsBuF
そして木崎原の戦い本番。ダジャレ、もといお告げが当たったのか、戦いは島津の勝利となった。
義弘が戦場を馬で回っていると、敗走する伊東勢の中で殿軍をつとめる騎馬武者が
目にとまった。

「我は島津兵庫頭なり! いざ勝負せよ!」

と大音声で呼ばわれば騎馬武者も名乗り返し、

「総大将御自らとは光栄! 柚木崎丹後守、参る!」

馬を駆って向かってきた。柚木崎(ゆきさき)丹後守正家は日向柚木崎城の城主で、
伊東勢の大将のひとりである。

義弘と丹後守は二度三度と槍を合わせるも、丹後守が馬から落ちて地面に転がる。
こうした場合、本人が馬から下りて討つか、徒歩で付き従う家臣郎党が討つのだが、
このとき主人の意を真っ先に察したのは義弘の乗馬だった。
この馬が前足の膝を折り曲げて地面につけたのである。義弘は槍を下に向けて突き、
みごと丹後守を討ち取った。

義弘は夢のお告げを正夢にしたこの馬を「膝衝栗毛(ひざつきくりげ)」と命名し、
非常に大切にした。
『名将言行録』によれば、義弘は生涯52回の戦いのうち20回余りをこの膝衝栗毛に跨って
臨んだという。
膝衝栗毛は馬としては非常に長命の86歳まで生き、鹿児島県姶良市の亀泉院跡に墓が残されている。

加藤清正の帝釈栗毛、鬼武蔵の百段にも劣らぬ、島津義弘の愛馬のお話。
0174人間七七四年2012/10/31(水) 23:02:51.53ID:j2nN844m
小牧長久手の戦い時、井伊直政は高木清秀に取り縋って泣いた。
「今日の合戦は多分私は功名を立てられないでしょう」
清秀はそんな直政を慰めた。
「いやそのような事はない。やがて手にあいなさる」

開戦前には家康が直政の陣へ行き直政の手を取り別れを告げた。
「これにてさらばだ」
「そのようになりましょう」と直政が応えた。

これを聞いた直政の家来で老功の者が直政を諌めた。
「あのように弱き御挨拶をお返しなさるとはどういうおつもりか」
直政は応えた。
「左様にても殿があのように仰せられたのだ」

(『武功雑記』巻十三、巻四)

そして開戦後の直政
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-571.html

戦後、上方の武将たちから「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになる。
0175人間七七四年2012/10/31(水) 23:12:18.05ID:kN4VqeVH
>>173
馬だったら、超長命でも40歳くらい?実は象だったんじゃ?w
0176人間七七四年2012/11/01(木) 00:04:53.06ID:g5WrITFm
実はその馬お兄ちゃんが中に入ってたんじゃね?
0177人間七七四年2012/11/01(木) 00:26:10.06ID:HK1rZBM2
>>171
鮭延ならぬ鮭述べ状態だな
0178人間七七四年2012/11/01(木) 01:00:19.97ID:+VLFSbrt
>>175
かの三冠馬シンザンが日本の軽種馬の最高齢記録を保持していたけど、
それでも満35歳。40歳なんてまずありえんと言い切っていいレベル。
ましてや80歳以上だなんて…
0179人間七七四年2012/11/01(木) 01:39:47.49ID:504Z1GA8
この手の図抜けた長命の動物の話って、単なるホラ話というよりは、
事情を知らない一般人が二代目や三代目の死亡年から逆算した勘違いでは。
そんなに縁起のいい馬なら、繁殖させたりもするだろうし、
二代目三代目が居ても不思議じゃない気がするけどね。
0180人間七七四年2012/11/01(木) 02:02:03.47ID:c293RWN0
あるいは暦で示されててちょうど60年分勘違いしてるかもな
26歳なら普通すぎるかw
0181人間七七四年2012/11/01(木) 02:42:28.49ID:YrMp6V1+
なんかの脱字か何かじゃないかな?
0182人間七七四年2012/11/01(木) 03:45:36.73ID:aDa6Tlf6
>>175
鬼武蔵さんの愛馬も相当長生きだったよね
0183人間七七四年2012/11/01(木) 04:29:58.01ID:eL3tFQLr
膝衝栗毛ハ十六歳マデ生キマシタ。
0184人間七七四年2012/11/01(木) 05:02:34.41ID:tLEBvDln
>>174
鍋島直茂曰く桜よりも美しいのが井伊直政と加藤嘉明の侍ぶり
0185人間七七四年2012/11/01(木) 07:14:48.49ID:yw6I4FDg
権現様やパパにゃんの相当な覚悟が覗える会話だな
それにしても高木のオヤジに取りすがって涙する万千代が愛くるしいw
結果、アレなのが見事なコントラストになってるわ
0186172-1732012/11/01(木) 08:26:31.27ID:DKgNWerh
ひとつ書き忘れ。

記録によると膝衝栗毛は牝馬(メス)だったようで。
戦のたびに駆り出されてると、繁殖はできなかったんじゃないかなあ。

義弘お兄ちゃん動物にもモテモテというお話。
0187人間七七四年2012/11/01(木) 14:31:09.77ID:gJQfI2k2
>義弘は生涯52回の戦いのうち20回余りをこの膝衝栗毛に跨って

乗ってない時は馬が産休入ってたからかもよw
0188人間七七四年2012/11/01(木) 15:16:34.08ID:504Z1GA8
そうだな
「出産前後くらいは日頃の感謝をこめて・・・サンキュー」とか言ってたかもな
0189人間七七四年2012/11/01(木) 15:30:00.19ID:V46KQ4t9
>>188
発音的にはテンキューではないかと武田左馬助様が申しております
0190人間七七四年2012/11/01(木) 18:04:05.68ID:6oT7Wwu3

今川氏真は武田信玄に国を奪われ、掛川城に逃げ込んだが、徳川軍の威によって
城を開けて小田原へ退去した。この時、徳川家は松平家忠に海路を護送させたので
今川の士はもちろん北条の者もまた「徳川殿は情ある大将だ」と感銘を受けた。

その後、氏真は小田原を離れて京摂を徘徊し、後に徳川家を頼り寄食する。
この話を聞いた者たちは「氏真は義も恥も知らぬ鉄面皮だ」と爪弾きにして笑ったが、
家康は義元の旧好を思って氏真の不幸を哀れに感じ、始終扶助して後には五百石を
与えて老を養い、その孫・直房、二男・高久を家臣とした。高家に今川、品川というのは
この末裔である。

家康はいつも上洛のために桶狭間を過ぎるたび、義元の墳墓の前では輿を下りた。
御供の輩はいずれもその厚義を感じて落涙した。

また氏真が客寓していた頃、いつも家康の御座近くに参る時にも、
昔を忘れずに氏真を厚く礼遇したことは見る者を感じさせた。

――『徳川実紀(三河記、古老物語、前橋聞書)』
0191人間七七四年2012/11/01(木) 18:17:51.99ID:c293RWN0
人質とはいえ大切にはされたから恩義感じてたのか
0192人間七七四年2012/11/01(木) 18:49:08.24ID:VoYP7FWq
孕石と氏真、どこで差が(ry
氏真は奥さんといい、周りの人に恵まれてる気がする
人を惹きつけるような人柄だったんだろうか
0193人間七七四年2012/11/01(木) 19:41:41.50ID:jLOHci8a
人は嫌な思い出があった場所には近寄りたがらず、
いい思い出があった場所に戻って行きたがるらしい

家康にとってもちろん苦労はあっただろうけど、良い日々だったんだろうな
01941/22012/11/01(木) 19:55:23.63ID:wa9MXoK4
徳川家康の新参の家臣に神谷与七郎と言う者がいた。
ある時この神谷が城中で、当時徳川秀忠の老中であった酒井雅楽頭忠世と行きあった。
神谷はすぐに脇によって「キリッ」と礼をしたのだが、その時酒井忠世は考え事をしていたのか、
神谷に全く気が付かず通りすぎてしまった。

スルーされた神谷の心に、暗い焔が灯った

それからというものの、神谷は酒井忠世に出会うたびに無礼慮外を度々繰り返した。小学生かお前は。
ともかくこの神谷の忠世に対する人もなげな振る舞いはよほど話題になったらしく、ついに
家康の耳にまで達した。

「秀忠の重臣に対してなんという振る舞いだ!神谷には暇を出そう!」

そう言ったが、内々に神谷の行状を聞いてみると、彼は人品能く、殊更に奉公を第一に勤めている、
忠世の件がなければ武士の鏡のような男であった。

「ああいった者こそ才能を確かめつつ能く召し使われるべきなのに、ゆえなくお暇を賜るような
事をすれば、御家の諸奉公人たちはどう思うでしょう?我が身を省みて、御家に対し疑いを抱くのでは
ありませんか?
それに雅楽頭(忠世)のせいで神谷があの様なことになった、などと言われては、あの正直至極な
雅楽頭に悪名を付けてしまいます!

しかし、だからといってこのまま放置しおいては御家老の威厳が薄くなり、御家風も軽くなってしまいます。
さて、どうしましょう?」

近臣の者達、結局家康に丸投げする。『相変わらずウチの家中はめんどくさいなあ』と家康は思ったかどうか。
しかしこういう面倒くさい人間を扱わせることに関しては家康はベテランである。
ナイスアイデアを思いついた

「そうだ!今度神谷に知行の折紙(認定証)を与える時、かねてからの約束よりも少し少なめにして
渡そう。神谷はこれまでの情報を総合すると堪え性のない人間だ。ならばその様な目に合えば
きっと自分から暇を願い出るだろう。その場合他の奉公人へも影響を与えなくてすむ。
それにこれで雅楽頭が不評を被る事も無いだろう。よし、これだ!」

そういって家康は、かねての約束が千石の所を、八百石の折紙を用意し一両日中に
神谷に渡す準備を整えた。

と、これを聞きつけやってきたのが酒井忠世である。彼は家康の御前に出ると

「神谷に知行の折紙を下されるという話を聞きました。あの者は殊の外良き奉公人です。
一廉御用にも立つ者でありますから、たしかあの者への知行のお約束は千石でしたが、それよりも
多く与える事こそ然るべきと考えます!」

『またややこしい事に…』家康はきっとそう思っただろう
01952/22012/11/01(木) 19:56:18.18ID:wa9MXoK4
「いやまて、あの者は殊の外な慮外者であると聞いておる。だから八百石の折紙を既に用意したのだ。」

忠世、これを聞いて怒った
「それは以ての外のお考えです!!
あの者にそんな事をしたら、今後良き奉公人が、どうして御家に仕えることを望むでしょうか!?
ああ言う者をいかにも厚遇してこそ、勇士・能者も集まるというものです。
大御所様!ああもう、散々のご思案ですぞ!!」

家康公ボロクソである。しかし家康
「お前が言うことを一々判断する必要はない。何故かといえば、我が家において、重臣である
お主に慮外するような者はあってはならぬのだ。であるのにあの者は度々に渡りお主に慮外をいたしたと
聞き及んでおる。だからこそ、約束よりも少ない知行の折紙を与えたならばきっと暇を乞うてくるだろう、
その時暇を出してやろうと考えたのだ。そうであるので、知行増など思いもよらぬ!」

家康は個人のことを言っているのではなく、組織の統帥を考えて言っているのである。
これに忠世

「…私は御存知の通り、御家の御厚恩を以って代々召し使われている者ですが、そんな譜代の私に
新参の者が豪胆にも無礼をしてくることに、却ってその器量の深さを感じ、彼を、一廉御用の役に立つ者だと
見立てました。そして内々に調べてみても、人柄・心持ちの揃った人物でありました。
であるからこそ、この様に申し上げているのです!」

家康ももうグッタリしつつ
「…ではお前は、神谷に知行をどれほど与えようというのか?」

「二千石遣わされて然るべき!!」

「!!!???」

倍である。ついでに言えば実際に与えるのは家康である
「た、忠世くん?それなら最初の約束通り千石渡せばいいんじゃ…ないかな〜?」
「二千石然るべき!!」
「えーっと、いきなり倍は与え過ぎのような…」
「二千石!」
「…」

家康がどんど追い込まれていくのを他の老中たちがいたたまれなくなったのか、話に割って入り
「じゃ、じゃあ真ん中取って1500石でいかがでしょうか!?そうしましょう!」
と、一同申し上げたことにより、家康も遂に観念し1500石の折紙をつくり、神谷を呼び出し
これを与えた。この時、家康という人の面白いところは、酒井忠世との論争を、残らずありのまま
神谷に伝えた所である。

神谷は感涙を流してこの折紙を頂戴し、城より退出するとその足で酒井忠世の邸宅を訪ね対面し、

「それがし愚かにして人を知らず、憤りを顕したこと、誠に面目のないことでした。」

そう忠世に謝罪したという。
その後神谷与七郎は働きも能く、人品も忠世が見立てた通り、実直に勤め、その後足軽を付けられる程に
出世したそうである。
(武野燭談)
0196人間七七四年2012/11/01(木) 19:57:38.89ID:aYuzkYLw
そりゃ、隠居場にするぐらいだし
0197人間七七四年2012/11/01(木) 20:00:49.01ID:aYuzkYLw
>>195
国替え後でもめんどくさい三河侍…
0198人間七七四年2012/11/01(木) 20:39:37.71ID:jLOHci8a
やっぱり三河武士はめんどくさい

でもそこがいい
0199人間七七四年2012/11/01(木) 20:44:59.37ID:c293RWN0
忠世がひたすらかっこいい話w
0200人間七七四年2012/11/01(木) 22:03:40.61ID:gJQfI2k2
千石を八百石に、のところでつい反射的に
「まさかケチりたいだけじゃ…」と疑ってしまった自分がいる・・・。
0201人間七七四年2012/11/02(金) 00:54:15.29ID:FUjAttnp
徳川名物三河者コントは実に下らん
0202人間七七四年2012/11/02(金) 09:20:02.83ID:UCB2mwtq
家康と忠世による脚本かもな
わざわざ経緯を公にして予定より多く知行することを周囲に納得させ
当人の行為を改めさせるばかりか更なる忠誠をも引き出した
上手く解決したもんだなと感心する
0203人間七七四年2012/11/02(金) 14:18:47.86ID:VDRVKLg7
職も金も学もないのに知識だけはあるお前らに質問です
日本では皇室を初めとして近親婚が行われてきました
戦国期の大名家でも近親婚は見られるわけですが
近親婚が禁忌とされるようになったのはいつ頃からでしょうか
0204人間七七四年2012/11/02(金) 14:46:46.96ID:z89Ct905
日本史板でどうぞ
と言ってもどうせ「答えたがり」が構うんだろうけど
0205人間七七四年2012/11/02(金) 14:58:16.72ID:mWi8bO9K
>>194
昔この話どこかで聞いたときは子どもっぽいなあとしか思わなかったけど
今だとこういう無礼を働くのさえ命がけだったんだろうなと思ってしまうw
0206人間七七四年2012/11/02(金) 15:02:02.69ID:GJGzi9XX
>>203-204
喧嘩両成敗じゃ
二人は今日一日戦国時代板書き込み禁止の刑に処す

これにて一件落着〜
0207人間七七四年2012/11/02(金) 15:07:42.63ID:dal1gn59
>>203
お前、たぶん包茎
0208人間七七四年2012/11/02(金) 15:08:11.41ID:z89Ct905
>>206
お前こそ喧嘩売ってるのか?
0209人間七七四年2012/11/02(金) 15:34:46.23ID:rbbH17K0
国津罪とか衣通姫と軽皇子でググれ
0210人間七七四年2012/11/02(金) 16:19:38.64ID:VytElzqs
>>208
油売ってます
0211人間七七四年2012/11/02(金) 16:32:29.73ID:i6l8AVy4
道三キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
0212人間七七四年2012/11/02(金) 16:36:00.04ID:aDc7Uy1c
道三油売り説は既に否定されてるだろっw
0213人間七七四年2012/11/02(金) 16:49:41.93ID:NNgd5DJ2
逸話スレで無粋なのね
0214人間七七四年2012/11/02(金) 17:28:11.90ID:Nbg/F9/H

関白秀次は罪を蒙り、伏見の邸宅は前田利家に賜れた。
利家はその美麗な様を見て曰く、

「関白は大望のある人ではない。謀反は必ず偽りであろう。
私は子孫まで望みがあるから、このように美麗ではならない」

と言って、不要な所は取り払った。

――『名将言行録』
0215人間七七四年2012/11/02(金) 17:54:07.01ID:RfYzohGp
これって下手したら、
今は金を貯めておいて、豊臣の天下が危うくなったら
その金で戦力集めて謀叛する気だ、ととられないか?
0216人間七七四年2012/11/02(金) 17:57:34.12ID:+ZFv7sUZ
>>215
いやコレははっきりと、俺は天下に野心があるって言ってるわけで
0217人間七七四年2012/11/02(金) 18:22:03.79ID:KAsmxqon
伊達みたいに天下を望む野望が知れ渡ってるというのは
ある意味稚拙なんだろうなぁ
0218人間七七四年2012/11/02(金) 18:33:09.77ID:sIApixx3
>>217
知れ渡ってると逆に隠さないといけなくなるよね
0219人間七七四年2012/11/02(金) 18:33:46.18ID:jpUA5NAZ
政宗(本人希望により呼び捨て)の見せる野心はハッタリでもあり戦国大名の生き残りとしての
精一杯の意地でもある
それは家光公とかも憧れる浪漫っぽいもの
0220人間七七四年2012/11/02(金) 19:05:31.57ID:Gr3+0d0y
逆に堂々と公言してるほうが偏に疑われなくてすむしな
0221人間七七四年2012/11/02(金) 19:49:32.15ID:KAsmxqon
マキャベリストを自称する人間はマキャベリストではないという格言があって
マキャベリストなら自分がいかにも純朴で誠実な人間と偽るんだよなぁ
0222人間七七四年2012/11/02(金) 19:57:07.95ID:RfYzohGp
そのころには異世界人もいそう
0223人間七七四年2012/11/02(金) 20:00:55.91ID:RfYzohGp
間違った
マキャベリがでてきたから戦国スレとは思わなかった
0224人間七七四年2012/11/02(金) 20:06:39.44ID:WYMSS6al
クロカン「わたしは小寺にも太閤様にも誠実に仕えていたぞ」
0225人間七七四年2012/11/02(金) 20:09:39.77ID:ZSlyWsU9
徳川家康の家臣、酒井備後守忠利といえば、大変に温和な人であった。

彼は家康の関東移封後、武州川越三千石を与えられたのだが、ここに備後村という郷村があり、
その庄官は備後を名乗っていた。

これを知った忠利の家臣たちはこの備後に
「備後とはこの地の領主である殿の官名である。よってその名を改めよ。」

と伝えた。この時代、領民や家臣が主君と名乗りがかぶるのは不敬であり、この要請は常識的なことであった。
が、この備後は解明の要請を全く受け付けず、そのままの名乗りを押し通した。

そのうちに酒井忠利が領内を巡回した時、この庄官を呼び出し直接に言った

「お前の名はこの地の領主の名乗りと同じなのだ。よって改めよ。」

庄官は猛然と答えた
「これは近頃迷惑なことを承るものかな!私は人に勝って年貢を一番に納めています!
勿論公役に関しても他人よりも第一に勤めておりますれば、領主様からの掟に少しも背いて
おりません。それなのに、どんな過怠があって名を改めよと仰るのか!?
その上私の家は代々備後を名乗っておりますれば、改めること罷り成りません!
同じ名で都合がわるいというのなら、殿が名を改められよ!!」

領主に対して思い切ったことを言ったものである。ほとんど暴言であり、これで殺されても
全くおかしくはない。

が、酒井忠利は笑い出した

「ははは、そうか。年貢・公役を人より先に勤めるというのは一段と良いことである。
しからば己はここの備後よ。私は酒井備後守である!苦しからず、そのままにて居よ。」
そう、申し付けたそうである。
(武野燭談)

酒井忠利の温和、というお話。というかこの庄官ちょっと常識はずれに凄いw
0226人間七七四年2012/11/02(金) 20:29:52.85ID:KAsmxqon
武蔵の国でその村の名前は備後と名乗ってた武士が領主だったからその村の名前で
村役人はその末裔という可能性あるな
なら改名はしにくそうだ
0227人間七七四年2012/11/02(金) 22:06:39.59ID:sI1PbU8g
いい殿様だな
0228人間七七四年2012/11/02(金) 22:25:11.94ID:CqDydaVI
温和な人って他に誰がいる?

今思いついたのは維新様だけど
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2900.html
0229人間七七四年2012/11/02(金) 22:37:14.99ID:sPEjkkGK
作左を始めとする家臣に好き放題やられる家康あたりは温和の部類に入る・・・のか?
0230人間七七四年2012/11/02(金) 22:40:50.89ID:WQI/aA30
温厚な人なら中国では司馬光や呂布か
0231人間七七四年2012/11/02(金) 23:00:53.74ID:CqDydaVI
>>230
そりゃ温侯やがな
0232人間七七四年2012/11/02(金) 23:32:10.99ID:QTQCXNWi
濃い部下ばっかりのところとか・・・真田のおにーちゃんはどうだろ?
0233人間七七四年2012/11/02(金) 23:35:03.21ID:rbbH17K0
そのお兄ちゃんに、柔和で怒ることが決してない、と言わせた信繁は
0234人間七七四年2012/11/03(土) 02:24:18.40ID:fReihmWi
お兄ちゃん、お金ちょうだい(ニッコリ
0235人間七七四年2012/11/03(土) 08:45:37.07ID:3/lmW+3v
温和なだけなら腐るほどいただろうけどそんな人柄で家臣をまとめきれた人はなかなかいなかっただろうな…
0236人間七七四年2012/11/03(土) 10:08:05.29ID:JUhweKVc
阿部忠秋とか優しすぎてほとんど仏だよな
0237人間七七四年2012/11/03(土) 10:23:49.41ID:MuaxDSke
誰かと同じでめんどくさいのに慣れているのでは?
0238人間七七四年2012/11/03(土) 11:22:26.38ID:HYSK0VSG
>>166
おまえが言うな、ボルジアの汚れた血め!
0239人間七七四年2012/11/03(土) 12:03:18.62ID:FEujK5a5
>>238
まぁまぁ、教皇猊下が茶を振る舞って下さるそうですよ
宇喜多なんとかいう人も同席するらしいですし
0240人間七七四年2012/11/03(土) 13:01:53.07ID:OVZAokdY
明石全登「それはなんとでも出席しなければなりませんな」
0241人間七七四年2012/11/03(土) 13:40:32.37ID:YRtqEtjs
石田が加藤光泰を殺したという伝承あるがあれもどうやら砒素
ボルジアのカンタレラも砒素っぽい

まさに砒素は愚者の毒とはいえ確実なんだろうな
0242人間七七四年2012/11/03(土) 13:45:30.13ID:2u3d0y0B
愚者の毒って言われたのは死体から検出可能となってからでは
そういう技術がない時代には使い勝手がよさそうだ
0243人間七七四年2012/11/03(土) 13:49:53.61ID:YRtqEtjs
一応銀で硫化砒素を検知する知恵は相当昔からある
0244人間七七四年2012/11/03(土) 13:54:18.33ID:wOSt/pQ5
砒素というか亜砒酸化合物やね。
まあ砂加藤さんは普通に病死だろうけど。
0245人間七七四年2012/11/03(土) 13:56:45.82ID:2u3d0y0B
なるほど
0246人間七七四年2012/11/03(土) 14:49:09.32ID:wOSt/pQ5
銀の箸使えば硫化銀の関係で箸が黒く変色するからね
0247人間七七四年2012/11/03(土) 15:08:52.27ID:rNEhluPK
>>239
松永のような茶の嗜みのある武将じゃないとダメだな
0248人間七七四年2012/11/03(土) 15:13:45.21ID:LfaaJuzV
砂加藤
石劣口藤

しれっと「劣」までいれちゃって
0249人間七七四年2012/11/03(土) 15:23:06.92ID:xJFxG5ar
砂加藤
石劣口藤
石劣萌泰
つまり、「石」田に「劣」ることで「萌」えをさそう光「泰」
というなぞかけ
0250人間七七四年2012/11/03(土) 16:24:57.52ID:317oAYR8

鍋島直茂が往来するごとに庶人らは皆出てきて拝伏していた。

ある日、直茂は近臣に向かい「衆人が拝しているのに黙しているのは
謙退の道ではない。だから駕籠から降りて答礼しようと思いはするのだが、
かえって下々も難儀ではないかと思い、いつも駕籠の中で目礼している」
と語った。

この話を聞いた庶民らは「尊い君でさえこのようなのだから我々も」と、
互いに謙退辞譲を守り、親睦を深めたのだとか。

――『名将言行録』
0251人間七七四年2012/11/03(土) 18:05:09.21ID:y+3vNVB1
当時の人も相手にどこまで礼儀正しくしていいのかは迷ってたのね
0252人間七七四年2012/11/03(土) 19:10:29.32ID:LkV1dfyq
(`・ω・´)「宇喜多殿に松永の茶か、聞いてるだけで病で伏せるたくなるな」
0253人間七七四年2012/11/03(土) 22:11:11.34ID:/Xo4EPr5
庶民はどこから聞いたんだ
0254人間七七四年2012/11/04(日) 00:04:44.04ID:Vm3OJ8oy
>>239
チェーザレ様も是非御同席を。
0255人間七七四年2012/11/04(日) 00:13:18.66ID:9WFrkSKl
職も金も学もないのに知識だけはあるお前らに質問です

>九頭竜川の戦いは、朝倉の軍勢、数千人が一向一揆の数万人の
>軍勢に勝利したといわれていますが
>これは両陣営、協議をして、合戦の決着を一騎打ちを何セットか
>やって(引き分けが無いように奇数のセット)
>勝った数が多いほうが合戦が勝利で、現場一帯を制圧でき
>負けた側は引き上げる、と決めて
>一騎打ちの団体戦をやって、朝倉側が大多数の一騎打ちに勝ち
>一向一揆は撤退をした、といわれています

これマジ?
0256人間七七四年2012/11/04(日) 00:16:09.83ID:H6dQnCFz
>>255
【疑問】スレ立てるまでもない質問10【戦国時代】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1347617351/
0257人間七七四年2012/11/04(日) 05:42:58.19ID:e2+vd95b
 秀吉は全国を統一した後、隆景に相談して次のように問いかけた。
 「毛利輝元は当初から自分に二心なく属してきてくれたので、ついに心安く全国を平定することができた。
そう考えると輝元の忠義は忘れがたい。
 そこで、輝元の領国の中国を国替えして、もっと広い九州の九カ国を与えようかと思うのだが、どうだろうか?」と。

 隆景は答える。
 「仰せの通り、九州は輝元の現在の領分よりよほど広くはございますが、しかしながら、今の領国は
輝元の祖父元就が小身より一代で取り広めてきた国ですので、先祖の国を捨てて他所へ参ることは
何ほど領分が広くなりましょうとも、先祖の功労をむなしくするようにも思え、本意ではございません。
広い所へと国替えしていただこうという思し召しは誠にお恵み深いものと思いますが
どうか、そのままにしておいていただけますなら、ますます有難く存じます。
 ことに、輝元は今の領地でさえ莫大でありますに、さらに領分広大となれますれば
殿下にも御後悔なさることがないともいないのが道理です。
 どうか、お国替えはご遠慮したく思います。」

 秀吉はその言葉に感じ入って言った。
 「毛利をさらに大身にと思って国替えを考えてみたが、御辺の申すことは実にもっともなことである。
そのままにしておこう。
 ことに、いよいよ大身となせば後悔もあるべきかと申すこと、実に率直な申され様、ひとしお感じ入った。」と。

『名将言行録』
0258人間七七四年2012/11/04(日) 08:24:19.28ID:UOLerA8L
輝元「ねぇ、それ悪い話だよね?ねぇ?」
0259人間七七四年2012/11/04(日) 08:39:00.29ID:HTOordGe
代わりに小早川が九州2国(筑前、筑後)を貰っちゃったというオチ?
0260人間七七四年2012/11/04(日) 10:08:24.53ID:mkRpOs59
肥後の一揆の影響あるし伊予の方が統治しやすそうだけどな
0261人間七七四年2012/11/04(日) 10:30:19.99ID:cgic6LnU
昨日は佐和山(彦根)藩初代藩主の井伊直政公顕彰式が彦根城まつりと共に催され
大河『平清盛』で藤原基房役の細川茂樹が直政に扮し市中をパレードした。
そして悪い話の方では、前の佐和山城主だった石田三成が槍玉に晒されているようなので
井伊軍志にて紹介された、因縁めいた2人に纏わるちょっとだけいい話を。


七将による三成襲撃事件が起き三成が佐和山に退隠した後に、家康が向島より伏見に入城した。
徳川家重臣の直政は三成の伏見空き屋敷を宛てがわれそこに入った。

三成の伏見屋敷は玄関や広間はとても豪華なものだったが奥へ入ると雨漏りが酷く障子なども見苦しかった。
そんな惨状を見るにつけ直政の側近たちが嘲笑し厭味を言った。

「天下の治部少がよくもこんな邸に修繕もせずに居たものじゃ」

これを聞いた直政は側近たちを叱責した。

「治部少は常々表にあって奥に住む事無き故に屋敷の始末をかようにしておいたのじゃ。
さすがの男である。これを笑う者は彼に及ばぬこと千里の隔たりがある」

傍にいた岡本宣就が直接耳にし、後に知人に語った話である。
0262人間七七四年2012/11/04(日) 10:40:27.66ID:C8Kf5hoS
九州9カ国って250万石くらいか?これだけあれば秀吉死後天下取り目指せたかもしれん
0263人間七七四年2012/11/04(日) 10:41:44.22ID:icm06Elw
実際に秀吉が打診したのは、毛利領国中の備中、伯耆、備後、伊予を取り上げて、
豊前、筑前、筑後、肥後を与えて、輝元に九州取次を命じるプランだったけどね。(毛利家文書之三 955)
0264人間七七四年2012/11/04(日) 10:43:07.53ID:7lWApD6b
「天下の治部少がよくもこんな邸に修繕もせずに居たものじゃ」

見えるところに金をかけるのは野暮、見えないところに金をかけるのが粋
という江戸っ子気質の由来である。
0265人間七七四年2012/11/04(日) 10:54:36.75ID:NGamQBlm
それはもともと倹約令の潜脱がもくてきやで
0266人間七七四年2012/11/04(日) 11:04:47.83ID:cgic6LnU
そういえば今日は長浜で、映画「のぼうの城」の宣伝も兼ねて上地雄輔を招いて三成の供養祭だとか
歪みのある地域だよなぁ
0267人間七七四年2012/11/04(日) 11:11:06.21ID:HTOordGe
>>266
ひこにゃんの敵だから
0268人間七七四年2012/11/04(日) 11:52:55.53ID:NGamQBlm
のぼうは甲斐姫無双しときゃいいのに
0269人間七七四年2012/11/04(日) 12:10:17.88ID:x9YkcM8m
三成は自分に厳しくて他人にも厳しいからなー、
自分に厳しくて他人に甘い人だったら、もっと変わった結果になっただろうになー
0270人間七七四年2012/11/04(日) 13:29:21.34ID:neduKvOu
鮭延さん、志村さん漫画初出演おめでとうございます
0271人間七七四年2012/11/04(日) 14:45:39.01ID:tWppzQoQ

ある時、御伽の者が豊臣秀吉に質問した。

「今の世に天下を取る器量の大名はいるのでしょうか」

「天下を取るには大気、勇気、智恵がなくてはならない。
この三つを兼ねた大名は一人もいないが、小者には二つ兼ねた者が三人おる。

一人は上杉の直江山城。これは大気と勇気があるが智恵が足りない。
二人目は毛利の小早川左衛門。これは大気と智恵があるが勇気が足りない。
そして三人目は龍造寺の鍋島飛騨守。これは勇気と智恵があるが大気がない。

大名にはこれほどの者もおらぬな」

――『名将言行録(葉隠)』
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