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戦国ちょっといい話35

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0001人間七七四年2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

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戦国ちょっといい話34
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年2012/10/18(木) 19:25:34.88ID:5BaWZdNd
新スレと>>1に八幡大菩薩のご加護がありますように
0003人間七七四年2012/10/18(木) 20:16:06.06ID:SgVQVLsq
一乙!!!!!!!!!!!
0004人間七七四年2012/10/20(土) 07:34:35.05ID:AGJlYvYm
>>1おつ!
セブンイレブンへ行って好きなおにぎりをわしに買ってきて良いぞ
0005人間七七四年2012/10/20(土) 12:44:03.97ID:LeYLfUYG

末森城の戦いの時、前田利家は素早く末森城を後援したために佐々成政は敗軍した。
この戦いで本多正重は武者修行をして利家の備えを借りていたが、利家が士卒を
制して隊列を固めているのを見ると、馬を乗り寄せて声高に、

「恐れながら勝ちに乗るとは今ですぞ! 敵は崩れて一足も返しません!
御下知あるべき所なり!」と言った。しかし、利家は「お前に何が分かる!」と
大いに罵って城に入り兵を収めた。佐々軍が引いて後、利家は子息利長に話すべき
ことがあると、同道して七尾に帰った。

「私が正重の諌めを用いなかったのは思慮があったからだ。およそ武者修行の者は
自分の功を立てるのを目的とし本当の忠がない。あれは自分の一言で敵を追わせて
利を得たのだと他家の誉れにしようとしたのだ。もし私が負けたとしても正重の負け
にはならないし、仮合の徒である正重にとって損にもならない。

その上、道の往来を考えた時に後援の兵が三千から四千程度だと分かるところを、
その推測ができなかったのは成政の失敗だった。一旦は不意にあって敗れ去るとしても、
成政の志なら後援の兵が少ないと知れば、私が追わなくても兵を返してきたことだろう。
ましてや急に追ったなら総返しにされた。そうなれば味方の負けは必定であろう。
だから追わなかったのだ」

――『名将言行録』
0006人間七七四年2012/10/20(土) 13:17:21.96ID:8exgBFE5
金銀をケチって兵力が足りていなかったというオチが無ければ名将なのに
0007人間七七四年2012/10/20(土) 13:20:21.23ID:g2VVUmd0
金銀をケチって譜代を増やしてなかったから
渡り奉公同然に主君を変えていく奴に
軍勢の一翼任せる羽目になってるんだろうな
0008人間七七四年2012/10/20(土) 13:40:39.84ID:yebQoZPm
こ、これは南蛮渡りの「あうとそーしんぐ」と言ぅてだな…
0009人間七七四年2012/10/20(土) 14:09:22.78ID:Nh5KBDq5
石田三成 小名浜に来たりて言う 『この浜、末は大繁盛の地とならん』と

宝暦六年(1756)に、岡小名村の日蓮宗安立寺住職日忍が記した「�集咄」(れんしゅうばなし)と題する、
怪談や昔ばなしを集めた本があった。日忍の自筆本は伝わらず、写本によってその内容を知るだけである。
その別名を岩城名所談ともいう。その中に、小名浜について記した次のような一節がある。

(文中略)古老の言ひ伝えに、天正年中、石田治部少輔此処に来たり、屋の上に登り上下を見渡し、
此浜末は大繁盛の地にならんと言いしとかや、不審なれ。(文中略) 

秋田藩家蔵文書にある天正十八年(1590)十月九日付の白土右馬助書状に「石田殿今日平へお着き」文書を
見いだしたことから、なるほど、これなら小名浜に来たとしても無理はないと考えた。さらに、「屋の上に登り」とある箇所は、
屋根に登るいうのは不自然であり、屋は崩し字では臺と紛らわしくなるので、「臺の上」であろうと推定した。(文中略)

小名浜の某寺の寺伝より引用しました。個人サイトなので詳しくは『小名浜 石田三成』で検索すれば出てきます。
公共サイトにもこの出来事について詳しい投稿記事があったので、こちらはリンクしておきます。

いわき地域情報総合サイト『いわきアイアイ』 ttp://www.i-iwaki.jp/modules/myalbum0/photo.php?lid=949

豊臣秀吉の奥州検地での出来事のようです。某寺院の開基は嘉吉3年(1443)、岩城下総守・岩城親隆とあり、
当時、小名浜は佐竹義重の三男である岩城貞隆の所領。岩城氏所有の館があったらしいとの記述も見えます。

後年、江戸時代に東回り航路が河村瑞賢により開発され、近隣の『平潟』『中の作』などが発展したそうですが、
近代になってからの小名浜港の発展と重要性は言うまでもありません。石田三成の『慧眼』の程が窺い知れます。

皆さんの地域の歴史や社寺の故事来歴を調べると、有名武将の『ちょっといい話』が埋もれているかも知れませんよ
0010人間七七四年2012/10/20(土) 16:57:10.55ID:76qgw/5G
ほう
興味深いな
たしかに郷土の寺の書や伝説はいろいろ掘ったら面白そうだ
でも小名浜自体はそんなに有名ではないとは思うがw

いわきのサイトおもしろいなwフラ丼食いたい
0011人間七七四年2012/10/20(土) 19:20:40.21ID:i8J/WV84
慶長5年(1600年)7月、家康を弾劾する『内府ちがいの条々』が
全国の大名諸侯にばら撒かれたときのこと。
弾劾文を受け取った大名のひとり蜂須賀家政は、
大坂の屋敷で考え事をしていた。


(続きます)
0012人間七七四年2012/10/20(土) 19:25:30.52ID:i8J/WV84
書き込み規制と忍法帳のおかげで細切れになってしなうなあ。


――嫡男の至鎮は内府の娘を娶ったし、今は内府について会津にいる。
蜂須賀家が内府に組みすると見られているのは間違いない。
――だが、藩主の自分と蜂須賀の兵がこっち(上方)にいるとなると、
いずれ大坂城(西軍)に取り込まれるのは避けられない。


(続きます)
0013人間七七四年2012/10/20(土) 19:28:39.34ID:i8J/WV84
――そうなったら、たとえその後の戦で内府が勝っても、蜂須賀家やばくね?
――よし、ならば……。

決意した家政は、ある行動に出る……それは別の機会に。


(続きます)
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