戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2012/10/18(木) 19:25:34.88ID:5BaWZdNd0003人間七七四年
2012/10/18(木) 20:16:06.06ID:SgVQVLsq0005人間七七四年
2012/10/20(土) 12:44:03.97ID:LeYLfUYG末森城の戦いの時、前田利家は素早く末森城を後援したために佐々成政は敗軍した。
この戦いで本多正重は武者修行をして利家の備えを借りていたが、利家が士卒を
制して隊列を固めているのを見ると、馬を乗り寄せて声高に、
「恐れながら勝ちに乗るとは今ですぞ! 敵は崩れて一足も返しません!
御下知あるべき所なり!」と言った。しかし、利家は「お前に何が分かる!」と
大いに罵って城に入り兵を収めた。佐々軍が引いて後、利家は子息利長に話すべき
ことがあると、同道して七尾に帰った。
「私が正重の諌めを用いなかったのは思慮があったからだ。およそ武者修行の者は
自分の功を立てるのを目的とし本当の忠がない。あれは自分の一言で敵を追わせて
利を得たのだと他家の誉れにしようとしたのだ。もし私が負けたとしても正重の負け
にはならないし、仮合の徒である正重にとって損にもならない。
その上、道の往来を考えた時に後援の兵が三千から四千程度だと分かるところを、
その推測ができなかったのは成政の失敗だった。一旦は不意にあって敗れ去るとしても、
成政の志なら後援の兵が少ないと知れば、私が追わなくても兵を返してきたことだろう。
ましてや急に追ったなら総返しにされた。そうなれば味方の負けは必定であろう。
だから追わなかったのだ」
――『名将言行録』
0006人間七七四年
2012/10/20(土) 13:17:21.96ID:8exgBFE50007人間七七四年
2012/10/20(土) 13:20:21.23ID:g2VVUmd0渡り奉公同然に主君を変えていく奴に
軍勢の一翼任せる羽目になってるんだろうな
0008人間七七四年
2012/10/20(土) 13:40:39.84ID:yebQoZPm0009人間七七四年
2012/10/20(土) 14:09:22.78ID:Nh5KBDq5宝暦六年(1756)に、岡小名村の日蓮宗安立寺住職日忍が記した「�集咄」(れんしゅうばなし)と題する、
怪談や昔ばなしを集めた本があった。日忍の自筆本は伝わらず、写本によってその内容を知るだけである。
その別名を岩城名所談ともいう。その中に、小名浜について記した次のような一節がある。
(文中略)古老の言ひ伝えに、天正年中、石田治部少輔此処に来たり、屋の上に登り上下を見渡し、
此浜末は大繁盛の地にならんと言いしとかや、不審なれ。(文中略)
秋田藩家蔵文書にある天正十八年(1590)十月九日付の白土右馬助書状に「石田殿今日平へお着き」文書を
見いだしたことから、なるほど、これなら小名浜に来たとしても無理はないと考えた。さらに、「屋の上に登り」とある箇所は、
屋根に登るいうのは不自然であり、屋は崩し字では臺と紛らわしくなるので、「臺の上」であろうと推定した。(文中略)
小名浜の某寺の寺伝より引用しました。個人サイトなので詳しくは『小名浜 石田三成』で検索すれば出てきます。
公共サイトにもこの出来事について詳しい投稿記事があったので、こちらはリンクしておきます。
いわき地域情報総合サイト『いわきアイアイ』 ttp://www.i-iwaki.jp/modules/myalbum0/photo.php?lid=949
豊臣秀吉の奥州検地での出来事のようです。某寺院の開基は嘉吉3年(1443)、岩城下総守・岩城親隆とあり、
当時、小名浜は佐竹義重の三男である岩城貞隆の所領。岩城氏所有の館があったらしいとの記述も見えます。
後年、江戸時代に東回り航路が河村瑞賢により開発され、近隣の『平潟』『中の作』などが発展したそうですが、
近代になってからの小名浜港の発展と重要性は言うまでもありません。石田三成の『慧眼』の程が窺い知れます。
皆さんの地域の歴史や社寺の故事来歴を調べると、有名武将の『ちょっといい話』が埋もれているかも知れませんよ
0010人間七七四年
2012/10/20(土) 16:57:10.55ID:76qgw/5G興味深いな
たしかに郷土の寺の書や伝説はいろいろ掘ったら面白そうだ
でも小名浜自体はそんなに有名ではないとは思うがw
いわきのサイトおもしろいなwフラ丼食いたい
0011人間七七四年
2012/10/20(土) 19:20:40.21ID:i8J/WV84全国の大名諸侯にばら撒かれたときのこと。
弾劾文を受け取った大名のひとり蜂須賀家政は、
大坂の屋敷で考え事をしていた。
(続きます)
0012人間七七四年
2012/10/20(土) 19:25:30.52ID:i8J/WV84――嫡男の至鎮は内府の娘を娶ったし、今は内府について会津にいる。
蜂須賀家が内府に組みすると見られているのは間違いない。
――だが、藩主の自分と蜂須賀の兵がこっち(上方)にいるとなると、
いずれ大坂城(西軍)に取り込まれるのは避けられない。
(続きます)
0013人間七七四年
2012/10/20(土) 19:28:39.34ID:i8J/WV84――よし、ならば……。
決意した家政は、ある行動に出る……それは別の機会に。
(続きます)
0014人間七七四年
2012/10/20(土) 20:02:26.50ID:AjYzTtHQ0015人間七七四年
2012/10/20(土) 20:06:50.18ID:76qgw/5G0016人間七七四年
2012/10/20(土) 20:16:19.91ID:OjTnBRaU★☆ 書き込めない人のレス代行します 90 ☆★
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1350652112/
シベリア郵便局・416通目【レス代行】
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/siberia/1350393984/
0017人間七七四年
2012/10/20(土) 20:58:31.98ID:BilyWsli本題はこちら。
上記は史実を元に家政視点で創作したものだが、第三者の視点では
家政の様子を次のように記している。
「殿は、湯漬をたてつづけに三杯おかわりした。
この大変な時にも食欲を失わないとは、なんと豪胆なことか」
どうやら家政さん、考え事は食事中にしていたようで。
これは創作ではなく、蜂須賀家の家譜に記録された本当の話。
竜頭蛇尾なネタで失礼しました。
0019人間七七四年
2012/10/20(土) 22:21:38.38ID:EFQoOfEl小牧・長久手終盤、天正十二年六月
桑名で伊勢戦線を督戦する織田信雄に急報がもたらされた
『蟹江城の前田長定、滝川一益によってご謀反』
清洲城のわずか三里南に存在する蟹江城を謀略により征圧したのは、滝川一益と九鬼嘉隆の水軍
桑名(信雄)と清洲(家康)の連携を遮断するのがその目的だった
「こうしてはおれん。叔父上(有楽)、船団に触れを!」
報に接した信雄は蟹江城と九鬼水軍の連携を遮断すべく奮戦
『大船ニノリカケ敵船ヲ取リ人数討捕候』
と陣頭指揮をとって大いに活躍し、嘉隆らを撃退
一益の蟹江城を孤立させて戦いの勝利に大きく貢献した
家忠日記より、信雄さんの珍しく良い話お話でした
0020人間七七四年
2012/10/21(日) 09:18:40.19ID:2lJiCCqK0021人間七七四年
2012/10/21(日) 09:37:44.12ID:k3bJAbMk外面は良かったみたいだから無能扱いはされてないが
0022人間七七四年
2012/10/21(日) 12:11:59.81ID:PO9V+c4Oポルトガルからやって来た宣教師ルイス・フロイスが信長さんに初めて会ったのは、
二条城を作っている工事現場の橋の上でした。
その時、信長さんはこの遠来の異人に
「年齢はいくつか、いつ日本に来たか?ポルトガルから日本までどのくらいの距離か?」
などの質問と共に
「お主の両親はポルトガルでお主に会いたいと思ってはいないのか?」
と聞いています。
つまり「両親は心配してないのか?」と聞いたわけです。
好奇心を満たす質問をする一方で、
相手の肉親を気遣う一面を持っていたのです。
――『マイナビニュース』
http://news.mynavi.jp/c_career/level1/yoko/2012/10/post_2399.html
0023人間七七四年
2012/10/21(日) 15:58:25.65ID:X44o1yK4彼はいつも親の名を汚すことのないようにと心がけ勇み立っていた。
綱茂公のお供として歩いていたときのことだが、
綱茂公が源左衛門をみて、
「源左衛門よ、その刀の差しかたはよくないぞ。
柳生流でも嫌っている差しかただ。
わたしの差しかたを見てみよ。
これこそが鍋島加賀守直能から伝授を受けた差しかたぞ。
そもそも落とし差しは抜きにく、えっ?」
そのお言葉が終わらないうちに、源左衛門は刀をさっと抜いてみせ、
「抜けますよ」
と言って鞘におさめた。
綱茂公は苦笑して、
「おまえは粗忽者だな(苦笑)」
と仰りなにごともなく済ませたとのことだ 【葉隠】
0024人間七七四年
2012/10/21(日) 16:13:14.42ID:HNFoQBNy0025人間七七四年
2012/10/21(日) 17:01:37.76ID:HbSG4Dh0あと周りの人間と鞘当しにくいし
0026人間七七四年
2012/10/21(日) 18:40:22.07ID:zJiiKrmEhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5276.html
0027人間七七四年
2012/10/21(日) 22:45:54.77ID:BrmEIYHGこの役で同じように先陣を望み許されなかった男がいた。松平忠利である。
松平忠利はかの「家忠日記」で有名な松平家忠の息子で深溝松平5代目当主である。
深溝松平家の当主は2代目好景、3代目伊忠と徳川の重要な合戦で当主が討ち死にして宗家に忠義を示してきた壮烈な家柄である。
忠利は天下分け目の合戦の際の伏見城の合戦で覚悟の討ち死にをした父・家忠の仇討ちを願うも結城秀康に従い、上杉の抑えとして関が原の戦勝を聞いた経緯もあり、大坂の陣では先陣を切望したのは当たり前の事だと思われる。
しかし、大坂の陣でも忠利は先陣を許されるどころか徳川頼宣の補佐を命じられ前線での槍働きを制限されたのである。
これに対し、忠利の実弟、松平忠一が兄の気持ちを代弁するかのように、深溝松平隊にこのように訓辞をした
「大坂方は必ずや打ち破られるであろう。そうすれば天下に戦はなくなる。今もし激を励まさないということであれば、何時することができるであろうか。
しかし、忠利は先鋒を望むもその命は下されない。しかし、自分、忠一は幸いに前線に属する事になった。必ずや先陣を切り、父祖に地下へと会いに行こうぞ。」と。
その言葉どおり忠一は大坂の陣の5月7日の激戦に最前線へ躍り出て、突撃を繰り返し、大坂方を押し返し、騎上にて「我、松平忠一である!」と高らかに名乗り上げ勇戦し、乱戦の中で己の命を散らしていったのである。
享年は26歳であったという。
ソースは深溝松平家菩提寺、本光寺の碑文です。
0028人間七七四年
2012/10/21(日) 23:02:51.09ID:IjcwR6BQ0029人間七七四年
2012/10/22(月) 00:35:48.42ID:uQjn0ZtCとか言っちゃうのがなんとも厨二というかボンボンとうか軽い気がする
0030人間七七四年
2012/10/22(月) 00:56:21.51ID:5y4FUJBo0031人間七七四年
2012/10/22(月) 04:50:19.76ID:ry7XifB+司令官の覚悟と父祖もそうだったと忠義の血を示してる
0032人間七七四年
2012/10/22(月) 07:33:02.40ID:tbKKK4Yyある戦いで織田信長の先手が敗北し、既に旗本まで危うくなってきた。
この時、信長が「尾藤甚左衛門はいないのか」と家臣に尋ねた。
「三の備えにおります」
「ならば苦しからず」
そう答えた信長は騒ぐ様子もなかった。案の定二の備えも破られたが、
三の備えが受け留めて突き返し、敵は敗れて引き退いた。
――『名将言行録』
甚左衛門って…甚右衛門知宣のこと?
0033人間七七四年
2012/10/22(月) 20:17:42.93ID:61gAGEIvかもしれないね
あの人も九州以後の印象が悪すぎてなぁ…
0034人間七七四年
2012/10/23(火) 02:44:08.26ID:+wLzavZW細川忠興が明智光秀の邸宅に来ていた時、一人の小姓が縁側を通る際に
目通りするわけでもないのに腰障子の外で手を突き、目通りするかのように
慇懃に拝伏して行った。
忠興が光秀に向かい「あなたの小姓どもは律義なのですね。
目通りもしない障子の外を通るのに、手を突いて拝伏しましたよ」と言うと、
光秀は「それは三宅弥平治(明智光春)でしょう。お呼びになってみなさい」
と言った。そこで例の小姓を呼び名前を尋ねると果たして弥平治だったので、
忠興は殊の外褒め称えた。
――『名将言行録』
0035人間七七四年
2012/10/23(火) 03:31:21.63ID:W0IVo/Fs0036人間七七四年
2012/10/23(火) 08:52:29.72ID:XaUH0aOr0037人間七七四年
2012/10/23(火) 10:09:56.92ID:B+L0gJ3G0038人間七七四年
2012/10/23(火) 20:34:42.53ID:Ve1gM0j00039人間七七四年
2012/10/23(火) 22:38:27.01ID:8Wvg11hp農民が真っ昼間からイビキをかいて寝ていた。
これはケシカランと共の者が農民を叩き起こそうとしたが
信長はそれを咎めて一言
「農民がこうやって寝ていられる世が俺の目指す治世だから」
おぼろげだけど戦国名将一日一言って本からの引用
0040人間七七四年
2012/10/23(火) 23:00:25.77ID:fYEmYUhA0041人間七七四年
2012/10/23(火) 23:38:41.93ID:8Wvg11hp自称弱者は遠慮なく処罰するんだろうけど
0042人間七七四年
2012/10/23(火) 23:55:54.47ID:8tq7n7ZW0043人間七七四年
2012/10/24(水) 00:13:14.03ID:Z9YXCAEE0044人間七七四年
2012/10/24(水) 00:18:58.30ID:YZ62xl3q0045人間七七四年
2012/10/24(水) 00:50:18.50ID:6LAD1Fms0046人間七七四年
2012/10/24(水) 01:05:22.33ID:Ei+gdC1V黒田忠之とその老臣・栗山利章の間に訴訟があった時、
栗山の言うことに理があるとして黒田家の取り潰しが決まった。
その時、徳川秀忠は「安藤帯刀を呼んで意見を聞け」と言ったので、
老中は帯刀を呼んで彼の考えを聞いてみた。
「理非によって裁決するというのは尋常な時の話です。
君臣父子の間について、どうして理非を論じるべきでしょうか。
栗山の処罰は免れない。
今回、家臣の申すことに理があるからとその君主を罰するのなら、
もしそれがしと紀伊殿の間に訴訟が起きた場合に、
それがしに理があったならば紀伊殿を処罰するのでしょうか」
この帯刀の意見を受けて、いかにもその通りだということで
栗山は処罰され、黒田家は取り潰しを免れた。
――『名将言行録』
0047人間七七四年
2012/10/24(水) 14:32:04.50ID:f+3YfCG70048人間七七四年
2012/10/24(水) 16:19:18.58ID:bCZlZRIR安藤帯刀の言う君臣の関係の前例なんて、どうとでも繕えるだろうに。
0049人間七七四年
2012/10/24(水) 20:10:57.23ID:6d47UOjt0050人間七七四年
2012/10/24(水) 20:45:34.54ID:e/aE5nvO夜遅く、最上側が追撃にあった際、さしてあった総大将義光の指物が抜けないのを鮭延秀綱が気づき回収しようとした。
しかしなかなか固く抜けずに困っていると、義光が女三という法師武者をよこし、回収せよと命令してくる。
秀綱は女三に「この小旗は任せろ。鉄砲の応援を50か100頼む。射撃の合間に引き抜こう」と伝えたが、
応援はまったく来そうになかった。すると今度は義光その人が単騎で駆けつけ、直に回収を指示してきた。
秀綱は「今女三にも申した通り、ともかく鉄砲30騎ばかりでも援軍をください」と返答。
義光が承知して帰るとやっと鉄砲30騎ほどが駆けつけた。
さらに政宗からの援軍らしき二騎が来たので救援を依頼したが、聞こえなかったのかスルー。
ここへ最上衆の安食七兵衛が駆けつけてきたので、両者被弾しつつも鉄砲を撃たせ、なんとか指物回収に成功したのであった。
七兵衛はのちに「長谷堂の手負いは典膳(秀綱のこと)に撃たれたようなものだ」と笑って秀綱に語っていたという。
指物ひとつに命をはる、戦国武士らしいお話。
0051人間七七四年
2012/10/24(水) 21:39:39.01ID:Q0oPhVM0西洋でもそう
0052人間七七四年
2012/10/24(水) 23:00:14.84ID:Y+DKVdgM多聞兵衛「この旗は昨日、貴殿からお預かりしたものであるが、紋が違うゆえ役に立ち申さぬ。
お返しするゆえ、城門まで引き取りに来てくださらぬか?」(城内爆笑)
みたいな事になりかねないしねえ。
0053人間七七四年
2012/10/24(水) 23:21:36.69ID:N595Hho+あれ、そういえば最上義光歴史観に直江方の旗が何故か有ったようなw
0054人間七七四年
2012/10/24(水) 23:26:38.98ID:DqXG8z9C0055人間七七四年
2012/10/24(水) 23:27:55.67ID:1tMo3jg4直江「伊達家の旗ならどっさりありますが」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3646.html
政宗「最上弱い、最上弱い」
関が原の三家はじゃんけんみたいだ
0056人間七七四年
2012/10/24(水) 23:33:31.44ID:AFUXoQ1B0057人間七七四年
2012/10/25(木) 00:23:10.99ID:PQEWfqae0058人間七七四年
2012/10/25(木) 00:26:01.46ID:mWi4GbJz彼は男ぶりいかめしく、勇力は人に優れ、度々軍功を顕したので、腰母衣随一の士に選ばれ、武威を異国にまで轟かせていた。
元亀2年、竹中半兵衛らとともに近江の横山砦の守備にあたっていた時、浅井勢が突如襲撃してきた。
敵は多勢であったため、守将たちは城内に敵を引き入れて守る策を採る。
しかしながら光泰は一人槍を取り、城外へと出撃したのだ。
この時、例によって不思議なことを言ったのかどうかまでは記されていないが、兎にも角にも光泰は敵中に突入し、力戦したのである。そして数十人の敵に囲まれ、左の膝口に深手を負う。
最早これまで・・・と思われた時、半兵衛が城門を開いて救援し、彼は九死に一生を得るのだが、歩行不自由となってしまった。
しかし、三木城の戦いの時には、「病人・手負いの者は今回の戦に従軍せず、郷里に留まって農業をし、年貢を納めよ」という秀吉に対し、
「歩行が叶わずとも、田里に残って匹夫とともに居ることなどできません」と言って参戦し、毛利による兵糧搬入を阻止。その後の戦いでも数々の戦功を立てたのである。
0059人間七七四年
2012/10/25(木) 00:27:51.38ID:mWi4GbJzその折、秀吉手ずから引き出物を下されるというので、彼は頂戴するために立ち上がったのだが、いかんせん左足が不自由であったため体勢を崩し、膳をひっくり返して、飯や羹を座上に散乱させてしまった。
秀吉の近臣たちは光泰の無様な様子を見て笑みを浮かべたのだが、秀吉は彼らを見るや怒りをあらわにし、
「光泰の足が不便であるのは、武門にとって崇敬すべきことである。にもかかわらず汝ら、愚かにも笑うとは何事か!」
と、近臣たちを大いに叱り付けたという。
(加藤光泰貞泰軍功記、曹渓院行状記)
0060人間七七四年
2012/10/25(木) 11:45:31.58ID:eA4Cdxs0信長はそういう人だ、という認識がないと創作だとして成立しないからねー
実際、障害者を保護した話とか信長には弱者保護のエピは複数ある
0061人間七七四年
2012/10/25(木) 12:41:34.88ID:jCf4mcU/関ヶ原の戦いの折、松平忠吉は手を負傷し、布で包んで襟にかけて
父の徳川家康の前に出てきた。その様子を見て家康が「下野は手に傷を負ったのか」
と言うと、忠吉は「たいした怪我ではありません」と答えながら座についた。
また井伊直政も鉄砲疵を蒙り、靱に手をかけながら忠吉に付き添って参上した。
直政は忠吉の勲功を報告して「逸物の鷹の子は皆逸物です」と誉め称え、
これに家康は「それは巧みな鷹匠が良い肉色当てをしたからだよ」と答えた。
続けて家康は「お前の傷はどんな具合だ」と言って懸硯から膏薬を取り出して
自ら直政の傷につけてやった。直政は畏まって「今日はそれがしの手より好んで
軍を始めたわけではありません。時分が良くなりましたので守殿と共に手始め
致しました」と言うので、家康はいたく賞美した。
――『徳川実紀』
息子の前でイチャイチャしやがって…
0062人間七七四年
2012/10/25(木) 12:51:55.10ID:jCf4mcU/すいません少し訂正します。
×布で包んで
○布で肘を包んで
×勲功を報告して
○勲功の様子を報告して
0064人間七七四年
2012/10/25(木) 17:56:14.00ID:BUZQaKpv蒲生氏郷にも似たような話があったな。
0065人間七七四年
2012/10/25(木) 19:15:41.16ID:v8fctGZt0066人間七七四年
2012/10/25(木) 20:00:45.82ID:h13LrtpK中川しようこ大喜びだなw
0067人間七七四年
2012/10/25(木) 20:23:13.50ID:HCSnjYVE0068人間七七四年
2012/10/25(木) 21:17:38.87ID:osVJJnaW息子の前でというより諸侯勢揃いの中でイチャイチャしてますから
家康が息子そっちのけで直政に薬を塗っている間
東軍の愉快な仲間達は立ちっ放しで待たされていたという話がどっかに有ったよな
0069人間七七四年
2012/10/25(木) 21:36:20.19ID:OQzYb+gsあと福島正則の家来バージョンもあった
なんかテンプレみたいなのがあるのかもしれないな
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-239.html
0070人間七七四年
2012/10/25(木) 21:53:07.07ID:7AH9iltL0071人間七七四年
2012/10/25(木) 22:57:41.28ID:NtEXG0w+横手まで進み小野寺義道の降伏交渉を行うことになった。
そのとき主君義光に手紙を送ったのだが、それに対する義光自筆の返事を彼ははっきりと覚えていた。
「おまえたちの活躍で多くの城を勝ち取ることができ、私は大変喜んでいる。
横手へ送る書状の文面案を志村、里見を呼びにも見せたが、皆は読めなかったぞ。
だが私は、水でも流すようにすらすら読めたのだ。
いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。直すところなんかまったくない。
秀綱こそ文武両道だと皆にも話しておいたからな。
これからもミスのないよう、しっかりやるんだぞ」
別にこんなものいちいち言わなくてもいいかもしれんけどと…前置きしつつ、
回想ではしっかり残す秀綱。義光に褒められたのがよほどうれしかったらしい。
ちなみに字が義光にしか読めない=達筆だね、ということらしい。
鮭延秀綱、主君に褒められたちょっといい話である。
(『鮭延越前守聞書』)
0072人間七七四年
2012/10/25(木) 23:01:01.52ID:h13LrtpK安心したw
0073人間七七四年
2012/10/25(木) 23:17:51.48ID:dpM0W+KM0074人間七七四年
2012/10/25(木) 23:28:19.15ID:PQEWfqae0075人間七七四年
2012/10/26(金) 07:11:39.31ID:jNLYG0qQ0076人間七七四年
2012/10/26(金) 08:17:38.74ID:wJxlblL8書状類も後世に写し間違いが多発してるし。
0077人間七七四年
2012/10/26(金) 10:41:53.61ID:a+9jzAvD0078人間七七四年
2012/10/26(金) 13:02:44.69ID:X/xvHu/a0079人間七七四年
2012/10/26(金) 18:15:40.74ID:LhmtQg1g関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いにおいて、
織田秀信の家臣・木造長正は奮戦して負傷し、岐阜近くの民家にいた。
福島正則はこれを聞いて使者を遣わし「今日の戦の怪我が気掛かりだ。
医者を申し付けたほうが良いのではないか」と、長正に伝えさせた。
これを聞いて長正は「厚いご好意は本当にありがたい。
軽傷ですから些かの御心遣いも無用です、とお伝え下さい」と言った。
その後、長正は前田利長に招かれたがこれには応じず、
正則の招きに応じて二万石を与えられた。
――『名将言行録』
0080人間七七四年
2012/10/26(金) 20:54:01.46ID:y2dtVPgs…酒さえ入らなければ本当に
0081人間七七四年
2012/10/26(金) 21:01:06.60ID:MCgYhkiGしかし最上って分限帳だと70万石越えてたのか
公式には57万石だっけ
ナニこれ?脱税?
0082人間七七四年
2012/10/26(金) 21:26:48.28ID:NaMLM/Cn・・・酒さえ入ってなければの話だが
0083人間七七四年
2012/10/26(金) 21:54:37.64ID:NlwOP3Ki0084人間七七四年
2012/10/26(金) 22:00:27.65ID:gS9QP7Ba0085人間七七四年
2012/10/26(金) 22:12:13.89ID:wJxlblL80086人間七七四年
2012/10/27(土) 01:26:59.76ID:kx+WAarq0087人間七七四年
2012/10/27(土) 02:43:48.08ID:mTSUofq/そしてその謝礼として銀千枚と青江の刀を忠興に贈り、それに因み『青江の茶入』と名付け深く愛用した。
忠興を強欲な人物と批判する声もあったのだが、
青江の茶入を譲られた人物はというと、むしろ安すぎると考えていた様で後日改めて銀千枚を贈った。
忠興はこれを辞さずに受け取りつつ、
「我は価(あたい)を重んずるにあらず、人に懇望せらるれば、
其の価を論ぜず、唯義に依って、之を興(あた)ふるのみ。」と語ったという。
この話から、忠興は価格の高低を問う気持ちが無い事に注目するべきである。
茶道美談より
0088人間七七四年
2012/10/27(土) 06:23:36.87ID:6D8Sx0Er0089人間七七四年
2012/10/27(土) 07:19:32.27ID:aEIVsLLX単に価格の高低を問わないってなら、懇願する人にはタダで上げるのが義なんじゃないのか?
0090人間七七四年
2012/10/27(土) 09:03:22.18ID:YvRJnxfD0091人間七七四年
2012/10/27(土) 09:05:31.73ID:NUAj0tSv「もっとよこせ」
とか
「そんなにいらないよ」
とか言ったらなかなかに向こうの立場がないからじゃないかなぁ
0092人間七七四年
2012/10/27(土) 09:38:59.22ID:C9fQWpwrしかし二歳の時、父と兄・氏綱の争いに乗じた大宝寺義増が鮭延城をのっとってしまう。
父と兄に置き去りにされた秀綱は、そのまま庄内へと連行され、十四歳で大宝寺家に
小姓として出仕することになった。
父と兄は鮭延に戻ることなく没したが、二十一歳になった秀綱は器量を認められ、大宝寺配下の鮭延城主となった。
その翌年、事件は起こった。
かねてより評判の悪かった大宝寺義氏に対し、家老の前森蔵人が謀反を起こす。
前森に反対する者はなく、「もっと早くそうすればよかった」と皆口々に言う始末であった。
このとき秀綱はちょうど正月の挨拶ついでに、義氏のもとにいたのである。
秀綱は義氏の自刃に殉じるべく覚悟をかため、暗く放火された場内を探し回るが、
主君はいっこうに見当たらない。視界が悪いので名乗りつつ進んでいった秀綱は、
名乗ったとたん思いがけぬ目にあった。
「我こそは鮭延源四郎!(秀綱のこと)」
「何!」
敵はなんと、槍を捨てるとしっかりと秀綱を抱きしめてきたのだ!
「おまえは誰なんだ、はなせ!」
「放すもんかよ、おれは中村内記だ」
「あっ、中村のおじちゃん…」
この男中村内記は、まだ幼く実父と引き離された秀綱を、我が子のようにかわいがっていてくれたのであった。
内記は弟・孫八郎とともに秀綱を心配して二日間探し回ったがおらず、
あきらめかけていたところでやっとこうして見つかって喜んでいるのである。
「源四郎よう、あんな運の尽きた屋方に供をしてどうするんだよ。助かろうず」
「あんたたちが助けたくたって、前森はそうは思わないだろ! 後悔するだけなんだからはーなーせー!!」
秀綱は抵抗したが、怪我をして疲れ切ってもいたので兄弟に抱きかかえられて、町屋まで連れて行かれた。
内記が前森にかけあって、助命嘆願をしているにも関わらず秀綱は殺気だっていた。
「よう、源四郎。おまえよく助かったなあ」
「討手か!」
と、昔の仲間が様子を見に来てもこんな調子なので、まわりに誰も近づけないでいた。
孫八郎が、前森からもらった白米と薪を持ってきたところで、
「切腹を命じる奴にこんな日用品届けないよな」とやっと安心し、それから安眠したとのことだ。
命が助かった秀綱は、この数年後最上義光配下となり、八十五の長寿を得るのだがそれはまた別の話。
また軍記や通説では、前森蔵人の謀反は最上義光の謀略ということになっているが、
実際は関与していない模様(ただし義光はこのあと、蔵人を支援することとなる)。
(『鮭延越前守聞書』)
0093人間七七四年
2012/10/27(土) 09:47:36.30ID:KoLg5t1x別に打ったわけじゃないから
謝礼を受け取らないというのは非礼にあたるんじゃないかな
なら、追加も受け取れっていう考えもあるけど、
そこまでいくと価値判断みたいになっちゃって嫌ってことかと
0095人間七七四年
2012/10/27(土) 14:18:51.25ID:ZXiMqwVP0096人間七七四年
2012/10/27(土) 17:01:08.70ID:pB/LZll6鍋島の母袋武者どもが、みな母袋を脱いでくつろいでいた。
直茂公は、
「陣中で物具を脱ぐなど戦場の覚悟が弛んでいるな。
誰かあそこに行って、一番最初に母袋を脱いだ者を見つけてこい。
処分をするから」
とお怒りになられた。
使者が母袋武者どもにそれを伝えると、
「どう申し上げようか・・・」
と、顔を見合わせ困り果てた。
そのとき、小山平五左衛門茂成が、
「直茂さまへ御返答申し上げる。
二十人の母袋武者ども、目と目を合わせ同時に母袋を脱ぎました」
と言った。
使者が戻ってこれを直茂公に伝えると、
「憎い奴らよ。それは平五左衛門の言葉だろう(笑)」
と仰せになった。
小山は竜造寺右馬太夫信門殿の子、
剛の者である 【葉隠】
0098人間七七四年
2012/10/27(土) 18:18:26.15ID:OtUKmgDCじっとしてたら意味ないような
それとも軍服みたいなもんだから着ろと言ったのか
0099人間七七四年
2012/10/27(土) 18:20:05.34ID:OtUKmgDC0100人間七七四年
2012/10/27(土) 18:28:49.00ID:1lZxZ5cJ「私は今日にも死ぬであろう。私の死後、天下はどうなると心得ているか?」
秀忠はこう答えた
「…父上の死後、天下は乱れると思います。」
その言葉を聞くと家康
「そういう心持ちで居るのなら、もう大丈夫だ(夫れなれば、ざつと済みたり)」
そう、心良さげにうち笑われ
「安心した」
と仰った。
そして次に竹千代君(徳川家光)を御側に召され
「其方は天下の主となる人だ。よく心得られよ、天下は慈悲が第一であるぞ!」
そう仰り、それから間もなくしてご他界されたという。
(武野燭談)
家康の遺言、というお話。
0101人間七七四年
2012/10/27(土) 18:42:06.40ID:pB/LZll6今見たけど古語辞典にも母袋では載ってなかったよ。
意味は母衣つけた武者で合ってると思う
>>100
未来は明るいと考える奴と一寸先は闇と考える奴なら、
落ちぶれるのは前者に多いからな
さすが権現さまと2代目
0102人間七七四年
2012/10/27(土) 18:47:26.53ID:6D8Sx0Er0103人間七七四年
2012/10/28(日) 00:31:27.45ID:o3jiBe39稲富喜太夫(祐直)という者があった。
忠興の内室(ガラシャ)が大阪で自害した時、留守居であった小笠原少斎以下の士が尽く討ち死にした中、
稲富はその場を落ち延び命生き延びたのを、忠興は殊の外立腹し、捜し出して必ず罪に問うと言っていた。
この事を徳川忠吉が聞き、忠興に直接に会ってこのように言った
「侍の死ぬべき場所を逃げ出したというのは、情けない侍というものであり。あなたの憤りは
尤もだと思います。ですが、稲富を助け置いてほしい。
彼は天下一の鉄砲の名人です。武勇を習うのではなく、鉄砲を習う者のために、命を助けてほしい。
臆病は、稽古によって身につくものではないでしょう?
鉄砲一流の断絶というのは、如何にも残念だと思うのです。」
この言葉に忠興は、「稲富にとってありがたい仰せです」と、彼を赦した。
これによって稲富は武士をやめ一夢と名を改め、稲富流を指南した。
そして彼の発展させた稲富流砲術により、大阪の陣の折、幕府軍の大筒は
大阪城天守の二層目に撃ち入れる事に成功したのだ、との事である。
(武野燭談)
0104人間七七四年
2012/10/28(日) 00:47:49.19ID:6Fr+uPii0105人間七七四年
2012/10/28(日) 01:24:07.44ID:RaGpenIm火薬で飛ばすやつの放物線を測る技術なら延長線上じゃないの
0106人間七七四年
2012/10/28(日) 01:48:36.72ID:TRnvXtCjそこだけ見ればカッコ悪い話
0107人間七七四年
2012/10/28(日) 01:49:40.19ID:Z8d0eTj6窮地でも必要な人材には助け船出す人がいる
0108人間七七四年
2012/10/28(日) 04:20:56.30ID:1TRjSzFU0109人間七七四年
2012/10/28(日) 12:47:45.50ID:/qWygdPl平岩親吉の弟は名を平右衛門といった。ある時、彼は榊原康政と
口論になり、少し傷を負ったところを駆け付けた傍の者に喧嘩を止められた。
この時の親吉は宿老で、康政は若く小身であった。喧嘩の一件を聞いた
親吉は「康政は今は小身だが、才智勇敢にして上の御用に立つであろう
人傑だ。我が弟は人に斬られる程度の者ゆえ、主君の御用には立たずに
禄を費やす者である」と言って、
弟は武道を止めさせて押し込め、康政はしきりに執り成して昇進させた。
果たして康政は天下の英傑と称美され、人は皆親吉の私心のなさに感服した。
――『名将言行録』
0110人間七七四年
2012/10/28(日) 15:14:44.99ID:xPxBhuCu8月26日、光泰はこの酒宴に出向いていった。
「殿!行ってはなりません!毒を盛られますぞ!」と必死で制止する謀臣を、
「わしも、そのような謀があろうことは察しておる。だが、行かぬとなれば武門の瑕瑾となるであろう。毒死は覚悟の上である。」と、振り切って。
果たして、宴席で供された鮒の吸い物に鴆毒が加えられていた。
光泰はその日から苦しみ始め、翌27日、28日には既に危急の状態であった。
しかし、彼は苦しみながらも、一人の男を待ち続けていたのである。
その男・加藤清正は、27日晩、釜山に戻るや否や、即座に駆けつけてくれた。
光泰は彼の来訪を大いに歓び、
「わしは姦人のために、思いもよらず毒殺という目に遭ってしまった。
このことに我が士卒は憤怒し、これから石田の陣所に討ち入ろうとしている。
だが、三成を討ち取ったところで、わしの命が助かるというものではない。
それに、ここは敵地であるし、同士討ちにもなってしまう。決してそんなことをさせてはならぬ。足下は我が士卒を堅くとどめてほしい。
そして、わしが死んだら、わしの諸勢を率いて帰国し、息子・作十郎(貞泰)に引き渡してくれぬか。」
と、懇ろに、最も信頼する盟友に後事を託したのである。
光泰は29日、この世を去る。
その後清正は、遺言どおり光泰の軍勢を率いて帰国し、貞泰に引き渡したという。
(曹渓院行状記)
0111人間七七四年
2012/10/28(日) 17:48:59.60ID:GY+zhnlv0112人間七七四年
2012/10/28(日) 17:55:30.10ID:RKz866HZ0114人間七七四年
2012/10/28(日) 18:35:56.07ID:QocNS2Vf0116人間七七四年
2012/10/28(日) 19:46:44.46ID:QocNS2Vf0117人間七七四年
2012/10/28(日) 21:22:53.80ID:hbstFqpKこのとき、庄内に協力者が出たため最上義光は石高のより高い者よりも秀綱を選び、
1500人ほどをつけ庄内に先陣とし派遣した。迎え撃つには本庄繁長勢3000。
打出川を挟み対峙する両軍。渡河地点と中州をめぐり両者ひかず、射撃戦だけで
一日が終わることもあるなど、降着した戦況となった。
数では劣る最上勢は善戦し、自軍は損害がないが敵をひとり出すときもあるなど、
よく持ちこたえていた。
いよいよ繁長が川を渡るかと見え、秀綱は警戒し背後から回りこんで討とうと策を練ったが、
繁長はなぜかそのとき引き返し退陣。ようやく戦も終わるかと思われた。
数が劣るもよく戦った、勝ち戦として報告して最上に報告してもよいかなと秀綱が思っていると、
飛脚が最上から届いた。その内容は、
「山形が大火事で本丸だけ残して、二の町、三の町、侍町、通町、みな焼けてしまった。
もう庄内攻めはできないので、和睦したら急いで引き返してこい」
意外な幕切れである。義光は国元への手紙で火の用心をさとしていたり、
山形の植木市も火事がきっかけとされているが、これで大火事が裏付けられたというわけだ。
のちに、
繁長「そういえば昔、庄内の北目で川を渡り敵を倒そうとしたのに、敵がつけてまわり、
こちらの背後をついてきそうなので結局川を渡れないことがあった。
あのときの最上方は誰だったのだろう?」
某「あれは鮭延秀綱です」
繁長「おお、なるほど! かねてより聞いていたあの名高い武将鮭延か…」
という会話があったとか。さすが繁長、敵を褒めるのを忘れない。
そしてさりげなく自慢を忘れない鮭延であった。
(『鮭延越前守聞書』)
0118人間七七四年
2012/10/29(月) 07:12:35.02ID:FBgcykdN津軽為信は焦っていた
「いち早く秀吉公の前に参礼し、御朱印を申し請け津軽三郡の支配を確立せねばならない!
とにかく南部に先を越されては大変である!」
そう言って準備を急いでいた所、為信の老母が、為信が津軽を離れることへの不安を言ってきた
「お前がここを留守にして小田原に行けば、そのあとにどんな異変が起こるか計り知れない。」
この時期の津軽為信の支配は、それだけ不安定だったのである。
「そこで、お前は国に残って仕置をしなさい。私は女の身ではありますが、小田原へ馳せ参り、所領安堵の
御朱印を申し請けるのに問題はないはずです!」
そう、驚く為信を構わず早々に津軽を出立し、相模に赴き秀吉と対面。当主為信に変わり母である自分が
参上したことなど言上すると、秀吉も女性の身で遠くここまで旅してきたことに強く感銘を受け、難なく御朱印を下した。
老母はこれを大いに喜び、急いで本国へと戻り御朱印を為信に渡した。
(天正南部軍記)
津軽為信のお母さん頑張る、というお話。
0119人間七七四年
2012/10/29(月) 10:47:12.17ID:zgHQK22q0120人間七七四年
2012/10/29(月) 10:53:37.83ID:MfZcRhng0121人間七七四年
2012/10/29(月) 10:57:13.47ID:J+fb6Xd7津軽の人間は本当に酷いな
0123人間七七四年
2012/10/29(月) 11:15:39.35ID:mCiLTF6I0124人間七七四年
2012/10/29(月) 11:35:02.90ID:YWgZj1p70125人間七七四年
2012/10/29(月) 11:41:44.16ID:l56Iow4O信直さん乙
為信が40歳くらいだから60歳とかそんくらいかな?
今ならともかく、当時の津軽から、しかも女性だからなーそりゃーラスボスも感嘆するわ。
0126人間七七四年
2012/10/29(月) 12:35:04.59ID:urNB5sC+恋慕した女の旦那は殺すし、拒否した女も殺す悪党だからな
そういや、石川を殺るときも城下の屋敷に押し入って南部方の女性を○姦させたりしてたっけな
0127人間七七四年
2012/10/29(月) 13:19:44.63ID:tsfL8j/uそこに偶然通りかかった武田信繁は、
「敵方に屈辱を与えることは、敵を奮起させることと同じである」
と深くこれを戒めた。
またあるとき戦場で武田兵が苦戦を強いられ劣勢となることがあった。
武田陣には、今回は勝てないだろうといち早く撤退することしか頭にない者、
あるいは、ここを死に場所と決め、捨て身の突撃を直訴する者と、
ふた通りの考えが溢れ、いずれの策も状況に対しての良策とはいえず、
武田の陣には暗い空気のみが漂っていた。
そこで武田信繁は、
「負け戦になりそうな時こそ慌てうろたえてはならぬ。
劣勢のときこそ、敵に対して侮蔑の思いを抱くべきであろう。
『穀梁伝』にある、
善陣はむやみに戦わず、善戦はやたらに死なず
という言葉をよくよく考えてみるべきである」
と諭したという
0128人間七七四年
2012/10/29(月) 13:51:08.25ID:2PVkJ/7y0129人間七七四年
2012/10/29(月) 14:12:07.78ID:38HGUZFm0130人間七七四年
2012/10/29(月) 14:40:44.53ID:MfZcRhng政宗とか、最上義光とか、大友宗麟とか、毛利元就とか、織田信長とか
0131人間七七四年
2012/10/29(月) 14:43:01.13ID:mxWEqU8G弟が優秀で仲が悪いと…
0132人間七七四年
2012/10/29(月) 14:55:00.79ID:V2+EHM7S0134人間七七四年
2012/10/29(月) 15:53:35.99ID:ts+9MPcb0135人間七七四年
2012/10/29(月) 15:57:46.86ID:mCiLTF6I0136人間七七四年
2012/10/29(月) 17:19:53.02ID:wxR127tI明智光秀の家臣・野々口丹波は山中幸盛の旅館に来て「陪臣の身で
申すのは恐れ入りますが、貴方が私のあばら屋に御来訪して下されば、
どれほど幸せなことでしょう」と言った。
幸盛は「私には分に過ぎたことです。きっと参りましょう」と約束した。
このようなところに光秀が「今日は風呂を用意しているから来られよ」と
言ってきたので、
幸盛は「後家来の野々口と先約いたしまして」と打ち笑った。
光秀も共に笑って「これで山中をもてなせ」と野々口に雁一羽と鮭一尾を
与えた。
――『名将言行録』
0138人間七七四年
2012/10/29(月) 19:30:08.41ID:XcVku1Kq彼にとって初めての殿中であったし、また若輩であったものだから、城内で大いに迷ってしまったのだ。
貞泰はなぜこんな事態に陥ったのか?それは、彼を御前へ誘引してくれる者が誰もいなかったからである。
大事なことなので何度となく繰り返すが、彼の父・加藤光泰と石田三成は不和であり、旗本の諸臣は皆、三成にへつらっていたのだ。
しかしその時、山本嘉兵衛尚則という人物が貞泰を見つけ、自ら供を申し出てくれたうえ、お目見えの式を整えてくれた。
貞泰はこの時の恩をずっと忘れず、後年、大坂落城で山本尚則が没落した時には、手を差し伸べ、家中に招いたのである。
尚則は「老齢であるから」と辞退したのだが、貞泰は彼に隠居料を与えるとともに、その子・三郎兵衛則兼を臣下にしたという。
(加藤光泰貞泰軍功記)
0140人間七七四年
2012/10/29(月) 19:47:54.90ID:sJa/mzJc0141人間七七四年
2012/10/29(月) 20:33:22.90ID:UOfu71bB0142人間七七四年
2012/10/29(月) 20:41:11.19ID:lrjK18kf0143人間七七四年
2012/10/29(月) 21:44:45.14ID:B4hZUQSBおいやめろ
0144人間七七四年
2012/10/29(月) 22:27:38.00ID:+skKrbQG0145人間七七四年
2012/10/30(火) 01:08:55.25ID:UbAfimao踏み台にしてる系のいい話ってなんか感じ悪くて嫌いだわー。
書いた奴の魂胆が見え隠れするっていうか
0146人間七七四年
2012/10/30(火) 04:37:37.04ID:5yKyYGl+by織田信成
0147人間七七四年
2012/10/30(火) 06:58:50.77ID:5zL6fSPa「おじさんが白鳥(十郎永久)と氏家(詳細不明)を倒した時、内心大丈夫かなって心配してたんです。
鉄砲を応援に送ろうかと思ったけど、無事解決したとのことでほっとしてます。
小斎に出陣したとき何度か応援してもらってうれしかったことが、ぼくは忘れられません。
おじさんが天童と争っているときは、援軍出したかったけどぼくはまだ家督ついでいないので、
どうしようかと思っているうちにのびのびになってしまいました。
お互い親戚同士だから、これからもなかよくして遠慮とかしないようにしましょうね」
と、まだ仲がよかったころの心温まる交流を感じさせるが、
もうひとつひっかかる点がある。
文面から察するに義光が白鳥長久を軍記にあるようにあっさりと倒せたわけではなく、
氏家某をまきこんでなかなか大変なものだったらしい。
また少なくともこの計画は伊達家も知っていたようである。
(「山形殿宛政宗書状」、兵庫県立博物館所蔵)
0148人間七七四年
2012/10/30(火) 07:48:58.79ID:xM9bR/1I0149人間七七四年
2012/10/30(火) 08:01:14.08ID:8UAPlg+10150人間七七四年
2012/10/30(火) 08:20:48.26ID:MmsQmBNf0152人間七七四年
2012/10/30(火) 16:54:35.09ID:PBrR4TrQ信玄名代として実際の軍事指揮権は信繁にあったなんて説もあるし
ただの善人文弱武将ではない
0153人間七七四年
2012/10/30(火) 17:46:10.00ID:Rgn5Goix浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…Lady go!!をお聴きくださった方々ありがとうごさいました!
浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…ネスサン…ネスサンネスサン
ネスサン…浜松町は港区…浜松町は港区…
https://twitter.com/Uesakasumire/status/262861022715576320
0154人間七七四年
2012/10/30(火) 17:46:42.73ID:Rgn5Goix0156人間七七四年
2012/10/30(火) 19:01:32.16ID:427EBqPV気遣いというよりはもっとドライな、異人の人情ってどんなもんなんだろ、ぐらいの客観的な興味で
聞いただけじゃないのかな、信長ってそんな人っぽい
0157人間七七四年
2012/10/30(火) 19:47:16.72ID:PBrR4TrQ信長は布教のために身ひとつで極東までくる精神性を気にいったんだと思う
信長は基本、秩序制御タイプだけど、
森武蔵みたいな徹底した人間(なんらかの有能さ必須)を好む面もあるから
0158人間七七四年
2012/10/30(火) 20:24:38.88ID:kZZO2kLz目に狂気が宿ってるくらいの人間が好みだったんだろうな
0159人間七七四年
2012/10/31(水) 00:05:35.52ID:9VCDBAR3ひとつ疑問なんだが、普通に父親の代からの家臣に案内させる事は出来なかったんかな?
家老クラスなら一人くらい伏見城内に入れる奴がいてもおかしくないと思うんだが。
0160人間七七四年
2012/10/31(水) 05:57:07.31ID:Gt6CSFORキリスト教と仏教の優劣でなくて、
人間的魅力や深さで勝てなかったろうな戦国時代の叡山坊主
平安末期〜鎌倉時代の南都北嶺のエリートたちより、
そこから追放された法然、親鸞、道元のほうが結果支持されたのも同じ理由と思う
0161人間七七四年
2012/10/31(水) 11:34:07.98ID:r8LWN2dk近所の農家から税と称して略奪
娘さんをさらう
まあ好かれる要素がないな
0162人間七七四年
2012/10/31(水) 13:53:40.46ID:P7qFpMJ/0163人間七七四年
2012/10/31(水) 14:25:15.01ID:r8LWN2dk教えるのに金をとった。
免許としょうして単位認定するごとに金をとった。
かねかねかね、の比叡さん
0164人間七七四年
2012/10/31(水) 14:37:53.73ID:P7qFpMJ/0166人間七七四年
2012/10/31(水) 17:50:17.56ID:yGJ+uyilわがカトリックとは大違いだ」
0167人間七七四年
2012/10/31(水) 18:05:43.77ID:UP59fumM0168人間七七四年
2012/10/31(水) 18:43:38.35ID:Gt6CSFOR三浦按針「オマエらだって教皇がバックの戦闘集団じゃねーか」
古今東西、立身を争う口喧嘩はこのパターンになるな
0170人間七七四年
2012/10/31(水) 20:12:03.40ID:Hy/vmaIWそこへある日、見知らぬ客人が尋ねてきた。
「越前どの、私は内豆民部の子です」
「さてどなたでしょう?」
「私は父があなたさまに割られた兜を保管しておりますよ」
「おお、それではあのときの…」
内豆民部とは、慶長六年の庄内攻めのときに秀綱が戦い、確かに兜を割った相手
であった。
民部はほどなく病死したが、そのときの話を息子に語り継いでいたのであろう。
これは庄内酒井家中では、わりと有名な話ではないだろうか。
以前江戸で、酒井家の高力但馬守が知っていると語っていたのを私は聞いたぞ、
と秀綱は付け加えた。
ちなみにこうした逸話が記録された『鮭延越前守聞書』は、秀綱本人の希望によって
娘婿の家臣・岡野九郎左衛門がかきとめ秀綱の十三回忌にまとめたものであり、
鮭延寺から古河早川家に伝わったものである。
なおこの記録は秀綱三十九歳までしか残されておらず、改易については一切記載
がない。
0171人間七七四年
2012/10/31(水) 21:09:59.95ID:9VCDBAR30172人間七七四年
2012/10/31(水) 22:11:22.22ID:K68WsBuF元亀3年(1572年)、薩摩の島津と日向の伊東が戦った『木崎原(きさきばる)の戦い』でのこと。
この合戦の前、島津勢の指揮官、島津義弘はある夢を見た。自分の乗っていた馬が
足を折ってしまうという夢だった。
夢の内容を菊一という盲目の僧に占わせると、それは次の合戦に島津が勝つという
お告げであるという。
馬が足を折ったなら当然馬から降りなければならない。
↓
馬を降りるということは歩くことになる。
↓
歩くこと、すなわち「徒歩(かち)」なので「勝ち」
なのだと。
(続く)
0173人間七七四年
2012/10/31(水) 22:11:55.45ID:K68WsBuF義弘が戦場を馬で回っていると、敗走する伊東勢の中で殿軍をつとめる騎馬武者が
目にとまった。
「我は島津兵庫頭なり! いざ勝負せよ!」
と大音声で呼ばわれば騎馬武者も名乗り返し、
「総大将御自らとは光栄! 柚木崎丹後守、参る!」
馬を駆って向かってきた。柚木崎(ゆきさき)丹後守正家は日向柚木崎城の城主で、
伊東勢の大将のひとりである。
義弘と丹後守は二度三度と槍を合わせるも、丹後守が馬から落ちて地面に転がる。
こうした場合、本人が馬から下りて討つか、徒歩で付き従う家臣郎党が討つのだが、
このとき主人の意を真っ先に察したのは義弘の乗馬だった。
この馬が前足の膝を折り曲げて地面につけたのである。義弘は槍を下に向けて突き、
みごと丹後守を討ち取った。
義弘は夢のお告げを正夢にしたこの馬を「膝衝栗毛(ひざつきくりげ)」と命名し、
非常に大切にした。
『名将言行録』によれば、義弘は生涯52回の戦いのうち20回余りをこの膝衝栗毛に跨って
臨んだという。
膝衝栗毛は馬としては非常に長命の86歳まで生き、鹿児島県姶良市の亀泉院跡に墓が残されている。
加藤清正の帝釈栗毛、鬼武蔵の百段にも劣らぬ、島津義弘の愛馬のお話。
0174人間七七四年
2012/10/31(水) 23:02:51.53ID:j2nN844m「今日の合戦は多分私は功名を立てられないでしょう」
清秀はそんな直政を慰めた。
「いやそのような事はない。やがて手にあいなさる」
開戦前には家康が直政の陣へ行き直政の手を取り別れを告げた。
「これにてさらばだ」
「そのようになりましょう」と直政が応えた。
これを聞いた直政の家来で老功の者が直政を諌めた。
「あのように弱き御挨拶をお返しなさるとはどういうおつもりか」
直政は応えた。
「左様にても殿があのように仰せられたのだ」
(『武功雑記』巻十三、巻四)
そして開戦後の直政
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-571.html
戦後、上方の武将たちから「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになる。
0176人間七七四年
2012/11/01(木) 00:04:53.06ID:g5WrITFm0178人間七七四年
2012/11/01(木) 01:00:19.97ID:+VLFSbrtかの三冠馬シンザンが日本の軽種馬の最高齢記録を保持していたけど、
それでも満35歳。40歳なんてまずありえんと言い切っていいレベル。
ましてや80歳以上だなんて…
0179人間七七四年
2012/11/01(木) 01:39:47.49ID:504Z1GA8事情を知らない一般人が二代目や三代目の死亡年から逆算した勘違いでは。
そんなに縁起のいい馬なら、繁殖させたりもするだろうし、
二代目三代目が居ても不思議じゃない気がするけどね。
0180人間七七四年
2012/11/01(木) 02:02:03.47ID:c293RWN026歳なら普通すぎるかw
0181人間七七四年
2012/11/01(木) 02:42:28.49ID:YrMp6V1+0183人間七七四年
2012/11/01(木) 04:29:58.01ID:eL3tFQLr0185人間七七四年
2012/11/01(木) 07:14:48.49ID:yw6I4FDgそれにしても高木のオヤジに取りすがって涙する万千代が愛くるしいw
結果、アレなのが見事なコントラストになってるわ
0186172-173
2012/11/01(木) 08:26:31.27ID:DKgNWerh記録によると膝衝栗毛は牝馬(メス)だったようで。
戦のたびに駆り出されてると、繁殖はできなかったんじゃないかなあ。
義弘お兄ちゃん動物にもモテモテというお話。
0187人間七七四年
2012/11/01(木) 14:31:09.77ID:gJQfI2k2乗ってない時は馬が産休入ってたからかもよw
0188人間七七四年
2012/11/01(木) 15:16:34.08ID:504Z1GA8「出産前後くらいは日頃の感謝をこめて・・・サンキュー」とか言ってたかもな
0190人間七七四年
2012/11/01(木) 18:04:05.68ID:6oT7Wwu3今川氏真は武田信玄に国を奪われ、掛川城に逃げ込んだが、徳川軍の威によって
城を開けて小田原へ退去した。この時、徳川家は松平家忠に海路を護送させたので
今川の士はもちろん北条の者もまた「徳川殿は情ある大将だ」と感銘を受けた。
その後、氏真は小田原を離れて京摂を徘徊し、後に徳川家を頼り寄食する。
この話を聞いた者たちは「氏真は義も恥も知らぬ鉄面皮だ」と爪弾きにして笑ったが、
家康は義元の旧好を思って氏真の不幸を哀れに感じ、始終扶助して後には五百石を
与えて老を養い、その孫・直房、二男・高久を家臣とした。高家に今川、品川というのは
この末裔である。
家康はいつも上洛のために桶狭間を過ぎるたび、義元の墳墓の前では輿を下りた。
御供の輩はいずれもその厚義を感じて落涙した。
また氏真が客寓していた頃、いつも家康の御座近くに参る時にも、
昔を忘れずに氏真を厚く礼遇したことは見る者を感じさせた。
――『徳川実紀(三河記、古老物語、前橋聞書)』
0191人間七七四年
2012/11/01(木) 18:17:51.99ID:c293RWN00192人間七七四年
2012/11/01(木) 18:49:08.24ID:VoYP7FWq氏真は奥さんといい、周りの人に恵まれてる気がする
人を惹きつけるような人柄だったんだろうか
0193人間七七四年
2012/11/01(木) 19:41:41.50ID:jLOHci8aいい思い出があった場所に戻って行きたがるらしい
家康にとってもちろん苦労はあっただろうけど、良い日々だったんだろうな
01941/2
2012/11/01(木) 19:55:23.63ID:wa9MXoK4ある時この神谷が城中で、当時徳川秀忠の老中であった酒井雅楽頭忠世と行きあった。
神谷はすぐに脇によって「キリッ」と礼をしたのだが、その時酒井忠世は考え事をしていたのか、
神谷に全く気が付かず通りすぎてしまった。
スルーされた神谷の心に、暗い焔が灯った
それからというものの、神谷は酒井忠世に出会うたびに無礼慮外を度々繰り返した。小学生かお前は。
ともかくこの神谷の忠世に対する人もなげな振る舞いはよほど話題になったらしく、ついに
家康の耳にまで達した。
「秀忠の重臣に対してなんという振る舞いだ!神谷には暇を出そう!」
そう言ったが、内々に神谷の行状を聞いてみると、彼は人品能く、殊更に奉公を第一に勤めている、
忠世の件がなければ武士の鏡のような男であった。
「ああいった者こそ才能を確かめつつ能く召し使われるべきなのに、ゆえなくお暇を賜るような
事をすれば、御家の諸奉公人たちはどう思うでしょう?我が身を省みて、御家に対し疑いを抱くのでは
ありませんか?
それに雅楽頭(忠世)のせいで神谷があの様なことになった、などと言われては、あの正直至極な
雅楽頭に悪名を付けてしまいます!
しかし、だからといってこのまま放置しおいては御家老の威厳が薄くなり、御家風も軽くなってしまいます。
さて、どうしましょう?」
近臣の者達、結局家康に丸投げする。『相変わらずウチの家中はめんどくさいなあ』と家康は思ったかどうか。
しかしこういう面倒くさい人間を扱わせることに関しては家康はベテランである。
ナイスアイデアを思いついた
「そうだ!今度神谷に知行の折紙(認定証)を与える時、かねてからの約束よりも少し少なめにして
渡そう。神谷はこれまでの情報を総合すると堪え性のない人間だ。ならばその様な目に合えば
きっと自分から暇を願い出るだろう。その場合他の奉公人へも影響を与えなくてすむ。
それにこれで雅楽頭が不評を被る事も無いだろう。よし、これだ!」
そういって家康は、かねての約束が千石の所を、八百石の折紙を用意し一両日中に
神谷に渡す準備を整えた。
と、これを聞きつけやってきたのが酒井忠世である。彼は家康の御前に出ると
「神谷に知行の折紙を下されるという話を聞きました。あの者は殊の外良き奉公人です。
一廉御用にも立つ者でありますから、たしかあの者への知行のお約束は千石でしたが、それよりも
多く与える事こそ然るべきと考えます!」
『またややこしい事に…』家康はきっとそう思っただろう
01952/2
2012/11/01(木) 19:56:18.18ID:wa9MXoK4忠世、これを聞いて怒った
「それは以ての外のお考えです!!
あの者にそんな事をしたら、今後良き奉公人が、どうして御家に仕えることを望むでしょうか!?
ああ言う者をいかにも厚遇してこそ、勇士・能者も集まるというものです。
大御所様!ああもう、散々のご思案ですぞ!!」
家康公ボロクソである。しかし家康
「お前が言うことを一々判断する必要はない。何故かといえば、我が家において、重臣である
お主に慮外するような者はあってはならぬのだ。であるのにあの者は度々に渡りお主に慮外をいたしたと
聞き及んでおる。だからこそ、約束よりも少ない知行の折紙を与えたならばきっと暇を乞うてくるだろう、
その時暇を出してやろうと考えたのだ。そうであるので、知行増など思いもよらぬ!」
家康は個人のことを言っているのではなく、組織の統帥を考えて言っているのである。
これに忠世
「…私は御存知の通り、御家の御厚恩を以って代々召し使われている者ですが、そんな譜代の私に
新参の者が豪胆にも無礼をしてくることに、却ってその器量の深さを感じ、彼を、一廉御用の役に立つ者だと
見立てました。そして内々に調べてみても、人柄・心持ちの揃った人物でありました。
であるからこそ、この様に申し上げているのです!」
家康ももうグッタリしつつ
「…ではお前は、神谷に知行をどれほど与えようというのか?」
「二千石遣わされて然るべき!!」
「!!!???」
倍である。ついでに言えば実際に与えるのは家康である
「た、忠世くん?それなら最初の約束通り千石渡せばいいんじゃ…ないかな〜?」
「二千石然るべき!!」
「えーっと、いきなり倍は与え過ぎのような…」
「二千石!」
「…」
家康がどんど追い込まれていくのを他の老中たちがいたたまれなくなったのか、話に割って入り
「じゃ、じゃあ真ん中取って1500石でいかがでしょうか!?そうしましょう!」
と、一同申し上げたことにより、家康も遂に観念し1500石の折紙をつくり、神谷を呼び出し
これを与えた。この時、家康という人の面白いところは、酒井忠世との論争を、残らずありのまま
神谷に伝えた所である。
神谷は感涙を流してこの折紙を頂戴し、城より退出するとその足で酒井忠世の邸宅を訪ね対面し、
「それがし愚かにして人を知らず、憤りを顕したこと、誠に面目のないことでした。」
そう忠世に謝罪したという。
その後神谷与七郎は働きも能く、人品も忠世が見立てた通り、実直に勤め、その後足軽を付けられる程に
出世したそうである。
(武野燭談)
0196人間七七四年
2012/11/01(木) 19:57:38.89ID:aYuzkYLw0198人間七七四年
2012/11/01(木) 20:39:37.71ID:jLOHci8aでもそこがいい
0199人間七七四年
2012/11/01(木) 20:44:59.37ID:c293RWN00200人間七七四年
2012/11/01(木) 22:03:40.61ID:gJQfI2k2「まさかケチりたいだけじゃ…」と疑ってしまった自分がいる・・・。
0201人間七七四年
2012/11/02(金) 00:54:15.29ID:FUjAttnp0202人間七七四年
2012/11/02(金) 09:20:02.83ID:UCB2mwtqわざわざ経緯を公にして予定より多く知行することを周囲に納得させ
当人の行為を改めさせるばかりか更なる忠誠をも引き出した
上手く解決したもんだなと感心する
0203人間七七四年
2012/11/02(金) 14:18:47.86ID:VDRVKLg7日本では皇室を初めとして近親婚が行われてきました
戦国期の大名家でも近親婚は見られるわけですが
近親婚が禁忌とされるようになったのはいつ頃からでしょうか
0204人間七七四年
2012/11/02(金) 14:46:46.96ID:z89Ct905と言ってもどうせ「答えたがり」が構うんだろうけど
0205人間七七四年
2012/11/02(金) 14:58:16.72ID:mWi8bO9K昔この話どこかで聞いたときは子どもっぽいなあとしか思わなかったけど
今だとこういう無礼を働くのさえ命がけだったんだろうなと思ってしまうw
0209人間七七四年
2012/11/02(金) 15:34:46.23ID:rbbH17K00211人間七七四年
2012/11/02(金) 16:32:29.73ID:i6l8AVy40212人間七七四年
2012/11/02(金) 16:36:00.04ID:aDc7Uy1c0213人間七七四年
2012/11/02(金) 16:49:41.93ID:NNgd5DJ20214人間七七四年
2012/11/02(金) 17:28:11.90ID:Nbg/F9/H関白秀次は罪を蒙り、伏見の邸宅は前田利家に賜れた。
利家はその美麗な様を見て曰く、
「関白は大望のある人ではない。謀反は必ず偽りであろう。
私は子孫まで望みがあるから、このように美麗ではならない」
と言って、不要な所は取り払った。
――『名将言行録』
0215人間七七四年
2012/11/02(金) 17:54:07.01ID:RfYzohGp今は金を貯めておいて、豊臣の天下が危うくなったら
その金で戦力集めて謀叛する気だ、ととられないか?
0217人間七七四年
2012/11/02(金) 18:22:03.79ID:KAsmxqonある意味稚拙なんだろうなぁ
0219人間七七四年
2012/11/02(金) 18:33:46.18ID:jpUA5NAZ精一杯の意地でもある
それは家光公とかも憧れる浪漫っぽいもの
0220人間七七四年
2012/11/02(金) 19:05:31.57ID:Gr3+0d0y0221人間七七四年
2012/11/02(金) 19:49:32.15ID:KAsmxqonマキャベリストなら自分がいかにも純朴で誠実な人間と偽るんだよなぁ
0222人間七七四年
2012/11/02(金) 19:57:07.95ID:RfYzohGp0223人間七七四年
2012/11/02(金) 20:00:55.91ID:RfYzohGpマキャベリがでてきたから戦国スレとは思わなかった
0224人間七七四年
2012/11/02(金) 20:06:39.44ID:WYMSS6al0225人間七七四年
2012/11/02(金) 20:09:39.77ID:ZSlyWsU9彼は家康の関東移封後、武州川越三千石を与えられたのだが、ここに備後村という郷村があり、
その庄官は備後を名乗っていた。
これを知った忠利の家臣たちはこの備後に
「備後とはこの地の領主である殿の官名である。よってその名を改めよ。」
と伝えた。この時代、領民や家臣が主君と名乗りがかぶるのは不敬であり、この要請は常識的なことであった。
が、この備後は解明の要請を全く受け付けず、そのままの名乗りを押し通した。
そのうちに酒井忠利が領内を巡回した時、この庄官を呼び出し直接に言った
「お前の名はこの地の領主の名乗りと同じなのだ。よって改めよ。」
庄官は猛然と答えた
「これは近頃迷惑なことを承るものかな!私は人に勝って年貢を一番に納めています!
勿論公役に関しても他人よりも第一に勤めておりますれば、領主様からの掟に少しも背いて
おりません。それなのに、どんな過怠があって名を改めよと仰るのか!?
その上私の家は代々備後を名乗っておりますれば、改めること罷り成りません!
同じ名で都合がわるいというのなら、殿が名を改められよ!!」
領主に対して思い切ったことを言ったものである。ほとんど暴言であり、これで殺されても
全くおかしくはない。
が、酒井忠利は笑い出した
「ははは、そうか。年貢・公役を人より先に勤めるというのは一段と良いことである。
しからば己はここの備後よ。私は酒井備後守である!苦しからず、そのままにて居よ。」
そう、申し付けたそうである。
(武野燭談)
酒井忠利の温和、というお話。というかこの庄官ちょっと常識はずれに凄いw
0226人間七七四年
2012/11/02(金) 20:29:52.85ID:KAsmxqon村役人はその末裔という可能性あるな
なら改名はしにくそうだ
0227人間七七四年
2012/11/02(金) 22:06:39.59ID:sI1PbU8g0228人間七七四年
2012/11/02(金) 22:25:11.94ID:CqDydaVI今思いついたのは維新様だけど
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2900.html
0229人間七七四年
2012/11/02(金) 22:37:14.99ID:sPEjkkGK0230人間七七四年
2012/11/02(金) 22:40:50.89ID:WQI/aA300232人間七七四年
2012/11/02(金) 23:32:10.99ID:QTQCXNWi0233人間七七四年
2012/11/02(金) 23:35:03.21ID:rbbH17K00234人間七七四年
2012/11/03(土) 02:24:18.40ID:fReihmWi0235人間七七四年
2012/11/03(土) 08:45:37.07ID:3/lmW+3v0236人間七七四年
2012/11/03(土) 10:08:05.29ID:JUhweKVc0237人間七七四年
2012/11/03(土) 10:23:49.41ID:MuaxDSke0239人間七七四年
2012/11/03(土) 12:03:18.62ID:FEujK5a5まぁまぁ、教皇猊下が茶を振る舞って下さるそうですよ
宇喜多なんとかいう人も同席するらしいですし
0240人間七七四年
2012/11/03(土) 13:01:53.07ID:OVZAokdY0241人間七七四年
2012/11/03(土) 13:40:32.37ID:YRtqEtjsボルジアのカンタレラも砒素っぽい
まさに砒素は愚者の毒とはいえ確実なんだろうな
0242人間七七四年
2012/11/03(土) 13:45:30.13ID:2u3d0y0Bそういう技術がない時代には使い勝手がよさそうだ
0243人間七七四年
2012/11/03(土) 13:49:53.61ID:YRtqEtjs0244人間七七四年
2012/11/03(土) 13:54:18.33ID:wOSt/pQ5まあ砂加藤さんは普通に病死だろうけど。
0245人間七七四年
2012/11/03(土) 13:56:45.82ID:2u3d0y0B0246人間七七四年
2012/11/03(土) 14:49:09.32ID:wOSt/pQ50247人間七七四年
2012/11/03(土) 15:08:52.27ID:rNEhluPK松永のような茶の嗜みのある武将じゃないとダメだな
0248人間七七四年
2012/11/03(土) 15:13:45.21ID:LfaaJuzV石劣口藤
しれっと「劣」までいれちゃって
0249人間七七四年
2012/11/03(土) 15:23:06.92ID:xJFxG5ar石劣口藤
石劣萌泰
つまり、「石」田に「劣」ることで「萌」えをさそう光「泰」
というなぞかけ
0250人間七七四年
2012/11/03(土) 16:24:57.52ID:317oAYR8鍋島直茂が往来するごとに庶人らは皆出てきて拝伏していた。
ある日、直茂は近臣に向かい「衆人が拝しているのに黙しているのは
謙退の道ではない。だから駕籠から降りて答礼しようと思いはするのだが、
かえって下々も難儀ではないかと思い、いつも駕籠の中で目礼している」
と語った。
この話を聞いた庶民らは「尊い君でさえこのようなのだから我々も」と、
互いに謙退辞譲を守り、親睦を深めたのだとか。
――『名将言行録』
0251人間七七四年
2012/11/03(土) 18:05:09.21ID:y+3vNVB10252人間七七四年
2012/11/03(土) 19:10:29.32ID:LkV1dfyq0253人間七七四年
2012/11/03(土) 22:11:11.34ID:/Xo4EPr50255人間七七四年
2012/11/04(日) 00:13:18.66ID:9WFrkSKl>九頭竜川の戦いは、朝倉の軍勢、数千人が一向一揆の数万人の
>軍勢に勝利したといわれていますが
>これは両陣営、協議をして、合戦の決着を一騎打ちを何セットか
>やって(引き分けが無いように奇数のセット)
>勝った数が多いほうが合戦が勝利で、現場一帯を制圧でき
>負けた側は引き上げる、と決めて
>一騎打ちの団体戦をやって、朝倉側が大多数の一騎打ちに勝ち
>一向一揆は撤退をした、といわれています
これマジ?
0256人間七七四年
2012/11/04(日) 00:16:09.83ID:H6dQnCFz【疑問】スレ立てるまでもない質問10【戦国時代】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1347617351/
0257人間七七四年
2012/11/04(日) 05:42:58.19ID:e2+vd95b「毛利輝元は当初から自分に二心なく属してきてくれたので、ついに心安く全国を平定することができた。
そう考えると輝元の忠義は忘れがたい。
そこで、輝元の領国の中国を国替えして、もっと広い九州の九カ国を与えようかと思うのだが、どうだろうか?」と。
隆景は答える。
「仰せの通り、九州は輝元の現在の領分よりよほど広くはございますが、しかしながら、今の領国は
輝元の祖父元就が小身より一代で取り広めてきた国ですので、先祖の国を捨てて他所へ参ることは
何ほど領分が広くなりましょうとも、先祖の功労をむなしくするようにも思え、本意ではございません。
広い所へと国替えしていただこうという思し召しは誠にお恵み深いものと思いますが
どうか、そのままにしておいていただけますなら、ますます有難く存じます。
ことに、輝元は今の領地でさえ莫大でありますに、さらに領分広大となれますれば
殿下にも御後悔なさることがないともいないのが道理です。
どうか、お国替えはご遠慮したく思います。」
秀吉はその言葉に感じ入って言った。
「毛利をさらに大身にと思って国替えを考えてみたが、御辺の申すことは実にもっともなことである。
そのままにしておこう。
ことに、いよいよ大身となせば後悔もあるべきかと申すこと、実に率直な申され様、ひとしお感じ入った。」と。
『名将言行録』
0258人間七七四年
2012/11/04(日) 08:24:19.28ID:UOLerA8L0259人間七七四年
2012/11/04(日) 08:39:00.29ID:HTOordGe0260人間七七四年
2012/11/04(日) 10:08:24.53ID:mkRpOs590261人間七七四年
2012/11/04(日) 10:30:19.99ID:cgic6LnU大河『平清盛』で藤原基房役の細川茂樹が直政に扮し市中をパレードした。
そして悪い話の方では、前の佐和山城主だった石田三成が槍玉に晒されているようなので
井伊軍志にて紹介された、因縁めいた2人に纏わるちょっとだけいい話を。
七将による三成襲撃事件が起き三成が佐和山に退隠した後に、家康が向島より伏見に入城した。
徳川家重臣の直政は三成の伏見空き屋敷を宛てがわれそこに入った。
三成の伏見屋敷は玄関や広間はとても豪華なものだったが奥へ入ると雨漏りが酷く障子なども見苦しかった。
そんな惨状を見るにつけ直政の側近たちが嘲笑し厭味を言った。
「天下の治部少がよくもこんな邸に修繕もせずに居たものじゃ」
これを聞いた直政は側近たちを叱責した。
「治部少は常々表にあって奥に住む事無き故に屋敷の始末をかようにしておいたのじゃ。
さすがの男である。これを笑う者は彼に及ばぬこと千里の隔たりがある」
傍にいた岡本宣就が直接耳にし、後に知人に語った話である。
0262人間七七四年
2012/11/04(日) 10:40:27.66ID:C8Kf5hoS0263人間七七四年
2012/11/04(日) 10:41:44.22ID:icm06Elw豊前、筑前、筑後、肥後を与えて、輝元に九州取次を命じるプランだったけどね。(毛利家文書之三 955)
0264人間七七四年
2012/11/04(日) 10:43:07.53ID:7lWApD6b見えるところに金をかけるのは野暮、見えないところに金をかけるのが粋
という江戸っ子気質の由来である。
0265人間七七四年
2012/11/04(日) 10:54:36.75ID:NGamQBlm0266人間七七四年
2012/11/04(日) 11:04:47.83ID:cgic6LnU歪みのある地域だよなぁ
0267人間七七四年
2012/11/04(日) 11:11:06.21ID:HTOordGeひこにゃんの敵だから
0268人間七七四年
2012/11/04(日) 11:52:55.53ID:NGamQBlm0269人間七七四年
2012/11/04(日) 12:10:17.88ID:x9YkcM8m自分に厳しくて他人に甘い人だったら、もっと変わった結果になっただろうになー
0270人間七七四年
2012/11/04(日) 13:29:21.34ID:neduKvOu0271人間七七四年
2012/11/04(日) 14:45:39.01ID:tWppzQoQある時、御伽の者が豊臣秀吉に質問した。
「今の世に天下を取る器量の大名はいるのでしょうか」
「天下を取るには大気、勇気、智恵がなくてはならない。
この三つを兼ねた大名は一人もいないが、小者には二つ兼ねた者が三人おる。
一人は上杉の直江山城。これは大気と勇気があるが智恵が足りない。
二人目は毛利の小早川左衛門。これは大気と智恵があるが勇気が足りない。
そして三人目は龍造寺の鍋島飛騨守。これは勇気と智恵があるが大気がない。
大名にはこれほどの者もおらぬな」
――『名将言行録(葉隠)』
0273人間七七四年
2012/11/04(日) 15:13:41.06ID:cX669te+あれ、鍋島のほかには堀直政説があったのか
0274人間七七四年
2012/11/04(日) 15:25:09.70ID:JDuQXxSB小早川「この内じゃ一番軍功あると思うのに…」
鍋島「そうです、出世欲とかないです。
ましてや主家を乗っ取ろうなど思ってもいません。」
0275人間七七四年
2012/11/04(日) 15:35:43.39ID:ltxk5kGI0276人間七七四年
2012/11/04(日) 15:38:33.77ID:NGamQBlm0277人間七七四年
2012/11/04(日) 16:35:51.61ID:Hv3r7jEj0279人間七七四年
2012/11/04(日) 18:56:56.93ID:jeBPKPCb0280人間七七四年
2012/11/04(日) 19:02:08.22ID:jWniimTR源頼朝 知恵と大気はあるが勇気が足りない
北条義時 知恵はあるが勇気と大気が足りない
北条時宗 勇気と大気はあるが知恵が足りない
足利尊氏 大気はあるが知恵と勇気が足りない
0281人間七七四年
2012/11/04(日) 19:03:10.59ID:icRhLJ2S・・・クロカンの抑えってTERU殴る人だけだっけ?
0282人間七七四年
2012/11/04(日) 19:07:44.39ID:Hv3r7jEj「オマエのことライバルだと思ってるから!」
なんて言ったら相手の闘志に火つけるようなものだな
テンキューさまの教えにもあっただろ?
ライバル宣言して結果お互い高め合うことになるなんてマンガにしかない
ブラック企業が自由な社風で、
年齢、勤続年数ではなく実力を評価する、
という聞き心地のいい会社方針なのに殺伐としてるのはこれが原因だと思う
社員同士でしのぎ削らせれば業績上がるし、
社員同士が敵対するから、下剋上に向かいにくくなる
0283人間七七四年
2012/11/04(日) 23:10:11.41ID:7lWApD6b0284人間七七四年
2012/11/05(月) 01:31:11.82ID:Gzm50zS/0285人間七七四年
2012/11/05(月) 03:16:36.45ID:dUAoEaQp藤堂高虎の殉死の諌めについては、既にこちらに詳しいがhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-651.html
埋もれるには惜しい話を若干付け加えたい。
藤堂高虎は自分亡き後の家臣の殉死をおおいに嫌い、
一計を講じて大御所家康から殉死の禁止令を出してもらうことに成功した。
にもかかわらず、一人の家臣が家康に願い出た。
右腕を負傷していた彼は、
「私はこのような負具者にて、もはや生きていても甲斐がありません。
主君亡き後、どうか殉死することをお許しください。」
と求めた。
家康はこれを聞いて言った。
「和泉は我が代々の先鋒である。
もし、殉死厳禁の令に背く者が一人でもおれば、この先鋒の任を解く。」と。
のち元和元年のある日のこと。
高虎は領国の地図を広げて、家康の前にいた。
高虎は言った。
「伊勢伊賀は大坂へ出る要所にて、わが愚息大学には治められるはずもなく、
つきましては我亡き後は、他に移封して頂きたい。」
家康は地図を一瞥するとそれを横に押しやり、
「そこは誠に天から与えられた地である。他人を封じるような国ではない。
簡単なことじゃ。
いつぞやの殉死を願い出た節度を守る侍、
あの者を大学の傍らに置き、守護させればよいではないか。」
と答えたという。
「武将感状記」
0286人間七七四年
2012/11/05(月) 03:17:00.56ID:AECE9NJg戦場は矢や鉄砲が雨のように飛び交い、皆竹で盾を作り、それを環に並べて垣を作っていた。
そのうち信玄は陣を二隊に分けたいと考え、別働隊の飯富、板垣両将へ伝令を送ることにした。
そこで伝令役に米田某、三井某という二人が選ばれた。
米田は「盾の外は危険だから、内側を通って行こう」と提案したが、
三井は「殿に選ばれておきながら、矢や鉄砲を恐れてどうする。俺は外から行くぞ」
と聞かず、一人盾の外へ飛び出していった。
すぐに弾丸が降りそそぎ、三井は何発かくらいながらも、命からがらたどり着いた。
だがすっかり顔面蒼白になり、口も震えてまともにしゃべることもできない。
そんな三井の横で堂々と二将に伝令を伝えた米田は、陣を出ると笑顔で言った。
「それじゃあ、盾の外を通って帰ろうか」
三井が驚いて
「俺は行きのことで後悔してるのに、何でまた外を通らなきゃならん」
と言うと、米田は
「さっきお前と一緒に外を通らなかったのは、主命を果たせなくなるのを恐れたからだ。
しかしもう命も果たせたことだし、今さら何を恐れることもないだろう」
それを聞いて三井も頷き、二人は盾の外に出て、砲弾をかいくぐって本陣へ帰った。
そして米田は全く顔色を変えず、意気従容として信玄に首尾を伝えた。
これを見た三井は己を大いに恥じたという。
『武将感状記』
0287人間七七四年
2012/11/05(月) 03:24:52.04ID:AECE9NJg投稿かぶったスマン
司馬さんのせいか年とった家康は狡猾な悪役のイメージ強いけど
江戸になってからも結構温情深い話多いんだよ
0288人間七七四年
2012/11/05(月) 03:25:42.58ID:AECE9NJgが抜けた
ごめんもう寝ます
0289人間七七四年
2012/11/05(月) 07:54:47.53ID:mek9p20d家康との関係性によって、どう扱われるかも違うだろうし
0290人間七七四年
2012/11/05(月) 08:00:08.86ID:nvhuFaMZ0291人間七七四年
2012/11/05(月) 09:10:26.53ID:dUAoEaQp元和元年といえば高虎は60歳、
死ぬまでに15年もあるのに行く末を案じていたんだな、と。
0292人間七七四年
2012/11/05(月) 10:57:29.30ID:TMLjoXGtまさしくいい話だな
>>286
戦が続いてるのに、伝令一回終えれば死んでもいいってことはないだろう。
だいたい首尾を伝えるまでが伝令の仕事なんじゃないのか? これは米田さんの勝手な論理って気がするな。
0293人間七七四年
2012/11/05(月) 16:08:19.63ID:I1AfV08sところでせんせー、焼き味噌はおやつにはいるんですかぁー?
0294人間七七四年
2012/11/05(月) 17:16:19.93ID:GdowkEZz0295人間七七四年
2012/11/05(月) 17:49:39.74ID:CRdp7WOK鈴木正三は三河の人で、若き日には徳川家康に従い関ヶ原や大坂陣に従軍した。
正三は若い頃より人生に死があるということについて常々疑問を抱いていた。
彼はあまねく臨済や曹洞の老大家に参じて教えを受けていた。
そして元和より徳川家の威風によって世も静謐になったという時に、
正三は俄かに思い立って自ら髪を削り、刀もささずに老中の邸宅を訪れて
「九太夫は乱心してこの姿となりました。正三をそのまま法名とし、今より世を
遁れます。この由を上聴に入れられよ」と言い残し、江戸を離れて何処ともなく
出ていった。そして諸国を遍参すること十余年にして三河、のち江戸に帰って来た。
正三は常に門人に曰く「洒落仏法、ぬけがら坐禅は何の役にも立たないぞ。
眼を据えて歯を噛み締め、果眼(果たし合いの眼)になって群がる敵の中に躍りこみ、
敵の槍先に突き立つ覚悟で修行しろ」と教えた。
また正三は豪放な性格で小事に拘らなかった。病気の時には肉を食ってその身を養い、
少しも憚ることはなかったという。
――『近古禅林叢談』
0296人間七七四年
2012/11/05(月) 18:44:04.16ID:/CwFW1/+0298人間七七四年
2012/11/05(月) 18:58:12.21ID:iL59pcZo0299人間七七四年
2012/11/05(月) 18:59:23.52ID:QSo1zp0c農民は畑を南無阿弥陀仏と鍬で打ての人だからな
三河仏法
0300人間七七四年
2012/11/05(月) 19:08:10.12ID:zRJNpXrp隻腕の武士の刃は腹を切ることが出来るのか?
出来ぬ 出来ぬのだ
…いい意味で(´;ω;`)
>>286
面子があるとはいえ米田さんドSだなw
0301人間七七四年
2012/11/05(月) 19:42:45.86ID:iL59pcZo0302人間七七四年
2012/11/05(月) 20:40:25.33ID:PiXUy4480303人間七七四年
2012/11/05(月) 22:12:17.92ID:/CwFW1/+0304人間七七四年
2012/11/05(月) 22:24:23.23ID:Yl2SYoHDあと、中国の春秋戦国時代あたりで見物に集まったやつに攻撃しかけたら敵軍のほうに逃げていって、
敵軍が混乱して勝利した話があった気がする
0305人間七七四年
2012/11/05(月) 23:26:02.81ID:OUwdw2fR0306人間七七四年
2012/11/05(月) 23:59:30.04ID:TGZNGda+0307人間七七四年
2012/11/06(火) 02:10:52.46ID:NrhQ01hW修復してるうちに小田原が先に降伏しちゃった、てだけじゃおもしろくないか
0308人間七七四年
2012/11/06(火) 02:26:18.89ID:n3/tKjUe豊臣武断派が三成=戦下手のカスって認識するようになった
歴史を変える大事件に発展
0309人間七七四年
2012/11/06(火) 05:46:39.79ID:VmFqHNiw氏長の妻(三楽の娘)の指示で
攻め手が大砲をドカドカ撃ち込んだんだっけ?
0311人間七七四年
2012/11/06(火) 09:11:26.15ID:Azyn9z1G神社の前に子供たちが集まって遊んでいた。
一人の子が「ひとつ、ふたつ…」と数字を数えていたのだが、ふと
「なんで『ひとつ』から『ここのつ』まではみんな語尾に『つ』がつくのに、『とお』には『つ』がつかないのかな」
と呟いた。
子供たちは静まり返りってしまったが、その中の9歳の少年が答えて言った。
「そりゃそうさ。5の時に『いつつ』と『つ』を二つ使ったから、10の分が足りなくなっちゃったんだよ」
このやりとりを聞いていた重宗は少年に興味を持ち、翌日さっそく彼を招待し、
上下に二つ重なった餅を食べさせて、尋ねた。
「今食った餅、上と下、どっちの方がうまかった?」
少年はしばらく考え込んでいたが、突然両手をポンと打って
「今鳴ったのは、左手?右手?」
と問い返した。
重宗はいよいよ感心し、取り立てて自分の側においた。
成長した少年は重宗の一の側近になったという。
「明良洪範続」
0312人間七七四年
2012/11/06(火) 10:16:27.34ID:NbK2TydX0313人間七七四年
2012/11/06(火) 11:02:33.96ID:ebE36DLt>>309
軍記物の「堤が決壊して大被害」とか実際あったんかな?
そんな被害出れば「やっぱ水攻め無理」って
方針変更を請う口実になるしそういうやり取りでもしそうだが。
成田記や関八州古戦録の通説には疑問が残る。
0315人間七七四年
2012/11/06(火) 11:54:11.20ID:2g0szYjX0316人間七七四年
2012/11/06(火) 11:59:45.26ID:JBlHchof0317人間七七四年
2012/11/06(火) 12:13:23.15ID:NrhQ01hWしかし板倉重宗から後世の政談ものっていろいろパクってるんだな
0318人間七七四年
2012/11/06(火) 17:27:24.90ID:3lzC74sQ旗が動いているのか?それとも風が動いているのか?
的な禅問答なんだろうね
「片腕しかない人の拍手の音を聴いてこい」て公案もあるけど禅て難しく感じる
なにが言いたいのかよくわからない
0319人間七七四年
2012/11/06(火) 18:44:36.24ID:JBlHchof実際たのしいぞ
0320人間七七四年
2012/11/06(火) 18:51:54.82ID:bajq3D940321人間七七四年
2012/11/06(火) 19:14:05.93ID:VS7Xiq+J0322人間七七四年
2012/11/06(火) 21:42:57.03ID:X4XSCtLl武田勝頼親子の首級が織田信長の目にかけられた。
信長はその首を見て、
「日本に隠れなき弓取りながら、運が尽きてしまわれた故に、
このような姿になられてしまったのだな…」と言った。
――『三河物語』
0323人間七七四年
2012/11/06(火) 21:47:11.08ID:I7PVLNuqさて真実はどっちだ
0324人間七七四年
2012/11/06(火) 22:39:42.36ID:qW1WTpFy伊達政宗の真筆書状 発見される
能代市では(個人名の為 伏字)さんが、伊達政宗(一五六五〜一六三六)から初代藩主佐竹義宣に宛てたと見られる書状を発見。
県立図書館文書係の鑑定の結果本物と判明したものの、宛名が失われており文面から佐竹宛と推定された。しかし、伝承経路は不明のようだ。
本文には「…大砲の火薬の質や量、あるいは矢蔵の定め書きなどを給わばありがたい。」などとある。
1976年(昭和51年)4月1日発行 秋田県広報あきたより抜粋
秋田県広報ライブラリー 当該記事へのリンク ttp://common.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/167/167_046.html
※転載ここまで
親戚でありながら敵対していた筈の佐竹義宣宛にDQN政宗からの、見様によってはとんでもない文面の手紙である。しかも直筆!
単純に「分かんないから教えてクレクレ!」なのか「お前、どんだけ武器弾薬貯め込んでんの?ニヤニヤw」と、邪推しそうになる文
恩讐を乗り越え「かつての敵とも、腹を割って何でも話せるようになった」義宣と政宗の「俺達マジ親友!」の、仲のいい話…なのか
「…政宗め。こんな文が幕府に露見したらヤバイだろ!油断のならない奴め!」と、宛名を失わせた義宣の手筈の良い?話でした
0325財布激安/偽者
2012/11/07(水) 01:09:52.23ID:sG8DeV6bルイヴィトン偽物
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0326人間七七四年
2012/11/07(水) 12:39:36.10ID:O+mufkDX悪い話は討ち取られた位のもんかな?
信繁の悪い話無い?できが良すぎだろ
どっかの信繁と違って
0327人間七七四年
2012/11/07(水) 13:50:36.21ID:bTp14Zmb0328人間七七四年
2012/11/07(水) 16:22:24.33ID:qZT1KT+Fそれまでの瑠璃光山鶴巣寺の名を改めたもの。
本堂より左には自然石を用いた信繁の墓があると同時に、
武田上杉両家の討ち死にした者たちの弔魂碑がある。
なお境内には川中島合戦記念館があり寺宝を収蔵展示している
0330人間七七四年
2012/11/07(水) 20:31:58.92ID:VQLJNFGfなんであそこなんだろう
0331人間七七四年
2012/11/07(水) 20:51:17.81ID:FwEHAAEt何の史料も確認していないから、極めていい加減な私見ではあるが、息子の武田信豊が小諸城主だからじゃないか?
0332人間七七四年
2012/11/07(水) 21:28:01.04ID:eN+Vkod40333人間七七四年
2012/11/07(水) 23:26:14.04ID:0jZUtu4Y行った事ないけど写真で見る限り首の方がかなーりひっそりと祭られているような。
川中島で死んだしあっちの方が有名だししょうがないか。
0334人間七七四年
2012/11/08(木) 16:52:32.06ID:3IV3NXbrその甥の奈波加慶という針医師が御供して紀州にいた時に、
和歌山一番の富豪・島孫左衛門という町人が長年病気に悩んでいた。
ある人がこの度加慶が来たのを幸いとして島に彼を推挙した。
その人が療治を頼むと加慶は「心得た」と答えた。
「それは良かった。この孫左衛門という人は和歌山で一番の有得人ですから、
他の病人よりも精を出して治療してくださいね」
加慶はつくづくと聞いていたが、その人が座を立とうとした時に…
「只今御頼みの病家への見廻りは御断り申す」
「なんと!? たった今治療を承知されたではないですか!
何故手を返すようなことをなさるのです!」
「始めは病人とばかり承ったので承知いたしましたが、あなたは富家だから
精を入れて治療しろと仰った。私は今日まで病には針を立ててきましたが、
金銀に針を立てたことはありませんので御断り申す」
――『良将言行録』
0335人間七七四年
2012/11/08(木) 20:25:00.56ID:X1OGkpuB土井大炊頭利勝がある時思いつき、千畳敷の真ん中に将軍家に出て来て頂き、四方の金唐紙なども全て取り外し、
少しも隠れる場所の無いようにした所、誰であろうと、その相談の間、近づく者無く、相談の内容が漏れるようなことも
無くなったと、これは古き人たちが申していることである
(武野燭談)
0336人間七七四年
2012/11/08(木) 20:50:56.90ID:I9N32n+s0337人間七七四年
2012/11/09(金) 09:10:16.64ID:cmBvDaDs0338人間七七四年
2012/11/09(金) 11:02:11.50ID:gMeCskhA0339人間七七四年
2012/11/09(金) 11:33:56.01ID:uA14xTkd0340人間七七四年
2012/11/09(金) 17:08:56.35ID:R0jiYxA7榊原康政、平岩親吉に歳末の祝儀として密かに黄金を百枚ずつ与えた。
直政と忠勝はそのまま黄金を拝受して家康には告げなかった。
康政は「どうしたらよいでしょう」と家康に告げ、
家康は「下し賜れた物は受け取るものだ」と言った。
そして親吉は黄金を受け取らず、
「臣は関東奉公の身にて、その禄を受け衣食は常に足りている。
今主君の賜り物を貪っておいて、受け取ることなどできはしない」
と、黄金を使者に返し渡した。
このように私欲がなく正直な心の持ち主であったので、家康は親吉を
信康や義直の後見として附けたのである。
――『名将言行録』
0341人間七七四年
2012/11/09(金) 17:36:56.26ID:Qm/GW8ed最近そのあたりの武士の逸話に興味があるのでご教授願う
0342人間七七四年
2012/11/09(金) 20:42:02.56ID:YL2d4lQn丁度この時分あたりか
「太閤秀吉は伏見の城を縄張りとする時に井伊直政に相談した」と
『武功雑記』にメモの様に書かれているけど
なぜ徳川家臣で陪臣である直政に相談したんだろ
0344人間七七四年
2012/11/09(金) 21:21:35.38ID:cRRPWd/b「小身の私が将軍家よりお取り立てして頂き、この様に大身の数に入り、家臣も多く召抱えることになりました。
そこでご相談なのですが、家臣を管理する目付役・横目役などを申し付けるべき人品は、どのような人柄の者が
然るべきだと考えていらっしゃるのでしょうか?
土井殿の賢慮をお伺いしたく、こちらへ参ったのです。」
この様にまめやかに尋ねた事に、土井利勝
「それは最初に、良きことに気が付きましたね。
役についての、人柄の吟味は尤もの事ですが、その中でも目付などに適した人品について、私にまで相談されるとは、
誠に奥ゆかしいことです。
あなたや私などは、将軍家のご威光のおかげを以って、方々へ饗応に招かれます。
その膳部は爽やかにして切り目正しく、季節折々の初物も食い甲斐があるように料理されて、
この料理が完成するまでの亭主の奔走はどれほどだっただろうか、などと考えている所に、
勝手より人が出てそっと『あの膾にはハエが止まっていました!あの刺身には蚊が止まりました!」などと
言ってきては、それ自体は何の意味もないことではあっても、聞いてしまってはどうしても気分がよくありません。
総じて、欠けた所のない人というのは稀です。ならばその人に適した分野を見立てて仕事に使うべきです。
酢や煎酒に蚊が入ったことまで、取り上げて尽く申し立てるような器量のものは、目付・横目には無用の人品です。
だからといって、砒素石や斑猫(どちらも毒薬)が堂々と入っているのを見逃してしまうような、
律儀過ぎる者も目付役には適しません。
と言うか、そんな者がもし本当にいたら、、それは毒石や斑猫と同じ有毒な存在です。
であれば、その人物の危険性をいち早く察知し、注進するような侍こそ、真の目付になるべき者です。
この大炊頭が家人に目付を申し付ける時は、例えば、人間の目は横に切れているのが天より与えられた姿であるが、
この目で物陰から覗いたり、目を眇めるなどして物を見ようとすれば、まっすぐに見るのとは違って
見損じもある。であれば、ただまっすぐに見たものを実として、途中に脇目をセず、向こうばかり見るのだと思えと、
そう申し付けています。」
と答えたのだという。
(武野燭談)
土井利勝の目付選抜法、というお話。
0345人間七七四年
2012/11/09(金) 21:46:50.68ID:YL2d4lQn聚楽第行幸などでも有力大名扱いでしたっけ
それにしても直江兼続以上の面白い立ち位置だったんだな
0346人間七七四年
2012/11/09(金) 22:19:10.12ID:PZRa+Oyr館林城主にしろとアドバイスしたのもそうだが、秀吉は康政評価してたんだなー。
井伊と同等ってかなりすげー
0348人間七七四年
2012/11/09(金) 23:15:06.62ID:iN8RimByながらもとても良い夫婦だった。
0349人間七七四年
2012/11/09(金) 23:19:30.89ID:m9LGRbKG>言ってきては
俺のことか…
0350人間七七四年
2012/11/09(金) 23:29:29.88ID:FsTELhoz0351人間七七四年
2012/11/09(金) 23:51:49.04ID:khQPPpsy0352人間七七四年
2012/11/10(土) 00:12:56.97ID:77PFQ/KV律義者と呼ばれた方の評価が大分変わってくるな
0353人間七七四年
2012/11/10(土) 00:17:32.57ID:ghAmbUb8加減を知らないってことじゃないかな
弛める部分も大事だと言われると毒にも気付かないほどリラックスして、
引き締めてやれと言われたらチリひとつ落ちてたくらいで打首だと騒ぐような
0354人間七七四年
2012/11/10(土) 02:14:17.51ID:YaJkWQ2/0356人間七七四年
2012/11/10(土) 14:33:05.51ID:CVfvJ0Ol鬼神の如く世に恐れられた織田信長にはいずれの公家も媚びへつらったものだが、
この玖山公は立ちながら向かい会い「上総殿が入洛めでたし」と言って帰ったので、
信長は機嫌を悪くして「九条殿は我に礼を言わせに来られたか」と腹を立てた。
例え一令を失うとしても、公家の行跡を乱して御家の恥を残すまいという心故であろう。
「時勢に従わずに不用なことをなさる」と謗る者もいた。
または「『智者は惑わず、勇者は怖れず』ということだ」と誉める輩もいたのだとか。
――『日本史伝文選(戴恩記)』
0357人間七七四年
2012/11/10(土) 19:36:26.09ID:ghAmbUb8蜂須賀小六、荒木村重との逸話もそうだけど、
織田信長は座敷の場でもタイマン一歩手前な状況になることあるな
すごく威圧感のあるタイプだったんだろう
0358人間七七四年
2012/11/11(日) 00:52:36.28ID:U660Ng4Gその幽閉時代に母は死去、その後は乳母である船橋半左衛門の妻によって育てられた。
信義が藩主になると、国許の家臣をほとんど知らないために船橋半左衛門が重用されることとなったが、国許の家臣、特に譜代の家臣に不満が募った。
そこで、譜代の兼平信孝、乳井建定らが江戸の町屋に篭城し、船橋追放を幕府に訴えた。
これを受け、津軽信義は土井利勝、松平信綱、阿部忠秋らの尋問を受けることとなった。
まず土井利勝は、
「訴状によれば《主君のためにした》としているが平蔵殿(信義)はどのように考えるか」
対する津軽信義は、
「私が若輩のため、家臣どもはいきなり目安をもって公儀に訴え出てしまった。
藩邸より立ち退いた者には帰ってるように再三の説得をしたが、難題を申して聞き入れてくれない。
私には何が良いのか悪いのか判断がつかない。
この上はご公儀においてよろしく御裁断申し上げる。」
と、15歳ながら神妙な回答をしたため、土井利勝は
「若年ながらこの分別、私達も子を持つ者として考えさせられる。
特に平蔵殿には岳父がおらず親族も少ない。
相談相手もなく辛いことだろう。苦衷のほどはよく判る」
と、落涙した。これにつられて同席した幕閣も貰い泣きし、信義に対して「お構いなし」の裁定が下された。
余談であるがその後、津軽信義は、娘の萬を土井利勝四男・利房に嫁がせている。
尋問部分は白川亨さんの「石田三成とその子孫」に書いてあり、元の出典は『服部長門守宛、乾四郎兵衛、船橋半左衛門書状』のようです。
0359人間七七四年
2012/11/11(日) 01:02:18.51ID:Km/8uD4Zそれにしても土井利勝、松平信綱、阿部忠秋の三人の前で話すのは緊張しそうだなー
0360人間七七四年
2012/11/11(日) 01:07:25.65ID:4fW2CcqCそういや白川亨さんって、今年亡くなられたね。
武功夜話を真書として扱ったりミスはあったけど、実証的石田三成研究の
端緒をつけた人で、惜しい人を亡くしたものだ。
0361人間七七四年
2012/11/11(日) 03:43:07.88ID:BonGPYJ30362人間七七四年
2012/11/11(日) 07:49:41.61ID:AKuoj+Ih0363人間七七四年
2012/11/11(日) 09:17:46.43ID:WHBQaoke裁定に反発した藩士たちが両派問わず出て行って、城の警備にも事欠く有様になったそうな。
・・・あれ、悪い話?
0364人間七七四年
2012/11/11(日) 10:46:09.62ID:EbGq1rt8本屋で軽く立ち読みして面白かったので購入しました
遅くなりましたが勧めてくれたこと感謝しています
0365人間七七四年
2012/11/11(日) 17:12:12.93ID:l3BBkEkC当時はどうだったのかな?
0367人間七七四年
2012/11/11(日) 18:20:14.93ID:qfQB4u930368人間七七四年
2012/11/11(日) 18:27:57.00ID:NlOmgjI20369人間七七四年
2012/11/11(日) 18:32:01.13ID:d+NAPoUnだったっけ?
0370人間七七四年
2012/11/11(日) 18:50:02.47ID:Zn8sZOGz思わずにはいられない名字ってあるよね、問注所さんとか
まあ実際に自己顕示が目的なんだけどさ
0371人間七七四年
2012/11/11(日) 20:37:21.93ID:7MWZQl4Y0372人間七七四年
2012/11/11(日) 22:06:41.38ID:ljQD2uKsこの船は錦の織物、様々な焼き物、沈香、麝香、珊瑚、琥珀の玉など、あらゆる商品を持ち来ていた。
その頃関東は富貴であったので、それら商品は尽く諸人買取り、唐船は売買の利を得て帰国した。
その中に唐人が多数この関東に留まり、目出度き所にこそ住むべきだと、帰国せずに、即ち小田原に居住した。
そこで町家を給わり商人となって、今もその子孫が多数、小田原に有るのだという。
(關侍傳記)
小田原に住み着いた唐人たち、というお話
0374人間七七四年
2012/11/11(日) 22:26:20.72ID:7MWZQl4Y0375人間七七四年
2012/11/12(月) 12:54:38.83ID:UPBETAUxけっこう定期的な入港があったのかも
0376人間七七四年
2012/11/12(月) 15:21:35.21ID:Jl8rqVN20377人間七七四年
2012/11/12(月) 17:48:02.81ID:prlFx6pi謙信は僧に向かって「甲斐の臣に向井与左衛門という者はいるか」と尋ねた。
「はい。おります」
「その人に刀傷はないか」
「はい。面に刀傷があります」
「おお、そうか! 実はな、むかし川中島の戦いで彼は姓名を名乗って
槍で私の背を突いた。その時、私は後ろを見て彼の面に一撃を加えたのだよ。
すでに死んだものと思っていたが…そうか、いまも無事であったか」
謙信はその時に着ていたと思しき槍の痕がある緑色の陣羽織を出して一つの書簡を
添え僧を介して与左衛門に送らせた。世にこれを倒勲状(さかさ感状)という。
大槻磐渓曰く、
「私が聞いたところによると、謙信は甚だ身の丈が大きいというわけでもなく
足を引きずって歩いていたというが、戦いともなれば黒い陣羽織を着し鉄製の
小陣笠を戴き、三尺の青竹杖をひっさげて士卒を指揮したという。
それを踏まえてこの逸話を見ると謙信の心の広きことを想像できる。かの勲状を
自分と敵対する者に与えてこれを賞したのは謙信の度量が広いからだ。そのような人が
どうして逆禿(悪僧、信玄)と親交を結ぶような下策に出るだろうか」
――『近古史談』
0378人間七七四年
2012/11/12(月) 18:06:34.07ID:twErZys30379人間七七四年
2012/11/12(月) 18:07:11.08ID:twErZys30380人間七七四年
2012/11/12(月) 18:53:43.32ID:HrpWlGHh0381人間七七四年
2012/11/12(月) 19:46:03.26ID:/t0cDuhH0382人間七七四年
2012/11/12(月) 20:29:42.40ID:Pw8IDJf40383人間七七四年
2012/11/12(月) 20:40:05.83ID:Kz1pjgFxうらやましい(´・ω・`)
0384人間七七四年
2012/11/12(月) 21:21:54.52ID:065CW0wl北条氏綱の時代、相州小田原では政道に私無く、民を慰撫したので、近国・他国の民も
北条氏の徳に懐いて家を移し、津々浦々の町人・職人、西国・北國より群れ来たった。
それにより小田原の街は、昔の鎌倉もどうしてこれほどだっただろうか、と思うほどの
繁栄を示した。
東は一織より板橋に至るまで、その間一里ほどに、棚を設置し数多の売買を行い、
山海の珍物・琴・碁・書・画の細工に至るまで尽く集まっていた。
異国の唐物でも未だ目にしたこともなく、まして聞いたこともないような器物を数知れないほど
積み置いていた、
小田原における交易売買の利潤は、京の四条、五条の辻にも勝っており、民の収入も豊かで、
小田原を支点にした東西交易は大変繁盛していた。
このころ北条氏は小泉という人物を町奉行に置いた。この人は賞罰厳重にして人の堪否を知り、理非分明にして
物の奸直を糺したので、人の嘆きも無かった。
ここに京都より外郎という町人が来て、様々な薬を売る中にも、透頂香という霊薬を売っていた。
これは長生不死の薬として、北条氏綱にも進上される事となり、小泉はこの外郎を連れて登城した。
外郎は氏綱の前でかの薬の効能を上げ、第一には口中の臭いを除き、眠気を消し去り、
命を延ばすのだと言上した。
外郎の言うところには
『この霊薬は唐にて仙人の秘薬でしたが、我々の先祖がこれを伝え、鎌倉の建長寺の開山・大覚禅師
来朝の時、共をして本朝に渡ってより、この地に居住しています。』
とのこと。
氏綱は
「実に珍しい貴物である。おぬしはここに居住せよ」
と申し付け、明神の前に町家を給わり、小田原に住むことになった。
今の小田原の外郎というのは、これである。
(關侍傳記)
0385人間七七四年
2012/11/12(月) 21:50:32.00ID:GRmcnagB今の物があって当然って感じの東京とは違う活気がありそう
0386人間七七四年
2012/11/12(月) 23:10:12.21ID:1PEFadOEレスが拾われるとはw
北条の内政チート話はよく聞くなぁ
滅ぼされなかった歴史が見たいもんだ
0387人間七七四年
2012/11/12(月) 23:52:28.06ID:AH7QiWE50389人間七七四年
2012/11/13(火) 02:10:29.99ID:qkkxzYjz大高城を攻めて引き取るという時に諸人は「城中にある米をこのままにしては
たちまち敵のものとなってしまう。米を取り出して敵に渡さないようにしよう」
と皆々相談したが、そう簡単なことではなかった。
しかしこの時、弥八郎が「米をこのまま置いておいて一旦敵のものになったとしても、
明日には敵を追い払ってこちらのものにすればよいではないか。少しも気遣う
ことはない」と言うので、そのままにしたところ案の如く翌日には敵を追い払い
米もすべて味方のものとなった。
その見地は若年の頃より少しも違わなかったのである。
――『良将言行録』
0390人間七七四年
2012/11/13(火) 03:57:44.86ID:p8VSHbSC知らなかった
0391人間七七四年
2012/11/13(火) 18:05:18.32ID:m/OfymvL自己破産申請の準備に入ったことが12日、分かった。信用調査会社の帝国データバンク福岡支店によると、
負債総額は約2億5千万円。本店や福岡市内の百貨店で営業している計7店の閉鎖時期などについては不明。
同社は1673年(延宝元年)創業。福岡市内の和菓子製造会社としては最も古く、
江戸時代に黒田藩に献上したとされる鶏卵素麺を主力商品に、ようかんや最中などを販売していた。
1996年に株式会社に組織変更。99年4月期には約5億2500万円の売上高があったが、
消費者の和菓子離れなどの影響で、2011年4月期は約3億2千万円に落ち込んでいた。
現在は福岡市・天神の岩田屋本店や福岡三越、博多大丸などに直営店を構えている。
「鶏卵素麺」はほかのメーカーでも同名の商品がある。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/333828
0392人間七七四年
2012/11/13(火) 18:40:46.46ID:zTJiC/oFただ逸話というほどの分量ではないので箇条書きでまとめるのはご容赦
・三浦三崎はガチの名勝
・名勝ってだけじゃなくて交通の要衝だし、水底は深いし、幾千艘つないでも余裕の良港すぎワロタw
・日本だけじゃなくて唐国にも知れ渡ってるマジスゲーwww
・氏政が三官っていう唐人に虎朱印判状渡して、唐国の黒船が来航したよ
・そいつら三崎の良港ぶりにめっちゃ驚いててワロタwww
・安藤豊前守が通訳交えて唐人と売買したよvv
八王子から外来の器とかそこそこまとまって見つかってるらしいし、
ある程度交易はあったっぽいね
0393人間七七四年
2012/11/13(火) 19:24:48.74ID:12gephJg鶏卵素麺はあまり旨くはなかったが古いメーカー潰れるのは残念
鶏卵素麺は南蛮の菓子だが、タイにも伝来してるみたい
日タイ交流協会のイベントで紹介されてた
>>392
三崎地図でみたら島と半島で囲まれてんだな
屋島とかあと鎌倉は人口島で同じような地形作ってるね
中世から近世の港の特徴なのかもな
0394人間七七四年
2012/11/13(火) 19:29:47.40ID:1hq8lkjn山がそのまま海底につながってるような場所で沖を半島や島で囲まれてる所が天然の良港になるんだろうな
0395人間七七四年
2012/11/13(火) 19:48:13.33ID:B2/FBL9K「家臣として、主君に向かって、志を立てて諫言を行うものは、大剛・大忠の者である。
平凡な人間には、思い切ったことは言えぬものだ。
何故なら、主君というのは恐ろしい者であり、それに向かって思い切って諫言を言おうとするのは、
大敵の中に駆け入るよりも大変な事だからだ。
大敵の中に駆け入った場合、高名して大利を得ることもあるし、勿論討ち死にするのも勇士の常とする
所であるから、何れにしても多くの者達がこれを励むものである。
ところが、主人の心と違うことを言って、主人に憎まれてしまっては、今自分が得ている身上を失う
どころか、その妻子まで含めて逃れがたい困難な事態になる。
そう言う事を知りながら、自分自身は勿論、妻子・兄弟の事をも顧みず、思い切って諫言を言ってくる。
そういう人間は大剛の忠臣である。必ず疎かにしてはならない。」
(武野燭談)
徳川家康の、諫言についての考えである。
0396人間七七四年
2012/11/13(火) 23:00:25.70ID:6Ks1QsGY0397人間七七四年
2012/11/14(水) 00:12:02.48ID:mnbwLNRd課長係長の諫言をまともに聞く度量のある社長は少ないと思う
0398人間七七四年
2012/11/14(水) 00:40:11.49ID:lc/a7xsd0400人間七七四年
2012/11/14(水) 05:56:16.83ID:0zIQU8jV家系図の一番最初が霧隠才蔵になってる。
0401人間七七四年
2012/11/14(水) 06:41:40.36ID:DQ0CVsTB家康>>>>信長>>>>秀吉(晩年)
0402人間七七四年
2012/11/14(水) 13:42:17.09ID:ngiMIftZ部長になる頃には下にも家庭にも守るものいるからな〜
やっぱ諫言も才能だから、
ガキの頃から間違ってると思う事は怖い先輩にでも言うタイプじゃないと、
大人や役職ついてからでもなかなか言えない
中学の時の同級生にそのタイプいたけど、
そういう奴は大人になってもしっかりしてる
0403人間七七四年
2012/11/14(水) 13:54:04.82ID:ngiMIftZ才能と度胸のない者が諫言討死する方法はたしかに書いてあるな
常朝さんの覚悟を決められるのも才能な気がしないでもないが(笑)
0404人間七七四年
2012/11/14(水) 14:03:11.16ID:364uS6zh彼は、(^p^)あうあうあーの家重より文武両道の宗武を
次期将軍にした方が良いという誰もが当たり前に思う事を
暴れん坊に諫言したのだが、その結果、老中を解任され左遷させられた...
0405人間七七四年
2012/11/14(水) 17:39:52.21ID:zHTQwAwI信長は清十郎の勇を愛し自ら無双の字を背旗に書いて清十郎に与えた。
人はこれに因んで道化を『無双道化』と呼んだ。
ところで信長が招いた美濃の士に平野某という人がいたのだが道化は
彼と親しく交わった。ある時、道化は気軽に「あなたは進めば先頭に立ち、
退けばしんがりを務めるが、どうしてあのようにできるのだ」と尋ねた。
「死を決するのみ。…ではあるが斎藤家の諸将は皆国の為に死んでしまったから
それがしは独り余命を保ってここにいる。結局は勇気が足りないのだ。今あなたの
問を受けて、恥ずかしさのあまり背中にたくさんの汗をかいてしまったよ」
道化は退くと「勇を誇らない平野殿には、俺は断じて及ばないな」と嘆じた。
――『近古史談』
0406人間七七四年
2012/11/14(水) 17:57:22.24ID:QpEfWziEそれに家康以来の長子相続の祖法を否定したんだから処分は無理ないこと
0407人間七七四年
2012/11/14(水) 18:19:54.42ID:oP3uf1gX秀康「お、おう…」
0408人間七七四年
2012/11/14(水) 18:52:45.16ID:2RSu/zLq0411人間七七四年
2012/11/14(水) 20:05:09.76ID:2RSu/zLq0412人間七七四年
2012/11/15(木) 00:54:27.53ID:g6F5c+if小唄の名人の隆達を能舞台にあげて、小鼓を伴奏に唄わせることとなった。
見物者たちが小唄の隆達節ではその場にそぐわないと思ってると、案に相違して
隆達の歌唱は筆舌に尽くしがたいほど素晴らしく、太閤殿もことのほか賞賛なさったが、
太閤「隆達の小唄はあっぱれではあるが、鼓が合っていない。さてどうしたものか」
と細川藤孝に問うた。
藤孝「それならば隆達の歌に合わせて藤孝が鼓をうちましょう」
と細川藤孝が代わりに隆達の歌に合わせて鼓をうつと、その拍子は絶妙な取り合わせであり
太閤殿はじめその場に居合わせたものすべてが感嘆しきりであった。
「焼残反故」より
0413人間七七四年
2012/11/15(木) 15:50:35.83ID:WYmcdPDJ天正12年、高橋紹運は筑後猫尾城攻略中に筑紫広門に宝満城を攻撃されるが和議を結んだ。
その戦いで某(うちの先祖)は足に重症を負い
満足な戦働きが出来ぬからと息子に家督を譲って隠居した。
その際、紹運から相続の許可とねぎらいの感謝の言葉
そしてどこで聞きつけたのか、目を患っていた妻への薬もあわせて届けられた。
某にはとても買うことができない高価な薬だったという。
天正14年、島津氏が北進し岩屋城に侵攻が目前の中
息子は宝満城へ詰めることとなったが
某はどうしても紹運の恩忘れがたく、頭を剃って入道姿になると
妻へ息子への遺言のようなものを残し岩屋城に籠ることを願った。
(このことから岩屋城の士気は高かったのだろうが、まわりからみれば絶望的な状況だったのであろう)
そしてご存知の通り、岩屋城は壮絶な玉砕を遂げた。
某の遺骸は大手門のそばで見つかったそうだが
その時身につけていた甲冑と紹運からの書状は我が家の家宝となっている。
某から息子への遺言を要約すればこのように。
「宝満城で忠義を尽くせ。家を頼む。母や兄弟を大切にしろ。
隠居までに殿(紹運)への忠義は尽くしてきたが
まだいただいた薬の恩をまったく返しておらぬ故にこうのような仕儀と相成った」
立花城からの援軍の面々もしかり、紹運のまわりにはこういう人間が多かったのだろう
0414人間七七四年
2012/11/15(木) 17:40:57.53ID:lXvY0Pro0415人間七七四年
2012/11/15(木) 18:20:09.42ID:/7LaIWeh全然スレ違いでなく、むしろ貴重な話だと思う
家に伝わる話なんかそうそう聞けるものでもないし
0416人間七七四年
2012/11/15(木) 18:25:45.41ID:PMJdOYad0417人間七七四年
2012/11/15(木) 18:33:25.41ID:CTJ+rpLg悪いスレで出てきた烏丸の妻の鶴姫?
信長の娘の鶴姫?
NGMSに殺された鶴姫?
吉宗の義理の姉の鶴姫?
つる姫じゃー?
0419人間七七四年
2012/11/15(木) 21:01:56.92ID:yNsJyBYi暫く隠すべきだ、との異見があった。しかしこれに酒井忠勝が猛反対し、忠勝の意見が通り
死去したその夜のうちに、全ての大小名に秀忠の死去を知らせ、早々に登城し家光への
ご機嫌伺いをするよう触れを渡したため、翌日、在江戸の諸侯・旗本は全て出仕し、それぞれ
着座の席を守り、残らず登城した。
彼らの前で、家光が語りかけた
「大相国(秀忠)はご他界された。この家光は現在、将軍職を賜っているが、
この機会に天下の兵権を望むものが居るのなら、かまわぬ、受け取りに来い。
渡し遣わしてやろう。
但し!弓矢の法に任せた上で、引き渡す!」
秀忠の死に乗じて天下に野望を持つものがいるなら構わない、自分が相手になってやる。
そんな家光の宣言である。
この突然の言葉に、諸侯はどう答えていいか解らず誰も返答しないまま戸惑っていた。
と、ここに一人進み出た隻眼の老人。
そう、伊達政宗である。
政宗、家光に向かって申し上げる
「この御当家の御恩を以って、我らは皆、心やすく過ごしております。そんな所に、
この時期を以って天下の兵権を狙う輩がいるのであれば、そんなもの、上様が出られるまでもない 」
諸侯の方を振り向き、言い放った
「この政宗に仰せ付けられよ。たちまちに踏み潰してご覧に入れよう。」
政宗の言葉に、他の諸侯も皆異口同音に家光の言葉をお請けし、そうして退出したという。
(武野燭談)
さすが政宗は美味しいところ持っていきますね。やっぱり千両役者ですw
0420人間七七四年
2012/11/15(木) 21:04:46.10ID:tmCu0bXZ「やるバカが居るとするならあいつしかいないだろ・・・」
と思われてたから効果的だったのでは
0421人間七七四年
2012/11/15(木) 21:19:26.57ID:/RI90IqI似ているもんだねぇ
0424人間七七四年
2012/11/15(木) 22:10:28.03ID:SBfJx6bPその故事から引用したんじゃないかな?
0425人間七七四年
2012/11/15(木) 22:26:34.63ID:5et3Xusxつうか、ちょっと前は政宗が一番あぶないと思われてたんじゃないの
自分が家光側に立つことによって、そういう疑念をうまく払拭したのかな
0426人間七七四年
2012/11/15(木) 23:14:31.71ID:8nysyoV4家康秀忠もある程度警戒してたと思う
0427人間七七四年
2012/11/16(金) 00:16:00.99ID:agL61KHg家宝うpうpw
は冗談にせよ、面白い話でした
>>417
常山城の鶴姫きぼー
・・・先日常山城に車で登ろうとしたら、道崩落してたでござるの巻
0428人間七七四年
2012/11/16(金) 00:30:39.18ID:rQ8ZDRBb戦前、「玉砕の美学」みたいに一部のキチ軍部に利用されたことを祖父は苦々しく思っており
「何も成せない我々子孫が紹運公や岩屋城のことを他人に軽々しく自慢するものではない」という考えで
父親もほぼ同じ考えです。私自身は自慢とかではなく、
今は損得勘定でものを考える時代かもしれないが、昔はこういう人もいたのだと。
ただし祖父や父親は当然2ちゃんなど見ないので禁を犯して書き込みました。
先述した某はもともと高橋家に仕えていたわけではなく斎藤鎮実の家臣だったそうです。
紹運に姫が輿入れした際に付き随った一人だったとか。(疱瘡を罹って醜くなっても・・・の有名な話ですね)
鎮実は心からこの縁談に感謝して、高橋家に忠節を尽くしてくれとお供の者に何度も言ったとか。
この鎮実は先年、耳川の戦いで戦死していますから
某が岩屋城に籠った理由のひとつに紹運への忠節はもちろんのこと
鎮実の仇を幾分かでも返したかったというのがあるのかもしれません。
このような経歴なので道雪の話も伝わっています。
今風に言えば非常にクセの強かった御方らしく、たまにまわりがドン引きするような言動もあったとか。
在陣中(高橋鑑種討伐の時か?)、寄せ手の吉岡氏と斎藤鎮実の家臣同士のいざこざがあって
どちらも相手が悪いとなかなか引かないでいると、道雪から使者が到着
「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」
このようなニュアンスのことを伝えられてかなり鎮実は困ったそうです。
おそらく吉岡にも伝令がw
0429人間七七四年
2012/11/16(金) 00:31:09.59ID:rQ8ZDRBb夫婦仲はとてもよく、たまに近くの寺へともに参詣していたそうです。
寡黙な御方だったそうですが、気配りというか家臣や領民の困り事はすぐに解決させていたとか。
岩屋城に籠る際も「我らも!」という多くの人を宝満城へ行かせたらしいです。
もう先の運命はわかっていたのでしょうね。
激しく攻めたてられる岩屋城を向かいの宝満城に詰めた方々はどのような気持ちで見ていたでしょう
多くの身内がいたはずですが、それを想像すると我が事のように胸が痛いです。
先述した甲冑と紹運からの書状のほかに伝わっているものがもうひとつ。
僧形の武将を中心に下に二人の武将が描かれている肖像画があります。
賛もあり快心筆とあります。確認する術がありませんが
降伏勧告の使者として遣わされた地元の荘厳寺・快心和尚の可能性もあるかもしれません。
僧形の武将は紹運で、あとの二人は左側は同じく僧形の某
右側は生前に特に親交が篤かった伊藤総右衛門と伝わっております。
もうネタ切れですのでこのことについて書き込むこともないでしょうが
長文&スレ汚しすみませんでした。
0430人間七七四年
2012/11/16(金) 02:00:30.63ID:t6dSQXQO乙です
こういう家伝の話は滅多に聞く事がないから凄く得した気分だわ
やっぱり道雪公は流石だなw
大友家には一癖も二癖もある人がいっぱいいたんだな
0431人間七七四年
2012/11/16(金) 02:13:05.59ID:rlci3xn3ありがとう。非常に面白かったし、道雪という人間を考える上でも参考になった。
道雪は異教徒の癖にフロイスにほめられてたり、興味深い人物だよね。
時に一つ質問なんだけれども、家に伝わっている紹運からの書状って、どこかで活字化されてたりする?
詳しく聞くと身バレになっちゃうだろうから、なってるかどうかだけ教えて欲しい。
大友氏の史料は、滅んだワリに残っているとはいっても少ないからね。
まだ公開されていないのであったら、是非大友研究に寄与して欲しいと思うわけですよ。
0432人間七七四年
2012/11/16(金) 02:54:06.05ID:qvE7DD8g>>428
面白い話ありがとう。
家伝の話なんて聞いたの初めてかもしれんw
しかし、この道雪伝とされるこのセリフ、
>「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
>立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」
いかにも道雪が言いそうで笑ったw
0433人間七七四年
2012/11/16(金) 03:45:38.35ID:fFArB14/眠れなくなった俺にとっては体にちょっと悪い話
0434人間七七四年
2012/11/16(金) 12:29:37.87ID:sjKFlz0o0435人間七七四年
2012/11/16(金) 12:47:17.05ID:pZ5KUHo50436人間七七四年
2012/11/16(金) 15:08:40.76ID:tI6bsvrv今回の人の話は本当に伝わってる事を書き込みしてくれてるが、
便乗して適当書く人が出てくるのは勘弁してほしいよな
0437人間七七四年
2012/11/16(金) 15:25:20.18ID:pZ5KUHo50438人間七七四年
2012/11/16(金) 15:40:37.59ID:tI6bsvrvしかし武士の道では、他人より先を行く気持ちが必要とされる。
たとえば弓は、左右の手を同じ高さに定めるのが望ましい型だが、
とかく右のほうが高くなりがちなので、
弓の師範は、右を低めに意識させることにより、
正しい型へと導くことがある。
実戦も、名のある武士を追い越そうと心掛け、
どうにかして強敵を討ち取りたいと昼夜考えつづけていたならば、
心も自然と勇猛になり、疲れることもなく、
武勇を発揮することができるという。
これは私が昔聞いた老武者の話である。
実戦の時ばかりでなく、平素にもこうありたいものだ 【葉隠】
0439人間七七四年
2012/11/16(金) 16:33:39.54ID:HGbeldF2これが宗滴のじじいとか真田パパンとかお館様とかだと真っ黒になるんだろうな
0440人間七七四年
2012/11/16(金) 16:59:23.10ID:lfgeQGMY0441人間七七四年
2012/11/16(金) 17:03:36.78ID:/V+bX9R6だがちょっと待って欲しい
真っ黒と言えど、発揮できるのが武勇ではなく、知勇に変わるだけでは無いだろうか
0442人間七七四年
2012/11/16(金) 17:10:14.28ID:tI6bsvrv誰が相手でも逃げるようになるから注意しろよ!の教訓だと思ってる
人間は知らないうちに楽なほうに理屈つけて自己正当化しやすいからさ
それに葉隠は集団や組織単位でのスローガンじゃなくて、
山本常朝の個人的心構えだし
紹運一門の子孫さんが言うように、
武家時代の唯心論的なものを近代軍隊で国外戦に適用したり、
一億総玉砕の国是なんかに流用するのはリアルキチガイだと思うよ
最近葉隠投下するとなぜか風当たり強いから、
一応、オレの考え書いとく(笑)
0443人間七七四年
2012/11/16(金) 20:04:42.65ID:Obf7p31t0444人間七七四年
2012/11/16(金) 20:14:09.21ID:lfgeQGMY0445人間七七四年
2012/11/16(金) 22:55:55.23ID:rCjdr2xShttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1353070132/
【ソウル聯合ニュース】韓国農林水産食品部が参鶏湯(サムゲタン、鶏のスープ料理)の販路多様化に向けて活発な動きを見せている。(2012年7月24日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120724-00000043-yonh-kr
アメブロの記事数 有名人、かつキーワード 「サムゲタン」
http://search.ameba.jp/search.html?q=%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%B2%E3%82%BF%E3%83%B3&row=100&profileRow=&target=blog&aid=&author=talent&start=0
2009年 1件 2010年 0件 2011年 2件 2012年 122件〜 ←7月から急増
0446人間七七四年
2012/11/17(土) 07:35:06.33ID:TrRLS7Sn下から『この者の儀は斯くの如く候』と言って、その善悪について言上する時に
「その者については、このように聞いている。」
と、良いことについても悪いことについても、老臣よりなお委細にそれについてご存知の事を仰っていた。
例えばこのようなことがあった。
山中源左衛門といって、旗本第一の暴れ者があった。
よって老臣たちよりこの者の処分について言上があった。家光はこれを聞くと
「その者については聞いたことがある。良き男だそうだが、しかし向こう歯が欠けて銀にて入れ歯をしていることを、
かつて私に言った者があった。その通りか?」
老臣たちこの言葉に
「源左衛門の男ぶりについては、その通りでございます。入れ歯のことは細かくは存じません。」
そう申し上げた。
そして家光
「その男の行状の悪さについては8年ほど前に聞いたが、その時は、若気の事なら段々にやり直せば良いと重い、
その後お前たちの報告を待っていたのだ。」
と仰せになり、行状あらたまざるに付き、山中源左衛門は切腹を仰せ付けられた。
後で老中が尋ねさせた所、山中源左衛門には確かに銀の入れ歯があったそうである。
またある時、久世大和守広之にふと、お尋ねがあった。
「大和は今朝、大名共より進物を得たな?」
大和守謹んで
「はっ!上意の通りにて御座候」
すると家光重ねて
「誰が何を贈ったのか?」
このお尋ねに久世大和守、誰から何を受け取ったのか申し上げた所
「まだあるはずだ」
と仰った。
そこで大和守は懐中から書付を取り出し
「何某より何、誰よりは何々を贈り候」
と申し上げると
「それで合っている。」
と言われた。
これに久世大和守は、『恐し恐し』と、広之一代の戒めにしたそうである。
(武野燭談)
0447人間七七四年
2012/11/17(土) 09:57:37.57ID:hq0o6bKe0448人間七七四年
2012/11/17(土) 10:14:18.58ID:sqWsScV10449人間七七四年
2012/11/17(土) 12:07:50.23ID:M/PDtlNL0450人間七七四年
2012/11/17(土) 14:40:57.47ID:Wze4zVIT妙手に至らぬものはない。その手習いの反古を見ると一つの字を数限りもなく
写している。
このような小さなことにも意を深く用いたから筆道は高く凡境を抜けた。
その他にも刀剣の鑑定も行ったし、茶事は小堀遠州に学ぶなど文武を兼ねた。
人となりは一時の傑物といえる。
むかし北鷹峯は丹波に続く山をめぐり人家は少なく樹木が深く生い茂った。
だから盗賊が常にこの辺りに隠れて旅人を悩まし、京城などへも入っていたので
関東より厳命があって、光悦がこの地を賜り住み始めた。それより盗賊たちは
皆逃れ去ってしまったのだから、その武勇の程が窺える。
光悦がこのような人になったのも母の妙秀という尼の教育によるものだったそうだ。
――『仮名世説』
0453人間七七四年
2012/11/17(土) 23:51:51.99ID:blCU6IGI0454人間七七四年
2012/11/18(日) 10:18:06.68ID:5mA3daL2家光を貶すつもりはないけど
もしかして家光はサヴァン症候群だった可能性があるんじゃないか?
結構変わった人だったみたいだし
0455人間七七四年
2012/11/18(日) 15:06:44.40ID:7x5nS06Kそれは諜報で集めた情報をどう使うかによるな
同じ情報でもどういう事に使うかはその人の性格、思考、立場によって変わる
0457人間七七四年
2012/11/18(日) 19:40:15.68ID:FJYTT2Tx「君の事は良い事も悪い事も全て知ってるよ(ニコッ」
とか言われたら恐怖しか感じないわ…
0458人間七七四年
2012/11/18(日) 19:56:07.35ID:LSDQzCQmそれを見ていた忠勝は、二人にこのように声をかけた
「私が若い頃は小身であったために、槍の働きこそ第一だと心がけた。
しかし今は、御厚恩を以って大身となった以上、軍勢を指揮する采配の取り様や備立てなど、
全て大将が知らなくてはいけない分野こそ、第一に学ぶべきだ。
だからといって、槍を学ぶな、と言っているのではない。
時節相応に、主とすべき分野を、専らに励むべき、ということなのだ。」
(武野燭談)
本多忠勝からの、息子への訓戒である。
0459人間七七四年
2012/11/18(日) 20:12:58.00ID:M4aIiWhx0460人間七七四年
2012/11/18(日) 20:53:32.97ID:RAK6Tl5l宇喜多直家と殉死の話はまとめスレにもあったけどこのパターンは無かったので
宇喜多直家が危篤状態に陥った時、左右に居並ぶ家臣達に
「わしが死んだら、誰が殉死してくれるだろうか」
と言った。家臣達は内心慌てたがただ口を閉ざしたままであった。しかし、ある家臣が一人直家の近くに膝を進め
「殿、よくお聞きください。ここに居る家臣は皆賢臣、忠臣です。将来世継ぎの秀家様を支えていく者達です。
そのような家臣をあの世につれていって無駄にして良いものでしょうか。どうせあの世に連れていくならば坊主を連れていくべきです。」
と言った。直家もそれ以降殉死を口に出さなかったそうな。
「閑際筆記」
確かに次世代の事考えると殉死はアレだからいい話っぽいんだが、ただこの家臣が花房某って記録されてるんだよなぁ
花房氏は結構宇喜多騒動で出て行っちゃってるから場合によっては悪い話かもしれない
0462人間七七四年
2012/11/18(日) 22:32:26.52ID:Yy+lfbdE0463人間七七四年
2012/11/18(日) 22:43:10.30ID:TEbo4fL0清正は築城名人だったりするから元々統治の才があったのかもしれないけど
0464人間七七四年
2012/11/18(日) 22:45:07.32ID:uukB3FHGそれを上手く内政に転化すればいい
トップが暴走しなければ組織が支えてくれるので、たいていはそこまで酷いことにはならんよ
問題は駆け引きとか組織を上手く行きぬく処世術的な意味での、政治力だな
市松さんは政治力無いから、統治能力はあっても失脚しちゃったわけだし
0465人間七七四年
2012/11/18(日) 23:20:57.48ID:V8QOjqdsそれなりの官僚機構があれば酷い事にはならない気がする
0466人間七七四年
2012/11/18(日) 23:25:33.47ID:I0cJ4jNX永正18年(1518年)、那須家臣大田原資清は大関宗増らの讒言によって失脚し所領を追われた。
そんな資清を救っていたのが故あって僧籍に入り塩谷家の所領にある長興寺の住職となっていた実兄の麟道和尚で
那須家の力の及ばない所で施しを与え、資清は再起への力を蓄えていた。
そして天文11年(1542年)、実に24年の時を経て大田原資清は大関宗増を降伏させて長男を大関家に送り込み復権を果たす。
復権した資清は居城を従来の水口城から龍体山に移すことを計画し、これと同時に追放時のゴタゴタで今まで行うことのできなかった
両親の菩提を弔うために新たに七堂伽藍を建立した。
資清はこの寺に世話になった兄の麟道和尚を開山第一世として請うて招き、寺の名前を兄弟の父の法号「明庵道光」の光の字と、
母の「真芳妙観」の真とをとって「光真寺」と命名して、300石という破格の寺領を与えて大田原家永代の菩提寺とした。
0467人間七七四年
2012/11/18(日) 23:53:19.47ID:j9G1vpw4Q
家康が征夷大将軍になって真っ先に発令したという「百姓斬り捨て禁止
令」について詳しく知りたい。
A
1603(慶長8)年3月27日 幕府、郷村七か條を出す。この七条目に、「
百姓むざと殺し候事、御停止たり」とあった。おそらくこの条文のことと
思われる。
「新国史大年表第5巻T 江戸時代前期」国史刊行会 29〜30頁より。出
典は「徳川禁令考」。
回答プロセス
家康が征夷大将軍になったのは1603(慶長8)年2月。家康関連の資料をあた
るが、それらしい回答が得られなかったため、「新国史大年表」で、慶弔8年
2月以降の出来事を確認したところ、郷村掟七か條があった。
//crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000109854
新将軍様の民を思ういい話ともいえるが、逆に言えば百姓殺しが横行してい
たって悪い話?既出ネタならご容赦ご容赦。
0468人間七七四年
2012/11/19(月) 00:18:26.18ID:xVwgnoRT0469人間七七四年
2012/11/19(月) 00:28:58.98ID:FXD/ktxV0472人間七七四年
2012/11/19(月) 12:30:12.04ID:h3wlSL+V本多忠勝が彫刻刀ミスって生まれて初めて指に傷をおって
「そろそろ俺も死ぬのか」と言った話の方でないかい?
0473人間七七四年
2012/11/19(月) 14:23:17.35ID:wY2zrM6X0474人間七七四年
2012/11/19(月) 16:08:26.70ID:dwhwgyYa殿様からコレ名乗っていいよと許されたけどこの官名じゃ嫌だとか無かったのか
0475人間七七四年
2012/11/19(月) 16:40:11.96ID:lz20Gs++0476人間七七四年
2012/11/19(月) 18:03:33.22ID:VEoGKfyLカヲルの首に取り付けられたDSSチョーカーが発動し、カヲルは首に数発の弾丸を打ち込まれ死亡する。
覚醒状態を止めた第13号機は地上へ落下するが、フォースインパクトの進行は止まらず、マリが8号機でシンジの乗るエントリープラグを強制射出させたことでようやく終息した。
地上に落ちたエントリープラグの中で蹲っていたシンジをアスカが助け出し、そこにアヤナミレイ(仮称)も現れる。アスカは放心して反応しないシンジを連れて歩き出し、そしてレイも2人についていく。
(エンディングへ
0479人間七七四年
2012/11/20(火) 00:36:13.38ID:V9cxuDJi勝茂公の時代になり石田慶春に家督を譲り隠居となった。
多久美作殿と仲が良かったという。
美作殿は吉之助の人物を高く評価していたので、
隠居となった吉之助にひそかに国のことを相談していた。
美作殿は吉之助の隠居の身をもったいないと思い、
どうにか大禄で召し抱えてもらえるようにと考えていた。
吉之助はそんな美作殿の心のうちを見抜いたので、
わざと馬鹿を演じ、強欲者のように振る舞い、
自家製の目薬を作り商売を始め、
その金をもとに質屋金貸業をするようになった。
普段の態度も猛犬のそばを歩くときは裾からげして、
「人間の傷は治るが、着物の傷は治らない」
などと真面目な顔で放言していた。
けれど美作殿も吉之助の作り馬鹿を見抜いて、
ますます奉公させたいと思うようになった。
吉之助はその美作殿の気持ちを知ると、
今度は腰抜けのふりをするようになった。
鳥居の下をふざけながら走ったり、
お堀のそばを通るときなどは、
「通り魔に出くわしたら、お堀に飛び込めば命が助かる」
と言ったり、
「斬首と磔なら磔を選ぶ。
なぜなら磔のほうが死ぬまでの時間が長い」
などとも言い出し、
「生きるか死ぬか迷ったらとりあえず生きておく」
と言いながら結局最後まで奉公しなかった。
しばらくしたあるとき、筑後へ目薬を売りにいく途中、
山賊に囲まれたが三人を斬り殺し、
二人に手傷を追わせて追い散らした。
吉之助はこの事を隠していたが、
そのうち目撃者によりだんだんと知れ渡るようになり、
やはり剛の者であったかと評判になった。
吉之助は、
「拙者は剛の者などではない。
臆病者ゆえ、斬り殺されそうになったから、
命を惜しみ、相手より早く斬っただけなのだ」
と言い訳をした。
このような事がその後もたびたびあったのだが、
老後は竜泰寺を建て、政家さまの霊廟の横に庵を結び、
そこで余生を終えた。
とうとう一生、欲深と腰抜けを演じきり、
本心を隠し通したわけである 【葉隠】
0481人間七七四年
2012/11/20(火) 12:52:26.80ID:5+5hIUKs政家への忠義が篤かったのか
0482人間七七四年
2012/11/20(火) 13:18:25.90ID:1D2JHR74まあ、隠しきれてない気もするがw
0483人間七七四年
2012/11/20(火) 17:57:05.03ID:rtTNkJx1百姓が武士に虐げられてたとかいまどきどこの左翼売国史観だよw
戦国期の百姓は大名権力に匹敵する武装集団でむしろ武士の方が下手に出てたってのに
0485人間七七四年
2012/11/20(火) 18:21:34.28ID:KPAspN5f0486人間七七四年
2012/11/20(火) 18:27:53.33ID:V9cxuDJiあと町には顔役と言われる存在もいたし、
寺社も大地主も村や町一帯の治安管理の役目を果していた
そりゃ武士は帯刀してるから恐れられていたと思うが、
どこまで百姓の日常に接することがあったかはいまいちわからん
0487人間七七四年
2012/11/20(火) 18:31:34.11ID:tZdan5NC信長とか秀吉とか
0490人間七七四年
2012/11/20(火) 18:47:22.44ID:V9cxuDJiそれは刀狩り以降でしょ
なんだかんだ言って信長を一番苦しめたの本願寺と見てる
刀狩り、檀家制度確立までは武家と寺社勢力に圧倒的な差はないと思うよ
0491人間七七四年
2012/11/20(火) 19:58:14.36ID:EsWFm7r2安房国は下国だから最上位の守でも従六位下
上総国は大国だから守に次ぐ介が正六位下
さらに、上総国は代々守(太守)に親王が就く習わし(親王任国制)があるから、
介でも職掌は他の大国の守(従五位上)と同格
0493人間七七四年
2012/11/20(火) 20:54:33.02ID:89s1chAUttp://www.nikkei.com/article/DGXNASFS20023_Q2A121C1PP8000/
>民主党候補の公認条件について「マニフェスト(政権公約)で打ち出す
>政策を死に物狂いで国民に訴える同志でなければならない」
でも実行はしなくても構いませんってか。
0494人間七七四年
2012/11/20(火) 20:54:39.77ID:egQyUtaH0495人間七七四年
2012/11/20(火) 21:49:10.11ID:fNMicOWF延暦寺にしたって
入念に周辺勢力を切り崩して、他を攻める戦と号して兵を集め、秘匿行動を進めて一気に夜襲、と
下手な大名勢力より念を入れて仕掛けてるし
中途半端では済ませられない危険な相手(≒相応の政治・軍事力を保有)って感じだが
0496人間七七四年
2012/11/20(火) 22:18:46.00ID:tbyy7oPL寺社と武家を分ける意味ってあんまりないと思う。
逆に、寺社が強かったから農民も強いとか言うのもイミフだけど。
武家=寺社 >惣村 だろ。村のトップは地侍とかで武家だろうけど、そもそも。
0497人間七七四年
2012/11/21(水) 00:13:41.93ID:mkCVhKtB佐賀県武雄市の各地には荒踊りと呼ばれる伝統芸能が今もなお残っている。
この踊りの起源については諸説あるらしいが、
一説によると享禄3(1530)年に武雄領主後藤純明の頃、有馬晴純に塚崎城(武雄城)を攻められ山内の住吉城にまで迫られた。
純明は黒髪山に戦勝を祈願し、山内は三間坂に陣取っていた晴純を奇襲し破った。
この戦勝を祝い足軽たちが踊ったのが荒踊りであるということだ。
さて、時は下って永禄6(1563)年、武雄領主は純明から大村家より養子に入った貴明に継がれていた。
晴純はこの貴明を破ろうとしたが、なかなか打ち倒せない。
そこで一計を案じ、宴会を開くとして貴明を島原におびき寄せて討ち取ろうとし、貴明も誘いに乗ってしまった。
しかし島原の老僧がこのたくらみを知り、貴明に警告を送ってきたのである。
「貴明様、今回の宴は有馬の謀略でございます、むざむざ殺されに行くようなものですぞ」
「フム…しかし一度約束した手前行かねば卑怯者のそしりを受けようぞ、それならばいっその事晴純めの方を計略にかけてやろう!」
「計略とは?」
「屈強のもの250人を選び出せ、花衣装を着せ荒踊りで乗り込むのじゃ、まあ見ておれい」
貴明は250人の猛者に大小日本の刀を帯びさせ、花衣装を着せ、十日も早く島原へと乗り込んだ。
これに驚いたのは有馬であったが、晴純は老将の余裕を見せ、貴明がまんまとわなにはまったとほくそ笑んだ。
夕刻、本丸にて有馬家の重臣の居並ぶ前に貴明が出ると、貴明の口上は始まった。
「本日伺ったのは他でもありません、約束の日には急用ができてしまいやむを得ず今日この日に挨拶に参りました」
「そうか後藤殿、ご苦労であったな(フハハー馬鹿め、わざわざ寿命を縮めに来るとは!)」
「急な事で手土産もありません、その代わりと言ってはなんですが今日は我が武雄領に伝わる荒踊りを披露したく、
踊り子たちを連れてまいりました。さあ皆様広いところでご覧ください」
そういって貴明は晴純達を連れて庭まで出てきた。
庭には荒踊りのために連れてきた250人の勇士が控えており、一斉に立ち上がった。
浮立の笛太鼓が鳴り響き、250人の花衣装は貴明を中心に舞いだした。その動きは勇壮かつ華麗で一部のすきもない。
そのまま踊り子たちは舞い続け、貴明を中心としたまま城の外に出ていった。
後には宴の跡と、苦虫を噛み潰したような有馬勢だけが残されていたという。
伝統芸能にまつわるちょっといい話
この辺参考にしました
歴史散歩たけお
http://www.epochal.city.takeo.lg.jp/siryo/Web_data/furusato/html/densetu.html
0498人間七七四年
2012/11/21(水) 00:25:32.96ID:0OI8HCGj0500人間七七四年
2012/11/21(水) 01:14:33.26ID:ZjP5FwHXまあ武家>百姓 なのは揺るがしがたい事実だけど、村は村で同盟関係を結んでる
北近江の菅浦と大浦なんて、百姓だけで近江半国巻き込んでの合戦しちゃうしね
朝廷とか幕府に対して有利な裁定を得るために外交戦を繰り広げるし、百姓はすげぇよ
0501人間七七四年
2012/11/21(水) 02:32:20.09ID:kcx5WHPj弱ってる相手には牙をむく
0502人間七七四年
2012/11/21(水) 04:44:38.69ID:itVqegZS武士:臆病だと家臣・百姓に見限られる
百姓:領主が臆病で頼りにならないと見限る
立場が違うしな
0504人間七七四年
2012/11/21(水) 08:42:00.33ID:TIgqm+cI戦国期も実際には、武家身分と百姓身分は明確に分かれていたようだ。
ただ、村に住みながら武家被官となる在村給人という存在があったが、これは年貢免除の代わりに
軍役を提供しており、百姓とは区別されていた。
総じて戦国時代であっても、実際には身分移動はそうとう難しかった模様
0507人間七七四年
2012/11/21(水) 10:49:00.72ID:ulnsaAvN>250人の猛者に大小日本の刀を帯びさせ、花衣装を着せ
なんでこんなの城内に入れちゃうんだよw
0508人間七七四年
2012/11/21(水) 11:12:09.61ID:8CLiwYSH全く別物。
0511人間七七四年
2012/11/21(水) 15:36:16.82ID:l8+BB7dk惣村は「村の軍事力」を大名に提供することは無かったってのが今の定説じゃないの?
この「村の軍事力」が戦国ヒャッハー百姓の戦闘員達だろ?
つまりそれからもれた在村給人なぞたいしたことない。
0512人間七七四年
2012/11/21(水) 16:06:19.95ID:mUzx7lWs0513人間七七四年
2012/11/21(水) 16:13:42.78ID:l8+BB7dk0515人間七七四年
2012/11/21(水) 16:22:20.99ID:qnahrWYA0516人間七七四年
2012/11/21(水) 17:21:25.71ID:E76JNPm/しかし、日根野は甚だしく貧しいために支度もままならず、
三好新右衛門を介して黒田如水から銀百枚を借りることになった。
日根野は帰国すると三好と一緒に如水を訪ねて御礼を述べた。
この時、借りた銀百枚とは別に利息にと思ってさらに十枚を持参していた。
ところが、対面した如水は人を呼んで「さきに貰った鯛を三枚におろして
その骨を吸物にせよ。それから酒も出せよ」と命じたので、二人は心付けが
足りないと思い、酒を飲み終えた後、三好がさらに銀を取って来て礼を述べた。
だが如水は「いやいや最初から貸す心ではなく合力の心で貸したのだ」
と、再三勧めても受け取らなかったので、二人は大いに感銘を受けて
帰ったのだという。
――『老人雑話』
0517人間七七四年
2012/11/21(水) 17:43:54.63ID:tcbs2ICO0518人間七七四年
2012/11/21(水) 17:47:08.81ID:ghlFElqr0519人間七七四年
2012/11/21(水) 17:59:59.78ID:QQIR8oW30521人間七七四年
2012/11/21(水) 18:52:08.55ID:c7G30z+z0522人間七七四年
2012/11/21(水) 18:58:03.43ID:eJATltdU「こいつだけは裏切らない」という気持ちで身分を失ったときのために貯めるのが犬千代
0523人間七七四年
2012/11/21(水) 19:40:53.92ID:fLOM1lt/本筋からはずれるけど、こういう料理絡みの話は好きだわ
大大名が調理に通じてるってのが何かうれしい
0525人間七七四年
2012/11/21(水) 20:26:15.31ID:6pAeQzF3主人自ら調理作って風呂沸かして饗すのが当時の最上級のおもてなしだからね
大抵の武将は料理心を持ってる時代
0527人間七七四年
2012/11/21(水) 21:44:54.34ID:JGRtyo9K光茂公の御代となったばかりのころのこと、
多久美作殿は、作り馬鹿の志田吉之助に相談を持ちかけた。
美作
「御代かわりは最初が大事だ。
そこを考え、勝茂公が拙者に遺言状を残してくださっている。
志田殿にもぜひ読んでもらい、
なにか助言があれば是非とも聞かせてほしい。」
と言い、美作殿は遺言状を読み上げ始めた。
しばらく聞いていた吉之助だったが、
吉之助
「退屈になってきたから帰る」
と言い出した。
美作殿もさすがにお怒りになり、
美作
「普段から武士らしくない放言をふざけ、
金が欲しくなれば金貸しを営み、
腰抜けを演じたかと思えば山賊無頼と喧嘩する、
そんな志田殿には、勝茂様や私が、
真面目に奉公する姿はさぞ愚かに見えるのでしょうな。
この遺言状は主君びいきを差し引いても素晴らしい内容。
なにが退屈なのですか」
とその理由を詰問した。
吉之助
「美作殿は人なみの家老であると見ていたのだが、
どうやら何の役にも立たない家老のようだ。
その理由は、そもそも家老というものは、
主君が家中の者どもに慕われるように計らうもの。
美作殿が読み上げられた勝茂様の遺言状は内容素晴らしく胸打つものがある。
その遺言状を御代替わりの始めに家中の皆に教訓したなら、
家中の者どもは勝茂様をさらに慕い思い、
それを授かった貴方の名も上がるばかりであろう。
勝茂様がお亡くなりになりまだ日も浅く、
ご恩を受けた家中の侍どもが涙もかわかぬうちから、
その遺言状の内容を知ったならいよいよ先代への思いが募ることになる。
それにひきかえ光茂様は江戸生まれで、
肥前の侍どもにも国柄にも馴染み薄く、
新しい主君は、はたして九州者の気持ちをわかってくださるだろうか?
というような世間話が拙者の耳にも聞こえてくる。
そこに遺言状が知れ渡れば光茂様をお慕いする者はいなくなるだろう。
誠の家老であるなら、その遺言状を新しい殿様の考えとして、
美作殿の才覚、手間も隠して公表できるはずだ。
そうして新しい殿様は勝茂様にもまして、
ありがたい主君だと慕われるように計らうべきであろう。」
と答えた。
美作殿は、
「まさにその通りだ。やはり志田殿に相談してよかった」
と言って勝茂様の遺言状を破り捨てた【葉隠】
0528人間七七四年
2012/11/21(水) 22:15:51.75ID:BMvfWn+S0529人間七七四年
2012/11/21(水) 23:26:36.86ID:dMqQwsD50530人間七七四年
2012/11/21(水) 23:51:04.74ID:6pAeQzF30531人間七七四年
2012/11/21(水) 23:53:25.56ID:ioxlymfs勝茂もそうすればよかったのか?
0532人間七七四年
2012/11/22(木) 10:34:46.63ID:GcjH3LWUそもそも勝茂自身が半ば伝説化した直茂パパンの声望に追いつこうと必死だったので
そんな余裕はありませんのだ
0533人間七七四年
2012/11/22(木) 10:47:10.83ID:V6DmeAAv0537人間七七四年
2012/11/22(木) 16:09:04.81ID:RwTP090j0538人間七七四年
2012/11/22(木) 19:19:38.88ID:V6DmeAAv0541人間七七四年
2012/11/23(金) 08:32:42.17ID:X2nhYk3I事である。
伏見でにおいて将軍秀忠が福島正則の改易を決断する。
そこでこの時江戸藩邸にあった正則に対し、改易を伝える使者を出すことになったが、この時将軍秀忠を始め
主な幕閣などは伏見にあり、江戸には留守居があるのみであった。そのため
『彼の者は武功者であり、また心荒き者であるので、上意を素直に受け入れるとは思えません。
そうであれば使者として赴くのは、江戸留守居の者たちからではなく、(現在伏見にある老中格の)
井伊・本多・榊原・酒井などの内から出すべきであると考えます。』
と、評議において意見が出た。重大な事態に陥る可能性の高い使者である以上、相応の
責任を持ったものが行くべきだ、という事であろう。
これを聞いた井伊掃部頭直孝は、言う
「おやおや、いざ合戦となって先陣を務めるのは私の役目であるぞ。この時は江戸留守居に残った
者達の出番はない。
幸いにも、今回のような事は、御上洛の御留守を承り、江戸御城下に居ながらのお使いという、
御留守居衆にとってうってつけの役目である。
各々の察している通り、福島左衛門大夫はこの改易を、とても素直に受け入れるとは思えない。
もし最初の使者からの改易の命を拒否したことが解れば、次は我々から彼に当てた書状を出すべきである。
その内容は
『あなたは咎によって安芸・備後両州を召し上げられ、どこどこに改易されることになった。
この事を御恨みに思うのであれば、広島に下って挙兵するのも、またそちらの屋敷に立て籠もるのも、
心次第にやって頂いて構わない。』
これを見てもまだ左衛門大夫が、むつかしく改易をお受けしないのであれば、その時は他でもない。
この掃部頭に仰せ付けられよ。討ち取って差し上げよう。
ともかく、先ずは穏当に使者を遣わされるべきであろう。」
これを秀忠もいかにもと考え、江戸留守居であった牧野駿河守信成以下が、正則への上使となった。
その頃正則の江戸屋敷は、今の増上寺の近く、愛宕山の下にあった。そのため愛宕山に石火矢を
配備し、緊急の事態になればすぐさま正則の屋敷に向かって撃ちこむ用意をしていた。
ところが、思いの外に正則は静かに改易を受け入れた。この事、江戸より伏見に報告されると、
伏見では秀忠上洛のお供として召し連れられていた、正則の嫡男備後守(忠勝)も取り籠められた。
(武野燭談)
福島正則改易の時の、井伊直孝の発言などについての逸話である。
0542人間七七四年
2012/11/23(金) 09:12:53.57ID:AwgcWyxp秀忠公は落ち着いているなぁ
0543人間七七四年
2012/11/23(金) 10:09:00.99ID:FAotWQ890544人間七七四年
2012/11/23(金) 11:39:39.74ID:HRCXv3lr0545人間七七四年
2012/11/23(金) 11:58:25.63ID:Ol09G7q60546人間七七四年
2012/11/23(金) 16:24:58.24ID:KLdq6rtb0547人間七七四年
2012/11/23(金) 18:19:42.11ID:wu7IoVQ1含むところがあって直孝とは不通となっていた。
(>>541の直前?http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3838.html)
この時、改易は京都で伝えると結論が出ていたのだが、高虎は
若年ではあるが末座の直孝へも話すべきではないかと秀忠に言った。
しかし召された直孝は江戸で伝えるべきだと再三言うので、高虎は直孝に
反対してついには若造は黙れとまで言ったのである。
後に高虎は死に臨んで直孝を招き「今までは京都でのことがあったので
互いに不通のまま打ち過ごしてきましたが、此度大病のために既に
露命も窮まりました。ですからどうか倅の大学のことを頼み入り申す。
万事よろしく御引廻しくだされ」と念入りに頼んだ。
直孝も「大学頭殿のことは絶対に手抜かりのないように承知しております。
懇意に通じていきますとも」と返答した。これより両家はかつてのように
心安く出入りするようになった。
――『名将言行録』
0548人間七七四年
2012/11/23(金) 23:50:04.87ID:nHSjt1hS0549人間七七四年
2012/11/24(土) 16:36:38.14ID:N6nvx2T2福島家は存続してたのかな?
0550人間七七四年
2012/11/24(土) 17:07:12.77ID:QdRWouJn参って料理を賜りたい」と申し伝えた。重長は「これは珍しいことだ。
何を思はれて申し越されたのだろう」と殊の外喜んで直次を饗応した。
直次は機嫌良く料理を賜り、緩々と話して帰っていった。
その後、重長は刀が残されているのを見つけ「うっかりお忘れになったのか」
と思い、近習に命じて直次の乗物を追わせた。
乗物に追いついた近習は側に寄って「御腰物でございます」と申し上げた。
すると直次は乗物の戸を開けて中より刀を取り出し「武士が刀を忘れるわけ
ないだろう」と言って刀を見せると、戸をひしと閉じて帰っていった。
仰天した近習が重長にしかじかと報告すると、重長は何かを察して涙を流した。
「さては今度在所へ帰国される時に隠居なさるおつもりであるぞ。
その刀はそれがしに形見として賜わるということに違いない」
重長の思った通り、直次はその月すぐに紀州へ帰りその年のうちに隠居した。
――『名将言行録』
0551人間七七四年
2012/11/24(土) 19:50:56.20ID:01bEDd5W0552人間七七四年
2012/11/24(土) 20:11:18.83ID:veBfM4Uc0553人間七七四年
2012/11/24(土) 20:52:57.25ID:a+JjAOIw0555人間七七四年
2012/11/24(土) 21:24:06.04ID:veBfM4Uc腫れ物出来た時にはムカついて無理矢理膿を出したら悪化して生死の境をさまよったりとか、
その時に遺言とか形見分けをし始めて死ぬ気満々で医療を拒否し始めて作左に叱られたりとか、
わりと面倒くさい
0556人間七七四年
2012/11/24(土) 22:03:10.72ID:ZeZjyIdy0557人間七七四年
2012/11/24(土) 22:25:07.04ID:/MJ8+Crrググったら、安藤重長は、安藤直次の弟の安藤重信の跡継ぎなんだね
実際には、重長は重信の娘の子(外孫)なんだけど、養子ということに
して跡を継がせた
重長からすると、重次は形の上では伯父、実際は大伯父
つまり、ふだんあまり付き合いのない親戚のオッチャン(しかも幕府の
老中もつとめたエラい人)が突然訪ねてきて、機嫌よく飲み食いして
帰っていったというお話
0558人間七七四年
2012/11/24(土) 22:26:37.34ID:/MJ8+Crr>重長からすると、重次は形の上では伯父、実際は大伯父
失礼、訂正。
○重長からすると、直次は形の上では伯父、実際は大伯父
0559人間七七四年
2012/11/25(日) 00:16:56.97ID:3jF6m7+6田舎臭さがなく結構粋だよね
0560人間七七四年
2012/11/25(日) 03:38:56.83ID:CJcrbyrs0561人間七七四年
2012/11/25(日) 04:29:08.05ID:UJeJOoWB0562人間七七四年
2012/11/25(日) 04:45:47.47ID:V3jPIT9D0563人間七七四年
2012/11/25(日) 14:02:43.82ID:jVWuSVCU呼ばれていた。
この人、初めは箱根別当として出家され、真言の学問を残らず学ばれた。
その上、伊勢氏は代々、巧みな鞍を造るのを家伝としており、早雲寺殿も幼少より嗜んでおられた。
そうであったが北條の系図を請けて、嫡男の氏綱は北条であるということでこの技術を相伝せず、
幻庵は出家の身であったが、生来細工の才能があり、伝わる鞍の製造技術を尽く習得した。
これだけではなく、弓の製作も習得し、矢を剥ぎ弦をさす事、世に並びのないほどであった。
また石台を作り、茶臼を作ることにも優れていた。
その上武勇にも優れていたため、出家の身から、再び武士への還俗された。
又、幻庵は尺八を作ることにおいても名高かった。彼の作った尺八は、『幻庵切りの尺八』と呼ばれ、
彼の作った一節切りの尺八は都鄙に流布し、禁中よりもご所望があった、
これによって関東では尺八が大変に流行り、小田原では若侍たちが、皆これを愛好したという。
(關侍傳記)
0564人間七七四年
2012/11/25(日) 14:51:37.81ID:atcxirTv0565人間七七四年
2012/11/25(日) 14:54:07.41ID:IaK7GtWI0567人間七七四年
2012/11/25(日) 16:31:39.67ID:8NnuOFlf0569人間七七四年
2012/11/25(日) 17:58:59.37ID:GKQf6RL1演射場を設け日を選んで赴きこれを見物した。
ところが他の侍たちは皆多くの矢を当てたが、終日に射った某は一矢も当てることが
できなかったので信長を満足させられなかった。信長は帰ると「見るのと聞くのでは
違うな。人の言葉など当てにならないものだ」と述懐した。
その後、一揆が蜂起しその勢いはすこぶる激しく、信長は自ら将としてこれを討った。
この時、大勢の者たちがしりごみして進まないなか、某は信長の馬前に立ち弓を
いっぱいに引き絞って縦横に放射した。その矢はおおむね外すことなく、賊徒は
このために退却した。
これを見て信長は「なんと深き技よ。あの時、矢が当らなかったのは当てることが
できなかったのではない。余力を養って他日に功を立てようと望んだのだ。
諺に能ある鷹は爪を隠すというが、確かにその通りだ」と感嘆し、厚く褒美を与えて
某を賞した。
――『近古史談』
0570人間七七四年
2012/11/25(日) 18:05:04.16ID:cOAcGLLX練習は下手なだけだったりして
0571人間七七四年
2012/11/25(日) 18:15:08.83ID:m0zzi1T00572人間七七四年
2012/11/25(日) 18:15:37.01ID:GKQf6RL1申し訳ありません訂正します。
×皆多くの矢を当てたが、終日に射った某は
○皆多くが矢を当てたが、終日射ったのに某は
0573人間七七四年
2012/11/25(日) 19:38:54.08ID:OzOieAs2なりふり構わず必死になれば本来の力を発揮するみたいな。
0574人間七七四年
2012/11/25(日) 20:20:32.23ID:8NnuOFlf0575人間七七四年
2012/11/25(日) 20:54:38.72ID:V++vXSTnこれはさすがに無理矢理だと思いました
本番に強いタイプなんだろう
0576人間七七四年
2012/11/25(日) 21:26:28.36ID:161YWbBU0577人間七七四年
2012/11/25(日) 21:30:27.31ID:IL7boC/N0578人間七七四年
2012/11/25(日) 21:48:22.64ID:CJcrbyrs的な何かとか…
0579人間七七四年
2012/11/25(日) 21:56:32.60ID:25XWbAOY0580人間七七四年
2012/11/25(日) 22:04:03.79ID:OjyjOhZ+なAAを連想した
0581人間七七四年
2012/11/25(日) 22:33:30.74ID:uCDCw6Cz0582人間七七四年
2012/11/25(日) 23:12:24.98ID:BY8mcfycスレ対象外な時代の人だけど
0584人間七七四年
2012/11/26(月) 09:33:53.20ID:NjPRmEbA0586人間七七四年
2012/11/26(月) 10:46:24.87ID:ZpyraGFx0587人間七七四年
2012/11/26(月) 10:51:06.88ID:7Jirq2xh0588人間七七四年
2012/11/26(月) 11:11:06.41ID:ogcdr5SB0589人間七七四年
2012/11/26(月) 12:27:54.41ID:5j9NCcQKと叱るわけにもいくまい
そんなの言われたら確実にやる気なくすよ
0590人間七七四年
2012/11/26(月) 16:09:01.90ID:7ZA97t50ノブは性格より機嫌が良い時と悪いときの落差が激しいんで…
多分この時は自ら出馬しての勝ち戦で上機嫌だったんだろう
0592人間七七四年
2012/11/26(月) 17:40:47.85ID:fv8Yc8Y/0593人間七七四年
2012/11/26(月) 17:47:08.15ID:eI89sZWPつか、自分以外の者も自分と同じ考えをすると思ってそうだからな〜
0594人間七七四年
2012/11/26(月) 17:48:42.10ID:L1IjBxPi0595人間七七四年
2012/11/26(月) 18:42:17.91ID:/16afk860596人間七七四年
2012/11/26(月) 18:46:56.06ID:VSIyx/omラスボスの洞察力は凄いと思う。家康は、ホトトギスじゃないけどモノになるまで待てる感じ。
信長は良くも悪くも育ちの良さからくる人の良さを感じる。
0597人間七七四年
2012/11/26(月) 22:59:33.16ID:hma1LAxA0598人間七七四年
2012/11/26(月) 23:33:33.87ID:ORpphC3O豊臣秀吉は使者に二人の名を問わせた。
使者は馳せて「主将の命である。各々名を伝えよ」と言ったが一騎も答えない。
使者が反命すると秀吉は「お前は馬を降りずに問うたから軍礼を失したのだ。
そりゃあ答えはせん」とさらに別の使者を遣わした。
二騎は馬を降りて小早川隆景の家臣、河田八助、楢崎十兵と名乗った。後に
二人は征韓の役で隆景に従いしばしば明兵と戦った。河田の背旗、楢崎の保衣は
ともに雄々しく偉大にして並々ではなかったので、その名を異国に輝かした。
――『近古史談』
0599人間七七四年
2012/11/27(火) 09:05:29.22ID:WR+T6pHfでも、礼というよりもメンツといわれたほうがしっくりするような気も
0600人間七七四年
2012/11/27(火) 10:37:14.67ID:Qx1w0kiF0601人間七七四年
2012/11/27(火) 10:43:18.94ID:SwUk9bgw0602人間七七四年
2012/11/27(火) 12:25:17.12ID:LWIGGGqm使者も戦闘中にいちいち下馬してものをいうなんて、って気持ちがあるんだろう
0603人間七七四年
2012/11/27(火) 12:27:40.80ID:cXcv4PNS0604人間七七四年
2012/11/27(火) 15:32:08.28ID:eahOQBlN0605人間七七四年
2012/11/27(火) 15:37:34.00ID:NJOxbHj50606人間七七四年
2012/11/27(火) 21:24:28.28ID:XOBI6aC/0607人間七七四年
2012/11/27(火) 21:25:43.66ID:CgL4870Aいまさらだが既出?
0608人間七七四年
2012/11/27(火) 21:54:29.04ID:UbDSylm20609人間七七四年
2012/11/27(火) 22:14:25.36ID:Lzd8dpMl挨拶の起源もそんなとこだろうと思ってる
0610人間七七四年
2012/11/27(火) 22:45:46.92ID:UUbXdFOe双方で掴むのが敵意のない戦国時代の挨拶だっけ?
0611人間七七四年
2012/11/28(水) 01:11:03.69ID:n0oLrGDd渡ることも困難であったが、信長が水のほとりに立って「先にこの河を渡るのは誰だ!
古の梶原も佐々木も鬼神ではないぞ!」と、言い終わらないうちに上流より一騎が
流れを乱して宇治川を渡った。
信長は「必ず梶川弥三郎だ、余人ではない! 天晴れな勇士をむざむざ敵に討たせるな!」
と命じ、大勢が競ってこれに続いてついに岸に上り勝利を得た。
初め梶川は博奕を好んで人々に除け者にされたが、信長は独りその勇を愛し、
「急難のある時はこれで功を立てよ」と名馬を与えた。梶川は感涙して「この馬で
先駆けできなければ生きては還らない」と自ら誓い、ここに功を立てたのだ。
大槻磐渓曰く、
「宇治川の先登について世の人は梶原と佐々木だけを知り、梶川を知る者は少ない。
梶原、佐々木は馬を並べて先陣を争ったわけだが、さて梶川の最も勇壮な単騎直進に
及ぶのはどちらであろうか。どちらも及ぶわけがないのだ」
――『近古史談』
0612人間七七四年
2012/11/28(水) 05:26:58.54ID:CiJOS1Ku0613人間七七四年
2012/11/28(水) 06:53:12.68ID:eYxSm6Lj0614人間七七四年
2012/11/28(水) 10:46:47.32ID:yQqXJ/+H0615人間七七四年
2012/11/28(水) 13:23:30.34ID:wAyX7EF70617人間七七四年
2012/11/28(水) 20:06:58.17ID:c1HYOeAe0618人間七七四年
2012/11/28(水) 20:56:36.64ID:sbemlcRK鼻つまみ者のギャンブラーが名を残す勇者になっちまうんだから
0620人間七七四年
2012/11/28(水) 23:49:05.47ID:7gcmoWU5現在も四日市市日永地区に伝わるこの踊りは、
滝川一益が起源に関係していると言われているようです。
説は2つあり、1つは滝川一益が母の隠居所を実蓮寺境内に建築する際に、
地固め工事に歌った歌謡と動作を元にしているというもの。
もう1つは、滝川一益が毎年大雨のため田畑が流出してしまう農民の困窮を見て、
天白川の堤防を築き、その際の地固め、地つきに歌ったという説です。
そしてその踊りがどんなものかというと、天明八年(1788年)の司馬江漢の日記には、
「十二歳から十七歳の男女、手と手をとり、輪になってツンツクツンツクとて踊るなり。
中に十五、六の男の子、白きさらしの手拭いをほうかむりして、うたをうたいて太鼓をたたく。
(中略)その夜も前夕の通りツンツク踊あり。踊と云うには非ず、
ただ手と手を取り、伸びたり屈んだりするのみ。誠に田舎の踊りなり」とある。
こんな思春期の少年少女たちがドキドキできる
マイムマイムみたいな踊りを滝川一益が作っていたとは。
ちょっと面白かったのでいい話に。
0621人間七七四年
2012/11/29(木) 20:54:38.49ID:CYfM9YTg高橋紹運の家臣に谷川大膳という者が居た。
岩屋落城前日に紹運の命を受け立花城に使いをし、
島津軍の厳重な包囲をかいくぐり岩屋に戻ったが
時遅く、城は落城し主君も切腹。
そんな事を知らない谷川大膳は門を叩くがどうも様子がおかしい。
そうこうしている間に島津の兵に囲まれ、島津忠長の陣へ連行された。
大膳は尋問を受けたが、悪びれる様子もなく姓名を名乗り
主君の命で立花城に使いした事を申し述べた。
その態度に感じ入った島津忠長は紹運の死と落城を告げ
「当家に仕える気は無いか?今まで受けていた俸禄と
おなじ分を進ぜよう」と誘った。
0622人間七七四年
2012/11/29(木) 21:03:11.22ID:CYfM9YTg大膳はそれを聞くと
「忝い次第ですが、この期に及んでそんな望みはありません。
主君の最期に遅れ、お供が出来なかった事が残念でなりません。
そこでお願いしたい事があります。
立花城からの返書は私の首にかけてあります。
どうかこれだけは、私の首を落とした後立花城に返していただきたい。
もし叶わぬなら、首をはねた後、ご覧いただきたい。」と涙を浮かべ言った。
これを聞いた忠長は涙を流しつつ
「これぞ誠の武士である。紹運殿はいかに名将であった事かがよく分かる。
この者を殺してはならない、またその書状も見る必要はない
大切にしまって立花城へ帰られるがいい」と言って、縄を解き刀を返したばかりか
馬に乗らせ足軽数人までつけて送り返したという。
0623人間七七四年
2012/11/29(木) 21:12:41.15ID:CYfM9YTg大膳は立花城に帰ると立花統虎に書状を返すと
切腹しようとしたので、統虎は驚いてこれを止め
「今そなたが死ぬ事は犬死に等しい。亡き父上(紹運)も喜ばれまい。
どうか、これからは余に仕え、余の馬前で死んでくれよ。」と言った。
その後は立花家に仕え統虎の兵学師範となったが
後に剃髪し、紹運はじめ戦死者を弔いながら一生を終えたそうである。
浅川聞書に伝わるお話ですが、死んだ人たちよりも生きながらえた方が
つらかったのかも知れませんね。
視点によっては良い話では無いかもしれません。
0624人間七七四年
2012/11/29(木) 21:54:11.70ID:oQXW4n1B優劣つける必要ない
0625人間七七四年
2012/11/29(木) 21:58:28.03ID:5Za6BvO60628人間七七四年
2012/11/29(木) 23:08:08.85ID:IJMIozKW某SLGじゃ出てこないかモブ扱いだけどさ
0629人間七七四年
2012/11/29(木) 23:33:50.19ID:CG4P9gBDそんな難しいことわかんねえよ
ただ生きることに理屈はいらないけど、死ぬ時にに生きてて良かったって思うためには死ぬ理由はあった方がいいかもしれない
矛盾してるか
0630人間七七四年
2012/11/30(金) 17:22:35.00ID:pUBJW8Va「武士の兵法に関していろいろな論が世にあるけれど、
何を初心者の技とし、何を武士道の奥義と区別しているのだろうか。
あらゆる芸事には、これが極意である、
これこそが秘伝であるなどと言う奥義が伝わっているものだが、
いざ敵と斬り合うときには、
初心者の技で斬るとか、この場合は奥義を使うなどの区別はない。
我が流派では、初心者にはまず合理的に勝つための技術を教え、
論理で伝えられないところは、
その者の心のわだかまりや執着が薄れる頃合いを見計らって、
次第次第に深いところの理を体得してもらえるよう心がけている。
とは言っても、兵法とは突き詰めれば斬り合いの場での術を学ぶこと。
それ以上でも以下でもないのだから、もともと奥義なんてものはない。
例えば、山奥に行こうとして辿りつき、
そこからさらに奥を目指せばまた入口に出てくるようなもの。
それは兵法に限らず、なんの道でも、
深いところの技が効果を発揮する場もあれば、
初心者の技こそが効果を発揮する場面もあるということだ。
他流派にはこれは奥義だからまだオマエには教えられない。
と、言って奥義なる技を隠す流派もあるようだが、
そもそも斬り合いに勝つということにおいて、
何を隠すことがあり、何を顕すことがあると言うのだろうか。
以上の理由から、拙者宮本武蔵は誓紙や罰文などで、
弟子を型にはめ育てる方法を好まない。
兵法を学ぶ人のそれぞれ生まれもった気質才能を大事にし、
その本来の心へ直に至る道こそを教え、
それまでの人生で後天的に身につけた悪いところを捨てさせる。
そして自らの力で誠の武士の道に入るよう教えるのが我兵法の道である。
よくよく鍛練あるべし」【五輪書】
0631人間七七四年
2012/12/01(土) 15:07:15.72ID:YpmGoFtH花は野にあるが如く、夏は涼しく、冬は暖かく…これを除きて秘法無し」と答えた。
その人が呆然として「…そのようなことは知っています」と言うと、
利休は「あなたがもしこれを知っているのならば、そのように実行してください。
私は礼物を奉ってあなたの弟子になりましょう」と言った。
側にいた笑嶺和尚はこれを「三歳の童でもこれをよく知っている。
しかし八十歳の翁であってもこれを行うことはできない」と評した。
――『日本史伝文選(芸苑叢話)』
0632人間七七四年
2012/12/01(土) 15:33:52.20ID:669Qsn1+0633人間七七四年
2012/12/01(土) 15:40:15.09ID:3tkmdVk/0634人間七七四年
2012/12/01(土) 16:01:22.48ID:TvxLqYCi0635人間七七四年
2012/12/01(土) 17:34:59.80ID:a30u93NX0637人間七七四年
2012/12/01(土) 18:37:02.20ID:WvSaHiAo0638人間七七四年
2012/12/01(土) 20:14:06.14ID:nwosr3HU後継者の立花忠茂の拵えた陣太刀を見た宗茂が、後に周囲に語った話
「大将は言うに及ばず、武士たるもの諸道具の拵えを派手にするのは悪しきことだ。
以下に強い者でも、派手な拵えのせいで、遠矢で射抜かれ手負いになっては何の役にも立たぬものだ。
我ら立花の者は、世の常の刀に蟇肌という地味な拵えの立ちで日本はおろか朝鮮に至りて四十四度の
戦場で一度も事を仕損じたことはない」
これに対して立花壱岐が言上した。
「鎧を着ていると刃渡り二尺三寸の太刀でも抜きにくいので、当節の陣太刀は短めに拵えるそうです」
「昔、道雪公に仕えていた安藤対馬なる武士は、刃渡り三尺一寸を馬上で引き抜き、騎馬三駒、
徒歩武者六人を一瞬で切り伏せたものだ」
しかし壱岐の腑に落ちない顔に気づいた宗茂は続けた。
「太刀の抜き方にコツがあるのだ。一度に抜けぬ時は、中間を取って抜けば良いのだ。もし間に合わない
ようなら脇差を抜けば良い。また馬上にて太刀を抜くときは、柄を逆手に取って抜けば馬に当たる気遣いもない。
小脇差とて抜き打ちにするとしくじって馬を傷つけるので心せよ」
戦国生き残りの武将、立花宗茂のちょっと役に立つ良い話 (浅川聞書より)
0639人間七七四年
2012/12/01(土) 22:00:18.12ID:BgQ/w/CT第1次世界大戦でやっと辿り着く欧米
0640人間七七四年
2012/12/01(土) 22:06:43.45ID:HHbnuqeE0641人間七七四年
2012/12/01(土) 22:35:32.34ID:6uF1uw1O0643人間七七四年
2012/12/01(土) 23:56:29.25ID:uPIsewsJ0644人間七七四年
2012/12/02(日) 00:29:37.31ID:WHuJOZktそういえば騎馬民族ってだいたい湾曲した刀剣を振り回してるよな
0645人間七七四年
2012/12/02(日) 01:04:29.70ID:jMM1blfz0647人間七七四年
2012/12/02(日) 10:36:59.25ID:hn2P8NqH雑兵物語にもあったな
0649人間七七四年
2012/12/02(日) 11:18:08.30ID:l7pidEiq0650人間七七四年
2012/12/02(日) 11:39:20.94ID:IrSTqUOT0651人間七七四年
2012/12/02(日) 12:14:18.39ID:nA/QW6Fi0653人間七七四年
2012/12/02(日) 13:14:33.31ID:aE/h0DSu安藤対馬なる武士は、刃渡り三尺一寸を馬上で引き抜き、騎馬三駒、
徒歩武者六人を一瞬で切り伏せたものだ
三尺一寸って94cmだよね。絶対に一瞬で切り伏せられないよね
某漫画のように斬撃の使い手か刀がビームサーベルだったか...
0657人間七七四年
2012/12/02(日) 14:27:08.34ID:HjRvNDpE余程の精鋭部隊でないと務まりません
0658人間七七四年
2012/12/02(日) 15:41:22.50ID:SgTb1Jl2「人は三十歳までに名を起こせなければ立身できない。つくづくと
世の中の有様を見てみると、連歌師は易い道のようだ。職人も町人も
貴人の御座に連なるくらいだからな。もしそれが無理なら百万遍の長老より
推挙状をもらって関東へ下り、大岩寺で談義を説いて世を渡ろう」
と思い立って上洛し、里村昌休をたのんで連歌を稽古した。
しかし度々退屈しては袋をかたげて「関東へ下る」と言い出したが、
小川の連歌師たちに押し止められた。その内にしばしば人に知られ、
称名院殿(三条西公条)に源氏物語を聞き、三好殿(長慶)の仰せによって
宗養と両吟を仕った。辛労の功がつもり、冥加が有ったのであろうか。
やがて宗養が亡くなって紹巴は天下の上手と呼ばれるようになった。
――『日本史伝文選(戴恩記)』
0659人間七七四年
2012/12/02(日) 20:31:54.11ID:ULkjyKm70660人間七七四年
2012/12/03(月) 21:09:09.62ID:jz2XSlVk鯉を捕り、それを江戸に送って商売をしていた。
ある時、老中の知恵伊豆こと松平信綱に、箕和田の、鯉を獲っている者たちとは別の町人の一団が、
六百両の運上金を差し出しますので自分たちに鯉を捕る権利を与えてほしい、と申し出た。
幕府にとって今までよりも運上金が二百両多く収まることになるので、その一団の者たちは、必ず許可に
なるものと考えていた。ところが信綱は
「よく考えてみよ。今まで四百量だった運上金を、わざわざ二百両増やして六百両にしてくれという者があるか。
それは、今までよりも鯉の値段を二百両上げてくれ、というのと同じ事だ。
その二百両は結局、江戸の武家や町人に売る鯉の値段を吊り上げることによって生み出そうとするであろう。
それは江戸の住人に難儀を与えることになる。
逆に、今までの運上金四百領を、二百両にしてくれと申し出たのなら、許すことにしたであろうに。
幕府が二百両の運上金を多くもらったからといって、その分、江戸の住人が高値に苦しまなければならないというのでは
不義が生まれ、訴訟が増えるばかりである。」
そう言って、前々から四百両の運上金を収めている町人たちに、鯉を捕る権利をそのまま与えたという。
(名将言行録)
0661人間七七四年
2012/12/03(月) 21:30:54.39ID:zk6K1qku0662人間七七四年
2012/12/03(月) 22:00:39.98ID:HKzcnOmV0663人間七七四年
2012/12/03(月) 23:11:01.18ID:32kcS1Ik「足軽は、どうしても侍より早く崩れたがるものだ。そこで譜代の者どもの子を取り立て、
銘々に召し使い、一飯も食べさせ、他へ出仕しないよう育み召し置いておくことが肝要だ。
いざ人数が必要な時には、彼らに槍一本持たせて戦場に召し連れれば、彼らは知行など
なくとも恥を知る者なので足軽共の代わりになり、備えが崩れることがない」
(浅川聞書より)
0664人間七七四年
2012/12/03(月) 23:40:27.87ID:gXfRvWke0666人間七七四年
2012/12/04(火) 00:47:44.59ID:BNaq4MbTただし娘婿は殺す
0667人間七七四年
2012/12/04(火) 02:56:30.83ID:MF0bttPT0668人間七七四年
2012/12/04(火) 10:00:55.51ID:C3/54/2s0669人間七七四年
2012/12/04(火) 10:15:40.37ID:BNaq4MbT0670人間七七四年
2012/12/04(火) 21:00:00.45ID:4NbwRqVW前にも出ていたが、立花宗茂が興行見物に出かけた際に起こった喧嘩を
落ちついた態度で眺めるなど大器の片鱗を見せていたのが8際の頃。
9歳のある日、立花道雪の所に遊びに行くと食膳が出された。
その膳に鮎がのせてあり、宗茂(当時は千熊丸だが)は骨を取りつつ
鮎をおいしく食べていると何か目線を感じる。
ふっと正面の道雪を見ると
(# ゚Д゚)コラ
Σ(゚д゚lll)
(# ゚Д゚)武士なら骨ごと頭から食わんかぁ!
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
涙をこらえつつ少年宗茂は鮎を飲み込んだそうな。
雷様直々のお叱り、そりゃ怖いよな。
宗茂らしからぬ、個人的にはちょっといい話。
0671人間七七四年
2012/12/04(火) 21:09:31.33ID:VFuXTFJ0俺なら、「雷を切ろうとして半身不随になった馬鹿が」としか思わん。
0672人間七七四年
2012/12/04(火) 21:18:01.51ID:yYYl/Xuv北九州市ってそのへんに手榴弾が転がってて、
何の変哲もない倉庫から対戦車ロケット弾が見つかるんだよね?
>>670
>涙をこらえつつ少年宗茂は鮎を飲み込んだそうな。
道雪も噛むなとまでは言ってないと思うがw
0673人間七七四年
2012/12/04(火) 21:19:17.42ID:mUQkG0000675人間七七四年
2012/12/04(火) 22:56:35.03ID:r52V4Mxoやはり栄養になるらしいよ…真似するとひどい目にあうけどねw
0676人間七七四年
2012/12/04(火) 23:17:00.72ID:FykM800iおろし大根に醤油つけて一緒に食べるとウマー
0677人間七七四年
2012/12/04(火) 23:47:45.25ID:0sXiHcq5「若年の小腕で寄功を奏したな」と言うと、信昌は「戦闘の道は剣法の巧拙にあります。
筋力の強弱にはよりません」と答えた。家康が重ねて「お前は誰に剣法を学んだのだ」
と問うと信昌は「奥山流を学びました」と答えた。
「ではお前の家臣の急加斎に学んだのだな。私も若い頃はその流派を学んだが、
近頃は軍務が忙しいので久しく怠ってしまった。こたび帰陣のうえは必ず彼を召して対面しよう」
急加斎は奥平貞久の四男で孫次郎公重と称し、上泉秀綱の門に入り神影流の剣法を学んで
奥義を極め、三河奥山明神の社に参籠して夢中に秘伝の太刀を授かりこれより奥山流を唱える。
かつて家康はしばしば岡崎に急加斎を召して演習したが、この後に信昌より召して
重ねて急加斎に学び、誓書を下して家臣に召し加えるとの御書を賜った。
また家康は三河で有馬時貞は新当流の剣法の達人と聞き、時貞を召してその奥義を伝授させた。
家康は時貞に青江の御刀を下して領地を与えたが、後に時貞が死んで嫡流が絶えると庶孫の秋重に
家を継がせ、紀伊家に附属させた。
――『徳川実紀(奥平譜、貞享書上)』
0678人間七七四年
2012/12/05(水) 00:26:51.09ID:1p817mw8まあ仕方のないことなんだけど
0679人間七七四年
2012/12/06(木) 00:08:05.84ID:+8ZHISA40680人間七七四年
2012/12/06(木) 01:35:49.57ID:s2KfBwvjなぜか部隊長にさせられて戦死しちゃったけど
いきなり自分のじゃない部隊の大将にさせられても誰も守ってくれないもの
そりゃ戦死するよなあ
0682人間七七四年
2012/12/06(木) 13:37:35.30ID:9PC/hN//小早川隊の前線に立っちゃったからね
正しく獅子奮迅の働きだった
でも悲しいかな貞治に子は居らず居その戦傷死するほどの働きに報いる
恩賞を受け取れる人は老いた母が1人だけ
0683人間七七四年
2012/12/06(木) 14:39:10.03ID:OQszhWaW老母一人ではかなりの贅沢が出来るな軍役もないだろうし
でも母親からしてみれば恩賞無くても生きて帰って欲しかっただろうな
0684人間七七四年
2012/12/06(木) 15:30:22.99ID:jLcJ78190685人間七七四年
2012/12/06(木) 16:14:35.98ID:9OcRHLoP「寝返り(・A・)イクナイ!」
って戦線離脱してしまったので、代わって奥平貞治が松野隊の指揮を
とることになったんだよね
徳川からの再三の催促の末にやっとこ小早川を動かしたという経緯上、
徳川からの軍艦という立場的に、こりゃ俺が死ななしゃ〜ないな、と
いう感じだったのではないかと
徳川の軍艦死なせて、ぬるい戦い方はできないからね、小早川も
あと、貞治って途中で、ラスボスに乞われて引き抜かれて黄母衣衆に
なってたことも
よっぽどの武者だったんでしょう。
0687人間七七四年
2012/12/06(木) 17:56:22.86ID:MO3aVlm3改めて思うけど生き死にに関してこの時代の人は凄い考えだよな…
ソースはない上つまらないけど実家に伝わる話をひとつ。
名前は明かせないけどうちの先祖は蒲生氏郷に仕えていたらしい。
とある戦で武功がありそれで風呂に入れてもらっただとか手ずから何かを頂いたとかしたらしい。
先祖はえらく感動したそうでこれまで以上に勤め、一度は出奔しようとした息子を斬ろうとしたらしい。
その後その先祖本人は討死。
会津に移ってからのことだそうで葛西一揆の時だろうか。
その後色々あって農民になり一応は現在に続いている。
正月にでも詳しい話を聞きたいんだけど今は別の人の話題でどうも無理っぽい。
よくあるような話ですみません。
0688人間七七四年
2012/12/06(木) 22:54:32.36ID:P8XbksjWその話をも少し具体的に聞きたい
0689人間七七四年
2012/12/07(金) 00:44:44.31ID:aiyPmoBSとりあえず自分が昔聞いた話
・次男が調子こいて家出しようとしたとき、父親は槍持って追いかけまわした。
同僚が若気の至りだろうからと諌めてくれてその次男坊は結局他の養子になったらしい。
これほどに恩をかけて頂いた主を見捨て出奔など言語道断、息子を斬り己も後を追うと言ったそう。
・家自体はたぶんそんな名のある感じじゃなくて下っ端もいいところ。
蒲生家に仕えだしたのは討死した先祖の代かそのひとつ前と思われる。
六角家家臣で滅亡後に仕えたのかもしれないけど自分の推測の域を出ないです。
・してもらったことというのがあまり分からない。
物をもらったのか加増されたのかお得意の風呂(はさすがにないと思うけど)なのか
詳しいことはは不明だけど先祖の身分からすると破格のことをされたらしい。
・帰農したのは蒲生騒動の頃?もしくはお家断絶の時か。
けど何人かは石田家に仕え、関ヶ原で討死した者もいるとかいないとか。
・農民として江戸時代を会津で生き抜いた。
戊辰戦争の時には家が元武士であることを聞いた何人かが会津の軍勢に入ったらしい。
一人は当時十代後半、母成峠か白河で戦死した?らしくその後の話はない。
箱館戦争まで参加したという人がいるけどその人のゆくえも分からない。
身分は百姓だし会津を離れることはなかった。
けど維新前後の事情であまり先祖のことを語らなかったので伝わってるのは結構曖昧。
0690人間七七四年
2012/12/07(金) 00:55:40.36ID:2tCtXm5X0691人間七七四年
2012/12/07(金) 01:05:52.34ID:kbzzmrWJうちは苗字名乗るときに島津の殿様(誰かは聞いてないw)から名前貰ったってくらいかな・・・
>次男が調子こいて家出しようとしたとき、父親は槍持って追いかけまわした。
このくだりは海音寺潮五郎の「かぶき大名」で、
水野勝成が父親の忠重に槍でもって殺されそうになったシーンを思い出したw
0692人間七七四年
2012/12/07(金) 08:04:41.84ID:CNOedMMaあーりがとー!
俺んとこは、実家が三好性で
婿入り先が鎌倉時代から続く城を守る、武家の一党なのに、
なにもそーゆー話を聞かないので羨ましいわ
神社の脇に漢文でなんかごにゅごにゅ書いてくる位だ
0693人間七七四年
2012/12/07(金) 22:10:10.72ID:8BBo+HZN見て、妄りにこれを評してした。その中には織田信長もいた。彼は元信の画を
見るために密かに衆人と共にやって来たのである。
元信はこれに気付いていたが、黙して顧みず脚を机の間に出して画を作り続けた。
客が帰って後、隣人が来て「太守が来たというのにどうして何の礼も無いのだ」
と尋ねると、元信は「彼は潜んでやって来たから、私は敬わなかった。それに私は
彼に何かを求めているわけではない。そういうことだよ」と答えた。
――『日本史伝文選(本朝画史)』
0694人間七七四年
2012/12/07(金) 22:46:14.99ID:EVzTm6u2権力に全くおもねらない
0695人間七七四年
2012/12/08(土) 10:04:23.82ID:Y0vRFKtcこれはその通りだな
こっそり来た人に挨拶したら信長に恥をかかせることになるだろうに
隣人は何を考えていたんだ
0696人間七七四年
2012/12/08(土) 11:49:39.21ID:ynrA/Zmy秀吉はなんかしでかしそうで怖い
0697人間七七四年
2012/12/08(土) 15:15:47.38ID:3t7cDR4o「角蔵流とはどんな流儀ですか」
と聞いてくる者があったから、
「鍋島喜雲の草履取りに角蔵という者がいて、
その者はたいへん力技に優れていたから、
剣術者の喜雲がそれに工夫を重ねて取手の角蔵流と名付けたものです。
これは組討ちやヤワラなどといった偉そうな流儀ではありません。
私が剣術を行うときに心掛けていることも、
それと同じくゲス流で、角蔵の取手のように、
とっさの役に立つものであることだから、
以前から私も角蔵流だと言っているのです。」
続いて、話題は恋の話となり、私は、
「究極の恋は心の中に秘める恋だと覚悟しています。
その人に逢って形に現す恋いでは恋の程度も知れている。
一生、心に秘めて、死んだ後の火葬の煙をその人が見て、
そこではじめてなにかを感じてもらえたならという心こそ、
恋の恋たるゆえんでしょう。歌に、
恋死なん後の煙にそれと知れ
つひにもらさぬ中の思ひは
というのがありますが、これこそが立派な恋だと思っています」
と言ったところ、そのなかの五人が、
「そのとおりですな」
と感心して同意してくださった。
それ以降、五人集まると、
「われらは煙仲間よ」
と笑い合った 【葉隠】
0698人間七七四年
2012/12/08(土) 16:16:10.30ID:QRCWIm9g0699人間七七四年
2012/12/08(土) 17:30:21.86ID:gVYu6ZUl0700人間七七四年
2012/12/08(土) 18:31:43.18ID:P09cG/B+奥深すぎてよくわからんわ
0701人間七七四年
2012/12/08(土) 18:40:13.73ID:qMHWH+Hsそれを伝えてしまっては、いろんな現実的なものが押し寄せる形而下的な物に転化するから、
恋の美しさ、純粋さを保つには秘めておくべきだ、という事なんだろ。
まあ葉隠のいう「恋』なんて、ほぼ衆道の恋のことだと考えていいんだがw
0702人間七七四年
2012/12/08(土) 18:42:51.60ID:/O4Wp2si衆道(特に主君に対する恋)こそが真の恋だとかはっきり言ってなかったっけ
0703人間七七四年
2012/12/08(土) 19:22:45.32ID:3t7cDR4o単品だとスレの時代範囲を越えてしまうけど参考までに、
『究極の恋の悟りは忍ぶ恋だろう。
恋死なん〜(略)という歌があるが、そのようなものだ。
生きているうちに、自分の恋を打ち明けるのは深い恋ではない。
恋いに焦がれて思い死にする恋が立派な恋だ。
たとえ思い人から、
「もしや、そうなのでは?」
と問われても、
「まったく思いもよらない話です」
と答え、忍びに忍んで口に出さず死ぬのが最高である。
恋というのは何と廻りくどいのだろう。
この前、ある場所でこれを話したら同意してくれる者が数人いて、
その者たちの間で煙仲間と名乗っている。
このことは、世の中を渡る上で全てのことの心得となるだろう。
主従のあいだなども、この心で奉公すればよい。
他人の目の届かないところの慎みこそが、
そのまま公の場所での慎みとなって現れるのだ。
誰知らず一人でいるときも、卑しい行いはせず、
他人には推測できない胸の奥ですらも、
卑しいことなど思わないように心掛けないならば、
どんなに外聞を飾ろうとも、いずれ公に胸の内の卑しさは知られるもの。
急ごしらえで消せるものではない』【葉隠】
とのことらしい
0704人間七七四年
2012/12/08(土) 19:25:46.54ID:Aw/fLFPQ0705人間七七四年
2012/12/08(土) 20:04:18.65ID:GbC7Nc8l細川三斎は武に優れ、また歌道を嗜み、父幽斎の風流に劣らず、茶道にも心を寄せて、
風流を愛する心優しい大将であった。(ホントにこう書いてある)
三斎は長崎表に異国船が入港すると聞くと、その地へ家来を派遣して珍しい品物を求めさせた。
ある年、興津弥五左衛門と言う侍に相役を一人つけて、異国船の珍品を買うため使いにやった。
この度は珍しい伽羅(香木)の大木が渡ってきたが、元木と末木の2つがあった。
丁度その折、仙台の伊達政宗からも、唐物を買うため役人が来ていたが、同じ伽羅の元木を競り合って
互いに値段をつけて争った。
興津の相役はこの状況を見て、このままでは値段がひどく高値になるから、同じ木のことだし
末木を買っていこう、と言い出した。だが興津は「立派な元木の方を殿は喜ばれるであろうから、
是非にもこれを買うのだ!」と言いはって口論となり、カッとなった興津は、ついに相役を
斬ってしまった。そして思った通りに元木の方を買い取って隈本に帰り、その経緯を述べて
切腹を願い出た。
三斎はこれを聞いて、自分への奉公のために相手を切ったのだから切腹を剃る必要は無いと言い、
相役の者の子供を呼び出して、決して興津を父の仇と恨んではならないとよく言い聞かせ、
自分の前で、その子と興津に盃を交わさせた。そのため、興津はその後も無事に務めに
励むことが出来た。
その後、三斎は他界した。やがて万治・寛文年間の頃、一周忌の折、興津弥五左衛門は山城の
船岡山の西麓で潔く殉死を遂げた。
大徳寺の清岩和尚は引導を渡し、手厚く葬ったとのことである。
そして興津が持ち帰った伽羅の木は類ない名香で、三斎は事に秘蔵せられ、
銘を初音と付けられた、と伝えられる。
(淇蝶庵翁艸)
0706人間七七四年
2012/12/08(土) 20:19:41.08ID:hhcMNr120707人間七七四年
2012/12/08(土) 21:55:40.75ID:QRCWIm9g…と、心優しい三斎様は思うのでした
0708人間七七四年
2012/12/08(土) 22:03:59.21ID:IZysI9lN王義之の写本の時のように元木を半分に出来なかったのか
↓
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
0709人間七七四年
2012/12/08(土) 22:04:06.47ID:ynrA/Zmy0710人間七七四年
2012/12/08(土) 22:04:05.90ID:gVYu6ZUlhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1365.html
三歳様は美術品関連だと割とまともなんだよなぁ
奥方様が絡むと瞬間沸騰しちゃうけど
0711人間七七四年
2012/12/08(土) 22:26:36.80ID:OLCesmLg0712人間七七四年
2012/12/08(土) 22:54:27.19ID:2PUqc9rqわざわざ>705がこう書かなきゃならないあたりに三斎様への信用の高さが窺える
0713人間七七四年
2012/12/08(土) 22:54:41.41ID:hfiJWi3Bそうそう、カッとなって人を斬るなんてよくあることだし?
忠義に厚い家臣のおかげで貴重な香木も手に入ったんだから
親を斬り殺されたくらいで騒いじゃいけないよなぁ
三斎様は心優しいなぁ
0714人間七七四年
2012/12/08(土) 22:56:10.32ID:qMHWH+Hs赤崎千夏とかいう次世代ナンバー1声優
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1354974478/
0715人間七七四年
2012/12/08(土) 22:56:44.66ID:qMHWH+Hs0716人間七七四年
2012/12/09(日) 00:01:14.27ID:nkpcJusa何故か相手が目の前で香木巡って口論はじめて激高して仲間切り殺しちゃった、と。
そりゃー競り勝ちにくいわなあ・・・。
0717人間七七四年
2012/12/09(日) 00:19:42.06ID:b4U4/JMy0718人間七七四年
2012/12/09(日) 14:52:27.05ID:wCSDCmbh忠興が香木を買い求めるらしいな、ひとつ邪魔してやれとか
そんな理由で家臣派遣してるだけなのかもしれないねw
0719人間七七四年
2012/12/09(日) 15:24:42.84ID:cUnb5seq江戸中期頃にこの辺の逸話を書き留めてくれていた先祖がいたらしく、
それをさらに大正ぐらいの人が日記に残してた。
・前にスレに出てた裸鎧の話で何人かが工場長に習って服を脱いだらしいw
うちの先祖が入っていたかは不明だけどそれなりの身分の人も混じっていたとか。
・工場長は家臣の顔と名をよく覚えていたらしい。
・家臣の手柄を褒めたときに何かあげる物がないときはとりあえず蒲生姓をというくらい蒲生さんがいっぱいだった。
・少し関係ないけど戊辰戦争後の会津藩士野ざらしの話も聞いた。
降伏後、少し埋葬を禁止していたら雪が降って土を掘れなくなってしまったそうだ。
それから先祖の同僚の話。
氏郷公が病に倒れるその少し前から臥せっていた者がいたそうだ。
あまり具合はよくなく、年も取っていたらしい。
しかし氏郷公の具合がよろしくないと聞いた途端、病を押して床を上げてしまったそうだ。
その後快方に向かってはいたが、氏郷公亡くなるの報の数日後、ぱったりと亡くなったらしい。
0720人間七七四年
2012/12/09(日) 19:36:22.64ID:DMf07Ddb徳川家康との会見を行った)
『水曜日の午前、使節は皇帝(家康)の秘書官である上野介殿(本多正純)に面会に行った。
羅紗、ガラス器、石鹸その他相応な贈り物をしたが、秘書官は大変に謝意を表し、受け取った後
しばらく手元に留めていた。
しかし、すぐに次のように言った
「私は贈り物を受納したが、これは、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)での価値では相当の
ものである。ついては、あなた方に自分の方からこれらを贈り返すので、それらは再び、他の
役に立ててほしい。
私にはこれらを受け取れない。もし受け取れば、自分の職務を忠実かつ清廉に果たすことができなくなり、
あるべきよう自分の主人に仕え、自分の担当となる交渉事について主人に真実を報告できなくなるので、
いかなる外国からもこのような進物は受け取らない習慣になっているのだ。」
我々はそれでも、この贈り物を嘉納してもらおうと何度もやり取りしたが、受け取らせるのは無理で、
むしろ彼は大変立派な理由で、受け取りの拒否を釈明した。それは異教徒のものでも、神や教えを持たない
人のものでもなかった。実際、彼には神の教え以外何ら足りないものはなかった。
この事は、同種の職務で王に仕える人々の模範となることだった。
その後、財務長官の家に行った。彼はジョサブロ(後藤庄三郎)と言う名だったが、この国を動かす
人物である。手ずから甘いもので使節と共の人々をもてなし、大変親切に接遇した。
使節は彼にも、羅紗と他のものを贈り物とした。彼は何のためらいもなくこれを納めた。
人の話によると、彼は金銀で600万を持っているにもかかわらず、四分銀(イスパニアの1ペセタ)よりも
八分銀(メキシコの1ペソ。1ペセタの倍の価値)を望む人物だからだ。
善処のため大いに尽力する、と申し出た。これを以って我々は宿へ帰った。』
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)
本多正純の廉潔、についての記録である。
0721人間七七四年
2012/12/09(日) 19:44:45.55ID:twLCN4Fg0723人間七七四年
2012/12/09(日) 21:23:14.71ID:FULY31Rh0724人間七七四年
2012/12/09(日) 22:17:03.58ID:UbfwYRJ/この伊藤豊後は、もともと九州日向、飫肥城の城主である伊藤修理の弟という。
天正十五年、秀吉の九州征伐の折、島津と組んで抗戦したが、やがて島津氏は降伏、伊藤修理は改易、伊藤豊後は流浪して岩倉に居を構え、豪族として住み着いた。
やがて時は流れ慶長五年、上杉が最上領を攻めた際、伊藤豊後は家来18人を率い、上杉方として参戦。
だが武運尽きたか、10月2日の八ツ沼の戦いで、伊藤豊後をはじめ家来一党みな討ち死にし、かろうじて山川儀助が伊藤豊後の嫡子・伊藤日向を擁護して、米沢に引き上げた。
直江兼続は伊藤豊後の戦功を賞し、伊藤日向に知行100石を給し、岩倉の地において会津との境の守備役に任じた。
九州から東北まで流れても武士として働き家を残した侍の、ちょっといい話として。
地元の史料に載っている、東北の僻地と九州を繋ぐ意外な縁。でも、文中の「伊藤」は「伊東」が正しいと思うんだ。
なお、文中の伊藤氏の子孫も地元に在住しており、その方の姓は「伊東」。
……九州の飫肥城ってったら伊東氏だし、子孫の方も伊東氏なんだから史料訂正してやれよ。
0725人間七七四年
2012/12/09(日) 22:17:43.30ID:mkdcHAvr報告、上納すればいいという単純な話ではないでしょ
0727人間七七四年
2012/12/09(日) 23:44:58.04ID:mkdcHAvr他国からの贈り物なんて、うちの国には融通効かせてくれ
の賄賂と考えて対処すべきものでしょ
0728人間七七四年
2012/12/09(日) 23:53:41.54ID:w8xpyTjrある時この神谷が城中で、当時徳川秀忠の老中であった酒井雅楽頭忠世と行きあった。
神谷はすぐに脇によって「キリッ」と礼をしたのだが、その時酒井忠世は考え事をしていたのか、
神谷に全く気が付かず通りすぎてしまった。
スルーされた神谷の心に、暗い焔が灯った
それからというものの、神谷は酒井忠世に出会うたびに無礼慮外を度々繰り返した。小学生かお前は。
ともかくこの神谷の忠世に対する人もなげな振る舞いはよほど話題になったらしく、ついに
家康の耳にまで達した。
「秀忠の重臣に対してなんという振る舞いだ!神谷には暇を出そう!」
そう言ったが、内々に神谷の行状を聞いてみると、彼は人品能く、殊更に奉公を第一に勤めている、
忠世の件がなければ武士の鏡のような男であった。
0729人間七七四年
2012/12/09(日) 23:58:52.36ID:PJ/srUfv0732人間七七四年
2012/12/10(月) 04:14:35.53ID:F0ft9ji40733人間七七四年
2012/12/10(月) 09:20:54.88ID:yiTP4QW90735人間七七四年
2012/12/10(月) 18:53:51.03ID:MgMcFtCU僕に命じて庭を掃除させ、その後に利休にも庭の掃除を命じた。
利休が庭を見ると掃除が行き届いておりどこにも手を下すべき所がなかった。
すると利休は林の中に入った。利休が試しに一本の木を揺らすと、落ち葉が
風に舞って地に点じ、庭は一段と風情のある味わいになった。
そして利休は紹鴎に「命を終えました」と告げ、庭を見た紹鴎は利休の奇才を
感じた。このために利休は紹鴎からことごとく秘訣を授けられ、ついには
茶博士の名を得ることとなった。
――『日本史伝文選(芸苑叢話)』
0736人間七七四年
2012/12/10(月) 21:12:46.09ID:zcsSTXjRhttp://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1355133116/
0737人間七七四年
2012/12/10(月) 21:36:40.40ID:C3FsAhZV有名な話の気がしたから既出でないかみてみたが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1787.html
ちょっと似ている話しかなかったか
(高山右近、古田織部、利休の話)
0739人間七七四年
2012/12/11(火) 02:45:59.87ID:y5JZlojb諸大名が来て謁する度に酒宴を催して丁寧にもてなし、あるいは囲碁を打ち、
茶をたて、歌謡や能楽などそれぞれの好みに従って愉快を尽くしていたのである。
要するに皆人の心を引き付け、握るためである。これは心が広く度量が
大きかったのであって、いわゆる天からの授かり物なのか、そうではないのか。
私が思うに天授であろう。
――『近古史談』
0740人間七七四年
2012/12/11(火) 18:28:56.51ID:MDsAJeiJ茶道具名品展に行こうと思うんだけど
戦国板民的には何に注目してみれば良いかな?
九十九髪茄子は当然チェックするとして
http://www.seikado.or.jp/fl_01_2013_01a.jpg
http://www.seikado.or.jp/010100.html
0741人間七七四年
2012/12/11(火) 20:32:19.96ID:fJz8buMZ信長が持ってたり(コレは本能寺で焼けたらしい)家康が持ってたり
同じ模様の茶碗は現存3個だったり(全部国宝)
再現しようと後世の陶芸家が人生注ぎ込んでたりとなかなかドラマチック。
見た目の妖しさもたまらん。
0743人間七七四年
2012/12/11(火) 22:31:28.62ID:vP7HWZQu0744人間七七四年
2012/12/11(火) 22:54:02.66ID:Lmq2x0dX土からにょきにょき生えてきたような力強さと暖かさ、
そして何よりも天衣無縫な無垢の風情がある。
井戸の良さが分かったら君も三斎さまやゲヒ殿の仲間だ!
0745人間七七四年
2012/12/11(火) 23:21:45.63ID:Ye7Kc8JL0746人間七七四年
2012/12/11(火) 23:23:42.60ID:qIZco8yB0747人間七七四年
2012/12/11(火) 23:25:47.46ID:wMrRmq/a0748人間七七四年
2012/12/12(水) 05:12:31.68ID:dEDKJLct0749人間七七四年
2012/12/12(水) 06:30:14.24ID:2RxkZ+Lr0750人間七七四年
2012/12/12(水) 10:19:13.76ID:p8wEpweF0751人間七七四年
2012/12/12(水) 10:47:13.22ID:bSyhxQ0u0752人間七七四年
2012/12/12(水) 11:26:38.12ID:71tMdzYn0753人間七七四年
2012/12/12(水) 14:58:22.95ID:NFN2iKPF0754人間七七四年
2012/12/12(水) 16:54:27.71ID:IzHhLh63光秀には一切同情出来なくなった
0755人間七七四年
2012/12/12(水) 17:35:52.35ID:p8wEpweF伊達政宗「大切に」
松永弾正「扱いましょう」
0756人間七七四年
2012/12/12(水) 17:49:53.63ID:DWwV7Fb9皆が馳せ出て供奉しようとしたのだが、本多正信が制し止めた。
家康は素肌に鷹の羽を散らしたはな色の羽織を身につけ、鹿毛の馬に乗って城溝の辺りに
立った。城中より撃ち出される弾丸が雨のように降り注いだがいささかも怖れず、加賀越前の
丁場まで巡視して住吉の陣へ戻っていった。
この時のことであろうか、弾丸がしきりに降り注ぐので正信は「こんな所に長居されては
危険です。早くこの場を離れてください」と言うも、家康は聴く耳を持たない。
そこへ初鹿野信昌と横田尹松が進み出て「殿はもとより鉄砲の激しい所をお好みですから、
ここより船場の陣には大砲を仕かけてありますので、ちと御覧くだされ。いざ御供いたす」
と進言すると、家康は船場の方へ馬を進めた。
そこは蜂須賀家の持口で城より遠いので弾丸の来ることは稀であった。
「大将が巡視に出て弾丸が恐ろしいと引き返せば三軍の示しにならない。さすがかの両人は
甲州者だけあって軍陣の法に練熟しておる」と家康はいたく賞誉した。
――『徳川実紀(大坂覚書、感状記)』
一方、息子も似たようなことをやっていた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3141.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1681.html
0759人間七七四年
2012/12/12(水) 18:38:37.12ID:Iwm4yr/n0760人間七七四年
2012/12/12(水) 18:49:30.55ID:CFkShBtGこのスリルが病みつきになると
銃弾が降り注ぐ中で弁当まで食べる戦中毒になるのかw
ダメ。ゼッタイ。
0761人間七七四年
2012/12/12(水) 19:29:52.90ID:5C2y/gx8前この板で教えてもらったよ
0762人間七七四年
2012/12/12(水) 20:04:56.01ID:R9HsZojG0765人間七七四年
2012/12/12(水) 21:59:58.43ID:y3Mapzw0金剛峯寺「もう少しで危なかったぜ」
0766人間七七四年
2012/12/12(水) 23:40:35.55ID:v4yYEJ1c国宝といえば、あの金閣が、無事終戦を迎えたと思ったのに放火犯のせいで
灰になっちまったよな。
上杉と武田が好きな身としては、光秀の行動は敵討ち&天佑神助に他ならぬ。
0767人間七七四年
2012/12/13(木) 11:19:07.67ID:ybktTOB5園城寺の焼き討ち避難スキルは異常
なんであんなに繰り返し丁寧に焼かれたのに文物が残ってるんだよw
0768人間七七四年
2012/12/13(木) 13:01:19.67ID:Nve3RQsUもちろん嘘の伝承なんだけど
0769人間七七四年
2012/12/13(木) 18:22:11.73ID:yjCfw0+Oよく考えたら東大寺文書クラスの巨大資料があっておかしくないはずなんだよね
東大寺も南都焼討とか焼けてるのに残ってるが
日向で寺社を焼きつくした大友宗麟もそうとう日本史上の損失を出してると思うが
0770人間七七四年
2012/12/13(木) 18:29:18.58ID:M2ffKdI/0772人間七七四年
2012/12/13(木) 18:46:12.24ID:CYXWa7OJ0774人間七七四年
2012/12/13(木) 22:33:29.50ID:D5rAFJin07751/2
2012/12/14(金) 06:02:36.12ID:djwypYrW秘書であるコンセクドノ(上野介殿:本多正純)から私に、皇太子の手に接吻しに行く事ができると
知らせてきた。それで午後4時に赴いた。
あの日、私が見た城下住まいの武士や兵、並びに王城や建物などに関する偉大さを上手く言い表すのは
無理である。
最初の門から皇太子の部屋に至るまで、絶対に二万人以上はいた。それも外から来たのではなく、
俸給を貰って城中の様々な役についている家来である。
主として最初の石垣は極めて大きい石塊に加工を施した石で出来ていた。城壁に組み合わせて
積み上げられているだけで、石灰も他の漆喰も何も使われていない。
城壁は大変幅広く、大砲を撃てるように狭間がついている。僅かだが、狭間のいくつかには
砲を据えていた。この城壁の下には濠があり、川に洗われている。跳ね橋が付いていて、これは
かつて見たことがないほど巧みな技術でできた橋だった。
門扉は頑丈で、私を通す時に開かれたが、火縄銃隊とモスケット銃隊が二列で現れた。もし誤魔化されて
いなければ千人以上居たのではないかと思う。この隊長がそのように言ったのだ。
隊長は第二の門まで付き添ったが、そこでまた別種の堤のような作りの城壁を見た。最初の城壁から
次まで300歩の距離があった。こちらは長槍と短槍兵400人が居た。
第三の門へと導かれたが、それは小石でできた高さ4バーバラの城壁が付いていた。ここには火縄銃・
モスケット銃、のための半月堡、またマングイナタス(薙刀)隊用のそれのようなものが間隔を置いて並んでいた。
薙刀とは矛槍のようなもので、それを携えた、数にして300人の兵士が居た。
この人々は三つの門扉の間に居住し、家には非常に美しい庭と市中を見渡せる窓が付いていた。
第三の門扉を通り抜けると間もなく居城に入り、その側に200頭以上の馬を擁した厩がある。
よく世話が行き届き肥えているので、まるでイスパニアと同様に調教師が居るかのようである。
馬は非常に満足できる状況で一頭ずつ二本の鎖の端綱で繋がれ、足蹴りを人に食らわせないように
臀部を壁に、顔は馬小屋に入る方に向いている。
厩に相対して皇太子の武器庫がある。彼が使う胸当てで、金色仕上げのものや長槍、槍、火縄銃、刀など
豊富に納められ、10万の人間を武装させるのに充分な武器を備えている。
その前方には城の最初の広間が続く。そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのような
ものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、
金の花模様のビロードの縁で飾られている。形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。
壁は木と板で仕上げられていて、狩猟に関することが金や銀、その他の色彩で色調を見事に整える。
天井も同様で、生地がわからないようにしてある。
我々外国人の目にはこの最初に広間以上のものは望めないと思ったのだが、次のものはもっと素晴らしかった。
第三の広間にいたっては他に抜きん出ており、先に進めば進むほど一層豪華で珍重になっていった。
これらの広間はいずれの間でも武士と貴族らが私を出迎えてくれた。自分の持ち場を超えないように
それぞれ制限付きの権限を各人が得ているのではないかと私は思った。誰かが私から離れると、
別の者が迎えたからだ。
07762/2
2012/12/14(金) 06:03:22.59ID:djwypYrW床の上に先に述べた敷物を敷いて座っていた。金の縁取りのある深紅のビロードの絨毯のような
四角の布とともに、キモノと呼ばれる二着の衣服で、緑と黄色に装っていた。
そしてカタナという剣と短剣をその上にくくりつけていた。
頭は頭髪を色帯でまとめて乗せているだけだった。
35歳の、浅黒いが立派な顔立ちと体格の男性である。
私に付き従ってきたものには(前の広間に)居残るように秘書官が命じたので、私が席につくまで
入れたのは秘書官のみだった。座るのは皇太子のそれと同様床の上ではあったが、彼から
四歩くらいの近距離で、左側だった。すぐに帽子を被るようにと私に命じた。
皇太子は笑いながら通訳に向かって、私に会えてどれだけ嬉しいか、私を知ることは彼の心痛となる。
何故なら私が自分の難破で悲しんでいるに違いないと思うからだ。私のような高位の人間は、
自分の咎が原因ではない不幸な出来事で悲しむべきではない、と言って、私を励まし、この国で
私に為されることはことごとく恩恵である、とも言った。
私は謝意を表しそして出来る限りを尽くして答えた。航海やナオ(スペインの外洋船)に関する質問をして
半時ばかり私を引き止めた。最後に私は彼の父である皇帝(徳川家康)の所へいつか伺候する許可を求めた。
翌日は無理だったが、4日後に出発する許可を与えた。というのも、まず父親に知らせ、道中、宿泊と、
私という人間にふさわしい歓待を命じておきたかったからだといった。
以上を持って私は暇乞し、宿舎へと帰ったが、もう遅い時間であった。』
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)
1609年の江戸城と徳川秀忠に関する記録である。
0777人間七七四年
2012/12/14(金) 08:08:43.87ID:wDwyjJQi>そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのようなものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。
>もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、 金の花模様のビロードの縁で飾られている。
>形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。
畳の説明が新鮮だw
0779人間七七四年
2012/12/14(金) 14:55:53.82ID:4jQEhxxK0780人間七七四年
2012/12/14(金) 17:04:12.73ID:qw3BQS3pこういう外国人の目線からの説明って独特で面白い
あとマスケット銃と火縄銃って違うものなんだな 同じだと思ってた
0781人間七七四年
2012/12/14(金) 17:25:54.69ID:2nZvKz8E日野亜相、京極忠高がこれに相伴した。
やがて本城に移り秀忠が本日の謝詞を述べる。この時家康は秘蔵の楢柴、
投頭巾扇付という名器を取り出し「好きな物を取られよ」と言い、秀忠は
投頭巾を請いうけて西城へ帰った。
その後、近臣らが「今日、御所は殊に御悦びでした」と家康に申し上げると、
家康は「汝等も将軍投頭巾の茶宴に巡り会うだろう」と、顔じゅうに笑みを
浮かべたという。父子の睦まじいことは、見聞きする群臣を感嘆させた。
――『徳川実紀(駿府政事録、創業記)』
0782人間七七四年
2012/12/14(金) 18:02:21.54ID:2nZvKz8Eすいません、ちょっと訂正します。
×父子の睦まじいことは、見聞きする群臣を感嘆させた。
○父子の睦まじい姿に見聞きする群臣は涙を流して感激した。
0783人間七七四年
2012/12/14(金) 19:11:16.06ID:YmFPR2w8当時は薙刀なんて実戦用の武器としては廃れていたと思ってたんだけど、
まだまだ使われていたのかな?
0784人間七七四年
2012/12/14(金) 20:23:20.10ID:CZ8OZ3WJ0785人間七七四年
2012/12/14(金) 20:44:32.36ID:lfOcY0i30787人間七七四年
2012/12/14(金) 20:49:28.59ID:E80ktpGd0788人間七七四年
2012/12/14(金) 22:39:49.93ID:rhWyyrFaマスケットって小銃の総称だから、本来の意味では火縄銃をマッチロック式マスケットと呼ぶべき。
だから、ここで分けてる意味が全くわからん。
スペイン人の認識として、マッチロックとマスケットを分ける何かの境目があったんだろうか。
0789人間七七四年
2012/12/15(土) 01:39:20.07ID:5v0Wtm+x0790人間七七四年
2012/12/15(土) 03:09:59.86ID:mRNRElBD鉄パイプの先に銃剣付けただけでショボい薙刀みたいな代物だな
0792人間七七四年
2012/12/15(土) 11:20:30.87ID:5v0Wtm+x鉄砲足軽の持つ2匁半筒=アルケブス(小型火縄銃)
徒歩や侍の持つ6匁目から10匁目の侍筒=マスケット
こんな感じだろう
0793人間七七四年
2012/12/15(土) 14:06:26.57ID:vPqhXWbg向こうの人からすれば同じ機構でも用途やサイズが違えば違う種類の銃って事なのかな
0795人間七七四年
2012/12/15(土) 16:06:56.21ID:6Fjeq5I5でも、日本式の類別だと、火縄銃が全体を表す言葉で、そこから細分化して鳥銃だの大鉄砲だのになるわけだろ?
訳文が悪いだけ、って気もするけどなー
0796人間七七四年
2012/12/15(土) 16:45:57.09ID:v3v4gbAu日本で量産できるようになった時点で
日本の気候や戦略にあったものに変化するわけだけど、
その一つ一つをちゃんと理解した南蛮人もそうは多くなかろう。
その一方で、銃の歴史そのものは南蛮人の方が長いので
彼らは彼らで多数の語を銃のタイプに当てはめていたわけで
まあ、ちかい語をあてる方が楽ちんw
それに本国の報告書に長々とした説明はできん、
というわけで多少誤解はあるかもしれないけど
もうこれでいいや、となったのではないだろうか?
0797人間七七四年
2012/12/15(土) 16:57:37.97ID:pi7O1z6D画像がひとっつも出てこない。どんなんだろか。
0798人間七七四年
2012/12/15(土) 18:44:56.64ID:XHek4QUf折などに飲みすぎると、必ず喧嘩を始めるものだから慎まなくてはならない。
軍陣や鷹野の時には下戸も一盃飲めば勇気が出てきてひとしお精の入る
ものだ。しかし、小盃で長々と飲むのは何か祝言の席のようで弱弱しい。
上戸が茶碗などで、すぱすぱと一息に飲む姿こそ見ていて心地がよい」
――『徳川実紀』
0799人間七七四年
2012/12/15(土) 18:50:59.22ID:MLXmjZsXギザギザハートの暴れん坊だった権現様だけに説得力がある
0800人間七七四年
2012/12/15(土) 18:52:23.44ID:O0pXVcS+0801人間七七四年
2012/12/15(土) 19:11:11.21ID:mRNRElBD0802人間七七四年
2012/12/15(土) 19:17:15.72ID:6eAZaUB+0805人間七七四年
2012/12/16(日) 11:52:44.29ID:WnokO+Fz0806人間七七四年
2012/12/16(日) 17:33:52.74ID:Ayo6ozKd0807人間七七四年
2012/12/17(月) 11:06:54.34ID:bP7jvpZP『百姓の苦しみは、一粒百行といい、その前年の秋より、種を取り、様々な準備をし、春にいたって
その種をおろし、夏に至ってこれを植え付け、耕耘の功果てて後、秋に至ってこれを刈り、扱き、搗いて、
ようやく米となるのである。
その米によって我々上に立つものは養われている。百姓の千労万苦、血の涙を流すほどのものである。
聖徳太子のお言葉に、この様なものがあるそうだ。
民の苦しみ流す汗は、みな血の涙である、と。
これ故に君子は、一飯を食する間にも、民百姓の艱苦を思うのだという。
だからこそ、地頭・代官たる者が、民を虐げ富を貪るというのは、天の憎しみ深い物なのだ。
次に職人は、諸々の大工・小工、家を造り人をして、雨露、霜雪を凌がせ、
船を造り橋をかけ、海川を渡して人の助けをなす。
武器に至っては、職人によって作られる物品は非常に多い。
これらは皆、工人の業功であり、それによって我々が得られる利益は莫大である。
また商人の功とは、ここに何か物品がない時、別の場所より買い取り、
別の場所に無い物品はこの方で買って、金銀・銅鉄・瓦石・諸物・衣服・飲食等、すべてのものが揃わないということが
無いようにし、我々に居ながらにしてそれらの物品を購入し使用する自由を与えてくれる。
これこそ商人の力である。
故に、我々武士は、農・工・商の3つのものを、最も慈しむべきなのである。』
(武野燭談)
0808人間七七四年
2012/12/17(月) 14:34:17.73ID:X8BtFzeD0809人間七七四年
2012/12/17(月) 14:50:41.40ID:mTxjSZHZ0810人間七七四年
2012/12/17(月) 16:56:08.18ID:+P7aYMBB0811人間七七四年
2012/12/17(月) 17:51:05.41ID:GLdB4Yh10812人間七七四年
2012/12/18(火) 21:31:28.72ID:JaAwW5wF「私は親父が七十歳のときに生まれた赤ん坊だった。
体も弱く病気がちだったから塩を扱う商人に養子として送られるところを、
多久図書殿が色々と口を利かせてくれて、
九歳のとき、光茂公の走り使いの役に使ってもらえるようになった。
光茂公は私に、不携という名前を付けてくださった。
されど、私は城では光茂公や綱茂公の個室にある、
コタツの上でハシャギ、悪戯遊びをするのがなにより楽しかったから、
その時期は光茂公、綱茂公は私をどうしようもない悪戯者だと思っていたとのことだ。
その後、十三歳のとき、元服するよう光茂公から仰せがあったので、
それから一年間自宅に引きこもって準備と覚悟をして、
翌年の五月に城へと出仕して御小姓役を勤めた。
そして時の進むうち、倉永利兵衛になにかと目を掛けてもらうようになり、
利兵衛から上役のほうに、
「あの者は和歌もたしなむので、
光茂様からも直々にお召しがあるほどです。」
と申し上げてくれたのだが、
かえってそれが上役の不評を買い、私は干されることとなった。
利兵衛が私を推薦するつもりであったことは勿論わかっている。
この件以降、江戸へのお供もしないで、
何もすることなく、ぶらぶら遊んでいたのだが、
いろいろと不安な気持ちも出てきたので、
父と親しくしていた、湛念和尚のところへ行きよく話すようになった。
そんななか、いっそのこと若いながら僧侶になろうかとも思っていた。
そんな私の様子を見ていた親戚の山本五郎左衛門が、
父が加増された知行地を私に分けてなんとか武士の道に戻らせようと、
中野一門皆で秘かに相談していたと聞いた。
それを知った私は、それは神仏に誓っても受け取らないと覚悟していたところ、
請役所へ呼び出されて鍋島本家から直々に扶持米を頂くこととなった。
本家から扶持を認められた以上は、
他人から見下されるような武士では無念である。
どうすれば武士としての気持ちよい奉公が出来るだろうかと、
日夜考えていたのがこの時期である。
そんなときに、ある歴戦の老武者から、
「名誉と利益を追うような者はサムライではない。
しかし、名誉と利益を追わない者もサムライではないのだ。
この道理を真剣に考えて行動しろ」
と教えられ、それを考え抜いて納得することが出来た【続く】
0813人間七七四年
2012/12/18(火) 21:54:52.45ID:JaAwW5wF主君にすらも諫言して自分の国になんらかの貢献をすることである。
下の方でグズグズしているだけでは役に立たない。
奉公すると決めたなら、ともかく主君に諫言を受け入れてもらえるように、
己をそのような位置にまで持ってゆくべきである。
まあ、それでもあまり早い出世は昔から波風立って好ましくないから、
五十歳から出世するよう、そのための工夫、修行に全力を注いだ。
血の涙とは言わないが、目から小便が出るくらいの苦労は我ながらしたつもりだ。
この時期の工夫が、私がよく話す、角蔵流の泥臭い努力だったと思う。
そんな時期に、殿が亡くなり、
以前からいた上役たちは臆病風を吹かしてしまい、
世間の評判を落とされたので、
そういう成り行きのなか、私も隠棲者となってしまった。
形の上では本意を遂げることは出来なかったが、
武士の心意気は最後まで失わなかったと自分では思っている。
人間が本気で決心すれば、望みは形は変われど叶うということだろう。
逆に奉公する者が罰を受けるのは、
自慢と奢りからくる天罰だと思えばよかろう。
こんな身の上話をする私を、誠に高慢者のように思うだろうが、
つかみきれないこの世の中で、
不思議な因縁にひかれ、私の山家を若武者たちが訪ねてきてくれるので、
なんの遠慮もなく、あるがままを話したのである【葉隠】
0814人間七七四年
2012/12/19(水) 01:36:30.28ID:8ELvZjMC0815人間七七四年
2012/12/19(水) 04:37:26.00ID:F6PdzPoTそれが本気の決心なんだろう
0816人間七七四年
2012/12/19(水) 05:41:15.93ID:lmqUdhCU全員無事で、神と陛下によく奉仕でき、かの(北関東から東北の)海岸線に至る全ての領主と
その家臣らを友にし、我々のキリスト教の信仰に惹かれるようにしてきた。
多くの、しかも大変良い港を、それも大変良い場所に、さらには(伊達)政宗のような
大領主の領地に発見した。
政宗は、領内に来たイスパニア船は常に良好な待遇と補給を受けうることになるので、必ず
その領地に向かうことになるだろうと言った。また自分の家臣がキリスト教徒になるように望む、
とも言った。
江戸に到着すると直ぐ、司令官は皇太子(徳川秀忠)の顧問官らに使いを送り、帰還を知らせると共に、
補給を受けたいものがあるので浦賀港に向かい、その後直ちに御手に接吻するため目通りをし、
発見したものの図をご覧に入れるため立ち戻りたいとの許可を求めた。
その許可を得。(江戸藩邸の)件の政宗にも同様の使いを送った。彼は
「自分に会わぬまま先に行かないでほしい。月曜日に昼食を共に出来るよう自分の屋敷で待っている。
司令官に会わない1時間は1年にも思える」といってきた。
午後3時に我々が彼の屋敷に行くと、彼は司令官と、パードレ・フライ・ルイス・ソテロに
親愛の情あふれる接待をし、神父に見せる尊敬と敬意は言葉では言えないほどだった。
食べ物を手ずから運び、酌まで取り、司令官にも同様にした。
「自分たちは友で、永久にそう望み、武器に誓ってかくありたい。故にカタナを授与するので
自分には懐剣を」と述べ、その様にし、大変恭しく懐剣を受け取った。
十字架に接吻して剣を頭上に押し頂き、彼の流儀で他の儀式も行った。それは中々見物で、
イスパニア人にこれほど殿が好意を示すのを見て、家臣らはたいへん驚いていた。
政宗は極端なまでのことをし、普通なら彼の前には罷り出られないような身分の家臣まで饗応に
呼ばせた。そしてこの者に
「汝は我が家臣である。土下座せずには我が前には出られない輩であることは汝自身がよく知っている。
だが汝はキリシタンで、司令官の友である故に、今日我が食卓に共に着くが良い。殿の三つの印をつけよ」
と言った。これには他の者は驚愕してしまった。
キリシタンの家臣らはパードレの修道服に接吻し、我々の信仰のことを知るために修道院に参じたいと
言った。食事と会話の際に、我々のキリスト教について話が行われた。
彼(政宗)はキリストの漁する網の近くに居た!神よ、その智を照らし給え!この者が受洗した暁には、
キリスト者の保護者と成り殆どの者が改宗する源となるだろう。何故なら、この国のキリスト教は
大根から葉が生じていくように、今日まで逆さまな形で始まってきたからである。
キリスト教に入信したものは貧しい役人や漁夫、平民で、貧しい修道者に保護や支援を与えるどころか、
逆に自分たちが援助されることを望み、献金はわずか。
その上彼らの先祖はキリスト教徒ではないため、先祖のためにミサを挙げて貰う必要もなく、
ミサの依頼も全く無く、宣教師らは自活の手段を持たなかった。
祈りの刻に我々は自分の宿舎に戻ったが、この領主の良き素質を見て大変幸せだった。
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)
スペイン人使節と伊達政宗との会食、およびキリシタンの事情についての記録である。
0817人間七七四年
2012/12/19(水) 19:17:02.57ID:7I0rTZeL0818人間七七四年
2012/12/19(水) 19:37:11.91ID:rIv0vERYイスラム教原理主義派を背景にした戦士は強いしさ
一向衆も強いけどよくよく教え読むと逃げても救われる教えだからな
0819人間七七四年
2012/12/19(水) 20:24:50.05ID:2NOO+mdG0820人間七七四年
2012/12/19(水) 22:21:23.86ID:lmqUdhCU翌天文四年正月18日、元就は和睦の御礼として、供廻り50人足らずで、宍戸氏の居城・甲立へと訪問した。
吉田と甲立の間は一里ばかり離れていたので、先ず御遣いのものが遣わされ、それに対応するため
宍戸家からも人数が甲立城下川端まで、御案内のために出された。
彼らは毛利家の使者が口上で、元就の御出参の事を申し上げると、それに相当の返答をし、
元就は直接に城に入った。
城では元源親子が揃って元就を待っており、一礼がすむと、種々様々な御馳走は浅からぬものであった。
食事が済むと、元就は城を立とうと思ったが、だんだんと元源と話をしている内に、
「この様に心安く対話ができるとは、一世ならぬ奇縁だと思います。今夜はこちらに留まらせて頂き、
終夜あなたの物語を聞きたく思います。」
と話すと、元源は大変機嫌を良くし、夜陰になっても様々に馳走して、その後寝所を同じくして
元就・元源は枕を並べて、終夜雑談をしようということになった。
そのはじめに、元就が言うには
「あたなのご嫡子、雅楽頭殿には、未だにご縁組も、結婚の約束をしたものも無いと聞いております。
そうであるなら、私の娘に、年齢も相応なものが居ります。これを宍戸家に差し上げたいと思っているのですが、
これを奥方とご相談為されて、ご了承頂けるのなら、私も本懐に思います。」
宍戸元源はこれを聞いて「さて!御年相応なご息女がいらっしゃるか!これは幸いなことです!」
と、早速奥方のところに行って報告し相談をし、その上で奥に元就を呼び込んで、
親同士相対した上でこの縁談を結んだ。
双方祝詞を仰せられ、喜び限りなかった。
その後、元就は語表にて朝食を召し上がり、心静かにお話などされ、そうして吉田へと帰った。
(吉田物語〉
毛利元就と宍戸元源、姻戚関係を結ぶ、という逸話である。
しかしこの手の逸話で、婚姻の許可を得るため、旦那や相手方の父親まで奥さんと相談する、という
話は始めて見た。中国地方はやっぱり女性の権威も強かったのでしょうかね?
0821人間七七四年
2012/12/20(木) 00:08:05.36ID:yEemqBjP…悪い話?
0823人間七七四年
2012/12/20(木) 01:13:25.36ID:9OF+tPRb16〜7cのイスラム系帝国で強兵ってイエニチェリやシク教徒傭兵みたいな
他の宗教の信者を使ったものが多いんだが。
0824人間七七四年
2012/12/20(木) 03:45:45.49ID:P+Mx/twC0825人間七七四年
2012/12/20(木) 08:39:21.11ID:mpeSImtt0827人間七七四年
2012/12/20(木) 10:04:42.98ID:puc7QdPA元就さんは礼儀ができてるのが当り前のレベル
0828人間七七四年
2012/12/20(木) 10:43:21.87ID:t2vv/StO秀吉が家康を落とした手口とそっくり。
0829人間七七四年
2012/12/20(木) 20:38:11.95ID:RoeqA+hv0830人間七七四年
2012/12/20(木) 23:55:28.55ID:C4w1xGjFいつでも知行の半分を分かち与えていた。
長久手の役で羽柴秀次が敗軍したところ、秀吉は怒って吉長を咎めた。
このために吉長は日蔭者になっていたのだが、福島正則が七百石で召抱えた。
そこで吉長はすぐに三百五十石を分けて久右衛門に与えた。
――『名将言行録』
0831人間七七四年
2012/12/20(木) 23:58:09.95ID:M59km+lBしかも宍戸の五龍城が堅城すぎて毛利側は負けまくり
0834人間七七四年
2012/12/21(金) 11:08:05.07ID:5JGushqd0835人間七七四年
2012/12/21(金) 11:08:05.28ID:1dAM2XsE0837人間七七四年
2012/12/21(金) 14:37:12.70ID:KpklqrfU牛島新五郎の妻は権藤七兵衛の妹であった。
その七兵衛が、江戸で遊廓通いをしていることが表沙汰となり、
上役たちの相談の結果処分を課されることとなった。
戦の世が終わり、風俗がだらしなくなってきた時期でもあり、
周囲の者たちへの見せしめのためを思い、
七兵衛の所属する一門から縁戚のはしばしまで厳しく咎めることとなった。
そういうわけで新五郎もすぐに国に呼び戻され蟄居となった。
新五郎のまわりの者たちは、
「新五郎殿は上役からの覚えもよいのだから、
すぐに七兵衛殿の妹と離縁するべきだ。
さすれば、新五郎殿までお咎めを受けないですむ。
たった四石の扶持で蟄居ではいずれ暮してゆけなくなりますぞ。」
とたびたび意見を述べにきたのだが、新五郎は、
「男女の情にひかれて離縁を拒んでいるのではない。
自分の身が立つからと理屈をつけて、
罪もない妻を去らせるのは義にはずれたことだろう。
飢え死にする覚悟を決めたので、
もはや私におかまいくださるな。」
と言い、ついに首を縦にふらなかった。
新五郎は三年の後、復帰を認められた 【葉隠】
0838837
2012/12/21(金) 17:55:06.25ID:KpklqrfU漢字間違い訂正
0839人間七七四年
2012/12/21(金) 21:59:25.08ID:85L79Sj0上野国利根郡に三千貫の地を領した。
後北条氏の滅亡後、徳川家康が戦死した者の首帳を見ると泰親の名前がなかった。
そこで家康は「きっと当地にいるはずだ」と井伊直政に命じて探させた。
その後、直政の調査によって泰親は先の松井田城の戦いで深手を負って既に
死に際の状態であることがわかった。直政の報告を受けて家康は「かねてより
泰親は忠実の者と聞いている。ぜひとも死ぬ前に目にしておきたい。
籃輿に乗せて連れて来るのだ」と命じた。
さて泰親が板扉に乗せられて御前に現れると家康は側近くに寄り、非常に
沈痛な面持ちで「この傷が治った時には不動山の城主とし、譜代の大名に準じよう。
それまで心のままに養生せよ」と言葉をかけた。また当分の費用として月俸百口を
下したものの、泰親は亡くなった。
そこで家康は泰親の子で当時六歳の助兵衛政親を直政に養わせ、成長した後に
父の跡を継がせたのだという。
――『徳川実紀(諸家譜)』
0840人間七七四年
2012/12/21(金) 22:27:39.82ID:mg3ksSrF0841人間七七四年
2012/12/21(金) 22:48:42.84ID:rc3mURLw0843人間七七四年
2012/12/22(土) 03:16:31.31ID:/5ZuVw+s0846人間七七四年
2012/12/22(土) 10:19:08.24ID:i3tuzY2E0847人間七七四年
2012/12/22(土) 11:51:53.05ID:kntVdV6w0848人間七七四年
2012/12/22(土) 12:18:17.88ID:yefrraZv0849人間七七四年
2012/12/22(土) 23:22:53.40ID:+5dY7iLnすまん、それ読んだことない。
読んだことのある葉隠題材のもので面白かったのは、
滝口康彦の「権平けんかのこと」
読後の爽快感が最高なのでオススメ!
マンガの「シグルイ」はネカフェで10巻くらいまで読んだけど、
あれには爽快感なかったw
0850人間七七四年
2012/12/22(土) 23:23:58.75ID:1bAaG98aある時吉川元春様より、宍戸隆家へ年松彌六と申す者が御使として差し越された。
彼は甲立(五龍城)に登城し、元春からの口上を申し上げようとすると、その日は丁度
元就公の御忌日であり、宍戸隆家は書院の床に御位牌をかけられ、その御位牌の前に
座っておられた所に使者がやってきたため、そこで隆家はこの彌六を側に召し、直に
その口上を聞かれた上で、この様に言った
「今日は元就公の御忌日であるので、出家などを招いて焼香をするのだよ。
これについては、家来たちには焼香を免していないのだが、そなたは元春殿の名代として
こちらに来ているので、尊霊に御焼香されるように。」
彌六は恐縮し辞退したが、再三に仰せ付けられたため、お次の間に立って別の香炉に火を入れ
持参し、書院に戻ってこれに焼香した。
この時隆家が彌六に語ったことには
「その方などは歳若いので、元就公のご生前の、常の行状なども知らないであろう。
元就公は、先ず常には物静かで、落ち着かないような気色など少しも見えない人であった。
どれだけ諸方から急難が報告され、大敵が攻め寄せてきたという時でも、いつもと変わった
御気色もなく、却って、春は花、秋は紅葉と、その季節の風景によって連歌の会を開いたり、
歌などを詠まれる事も多かった。
私は最初、軽業などは苦手だと思っていたのだが、馬を乗り弓を射、太刀を遣い走り来る、
こういった飛び技まで優れた人であった。
そうであったから、家中に侍たちは言うに及ばず、新たに幕下に加わり初めて対面するものまで、
この人こそ主君であると頼んだのだ。
元就公は一言の約束が、たとえ年月を経ても、違えること有るまじと、好意を表すように
律儀第一にされ、夫々の者たちに対して礼儀深く、慮外な振る舞い、奢った行跡など露程もなかった。
土民に至るまで、無理非分の事が少しもなかったので、人々はことごとく公を慕い、
『どんな役儀であっても申し付けて下さい!元就様のために御奉公をしたいのです!』
と思い立っていた程の仕置を為されていた。
また、非常に細かく心遣いを為されていた方であった。
公は、夜ぐっすりと眠られるということはなかった。硯・料紙・灯を枕元に置かれ、
諸所や国境に置かれた侍たちに、その時その時に適した指示書の案文、その他要件の事など
思いつき次第に書き置かれ、翌朝家老たちが出仕すると、書付を元にいろいろな指示を
申し付けられたのだ。」
(吉田物語)
宍戸隆家の語る、毛利元就の姿である。
0851人間七七四年
2012/12/23(日) 00:20:00.20ID:tsA5WNC2隆元やTERUが自虐気味になるのも仕方がない。
0852人間七七四年
2012/12/23(日) 00:30:53.46ID:E8N7OZZb信用とか内政手腕は元就を凌いでいるじゃないか
0853人間七七四年
2012/12/23(日) 01:18:18.62ID:yU+K4tyY0854人間七七四年
2012/12/23(日) 03:36:30.71ID:mWfnJU9O毛利輝元は秀吉死後の混乱に備え、
大阪の毛利屋敷に2万の兵と鉄砲700を備えさせていたという
最終的にはこの毛利勢2万を利用する形で西軍が形成されるんだけど、
この辺りの周到さはTERUも乱世の人だなぁって思うわ
0855人間七七四年
2012/12/23(日) 03:51:06.29ID:Aj3PgZs/0856人間七七四年
2012/12/23(日) 08:53:20.13ID:qZHo839Dそれのネタって、いつもホラ吹き全開な内藤周竹さんあたりじゃなかったっけ?
三成襲撃事件などでも、広家が自領から兵を率いて急行してたりするから、
上方に極端な大兵力は置いてないんだけどね。
0857人間七七四年
2012/12/23(日) 12:06:50.54ID:mWfnJU9Oたしかに内藤小源太のやつだねー
三成の件の後に常駐させていた(数にフカシはあっても)可能性もあるし
個人的にはそういった戦力がないと西軍を結集するときに
諸大名を糾合するのに必要な物量がなかったんじゃあ…と考えてるんだけど、どうなんだろ
0858人間七七四年
2012/12/23(日) 12:14:02.54ID:qZHo839D一応、三成事件の前も伏見に1500程度はおいてたから
あわせて三千程度ならあるかもしれんが、それ以上の数は
毛利氏の動員力的に無理だと思う。
文禄、慶長の役でさえ、軍役を満たせてなかったし。
0859人間七七四年
2012/12/23(日) 12:31:28.97ID:c4lJcLo90860人間七七四年
2012/12/23(日) 19:57:00.10ID:KQqj50H3毛利元就はこの事を聞きつけると、先ず宍戸親子を始め、高松城主・熊谷伊豆守信直、同豊前守、
天野中務隆重、同民部少輔、香川又左衛門尉光景、同弟元忠、といった信頼の置ける同盟者に連絡し、
粉骨をなされるよう要求し、また、人質を出すことも要請した。
このように防衛体制を創り、また郡山城防御の手配も行う。
城の後をわざと手空きにし、森や林の茂みの中に兵を置いて、合図によって敵との戦闘を行うこと、
物頭の侍たちに徹底的に教えこんだ。
そのうち三猪山の、尾崎多治比方面には、茶垣を柵のように結ばせ、幕を張り旗を立て、この場所を
重点的に守ると、敵が見るように仰せ付けられた。ここにもまた物頭の侍たちに作戦意図をしっかりと
説明して差し置いた。
この時、郡山上に立て籠もったのは、女子供も含めて8千人であった。その中で兵として使えるのは、
わずかに2千4・5百ほどに過ぎなかった。
この籠城の期間、色々と不思議な事が起こった。
8月15日には、宮崎八幡のお供え物に、人の頭のように毛が生えたのを、児玉内蔵充が見つけ、奇妙に思って
轉新九郎を以って元就公に差し上げた。それによって、宮崎八幡を城内の祇園の社に遷宮させられた。
また祇園縄手の深田に、毎夜光るものがあった。これを見たものが不審に思いその場所を掘ってみると、
そこから太刀が一腰出てきた。これは『稲光』と名付けられ、毛利家の御宝蔵に入れられたとか。
また、この時は城下の百姓町人も、城内に妻子を連れて籠っていたのだが、尼子軍によって自分たちの家屋が
放火された時、それを嘆くようなこともなく、誰が教えたわけでもないのに
『尼子殿は雲客 引きずり下ろしてずんぎり』
と、言い合ったそうである。雲客とは、尼子が出雲からきたことと、雲にのってきた者というのをかけており、
雲にのってきた尼子軍を、その雲から引きずり下ろして、寸切にしてやる、という意味である。
この様な言葉が自然に出てきたのも、不思議な事である。
(吉田物語)
0861人間七七四年
2012/12/23(日) 21:23:48.57ID:Lidj1Xrz0862人間七七四年
2012/12/23(日) 21:54:14.40ID:GzLpUxzp家臣「皆気持ち悪がって誰も買いませんでした。」
元就「在庫どうしよう・・・」
0863人間七七四年
2012/12/23(日) 22:43:54.89ID:hD00KwHr0864人間七七四年
2012/12/23(日) 22:48:10.97ID:lsFBUtIo0865人間七七四年
2012/12/23(日) 23:25:17.56ID:n4aPgzw30866人間七七四年
2012/12/23(日) 23:57:08.25ID:x9+yeZTt今は馬一頭だけが残っていた。
時に馬の売買・仲介を業とする人が来て「馬を売り払い給へ」と言う。
それを聞いて宣充は「只今まで用に立ってくれた馬だ。この上、売り払う
なんて可哀想だ」と、馬を阿部野へ解き放った。
――『名将言行録』
0868人間七七四年
2012/12/25(火) 20:35:26.78ID:LgLro0gF吉田郡山城の北にあるなんば谷に、年をとったキツネが棲んでいた。
銀色の、それはそれは美しい毛並みのキツネであった。
猟師がそれを獲ろうとしても獲ることが出来ず、やがてその美しさは毛利元就の耳に入った。
殿様は非常に情け深いお方であったので、
「その様に美しい狐なら、なおさら殺してはならない」
と命ぜられ、その旨を記した高札を出した。
キツネはこれを見て感激し、やがて尼子が郡山城を囲んだ時、家来を連れて毛利に加勢した。
彼らは、馬糞でごちそうを作って敵方に送りつけたり、提灯で敵が襲撃してきたように見せるなど、
尼子への妨害作戦を行い、これに疲れた尼子はとうとう去っていった。
元就はキツネの働きに感謝し、郡山の森山を彼らへの褒美として与えた。
それからキツネは、侍に化けて山の見張りを続けたそうである。
(広島の昔話)
0869人間七七四年
2012/12/25(火) 20:36:39.84ID:KwEtYujG0870人間七七四年
2012/12/25(火) 23:23:36.39ID:VYE2lnak0871人間七七四年
2012/12/25(火) 23:42:37.55ID:Rmw3k7oJその子三右衛門吉晴は妻子を引き連れて一番に江戸へ馳せ参った。
この事を土井利勝より知らされた家康は、吉晴が住みなれた土地を離れて
速やかに馳せ参ったことを賞して上機嫌になり「旅装のままでいいから
出て来い」と命じたので、吉晴は革の立付を身に着け髪も乱れたまま参上した。
家康は前もって吉晴が酒好きと聞いていたので数杯を下した。酔いが進んで
心地好くなっている吉晴を見た家康は伊奈忠政を呼んで「三右衛門は
酒好きだから、良い場所を選んで酒を飲める領地をつかわせ」と命じた。
やがて吉晴は相州高座郡菖蒲澤村百石の地を賜り、今その辺りではこの領邑の
ことを酒手知行というのだとか。
――『徳川実紀(家譜)』
忠政は忠次の間違いかな。
0872人間七七四年
2012/12/26(水) 00:01:57.53ID:XRQZ7LvB0873人間七七四年
2012/12/26(水) 00:30:33.54ID:P1EoTL2m河内の光善寺に向かう途中、その佛照寺の近くを通るとそこの住職の教光の評判を耳にした。
佛照寺は蓮如の派閥とは異なる佛光寺派の大きな寺として当時有名であったが、佛照寺の
教光住職は和歌に好むあまり、肝心の念仏がおろそかになっていた。
ある日、蓮如は目垣の近くまでやってきて自作の三首の和歌を書いた紙をわざと落とした。
その紙を拾ったのは佛照寺の教光住職である。紙には以下の和歌が書かれていた。
ひとたびも 佛をたのむ心こそ まことの法(のり)に かなう道なれ
罪深く 如来をたのむ身になれば法(のり)の力に 西へこそ行く
法(のり)を聞く 道に心の定まれば 南無阿弥陀仏と唱えこそすれ
和歌に詳しいはずの教光住職であったが、この三首の和歌の意味が全然理解できなかった。
そこで教光住職は落とし主の本願寺蓮如に歌の意味を聞きに行った。蓮如はわざわざ聞きに
来てくれたことを喜び、丁寧に歌の意味を説明し、ついでに親鸞聖人の教えも説いた。
これがきっかけとなり、教光住職は本願寺蓮如の弟子となった。そして、佛照寺はこれ以後、
佛光寺派を離れて本願寺派へ鞍替えしてたのであった。
0876人間七七四年
2012/12/26(水) 16:15:59.27ID:m2IdOMct馬とかは草を全てを消化できるわけじゃなくてある程度消化された状況で排出しちゃう
つまり糞は通常の草よりも消化しやすい
植物を消化できない赤ん坊が離乳食として親の糞を食べる動物が居るくらいだからね
同様に植物を消化できない肉食動物にも食物繊維を取りやすい代物なのかもしれんな
0877人間七七四年
2012/12/26(水) 16:21:53.68ID:bQPO+qfHしつけされてないだけ。食糞でググれ。
0878人間七七四年
2012/12/26(水) 23:08:25.12ID:dldnZeIU桶狭間の戦いに討死し、実重もまた氏真に仕えて終始忠節を尽くした。
小牧長久手の戦いで諸人がいずれも高名をあげる中、助次郎一人は
何の高名もあげられなかったので、あまりの面目なさに涙を流していた。
しかし、そんな助次郎に徳川家康が「お前は古主氏真の行方を見届けた
信義厚き者だから、今日の戦で敵の首を取るよりも遥かに勝っているぞ。
嘆くことはない」と言葉をかけたので助次郎は思いもよらず誉れを得た。
――『徳川実紀(感状記)』
0880人間七七四年
2012/12/27(木) 00:11:46.24ID:UmIFNy520881人間七七四年
2012/12/29(土) 11:36:29.08ID:8e3YYawD石川地区の乳井という大字はまた違った歴史がある。
現在、乳井には乳井神社という神社があり、かつては乳井福王寺毘沙門堂という修験寺であった。
大鰐から平川右岸の山岳地帯に勢力を持ち「津軽の法師三大名」ともいわれたという。
別当は福王寺氏といい、戦国時代には堂衆を率いて勢力を拡大し、
福王寺玄蕃の代には猿賀神社の別当も兼ねる勢力にまで発展、
南部氏にも従わないことから玄蕃は「沙門大名」とも言われた。
もちろん、南部氏は邪魔な福王寺を放っておくはずもなく、
1565年、玄蕃は大光寺城代滝本重行の刺客により路上で暗殺されてしまう。
玄蕃の息子は乳井建清といい、父が暗殺された当時はまだ若年で、仇討ちすることも出来ず、
逆に滝本重行に福王寺に対する抑えの高畑城を築かれるなど、寺領を圧迫され、侵略を受けることとなる。
その後間もなく南部家中は南部晴政の後継問題で統制が効かなくなり、
それに乗じて大浦為信が1571年に謀反、石川城と和徳城を一日で落とすが、
建清の居館と石川城は目と鼻の先であり、騒ぎを聞いた建清はこれに乗じて高畑城を急襲、奪取することに成功する。
建清は高畑城主となり、すぐさま為信に臣従した。
1574年8月と1575年1月に先陣として大光寺城を攻め、1575年に滝本重行を津軽から追い出すことに成功する。
1578年、大浦氏が浪岡北畠氏を滅亡させた結果、大浦為信と安東氏の仲は悪くなり、
1579年には安東愛季が比山六郎・七郎を総大将に津軽へ軍を出した。
この軍に滝本重行と北畠顕則が合流し、建清の元居館である乳井茶臼館や乳井城が落とされた。
この時に建清は大浦城におり、比山軍が乳井茶臼館に立てこもると大浦為信自身が軍を率いて出陣、建清はそれに従軍した。
両軍は六羽川付近で合戦し、大浦軍は次第に追い込まれ、田中太郎五郎が大浦為信の身代わりとなるなどの損害を出すが、
大浦為信を討ち取ったと勘違いした比山軍が油断した隙に比山六郎が討死した。
比山軍は大将を失い総崩れ、滝本重行も敗走する結果となった。
父を暗殺した仇敵を戦で二度破った乳井建清は、その仇敵の居城であった大光寺城主となり、
福王寺玄蕃暗殺以来の滝本氏との因縁に白黒つけたのであった。
>>358あたりで出てきた乳井氏の戦国時代でした。
0882人間七七四年
2012/12/29(土) 17:41:14.94ID:2edVXPOQ籠る堀川の城を攻めた。先陣は松平信一、榊原康政が務める。
康政は配下に向かい「私は若年でありながらこのような寵任を蒙り一隊の
主将となった。その上、御諱の字さえ賜り御恩の深高なること山海にも
比し難い。明日の戦はかならず一番乗りを遂げて盛意に報いるぞ!」
と宣言した。
その日、康政は早朝より紺地に無の字の指物をさし、笹切という鎌槍を
掲げて一番に城へ攻め入り、散々戦って二ヶ所の深手を負った。
そこで家人らが康政を肩に負ってなおも進み、遂に城を乗っ取った。
その後、康政の傷を見た徳川家康は「この深手ではもう助からない」と思い、
康政に「後事に思うことあらば、つつまず申せ」と言った。康政は畏まって
「この度、配下の伊奈、中島の両人の忠戦は衆人よりも勝れておりました。
ですから両人に御恩賞をお与えください。この外に思い残すことはありません」
と申した。家康はすぐに二人を召し出して感状を授けた。
ところが後に康政は思いもよらず回復を遂げたので、家康は大層喜んで
様々な慰労の言葉をかけたのだという。
――『徳川実紀(武徳編年集成、家譜)』
0883人間七七四年
2012/12/29(土) 18:39:37.75ID:vbEgc1jm0884人間七七四年
2012/12/29(土) 18:59:11.40ID:nGqfpWiH0885人間七七四年
2012/12/29(土) 22:42:14.80ID:zgeUB0kr(…何やら臭うな)
御茶部屋の辺りに来たところで、久太夫は妙な匂いに気付いた。
(そうだ、これはまさしく煙草の匂い。法度を犯して煙草を吸っておる不届き者め、何奴か)
殿中においては火気の扱いについて細心の注意を払うことが大原則。煙草一つ吸うにしても所定の場においてのみと定められていた。
立ち止まって御茶部屋の様子を窺う。見ると少しばかり開いていた障子がすっと閉まった。どうやら吸っていた茶坊主がこちらを察したらしい。
しかし、少し気付くのが遅かった。仄かな紫煙が久太夫の鼻先をくすぐっていく。
「これは煙草ですな」
久太夫、先を進んでいる正盛に聞こえるように呟いた。正盛の歩みが止まる。
「煙草がいかが致したか」
「かような場所にて煙草の匂いがするとは解せぬことでありましょう」
正盛は少し鼻を動かしたようであったが、振り向きもせずにまた歩み出した。久太夫はそれに不満を持ち、追いつきながら語調を強めた。
「ご法度の煙草を何者か隠れて吸っておりますぞ」
「喜多見殿」
正盛が立ち止まり、久太夫に横顔を見せた。
「貴殿は目付役」
「…? いかにも左様にございますが」
「いつから鼻目付を仰せつかったかな」
それだけ言うと正盛、そのまま立ち去っていった。
0886人間七七四年
2012/12/29(土) 23:03:00.33ID:9Lcwdn0n0887人間七七四年
2012/12/29(土) 23:05:16.74ID:6yE1bUAG喫煙は喫煙で見つける担当者が決まってるのか?
0888人間七七四年
2012/12/29(土) 23:12:48.51ID:me4PcMjEそれ以外の五感→○目付
っていう洒落かな
違ったらごめん
0889人間七七四年
2012/12/30(日) 00:46:30.17ID:urpmWWbs0890人間七七四年
2012/12/30(日) 01:16:46.62ID:sUh2TgPE0891人間七七四年
2012/12/30(日) 07:39:08.74ID:jGus6LDt0893人間七七四年
2012/12/30(日) 10:34:55.13ID:gA08ZAGa久太夫が煙草に気付いた時に素直に注意しに行かずに
聞こえよがしに煙草の話を振ったから正盛をイラッとさせたんじゃないかと思う
0895人間七七四年
2012/12/30(日) 14:15:46.17ID:Uv6WdMfAこの場合は大事な江戸城の防火に関する重要な規則だから見逃しちゃ拙いわな
0896人間七七四年
2012/12/30(日) 15:12:31.24ID:1kddN+XFhttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1356796039/l50
昨日の事だが、こういうのを見ると悪い話だろうな。
0897人間七七四年
2012/12/31(月) 09:03:47.36ID:GY2eF6zUすなわち目付の失態になるだろ。
0898人間七七四年
2012/12/31(月) 10:16:45.58ID:E8W+Ja5q0899人間七七四年
2012/12/31(月) 10:39:00.57ID:hcZfLqjy0900人間七七四年
2012/12/31(月) 12:16:48.33ID:AJe1AVyKそれとも、将軍の寵臣として出世した故の引け目もあったのか?
0901人間七七四年
2012/12/31(月) 17:46:22.93ID:AaHORiM6敵を突き落とした。吉政はこれを見て「采女は今日の一番首だ。
首を取るのだ」と言葉をかけた。
その次に川淵九郎左衛門が高名をあげた。吉政はこれを見て
「鼻をかくのだ」と言った。戦後、二人の間で一番首をめぐって
争いが起きた。
吉政がこれを聞いて「そういうこともあるだろうと思って、
わしは采女が敵を馬より突き落とした時に今日の一番首なり首を
取れと言ったのだ。その後に九郎左衛門が高名したゆえ、
鼻をかけと申し付けた」と言うと、争いはすぐに収まった。
――『名将言行録』
0902人間七七四年
2012/12/31(月) 21:43:55.17ID:UQv3vjfL既に死去したとの噂もあり、長年晴久に苦しめられた毛利家中では、この事を元就に話せばさぞ上機嫌になるだろうと
考え、ある時元就のもとに皆が参集した時、その話を申し上げた所、案に相違し、元就は突然気色を変え
怒鳴った
「晴久が既に死んだというのなら、もう是非に及ばぬことであるが、晴久も自信が存命のうちに、
我々と一戦を遂げ勝負を決しようと考えていたことだろう。
私も天文九年以来、晴久と数度の戦いをしたと雖も、遂に旗本での決戦とまでは行かなかった。
私はこれを、出雲へ討ち入った時に果たすべき念願としていたのに、残念の至である。
総じて敵方の弱みを喜ぶのは、弱将とその下の部将たちの風俗である。
おのおのは晴久の重病を、我々の吉事のように申される。
これは誠に、是非無き心である!」
この言葉に皆は戸惑い、その場は静まり返ったという。(一円物音も之なき事)
(吉田物語)
尼子晴久重病の報に対しての、毛利元就の反応である。
0903人間七七四年
2012/12/31(月) 22:40:02.87ID:aJFP4uiP0904人間七七四年
2012/12/31(月) 23:29:58.05ID:PVhpX9Zh0905人間七七四年
2013/01/01(火) 02:35:19.98ID:AIBIZRh9隆景「殿、ちょっと奥の間へ。」
0906人間七七四年
2013/01/01(火) 04:23:16.10ID:bS9hlezr0907人間七七四年
2013/01/01(火) 10:41:08.64ID:3XKaFfA7器量を試されたんだろう
0908人間七七四年
2013/01/01(火) 12:06:48.30ID:OG8PltuQ0910人間七七四年
2013/01/01(火) 15:32:55.75ID:nX67G6Q1南北に別れて争うこと半時ばかりと耳にした徳川家康は
「蛙軍は珍しいことではないが、蛙は寒空には土中で蟄居している
ものなのに身体を動かして戦っているとは奇異なことだ」と言った。
また、新家村に生えている芦は片葉と聞いた家康が芦を刈り寄せて
見てみると確かに片葉であった。
松平忠継が「この辺りの芦は芦ではなく荻ですな」と言うと、家康は
「お前は『難波の芦は伊勢の浜荻』というのを知らないのか」と言った。
――『徳川実紀(東武雑録、明良洪範)』
0912人間七七四年
2013/01/01(火) 17:08:21.36ID:DqrYUcof0913人間七七四年
2013/01/01(火) 18:16:00.18ID:Cf0xhCw1戰キチの考えることだから
0914人間七七四年
2013/01/01(火) 20:04:39.27ID:z66QIb7/各種逸話の性格の謙信だったら信玄とか100%相容れないだろう
0915人間七七四年
2013/01/01(火) 20:06:50.20ID:2ghQ9Fb40916人間七七四年
2013/01/01(火) 20:50:48.66ID:PgtJ+iX/家康ってこういう教養も今川家の英才教育を受けて一流の域なのよね
でも詠む歌は技巧を凝らしたりしない
0917人間七七四年
2013/01/01(火) 20:53:10.38ID:QGLSoIJs俺もSENGOKUの謙信と信玄が強烈過ぎていまだにあのイメージを引きずってるわw
あと豹変した秀吉の怖さはガチ
0918人間七七四年
2013/01/01(火) 20:54:49.58ID:+qm2OKdl「ものの名も、ところによりて変わるなり難波の葦が伊勢の浜荻」
は当たり前のように出てくるが、当時は教養の範疇だったのか
0919人間七七四年
2013/01/01(火) 20:56:45.24ID:N569VcYa実際の記録はよく知らんが、大河ドラマとかではよく言ってる気がする
「知らぬ顔の半兵衛がよいぞ」とか
0921人間七七四年
2013/01/01(火) 22:01:43.15ID:OG8PltuQ幽斎様なんかこの手の逸話が腐るほどあるな
0922人間七七四年
2013/01/01(火) 22:22:20.75ID:PgtJ+iX/0923人間七七四年
2013/01/01(火) 22:25:06.60ID:PgtJ+iX/0924人間七七四年
2013/01/01(火) 23:15:32.77ID:SqH0ZaYe逸話としては大抵ネタバレまであるから駄洒落要素が強く印象に残ってちょっとげんなりしてしまうがw
0926人間七七四年
2013/01/02(水) 00:59:28.91ID:i2bXD6+O戦になれば数多の命が散るというのに強敵が死んでも喜ばないってのは堅物っていうか自己陶酔じゃね?
敵の知恵者を排除するのに謀事をかけた奴なんか幾らでもいる
喜ぶのが普通の反応だと俺は思うな
鞆にいたよちあきみたいに
0927人間七七四年
2013/01/02(水) 01:17:43.27ID:hfGIEadA普通じゃない反応だからこそさすが我等がおやかた様、ってなるわけだし
常に超人的な自分を演出してないといけなかったのかも
0928人間七七四年
2013/01/02(水) 01:22:12.56ID:FXzR3J1h0929人間七七四年
2013/01/02(水) 02:21:40.27ID:iFixbaTi例えばそう、鬼武蔵が討ち死にした時の様に
0930人間七七四年
2013/01/02(水) 03:10:28.85ID:kJb46Zzw0931人間七七四年
2013/01/02(水) 06:57:36.40ID:tqdkvImn0932人間七七四年
2013/01/02(水) 07:19:07.28ID:Pn65Fyih・「敵ながら惜しい男を亡くしたものだ」(アイツ死にやがったwww俺ついてるwww)
どっちが自分の名声高めるかなんて考えるまでもないだろ
その勢力を服属させた後のことまで考えれば尚更
0933人間七七四年
2013/01/02(水) 09:18:10.63ID:wC05eX8B0934人間七七四年
2013/01/02(水) 10:38:31.52ID:ZBfcvKKuハプスブルク帝国皇帝フランツ・ヨーゼフにこのような所見を残している
「オーストラリアの若き君主から私は大変好ましい印象を受けました
二十歳の炎が壮年の威厳、果断と結びついているのです。
いきいきしてくると目が美しく輝き特に微笑したりすると
いかにも感じが良い率直さが現れます。
もし皇帝でなければ歳の割にひたむきすぎると思われかねないでしょう。」
とビスマルクはヨーゼフを高く評価している
それから16年後、ビスマルク率いるプロイセンはヨーゼフ率いる
ハプスブルク帝国を普墺戦争で打ち破ったのであった。
0935人間七七四年
2013/01/02(水) 11:39:23.60ID:FXzR3J1h0936人間七七四年
2013/01/02(水) 11:46:39.33ID:JWHL9KRK江戸時代の浮世絵なんて内輪受けする小ネタ満載だけど、現代から見たら何が面白いのかさっぱりだし。
0937人間七七四年
2013/01/02(水) 11:52:06.44ID:a8fV3HYA0938人間七七四年
2013/01/02(水) 13:00:03.55ID:Pn65Fyih0939人間七七四年
2013/01/02(水) 14:09:42.98ID:hfGIEadAさすが鉄血宰相や、想像の斜め上をいく
0940人間七七四年
2013/01/02(水) 15:00:28.30ID:wC05eX8Bな、なんだってー
0943人間七七四年
2013/01/02(水) 17:58:47.11ID:+IA7Ri5i家康は「定昌は若年の身で、数日の間小勢をもって大敵を引き受け、
城を保ったこと、誠に例なき働きというべし」と、大いに感心した。
またその七人の家長等を召し出して今回の忠節を賞し「お前たちの
子孫は後代に至るまで見参を許す」と仰せ付けた。今、奥平の家人が
毎春謁見を給わるのはこの例に由来するという。
定昌には知行が下されたほかに、姉川の戦いで家康が織田信長より
授けられた大般若長光の御刀が下された。また信長の意見により
家康の長女・亀姫が定昌に降嫁された。
その後、定昌は岐阜へ参り信長に謁見した。信長もいたく定昌の功を
賞して「定昌の勲功は武士の模範である。よってこれからは武者之助と
改名せよ」と言い、自らの一字を授けて奥平信昌と名乗らせた。
その上、様々な引出物が与えられた。
――『徳川実紀(貞享書上)』
0944人間七七四年
2013/01/02(水) 18:33:43.02ID:FXzR3J1h信昌なんかかなり活躍してるはずなのに
0945人間七七四年
2013/01/02(水) 18:40:09.26ID:/+rp+lf6「あ、そうだもう一人大河ドラマでやりたい役があるんですわ」
「ほー、で誰や?」
「奥平信昌、初代京都所司代」
「だから誰やねん!」
「「どーもありがとうございましたー」」
それなりに有名のはずなのに
0947人間七七四年
2013/01/02(水) 20:30:16.85ID:mctkPQt/容貌はさながら婦女子のようで言語もとても柔和であった。
そのためか人々からは武人としての資質も無いと侮られてた。
当の金次郎はその事をまったく意に介さず、時に微笑むのみだった。
小牧・長久手の戦いの際に金次郎は朱柄の長槍を持って従軍した。
それを見た人々は互いに顔を見合わせて笑った。
朱柄は、数度の激戦に臨んで
敵の鮮血で槍の柄が赤く染まる程の武功を挙げた勇士にのみ許される。
しかし金次郎にはそんな武功などない。
衆は嘲って言った。
「やれ女武士が妄りに朱柄の長槍を提ぐなど笑止笑止www」
しかし金次郎はまったく聞こえぬ顔して徐に先陣に出た。
両軍が戦い交えると、金次郎は単騎で敵陣に躍り入り
縦横奮撃に敵将を斬り、敵兵を数知れず倒した。
敵軍は金次郎の戦い振りを見るにつけ圧倒されその後挑む者も無かった。
金次郎は馬首を返してゆっくりと自陣に戻った。
その夜、金次郎は同僚に言った。
「武士たる者の真の勇とは、戦場においてのみ用いるものでしょう。
酒席や日常の席でささいな武勇を誇ったり、奮然とした相貌を装ってみせたりするのは
付け焼き刃たる勇に過ぎませんよ。
人には各々得意、不得意があります。
座上で勇を誇り席上で威を張るような事は、私には不得意なのです」
金次郎の言葉に一同は粛然とした。
(『武人百話』)
0948人間七七四年
2013/01/02(水) 21:36:49.60ID:iFixbaTi0949人間七七四年
2013/01/02(水) 21:52:56.63ID:FXzR3J1h0950人間七七四年
2013/01/02(水) 23:03:28.15ID:oblQ8CwN人は見かけで判断してはいけないな…
0951人間七七四年
2013/01/02(水) 23:28:01.04ID:GzmTvva5\●/
● X ● ドドドドドド・・・・・
/●\
\. .●. ./
\ /
● X ● ┣¨┣¨┣¨┣¨・・・
/ \
/. .●. .\
0952人間七七四年
2013/01/03(木) 05:41:03.30ID:pGc6Ni5S義隆「厚遇するぞ」
0953人間七七四年
2013/01/03(木) 07:28:32.36ID:5sy3ZBGG0955人間七七四年
2013/01/03(木) 11:25:40.80ID:0vjAze3/0956人間七七四年
2013/01/03(木) 13:05:57.01ID:5jJ7nO0iものすごく収穫のある戦いだったんだな
井伊、成瀬といった次の世代を担う若者が軒並み活躍している
これでスムーズに世代交代ができるようになったのかな
0957人間七七四年
2013/01/03(木) 13:11:04.77ID:fu8J2+ng0958人間七七四年
2013/01/03(木) 13:25:08.01ID:XLLsn5J40959人間七七四年
2013/01/03(木) 13:50:59.88ID:YKkDA4Deまとめには伊達家の嫌がらせと小田部統房の話があるが、また一つ違う逸話を。
筑前立花家の家臣・小田部土佐は、娘を輿入れした忠宗の慰みの為、奥州への出向を乞われた。
道中つつがなく仙台へ到着し、いざ謁見とうことになったが、その衣服は粗末で(童子格子の木綿織は綿の厚い夜着のようで、太くてもっさりした丸ぐけの帯に三尺あまりの大刀を帯びていた)まるで夜盗が迷って出たような無作法さであった。
忠宗はかの奇人ぶりを知った上で到来を待ちわびていたので、取次役に命じてそのまま居間へ通させた。
小田部は面前にずいとまかり出ると、一言の挨拶もせず立ちはだかり、狂人のように振る舞った。
忠宗はさすがにムッとして何故そのように無礼なるやを詰問する。
曰く、「私は伊達様に臣従するつもりはありません。伊達様はひとたび私を見たいとの仰せであると聞き及んでおりますので、普段の私を見せようと思ったまでのことです」
忠宗は我が意にかないたりと満足し、後日改めての謁見を許した。
その後日、衣服を整え、厳然なる装いにて現れた小田部に対し忠宗はいくつか問答した。
小田部は当世の趣味に走る者は混雑の士です、真の士は柳川藩において自分ともう一人しかいませんなどと、時代錯誤の割に堂々とした答弁を繰り返す。
その様を見て忠宗は時折吹き出しつつも、彼の才を認め、一旦別室に引かせて休息を許した。
そして家臣を呼ぶとひそかに「聞きしにまさる曲者じゃ。これからあやつに取らす膳には大ダコの丸煮を出してやれ。困惑する様を見てやろう。包丁は一切入れるなよ」と命じた。
饗応の準備が整うと小田部を呼んで膳につかせ、でんと茹で上がった大ダコを披露した。
小田部は「やや、これはそれがしの大好物。気を使っていただき恐悦千万、誠に結構、過分過分」などと連呼しながら蛸の頭をむんずと掴むと懐中を探り、小刀で小切れにして平然と食らった。
忠宗他近侍の衆は「苦しめ難き曲者なり」と感心してしまった。
我が儘な大身の暇つぶしに付き合ってあげるいい話。
0960人間七七四年
2013/01/03(木) 15:17:18.79ID:tF0oBGzS直政「敵の鮮血で赤く染まる程の武功って某の朱具足のことだな」
>>952
金次郎「なんか心底、徳川で良かった、私…」
0961人間七七四年
2013/01/03(木) 15:19:59.65ID:fu8J2+ng0962あけおめことよろ
2013/01/03(木) 15:37:53.45ID:VJKmQj+Oある夜、黒髪山神社の神様が権現となり夢枕に立ち顕れ、
「そなたの家は貧しく気の毒である。
よって宝の銭甕を与えよう。
黒髪山に埋めておくから、持ち帰りなさい。」
とお告げになられた。
三日間同じ夢を見たので、これは神のお告げだと確信し、
黒髪山へ登って神前にぬかずきて、
「私の家の貧乏をお憐れみくださり、
お宝をお授けくださるとのこと、
誠にありがたく存じております。
しかしながら私は銭甕を欲しくはございません。
それほど不憫にお思いくださるのなら、
中野一門の武勇と繁昌を御守りください。
銭甕はお返しいたします由、右のことのお叶えを願います。」
と祈ってから帰った。
この願いが聞きとどけられたのか、
中野一門は子供たちみな知行をいただき、
一門の末の者までお取り立てにあずかり繁昌している。
「けれども、銭甕を返上したせいか、
中野一門は、皆貧乏ばかりじゃ(笑)」
と神右衛門は嬉しそうに話していたとのことだ 【葉隠】
0963人間七七四年
2013/01/03(木) 16:17:18.60ID:wgc24vndちょっと黒髪山を掘り漁ってくるわ
0964人間七七四年
2013/01/03(木) 16:30:22.99ID:ugFuBTgY1890年エリザベートは大西洋沿岸と西地中海沿岸を就航している
ドーヴァーから帆走もできる汽船飾カザリー号(
登録名はニコルソン夫人という偽名であった)発ちリスボン、ジブラルタル、タンジール、アルジェ。コルシカ島。
マルセイユ。フィレンチェ、まポリ。ポンペイ、コルシカ島と巡った後コルフ島にたどり着いた。
とにかく、凄まじい距離の船旅をしたものである。
エリザベートはこのようなことを書いていた。
「全世界を巡りたい、私に比べたらアハスヴセールでさえ出不精といえるでしょう。
とにかく船でほうぼうの海を就航したい。女のさまよえるオランダ人みたいなものだから
いつか消えるなり沈むまでこの性癖は収まらないでしょう」
0965人間七七四年
2013/01/03(木) 16:40:07.64ID:3oecothp「オーストリア」を「オーストラリア」と書いたやつか?
一年くらい前には司馬懿の詩を誤字だらけで引用したし、
今回はさまよえるユダヤ人の「アハスエルス(アハスヴェール)」を
アハスヴセールとか書いているし、誤字なしで投稿できないのか
0966人間七七四年
2013/01/03(木) 16:42:40.97ID:5WiQ+ghRそして素知らぬ顔をして戻し正午を待った。
正午になってめいめい弁当を取り出したがもちろん忠成の弁当は空っぽである。一同は驚いたが忠成は気にする様子も無く、
「朝食べ過ぎたので別にいいや」と言って淡々としていたが、しばらくして用向きができたと帰ってしまった。
これに忠秋、「してやったり」と大喜び、屋敷に帰って近侍にこの事を語ると、「さてこそ、それで初めて納得しました」
「先程大久保様がお立ち寄りになり、腹が空いたから湯漬けでも振舞われよ、と仰せられました。
湯漬けだけというわけにもいかず、沢山の料理をさし上げましたが大久保様は全て平らげた上、
供の衆にも振舞われよと仰せられました。
やむなく食事を出したのですが供の衆の食べること食べること、いささか呆れました。
奇怪な事と思いましたが、殿のお話を伺い、これはまさしく先程の仕返しと納得した次第です」
これを聞いた忠秋は「あべこべにかつがれたのう」と笑ったという。
0967人間七七四年
2013/01/03(木) 21:48:41.97ID:HQEuFh0X0968人間七七四年
2013/01/03(木) 22:56:29.64ID:pGc6Ni5Sこんないたずら好きってのはちょっと意外だったけど
0969人間七七四年
2013/01/03(木) 23:09:18.89ID:MIkcHnnm赤い甲冑(ショウジョウ緋?)を着た連戦連勝の武士が、初陣を飾る若武者に自分の自慢の甲冑を貸してあげた。
するとその若武者大活躍で、それを「なかなかやりおるわいw」とそこらにある黒い甲冑着て戦に参戦した
武士が、いともあっさり敗れちゃった。 て話を思い出してしもた。
どなたか知ってる人います? と書きながら、もしかすると源平の頃の話かも・・・
0970人間七七四年
2013/01/03(木) 23:11:11.53ID:aUcbbDAX菊池寛「形」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/4306_19830.html
青空文庫で読める
0971人間七七四年
2013/01/03(木) 23:22:25.20ID:aUcbbDAX「明良洪範」に載ってい話だが、誰に貸したかは不明
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-805.html
貸すといえば「鳩巣小説」に出てくる「鯉の兜」の話があるがまだ出てないかな
0972人間七七四年
2013/01/04(金) 00:07:46.26ID:zH/B3KjK常山紀談の拾遺四巻にも同じ話(松山新介の勇将中村新兵衛が事)が載ってる
メジャーな逸話だったのかもね
ちなみにこっちでも猩々緋の羽織をあげた相手は「或人」になってて不明
0974人間七七四年
2013/01/04(金) 12:55:47.94ID:KG8pruRVおお、ありがとうございます!
出来の悪いガキだったけどこの話だけ何故か覚えてたんですよね
今度探して読んでみたいです。
0975人間七七四年
2013/01/04(金) 13:20:46.46ID:cH1h8zKsフランツ・ヨーゼフは愛妻、エリザベートの死に望んで
「我が国民に告ぐ」を発表している。
「私及び我が家族は、最も困難かつ最も酷い試練に見舞われました。
わが王座の華であり、まめやかな伴侶であり、困難極まる時には慰め・支えであった我が妻――
いくら言葉を尽くしても言い表せませんが――その妻はもうおりません
恐るべき宿命が彼女を、私及び我が国民から奪い去ってしまったのでrす。
下手人は 現存する社会秩序の破壊を目指す狂気の徒でした。
それが最もこの世で高貴な女性に襲いかかり、やみくもな憎しみにかられて心臓を一突きしたのです。
こちらは憎しみなどつゆほどにもしらず、ひたすら善きことのみ念じていたというのに
私及び我が家族は、文明世界全般を震撼させる前代未聞の蛮行に接し
限りない苦しみを味わいました。
そのさなか、我が愛する国民の声援が寄せられ、私の心がどれほど安らいだか知れません。
なるほど天命はかくも困難かつ、理不尽なことを定めますが、私としては恭しく従いつつ、
まだ気高く美しきもの残しておいて下さったと神威に感謝しなければなりません。
気高く美しきものとは。苦悩の時に、私及び我が家族を包んでくれる、数百万人の、好意、誠意であります。
近きと遠きを問わず、高知と低地を問わず、いたるところでとりどりに、
亡き皇妃兼王妃に弔意が表明されました。
計り知れない喪失をねぐる全国民の嘆きは私の魂を揺さぶっているものの
正確な反響として、感動的に共鳴しながら鳴り響いてきます。
私は熱愛する妻の思い出を死ぬまで大事に保つでしょう
それと同様、わが国民も彼女を末永く記憶に留めてくれるでしょう。
謝意・誠意のこもった不朽の記念碑を打ち立てるかのごとく。
未だに憂いに沈んでるとはいえ、私は全国民に感謝したい
これほど真率なる弔意を寄せ、改めて誠意を明かしてくれたわけですから。
今年は(帝位50周年の)祝典が予定されています。しめやかなものとならざる
おえないでしょうが,たとえそうであっても、このたび示された、忠誠・同情の
無数のあかしの思い出は、わたしにとって最も有難い思い出でありつづけましょう。
だれもがひとしく苦しみを共有したことにより、図らずも帝位と祖国をめぐって
新たな親密なる結束が生まれました。
我が国民の変わらぬ親愛感を目の当たりにし、私としてはおのが任務を
全うしなければならぬという義務感を強めたばかりでなく、
なんとかうまくいくだろうという希望も抱いた次第であります
かくも困難なる試練を下された全能の神にはこう祈りたい――
我が使命を全うするだけの力をわれに与えため、我が国民を祝福し、
愛と和の道を見出させたまえ、その道で彼らを繁栄させ降伏ならしめたまえと、と。
1898年9月16日 シェーンブルン宮にて
0977人間七七四年
2013/01/04(金) 13:44:33.42ID:bjnsaG+I世界史ちょっといい話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1327366681/
0978人間七七四年
2013/01/04(金) 20:24:47.64ID:u8zH4ZKp「兵法とは武家の法である。
将の位にある者はとりわけこの法を行い、
士卒の位にある者もこれを学びゆくべきだ。
今の世に、兵法の道を確かにわきまえた武士を見ることは少ない。
道の顕れをわかりやすい例であげるなら、
仏法として人間を救済する道。
儒道として文を糾す道。
医者として諸病を治す道。
或いは歌道者なら和歌の道を習い伝え、
また或いは、数奇者、武芸者、その他の芸能まで、
それぞれが思い思いに稽古し、
好みにより、縁により、嗜んでいるものだ。
しかし兵法の道を好む人は世に少ない。
武士は文武両道と言って、二つの道を嗜む。
これ武士の道也。
たとえ生まれつき武士道に関することが不得意だとしても、
武士としてある以上は、己の分際程には兵法を努力するべきである。
今、心ある武士の大半の思うところを推測してみるに、
武士とは死ぬ道を覚悟することと考えているくらいであろう。
死する道という事だけならば、なにも武士だからということはない。
出家だろうが、女だろうが、百姓已下すべて、
義を思い、恥を知る者ならば、
死するところを思いきることは職分に差別なくあるのだ。
武士の兵法の道とは、何事においても人に勝る所を本として、
一対一の斬り合いに勝ち、或いは多数の戦に勝ち、
主君のため、我が身のため、名を上げ身を立てようと思う。
これが成るかは兵法の徳をもってなり。
また、世の中には、兵法の道を習っても、
実戦には役立たないと言う武士もいる。
このタイプに私が言えることは、
それならば何時にても役に立つような稽古を考え、
万事に至り、役に立つ教え方を考案すべきであろう。
是兵法の実の道也」 【五輪書】
0979人間七七四年
2013/01/04(金) 23:54:38.25ID:yz7HvmI50981人間七七四年
2013/01/05(土) 02:44:30.75ID:aImTF1QS0984人間七七四年
2013/01/05(土) 08:15:37.21ID:UXG39IIH0985人間七七四年
2013/01/05(土) 08:20:41.94ID:UXG39IIH>またの機会にどうぞ。。。
立てられなかった。どなたか頼みます
↓スレタイ
戦国ちょっといい話36
↓テンプレ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356968224/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0986人間七七四年
2013/01/05(土) 09:11:17.87ID:XRFkkKKfらない隊長が若い旗本に差し出す、おむすび 、 こんな
こともあろうと取っておいたんだ。
0987人間七七四年
2013/01/05(土) 14:28:24.89ID:NgeCcKyf孤高の天才
求める前提が高すぎるから武蔵の弟子になっても、
ついていけない人多かったんじゃないかと感じる
葉隠だと人間はすぐ弱気になる前提から、
武士として気を奮いたたせることが書かれていると思うが、
五輪書はその段階は超えてるのが当り前として、
天才向けに書かれてるように見える
0988人間七七四年
2013/01/05(土) 15:30:22.64ID:fe9dD9Xe0989人間七七四年
2013/01/05(土) 15:33:38.10ID:fe9dD9Xe戦国ちょっといい話36
立った
0991人間七七四年
2013/01/06(日) 03:19:53.81ID:Dj8jcsUO乙です。
宇喜多直家殿と松永久秀殿に茶会に呼ばれているのですけど、
よろしければ貴殿もご一緒にどうですか?
0992人間七七四年
2013/01/06(日) 11:13:34.48ID:095OMY/Xたまには義姫やとんだっちのご馳走も食べたいよね
0993人間七七四年
2013/01/06(日) 12:00:22.48ID:j9tLmwbw0994人間七七四年
2013/01/06(日) 14:02:46.64ID:Pf6zJm120995人間七七四年
2013/01/06(日) 23:32:46.27ID:1cf4OTTC三河殿の饗応を命令されるのと
どちらがマシであろうかのう?
0996人間七七四年
2013/01/06(日) 23:42:28.43ID:9E8CMKYY代わりに宇喜多の娘婿になるって選択肢をやるよ
0997人間七七四年
2013/01/06(日) 23:47:33.18ID:qi0zRP+G0998人間七七四年
2013/01/07(月) 08:53:32.67ID:DKLsUgw50999べんけい
2013/01/07(月) 12:53:56.34ID:YbJjhb+X1000鹿之助
2013/01/07(月) 12:54:39.35ID:YbJjhb+X10011001
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