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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう

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0001人間七七四年2012/10/15(月) 00:12:08.25ID:RhmDVWTD
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話で、自分の好きな話を上げたり、もっと話したい事を話そう。


戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/


鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0834人間七七四年2014/11/10(月) 20:37:18.33ID:VtBFhyk6
>>833
ぐぐってみたら『日本書紀』に
崇神天皇の時代、“額に角を生やした人”が舟にのって流れ着いた
そしてその場所を角鹿と呼ぶようになり
それが敦賀になったという話が出てきた。
たしかにそれがルーツかもしれない。
興味深い意見ありがとう。
0835人間七七四年2014/11/10(月) 20:41:46.85ID:VtBFhyk6
>明応2年(1493)4月22日、右京兆・細川政元によるクーデター、いわゆる『明応の政変』が起こる。
>京では足利義材派の畠山政長、葉室光忠などの屋敷が次々と破壊された。

>さてその時、河内に出陣していた将軍足利義材の後室など、将軍家の女性たちは多くが、
>義材の姉が尼として入っている通玄寺に避難していたが、クーデター派はこの尼寺にすぎない
>通玄寺も襲撃に及んだ。

>と、ここで襲撃部隊は残忍な仕打ちをした。
>彼らはここに避難していた将軍後室、その女官たち、さらには義材姉をはじめとした寺の尼達まで
>衣服を全て剥ぎ取って京の町中に放り出した。

>赤裸にされたこの高貴な女性たちは、致し方なく、ある者は筵を身にまとい、ある者は経典を体に巻き付け、
>泣き叫びながらあちこちに逃げ惑い、路頭をさまよった。

>『北野社家日記』には「前代未聞の事件であり、筆にするのもはばかられる」と、
>この事件を憤りを持って記録している。

>明応の政変で高貴な女性たちに降りかかった悲劇についての記録である。
0836人間七七四年2014/11/10(月) 20:45:12.68ID:VtBFhyk6
↑の話を読んで、どの時代にも変態的残忍さを持った奴はいたんだな、と思った。
当時の高貴な女性にとって全裸で町中に放り出されるなんて
ある意味殺されるより辛いだろう。
おそらく自害した女性もいたに違いない。
08378332014/11/10(月) 21:07:30.37ID:AW2v22Tx
>>834
ちなみに丹後ではなく丹波ですね
ツッコミスマソ
0838人間七七四年2014/11/10(月) 21:25:19.94ID:VtBFhyk6
>>837
wiki情報だと丹後となっていますよ
尤も
>なお、酒呑童子の本拠とした「大江山」は、この丹後の大江山であったという説のほかに、京都市西京区にある山城国と丹波国の境、山陰道に面した大枝山(おおえやま)という説もある
とも書いてありますけど

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%B1%B1
0839人間七七四年2014/11/10(月) 21:27:49.30ID:VtBFhyk6
>毛利配下の備中高松城を羽柴秀吉率いる織田の軍勢に囲まれ、小早川隆景から救援を求められた吉川元春は、家臣たちが

>「隆景様は殿にばかり危険な戦いを任せ、自分は出ようともせぬ。この度の戦は隆景一人に任せればよいのだ。」

>と隆景に対する不満を述べた際、

>「もっともな言い分だが、隆景では秀吉には勝てぬし、兄弟である以上、毛利家の為に見捨てるわけにはいかない。
>皆が行かぬのであれば、自分一人で駆け付け、隆景と命運を共にするまでだ。」

>と弟をかばって諸将を説得して出陣した。ところが、この戦いの陣中では作戦を巡って隆景と意見が合わず、

>「秀吉は尼子とは違い、油断のならぬ相手です。兄上の様に勇ましさだけで勝てる相手ではありませんぞ。」

>と諌める隆景に対し、

>「武道の道を心得ていないのは隆景の方だ!」

>とやりあうこともあったという。
08408332014/11/10(月) 21:31:29.07ID:exiBGxea
>>838
>>830の鬼達の国が丹波って事です
0841人間七七四年2014/11/10(月) 21:32:23.45ID:VtBFhyk6
>>839の話
自分もここは元春が正しいと思う。
実際に戦場に出て戦うのは元春の領分では?

極端な話、元春=張良、隆景=蕭何の役割分担で上手くいくと思うから。
0842人間七七四年2014/11/10(月) 22:12:17.61ID:VtBFhyk6
>>840
ああ、自分誤読してました
ご指摘ありがとうございます
0843人間七七四年2014/11/10(月) 22:15:07.23ID:VtBFhyk6
>天正5年(1577)、松永久秀が信貴山城に滅びると、織田信長はこの信貴山攻めを行った
>佐久間信盛を呼び

>「これまでの功績と合わせ、播磨一国を与える」

>と伝えた。この頃佐久間信盛は、畿内を始め尾張、西三河などに多くの所領と配下与力を持ち、
>これにさらに播磨一国まで加われば、織田宗家に優に対抗できるほどの勢力となる。
>当時の佐久間信盛への信長の信頼がどれほどのものか、よく分かる話であろう。

>が、信盛はそれを断った

>「所領は要りません。それよりも…」

>信長所秘蔵の茶道具の一つ、古作の播知釜を望んだのだ。

>「それは…」

>と信長も躊躇したが、信盛の功績に鑑み、ついにこれを与えた。


>後、佐久間信盛はご存知のよう追放される。そしてこの播知釜は、信守の遺品として、息子信栄に伝えられた。
>信栄は高名な茶人と成ったが、この父の形見の播知釜で、よく茶を立てたとのことである。

>滝川一益が上野に変えて名器を望んだのは、この先例があったためかもしれません。
>佐久間信盛と「播知釜」のお話。
0844人間七七四年2014/11/10(月) 22:18:25.18ID:VtBFhyk6
>>843の話、信貴山と名茶器って呪いがついているのでは?あるいは
松永久秀の呪いで信盛はああいう悲惨な末路を迎えたのでは?と思ったのは
自分だけではあるまい。
0845人間七七四年2014/11/10(月) 23:05:25.84ID:xzh6ixkL
>「新宮党粛清」

>尼子氏はもともと出雲に土着していた国人ではなく近江京極氏の一族で、
>京極高秀の子高久が犬上郡甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)を領して以来、尼子氏を名乗るようになった。

>明徳三年(1392)、高久の子・刑部少輔持久は出雲守護代に任じられて月山富田城(島根県安来市)に入り、ここに出雲尼子氏が起こる。

>その後持久の孫・経久が紆余曲折を経ながらも勢力を拡大し、尼子氏は山陰の一大勢力となっていった。

>さて、経久の二男国久とその子誠久・豊久・敬久らは、月山富田城の北麓新宮谷に居館を構えたことから新宮党と呼ばれていた、
>尼子氏の勢力拡大は彼ら新宮党の活躍に負うところが多く、特に軍事面では尼子氏の中核をなしていたと言っても過言ではない。

>ちなみに経久の嫡男政久が永正十五年(1518)に戦死していたため、経久は天文六年(1537)に孫の晴久に家督を譲っており、
>晴久の叔父である国久は大きな発言力を持っていた。

>しかし天文二十三年の今日十一月一日、晴久は定例の評議のため登城した国久・誠久・敬久ら新宮党を襲い、ことごとく殺害してしまった。
>その際、誠久の五男孫四郎のみは乳母に抱かれて逃れ、のち京都東福寺の僧となる。

>尼子氏の軍事的柱石であった新宮党が、なぜこのような形で粛清されたのか原因はいろいろ考えられるが、
>一説には毛利元就がいずれ対決する運命にある尼子氏の弱体化を図り、
>偽書を用いて新宮党に謀叛の企みありとの風説を流し、晴久を疑心暗鬼に陥れたと言われている。
(続く)
0846人間七七四年2014/11/10(月) 23:07:21.73ID:xzh6ixkL
>当時晴久と叔父国久の間には微妙な空気が流れており、元就はそれを上手く煽ったわけである。
>事実、新宮党には少々度を超えた言動もあったようで、加えて国政にも口出しをしてくる国久に対し、
>当主晴久が次第に面白いからぬ感情を抱くようになっていたのかもしれない。

>ともあれ新宮党はここに滅び、尼子氏の屋台骨は大きく傾いた。

>見事に計略を成功させた元就は翌年安芸厳島に陶晴賢を破って勢いに乗り、大内氏をも滅して後顧の憂いを絶つと、
>次なる侵略の矛先を石見へと向けた。

>尼子氏は晴久が永禄三年(1560)十二月に急死したため義久が跡を嗣ぐが、もはや往年の勢いはなくジリジリと毛利軍の侵略を許し、
>ついに同九年十一月に元就に降伏開城するという結末を迎えることになる。

>なお、尼子氏の重臣山中鹿介は主家再興を目指し、後に京都に隠棲していた勝久を当主として担ぎ出すことはよく知られているが、
>夢を果たすことなく播磨上月城で自刃した尼子勝久こそ、この事件の際にたった一人生き残った孫四郎その人である。
0847人間七七四年2014/11/10(月) 23:11:23.28ID:xzh6ixkL
>>845-846の話、自分は絶対毛利元就の謀略が有ったと思う。
つまり元就のちょっと悪い話。
彼ほど実際には梟雄でありながらそういうイメージ(斉藤道三とか松永久秀みたいな)を
持たれていない戦国武将はいないと思う。
08488332014/11/10(月) 23:20:14.04ID:hiyp+1Tf
>>842
丹波は海のない国ですから天の日矛も上陸したのは丹後かも知れませんね
0849人間七七四年2014/11/10(月) 23:51:47.13ID:xzh6ixkL
>>834にあるように敦賀じゃないんですかね
敦賀だったら丹後でも丹波でもなく若狭になりますね
0850人間七七四年2014/11/10(月) 23:54:44.88ID:xzh6ixkL
>服部小平太の墓?の悪い話

>静岡県浜松市細江町姫街道長坂付近に服部小平太の墓がある。
>服部小平太といえば桶狭間の戦いで毛利新介と共に今川義元を討ち取った彼である。
>後に徳川に仕えた小平太は勲功として刑部城周辺の地を治めることになったのだが、天正十五年(一五八七)六月十八日に小平太は神ヶ谷の陣から馬で見回りをしていたところを何者かに殺されたという。
>このあたりは今川恩顧の者が少なくなかったことから服部小平太を恨んでいた人物が殺したのでは?と地元では言われているらしい。
>以上が桶狭間で戦功を上げた服部小平太が何者かに殺されたという悪い話…

>だが待って欲しい。服部小平太は秀次事件に連座し上杉景勝に預けられた後に切腹を言い渡され亡くなっているはずでは?

>どうやらここで殺された服部小平太と言われてる人物は服部中保次という服部小平太こと服部一忠とは別人の人物らしいのだ。
>「寛政重修諸家譜」の服部中保次の説明で桶狭間で義元の本陣に対し戦功を上げたと書かれていたため服部一忠と混合されたと考えられている。
>以上が服部小平太の墓と伝えられていたものが実は別人の墓だったという悪い話である。
0851人間七七四年2014/11/10(月) 23:57:31.24ID:xzh6ixkL
>>850の話を読んで驚いた、というより自分の無知さを恥じた。
服部小平太なんて桶狭間で名前が出てくるだけの人だと思っていたが
その後領主に出世しいたとは
0852人間七七四年2014/11/11(火) 00:28:51.59ID:QFiOmZnr
>竜造寺本家の当主である胤栄が病死した際、竜造寺から攻められ筑後に亡命していた
>少弐冬尚が、復権の好機とみて肥前に侵入してきた。これを受け、家中の話し合いにより胤栄の跡を
>継いでいた竜造寺隆信は、重臣を集め

>「我が代で国が乱れるのは許せぬ。すぐに出兵しよう。そして少弐家を討ったら東を得よう。次に有馬家を
>討てば西は治まる。それが成功したら、今度は隣国に出陣し菊池家や島津家をも従えて、中国、四国にも乗り出すのだ。」

>と宣言した。所が家臣から

>「まだ国内も治まっていないのに、諸方へ手を出しても敗れるだけです。」

>と諌められ、隆信もこの意見に激怒して軍議の場から退出してしまった。この一件で、重臣からは

>「あれでは国を治めることは出来ない。」

>と嘆かれてしまったという。しかもこの後、かねてより隆信の本家相続を快く思っていなかった土橋栄益に
>謀反を起こされてしまったという。 夢を語るには早すぎた隆信の悪い話。
0853人間七七四年2014/11/11(火) 00:32:49.01ID:QFiOmZnr
>>852の話、龍造寺隆信大風呂敷広げすぎ、取らぬ狸の皮算用しすぎ、おまけに唯我独尊。
のちに太りすぎで馬にも乗れず、家来にも見捨てられ泥田の中を転げまわっているところを
討ち取られてしまったというだけのことはある
0854人間七七四年2014/11/11(火) 00:35:37.71ID:QFiOmZnr
同じ戦場で討ち取られたにしても今川義元は
服部小平太の足を斬り毛利新介の指を食いちぎって抵抗し、
公家化した軟弱な武将のイメージを多少なりとも払拭したのに。
0855人間七七四年2014/11/11(火) 01:22:14.94ID:QFiOmZnr
>石見銀山の支配権を巡り、毛利氏と尼子氏が激しく争っていた永禄2年(1559)2月、毛利元就は次男・吉川元春に、
>尼子に味方する小笠原長雄の居城・温湯城の攻略を命じた。

>しかし、信濃守護家の流れを汲むという長雄の篭る要害は、元春の猛攻をも弾き返し、長男隆元・三男隆景そして
>元就自身までもが温湯に出陣、毛利家総出で攻城に当たる事態に陥った。

>「父上、申し訳ございませぬ・・・!」
>「よい、元春。このまま、お前も攻め手に加われ。かくなる上は土竜攻めじゃ。金掘り衆をもって山腹を掘り進め、
>城の本丸まで抜け穴を作り、一気に内側より奇襲をかけよ!」

>元就号令のもと、石見銀山の鉱夫が集められ、連日に渡り坑道が掘り進められた、ある日のこと。

>「おい、こっちに空洞があるぞ!」
>「本当か!?よし、好都合じゃ。そっちを掘れ、掘れ!!」
(続く)
0856人間七七四年2014/11/11(火) 01:24:16.03ID:QFiOmZnr
>工事がはかどる、とばかりに喜んだ鉱夫たちが空洞を掘り広げたその先には、

>人がいた。

>なんと城方でも同じ事を企て、坑道を掘っていたのだ。
>「や、やぁ」「お、おぅ」予期せぬトンネル開通を祝い、感動のうちに両者は固い握手を交わし、
>・・・となるハズもなく、文字通り日の当たらぬ場所で泥仕合が始まった。

>結局毛利軍は城方に撃退され、土竜攻めに失敗。あきらめた元就は普通に兵糧攻めを行うことを決意、
>半年近く経った7月下旬、城主・長雄の降伏により、毛利氏が1万2千余の軍勢を動員した城攻めは
>ごく平凡な結末を見たという、珍しく元就の策が見事な空振りに終わった話。(毛利元就記より)


>この土竜攻めの際、毛利軍は5ヶ所を基点に坑道を掘り進めたが、そのうち3ヶ所で城方との遭遇戦が
>発生したそうな。どんだけ穴掘ったんだ。
>というわけで邑智郡川本町にお住まいの方、謀神の遺産による突然の落盤にご注意ください。
0857人間七七四年2014/11/11(火) 01:28:23.03ID:QFiOmZnr
>>855-856の話を読んで笑った。まるで漫画。
でもよくよく考えると城内から坑道を掘ってどうするつもりだったんだ。
敵陣の背後に出て奇襲を仕掛ける?

武田の専売特許と思っていた坑道を掘っての城攻めは実は色々なところで使われていたんだな
0858人間七七四年2014/11/11(火) 02:04:09.50ID:QFiOmZnr
>『天正6年(1578)10月、荒木摂津守(村重)反逆のこと、方々より注進があった。
>信長はこれを聞き及び、
>『これはきっと、村重が何者かに騙されているのだ。そうであれば宥めることが出来るはずだ!』
>そう考え、松井友閑、惟任(明智光秀)、万見仙千代を10月下旬に遣わした。

>村重は家老に対し、彼らと対面し、近いうちに信長のもとに出仕すると言うつもりだ、と伝えた。
>しかしこれを聞いた家老は、すかさず諫言に及んだ

>「この度の事は、もはやその科を逃れることは出来ません!このまま出仕を止められるべきです!」

>村重も内々にそう考えていたので、家老の意見に同調し、使いの三人に対面すると、そう言い切って、
>信長への敵対の姿勢をはっきりと打ち出した。
(続く)
0859人間七七四年2014/11/11(火) 02:06:14.65ID:QFiOmZnr
>そもそも荒木村重は、信長の厚恩により出頭した者であって、特に摂津一国を与えられ、反逆など
>有り様はずもなかったのだが、彼に対して、信長の寵愛する小姓、長谷川藤五郎(秀一)がしきりに慮外を企てた。

>ある時のこと、信長が三河岡崎城を訪問した時、それに従っていた荒木村重が門の所立っていたところ、
>長谷川は2階から、村重に向かって尿をしかけた。

>これに気がついた人が、村重にそのことを伝えたが、村重は「苦しからず」と言ってその場を立ち去ろうとしなかった。

>こんな事があったために、謀反に及んだのだ、と言われている。』

>つまり、当時信長の寵童であった長谷川の嫌がらせに当初は耐えたものの、これが原因で、そんな長谷川を
>重用している信長に対し逆心を抱いたのだ、ということである。

>『当代記』より、荒木村重謀反の理由についての記載である。
0860人間七七四年2014/11/11(火) 02:12:13.12ID:QFiOmZnr
>>858-859の話、意外だった。
荒木村重はいわゆる「信長コワイ病」に感染して謀反を起こしたと思っていた。

もし彼がここで長谷川を斬り捨てたら若き日の前田利家
(信長お気に入りの茶坊主を斬り捨て、しばらく出仕停止処分を受けた)
程度の処分では済まされなかったのかな
0861人間七七四年2014/11/11(火) 18:39:14.40ID:JB8j+tHT
>天文15年(1546)10月のこと、京の内裏に、数千人の土一揆が、天皇に直訴するために押し寄せた事があった!
>噂ではこれは、幕府の奉公衆や奉行衆のうち、一揆の相談を受けた2,3人のものが、そうしろろ支持したのだ、
>とも言われた。

>ともかくも一揆側の直訴内容はこうだ

>『幕府が徳政令発布を認めないので、我々は迷惑をしております。どうか朝廷から幕府へ、徳政令を行うように
>仰っていただきたい。』

>この突然の直訴に慌てた朝廷では、後奈良天皇の御前で緊急会議が行われた。
>天皇は内裏に土一揆が乱入することを心配し、「幕府に徳政令を促そうと思うが、どうか?」と発言。
>これに勧修寺尹豊などは賛同の意を表した。

>しかしこの時、広橋兼秀らが猛然とこれに反対した。
>兼秀はいう

>「これは間違いなく、後代に悪しき先例を残します!また世上の嘲りをご推察してください!
>たとえ一揆が乱入しても、我々が力づくで追い払います!」

>このような意見に結局後奈良帝も、直訴を受け入れないことに決定した。
>そこで、この時朝廷は、直訴を受けない理由を、土一揆にどう説明したか?その内容はなんと

>『正当な訴訟なら白昼に持って来るべきなのに、このように「夜中の強訴」をするとは狼藉千万である。
>よって聞き入れるわけにはいかない。』

>そもそも内容以前に手続きルール違反だからダメだわ。ということである。これに土一揆は…

>『それは尤もである』

>と、納得し、帰っていったそうである。


>幕府に対してすら傲慢なのに、変なところで素直な土一揆であった。
(兼秀公記)
0862人間七七四年2014/11/11(火) 18:42:26.74ID:JB8j+tHT
↑の話、朝廷と土一揆のやりとりが
お役所的で笑った。
さすがの土一揆も朝廷には敬意を持っていたのかな
0863人間七七四年2014/11/11(火) 18:44:49.72ID:JB8j+tHT
 >徳川二代将軍の秀忠は江戸の鉄砲町で刀鍛冶をしている繁慶という男の腕が良いという評判を聞き、
>彼の作刀を取り寄せた。その出来があまりにも見事なので秀忠は本阿弥家の者に見せてみた。
>本阿弥光悦を輩出した本阿弥家は戦国から江戸時代にかけて刀剣鑑定の家業で有名な一族である。
>その本阿弥家の男は刀を一見してすぐさま「これは相州正宗のものでございます」と言った。
>正宗は鎌倉時代に活躍した刀工の名前である。
>「外れたわ。これは繁慶という男が最近作った刀だ」と言って秀忠は笑った。本阿弥は驚いて
>刀に彫られた銘を確かめると、「恥ずかしいことです。しかしながら、今の世にこれほどの刀を打つ者が
>いようとは思いませんでしたな」と絶賛した。当の本人の繁慶はこの話を聞いても喜ばず、
>「俺の刀が正宗ごときの凡工の作と間違えられるとは」と不機嫌になった。

>明治時代になり、大久保一翁という男が繁慶の刀を本阿弥長識に見せると
>これもまた、見ただけでこの刀は正宗だと自信たっぷりに答えた。一翁に間違いを指摘されると
>本阿弥長識は「正宗を模造して作ったのだから繁慶正宗と称するべきです」と開き直った。

>刀剣鑑定のプロの一族が鑑定ミスを繰り返してしまったちょっとかっこ悪い話
0864人間七七四年2014/11/11(火) 19:19:53.52ID:JB8j+tHT
↑素直に間違いを認めた先祖に比べて子孫は往生際が悪いな
0865人間七七四年2014/11/11(火) 19:22:41.82ID:JB8j+tHT
>荒木村重の織田信長への謀反が起こる。
>その謀反に味方したものの中に高野聖があり、それが高野山に逃げ込んだ。
>信長はその者たちを差し出せと使者を送ったが、高野山では僧徒がこの使者の態度に怒り、これを殺してしまった。
>この事態に延長は激怒、『諸国の高野聖を捕えて殺せ!』との命令を発した。

>そこで伊勢でも数百人の高野聖やその関係者が捕らえられ、松ヶ島で処刑される事となった。
>この処刑を、織田信雄・信孝兄弟が検分した。

>処刑は次々と行われ、最後に15歳くらいの少年が引き出された。
>この少年が顔を上げる。…と、

>「…!!まて!その処刑、待て!!」

>織田信雄が突然これを止めた。少年はその容貌、非常に美しく、信雄は彼を見初めてしまったのだ。

>「この者は、私の名において助命いたす!」

>信雄はそう宣言し、少年の身柄を引き取った。

>この様子を見ていた織田信孝は、白子杢右衛門尉というものを呼び出すと、いきなり呟いた

>「尻ゆえにこそ命たすかれ」

>これに白子はすぐさま

>「蜘蛛(ささがに)の 糸あはれにも引き出して」

>と、上の句を付けたという。信雄への強い皮肉である。
>信雄はこの少年に「道也」と名をつけ寵愛し、彼は信雄のもとで大いに「出頭」したという。

>この軍記を書いた作者は、当時の世相をこの様に書いている
>『今、諸家では男色に溺れ、佞者を愛し、そういう者に大きな知行を与えて国を乱すものが多数いる。』

>傾国の美女ならぬ、傾国の美少年が数多いた時代の記録である
(勢州戦記)
0866人間七七四年2014/11/11(火) 19:26:35.56ID:JB8j+tHT
↑の話
傾国の美少年が当時珍しくなかったことは知っていたが
驚いたのは「尻ゆえにこそ命たすかれ」という文句
当時から男色のことを「尻」と表現していたのは知らなかった。
この板に武田信玄のことを「尻大名」としているタイトルのスレがあるが
まんざらふざけたスレタイでもないのか。
0867人間七七四年2014/11/11(火) 20:11:13.31ID:JB8j+tHT
>かつて応永の乱の主役たる大内義弘が築いた山口の築山館。
>その庭園には「月見の松」なる名木があり、
>その月影に映える枝ぶりは代々の当主の心を大いに和ませるものであった。

>さて、天文十五年。大内義隆公の御世のことである。
>この築山館にて松の枝に掛かる秋月を肴に義隆公が月見の宴を開いていたところ、
>館の塀の上に怪しげな影の一つ、蠢くものがあった。
>義隆公は大いに怪しみ、急ぎ宿直の者を呼びつけてこれを撃つように命じる。
>命ぜられた武士、松原隆則は弓矢を取り出してひょうと射放つと、矢は狙いあまたず影を射抜き、
>射抜かれた影はどうと庭へと崩れ落ちた。
>この時射殺された影を改めて見ると、それはまごう事なき天花畑の山奥に潜む山姥の姿で、
>これを見事退治した松原隆則は大いにその面目を施したという。

>だが、常日頃になき妖怪の出没は、周防の人々によからぬ事が起きる予兆を強く感じさせた。
>そして果たして五年後の天文二十年、陶晴賢の謀叛により大内義隆公は太寧寺に自刃に追い込まれ、
>件の松原隆則も主君を守って遭えなく討ち死にを遂げてしまうのである。

>大内家の衰運が妖怪を呼び込んだか、
>はたまた妖怪の呪詛が大内家を衰亡に導いたか、
>どっちにしてもいい話じゃなさそうなお話
0868人間七七四年2014/11/11(火) 20:13:24.17ID:JB8j+tHT
↑みたいな妖怪、時代は違うが源頼政の鵺退治とか
実話じゃないだろうけど、当時の人々にとっては「実話」だったんだろうな
0869人間七七四年2014/11/11(火) 20:44:09.99ID:JB8j+tHT
>織田信長を語る上で、外せないのが桶狭間合戦。
>合戦前後を含めたエピソードは真偽不明のものまで混在して事かかないが、その中の一つ。

>敦盛舞って湯漬け食って飛び出した信長は、熱田神宮に参拝しつつ味方を待つ。
>が、相手は大軍で兵士達の意気は上がらない。
>そこで信長、十数枚の銭を取り出して、
>「天意をうかがおう。ばらまいて表の面が多く出れば勝ちだ」
>と、放り投げた。
>皆が注視する中、音を立てて落ちた銭は……なんと、一枚残らず表!
>これを見た織田兵は勇気百倍、勇んで戦いに望んだという――
>……実はこの銭、両面を打ち付けて全部表が出るように細工したもの。
>味方を奮い立たせる信長の、知恵であった。

>が。
>実はこの話、中国・宋代の名将・狄青の逸話とそっくり。
>信長公記のような信憑性ある史料には欠片も乗っていないことから、中国の故事を下敷きにした創作なのはまず確実。
>信長が故智に倣った可能性はまぁゼロではないだろうが……。
>銭絡みだけにマネーしたのか、というオチの悪い話w
0870人間七七四年2014/11/11(火) 20:47:49.51ID:JB8j+tHT
↑の話みたいに、戦国の逸話には中国の古典からの流用が結構あるんだろうな
毛利元就の三本の矢の教えもそうだし
三方ヶ原で負けた後家康が城門を開けっ放しにしたため
何か策があると警戒した武田が引き返したというのは
三国志の空城の計の流用と思う
0871人間七七四年2014/11/11(火) 21:59:56.15ID:nvNa7Brn
> 天正三年のことである。
> 阿波を実質的に支配する三好長治は父義賢に似ても似つかぬ暗愚の君主であり、若年にして政務を蔑ろにし、
>酒色に耽る生活を送っていた。
> 己に諫言するものに対しては極めて暴慢であり、この前年には重臣篠原長房父子をその一族篠原自遁の讒言を容れて
>上桜城に攻め滅ぼし、この三年にはやはり諫言を行った讃岐の香川、香西両氏を憎み、その上司である実弟十河存保を
>無視する形で兵を遣わして攻めさせている。

> そんな不安定化の進む情勢を理解していたのかいなかったのか、長治には長らく抱く一つの夢があった。
> それは三好氏の支配する領国全ての家臣、民草に、三好氏代々が信仰する法華宗への改宗させると言うものだ。
> 当時の阿波は真言宗の強い土地で、主に畿内に勢力を持つ法華宗はほとんど信仰されていなかった。長治の父義賢はその晩年、
>法華宗への帰依を深めて堺に妙国寺を建立したりもしている。法華宗の勢力を強めることは、親孝行になると思ったのかもしれない。
> ……父やその兄弟が健在の時代の宗教政策は全宗教保護路線だったのだが気にしちゃいねえあたりが暗愚の暗愚たる所以だろう。

>「阿波一国の衆、生まれ子まで日蓮宗になし、法華経をいただかせ、他宗の寺にでいりのことゆるされず」(三好別記)
(続く)
0872人間七七四年2014/11/11(火) 22:01:59.76ID:nvNa7Brn
>かくしてこの年、阿波国中の寺院、領民に対して法華宗への改宗が三好長治の命によって発布された。
> ……えっ、淡路と讃岐? 諫言を蔑ろにされてる存保とか安宅信康がそれを呑むと思う?
> ともあれこの命令は軍事力に裏打ちされた強制力を持つもので、特に勢力の強い真言宗が狙い撃ちにされた。
> 多くの檀家が強制改宗に追い込まれ、人の出入りを禁じられた真言宗諸寺はたちまち消滅の危機に晒されたのだと言う。
> 無論、真言宗ほか他宗派は猛反発。大滝山の持明院、大滝寺などは即座に長治に法華宗との宗論を要求、山伏三千人を繰り出し
>強訴に及んだ。容れられなければ一戦も辞さない構えである。
> 流石の長治もこれを無視することは出来ず、宗論の要求を受け入れた上で妙国寺の開基、日bや経王寺の僧侶らを数多阿波へと招く。
> 一方で要求が認められた真言宗側も高野山から円正を招き、いざ両勢力は勝瑞で宗論に挑む!

> ……さて、その肝心の勝敗たるや、これがわからないのが実情である。
> 軍記物である『三好別記』等ではこれを真言宗の勝利とする。
> 一方で当時の文献で唯一勝瑞宗論に触れた文献である『己行記』によれば、法華宗の勝利とする。
> ただし『己行記』は宗論の当事者である日bの著作によるものであるため、客観的な記述とは言いがたい。
> ちなみにこの日b、後に安土宗論で浄土宗に負けちゃう人だったりもする。

> この後、長治の支配が民心の離反から急速に崩壊し、天正五年には細川真之に滅ぼされる事を思えば法華宗が勝ったのかも知れない。
> この後、法華宗の阿波進出がさして進まずなお真言宗が強勢であったことを思えば、真言宗が勝ったのかも知れない。

> いずれにしてもこの勝瑞宗論、法華騒動の発生を見れば長治が改宗への他宗の強い抵抗を予想できていなかったのだろう。

> 備前松田氏といい土気酒井氏といい法華宗はこの手の話が多い気がする。
0873人間七七四年2014/11/11(火) 22:04:59.21ID:nvNa7Brn
>>871-872の話を読んで思ったこと
暗君の宗教狂いは始末に悪い
0874人間七七四年2014/11/11(火) 22:43:27.26ID:nvNa7Brn
>天正13年7月2日、大阪の羽柴秀吉より伊達政宗の家臣遠藤山城守(基信)にあてた書状より、
>本能寺前後の記述を見てみよう。

>『(前略)

>一・先年明智が謀反を企て、夜討ちによって、今日の信長御親子は御腹を召された。
  >不慮のことであり是非もない次第であった。

  >その頃私は西国で戦働きをしており、備中において次々と城を攻め崩し、高松の城を取り巻いていたが、
  >三方に沼を抱えたこの城は、力攻めでは落とせないとこの秀吉は見てとり、水攻めにすべきと考え
  >堤を築き、備中の川は申すに及ばず、備前の川まで流れを変えさせ水を流し、このため高松城は
  >大変困難な状況になった。

  >ここで後ろ巻き(高松城の救援軍)として毛利輝元、小早川隆景、吉川元春が5万ほどの軍勢で
  >罷りでて来たが、我々と四・五町(約500メートル)ほどの間隔を開けて対陣したものの、城の救援は
  >極めて難しく、城に近づくことも出来ず、城内の困難さはさらに増して行った。

  >この時(6月)4日の巳の刻(午前10時頃)、京都において信長が御腹を召したという注進があった。

  >私は6日には高松の城を攻めこれを落城させ、城主は勿論、城内の者たちの首をことごとく刎ねた。
  >そして翌7日には毛利・小早川の陣に総攻撃を仕掛けここで討ち果てる覚悟をしていたところ、
  >毛利の方から色々と和平を求めてきて、毛利の分国のうち五ヶ国、その上人質も出すと言ってきたので
  >仕方なくこれを許してやり、これによって9日には播州姫路まで帰ったのだ。

>一・10日に人馬を途切れること無く上方に上らせ、13日に山城国山崎表において一戦し敵を切り崩し、
  >明智日向守(光秀)は「言うに及ばず、その他五千ばかりを討ち取った。
  >その上で織田家領国の不届き者はことごとく成敗するよう申し付け、御分国の混乱を納めた。

>一・そして知行割をし、信長の御子達には勿論、宿老たちに至るまでこれを分け与えた。
  >ところが播州姫路にあるこの秀吉が、五畿内の事について意見を申し上げた所、三七殿(織田信孝)、
  >柴田修理(勝家)が謀反を企てた。
  >私はなんとか平和裏に収めようとしたが、ついにこの秀吉も我慢の限界に達し、近江と越前の境である
  >柳瀬に置いて合戦することになったのである。

>(後略)』
(斎藤報恩博物館所蔵文書)
0875人間七七四年2014/11/11(火) 22:47:57.32ID:nvNa7Brn
↑の書状、自分に都合のいいようにばかり解釈しているのはまだしも、
明らかな嘘も書いているな。
高松城内の者たちの首をことごとく刎ねたなんてw

なんのためにこんな嘘を書いたんだ?
0876人間七七四年2014/11/11(火) 22:50:39.60ID:nvNa7Brn
>四国八十八カ所、第七十番本山寺。
>弘法大師が平城天皇の勅願により大同2年(807年)、一夜にして建立したと伝わる。
>本尊は馬頭観音、脇仏は薬師如来と阿弥陀如来。
>この寺に、讃岐が長宗我部に蹂躙されていた頃の言い伝えがある。

>長宗我部元親が土佐を掌握し、四国平定へ本格的に乗り出した頃のことである。
>讃岐本山の本山寺は、二十余りの妨を持つほどの隆盛を極めていた。
>そのため讃岐に攻め入った元親は、この寺を本陣にしようと軍を率いて境内に押し入ろうとした。
>当時の住職はこれに怒り、「境内には一歩も入れさせぬ」と門前に立ちはだかり、
>軍勢を押しとどめようとしたが、哀れ斬り捨てられてしまった。
>そのとき内陣厨子の扉が開き、阿弥陀如来の右肘から血が溢れ流れたので、
>長宗我部の兵たちは驚き恐れ、一目散に退散したのだという。
>この如来像は以来「太刀受けの弥陀」と呼ばれ、現在も右手にその傷が残っているという。
>一説には、本堂で斬られかけた住職の身代わりとなってこの如来像が斬られたので、
>恐れた長宗我部軍が驚き逃げたのだとも伝わる。

>またこの時、腹いせに長宗我部の軍勢が寺に火をかけようとしたのだが、
>にわかに蜂の大群が押し寄せてきて、軍勢は一目散に逃げ去ったので
>他の寺が多く長宗我部の軍勢によって焼かれたにもかかわらず、本山寺は無事であったのだという。

>この後秀吉によって土佐一国に押し込められ、九州攻めで嫡子を失い、
>また関ヶ原にて西軍に与したために改易をくらうなど凋落の一途を辿った長宗我部を、
>阿波・讃岐・伊予の者達や焼かれた数多の寺社関係者などは
>「神仏を蔑ろにした当然の報いである」と噂したそうな。

>ヒャッハーしようと思ったら仏罰をくらってしまった、長宗我部元親の悪い話。
0877人間七七四年2014/11/11(火) 23:42:30.21ID:nvNa7Brn
↑の話、まるで東大寺大仏殿を焼き討ちにしたため仏罰で平清盛が
酷い熱病にかかって死んだというエピソードみたい。
因果関係づけたくなるんだろうね。
でも、「信長の悲惨な死は延暦寺を焼き討ちにした仏罰だ」とかは
ほとんど言われないのは何故だろう。
0878人間七七四年2014/11/11(火) 23:46:04.28ID:nvNa7Brn
>細川忠興が豊前四十万石を治めていた時のこと。早朝、豊前小倉城を訪れる老人があった。

>「はい、ごめんなさいよ。忠興殿は居るかな?」
>「なんだ爺さん、ウチの殿様になれなれしい・・・・・・げぇっ!黒田のご隠居!!」

>「いかにも。忠興殿に、『如水が来た』と取り次いでもらえんかね。」

>天下にその知謀を知られた大物の、突然の来訪に細川家中は肝を潰し、城中は大騒ぎになった。
>直接もてなす立場であり、数寄者として自他ともに認める忠興は、なおさらである。

>「こんな朝早くのお越しだ、朝飯も食っておるまい。そのつもりで、手を尽くして料理いたせ。ぬかるなよ!」
>「ははっ!!」


>「お待たせしました、如水殿。して、本日の御用向きは?」
>「なぁに、用とは他でもない。お前さん、ウチの息子と絶交しておいでじゃな?」
>「・・・ええ、まぁ。」
>「何とか仲直りして、前のように付き合ってもらえんかの〜?」

>「いかに如水殿の仰せでも、そればかりは聞けませぬな。」
>「むぅ。では、お前さん方の子の代には仲良くやってもらう、というのはどうかな?」
>「うーん・・・いや、我らが死んだ後の子孫の事まで、約束は成りませぬ。」

>「ならぬか、ならぬか!じゃあ帰るわ、邪魔したね。」
>そう言い捨てた如水は、せっかくの料理にも手を付けず、さっさと帰ってしまったそうな。
(旦夕覚書)
0879人間七七四年2014/11/11(火) 23:47:54.23ID:nvNa7Brn
↑の話。
これだけを読むと忠興も如水も凡人にしか見えない。特にあの後者が。
これぞちょっと悪い話。
0880人間七七四年2014/11/12(水) 00:21:06.05ID:qcTntTUe
>年貢を関ヶ原合戦用に使い果たした後で安芸を福島にもってかれた毛利家。
>福島は「ルール通り、年貢戻せよ、敗軍」と威圧的な交渉。
>とはいえ、毛利家はTERUが「経営無理ポ」とすでに泣きが入っている状態。
>この時、意外な展開が。

>毛利家の交渉担当者は酒を飲んでる市松のところで返済猶予を要請。
>市松「おし、この大杯を飲み干したら返済を待ってやる」
>死ぬ気で飲みまくって毛利家の財政破綻を阻止したこの担当は

>酒の飲みすぎで体を壊して死んだそうな。
0881人間七七四年2014/11/12(水) 00:26:24.32ID:qcTntTUe
↑の話、最初は福島正則に命じられた大杯を飲み干して死んだのだと思って感動した。
文字通り命を捨てて毛利家を救ったのだと。

しかしよく読んでみると、その担当は別にその時に死んだのではなく
普段から酒飲みでそれが原因で死んだということなんだな。
0882人間七七四年2014/11/12(水) 00:28:32.53ID:qcTntTUe
>天正11年(1483)、秀吉の弟、羽柴美濃守秀長と羽柴孫七郎秀次は、伊勢の峰の城攻めをしたが、
>城主・滝川義太夫がこれを良く防いで戦った。
>織田信雄の家臣・津川玄蕃も同じくこの城を攻め、軍勢を集結させ城の堀際へと寄せてきた。
>この時城中から長い柄杓を使って糞尿を汲み、これを寄せ手に向かってかけ散らした。

>それから織田上野介信包(信長弟)もこの城に攻めに来たが、この時信包の部隊が城のすぐ近くまで近づき、
>こう大声を挙げた

>「我らに俳諧の発句あり!城内の人々、歌の心あらばこの脇をつけよ!」

>これに城内の誰とも知らぬものが大音で返答した

>「お前たちはどうせ、前々から発句を作っておいて、今我々に脇を乞うているのだろう!
>それがし、只今とっさに作った狂歌がある!お前たち、これに返歌せよ!」

>そして一句

>『上野の やき砥は鑓に合わねども 羽柴をしなす峰の城かな』
>(上野介程度の敵では我々の手に合わないが仕方がない戦ってやろう。ここは羽柴軍の連中の命を奪う峰の城だ!)

>これに信包の家臣たちは返答につまり、ただ城に向かって鉄砲を撃ちかけることしか出来なかった。
(北畠物語)
0883人間七七四年2014/11/12(水) 01:04:29.60ID:qcTntTUe
>>882の話。前哨戦は発句対決になったわけね。
戦いの前になんとも風情な。
まさに文武両道
0884人間七七四年2014/11/12(水) 01:15:19.45ID:qcTntTUe
>慶長九年、街道整備の為に徳川幕府は一里塚を築いた
>この街道整備だが、家康主体ではなく、秀忠が中心となって企画・推進したと言われる

>『台徳院殿御実記』の巻一にも
>「九年二月四日、公(秀忠)の仰として、東海・東山・北陸の三道に一里塚を築かしめらる」
>と記されてある

>家康が江戸〜京都間の東海道の宿を設定し、伝馬朱印状と伝馬定書を下したのは慶長六年(1601年)正月
>秀忠は江戸〜京都を結ぶ、東海道・中山道・北陸街道の三つを一元的に統括し
>東西の交通を掌握する必要があると考え、一里塚を築かせることにした

>さてこの一里塚、榎がかなり多く植えられている その謎についての逸話

>秀忠は一里塚築造の惣奉行、大久保長安に「よい木を植えろ」と命じた所
>長安が「えの木を植えろ」と聞き間違えたからだという

>でも榎もよい木だから間違っちゃいない
0885人間七七四年2014/11/12(水) 01:18:07.07ID:qcTntTUe
↑の話、まるで落語だね
にしても大久保長安、金山開発だけじゃなく土木工事全般を担当していたんだな
0886人間七七四年2014/11/12(水) 01:50:34.69ID:qcTntTUe
>姉川の戦い


>信長は浅井親子が朝倉氏に味方していることに憤慨し、「ならば先に浅井を滅ぼしてその後で朝倉を攻める」と言って
>家康公に協力を求められたので、家康公は3000余の兵を率いてご出陣なさった。
>浅井方は朝倉に加勢を求めたので、朝倉景紀が兵15000を率いて出陣してきた。

>6月28日に姉川で合戦が行われた。

>はじめ信長は「私は朝倉勢に向かうので君は浅井と戦ってくれ」と言っていたのだが、朝倉が大軍であるのを確認すると、
>急に「私は浅井勢を攻撃する。君は朝倉に向かってくれ」と言ってきた。
>徳川の御家人たちにはこれを拒否する者が多かったが、家康公は「大軍に向かう事こそ勇士の本意である」と仰せになり、
>朝倉勢に向かわれた。

>こうして朝倉勢15000が家康公の軍勢に、浅井勢8000が織田勢に向かっていった。
>徳川勢の酒井忠次らがかけ声を上げながら向かっていくと、朝倉勢もついには敗北し、真柄直隆など優れた勇士たちを多数討ち取った。
>浅井方は先鋒の磯野員昌が織田勢を11段まで切り崩し、織田勢は大混乱となった。

>家康公はこの様子をご覧になり、「織田殿の旗色が悪いようだ。崩してかかれ」とご命令になり、
>本多忠勝ら数名が浅井勢の中に向かっていった。
>浅井勢も横から攻撃を受けては防ぎきれず、混乱した。
>織田勢はこれに勇気付けられて反撃し、浅井勢は敗走して小谷城へ逃げ込んだ。

>信長は「今回の勝ち戦はすべて徳川殿のおかげである」と言い、感状のほか、長光の刀などさまざまな品を送ってきた。







                                                            >by 徳川実記
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