>天正10年(1582)12月2日、羽柴秀吉は和平を一方的に放棄し柴田勝豊の近江長浜城を攻略。
>ここに秀吉と柴田勝家との対立は決定的となり、事態は賤ヶ岳の戦いへと進んでいく。
>さて、そんな状況の中の、12月14日付、羽柴秀吉の書状


>『前に姫路から取り寄せた材木船のことだが、その方の手の者に任せているのにまだ届かないではないか!
>沙汰の限りとはこの事である!早々に申し付けてすぐに届けさせよ!

>また前の馬屋の連中に取り寄せさせたかすがいも、まだ届かないではないか!お前は一体何をやっているのか!?
>これもまた緊急に届けさせるように!

>恐々謹言

             >筑前守 秀吉(花押)

>十二月十四日
 >小西弥九郎(行長) 殿』


>戦争を始めたものの秀吉方も物資の輸送が上手くいっていなかったようで、
>その怒りやいら立ちを小西行長にぶつけた書状である。
(壱岐文書)