【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
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0001人間七七四年
2012/10/15(月) 00:12:08.25ID:RhmDVWTD戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0754人間七七四年
2014/11/07(金) 20:13:22.51ID:V1rsPEpr>これは勝山と呼ばれていた、
>広地にして水清く、八方に開けた場所である。
>南には5,6町隔てて石手川の流れ清く、また南方2,3里隔てたところには加藤家直轄領である
>施梨山、西に15,6町隔てた場所には江戸山。
>三津の浜までは山が続き、北は御幸寺の山遠く、東は道石手山、湯の山嶺数里続き、湯月の古城を
>去ること20町。
>素晴らしい地だと確信した。
>慶長8年(1603)嘉明はここに、五重の天守を始めとした大規模な築城を始めた。
>そして勝山の地名を改め、「松山」と名付けた。
>伊予の新たな首府・松山の威容が今まさに出現しようとしていた…
>が、この松山城完成を前に、加藤嘉明は寛永4年(1627)、会津40万石に転封となってしまったのである。
>とまあそんなこんなで、騒音公害から始まった、伊予松山築上の顛末である。
(伊予郡郷里俚諺集)
0755人間七七四年
2014/11/07(金) 20:17:34.22ID:V1rsPEpr加藤嘉明の気持ちはどうだったんだろう。
石高が倍増するのは嬉しい、しかしせっかくお気に入りの場所に作った松山城の
完成間近に遠地に転封
スケールの小さな家康の関東転封という感じだ
0756人間七七四年
2014/11/07(金) 21:43:48.39ID:h8/hcZeP>ここに秀吉と柴田勝家との対立は決定的となり、事態は賤ヶ岳の戦いへと進んでいく。
>さて、そんな状況の中の、12月14日付、羽柴秀吉の書状
>『前に姫路から取り寄せた材木船のことだが、その方の手の者に任せているのにまだ届かないではないか!
>沙汰の限りとはこの事である!早々に申し付けてすぐに届けさせよ!
>また前の馬屋の連中に取り寄せさせたかすがいも、まだ届かないではないか!お前は一体何をやっているのか!?
>これもまた緊急に届けさせるように!
>恐々謹言
>筑前守 秀吉(花押)
>十二月十四日
>小西弥九郎(行長) 殿』
>戦争を始めたものの秀吉方も物資の輸送が上手くいっていなかったようで、
>その怒りやいら立ちを小西行長にぶつけた書状である。
(壱岐文書)
0757人間七七四年
2014/11/07(金) 21:46:22.27ID:h8/hcZeP>>756の話を読んで意外だった。
むしろこの時の反省から成長し達人になったのかな?
0758人間七七四年
2014/11/07(金) 21:47:48.94ID:h8/hcZeP>決戦に備えて三男の秀忠に中山道を西上する様に命じた。サポート役に大久保忠隣や牧野康成、榊原康政
>お目付け役として本多正信も帯同したこの部隊は進軍の途上、三成方の真田昌幸が籠る上田城を攻撃した。その際、
>窮地に陥った味方を救おうと、忠隣配下の杉浦文勝と康成配下の贄掃部が命令が無いまま兵を動かしたのだが、正信はこれを
>「いかに味方を救う為とはいえ、命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である。両名に厳しい処罰を与えるべきじゃ。」
>と主張した。結果として文勝は切腹し、これに反論した康成は秀忠軍から外された。武功派の忠隣らと、さしたる戦功もなく智謀で出世した
>正信とはもともと馬が合わず、この一件がきっかけで不仲が表面化したという。さらに戦後、正信が家康の後継者として二男の結城秀康を推薦したのに対し、
>忠隣が秀忠を推した事などもあり、両者の溝はより一層深まっていったという。
0759人間七七四年
2014/11/07(金) 22:24:23.56ID:h8/hcZeP正信が秀忠を推したのなら正信を重んじていたのだとスッキリするが。
まあ家康は特定の人物(派閥)を重んじるのでなく臨機応変だったということかな。
0760人間七七四年
2014/11/07(金) 22:29:16.45ID:h8/hcZeP>そして越前領主丹羽長重にその先陣を許した。長重は急ぎ帰国し、軍馬を揃え秀吉の下向を待つ。
>8月、秀吉は北伐と称し越前路に来臨。長重は北ノ庄城を発して近江路まで出てこれを迎え、北ノ庄城への
>渡御を乞う。秀吉はこれを許諾し、総軍は街道に残した上で、扈従ばかりの人数で北ノ庄城に入城し、秀重からの
>饗応を受けた。時に秀吉の、長重への懇意なことは、まるで父子のようであった。
>この時、丹羽家中では一部に、秀吉に対し密かに反逆せんとする企てが進んでいた。
>ところが秀吉はその事を以前から気き知っており、しかしそれをいささかも顔に出さず、この饗応に
>大いに喜んだ風で、丹羽家の重臣一同(無論反秀吉派も含む)を御前に召し出し、特別に銘々に盃を与える。
>そして一同にこう申し下した。
>「よいか、国主長重は年若い。お前たちは故越前守(丹羽長秀)の遺訓に違わず、忠義をなして長重を補佐するべし!
>万一、彼が幼主であるのを侮り、私意を以って悪事を進める賊臣があるようならば、直ちに首を刎ね、長重の領地は
>全て没収する!そうなれば長重は不肖の子であり、お前たちは不義不忠の賊臣である!
>固くこの旨を心せよ!」
>そう厳命すると長重の方を向いて
>「わしからの、そなたの家臣共への命令は今聞いたとおりだ。そなたは若年といっても、これをいささかも忘れてはならない。
>そなたの父長秀は、信長公天下創業第一の功臣であり、その英名は天下を恐服させたものだ。
>そなたもその父の資質を受け継いでいる風にみえる。謹んで臣下の善悪を究明し、国家の大事を怠るでないぞ!
>年頃に至れば朝廷に奏し高官に登用し、これから攻めとる佐々成政の領地を加増し北国一円の主とさせるであろう。
>そのつもりであるから、今回の佐々成政に対する先陣も許したのだ。この旨をよくよく理解せよ!」
>そう厳命した上で北の庄を発した。
>秀吉による、丹羽家中及び丹羽長重に対する牽制と懐柔である。
(丹羽歴代年譜)
0761人間七七四年
2014/11/07(金) 22:31:35.47ID:h8/hcZeP晩年だったら皆を処刑してしまっていただろう
0762人間七七四年
2014/11/07(金) 23:02:55.46ID:h8/hcZeP>当時忠興と松井康之は二本松にいた
>一、 浅野弾正と一緒に二本松に同陣していることは、奇特というか名誉なことです。
>上様(秀吉)の耳にもそのことは入っています。
>一、 奥州の一揆が蜂起したのは、ひとえに政宗が謀反を企てているからだと上様のお耳に入れ申しました。
>一、 政宗は羽忠(蒲生氏郷)を攻略するつもりのようだが、氏郷が油断しているように見えるので、
>(原文だと羽忠政宗武略之覚悟、羽忠油断無様に被思食候)
>上様は去年二八日中様(秀次)、家康様両名に折紙をよこし、
>そちらへ向かわせることにしました。このことは弾様(浅野長政)へも取次があったと思います。
>一、 政宗は去年4日黒川に陣替えして、会津と二本松の間を通行できないようにしてしまった。
>これはまぎれもなく謀反の意図があるということだ。氏郷が会津に無事帰城するまでは、
>政宗が何を言おうと、すべて裏表がある、と上様はおっしゃっていました。
>一、 霜台(浅野長政)から政宗へ、ご返事があったことは承っています。上様と全く同じ思し召しです。
>会津への通路を切り取った以上、政宗が何を言っても、申し開きは無理でしょう。
>一、 上様は三月一日奥州へ出馬することに決まりました。
>この年の1月22日秀長死去、2月28日利休は秀吉に切腹を命じられる
0763人間七七四年
2014/11/07(金) 23:05:55.81ID:h8/hcZePここまでやっていたとは。
この仕事と切腹に関連性はあるのだろうか?
0764人間七七四年
2014/11/07(金) 23:39:49.89ID:h8/hcZeP>近衛信尹は、武家との交流が盛んであった公家である。
>さて、いよいよ病が重くなったある日、信尹は愛する家族にあてて遺言をしたため、形見分け等を指示するが、
>その中に、交流のあった諸大名の名が見える。曰く、
>「左衛門大夫(福島正則)・政宗・島津(義弘)にも、似合いの品を、それぞれ遣わしてください」
>(原文:左衛門大夫・政宗・島津などへも、似合い候物ども遣り候べく候)(※前後略)
>書面上のことではあるが、信尹卿も、政宗は呼び捨てなのであった。
0765人間七七四年
2014/11/07(金) 23:43:22.80ID:h8/hcZeP公家が大名達に形見分けをしてんだな。
まあこれらの大名に公家としての権威を提供し
その見返りとして金(米)をもらっていたんだろうな。
0766人間七七四年
2014/11/08(土) 00:16:49.21ID:PmPgif3E>永正11年(1512)、今川氏親の遠州侵略に対し再び反抗を起こし、曳馬城(浜松)を奪還し、さらに池田・入野といった
>地域まで横領に成功した大河内貞綱に呼応。斯波家の領国である遠江を回復するため自身が出馬して
>これを助けんとした。
>が、尾張上四郡を支配する岩倉織田家の織田伊勢守信安は、この遠征に利がないと強く諌めた。
>しかし義達はこれを聞かず出馬を強行。ここに斯波義達と織田信安の関係は不和となり、上四郡の兵は
>この遠征に参加しなかったため、義達の兵は甚だ少ないものとなった。それでも遠江へと進軍し、
>曳馬城に入った。
>余談だが織田信安は後に、一族である若き日の信長とも激しく対立することになる。
>同年6月。今川氏親は3万の兵で城攻めを行った。
(続く)
0767人間七七四年
2014/11/08(土) 00:18:34.90ID:PmPgif3E>状況ではなかった。が、氏親は大竹縄数百で繋げた船橋をかけ軍勢をやすやすと城の周囲に展開させ取り囲んだ。
>しかし曳馬城は非常に堅固な城で、それでも今川の攻撃に耐え続けた。
>そこで氏親は城が高台にあることに目をつけ、阿部金山から金堀師を呼び寄せ城内の水脈を全て掘り抜かせた。
>このため城には水がなくなり日々に弱り、8月19日、この日の攻撃で大河内貞綱と、その弟、巨海道綱、
>高橋正定、中山監物ら千人あまりが討ち死に、斯波義達は捕虜となり、曳馬城は落城した。
>付近の普済寺という禅寺に監禁された斯波義達であったが、今川氏親は「同じ足利一門の好である」として
>彼の命を助けた。そのかわり剃髪し出家させ(法名は”安心”であったという)、『今後二度と今川家に対して弓を引かぬ』
>との誓紙を書かせ、これをもって尾張へと送り返した。
>斯波家の権威を決定的に低下させ、尾張において織田氏に主導権をもたらす画期になったと言われる、
>斯波義達の曳馬城合戦の逸話である
(今川家譜)
(名古屋合戦記)
0768人間七七四年
2014/11/08(土) 00:21:44.69ID:PmPgif3Eを既にやっていたんだな
信玄が発明した方法だとばかり思っていたよ
0769人間七七四年
2014/11/08(土) 00:56:06.60ID:PmPgif3E>だがやはり兄弟を討たれたことに思うことはあったのだろう、信直を恨む様子が折々に見え、そんな吉兵衛に信直も警戒していた。
>さて、この中野修理は大男で怪力の持ち主だった。彼は唐竹の中に鉄棒を仕込んだ五寸回りの狩り杖をつねに持ち歩いており
>三戸城の石垣を組む時、三十人でも引けないような大きな石が落ちてくるのを
>その狩り杖で押さえたという逸話があった。
>ある冬の事、信直が三戸にて冬雪の上にて追鳥をして気晴らしをしていた。
>信直はかんじきを履いて雪の上を自由に歩いていたが、大男だった中野は雪を踏つぶし、歩くのも難儀しているようだった。
>その様子に信直は
>「御身はいつも鬼のようだが、こう雪が深くては我には駆けつけられないだろう?」
>この言葉に中野は言い返した。
>「さてさておかしな事をおっしゃる。御前を手取りにするのは、わが心のままですぞ」
>「ほほう、さればわれに追い付いてみよ!」
>駆け出す信直、中野は自慢の狩り杖を持ち直し、それを信直のかんじきに当てた。
>雪の中にこける信直。中野は
>「堪忍せぬぞ!」
>とトドメを――刺さなかった。理由は分からない(書いてない)
>こうしてこの場は何事もなく終わったが、信直はさらに中野を警戒するようになり、いつか討ってやろうと折を窺っていたが
>結局機会が来ることはなかったという。
0770人間七七四年
2014/11/08(土) 00:57:19.36ID:PmPgif3E日本にもあったんだなw
0771人間七七四年
2014/11/08(土) 10:20:23.45ID:YpBVCs5e>羽柴秀吉は7月に大阪に居城を築く。この頃参議に任官し、従四位の下に除し、その権威は添加に振動し、
>各地の諸侯は我先にと大阪に馳せ上り彼の謁見を受け、皆その麾下に属した。
>そんな中、丹羽長秀だけは越前に移って以来、秀吉に対し音信の使いも登らせず、この年の末になり
>冬となっても上洛することも無かった。
>これに秀吉は激怒し、使いを越前に派遣し長秀の態度を激しく責めた
>『今私は天下の覇権を握った!禁裏を守護し、勅許を受け天下の兵権も掌握した。
>そうであるのに長秀は、そんな私との約束に背き上洛してこない。一体どういう理由で私の側に来て
>私を輔けないのか!?速やかに上洛せよ!』
>この秀吉の言葉を聞き、丹羽長秀は更に激怒した
>「秀吉は私のことを何だと思っているのか!?私はこれに返答すべき言葉がある!
>汝(秀吉からの使者)は私の家臣を連れて、京に戻るが良い!!」
>そして家臣の中から村上次郎右衛門義明を選び、自身の言い分を伝え、秀吉の使いに付けて京へと向かわせた。
(続く)
0772人間七七四年
2014/11/08(土) 10:22:00.22ID:YpBVCs5e>しかし村上義明はいささかも恐れること無く秀吉の前に出ると、こう声を上げた。
>「長秀の言葉はこうです。当国(越前)に移って以来、国務は甚だ多忙であり、またこの北陸の地は雪深く、
>冬になれば道を通ることすら容易ではない。その上、天下は既に足下が安定して掌握している。
>それ故に私は、安心して在国して足を休めているのだ。
>今、あなたが天下の覇権を握るのに、私もおおいに助力した。
>それなのにどうしてこのように、私を甚だしく責めるのか!?そこをよく考えていただきたい!」
>これを秀吉の前で言い放った義明の勇壮に、祗候の諸大名たちは皆驚き、秀吉の反応を恐れた。
>が、この時秀吉は
>「…私の言い過ぎであった。汝(秀吉の派遣した使者)も長秀に陳謝せよ」
>と、義明に付けて再び越前へと送った。
>この秀吉の態度に長秀の怒りも解け、秀吉、長秀は以前のように懇意の間柄になったという。
>丹羽長秀が上洛しなかった事からきた騒動に関する記録である。
(丹羽歴代年譜)
0773人間七七四年
2014/11/08(土) 10:27:09.03ID:YpBVCs5eそれで秀吉の態度がころっと変わるとは・・・
もともと秀吉は長秀を許すつもりで、その切っ掛けが欲しかっただけだったのかな
0774人間七七四年
2014/11/08(土) 11:01:58.13ID:YpBVCs5e>6月29日
>『大乗院(尋憲)殿が安土より帰られた。三七殿(織田信孝)から御念の入った御礼を受けたそうだ。
>まずは大慶である。
>伊勢の御本所(織田信雄)と三七殿との所領に対する存念が一致せず、諸軍勢が未だに集結したままであるという。』
>7月6日
>『天下の状況、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田紀伊守(恒興)、堀久太郎(秀政)の、
>以上5人によって分捕りのようにされてしまった。
>信長の子供たちはいずれも取り立てられなかったという。浅ましい、浅ましい。』
>7日
>『天下の状況、本所(織田信雄)と三七(織田信孝)との所領に関する論争のため、両人共に三法師の
>名代を辞任し、信雄は伊勢を取り、信孝は美濃ばかり。上野殿(織田信包)へは伊賀一円だと言う
>柴田勝家は長浜一円二十万石、堀久太郎は城介殿(織田信忠)の子供たちの御守りを命ぜられ、
>そのためとして近江の中郡二十万石。丹羽五郎左衛門は高嶋郡と滋賀郡、池田紀伊守は十七所、大阪を取り、
>羽柴筑前(秀吉)へは山城国一円、丹波国一円(これは筑前の弟小七郎のもの)、西の丘、勝竜寺以下、
>河内にて東ノ山以上、それらが概ね、秀吉の意のままになったようである。
>それから下京六条に城を建設するという話だ。ここに三法師を入れ、その名代を置くことはなく、
>先の五人、柴田、羽柴、丹羽、池田、堀が常駐して意見申し上げ、盛りたてていくのだとか。
>筒井順慶は大和国一円、宇智郡を与えられたそうだ。
>これには羽柴秀吉が、筒井が所領できるよう熱心に運動したとのことである。
>しかしこれで、大和は今後も静謐が保たれるだろう。
>以上、このように相定まったが、かなりの問題が残されたままである。
>なにより信長の子息達は大勢いるというのに、何れも全く取り立てられていない。
>必ず何らかの狂いが出てくるだろう。』
>清須体制の成立前後の、情勢とその分析の記録である。
0775人間七七四年
2014/11/08(土) 11:03:55.56ID:YpBVCs5eそれにしても、知ってたけど、改めて思ったのは秀吉の一人勝ちすぎ
0776人間七七四年
2014/11/08(土) 11:38:10.45ID:YpBVCs5e>またある者は次なる乱を想定し準備を進める中、ある男が大坂城内の長宗我部盛親を訪ねて来た。
>「盛親様、お久しゅうございます。」
>「お前は!・・・攻め手に加わっていたか。どの手勢にいたのだ?」
>「今は、井伊掃部殿の配下におりまする。」
>「そうか。4日の朝、真田丸の戦いにも居たのか?」
>「居りました。本日は、あの時に討ち死にした者の遺品を引き取りに参りました。」
>「あの戦いで井伊家の者は何人死んだ?」
>「名のある者、17人が討ち死にを遂げました。」
>「そうか・・・皆の衆、この者の申したことは本当ですぞ!」
>盛親は周囲の者にそう言い放つと近習に、戦利品である17本の旗指物を運ばせて、男に渡した。
>指物の中に知人のものを見つけ、密かに涙する男を眺めつつ、盛親は言葉を続けた。
>「この者の祖父も父も、わが父や兄の用に立ち、その馬前で死んでくれた勇士であった。
>それに比べて、わしは・・・ハハ・・・・・・和議成ったばかりでの役目、大儀。杯を取らせる。」
>「かたじけなし。」
>盛親の杯を飲み干した男は、丁重に礼を返して大阪城を去った。(福留覚書)
>男の名は、福留半右衛門。
>『福留の荒切り』と呼ばれ、伊予攻めで戦死した福留飛騨の孫で、『蛇もハミもそち寄れ、隼人殿のお通りじゃ』
>と、その武勇を童歌にまで称えられ、戸次川の戦いにおいて長宗我部信親とともに死んだ福留隼人儀重の子である。
>関が原の戦いの後、牢人となった半右衛門は諸大名を転々としており、大坂の陣の時は井伊家に属し、
>戦後は尾張徳川家に仕えて生涯を終えた。
>半右衛門自身の生い立ち、戦場における同僚との他愛ない交流、一時期仕えた加藤嘉明家での気に食わぬ上司等、
>克明に記された『福留覚書』において大坂の陣、特に夏の陣のことは、淡々と足早に書かれている。
0777人間七七四年
2014/11/08(土) 11:40:15.46ID:YpBVCs5e戦国の泣ける話やね
でも、こういうケース他にも有ったんだろうなあ・・・
0778人間七七四年
2014/11/08(土) 12:15:25.36ID:YpBVCs5e>『覚
>一・羽柴筑前守(秀吉)、約定違反のこと
>一・清須において誓い、それぞれに印も押した置目について、秀吉は全く守っていない。
>政治の形が今までと全く変わったことに、庶人は不信を申し立てている。諸国の下々がそのように言っているのは
>当然のことである。政治が分明に、決まった通りに行われていればどうしてこんな事になるだろうか?
>羽柴筑前とこの勝家の間は、、元々は疎遠でなかったはずなのに、この頃では人々も不和だといっている。
>天下の織田家御分国を静謐にするという評定は当然のものなのに、清洲会議以来の秀吉の裁許は、言葉にもならない
>有様である。諸人がこれを不審に思うのも尤もである。
>一・この勝家自身のことを言わせてもらえば、私は長浜を分配していただいた以外、米一粒、一銭足りとも私していない。
>申次の諸侍から、この事に対して私に嘆いてくるものが聊かあるが、そういった者たちにもその理由を申し使わして、
>道理のあるところをよくよく説明しているので、私の方では知行にも諸侍にも手心を加える事は一切無いのだ。
>一・若子様(三法師)の事だが、惟住五郎左(丹羽長秀)より、岐阜に申し上げるべきだとの意見により、各一同の
>兼ねてからの約束通りに、岐阜から安土への御動座をされるようにと、岐阜へも、五郎左へも返事をした。
>その墨付は双方に存在している。
>一・今度の上様(信長)のご不慮によって、天下は混乱し治め難き様相となった。未だ四方に敵があるのだから、
>内輪は対立を自重し、上様の行いを引き継ぎ四方に馳せ走る。上様がおられなくてもそのようにするのが
>本来で有るべきなのに、全くそのようになっていない。
(続く)
0779人間七七四年
2014/11/08(土) 12:17:26.60ID:YpBVCs5e>仰せつかった。ところが北条が、彼らは上様御在世中は上様の御意に従っていたというのに、状況が変わると
>その態度を一変させ織田の軍を攻め家康と対陣に及んだ。事ここに極まって、天が味方もしてくれたのだろう、
>徳川家の者共は皆で一致してこれに立ち向かい、即座に置い崩し討ち果たした。誠に上様の時より続く軍忠、
>これは上様へのお弔いにもなるもので、かつ天下の誉れ、これに過ぎるものはないではないか!
>しかるにそんな事を考えもせず、御分国の内に私的に新城(山崎城)を建設するなど、様々な我意を通している
>秀吉は一体、誰を敵としているのか!?
>政治を担当するものがそのような事をするのは許されないものである。私と彼との関係が悪いといっても、
>今は心をあわせて、上様のご苦労によって治められた織田家御分国をあい治め、御分国の政治を、たとえ
>上様には及ばなくても、相守るべきなのである。
>このままでは結局共食いをして双方果て、織田家の領国も他人の国になってしまうだろう。
>これは我々一同の本位ではないだけではなく、天道にも背いた行いであろう。
>しかし今、情勢はそのような方向に向かっていることが、無念至極なのである。
>柴修 勝家(花押)
>天正十年十月六日
>堀寿太郎殿』
>清洲会議の約束を守らず独自行動を拡大する秀吉に対する、柴田勝家の危機感が溢れる書状である。
(南行雑録)
0781人間七七四年
2014/11/08(土) 13:54:46.06ID:q9TRtVai>「急げ、急げ」
>ある時、二代将軍秀忠は駕籠を急がせていた。「大御台所さま、ご危篤」の報告に、一行は全力で駆ける。
>その時、駕籠の外で交わされる私語が、不安と絶望で塞がれつつある秀忠の耳に届いた。
>「何で、こんなに急ぐんだ?(何事ニテカ、斯クハ急ギ給ウ)」
>「ババァに会いてぇからよ(ババに会イタサニサ)」
>これを聴いた瞬間、秀忠は……何もしなかった。今は、こんな奴等に関わっている時間は無い。
>後日。
>「この者どもにございます」
>あの時の私語は誰か、と尋ねる秀忠。平伏する供のうち、私語の二人は即座に特定された。
>平伏する両名に近づく秀忠。
>と、左手を伸ばして一人の襟を掴んだかと思うや、軽々と持ち上げて、右手で抜いた脇差を一突きして、死体を一間ほど放り投げた。直ぐに、もう一人も同じ運命を辿った。
>人間一人を左片手で子猫のように持ち上げ、脇差の一撃で即死させ、二メートル近く投げ飛ばす。
>何のかのと言われても、流石は戦国乱世に生まれた漢の一人であった秀忠の少し意外な素顔。原哲夫先生の劇画で脳内再生できそう。
0782人間七七四年
2014/11/08(土) 13:57:45.70ID:q9TRtVai無骨さとかけ離れた存在だとおもっていたから。
まあ死体を二メートル近く片手で投げ飛ばしたというのは誇張だと思うがw
0783人間七七四年
2014/11/08(土) 14:00:22.42ID:q9TRtVai>ある日高橋紹運が戦評定のため戸次道雪の陣営に趣き、評議が終わって酒宴となったころ、どこからとも無く
>真っ白なる鷹が飛んできて、庭前の松の梢に止まった。
>近習の若侍たちはこれを見て「何としてもあれを捕えよう!」と立ち騒いだが、どうにも方法が見つからず
>手を出しかねていた。これを見ていた道雪は
>「誰か、鷹の事に心得のあるものはいないのか?」
>と尋ねると、早良善内という老人が立ち上がり、厨房の方に走っていくと鳥の肉を一片ばかり取って帰ってきた。
>そして庭上に降り立ち、肉を振って静かに鷹を呼ぶ。
>と、鷹は肉をめがけて飛び降りてきた。善内、これを巧みに捕らえ拳に据えて、そのまま道雪の御前に出て、
>「これは天晴、逸品の鷹でございます!そのうえ白鷹といえば、別して賞翫される特別なもの。
>これがただいま、庭の松に止まったというのは、目出度き瑞祥に違いありません!」
>そう、大声を響かせた。
>道雪はこれを大いに喜び、善内に褒美を与え、そのままその鷹の管理を任せた。
>ところが、である。この鷹はそれから2,3日過ぎて、何の病気も怪我もなかったというのに死んでしまった。
>後になって人々は、『あれは道雪の卒去の前兆であったのだ』と、噂し合ったそうである。
(伝習館文庫柳河藩政資料)
0785人間七七四年
2014/11/08(土) 14:40:07.74ID:q9TRtVai既出の意見だがアルビノで虚弱体質だったからだろうな
0786人間七七四年
2014/11/08(土) 15:41:02.36ID:q9TRtVai>彼は「高麗両度ノ役」にも従軍し、ひたすらに武勇に励んだのだが、主君である正弘が誉れ無きために、
>せっかくの武功もまったく無意味なものになってしまった。
>「やってられるか!!」
>帰朝の後、良定は病と称して故郷・近江国大石に退いてしまった。
>山口正弘は加賀大聖寺城主に取り立てられた際に再び良定を招こうとしたが、彼がこれに応ずることはなかった。
>良定は「高麗」で3人の童女を捕らえて連れ帰り、幾以、津留と名付けていた。残り一人の名は詳らかではない。
>彼女らはとても凡下の者のようには見えず、耳に穴が有ったという。
>3人のうち津留は、良定の甥で、真壁(赤穂)浅野家の家老となった大石内蔵助良勝の若党・与右衛門の妻となり、
>良勝の子・良秀の乳母となっている。
(大石家系図正纂)
0787人間七七四年
2014/11/08(土) 15:44:07.41ID:q9TRtVai0788人間七七四年
2014/11/08(土) 19:44:07.03ID:KJkpXf/2>ほぼ同時代を生きた能島の村上武吉と来島の村上通康の高名の影に隠れて今一つ目立たない。
>そんな彼の人となりを、因島村上氏の一族の記録から見てみよう。
>北九州方面から上方へ来る荷船は赤間関で、防長・豊前から来る廻船は上関で、能島衆が通行を取り締まっていた。
>豊後・日向発で伊予方面に向かう荷船は来島衆の、備後方面へ向かう船は因島衆の担当である。
>しかし上関や周防大島の衆が豊後沖付近まで出張って荷船から帆別銭(通行料)を取ってしまうことがあり、
>それをされると因島衆の収入が減ってしまい、大きな悩みの種であった。
>また、因島付近を通行する未取締船にも、小早川家のお膝元である近所の三原港に逃げ込まれてしまい、
>仕方なく取立てを諦めることが何度もあった。
>因島の当主・村上吉充は腹に据えかねて、この窮状を小早川隆景に訴えた。
>「因島は三島の中でも小身なのに、このような仕打ちは我慢できません。
>何卒よくお考えいただいて、違反がないよう御命令を出してください」
>「言いたいことはわかりました。ですが、海上のことは村上三家に一任していることですし、こちらからは何とも……。
>それに、海の関を逃げられることもそちらの不手際ではありませんか。新蔵人(吉充)よ、そのような申し出は通りません」
>素気無く断られた吉充だが、一度では諦めなかった。
>今度は配下の若者たちを動員して一斉に奉行所に訴状を出させたのだ。
(続く)
0789人間七七四年
2014/11/08(土) 19:45:58.73ID:KJkpXf/2>(隆景様御機嫌悪鋪、仰出され候は、)
>「三原へ逃げ込んできた船に、いちいち通行料免除をしなければいけないこちらも迷惑なのですよ。
>しかしどこの国の船であろうと、助かりたい一心で飛び込んできた者を助けないのもまた不仁。
>私に船を助けてはいけないと言うのであれば、その方もまた船を襲うことをやめるべきです。
>大体、元就様から過分の恩地を頂いておきながら『小身なのに』とは何ですか。欲張るのはやめなさい。
>海賊と言うものは所詮犬のようなもの。運送の荷船は鹿や猿だ。
>犬が鹿や猿を取ったからと言って、『よしよし、よくやった』と褒めるのは猟師くらいのものだ。
>元来犬の方が横暴なのに、鹿取る犬を誰が当然のようにもてはやそうか」
>と因島の驕りを久々に睨みつけたので、吉充は困惑してしまった。
>隆景腹心の乃美宗勝や磯兼左近大夫に取り成してもらい、何度も侘びを入れて許してもらったと言う。
>これより以前、足利義昭を毛利家が警固することになった時、因島の吉充に漕船及び警固船出動の命が下ったが、
>遅刻してしまったことがあり、その時も「隆景様御機嫌そこね、御しかり成され候」
>その後、引退もし損ねた吉充は乃美、末長、木谷ら小早川家重臣たちから代わる代わる説教責めにあったそうな。
>毛利・小早川に最も近い村上水軍棟梁の、意外な素顔である。
(三島海賊家軍日記)
0791人間七七四年
2014/11/08(土) 20:29:16.27ID:KJkpXf/2>義宣はこの時、普段から仲が悪かった政宗と景勝を和解させる為に
>「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」
>と何度も言い聞かせた。
>これに景勝は応じたが、政宗はといえば
>「俺も別に構わんぞ。だが、もし貴殿が幕府に背くような事あらば、俺が直ちに粉砕してやるわ!」
>と逆に景勝を挑発した。
>「・・・・・・てめぇ」
>善意を踏みにじられてしまった義宣は政宗のこの発言にブチギレてしまい、
>「上等だよ!だったら、もしお前が幕府に背いた時には、俺か景勝のいずれかか先陣になって
>お前をぶっ潰してやんよ!」
>と応酬した。その後、政宗は自身の後継者である忠宗が忠恒に刀を贈った話をきっかけに
>「義宣の刀が見たい。」
>と言い出したが、義宣は
>「誰が見せるか。」
>と頑として応じなかった。
>「おいおい、お前は何をそこまで用心してんだよ?」
>と政宗に問われると
>「お前相手に、用心しない訳がないだろうが。」
>と返したという。仲介役がケンカの当事者になってしまったお話である。
>最後に、この三人の喧嘩をすぐ傍で見ていた忠恒の胸中は如何ばかりか・・・
0792人間七七四年
2014/11/08(土) 20:30:30.27ID:KJkpXf/2まさに「仲良く喧嘩しな」だなw
0793人間七七四年
2014/11/08(土) 21:03:21.97ID:KJkpXf/2>三加和村田中城主、和仁親長は一揆側として反乱に加わったが、佐々成政の軍勢に攻められ落城。
>和仁親長は討ち死にする。
>この時、先に城より落ちていた和仁親長の夫人と娘、そして侍女たちは、和仁川の赤池淵のほとりにて
>田中場の落城を知り、前途に絶望しここにて自害すると決した。
>そして夫人は自分の娘、当時13歳であったという、を手にかけようとしたが、さすがにわが子を自らの手にかけることは
>忍びず、自分に付いてきた老僕に、この娘を淵に落として、溺死させるよう命じた。
>老僕はあまりのことに恐れ躊躇したが、夫人は何としてもと命じたため、致し方なく彼は、姫を岩の上から淵へと
>落とした。
>ところがこの姫は一端は沈んだものの、再び浮かび上がり岸へとたどり着いた。
>老僕は夫人に攻められ、再び姫を淵へと落とす。しかし姫は再び浮かび上がり、岩へとしがみついた。
>これを見て夫人は、自ら水の中に入り、姫の側へと行った。
>姫は泣き叫んだ
>「母上様!お許し下さい、どうかお許し下さい!」
>夫人は姫の頭を縦に持ち、そのまま水に沈めた
>「未練です。許してください。許してください。」
>姫は、水に沈んだ。
>これを見た侍女たちは、それぞれ着物の上から紐で足を縛り、次々に赤池淵に身を投げた。
>そして最期に夫人は、あの老僕に
>「そなたには今まで、一方ならぬ世話になりました。
>もし、生き延びることができたならどうか、私たちの菩提を、弔ってやってください。」
>そう言って、娘の沈んだ淵に身を投げた。
>その後、夫人の遺体は下流の菊池川の淵に流れ着いたという。
>それから、夏の夜になると、赤池淵に不意に楽の音する時があった。
>こんな時は、付近の人々は「和仁御前」のお帰りだとして、酒やお供えなどを、淵に投げ込んだのだという。
>そんな時は必ず、突然の雨が降ったのだそうだ。
>肥後に伝わる、和仁御前の伝承である。
0794人間七七四年
2014/11/08(土) 21:06:14.31ID:KJkpXf/2痛ましい話だが、何で昔の女性の自害って入水が多いのだろう。
入水って相当苦しい自害方法のはずだが。
首吊りとかにしてやれなかったのだろうか。
0795人間七七四年
2014/11/08(土) 21:53:11.92ID:KJkpXf/2>しかし同17年になると追い落とされていた赤松政則が復活し、蔭木城が陥落するなど山名方は次第に劣勢に立たされていった。
>そんな山名方を窮地に追い込んだのは吉川経基の活躍だった。
>「初代鬼吉川」「俎吉川」の異名を持つ稀代の猛将が、赤松方の援軍として参陣したのだ。
>赤松政則は、吉川家が梶原景時追討の功で得ていた播磨国福井荘、山名に脅かされていたこの荘園の代官職を戦費としてあてがうことでその援護を得ていたのである。
>文明19年正月、追い詰められた山名政豊は強く願った。
>「わしも援軍が欲しい!絶対に欲しい!」と。
>政豊はまず、甥である細川政元を通じて将軍家を動かそうと考え、家臣・垣屋越中守と村上左京亮を京に派遣した。
>垣屋・村上の両名は「山名・赤松の戦いを私闘と見なして介入しないという将軍家の方針を改めること」「山名方に援軍を出すこと」を細川家臣・安富ら3人に対し連日連夜、切々と訴え続けた。
>が、細川政元の赤松方への肩入れもあって、色よい返事が返ってくることはなかった。
>そこで二人は、公正なことで知られる政所執事・伊勢貞宗邸に赴いて、貞宗に訴えてることを考えた。
>自分たちの言い分が将軍の耳に達するよう、貞宗の使者と、その口添えを得ようというのだ。
>「垣屋らが到着する前に貞宗を説得せよ。山名に同調させてはならぬ。」
>細川政元は、安富らを伊勢邸に急行させた。
>安富らは「赤松家の忠節ぶり、誰がそのことを知らざるや」と説いて貞宗の心をつかみ、政元の期待に応えたのである。
>さて、垣屋・村上がやってきた。
>貞宗は安富らを先に部屋に招き入れ、垣屋らを門の外に待たせておいて、安富らと酒宴をはじめてしまった。
>山名家の二人がようやく召されたのは、その酒宴もたけなわとなった頃である。
>その場はもはや訴訟なんぞできる状態ではなく、二人は大酒宴に酔っ払ってただ帰るほかなかった。
(続く)
0796人間七七四年
2014/11/08(土) 21:54:40.90ID:KJkpXf/2>その頃、備中に勢力を張る細川家の家臣・庄春資の甥の朋輩で、山名家にも近しい山田という男がいた。
>山名政豊は彼に目を付けると、あろうことか細川政元の使者に仕立て上げて庄春資の屋敷に下し、密かに
>「京兆(政元)は山名への合力のため、備中の庄の軍勢を播州へ呼び寄せることにした。」と言わせたのだ。
>すると庄春資は、一族の庄伊豆守に山名政豊救援を厳命し、その軍勢を播州へ進発させたのである。
>「してやったり!」ほくそ笑む政豊であった。
>とはいえ、策が策である。
>某SLGじゃあるまいし、まさかこんなのが成功するとは思えない。
>案の定、庄春資と一緒にいた、とある武将に計略を見抜かれてしまった。
>「政元様は山田という男を知らず、顔も見たことが無いはずだ!彼の軍勢呼び寄せの密談、信用するに足らぬのではないか?」
>疑念を抱いた彼は政元に仔細を尋ねてみたところ、
>「かようなこと夢にも知らぬことである!それに山田いう者はいったい誰であるのか!!」
>はたして、推量どおりの言葉が返ってきたのである。
>彼の建白を受けた庄春資は、播州に向かっていた軍勢を撤兵させた。
(蔭涼軒日録)
援兵を得られなかった山名勢はますます劣勢となっていった。
そして長享2年、山名政豊は夜陰に紛れて書写坂本城を脱出、赤松政則の追撃で多数の死者を出しながら、辛うじて但馬に撤退することになる。
かくして7年に及ぶ政豊の播磨攻めは完全な失敗に帰したのである。
0797人間七七四年
2014/11/08(土) 21:59:24.29ID:KJkpXf/2吉川経家が鳥取城主として迎え入れられるわけか
秀吉の餓え殺しにあって切腹に追い込まれるのだが
0798人間七七四年
2014/11/09(日) 01:41:21.66ID:log4L8wV0799人間七七四年
2014/11/09(日) 17:06:38.27ID:KZcbFah4>永禄9年、上野の堅城である箕輪城はついに武田信玄によりついに落城し、城主である長野業盛は父業正の遺言通り降伏することなく自害した。
>この業盛の妻、藤鶴姫は元は上杉家の出であり、わずかな家臣と共に越後へと逃れようとした。
>しかし敵の追っ手がやってきたため家臣たちはその相手をして、姫を先に逃がした。
>1人で峠を越えようとした藤鶴姫、しかし女性の身では峠を越えるのは大変であり、お堂のところで少しだけ体を休めた。
>すると今来た道の方から「おーい!」と呼ぶ声が。
>「もう追っ手がそこまで…。もはやこれまで…。」と彼女はお堂の中で自害した。
>しかしその声の主は追っ手からどうにか逃れてきた家臣だった。
>哀れ藤鶴姫、彼女が自害したお堂近くを汚すと今でも祟りがあり、鼻血が止まらなくなるという。
(藤鶴姫墓所説明文を元に)
0800人間七七四年
2014/11/09(日) 17:11:38.70ID:KZcbFah4本当は自害する必要が無かったのにというやるせなさを感じた。
思い出したのが、昔何浪もしていた浪人生が大学入試を受けた後
「出来が悪かった、これじゃまた今年もダメだろうな」と絶望し
合否が発表される前に自殺してしまったという話。
0801人間七七四年
2014/11/09(日) 17:13:37.61ID:KZcbFah4>それに伴って領内の神社仏閣を破壊して仏教徒に迫害を加えるようになった。
>領内にあった普門寺にも高山右近の軍勢がやってきて危機的状況におちいった。その時、
>寺の中に安置されていた毘沙門天像の憤怒の形相がさらに怒った顔に変貌し、強烈なオーラを放った。
>すると、右近の軍勢の陣中に魔風が吹き荒れ、おそれおののいた兵士たちは蜘蛛の子を散らすかのように
>逃げ去っていった。こうして、普門寺は破壊の危機をまぬがれたのである。
0802人間七七四年
2014/11/09(日) 18:27:29.97ID:KZcbFah4キリスト教が大きな武器として使われていたというのがよくわかる。
幸い日本は植民地化はされなかったが、部分的にはこういうことが進行していたんだな。
大友宗麟も似たようなことやってたはずだし。
秀吉が怒って伴天連追放をしたのは当然だ
0803人間七七四年
2014/11/09(日) 18:33:14.40ID:KZcbFah4>山口は長年忠勤を励んだにもかかわらず、俸禄の加増も全くなく、後から取り立てられたものが自分を追い越して
>立身していくのに我慢がならず、その事の不満を広言し、ついに出仕を止めてしまった。
>生駒高俊はこれに激怒し、山口を捕らえ斬首を命じ、のみならず彼の女房子供まで殺した。
>斬首の場において、山口は激しく怒り叫んだ
>「お上のなさりように不平を申し上げたのは、この身に覚えのある罪過である。だから処罰の受けるのも
>仕方のない事だ。だが何の罪もない妻子まで殺すとはどういうことか!?
>そのうえに、侍に切腹させず、斬首にするとはいかなる処遇か。この屈辱、耐え難い!」
>そして斬首役の横井二郎右衛門を睨みつけ
>「斬り損なうな、見事に斬れよ!我が怨念に力があるなら、近いうちにそのしるしを見るであろう!」
>これに横井
>「うむ!承知!」
>と、山口の首を落とす。その首は2,3間転がると斬られた面を下に立ち横井の方を向き、彼の目をきっと
>睨みつけてから、静かに目を閉じた。
(続く)
0804人間七七四年
2014/11/09(日) 18:34:44.00ID:KZcbFah4>寝ても覚めても、山口が血眼で睨みつけている姿が見え、彼は大声で叫びつつ刀を抜いて、そこらじゅうを
>斬って回った。家族の者が何とか取り押さえ、刀を取り上げたが、
>「彦十郎よ!殿のご命令で仕方がなかったのだ!許してくれ!許してくれ!」
>そう手を合わせ足掻き続け、7日目に死んだ。
>その後も山口彦十郎の亡霊は高松城下に現れ続けた。生前と同じ肩衣姿の山口に行き会い、
>身がわなわなと震えそのまま病みついて死んでしまったものが14,5人にも及んだ。
>このような怪異に生駒家中の者たちは恐れおののき、山口の菩提を弔い供養を行った。
>すると城下で山口の姿を見ることはなくなったが、それでも怪異のことは続き、長屋が突然鳴動したり、
>城中の大木が風も吹かないのに折れ倒れるなど、不思議なことが数多く起こった。
>そして生駒高俊にいつしか邪悪の心が起こり、藩政が乱れ、ついに改易されたのも、この山口彦十郎の
>怨念のためであると、人々は噂し合ったとのことである。
(平仮名本・因果物語)
0805人間七七四年
2014/11/09(日) 18:44:01.97ID:OgAXZBu+耳川で主だった武将が戦死した後、徐々にキリシタンの武将が増えていったらしいな
0806人間七七四年
2014/11/09(日) 19:18:35.01ID:KZcbFah4そうなんだ。むしろ逆だと思ってた。
大友宗麟が耳川の合戦の前にキリスト教信仰の立場から神社仏閣を破壊させていて
それで耳川で負けたものだから
キリスト教に対する反発がより強まったのだと思ってた。
0807人間七七四年
2014/11/09(日) 19:25:14.14ID:KZcbFah4幽霊の類は自分は信じないが、罪の意識がそういうものを
幽霊の存在を信じていた当時の人に見せて心を病ませ、死にまで至らせたのだと思う。
小早川秀秋もそうだね。罪の意識及び「日本一の裏切り者」のバッシングが
彼に大谷良嗣の幽霊を見せ、精神疾患になり若死にしたのだと思う。
0808人間七七四年
2014/11/09(日) 19:29:30.03ID:KZcbFah4東軍の親戚浅野長政からは「叔母上高台院様は東軍につけと仰せだ」ともちかけられ
西軍三成からは秀頼が成人するまで関白になっていいからと持ちかけられ
弱冠18歳(19歳だっけ?)の青年には重すぎる状況におかれ
もうパニックになってたんだろうと思うから。
0809人間七七四年
2014/11/09(日) 20:31:20.82ID:KZcbFah4>古くから信仰があり、源義家や新田義貞などの武将の信仰もあつかった。
>戦国の時代に入ってもそれは変わらず、天文元年(1532)に上杉憲政が伽藍を整えてからより発展した。
>しかしその後、戦国ちょっといい話・悪い話まとめにもある武田の先手、那和無理之助と箕輪の老将、安藤九郎左衛門の戦い(白岩の戦い)
>に巻き込まれ、その観音堂は焼失してしまった。
>そこで武田勝頼が世無道上人に命じ、天正八年(1580)に観音堂を再建させた。
>時はめぐり、時代は昭和。
>浜川(現在の高崎市)に住む箕輪城主の長野氏の直系、52代目当主である長野正弘氏がまだ小学生の時、まちに待った遠足の行先が白岩観音であった。
>すると父親である弾正氏は、白岩観音が長野家を滅ぼした武田氏によって再建されたものであることを理由に、彼を遠足に参加させなかった。
>しかしそれは弾正氏の個人的考えではなく、浜川の長野氏一族は上記の理由により代々白岩観音への参拝を拒み続けてきたのだ。
>今でも彼らは白岩観音への参拝をしないという。
(「箕輪城と長野氏」などより)
0810人間七七四年
2014/11/09(日) 20:35:28.65ID:KZcbFah4自分はそういうの好きだな。
一族の伝統、しきたりを大切にするという
そういうのが無くなっていくのは寂しい
0811人間七七四年
2014/11/09(日) 20:39:40.85ID:KZcbFah4謝罪要求とか賠償請求とかそういうことにならない限り、
結構そういう話好きだな。
それだけ歴史が生き続けているというのを実感できて。
まあこれは自分が萩にも会津若松にも関係ない第三者だからいえる
無責任な考えかもしれんが
0812人間七七四年
2014/11/09(日) 21:54:02.69ID:2gBG9vYI>『今日の未の刻、大地震が起こった。どうやら火神が動いたようである。
>7月の地震は大兵乱の予兆だとされる。また、火神が動くのは中央に怪異が起こるとされ、
>天子が亡くなり臣下が滅び、天下人民の多くが死ぬ、とされる大物怪である。
>昔、木沢長政は信貴山に城を造り、久しく当国(大和)の闕所を知行していたが、
>天文11年(1542)3月17日、不意に滅んでしまった。
>その年は正月二十日巳の刻に大地震があった。
>それ以来、地震は度々あったがあれほどの大地震は無かったのに、今日の地震は
>あの時以来の、地上が滅びるかと思うほどの大地震であった。
>今、秀吉は天下に号令し、その権力は昔に聞いたこともないほどである。
>しかしそんな彼にも盛者必衰の時が至るのであろうか。沈思沈思。』
>巨大な被害をもたらした天正大地震(ちなみにこれで、あの帰雲城が山崩れにより埋没した)に際し、
>秀吉の政権の未来に暗雲を感じた、多聞院日記の記事である。
0813人間七七四年
2014/11/09(日) 21:58:44.54ID:2gBG9vYIしかしこの後秀吉のいた伏見城を直撃した大地震(謹慎中の清正が真っ先に駆けつけて許されたやつ)が
起ったかと思うと感慨深いものがある。
0814人間七七四年
2014/11/09(日) 22:00:24.68ID:2gBG9vYI>この時幕閣たちは
>『誰か家光公の前で大食いをすれば、それに釣られて公も食がお進みになるのではないか?』
>と考えた。どうしてそう考えたのかわからないが、ともかく幕閣は大食いをする志願者を募った。
>これに応じた御番衆の一人は、「枝柿を100食べます!」と言った。
>御前に出して食べさせてみると、家光が見ているので畏まってしまい、柿を種ごと食べてしまった。
>家光も驚き、「種を取って食べるが良い」と言うとそれに従って種を取ったが、取った種をまた、
>実と一緒に食べてしまった。動顛していたのだろうか。ともかくそうやって柿を種ごと100個、
>食べつくした。
>次のものは「雉を一羽まるごと、焼き鳥にして食べます。」と言う。
>そこで雉の丸焼きを出すと、瞬く間に残らす食べた。
>家光はこの両名に褒美を下した。
>さて次に御坊主の一人が「私は砂糖を一斤(600グラム)食べます」と言ってきた。
>そこで砂糖一斤を出したが、この坊主は半分ほどで挫折してしまった。
>これには『いい加減な、出来もしないことをお上に申し上げた』とのことで、改易か遠島の処罰を受けた、
>という。
>家光の頃の、御前大食い試合の話である。
(異説まちまち)
0815人間七七四年
2014/11/09(日) 22:37:34.58ID:2gBG9vYIその程度で改易か遠島だなんて。
しかし食欲不振の人の前でそんな大食いしてみせたら
それこそ「それは余に対する嫌味か!」と処罰されてもおかしくないと思うのだが。
そうでなくてもかえって食べる気を無くすのが普通じゃないか?
0816人間七七四年
2014/11/09(日) 22:39:55.31ID:2gBG9vYI>黄瀬川を越えて、わざわざ北条領まで出向く形となった家康だったが、対面の際は氏政を上座に据えて
>「両家の領地の境にある城を破却して境界を無くそうと思います。また、そちらが東北地方に出陣する際には
>私が先手を引き受けましょう。」
>と、北条方を喜ばせる事を述べた。宴席が始まると上機嫌になって深酔いした氏政は、家康の膝の上に寄り掛かって脇差を抜き取り、
>「若い頃から『東海一の弓取り』と呼ばれた家康殿の刀を取った。この氏政は大功を立てたぞ!」
>とはしゃいだという。しかし、そんな中氏政は家中の状況を観察されており、宴席の後家康は
>「北条の世も終わりだ。家臣の様子で察しが付く。」
>と述べたという。
0817人間七七四年
2014/11/09(日) 22:45:51.65ID:2gBG9vYI戦前にヤンキースが来日した時(沢村栄治が好投しベーブルースから三振を奪ったというあの伝説の試合があった時)
来るべき日本との戦争のために日本の街並みを観察していた選手もいたという話を思わせる。
それにしても飯にかける汁の量がわからず「この子の代で北条は終わりか」と氏康を嘆かせた件といい
氏政は主従ともダメだしされるなあw
0818人間七七四年
2014/11/09(日) 23:40:49.67ID:2gBG9vYI>四月一日(わたぬき)長蔵、佐藤十三郎、藤村小十郎がその上手とされた。
>ある時この三人がうち寄って、矢を当てた時のことについて語り合っていた。
>四月一日(わたぬき)長蔵が言うには、「私は26・7間(約50メートル)離れた鳩を、さし矢でもって
>『ひゃうふっ』と射殺したぞ!」
>次に佐藤十三郎が言うには「私は昨日、屋根にいた雀を、18間(約33メートル)離れた場所から
>ふくら矢をもって『ひゃうっは』と射殺したるぞ!」
>最期に藤村小十郎は「それがしも、桜馬場にて四寸角(の杭)を、18間離れた場所から剣先の鏃の矢でもって、
>矢七筋のうち六つを『ひし』と当てました。そのうち五つは角に当てましたぞ!」
>戸次鑑連はこの会話を物ごしに聞いていて、それぞれの矢音の表現がまるで違うことを面白く思い、広間に出ると、
>主君が出てきたことに三人はその座を下がって畏まった。
>鑑連は彼らにこんな話を始めた
>「お前たちが弓の上手であり、細密に命中させる技術を磨いていること、大変良いことである。今後もいよいよ
>稽古をして欲しい。ところで先ほどのお前たちの話の中で、矢音の表現が三人とも違っていたな。
>しかし、人の聞いている所でそのように間違った事を言っていては恥となる。平家物語などの表現を、
>きちんと使って言うべきである。お前たちは記憶力がよく一度聞いたことは忘れない者たちだ。
>このついでに習いなさい。
(続く)
0819人間七七四年
2014/11/09(日) 23:42:08.16ID:2gBG9vYI>外れたときは『ひゃうする』という音を発したと言う。
>狩又の鏃の矢で物を射て当たった場合は『ひゃうふっ』という。射切った場合も同様である。
>外れた場合は『ひゃうすか』と言う。
>鏑矢にて物を射た時は『ひゃうふっ』と言う。外れた時は『ひすつと言わずして』と言う。
>矢頭にて当たった時は『ひゃうし』と射たと言い、外した時は『ひゃうすか』と言う。
>矢頭に挟み物をして射た時は『ひゃふはた』と射たと言う。外れた時は『ひすっ』と言う。
>四目の鏃にて物を射当てたのは『ひしと射て』と言う。外れは『ひすっと外して』と言う。
>匹目の鏃で物を射て当てた場合は『とき射て』と言う。笠懸の矢音、『へし』と射て、と言う。小的の矢音は
>『ふしと射て』と言う。三つ的も同様である。大的の矢音は『はたと射て』と言うのだ。
>この様な事も、専ら侍の知るべきことである。よくよく覚えておくように。」
>これに三人は、殿がこのように親しく座に来てお教えいただき、本当に忝い事だと大いに喜んだという。
(大友興廃記)
しかし矢音だけでこんなに種類があるのですね。こんなの覚えなきゃいけないというのも、
お侍も大変だw
0820人間七七四年
2014/11/09(日) 23:47:35.05ID:2gBG9vYI音なんて人それぞれ同じ音を聞いても違うように聞こえるんだし、
必ず同じ音がするというものでもあるまい。
音を決めて暗記するのでなく、自分の耳で聞こえたように表現すればいいと思うのだが。
戸次鑑連が形式主義の人だったのかな。
それともそれが普通だったのかな。
0821人間七七四年
2014/11/10(月) 01:17:32.26ID:cK8J3ggB>反秀吉の武士たちも集まり、羽柴軍の輜重部隊を襲うなどゲリラ活動を続けた。
>これに怒った秀吉は、彼らを滅ぼさんと決意したが、太田は要害の地であり、また郷民たちは弓鉄砲の術に
>長けているものが多く、自分たちの士卒が彼ら一揆によって損耗することを恐れた。
>そこで秀吉が考えたのは、彼のお得意、水攻めである。
>「水攻めで尽く溺死させるのだ!」
>秀吉は太田郷の家屋よりも五尺ほど高い堤防の建設を計画し、諸将に命じ、数万の人夫を所々より集め、
>太田郷を囲んで周囲十八町(約2キロ)、高さ6間(約10メートル)の堤防を築かせた。
>堤防は地際で18間(約20メートル)、天井の馬踏は5間(約8メートル)であったという。
>秀吉は毎日、この工事を巡検した。明石与四郎則實が担当した場所は工事の進捗が大変早く、そのことに感じいった
>秀吉は即座に、明石に1万石を加増した。
>一方近江は甲賀より集めた人夫が、工事規則に違反し大変怠惰だったのを見つけると、その人夫を使っていた
>主人だけでなく、主人の親族まで流刑とした。
>秀吉の賞罰はこのように尽く迅速なものだったので、人々はみな戦慄し、見な奮起して工事を進めた。
>この時増田長盛は秀吉の命を受けて、須磨・明石・兵庫・西宮・尼崎・界津などの船を集め、糧米を紀ノ湊へ運送し、
>毎日米千俵、大豆百俵を以って堤を築く人夫に与えた。
(続く)
0822人間七七四年
2014/11/10(月) 01:18:55.32ID:cK8J3ggB>150間ほどが流されてしまった。
>これでは水を貯めるどころではない。しかし秀吉はあきらめなかった。
>「前謀を改める時は、味方は術を失うに似たり」
>秀吉は再び号令を発した。津々浦々に船を遣わし、俵6・70万をかき集めた。
>それら尽くに土を詰め、堤防の流された場所に投げ入れる。これを何日も続けた結果、堤防はついに完成した。
>太田郷の家屋には浸り、また羽柴軍は盲船(船上の総矢倉の周囲を厚い盾板で囲った軍船)によって
>攻撃を仕掛けたため、大田郷はついに降伏を申し出た。
>秀吉は郷の棟梁50人を捕えて磔とし、残党は許した。
>しかし船によって太田郷から逃亡した郷士は、松木刑部、同雅楽助など3000人余りに及んだという。
>秀吉による、雑賀大田郷水攻めの逸話である。
(武徳編年集成)
0823人間七七四年
2014/11/10(月) 01:27:37.72ID:cK8J3ggB毎日堤防工事を巡検して、工事が早く進んでいた箇所の担当に即座に褒美を与えるところは
信長に仕え始めた頃に石垣修理を迅速に行ったことを思わせるし、
水攻めはもちろん備中高松城のそれ。
0824人間七七四年
2014/11/10(月) 17:28:00.96ID:i4tWbX+A>『飛騨の国、攻め取り次第に与える』
>との墨付きを得、越前より飛騨に攻めいった。
>ところが飛騨の国人たちはこの侵攻に対し同盟を結び強固に抵抗したため、長近は入国することが出来ず、
>二度にわたって合戦に打ち負ける有様であった。
>この時、とある長瀧寺社僧が
>『金森と 銘は打てども 爪切りの 断つに断たれぬ飛騨の細布』
>『金森は 袴のまち(両足を分ける部分)にさも似たり 腰が立たねばヒダも取られず』
>と詠んで、長近を嘲笑した。
>このような状況の中、美濃郡上郡の遠藤慶隆は、長近の嫡男可重の舅であった関係から、長近に対して、
>舎弟慶直、同胤元、胤安、その他家来多数を加勢の軍として出し、白川において合戦となった。
>しかしこの加勢の軍も、慶直家来鷲見弥五右衛門、遠藤彦次郎などが討ち死にし、一門の胤安も負傷し、
>飛騨勢の破竹の勢いに、金森はまたもや敗北したのである。
(濃北一覧)
0825人間七七四年
2014/11/10(月) 17:30:35.58ID:i4tWbX+A飛騨なんて生産力も低く小国のイメージしかないが
険しい山がちの地形で攻めるのは難しかったんだな。
ある意味スケールの小さな蜀という感じがするよ。
0826人間七七四年
2014/11/10(月) 17:32:50.85ID:i4tWbX+A>その後家康・信雄連合軍との対峙が続いたが、四月晦日、秀吉は浅野長政を呼んでこう宣言した
>「明日、寅の刻(午前3時頃)より家康たちのいる小牧山城に対して決戦を仕掛ける!」
>これに秀吉軍の諸将は、翌日の総攻撃に向けて各自準備をしていたが、開けて5月1日、秀吉の発した
>命令は驚くべきものであった
>「堀久太郎は楽田に留まり、加藤光泰は犬山城を守れ!そして我々は、大垣城に撤退する!」
>前日とは全く逆の内容である。だが秀吉はかまわず撤退の部隊配置も尽く細かく指定し、出陣予定だった寅の刻、
>大垣に向かって出発した。
>秀吉らが宇留目の船橋にかかった頃、殿を任された細川忠興、木村重茲、神子田正治らは「もし敵が追尾してくれば、
>一戦して先日の無念を晴らそう!」と勇み、陣払いをしてその場を焼き払い、その煙の下から引き退いた。
>徳川軍は小牧山よりこれを見て、「追い打ちをしよう!」と勇み出陣しようとした。が、この時徳川家康はこの状況を見て
>「敵は大軍である。大軍の動きは推測しがたい。当然、我々を討つための仕掛けもあると考えるべきだ。
>一人もあの敵を追ってはならない!」
>と厳命した。しかしその命令より前に、斥候として出陣していた14,5騎がこの撤退する秀吉軍を追いかけ
>首10級ほども討ち取った。これに細川忠興の手より弓削将監、園部某などが取って返し猛烈な反撃を加え、
>この斥候の騎兵のうち二人が討ち取られて引き返した。これ以外に、撤退する秀吉軍に攻めかかろうとする
>敵はなかった。
>やがて秀吉が大垣に引き上げたことが確認されると、北畠殿(信雄)もその日小牧山から出て、伊勢河内に帰陣した。
>秀吉の、小牧長久手戦線からの撤退の模様である。
(続武家評林)
0827人間七七四年
2014/11/10(月) 18:08:46.75ID:i4tWbX+A信雄は蚊帳の外w
0828人間七七四年
2014/11/10(月) 18:11:22.19ID:i4tWbX+A>小田原城を目指すべく、碓氷峠を越えて上州入りした前田利家率いる北国衆は松井田城を攻めるとともに、
>一部の軍勢をその近くの支城に向けた。
>その1つである幽崖城(西牧城)に対しては、依田康国が攻撃を加えた。
>城主である武将多目周防守長定は奮戦するも多勢に無勢、とうとう城を捨てて落ち延びた。
>しかし追撃は激しく、長定は近くの山まで逃げるしかなかった。
>すると山頂付近に切り立った岩壁(地元では「メンバ岩」と呼ぶ)があり、そこからは藤つるが伸びている。
>長定と家来たちはこれ幸いと、この藤つるを伝って岩壁の上まで登ると、追手が来れないように藤つるを全て断ち切った。
>しかし翌朝目覚めてから彼らは気づいた。
>降りられない・・・。
>降りる手立てとなる藤つるは前日に全部切ってしまったのだ。
>あわれ長定主従、そこで覚悟を決め、小田原の方角を向いて自害したという。
>そんな物語があることから、この山は物語山と呼ばれてるのだそうな。
(下仁田町史)
0829人間七七四年
2014/11/10(月) 18:13:46.85ID:i4tWbX+A後先を考える余裕が無かったんだろうな
0830人間七七四年
2014/11/10(月) 18:45:01.99ID:i4tWbX+A>京を擁する山城国の隣に位置しながら、山がちな地形もありどうにも影の薄い丹波。
>戦国時代に至っても強力な戦国大名が登場せず、各地に割拠する国人達が
>好き勝手やっていた印象しかない方も多いのではないだろうか。
>しかし丹波にも誇るべき点がある。山岳地帯で鍛えられた屈強な兵たちの存在だ。
>そして、そんな丹波兵を率いる数多の国人領主の中でも
>特に勇猛だった4人の武将である赤井直正・荒木氏綱・波多野宗高・籾井教業。
>彼らはいつしか「鬼」の名を冠するようになり、それぞれ
>赤井直正は「赤鬼」
>荒木氏綱は「荒木鬼」
>波多野宗高は「丹波鬼」
>籾井教業は「青鬼」
>という異名を持っている。
>戦国時代、「鬼○○」とか「○○鬼」と称された武将は数多いが、
>一国から4人も輩出というのは余り例がない。
>しかもそういった渾名を残す武将の多くが統一政権を樹立した
>織田・豊臣に縁ある者達であることを鑑みると、
>後世大名になれなかった丹波国人からこんなにも「鬼」が出た事は
>凄まじいかもしれない。
(続く)
0831人間七七四年
2014/11/10(月) 18:46:26.39ID:i4tWbX+A>中でも「赤鬼」こと赤井直正は三好家の出世頭・内藤宗勝(ギリワンの弟)を敗死させたり
>信長配下の明智光秀を何度も撃退するなど、丹波に手を出す侵略者をことごとくぶちのめした。
>また、彼の配下には2名、「鬼」の名を取った兵士がいたという記録もある。
>「荒木鬼」は明智光秀に出仕を請われているし、
>「丹波鬼」の子孫からは明治期の司法大臣が出ている等
>他の「鬼」達のエピソードにも事欠かない。(まあ青鬼は後世の創作説が有力だけど…)
>東部に青鬼、中部に赤鬼・荒木鬼、西部には丹波鬼。
>そして彼らに仕える数多の「鬼」と呼ばれる兵士たち。
>このように丹波の武将がやたらと鬼呼ばわりされるのには理由があり、
>「山」というある種の異界に接する地域には
>異界からの来訪者である鬼の伝承が昔から多いという傾向があるらしい(学術的に)。
>そこかしこの地域を「鬼」が治める修羅の国…それが、権力者をも手こずらせた丹波国の真の姿である。
0832人間七七四年
2014/11/10(月) 19:45:56.37ID:i4tWbX+A酒呑童子の大江山も丹後だよね。
丹後は昔から鬼と深い関係がある国なんだろうな。
0834人間七七四年
2014/11/10(月) 20:37:18.33ID:VtBFhyk6ぐぐってみたら『日本書紀』に
崇神天皇の時代、“額に角を生やした人”が舟にのって流れ着いた
そしてその場所を角鹿と呼ぶようになり
それが敦賀になったという話が出てきた。
たしかにそれがルーツかもしれない。
興味深い意見ありがとう。
0835人間七七四年
2014/11/10(月) 20:41:46.85ID:VtBFhyk6>京では足利義材派の畠山政長、葉室光忠などの屋敷が次々と破壊された。
>さてその時、河内に出陣していた将軍足利義材の後室など、将軍家の女性たちは多くが、
>義材の姉が尼として入っている通玄寺に避難していたが、クーデター派はこの尼寺にすぎない
>通玄寺も襲撃に及んだ。
>と、ここで襲撃部隊は残忍な仕打ちをした。
>彼らはここに避難していた将軍後室、その女官たち、さらには義材姉をはじめとした寺の尼達まで
>衣服を全て剥ぎ取って京の町中に放り出した。
>赤裸にされたこの高貴な女性たちは、致し方なく、ある者は筵を身にまとい、ある者は経典を体に巻き付け、
>泣き叫びながらあちこちに逃げ惑い、路頭をさまよった。
>『北野社家日記』には「前代未聞の事件であり、筆にするのもはばかられる」と、
>この事件を憤りを持って記録している。
>明応の政変で高貴な女性たちに降りかかった悲劇についての記録である。
0836人間七七四年
2014/11/10(月) 20:45:12.68ID:VtBFhyk6当時の高貴な女性にとって全裸で町中に放り出されるなんて
ある意味殺されるより辛いだろう。
おそらく自害した女性もいたに違いない。
0838人間七七四年
2014/11/10(月) 21:25:19.94ID:VtBFhyk6wiki情報だと丹後となっていますよ
尤も
>なお、酒呑童子の本拠とした「大江山」は、この丹後の大江山であったという説のほかに、京都市西京区にある山城国と丹波国の境、山陰道に面した大枝山(おおえやま)という説もある
とも書いてありますけど
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%B1%B1
0839人間七七四年
2014/11/10(月) 21:27:49.30ID:VtBFhyk6>「隆景様は殿にばかり危険な戦いを任せ、自分は出ようともせぬ。この度の戦は隆景一人に任せればよいのだ。」
>と隆景に対する不満を述べた際、
>「もっともな言い分だが、隆景では秀吉には勝てぬし、兄弟である以上、毛利家の為に見捨てるわけにはいかない。
>皆が行かぬのであれば、自分一人で駆け付け、隆景と命運を共にするまでだ。」
>と弟をかばって諸将を説得して出陣した。ところが、この戦いの陣中では作戦を巡って隆景と意見が合わず、
>「秀吉は尼子とは違い、油断のならぬ相手です。兄上の様に勇ましさだけで勝てる相手ではありませんぞ。」
>と諌める隆景に対し、
>「武道の道を心得ていないのは隆景の方だ!」
>とやりあうこともあったという。
0841人間七七四年
2014/11/10(月) 21:32:23.45ID:VtBFhyk6自分もここは元春が正しいと思う。
実際に戦場に出て戦うのは元春の領分では?
極端な話、元春=張良、隆景=蕭何の役割分担で上手くいくと思うから。
0843人間七七四年
2014/11/10(月) 22:15:07.23ID:VtBFhyk6>佐久間信盛を呼び
>「これまでの功績と合わせ、播磨一国を与える」
>と伝えた。この頃佐久間信盛は、畿内を始め尾張、西三河などに多くの所領と配下与力を持ち、
>これにさらに播磨一国まで加われば、織田宗家に優に対抗できるほどの勢力となる。
>当時の佐久間信盛への信長の信頼がどれほどのものか、よく分かる話であろう。
>が、信盛はそれを断った
>「所領は要りません。それよりも…」
>信長所秘蔵の茶道具の一つ、古作の播知釜を望んだのだ。
>「それは…」
>と信長も躊躇したが、信盛の功績に鑑み、ついにこれを与えた。
>後、佐久間信盛はご存知のよう追放される。そしてこの播知釜は、信守の遺品として、息子信栄に伝えられた。
>信栄は高名な茶人と成ったが、この父の形見の播知釜で、よく茶を立てたとのことである。
>滝川一益が上野に変えて名器を望んだのは、この先例があったためかもしれません。
>佐久間信盛と「播知釜」のお話。
0844人間七七四年
2014/11/10(月) 22:18:25.18ID:VtBFhyk6松永久秀の呪いで信盛はああいう悲惨な末路を迎えたのでは?と思ったのは
自分だけではあるまい。
0845人間七七四年
2014/11/10(月) 23:05:25.84ID:xzh6ixkL>尼子氏はもともと出雲に土着していた国人ではなく近江京極氏の一族で、
>京極高秀の子高久が犬上郡甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)を領して以来、尼子氏を名乗るようになった。
>明徳三年(1392)、高久の子・刑部少輔持久は出雲守護代に任じられて月山富田城(島根県安来市)に入り、ここに出雲尼子氏が起こる。
>その後持久の孫・経久が紆余曲折を経ながらも勢力を拡大し、尼子氏は山陰の一大勢力となっていった。
>さて、経久の二男国久とその子誠久・豊久・敬久らは、月山富田城の北麓新宮谷に居館を構えたことから新宮党と呼ばれていた、
>尼子氏の勢力拡大は彼ら新宮党の活躍に負うところが多く、特に軍事面では尼子氏の中核をなしていたと言っても過言ではない。
>ちなみに経久の嫡男政久が永正十五年(1518)に戦死していたため、経久は天文六年(1537)に孫の晴久に家督を譲っており、
>晴久の叔父である国久は大きな発言力を持っていた。
>しかし天文二十三年の今日十一月一日、晴久は定例の評議のため登城した国久・誠久・敬久ら新宮党を襲い、ことごとく殺害してしまった。
>その際、誠久の五男孫四郎のみは乳母に抱かれて逃れ、のち京都東福寺の僧となる。
>尼子氏の軍事的柱石であった新宮党が、なぜこのような形で粛清されたのか原因はいろいろ考えられるが、
>一説には毛利元就がいずれ対決する運命にある尼子氏の弱体化を図り、
>偽書を用いて新宮党に謀叛の企みありとの風説を流し、晴久を疑心暗鬼に陥れたと言われている。
(続く)
0846人間七七四年
2014/11/10(月) 23:07:21.73ID:xzh6ixkL>事実、新宮党には少々度を超えた言動もあったようで、加えて国政にも口出しをしてくる国久に対し、
>当主晴久が次第に面白いからぬ感情を抱くようになっていたのかもしれない。
>ともあれ新宮党はここに滅び、尼子氏の屋台骨は大きく傾いた。
>見事に計略を成功させた元就は翌年安芸厳島に陶晴賢を破って勢いに乗り、大内氏をも滅して後顧の憂いを絶つと、
>次なる侵略の矛先を石見へと向けた。
>尼子氏は晴久が永禄三年(1560)十二月に急死したため義久が跡を嗣ぐが、もはや往年の勢いはなくジリジリと毛利軍の侵略を許し、
>ついに同九年十一月に元就に降伏開城するという結末を迎えることになる。
>なお、尼子氏の重臣山中鹿介は主家再興を目指し、後に京都に隠棲していた勝久を当主として担ぎ出すことはよく知られているが、
>夢を果たすことなく播磨上月城で自刃した尼子勝久こそ、この事件の際にたった一人生き残った孫四郎その人である。
0847人間七七四年
2014/11/10(月) 23:11:23.28ID:xzh6ixkLつまり元就のちょっと悪い話。
彼ほど実際には梟雄でありながらそういうイメージ(斉藤道三とか松永久秀みたいな)を
持たれていない戦国武将はいないと思う。
0850人間七七四年
2014/11/10(月) 23:54:44.88ID:xzh6ixkL>静岡県浜松市細江町姫街道長坂付近に服部小平太の墓がある。
>服部小平太といえば桶狭間の戦いで毛利新介と共に今川義元を討ち取った彼である。
>後に徳川に仕えた小平太は勲功として刑部城周辺の地を治めることになったのだが、天正十五年(一五八七)六月十八日に小平太は神ヶ谷の陣から馬で見回りをしていたところを何者かに殺されたという。
>このあたりは今川恩顧の者が少なくなかったことから服部小平太を恨んでいた人物が殺したのでは?と地元では言われているらしい。
>以上が桶狭間で戦功を上げた服部小平太が何者かに殺されたという悪い話…
>だが待って欲しい。服部小平太は秀次事件に連座し上杉景勝に預けられた後に切腹を言い渡され亡くなっているはずでは?
>どうやらここで殺された服部小平太と言われてる人物は服部中保次という服部小平太こと服部一忠とは別人の人物らしいのだ。
>「寛政重修諸家譜」の服部中保次の説明で桶狭間で義元の本陣に対し戦功を上げたと書かれていたため服部一忠と混合されたと考えられている。
>以上が服部小平太の墓と伝えられていたものが実は別人の墓だったという悪い話である。
0851人間七七四年
2014/11/10(月) 23:57:31.24ID:xzh6ixkL服部小平太なんて桶狭間で名前が出てくるだけの人だと思っていたが
その後領主に出世しいたとは
0852人間七七四年
2014/11/11(火) 00:28:51.59ID:QFiOmZnr>少弐冬尚が、復権の好機とみて肥前に侵入してきた。これを受け、家中の話し合いにより胤栄の跡を
>継いでいた竜造寺隆信は、重臣を集め
>「我が代で国が乱れるのは許せぬ。すぐに出兵しよう。そして少弐家を討ったら東を得よう。次に有馬家を
>討てば西は治まる。それが成功したら、今度は隣国に出陣し菊池家や島津家をも従えて、中国、四国にも乗り出すのだ。」
>と宣言した。所が家臣から
>「まだ国内も治まっていないのに、諸方へ手を出しても敗れるだけです。」
>と諌められ、隆信もこの意見に激怒して軍議の場から退出してしまった。この一件で、重臣からは
>「あれでは国を治めることは出来ない。」
>と嘆かれてしまったという。しかもこの後、かねてより隆信の本家相続を快く思っていなかった土橋栄益に
>謀反を起こされてしまったという。 夢を語るには早すぎた隆信の悪い話。
0853人間七七四年
2014/11/11(火) 00:32:49.01ID:QFiOmZnrのちに太りすぎで馬にも乗れず、家来にも見捨てられ泥田の中を転げまわっているところを
討ち取られてしまったというだけのことはある
0854人間七七四年
2014/11/11(火) 00:35:37.71ID:QFiOmZnr服部小平太の足を斬り毛利新介の指を食いちぎって抵抗し、
公家化した軟弱な武将のイメージを多少なりとも払拭したのに。
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