【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
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0001人間七七四年
2012/10/15(月) 00:12:08.25ID:RhmDVWTD戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0741人間七七四年
2014/11/07(金) 08:37:45.85ID:/RFmeOLM>秀吉への臣従のため上阪した。
>10月20日浦戸を出港し、程なく堺の港につく。そこで津田宗及の屋敷を宿舎とすると、
>ここに羽柴美濃守(秀長)と藤堂与右衛門(高虎)が来訪。秀長は「早々の上洛に、秀吉卿は
>御感に思召しておられます。」と伝え、大阪出仕の支度をするよう促した。
>藤堂高虎はこの堺から案内として元親に同道した。
>大阪に入ると町家で装束を整え登城。桜の門に入ると警固のものが50人、金棒を持って左右に
>並び、元親の共の者たちを
>「これより先、小姓一人、草履取り一人のみしか同道出来ぬ!」
>と押し留めた。これに共をしていた長宗我部家臣団は激昂。
>「こんな事は見たこともない!主の供をするのを一体誰が止めるというのか!?」と
>大声で叫んだ。この騒ぎを聞いた高虎は警固のものに
>「長宗我部の共の衆なら問題はない。入れてやるのだ。」と云えば、警固の者共は金棒を引いて
>彼らを門内に入れた。
>ここで羽柴秀長が迎えに罷り出て、元親と同道し奥の間に通らせた。ここで高虎は立ち戻り、
>「共の衆はここに居よ」と、彼らを侍所に連れて行った。
>元親は小袖20,馬代銀百枚、一文字の太刀一腰を進上し秀吉に御礼を申し上げる。
>秀吉は対面を許し、「長宗我部早々上洛、感じ入るぞ」との御意を伝え饗膳を下し、
>「美濃守(秀長)、施薬院(全宗)相伴せよ」と言って、自分は奥へと下がった。
>さてここで元親の前には、七五三の膳部、金銀の造花、京堺の魚鳥、そういった珍しいものが
>尽きることがないほど出されて来た。元親は四国の主であったが、このような膳部は見たこともなかった。
>正直ビビっていたがそれでも臆せぬ体でこれを賜り、酒を数回やりとりしていると
>秀吉卿が再び現れ「長宗我部の折角の上洛だというのに、肴も出していないではないか!」と、
>さらに元親の度肝を抜かせる事をいう。これを施薬院を通して聞かされた元親は、「この長曾我部、
>結構な膳部を頂きました、有難き幸せ。」と挨拶をし、秀吉は盃を取るとこれを元親に下し、
>元親は頂戴して酒を賜った。
>このあと元親に引き出物が出され、腰の物(二尺五寸備前兼光)、黄金百枚、梨地の鞍鐙をつけた鬼葦毛の馬、
>などが下される。そして秀吉は言う
>「長宗我部は酒も数盃となり、酔も出ただろうが珍しい肴があるのだ、もう一献参られよ。
>珍しい肴とはな、その方が上洛するというのを、家老たちがそれは無用だと止めただろう?だがその方一人の
>覚悟によって上洛をした、と、わしは聞いておる。
>この上はお前が人質に出した津野孫次郎(親忠・元親三男)を返してやる。これを肴に、さあ、
>もう一献参られよ。」
>元親「かたじけなし」と、それを飲み干した。
>元親は明日京に上り羽柴秀次に御礼申し上げる予定であったが、秀吉はそれも免除し、すぐに津野親忠と共に
>帰国することを許した。翌日、元親親子は堺を出港した。
(続く)
0742人間七七四年
2014/11/07(金) 08:39:52.06ID:/RFmeOLM>翌日、元親は城に家中の者たちを集めると今回の上洛の次第を語り、そして下賜されたもののうち、
>最初に太刀を見せた。
>「なんと!金で装飾されている!?」土佐者たちは早くも仰天した。
>次に黄金百枚を見せた。
>「これが判金という物ですか…。はなしには聞いたことがありますが、初めて見た。」
>としげしげと眺めていた。そして最期に葦毛の馬に鞍を置いて出すと土佐者たちの驚愕は頂点に達した
>「上方という国は一体どんな国なんだ!?こんな馬が存在するなんて!!」
>彼らにとって馬といえば、体高一寸ほどの土佐駒であった。上方から来た五寸の馬を見て、
>舌を震わせて驚いたのも、仕方のない事であろう。
>そして梨地の鞍鐙を見て
>「これ光ってる!どうして!?」
>などと騒いだ。全く田舎者にも程がある事である。
>ところで津野親忠は人質として長く上方に逗留していたので、御供衆まで上方めいた男になって帰ってきた。
>これに土佐の者たちは羨み。月代の剃り方から服装まで、土佐の者たちは一斉に真似をした。
>それまで土佐の者たちは着物を小袖といい、袖は短く綿をたくさん入れ、帯ははいはたと言う木綿帯をして、袴の
>裾も短く、その姿はモグラのようであった。
>月代は大きく剃りあげ、刀は三尺ほど、脇差は二尺ほどもある物を差し、顔には武勇を貼り付けていた。
>しかしながらそんなモグラ侍を上方侍に見比べると、そのあたりで暴れてるガキ大将すらそんな異風な者はいない。
>津野親忠の共の衆に皆習い、着物の脇をすき、袴や袖を長くすれば、男ぶりも良くなり、土佐者たちは
>その姿を鏡で見て大いに喜んだという。
>翌年、元親が再び上洛した時は、みな上方風の服装をしていた。
>この時長宗我部家の諸侍はより合って先年のことを話し、大笑いしたという。
(土佐軍記)
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