【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
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0716人間七七四年
2014/11/06(木) 19:16:02.61ID:WRNm3a5p>そんな中、数少ない大友方に残っていた問註所統景より一族の問註所鑑景との戦いにさいし大友家に援軍要請が入る。
>筑後回復の機は今とばかり宗麟次男・三男の田原親家・親盛を大将副将に約7千の軍勢で筑後になだれ込んだ。
>が、初戦の猫尾城攻略から苦戦、黒木氏の猫尾城には竜造寺からの鉄砲隊が援軍として入場しており、城方の反撃悩まされていた。
>豊後勢は耳川で歴戦の武将の多くが戦死しており、若い武将ばかりなのも苦戦に拍車をかけていたのだった。
>城攻め1ヶ月で業を煮やした大友軍は立花道雪・高橋紹運に出陣を要請、形勢は一気に逆転する。
>両将は筑前より一直線に猫尾城へ進軍、立ちふさがる竜造寺・秋月連合軍を片っ端から蹴散らすのであった。
>竜造寺からの増援軍も激戦の末に破り(この激戦で道雪の弟戸次次右衛門など戦死)、即猫尾城攻略に取りかかる。
>そしてこの猫尾城もすぐに落城。城主黒木家永は13歳の娘に介錯され自害している。
>その後も山下・谷川・辺春・兼松・鷹尾などいくつもの城を攻略。
>そんな中、竜造寺もさらなる援軍を繰り出し柳川城で戦線は膠着するのだった。
>そんな柳川での対陣中、いきなり田原親家・親盛兄弟が撤退してしまう。その理由は
>「自分たちがどんだけ頑張っても手柄は道雪・紹運コンビのものになってしまうのでツマラナイ」
>と言うものであった。そのまま豊後まで引き上げる田原勢。
>さすがの道雪も
>「豊後もここまで落ちぶれたか・・・」
>と嘆くのであった。
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