>慶長の役で戦死した原田信種の嫡男嘉種は父の肥後熊本の所領を相続した。
>しかし嘉種は名門大蔵一族の嫡流を誇りとし、主君の加藤清正が相手でも素直に従わない困り者であったのだ。

>清正の娘がある大名に嫁ぐ事になった時、清正は嘉種の母が故事に明るいと聞き、
>乳母として娘に付き従っていくよう命じた。しかし嘉種母子はこの命令を断ってしまった。
>流石の清正は嘉種のこの行動に怒り、その後は嘉種を冷遇、ついには召し上げ追放してしまったのだった。

>流浪の身となった嘉種は旧知の唐津藩主寺沢氏の下に行くが寺沢家が改易、
>その後は流れに流れ最終的には会津藩保科正之に2千石で使えることになるのである。