【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
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0647人間七七四年
2014/11/03(月) 22:13:29.83ID:Unc3epob>翌年の春、宗茂は清正に
>「これまでの御芳志によって、心静かに休息させていただき、満足この上もありません。
>ですが私は現在、暇を持て余している遊人ですので、都に上り名所旧跡を見物したいと思っているのですが
>これをどうお考えでしょうか?」
>まあ、ニートしてますが引きこもってばかりいるのもアレなので外に出て京都観光でもしたい、という
>ような話である。これに清正は
>「尤もの仰せです。どうぞ御心に任せて下さい。この清正からも一つ馳走させてもらいます。」と、
>京までの旅行について懇切に取り計らい、宗茂を京都まで上らせた。
>宗茂は京都、南都(奈良)、泉州堺などを心静かに遊覧し、三歳の春を送った。
>3年も遊び歩いていたのかと思わないでもないが。まあともかくもそのあたりで「今度は江戸に行ってみたい」と思い、
>慶長8年の秋ごろ、江戸に行き高田の宝祥寺に忍んで滞在していたのだが、旧交のある大名小名が
>これを聞きつけ訪問してきたため、後々は忍ぶも何も無いような状態で、諸大名の馳走に会って
>彼方此方と忙しくしていた。
>そんな時、土井大炊頭(利勝)が取り持ちをして、この宗茂の江戸滞在のことが
>大御所(徳川家康)に伝えられた。このとき家康は
>「先年関ヶ原の時、宗茂が石田に与したのは心から出たことではない。後から聞いたところだが、
>宗茂は小早川秀包と共に、毛利輝元に色々と異見したのだが、輝元が聞く耳を持たなかったので
>致し方なく大津城の攻め手に加わったのだという。宗茂にとっては詮方無き次第であったのだ。
>大炊頭、その方より宗茂に、彼が輝元に異見した当時のこと等を聞き、その上で今後の身の上について
>相談をしてくるのように。」
>そうして訪問した土井利勝に、宗茂も徳川家から扶持されることに、いまさら異議はないと答え、
>直ぐに召し出され奥州棚倉において1万石を、堪忍分として与えられた。
>この時立花宗茂は 「この度1万石を仰せ付けられたことを、完全に満足とは思っていない。
>だが、関ヶ原の折、私が毛利輝元に諫言したということが上聞に達した。
>これこそ私の本懐であり、どんなものもこれに過ぎることはない。」
>そう言って喜ぶこと限りなかったという。
(立斎旧聞記)
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