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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう

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0001人間七七四年2012/10/15(月) 00:12:08.25ID:RhmDVWTD
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話で、自分の好きな話を上げたり、もっと話したい事を話そう。


戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/


鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0541人間七七四年2014/10/31(金) 07:38:00.56ID:Dvf7FYho
ある時上杉謙信が、石坂検校という琵琶法師を招いて平家物語を語らせた。
すると、源頼政の鵺の段になってしきりに涙を落とされた。
傍らの者たちは不審に思い、その理由を聞くと、謙信は憮然としてこんな事を語った

「私は今、検校の琵琶を聞いて、いまさらのように武道の衰退を感じた。
かつて八幡太郎義家は、禁中に妖怪が出たのを『鎮守府将軍源義家である!』と名乗って弓の弦を鳴らせば、
妖怪その姿を消したというのに、頼政は鵺を射たが、猶死ななかったので猪隼太が刺し殺してとどめを刺した
と伝えている。

義家が妖怪を払ったのは天仁元年(1108)、頼政が鵺を射たのは仁平3年(1153)である。
その間わずか46年の差ほどしかないのに、すでに武道の劣れることこういう有様である。
そこから思うと私は頼政に遅れること450年。その間に武道はどれだけ衰微したかと思うと、
つい我知らず涙を流したのである」
(上杉謙信言行録)
0542人間七七四年2014/10/31(金) 07:39:14.39ID:Dvf7FYho
 小早川隆景は幼名を徳寿丸といい、幼くして聡明さは他を絶していた。
13歳で人質として大内氏に行き三年を過ごして帰ってきたが、その際に父の毛利元就にこのように報告した。

「大内氏は必ず滅亡するに違いありません。
なぜならば、大内義隆の贅沢は度を外れていて、政治も自ら行わず家臣の陶隆房は諌言を尽くして、ついには義隆の意に反するようになりました。
そこへ相良武任という者が義隆に阿諛追従して、隆房を讒言しました。
なので群臣は皆義隆を嫌い、武任を憎み、隆房に心を寄せる者が多くなっています。
主君が隆房を疎んじ、家臣一同が隆房に帰服しているような状況ですから、隆房が兵をあげるのは時間の問題でしょう。」

元就はこれを聞いてうなずいたが、果たしてその後、隆景の予言したとおりとなった。
0543人間七七四年2014/10/31(金) 08:43:07.21ID:Dvf7FYho
天正十四年ころから「世間物騒の時分」につき、あれやこれやと上方対策を始めていた後北条氏だが、
天正十五年に入ると、正月に小田原城、五月には上野の箕輪城と松井田城、
一〇月武蔵岩付城、十一月箱根の山中城、足柄城と領国全土で普請を始めていた。
上杉、佐竹に加え、天正十四年十月に秀吉に臣従した徳川と、
全方面からの攻撃が予想されたからであった。

しかしそんな普請で忙しい最中のはずの天正十五年五月、
武蔵の各地では北条氏邦や氏房の命令で、堰や堤の構築が行われていたりもする。

実はこの時期、上記普請の連発のためか、北条領国内では退転欠落が続発していた。

「御国の御用につき」と言う理屈で百姓を動員していた北条だが、
一方で懐柔策もとっていたと言うお話。
あるいは、とらねばならなかったと言うお話。
0544人間七七四年2014/10/31(金) 08:44:14.56ID:Dvf7FYho
上杉謙信が武田信玄と対陣した時の話である。
この時、武田の陣において、越前衆の夜襲があると騒ぎ出し、俄に混乱したことがあった。
この事を知った前線の上杉軍の武将達は、直ちに本陣に馳せ来てその状況を伝え
「この虚に乗じて攻められれば、我軍の勝利、疑いありません!」と言上した。
ところが謙信はこれを聞くととたんに不機嫌な表情になり

「虚実は解らないが、そういう事がないとも言えない。しかし仮にこれが事実としても、
空虚を突くというのは私の本意ではない!それにそんな行為は信玄に対しても、弓矢の無礼である!」

そう言下に拒否したという。

もし信玄がこの事を聞けば、感動するよりも「変な奴だなあ」と呆れる気がしないでもないがw
上杉謙信、自分だけでなく好敵手に対してもその武を汚させず、と言うお話。
(上杉謙信言行録)
0545人間七七四年2014/10/31(金) 08:45:59.01ID:Dvf7FYho
軍神様は戦国の世にあってフェアプレー精神の持ち主
0546人間七七四年2014/10/31(金) 16:15:41.11ID:z8Dgm+nV
永禄11年8月5日、上洛を開始した織田信長は7日、馬廻の侍わずか二百四五十で、妹婿である
浅井長政の待つ近江佐和山城に入り、初めての対面を果たした。このとき京童たちは
『婿入りも無き先の舅入りとはこの事よ』と言いはやしたという。

その後各地の情勢報告が行われたあと、信長一行は近江柏原の成菩提院という天台宗の寺に座を移し
そこに一泊した。この寺において接待のため長政から浅井縫殿助、遠藤喜右衛門、中島九郎次郎が
付けられた。様々なもてなしに信長も非常に機嫌がよく、夜すがら打ち解け、酒宴の後就寝した。

これを見届けると遠藤喜右衛門は早馬に鞭を当てて急ぎ小谷へはせ帰り、長政を諌めて申し上げるには

「信長という人物は、大変に表裏の深い大将です。彼の行跡をよくよく見れば、その知略の早いこと、
サルが梢を伝うようです。我が浅井家を縁者として組み込み、こちらに参って懇切に言ってくるのも、
ただ上洛のための、当面だけの事です。功成り名を遂げたならば、朝倉も当家も必ず敵とするでしょう。
また、終始信長の気に入るように出来るかと考えても、なかなか想像のつかないことです。
そうして信長の怒りを買った時に戦うことになったとしても、必ず討ち負けて後悔しても手遅れとなります。

であれば、今夜柏原において、二百人ほどの供の者たちも皆町家に寄宿し、信長自身は酔いつぶれて
寝入っております。彼の側には14,5歳の小姓2,3人が眠っているに過ぎません。

ここで、どうか私一人に仰せ付けください。今夜中に柏原に罷り帰って、信長を安々と討ち取って
見せましょう。二百あまりの供侍たちも、大将が討ち取られればその上は、我先にと逃げ出すでしょう。
それを追って美濃に入り、岐阜の城を攻めるなら、城主はなく家督を継ぐ嫡男も幼少であり、彼の地の武士たちも
我も我もと味方に参り、美濃・尾張両国は時を移さずして攻め取ることが出来るでしょう。
そうなれば、その威勢に乗じて六角親子を押し倒し、帝都へ攻め上がって天下の仕置を助ける立場になることも…
誠に当家の興廃は、ただこの一挙にあるのです!」

こう言葉を尽くして説得した。これに長政はしばらく迷い、家老や一族を集めて密かに相談したが、一同が言うには

「信長はあれほど当家に対し懇切で、心やすく打ち解け、頼みまいらせているではありませんか。
そんな良好な関係を失い、公方様の上洛を妨げ、その上酔いつぶれて寝ている人を殺すというのは、
籠の中の飼い鳥を殺すのと同じ事です。

それに今のような時節に信長を討ち取れば、人望に背き、天の冥加も恐ろしく、侍の本意が立ちません。
そんなことは、絶対にあってはなりません。」

長政もこの意見に同意し、遠藤の諌めを用いず、彼に早々に帰って明朝も又接待をするようにと命じた。
しかし遠藤が重ねて申し上げる

「天の与えることを取らなければ、災に会うと申します!信長は表裏の大将です!必ず当家を
押し傾けようとするでしょう。その時、この判断が返って災いとなること、私には鏡に写したように
見えるのです!
どうか、どうか私の申し上げたことにご同心ください!」

そう、涙を流して訴えた。しかし長政は頑としてそれを聞き入れなかった。
遠藤も是非に及ばず、何事かブツブツと呟きながらその夜、柏原に引き返していった。

後にこれは信長の運の強さの現れだと言われた。
(総見記)
0547人間七七四年2014/10/31(金) 16:17:01.85ID:z8Dgm+nV
明応2年閏4月。
このごろ怪鳥が出没し、細川政元の家人がそれを図にした。

陰涼軒日録には次のように記されている。

「世間に化鳥あり」という話を聞いた。
その頭は馬、尾は蛇、蹄は牛のようであり、「無常引導骨積天」という鳴き声を上げるそうだ。
その図は右京兆屋形(細川政元邸)より出でて、天竜寺に在るという。

また、昨日20日、右京兆屋形の辺りで羊角風(つむじ風)が大いに吹き荒れ、人々を驚かせた。
その羊角風の中には鳶が居て、火を纏って飛行していたという。
(後鑑)
0548人間七七四年2014/10/31(金) 16:18:53.32ID:z8Dgm+nV
謙信の家臣に元尾州牢人・深渕金太夫と言う者が居た。
彼は10年前から謙信に仕えて覚えめでたく、軍功の数々も重なり次第に扶持の高多くなった。
謙信取り立ての近習の一人だったのである。

そんな金太夫がある時、謙信御座所の次の間で、何事かあって仙可という若者と口論になり、
怒りのあまり仙可を取り押さえ殴りつけようとした。

この物音に謙信は襖を開いて出てくると、帯びていた貞宗の脇差を抜くやいなや、物も云わず片手討ちに
金太夫と仙可の二人を斬り捨てた。

この状況を近くで目撃した仙可の父、内記は怒りのあまり声を震わせ叫んだ

「殿!先に乱暴をしよとした金太夫は公儀を恐れぬ狼藉者、御成敗は道理だと思います。
しかし咎無き倅を同罪に遊ばしたのは、近頃にない無慈悲の御沙汰と心得ます。これはいかなることか!?
ご返答によっては殿とて決して仮借いたしませぬぞ!」

そして小刀の柄に手を掛ける。しかし謙信は全く動ずる色もなく、静に脇差を鞘に収めて
自分の部屋に帰ろうとした。この謙信の態度に内記は激怒した

「ご返答がないというのは、弁解の道に窮したためだと心得ました!ならば、御免!!」

内記は脇差を抜くや謙信に斬りかかる。謙信、その切っ先を巧みにあしらいながら二太刀目に
彼の右手首を切り落とした。
その時、謙信の小姓、上村伊勢松がこの騒動に気が付き馳せ来る。内記が脇差を左手で持ち直そうと
する隙に、彼の太腿を突いて討ち伏せ、ついに止めを刺した。

これを見て謙信はすこぶる機嫌よく、伊勢松に向かい

「ハハハ。今日は妙なところでお前と相打ち(一人の敵を二人または数人で討つことの意)したな。」

そう言って大笑したのだという。

(上杉謙信言行録)
0549人間七七四年2014/10/31(金) 16:57:32.04ID:z8Dgm+nV
永禄4年、甲州の穴山梅雪の許より越後北庄の亀峯寺まで、空庵という僧が派遣された。彼は
上杉謙信家中にこの様な梅雪の意向を伝えた

『近年、信玄公は庶子の伊奈四郎勝頼君を愛され、御惣領の太郎義信君を疎まれておられます。
このため武田家中は二派に分かれ、今にも内戦に及ばんとしております。

何卒、謙信公は義信君を慈しませられ、御養子としてお取り立てあられるならば、微力ながらこの梅雪も
謙信公に従い御旗本に参り申します。そして更科よりお取次ぎがありませば、信州一円はご自身で動かれる
までもなく手に入り、また多年ご宿願である村上義清殿の領地へのご帰還も、事もなく果たすことが
出来るでしょう。

義信君をご援助の事、偏に頼み参らせます。』

これを聞いた謙信の近習、諸角喜助、本郷八左衛門、及び旗本七手組の面々は、甲州に介入する
良い便宜を得たと喜び、早速この事を謙信に報告した。
報告を受けた謙信は梅雪からの使僧、空庵を御前に召し出し、改めて来意を問いただした後、形を改め
こう言い渡した

「御坊、よく聞いて梅雪に伝えられよ。
義信の便宜を以って信州をとれとの儀、この謙信、一向に合点が参らぬ。
是非を論ずる場合において、人手を借りる謙信ではない!
特に子として親に歯向かうなど、不所存この上ない儀と心得る!

義信殿は未だ若年である故もあろうが、梅雪程の老巧者がなにゆえこの様なウツケたる事を言い出すのか。
それも身の拠り所が無い程であるから頼み入るとの話ですらない。

この謙信、あえて慮外は言わぬ。御坊の黒衣を尊重して、この度は無事に帰す。
しかし重ねてこの様な事を言ってくるのなら、その時は容赦致さぬぞ!」

これには空庵も色を失い、這々の体で甲州に帰っていったとのことである。
(上杉謙信言行録)
0550人間七七四年2014/10/31(金) 16:58:33.70ID:z8Dgm+nV
島津義久に実子に実子がおらず、義久三女である亀寿の婿である島津忠恒が養子に入り、
後継者となったというのは有名な話であるが実はもう一人候補がいた。
それが義久の次女新城と島津彰久の間の子である島津久信という若者で女系ではあるが義久の孫に当たる人物である。

そもそも義久自身も豊臣政権の介入によって次期後継者を決められた経緯もあってか不満があったらしく、
慶長4年(1599年)に一度家督を譲ったにも関わらず、その二ヶ月後には島津家当主の証である
「御重物」を没収するなど忠恒との仲は微妙であった。

関が原の合戦の後も義久は久信を可愛がっており、やがて後継者に据えようとしているという話が島津家中では絶えず、
ついには「義久が久信を後継者にする朱印状を徳川政権から得た事で忠恒の父義弘が異議を申し立てた」
という噂さえ立つなど家中の統率は乱れた。

こうした事態に義久はついには正八幡宮に参詣し神の力・・・要するに「くじ引き」でどちらが後継者にふさわしいかを決める事にした。
こうして行われたくじ引きでも後継者にふさわしいと出たのは忠恒の方であったので
義久も忠恒を後継者と認めることにしたという。
(末川家文章)
0551人間七七四年2014/10/31(金) 16:59:56.96ID:z8Dgm+nV
慶長19年(1614)12月、大坂冬の陣の時のこと。城の包囲に加わった伊達政宗のもとに、藤堂高虎が訪ねて来た。
「伊達殿。故太閤の恩に報い、秀頼公に馳走するは今、この時ではないか?貴殿の意見を聞きたい。」
「何を言われる?わしは将軍家一筋に忠節する覚悟だ。そんな相談は、無用のことよ。」

この時は、おとなしく自陣に帰った高虎だったが、10日ばかりして再びやって来た。

「先日の件、如何お考えか?是非にご検討あれ。」
さすがに政宗は立腹した。「南無八幡!まだ言うのであれば、大御所に報告するぞ!!」
「さ、されば、この話は無かったことに。」

高虎がスゴスゴと帰って行った翌日、政宗は念のために大御所・家康の陣を訪れた。
「大御所に、申し上げたき儀があり申す。藤堂和泉守、異心の疑いが・・・」

「だ、そうだ。泉州。」家康の呼びかけに応じ、当の高虎が陣幕の陰から姿を現した。

「でぇぇぇぇぇえええええ!?」
「どうですかな大御所?それがしの申し上げた通りになったでしょう。」
「うむ。これで伊達殿の心中、明らかになった。ご両所、大儀。」
0552人間七七四年2014/10/31(金) 17:22:44.20ID:6hluH8Xc
コピペ埋め荒らしってアク禁対象なの理解出来てる?
0553人間七七四年2014/10/31(金) 17:33:19.06ID:z8Dgm+nV
『1568年(永禄11年)10月4日付、堺発、パードレ・ルイス・フロイスの書簡の一節

私が都に復帰することは、大いに努力したにもかかわらず、今日に至るまでそれは叶っていない。
都は甚だ混乱し、少しも安全ならざるが故に、この事は神の御許におすがりするしか無い。

シノバラ殿(篠原長房)と云う大なる異教の領主(当地方のキリシタンの武士は、多く彼に属せり)は、
我々を都に復帰せしめんために大いに努力されているが、戦争のため未だこれを了せず。

都の(キリシタンの)会堂は、昨年まで我々の敵にしてキリシタンの大迫害者たる弾正殿(松永久秀)の
掌中にありて閉鎖させられていたが、篠原殿はこの事を聞き、私が都に入る事が可能になるまで、現地の
キリシタンに託すことを命ぜられた。これによって会堂は我らキリシタンの手に帰し、都の信者たちは
従前のように同所に来て祈祷を行なっている。

篠原殿は今の都の王に使いを遣わし、もしパードレ等が都に帰ることを許さないのなら、彼の絶対権力によって
彼らを復帰させる。何故なら彼らを追放すべき何らの理由がないからである、と伝えた。

そのような中、5,6日前に尾張の王(織田信長)が、殺されたる公方様(足利義輝)の兄弟(義昭)を、
武力を持って都に入らしめんため、6万の兵を率いて突然都に向かって進軍を始めた。
これにより、必ず大戦があるだろう。

主よ、平和を来たらしめ給わん事を祈る。
何故かと云えば、この諸国(日本)でデウスの教えを弘布するにおいて、戦争にまさる障壁は無いからである。』

信長の上洛直前の情勢を伝える、ルイス・フロイスの書簡である。
(日本耶蘇会年報)
0554人間七七四年2014/10/31(金) 17:35:40.64ID:z8Dgm+nV
キリスト教徒こそ戦争をしかけてばかりきたくせにw>フロイス
0555人間七七四年2014/10/31(金) 21:08:48.30ID:DWTXNQqe
問題の上杉謙信言行録より

上杉謙信の近くに仕える女に土州佐保と言うものがあった。
永禄8年春、両親と会うため故郷に帰省したいという願いを申し出た。謙信は取次の女房を呼び、
3月20日前後を日限としてこちらに帰ってくるようにと伝えて休暇を与えた。ところがその日限になっても女は
帰って来なかった。取次の女房はしきりに気をもみ、書状を出して呼び返した。
ある日、謙信はその女を不断所に召し出し、その不都合を攻めた上、小姓の荒尾助九郎をして頸をはねさせた。

後に太田三楽(資正)はこの話を聞いて北条丹後(高広)に言うには

「貴殿の主人謙信公は、武勇については別問題として、その御気性を見るに、10のうち8つは大賢人、
2つは大悪人という割合になるな。生まれながらに勇猛だが、とにかく怒気激しい癖がある。

けれども善い事には清浄潔白で、曲がったこともなければ何かを隠すようなこともなく、下々の情勢を察し
士民を憐れみ、好んで忠諫を納れられるなどは、末代ありがたき名将だと思う。

だからまあ、少々の非難はあっても贖って余りがあるので、8つは賢人と申して良かろう。」

そう言って破顔大笑した。
0556人間七七四年2014/10/31(金) 21:10:34.31ID:DWTXNQqe
上杉謙信は男一本ではなかったのか
それとも純粋に職務上のことで怒って処刑したのか
0557人間七七四年2014/10/31(金) 21:13:40.67ID:DWTXNQqe
海音寺潮五郎の『天と地と』では謙信は女にも興味あるように描かれてはいたが
所詮は小説だし
0558人間七七四年2014/10/31(金) 21:47:55.32ID:DWTXNQqe
ある時、細川幽斎の隣屋敷より火が出て、折しも風が強かったので殆ど類焼に及ばんとした。
家中は騒ぎ慌てること大方ならずであったが、こんな時に主人の細川幽斎は熟睡していた。

この爆睡している主人を家中の者たちはどうにか起こすと、目を覚ました幽斎、手水鉢のところで
顔を洗おうとした所、「早や塀に火が移りました!」と叫んだものがあった。それにも幽斎は取り合わず

『ほのぼのと かき(垣)のもとまで焼くるとも 歌さへ詠めば人まると知れ』

そう詠んだという。まあお解りの通り柿本人麻呂を詠み込んでいるわけですね。この緊急時にw

ところがなんと、この歌を詠んだ途端風向きが変わり、火災は静まった。
それにより当時の人々は、この歌を火除けの歌として、火災を免れるため常にこれを張っていたという。
(幽斎公歌集)
0559人間七七四年2014/10/31(金) 21:49:30.39ID:DWTXNQqe
細川幽斎は文化人としても優秀だったというのは結構知られた話ね
0560人間七七四年2014/10/31(金) 21:52:42.28ID:DWTXNQqe
これも海音寺潮五郎の『武将列伝』だったか『日本名城伝』だったか忘れたが
そのような文化人の父親を持ちながら細川忠興は非常に嫉妬深くて残酷なところがあったと書いてあった。
残酷な文化人なんて沢山いるのにw
0561人間七七四年2014/10/31(金) 22:29:03.99ID:DWTXNQqe
伊達政宗大好きの徳川家光はある日登城した政宗を見ると早速茶を点ててくれるよう所望した。
それを口実にして茶器を授けようと考えていたのである。

政宗が早速勝手に下がって茶を点てる準備をしていると家光の意を受けた佐久間将監がやってきて
「上様がこの茶入を下賜されるとのことです、この度もこれをお使いいただきますように」
と述べたが政宗は
「それには及ばぬ!今は我が裁量で茶を点てているのだ!」
と突き返してしまった。
佐久間も上意なので受け取らせようとしたがどうしても受け取らない。

佐久間が戻って言上したところ、家光は意に介した様子もなく、
「政宗が言いようもっともなり、茶入はそこに置いておけ」と言ったのみだった。

茶会の準備が済み戻ってきた政宗に家光が改めて茶入を手ずから下賜したところ政宗は

「まことにかたじけのう存じます。先ほどは将監殿が   「得体の知れぬ物」   を持参し
上様の上意である、と申されましたが仮に真に下賜の物であれば台所の畳で頂くのは恐れ多いので辞退致しました」

と述べありがたく拝領したのだった。

この時譲られた茶入が今は静嘉堂にある木葉猿茄子、元は利休が蔵していた大名物である。
0562人間七七四年2014/10/31(金) 22:30:24.02ID:DWTXNQqe
家光には政宗が自分の私的な補佐役、と云う意識があったみたい。(そういう存在は政宗だけではなく、立花宗茂なんかも
そうだったようだが)

政宗が危篤状態になった時、伊達屋敷に見舞いに訪れて嫡男の伊達忠宗に

「父上(秀忠)が亡くなる時、政宗に私のことをくれぐれもと頼まれ、政宗も大変良く私を助けてくれた。
あなたは父上がこの様な状態になって大変心細いだろうが、今度は私があなたをサポートする番であり、
何でも私に頼って欲しい。
これは将軍や大名といった立場とはまた別の、家同士の話である。」

みたいなこと言ったという記録が残ってる。
0563人間七七四年2014/10/31(金) 22:33:14.30ID:DWTXNQqe
伊達政宗ほど一般のイメージと実像がかけ離れている戦国大名も珍しい気がする。
一般には猪突猛進の荒武者のように思われているが
実際には保身に長けた策略家で宮廷人のような趣すらある。
0564人間七七四年2014/11/01(土) 10:29:06.67ID:ZGG9ksDg
>永禄11年8月5日、上洛を開始した織田信長は7日、馬廻の侍わずか二百四五十で、妹婿である
>浅井長政の待つ近江佐和山城に入り、初めての対面を果たした。このとき京童たちは
>『婿入りも無き先の舅入りとはこの事よ』と言いはやしたという。

>その後各地の情勢報告が行われたあと、信長一行は近江柏原の成菩提院という天台宗の寺に座を移し
>そこに一泊した。この寺において接待のため長政から浅井縫殿助、遠藤喜右衛門、中島九郎次郎が
>付けられた。様々なもてなしに信長も非常に機嫌がよく、夜すがら打ち解け、酒宴の後就寝した。

>これを見届けると遠藤喜右衛門は早馬に鞭を当てて急ぎ小谷へはせ帰り、長政を諌めて申し上げるには

>「信長という人物は、大変に表裏の深い大将です。彼の行跡をよくよく見れば、その知略の早いこと、
>サルが梢を伝うようです。我が浅井家を縁者として組み込み、こちらに参って懇切に言ってくるのも、
>ただ上洛のための、当面だけの事です。功成り名を遂げたならば、朝倉も当家も必ず敵とするでしょう。
>また、終始信長の気に入るように出来るかと考えても、なかなか想像のつかないことです。
>そうして信長の怒りを買った時に戦うことになったとしても、必ず討ち負けて後悔しても手遅れとなります。

>であれば、今夜柏原において、二百人ほどの供の者たちも皆町家に寄宿し、信長自身は酔いつぶれて
>寝入っております。彼の側には14,5歳の小姓2,3人が眠っているに過ぎません。

>ここで、どうか私一人に仰せ付けください。今夜中に柏原に罷り帰って、信長を安々と討ち取って
>見せましょう。二百あまりの供侍たちも、大将が討ち取られればその上は、我先にと逃げ出すでしょう。
>それを追って美濃に入り、岐阜の城を攻めるなら、城主はなく家督を継ぐ嫡男も幼少であり、彼の地の武士たちも
>我も我もと味方に参り、美濃・尾張両国は時を移さずして攻め取ることが出来るでしょう。
>そうなれば、その威勢に乗じて六角親子を押し倒し、帝都へ攻め上がって天下の仕置を助ける立場になることも…
>誠に当家の興廃は、ただこの一挙にあるのです!」

>こう言葉を尽くして説得した。
(続く)
0565人間七七四年2014/11/01(土) 10:30:44.02ID:ZGG9ksDg
>これに長政はしばらく迷い、家老や一族を集めて密かに相談したが、一同が言うには

>「信長はあれほど当家に対し懇切で、心やすく打ち解け、頼みまいらせているではありませんか。
>そんな良好な関係を失い、公方様の上洛を妨げ、その上酔いつぶれて寝ている人を殺すというのは、
>籠の中の飼い鳥を殺すのと同じ事です。

>それに今のような時節に信長を討ち取れば、人望に背き、天の冥加も恐ろしく、侍の本意が立ちません。
>そんなことは、絶対にあってはなりません。」

>長政もこの意見に同意し、遠藤の諌めを用いず、彼に早々に帰って明朝も又接待をするようにと命じた。
>しかし遠藤が重ねて申し上げる

>「天の与えることを取らなければ、災に会うと申します!信長は表裏の大将です!必ず当家を
>押し傾けようとするでしょう。その時、この判断が返って災いとなること、私には鏡に写したように
>見えるのです!
>どうか、どうか私の申し上げたことにご同心ください!」

>そう、涙を流して訴えた。しかし長政は頑としてそれを聞き入れなかった。
>遠藤も是非に及ばず、何事かブツブツと呟きながらその夜、柏原に引き返していった。

>後にこれは信長の運の強さの現れだと言われた。
(総見記)
0566人間七七四年2014/11/01(土) 10:34:50.43ID:ZGG9ksDg
↑の時は運が強かったのは確かだが、
最後には信頼していた家臣に裏切られ殺されてしまったわけではないかw
さすがの信長の強運も使い果たしてしまっていたとみるべきか。
0567人間七七四年2014/11/01(土) 11:12:54.25ID:ZGG9ksDg
>ルイス・フロイスが、とある人物を熱情を込めて語っている、
>永禄12年(1569)12月17日付、日本耶蘇会年報の一節を見てみよう

>『私が次に述べたいと思う事を一層明瞭にするため、先ず私が語ろうと思う人物について述べる必要がある。
>キリシタンらが、当諸国(日本)においてあだ名を日本のアンチキリスト、又は肉体に宿りたるルシフェルと
>称し、思慮ある異教徒は庶民の欺瞞者と称する坊主(朝山日乗)である。

>彼は下賎の者にして、背は低く、甚だ醜く軽蔑すべき人物であり、日本の宗教も知らず、また学問もない愚人であるが、
>悪魔がその悪事を行うために発見した、最も彗敏な道具である。
>彼は談話に巧妙であり、雄弁においては日本のデモステネスである。

>彼は妻子があったのだが、貧窮であるためこれを捨て兵士となったのは、未だ多くの年を得ない程度の
>以前の話である。そうして武芸によって多数の人を苦しめ、また殺した故に恐怖して服装を変えた(僧になった)
>が、その習慣を改めることはなく小羊の皮をかぶって僧侶になったのだ。

>諸国を廻りアマンゴの王(尼子晴久)に対し反逆を行い、山口の王(毛利元就)の元に逃れ、釈迦より
>「汝を日本の宗旨を改革し、また内裏を往時の名誉、地位、権力、および富貴に復する道具となす」
>との夢想を得た、と称し、熱心を装って広くこの事を伝えた。

>彼が8年もしくは10年前、当地(京都)において一片の金襴を購入した事は、都のキリシタン等の記憶する
>ところであるが、彼は他の遠国に行き、各村落において、「これは内裏より賜った衣服である。
>記念品としてあなた方に分けよう」と言い、各人小片に対し、その資力に応じて、あるいは1クルザード、
>あるいは2クルザード等を彼に与えたのだ。彼はこれによって多額の資金を得、山口に寺院を建て数人の弟子を
>集めた。この頃他にも千種類もの詐欺を行い、悪行のため一つの場所に落ち着くことができず、
>シャンニンシウ(三好三人衆)が公方(足利義輝)を殺した弾正殿(松永久秀)を奈良の城(信貴山城)に
>囲んだ時、弾正殿の裕福なことを知って、窮地にあるが故に金銭を与えてもらえると思い、山口の毛利より
>弾正殿に宛てて『直に士卒を動員して赴き助けよう。三人衆が滅亡した場合は、日乗上人と称する坊主と協議
>するべし』と認めた書簡を得た。
(続く)
0568人間七七四年2014/11/01(土) 11:14:55.54ID:ZGG9ksDg
>しかしデウスの御裁断により、三年前、私が堺に滞在していた時、彼はそこにやって来たが、三人衆の間者が
>反逆の書簡と共に彼を捕らえた。
>彼は書簡のことは知らないと言いはったが、篠原殿(長房)は堺の寺院において厳しく鞭を打たせた。
>そのうちに山口より書簡が来て6,7千クルザードを送り、彼を赦免することを求めてきたが、篠原殿は
>これを受け付けず、マラバルのボレヤ(南インドの賤民)の如き、日本の最も卑しき民族である穢多に
>引渡した。彼らは死んだ獣類の皮を剥ぎ、また死刑囚の首を斬ることを職業としていた。

>摂津国西宮と称する地においてこの人々に彼を渡したが、首に鉄枷をかけ、手足は縛られ、動くことの出来ない
>状態で重罪者の牢に入れ、番人に彼に紙や墨を与えることを禁止させ、食料も大いに制限させた。
>彼は釈迦の作ったフォケキャウ(法華経)8巻を前に置いていた。

>私の記憶に間違いがなければ、篠原殿の用務を帯びてダミヤンをコシミネの城(越水城)に遣わした時、
>彼の偽善した神性を装う姿を見た。その後、私が牢の門を通過した時、アントニオは彼の入れられた厠に入って
>これを見た。ところが彼を捕らえた者は、悪魔の下僕であったために、毎日彼らの言うところの談合をなし、
>地獄において彼の苦痛を増すため首を斬ろうかと協議していた所が、彼の狡知により、内裏よりその赦免を
>求めるに至り、彼の死を希望する多数の異教徒の意向に反し、これを釈放したのだ。

>信長が再び公方様を立てるため上洛した後、内裏はこれもまた、不幸および貧困より興起する好機を
>得るべき時と見、この日乗上人を仲介者とした。同人の人間的知慮は彼に信長の寵を得させ、その後あえて
>その側を去ることはなかった。これによって彼は、悪魔の如き傲慢悪意の翼を広げたのだ。』
(日本耶蘇会年報)
0569人間七七四年2014/11/01(土) 11:18:17.54ID:ZGG9ksDg
実際はキリスト教国こそ奴隷貿易(日本人も多少は売られた)、海外植民、自国内でも残虐な異端訊問等々やってた。
鎖国は行き過ぎと思うが、宣教師追放を始めた秀吉は正しい
0570人間七七四年2014/11/01(土) 12:00:03.50ID:ZGG9ksDg
>ある時、細川幽斎が下人たちに命じて、庭に富士の山を模して作らせた事があった。

>しかしこの作業に下人たちはくたびれ果て、その内の一人が密かにその傍らに板を立て、
>そこに歌を書き付けた

>『殿はまた いらぬ事をはするかなる 富士の後ろは浅間なるもの』

>幽斎はこれを見て、さてさて奥ゆかしいものだと

>『我もまた いらぬ事とはおもへとも ふしか見たさにするかなるもの』
(幽斎公歌集)
0571人間七七四年2014/11/01(土) 12:02:54.92ID:ZGG9ksDg
細川幽斎はほんと文化に造詣が深く、奥ゆかしいな
それに比べて息子の忠興は・・・
0572人間七七四年2014/11/01(土) 12:06:16.50ID:ZGG9ksDg
忠興は大工が玉(ガラシャ)の姿をちょっと覗き見したというだけで首を刎ねるし、
さらに忠興の娘もその血を受け継いだようで
自分の思い人と逢引した侍女を酷い方法で殺したりしている
0573人間七七四年2014/11/01(土) 12:37:53.92ID:ZGG9ksDg
>関ヶ原で敗れた小西行長は大名の黒田長政の面前に連行された。
>同情した長政は内府(家康)に助命を請うか尋ねると行長は答えた。
>「私はもはや命を重んじていない。キリシタンの教えが禁じていなければ切腹するのは
>容易で私は自分の罪に対してどのような死を与えられようとも甘受する用意がある。
>私が貴殿に願いたいことは自分が告白するのに一人の司祭バテレンに会えるよう尽力してほしい」
(続く)
0574人間七七四年2014/11/01(土) 12:39:05.77ID:ZGG9ksDg
>黒田長政は内府の許可を得られるよう全力を尽くすと約束した。しかし、内府の家康は
>司祭との面会を許さなかった。バテレンの司祭たちはあらゆる手を尽くしたが、面会はかなわず、
>小西行長は処刑されてしまった。
 >家康はキリシタンの告白が何のことかわからず、何らかの欺瞞ではないかと思ったので、
>司祭たちに面会の許可を与えなかったのだ。
(イエズス会年報集)
0575人間七七四年2014/11/01(土) 13:43:17.27ID:ZGG9ksDg
家康だってキリスト教を危険視していたんだな
もっとも鎖国までするのは家康の意志に背くものだっただろうけど
0576人間七七四年2014/11/01(土) 15:38:07.18ID:eG5N+tlB
>『1606年の条

>(上略)…また、モンセニュール・ド・セルケイラは、公方(徳川家康)に謁見することがあって、これにより公方は
>宗教のことに関してますます寛大となられた。

>この司教、日本に到着して以来、迫害、内乱、そして公方によるこの帝国の統一と厳重なる施政の展開があり、
>この間、彼は長崎から動くことが出来ず、また自由に司教の職務を果たすことも出来なかったが、
>ここに至って事態が好転したことを認め、この国の主権者に拝謁する計画を立てた。

>エチアム(小笠原一庵為信)という朝廷(幕府)の重臣の一人はこれより前に、ポルトガル関係事務の監督官として
>長崎に派遣されていたのだが、司教に助力することを申し出、ついにその謁見の許可を得た。

>司教は多くの師父、及び法兄弟と共に直ぐに上洛した。大阪に至ってエチアムが用意した一艘の川船に乗り
>エドガワ(淀川)を上って京都にいたり、師父の家に宿泊した。
>大阪においても、またその途上においてもいたるところでキリスト教徒は群れをなして駆けつけ、司教に
>服従の意を表し、京都に至るときもまた同様にて、キリスト教は尽くその権利を回復せし観があった。

>モンセニュール・ド・セルケイラは司教の服を着け謁見のために出発したが、駕籠のまま宮殿の内部に
>入ることを許可された。これは最大の諸侯でなければ与えられない特権であった。
>公方自らも礼服を着用し、最も厚く司教を待遇した。
(続く)
0577人間七七四年2014/11/01(土) 15:39:47.47ID:eG5N+tlB
>次に、その平常の居城である伏見の宮殿、及び城と、京都の城(二条城か?)とを司教に見せるべしとの
>命を下し、また日本国中で最も壮麗である同地の諸寺院を見せた。

>司教はこの滞在を機として、キリスト教徒を最も厚遇している諸侯であり、君主の寵臣たるカンズケ殿(本多上野介正純)、
>及び京都の知事板倉殿(板倉勝重)に謁した。この両人は共にキリスト教の重要な保護者である。

>司教はまた甚だ多くのキリスト教徒に、堅信の秘跡を授ける機会を得た。
>帰途、豊前候エッツーン殿(細川越中守忠興)に、同国の首都小倉にて謁見したが、候は彼に、司教によるミサ聖祭に
>臨席する許可を求め、キリスト教及び宣教師に対する保護が決して覆ることがないと、司教に確信させた。

>また司教は後で、候自らもその心中においてはキリスト教徒であり、未だ神聖なる洗礼こそ受けられていないが、
>候を以って神霊上の子の一人と認めざるをえないと言われた。
>候が自らキリスト教徒であることを宣言し、かつ洗礼を受けることが出来ないのは、公方が諸侯のキリスト教に
>改宗することを禁じたために、その意に従わざるを得ないためなのだ、とも付け加えられた。』


>本多正純と板倉勝重がキリスト教の二大保護者だったり、細川忠興をキリスト教徒認定してたり、
>本国への報告のためか、どうも希望的観測すぎないかと思わざるをえない記録である。
(パジェー日本耶蘇教史)
0578人間七七四年2014/11/01(土) 15:41:43.99ID:eG5N+tlB
↑のようなものを読むと、この時代の宣教師は某国のようなことをやっていた気がする。
勝手に自分達の仲間に認定して
0579人間七七四年2014/11/01(土) 16:13:19.07ID:eG5N+tlB
>徳川家康は倹約を徹底したといわれているが、明かりに関しても同じだった。
>ある時には蝋燭は数本だけで残りは油火ばかりという徹底ぶりで日頃から
>家人たちも厳しく言われていたらしい。

>ある時、成瀬正成と松平正綱が急ぎの連署状を書くために坊主からわずか
>二、三寸の蝋燭を請い得て連署状を書き、その場を離れた。

>この時、二人はうっかり火を消し忘れた。見回りが蝋燭を見かけると
>坊主は呼び出され「上様が御覧になったらお咎めになるぞ。何故消さない」
>と叱られてしまった。

>「いや、これは隼人殿たちが…」と、坊主が説明しているところに消し忘れに
>気付いた二人が戻ってきた。

>「お前たち、消し忘れに気付いていたなら何故消さない」
>坊主はまた叱られてしまった。
0580人間七七四年2014/11/01(土) 16:16:32.77ID:eG5N+tlB
↑の話にも表れているように、家康の質素倹約は有名。
天下人なのに麦飯を食し
囲碁相手の商人の家に訪れた時白米を食っているのを見て叱ったぐらいだ。
その商人は「いや、あれは麦飯に豆腐の粕をかけて食べていたのです」と言い訳をしたら
家康は機嫌を直した。
(騙されやすいのかなw)
0581人間七七四年2014/11/01(土) 19:48:21.31ID:t9zojrCu
>『日本人イルマンがパンタリヤン(田原親盛・大友宗麟三男)の城に於いて説教を行なっていた時、
>豊後国の大身の一人の兄弟にて、名を式部殿と呼ぶ武士がこの場所にあって、ことごとく説教を聴き終わった後
>洗礼を受け、バスチャンという名を与えられた。
>翌日彼はパードレ・ペロ・ゴメスと日本人イルマン一人を伴ってその家に帰り、直ちにその妻と家族及び
>家人一同に説教を聞かせ、約80人に洗礼を受けさせた。

>また、このパンタリヤンの城において、偶然彼を訪問していた青年武士が一人キリシタンとなった。
>彼については特に報ずるべき事件が起きた。

>シマンと名付けられたこの青年は、説教を聞くと熱意に満ち、偶像を崇拝していた過去を恥じて、次の手段によって
>これを改める決心をした。すなわち洗礼を受けた後、その家に戻らず、直ちに領内の町村に行って、同所にある
>寺院に火を放ったのだ。

>この事は突然行われたので、坊主も俗人も驚き、火災が甚だしいため、住民は彼が豊後の王(大友宗麟)に叛いたか、
>あるいはその地が敵の手に落ちたものかと考えた。

>彼は領内にある、彼の父の兄の寺院に至ると人を遣わして、

>「私は既にキリシタンになったことにより、その領内における神仏の愚行を容認することが出来ない。
>しかしこの寺院は叔父上のものであるのであえてこれを焼却しないが、叔父上が自ら命じてこれを焼き払われる
>事を望む」 との旨を伝えた。叔父はこれに返答をせず、異教徒である親類及びその兵士とともにこの寺院を守る決意を固めた。
>この叔父の態度にシマンは大いに怒り、彼を殺すことを決心し、必ずその首を取ると言い放った。

>叔父は偶像崇拝の保護者たる親賢(田原親賢:大友宗麟の妻奈多夫人の兄。反キリスト教)に頼り事の顛末を
>伝えた。この事は神仏を守ることであると田原親賢はこの要請を引き受け
>「怖れるには及ばない!私自ら保護に当たろう!」
>と宣言した。それでも青年は叔父を殺す決心を動かさず、また田原親賢は既に約束した事によりこの叔父を守ろうとした。
>しかしその田原親賢の婿であるパンタリヤン(田原親盛)は、こと信仰に関することであるので青年に好意を寄せ、シマンの
>許に人を遣わして、この問題においては感情的にならず、道理によって処置すべきだ。もしその結果によってあなたに
>身の危険が迫ることがあれば生命をかけて防ぐ。そう伝えた。
(続く)
0582人間七七四年2014/11/01(土) 19:49:42.30ID:t9zojrCu
>その後パンタリヤンはパードレ・ペロ・ゴメスに使者を遣わし、シマンとその叔父のことは既に解決し、二人の裁判官を定め
>その正当と認める所に従うよう伝え、裁判官たちは田原親賢が約束を破棄し叔父を保護せず、またこれを臣下とせず
>国外に追放し再び入国することを許さず、その所領の半分を没収し、残りの半分はその子に与えると決定した。

>その後パードレはシマンがその家臣約2000人をキリシタンにしようと切望していると聞いた。しかし全員をキリシタンにすれば
>労役者が不足するので来れをするのは不可能であった。(キリシタンは労役義務を免除されていたようだ)
>シマンは信仰のことに甚だ熱心であり、たとえ世子(大友義統)が反対の命令を下しても、既に説教を聞いた上は
>必ず洗礼を受けると言い、ついにこれを受けた。』


>大友宗麟の時代の、豊後で起こったキリスト教絡みの騒動の一つである
(天正12年・日本耶蘇会年報)
0583人間七七四年2014/11/01(土) 19:51:46.16ID:t9zojrCu
大友宗麟の宗教マニアにも困ったものだな。
この人は敬虔なクリスチャンとかではなく
宗教マニア・オタクという感じだからな。
0584人間七七四年2014/11/01(土) 20:22:18.83ID:t9zojrCu
>伝え聞く、豊臣太閤秀吉は天文五年(1536)丙申の春正月朔日、丁巳の日癸卯の『時、尾張国
>愛知郡中 中村(中村は上下の三ヶ所あり)の民家にて生まれられた。その幼名を猿と言ったとか。

>異本に、太閤の幼名を猿といったのは、その面貌が猿に似ていたための異名であると記されている。
>これによって林堂俊も、秀吉を猿面郎と書いた。また異国より渡る雑書には、木に登ることを能くした故の
>名であるとある。

>しかし古を調べてみると、これらの説は全く信用することの出来ないものである。
>何故かといえば秀吉の面貌が猿に似ていたという事にはっきりした証拠はなく、たとえ彼が猿に似ていたとしても、
>父母の身として、子供を猿と名付けるようなことはしないだろう。
>その上猿に似ていたという書物も、そうなったのは成長した後だと書かれている。それならば幼少の時から
>猿に似ていたため父母に猿と名付けられた、という説に相違している。

>また木登りの誉れがあってその名を得たという話も、全く根拠のないものだ。推測すると、太閤は下賤の出身であると
>伝え聞いて、外国で作り上げられた浮説であるのだろう。
>この他外国の小説に、秀吉は呉越の間に居住していた書生であったが、科挙に合格出来なかったために日本に渡り、
>ついに和の首領となって天下を治めた、などと誠しやかに書いた異説もあるが、これらは皆、信用するに足らないものである。
(続く)
0585人間七七四年2014/11/01(土) 20:23:57.69ID:t9zojrCu
>また別の本に、秀吉はただ人ではない。彼の母が、日輪が懐中に入る夢を見て宿った子である故に、
>日吉と名付けられたと記されている。現在から見て、これは秀吉公が名を成した後、異国を攻められていた当時に、
>相手に渡された書簡にこの怪異が記されているのであるが、それを事実として信用していいものか。

>また一説に、秀吉公の家は山王権現(日吉大社)の氏子であり、神の御名を取り用いて、しばらく日吉と
>名付けられたが、何らかの理由で急に神の名を憚ることになり、そこで、猿も山王の愛されている獣であるとして、
>その名をお猿と改められたというのだ。
>なお、この説は私が伝え聞いたものなのだが、少しは本当めかしい話しである。

>まあ、ただ単純に太閤は申年の生まれであるので、父母もなんとなくその名をお猿と呼んでいたため、
>成人のあと、計らずもそう呼ばれたのではないか?
>それに本当に猿に似ていたかどうかも知り難い。
(関原軍記大成)
0586人間七七四年2014/11/01(土) 20:28:22.30ID:t9zojrCu
このように秀吉が本当に猿に似ていたということを示す一時史料は存在しない。
唯一「末世とは別にはあらじ木下の猿関白を見るに付けても」という狂歌があるが
この場合の「猿」というのも風貌ではなく、身分が低いというのを揶揄しただけという説がある。
0587人間七七四年2014/11/02(日) 09:05:27.14ID:ALv+9AUw
>尼子経久は領内各地で多くの勇士や腕が立つ者を募集していた。
>募集に応じて多くの者が集まり、皆腕を競い合った。
>その中に松吉、周りからは鬼吉と呼ばれる大男がいた。
>松吉は身分の低い百姓の出であったが、六尺五寸ほどの巨躯の持ち主で、鬼のように恐ろしげな容貌を持ち
>素手で木を引き抜き、槍を同時に五本振り回し、矢を十本同時にへし折るほどの怪力の持ち主だった。
>だが、その豪勇の割に無口で大人しい男であり、何を聞いてもまともに受け答えが出来なかったため皆からは馬鹿にされていた。
>経久はこの大男をとても気に入り武士に取り立てようとした。
>だが松吉は幼い盲目の妹がいることを理由に断ったため、経久は松吉に心ばかりと米俵を与えすんなりと帰させた。
>部下にはそれを咎める者もいたが、経久はよいよいと言い、小気味よさげに見送った。
(続く)
0588人間七七四年2014/11/02(日) 09:07:16.56ID:ALv+9AUw
>何年か後、経久は松吉のことが気になって部下に調べさせたが、既に亡くなったという非常に残念な報告が届いた。
>松吉が住んでいた周辺は完全に経久の勢力圏で戦もなかったため、どうしてあの豪勇の士が死んだのか
>経久は疑問に思い部下に松吉のことを再度調査をさせた。
>すると、松吉はその性格ゆえか村人達に非道な虐めにあって殺されたばかりかその亡骸は辱められ
>盲目の妹は慰み者にされたあげくに殺されたとの惨たらしい報告が届いた。
>豪勇の士を遇することを知らぬ者達のあまりの仕打ちに烈火の如く怒った経久は、即座に虐めの首謀者らを捕らえ打ち首にし
>その首を松吉の墓前に供えて霊を丁重に弔ったという。
0589人間七七四年2014/11/02(日) 09:08:34.67ID:ALv+9AUw
今も昔も「出る杭は打たれる」ことがあったんだね
0590人間七七四年2014/11/02(日) 09:39:06.32ID:ALv+9AUw
>駿河にて徳川家康が大久保彦左衛門と久々に会ったので四方山話を
>始めたことがあった。

>「関ヶ原の戦の後は世も静謐になった。
>まことに、わしにとってあの戦は死生の分け目であった。

>我が方は挟み撃ちにされそうになったが、敵は一戦に打ち負けて
>右往左往に逃げる有様は見苦しいものだったな。

>それに比べて我が方は命を惜しまず、功を争わずまことに潔いではないか。
>のう彦左衛門よ?」

>(なっげえ話だなあ)

>彦左衛門は長話にうんざりして帰りたくなった。
(続く)
0591人間七七四年2014/11/02(日) 09:40:39.67ID:ALv+9AUw
>「なるほど一溜りに敗北とは見苦しいですね。

>しかし上様が小山に御着陣の折、伏見より上方が敵だらけになった
>との報があった時は、上様の御顔も真っ青になり、諸将も妻子を取られたと

>聞いて顔を青くしておりましたが、太平となり青い御顔も元通りになられた
>ようですから、まことに御運強くめでたいことです」


>嫌味を言われた家康であったが笑って「彦左衛門はやく休め」と言って
>彦左衛門を下がらせた。
0592人間七七四年2014/11/02(日) 09:44:33.63ID:ALv+9AUw
あまりにも有名な三方ヶ原の合戦での家康の馬上脱糞(焼き味噌事件)。
あんな不名誉なことがなぜ抹消されず、伝わっているのかと不思議に思ったが
大久保彦左衛門が言いふらしたが故と聞いたことがある。
↑の話にもあるように、晩年の家康と彦左衛門は仲が微妙だったんだな。
0593人間七七四年2014/11/02(日) 10:21:11.45ID:ALv+9AUw
>黒田長政と後藤又兵衛は主従でありながら常に武勇を争い、
>先駆けて進んでいくために、従士らは帰陣するたび
>「やっと生きた心地がする」と言い合った。

>栗山備後、井上周防、黒田美作らがこれについて諌めたところ、

>「父上がおらぬ時は、倅の忠之を先手に出し、
>私は大将の威をもって重々しく旗本の側に控えよう。

>今は父上がご健在ゆえ、旗本に気遣う必要はない。
>私が先手へ出て討死しようとも、父上がおれば何も案じることはない」
>と長政は言ったという。
0594人間七七四年2014/11/02(日) 10:24:19.62ID:ALv+9AUw
しかし後に長政と又兵衛は仲違いし、又兵衛が追放され
最後は大坂夏の陣でまさしく先手に出て(濃霧で真田信繁と毛利勝永が遅れたこともあるが)
討ち死にしたことを考えると、何とも・・・
0595人間七七四年2014/11/02(日) 10:59:36.73ID:ALv+9AUw
>朝鮮役の時、黒田長政は全義館に在陣したことがあった。
>そのある暁に陣中が騒がしくなった。

>長政は「敵は早朝を狙って来たか」と思い、甲冑を着て楼に登って辺りを見回すと、

>大きな虎が馬小屋の馬を噛み殺して狂いまわっていた。誰も虎に近づけない
>ところ、菅政利が刀を抜いて立ち向かった。飛び掛った虎を引きはがして

>腰を深く切りつけた政利だったが、虎は前足二本でしっかと立ち、ますます
>猛り狂って政利も危なくなった。

>そこに後藤基次が助けに入り、眉間を切り割ると、二刀で虎は絶命した。

>一部始終を見ていた長政だったが、殊の外不興になり「一手の大将ともあろうものが
>大事の役を持ちながら、畜類と勇を争うとは不心得なるぞ!」と叱り飛ばした。
0596人間七七四年2014/11/02(日) 11:03:09.05ID:ALv+9AUw
↑は長政と又兵衛の仲違いの原因となった有名な逸話だが、
長政の器の小ささ、又兵衛のほうが一枚も二枚も上だったことがよく表れていると思う
たしか父親の如水も又兵衛のほうを買っていた(それがまた長政には面白くなかった)
0597人間七七四年2014/11/02(日) 12:09:24.80ID:ALv+9AUw
>ある時、春日局が急ぎの用あって夜中に駕籠を早めて登城した。
>その頃の春日局は飛ぶ鳥を落とすというほどの勢いであったから
>門番もあえて止めようとはしなかった。

>ところが平川まで来た時はそうはいかなかった。
>御供の者が「春日局様が急ぎの御用あって登城である。早く門を開けられよ!」
>と言うので番の者は責任者の大久保彦左衛門に仔細を伝えると、

>彦左衛門は臥したまま起き上がりもせず「この大久保彦左衛門が御番仕って
>おるからには春日殿といえど放置じゃ。そのように仰せられてもこんな夜更けに
>通すことはできませんとでも言っておけ」と言った。

>門番は(後で絶対問題になるよなあ…)と思いながらも仕方なく彦左衛門の
>言葉を伝えたところ、春日局は「もっともです。ならば男どもはここに残し、
>我ら二、三人の女だけで歩いて参ります。どうか御通し下さい」と懇願した。

>それでも彦左衛門は返事もせず、結局春日局は夜明けまで門外で待たされて
>しまった。あまりの扱いに春日局は泣いて徳川家光に訴えたのだが、家光は

>「お前の憤りはもっともなのだが、お前も知ってのとおりあれは不分別の
>強情者だから、もしもお前ではなくわしだったとしても必ず門を開けたかどうか
>わからん。あれと出会ったのは運がなかったと諦めてくれ」と言うので

>春日局もどうしようもなく泣き寝入りした。その後、彦左衛門を召し出した
>家光はなんとはなしに黄金と佩刀を与えたという。
0598人間七七四年2014/11/02(日) 12:15:29.75ID:ALv+9AUw
↑の話は大久保彦左衛門と家光の悪い話だ。
彦左衛門はこれじゃ緊急時にも「許可とってからでないと出動してはならない規則だから」と出動しない連中と同じではないか。
家康の脱糞を言いふらした件といい、晩年の彦左衛門はなんかヤな奴だな。

そしてそんな行動に褒美を与える家光もさすが
彼の死後に井伊直孝が「先君がご長寿であったら天下に大乱を招いた」と言っただけのことはあるw
0599人間七七四年2014/11/02(日) 14:11:04.82ID:PKGpkQRZ
>永禄12年11月8日、権大納言・山科言継は織田信長の居る岐阜へと下った。
>12日、岐阜に到着する。以下、言継の日記より

>「武井夕庵に澤路隼人を遣わした。夕庵は、『奏者の事は解りました。信長様は現在の京の状況をよくご存じないのです』
>というようなことを言ったそうだ。

>次に朝山日乗上人、坂井文介らに遣いを出した。文介は疲れて寝込んでいるということだった。

>日乗の宿舎に向かうと、門前でばったりと出会った。そのまま談合のような形になり、私の用件の
>あらましを語ると、日乗は「後で、かねて岐阜に下向している三条大納言(実澄)と話し合いをする
>用件があるので、ご一緒に同道しませんか?」と言った。
(続く)
0600人間七七四年2014/11/02(日) 14:13:38.66ID:PKGpkQRZ
>光雲の所で食事の振る舞いを受けた。それにしても今の美濃は、悪銭のために商売が停滞し、
>酒なども手に入らないのだという。

>三条亜相の宿舎を訪ね、稲葉貞通の所にいるのでそこに行って、信長と対面することを話し合った。」

>13日
>「まだ弾正忠(信長)に奏者を送っていないのに、今日鷹山からの帰りに、門前で出会ってしまった。
>そこで私が岐阜に来た理由を少し話した。その後、戌の刻(午後8時頃)に松井友閑が信長の
>遣いとして来て、私が岐阜に来たのは勅使としてか、それとも私的なものなのか、その立場を教えて欲しい
>とのことだったので、私的な訴えで来たのだと申し渡した。」

>14日
>「黄昏時になって弾正忠(信長)より、好斎、武井夕庵の二人が遣いとして来て、銭二千疋を贈って来た。
>信長からの伝言は『只今、京都の方のことは何も解らないので、この春過ぎの上洛の時に、知行の分配を行うよう
>申し付けるつもりです。ですので、先ずそれまでご堪忍をしていただきたい』とのことであった
>(只今者京面之儀、万事不存之間、春過上洛之刻、知行分可申付之、先其刻迄可堪忍之由被申之)
>その日は返事を出さず、夜半ばかりに宿所に帰った。それから先の好斎の所へ礼に行き、銭二十疋を遣わした。」
(言継卿記)
0601人間七七四年2014/11/02(日) 14:16:05.10ID:PKGpkQRZ
↑の話、美濃が悪銭のために商売が停滞しているところが意外で興味深い。
信長統治下の美濃は商売繁盛のイメージしかなかったから。
0602人間七七四年2014/11/02(日) 14:48:55.88ID:PKGpkQRZ
>加藤清正の家臣の中にキリシタンの若者が一人いた。朝鮮出征の最中にこの若者が気分を害する
>発言をしたため、清正は若者に切腹を命じたところ、キリシタンの掟は自害を禁じられているので
>若者は拒否した。すると清正は「切腹を拒むとは臆病と弱虫の証拠である」と言って、若者の胸を
>槍で貫くよう他の家臣たちに命じた。
(続く)
0603人間七七四年2014/11/02(日) 14:50:36.08ID:PKGpkQRZ
>若者は「私が朝鮮における数々の激戦で何ら恐れを知らなかったことは殿も御承知であります。
>しかし、今は反対に刀を捨て十字の印を天に捧げて、以前のような勇気を失ってしまったことを
>殿に知ってもらいたいのです。私は首を差し出しますので、お望みなら刎ね落として下さい」と答えた
>加藤清正は若者を処刑してしまったが、後になってその行いを後悔してこう言った。
>「キリシタンたちもまたその名誉を守るために戦うが、他の人々とは異なっている」
(1596年度イエズス会年報補遺)
0604人間七七四年2014/11/02(日) 14:53:41.05ID:PKGpkQRZ
↑の話、細川ガラシャの最期を思わせるところがあるが、
武士、特に戦国の世の武士とキリスト教は結局は相容れないのだな、と思った。

実際はキリスト教国で自殺率が高い国なんて普通にあるがw
0605人間七七四年2014/11/02(日) 15:36:41.11ID:PKGpkQRZ
>元亀二年(1571年)、九州大隅の国人である禰寝重長は
>摺ヶ浜で島津義久の軍と戦い激戦となった。

>戦いは苛烈を極め戦場のどこにいようとも安全とは言い難い状態となった。
>そんな中、時刻は昼時となった。

>すると長重は、いきなりその場に座り込み平然と昼飯を取り始めた。

>心配した家臣が、 「このような場所で危険です。おやめ下さい!」 と言うと、
>長重は 「古来より腹が減っては戦ができぬという。
>それにもし、飯の最中に命を落としてしまうならばその男は所詮それまでだったということよ」
>と答え、昼飯を食べ続けたという。
0606人間七七四年2014/11/02(日) 15:39:56.65ID:PKGpkQRZ
↑はどうも作り話っぽい。そもそも汚い話だが戦闘の最中は便意催しても垂れ流しだったというし。
それに握り飯なら座り込まなくても立ったままでも走りながらでも食えるだろ
0607人間七七四年2014/11/02(日) 17:13:06.16ID:o5DlY+lP
>関ヶ原戦役の時のこと

>中川宗伴(光重)は故前田利家の娘婿であり、当時上方にあったため、上方よりの情報を金沢の前田家に送った

>『今度上方一面に蜂起して、内府(家康)の味方する輩を討ち果たすべき為に国々へ手遣いあり。
>殊更丹波・丹後・若狭の軍勢数千人御領内宮腰へ兵船を進め、大谷刑部少輔(吉継)、諸将を帥いて、此の口より
>加州へ発向の用意夥し。御用心あるべし。』

>そのうちに金沢の安否をおぼつかなく思い、直接加賀まで向かったが、越前の今庄まできたところで大谷吉継によって
>捕まってしまった。

>吉継は宗伴に
>「其の方、何の用があって加賀に下るのか?」
>と尋ねると宗伴は、『あなた方に気をつけるよう警告するためだ』とは言えず

>「は、はい。今回(前田)利長が、内府の味方をするという風聞があります。私ごときが言うのもどうかとは思いますが、
>御幼君(秀頼)を見放される様でいかがなものかと思い、さればその考えを覆し、上方(西軍)の要求に従うべきだと、
>強く諫言するために加賀に下ろうとしたのです!」
(続く)
0608人間七七四年2014/11/02(日) 17:15:19.50ID:o5DlY+lP
>吉継、これを聞いて頷き
>「いかにも御辺の言うとおり、利長卿がもし父の遺言に背いて御幼君の秀頼公を見捨てられるのなら、彼の行末、
>どう考えても目出度い事にはならないだろう。願わくば先非を改められ、宇喜多秀家・毛利輝元と同じように、天下の
>御為を成して頂きたいものだ。

>もし御老母(まつ)を江戸においているため、一筋に御忠節を行うことが難しいというのなら、せめて金沢から
>動かず天下が治まるのを待っていても、前田の御家は恙無いだろう。
>それなのに利長卿は軍勢を率いて小松・大聖寺の城を攻め落とし、そこから当国に乱入するという声も聞こえてくる。
>もし風聞のとおりなら、偏に前田家の滅亡を招くものとなるだろう。
>例えその方があちらに行って、言葉を尽くして諫言しても、おそらくその甲斐はないだろう。
>…そこで、だ」

>吉継、声色を変えて
>「其の方、ここで私のいう通りにはかりごとの書を書き、利長卿の陣所に送れば、彼が軍勢を金沢に
>軍勢を引き返す事、疑いない。
>その上で加賀に人を遣わし、其の方の誤り無き趣、又は御亡父の志を継ぎ御幼君を守り立つべしと
>理を尽くして申し送れば、どうして承諾しないことがあるだろうか?これほど解りやすい理屈を、お主、
>もしこの書を書くのを辞退するというのなら、最前に言ったことは我々を欺くためのものだと判断する!
>そうでないのならさあ、今ここで筆を取れ!!」

>そう言って硯と料紙を出した。そんな状況で宗伴も断ることが出来ず、吉継の言うままに書をしたため、
>それを利長に送った。

>前田利長はその書を見て驚いた。間違いなく宗伴の筆跡であり、また彼は利長を謀るような人間ではない。
>それがどうしてこの様な内容の書状を送ってくるのか?
>利長は判断がつかず、弟の能登守、その他老臣達を集めて評議をさせた。
>そして、吉田保馬一人は反対したが、その他は全員、金沢に御帰陣あるべしと諌めたため、
>利長もそれを受け入れその日、軍勢を大聖寺へと後退させた。
(関原軍記大成)
0609人間七七四年2014/11/02(日) 17:21:28.04ID:o5DlY+lP
↑の話が本当なら、吉継のお蔭で前田藩は助かったとはいえないか
余りにも出来過ぎた話なのでにわかには信じられないが
そもそも戦国の使いはこういう場合に備えて
主君にしかわからないような暗号(スパイ映画でおなじみのようなやつ)を用意していたのでは?
0610人間七七四年2014/11/02(日) 17:55:36.78ID:o5DlY+lP
>元亀元年(1570)2月下旬、織田信長は近江常楽寺において相撲大会を開いた。
>この大会で宮居眼左衛門が一番の成績を治めたので、信長はその褒美として、秘蔵の重籐の弓を与えた。
>この弓は山城国伏見の、島田喜内という名人の制作したものであった。
>ちなみにこれが、勝ち相撲に弓を与えることの始まりとされる。

>ところがこの眼左衛門、その後相撲を取ることをぷっつりとやめてしまった。
>信長は不審に思い、その事を眼左衛門に尋ねると、彼はこの様に申し上げた

>「相撲というものは、強いものが必ずしも勝つというわけではありません。
>自分はたまたま勝利し弓をいただきましたが、次は打ち負け、この弓も別のものに取られてしまうかも知れません。
>そして次に弓を取った者が殿様に敵対し、それにて文字通り殿様に対しに弓をひくようなことになれば、
>せっかくの私の名誉は空しくなってしまいます。
>そう懸念するため、私は相撲を取らないのです。」

>信長はこの言葉に納得し、以後、褒美として弓を渡すことをやめたという。
(古今相撲大全)
0611人間七七四年2014/11/02(日) 18:00:30.61ID:o5DlY+lP
スポーツ全般がそうだが、たしかに↑の言うように相撲は勝ち負けが実力通りにならんことも多いな。
不滅の史上最多連勝記録でさえ双葉山の69連勝だし(ちなみに野球も似たとこがある)。
だから一発勝負で実力を測るというのは不合理といえば不合理。

ただ、今の大相撲では千秋楽のこれより三役の勝者に弓を与えるじゃないかw
0612人間七七四年2014/11/02(日) 20:05:35.46ID:o5DlY+lP
>天正二十三(1554)年三月十二日付けで、当時三十二歳であった隆元が、深く慕っていた一つ年上の竺雲恵心に送った有名な手紙。

>「恵心公宛隆元自筆書状」
>謹述胸念
>一、来世の善所(極楽)の事については、強く心に留め置いております。ですから、心の及ぶ限りに善根(善い行い)を積むように致したく思っております。

>一、娑婆(現世)については、果報は一つもないと見ておりますので、何を恨む事がありましょうか。これも前の世の報いと弁えておりますので、殊更思い悩む事もありません。

>一、私の一生は、先の易にも見えておりますから重ねて申し上げるまでもありませんが、私は無才無器量であるだけではなく、これは必然であるのかも知れません。

>一、我が家も、父・元就の代で終わりと見えます。
>私の代で家運が尽きてしまうのも因果の道理に従っており、これも必然の道理であります。

>一、他の諸家の有様については論じてませんが、この国も悉く変わりました。
>それは至って明白な事であります。
>また、そのような中で、当家だけがこの世に今日まで存続して居るのは不思議な事に思います。
>これは、偏に父・元就の信心の故と思います。
>私にはそのような信心がないため(原文:サノミハナキ習ニテ)、毛利の家運の尽きる時に当たり生まれたのだ、と思っております。

>一、当家は代々名を留めた当主が多いと言う中でも、父・元就ほど先代を超えた者はありません。
>ですから、私に才覚器量があったとて、到底父には敵わない事でしょう。
>私が形ばかりとて当主として存在していても、家臣や人の覚えは莫大の劣れがあり、況んや他国一円においては沙汰の限りではありません。
>一、その上、私には無才無器量に加えて良く補佐してくれる家臣もおりません(原文:家ニ無人候)。
>只今はこのように思っておりますが、ただ偏に父の一心の心遣い、心労によってこのような状況です。
>家に賢佐良弼もおりません。これは物事を見知る以前のことでしょうか。
(続く)
0613人間七七四年2014/11/02(日) 20:07:50.96ID:o5DlY+lP
>一、「灯火消えんとする時、光りを増す」の例えのように、家運もまさにこの時まででしょうか。
>この理は能く悟っておりますから、迷う事はありません。

>一、兎も角、今生においては十分に良く知っています。偏に来世安楽の念願は骨髄に染みております(原文:偏ニ来世安楽之念願骨随ニ染ミ候間)ので、お頼み申し上げます。

>一、右、私の心の内を申すままとしました。

>一、このように申したとて、国家を保つ事は努々(ゆめゆめ)油断なく、力不足と言えども、懸命にその心がけを果たす覚悟でおります。
>その次第については、少しも疎かにしないようにしております。

>一、右の心中については、胸の奥に納める覚悟であります。
>何れにしても、帰真の道理を覚悟するまでの事であります。

>一、盛者必衰 一、生者必滅 一、会者定離、此の理は悉く覚(さと)りました。
>一、天道満ヲカク、
>此の理を以って覚(さと)りました。


>右の理を更に深く理解せずに迷っておりましたので、速やかに分別して悟りました。
>誠に恐れ多いとは思いますが、確かに現世・来世の二世共にお頼みしたいので、私の念を残すところ無く申し上げました。重ねてお頼み申します。恐惶。

>天文廿三 三月十二日 拝進 恵心公
>足下
>タカ元(花押)
0614人間七七四年2014/11/02(日) 20:10:42.36ID:o5DlY+lP
確かに毛利隆元は父より早死にしたし、
毛利家は関ヶ原の合戦後に大幅に領地を削られたが
260年後に島津らとともに徳川に対して復讐を遂げたじゃないか。
0615人間七七四年2014/11/02(日) 21:18:47.37ID:o5DlY+lP
>(天正7年(1579)ごろの話だという

>羽柴秀吉が家臣を集め酒宴を開いた。このとき秀吉は非常な御機嫌で
>「我が家の弓矢の勢(家臣の数)も、昔と比べて随分盛んになったとは思わんか!?」
>と尋ねると、居並ぶ家臣たちは「ええ、3倍になりました!」「いやいや、5倍にもなりました」
>などと秀吉に和し、これに秀吉はますます機嫌よく
>「何を言うか!10倍になったわ!!」
>と大笑いした。

>が、ここで竹中半兵衛が声を発した。
>「いいえ、我が家の弓矢は昔に比べ劣りました。」
>水をさされた秀吉はとたんに機嫌を悪くし、半兵衛を問い詰めた
>「どういうことだ!?何故我が家の弓矢が昔より劣ったというのか!?」

>半兵衛は静かに語った
>「先年、宮田喜八郎(光次)が死んで以来、羽柴家の弓矢は甚だしく劣化しました。」

>「あ…」

>半兵衛は三木城攻めで討ち死にした羽柴家随一の勇者、宮田光次の名を出した。
>これを聞いた秀吉も、宮田のことを思い出し 「そうだ、半兵衛の申すとおりだ」
>と、嘆息を漏らしたという。
(名将言行録)
0616人間七七四年2014/11/02(日) 21:21:56.60ID:o5DlY+lP
この頃はまだ秀吉は自分の自慢話の腰を折る
他人のネガティブな発言にも耳を貸すことができたのか。
それとも発言の主が竹中半兵衛だったからこそか。
いずれにせよ、晩年までこのメンタリティでいてほしかった。
0617人間七七四年2014/11/02(日) 21:54:27.02ID:o5DlY+lP
>本能寺の変直前の、織田信長が徳川家康を安土に招いての饗宴の時の事である。

>この日、家康をもてなすため山海の珍味を残らず取り揃え、その上に能を
>梅若太夫に申し付けた。そして舞は幸若太夫に申し付けた。

>この幸若太夫の舞を徳川家康は殊の外喜んだ。これを見て信長は
>「ではもう一番舞わせよう」 と、すでに幸若が下がっていた楽屋へ使いを立てた。

>戻ってきた幸若は『和田酒盛り』を舞った。これは最初の舞より更に素晴らしい出来であると
>信長も絶賛し、彼に金子百両、帷子五十を遣わした。

>梅若にも同様の御音物が遣わされたのだが、梅若のその日の能は大変不出来で、
>2度に渡りど忘れをしてしまった。

>信長は後から腹が立ったのか、饗宴が終わってから梅若の泊まる宿に
>「お前のその頸を刎ねてやる!!(其頸を可被成御刎)」
>と、わざわざ使いを送ったそうである。
(川角太閤記)
0618人間七七四年2014/11/02(日) 21:59:38.00ID:o5DlY+lP
まず家康が舞をそんなに喜ぶというのが意外といえば意外。
家康はあまりそういった芸能鑑賞の趣味は無かったと思ったから。

それからこれは有名なことだが、信長の前で何かをするというのは命懸けだったんだなw
京風の料理を信長に作ってさしあげ、味が悪いという理由で打ち首になりかけた料理人といい
(京風は薄味、信長は濃い味付けが好み)
0619人間七七四年2014/11/03(月) 09:59:15.93ID:ZlMuGJ15
>慶長5年(1600)筑後の黒田如水の元に、小西行長の居城、宇土城を開城させた加藤清正が訪れ
>如水と軍評定を行い、薩摩に攻め込む軍略を話し合い、先ず清正を先に立て、肥後を通って
>薩摩との境、浅敷・水俣・湯ノ浦に軍を集結し、不日に薩摩に攻め入るべし、といった内容を
>確認し合った。

>この時黒田如水の軍勢は、彼が挙兵した頃にはおよそ9千。1万に足らないほどであったのだが、
>熊谷内蔵充、筧和泉守、福原右馬充、太田飛騨守、毛利民部大輔、毛利壱岐守など西軍の将の配下たちを
>望み次第に抱え、その他筑前、筑後の牢人たちが、我も我もと馳せ加わったため、今や事々しい
>大軍となっていた。その上加藤鍋島も幕下に属し、如水も「この上はどんな望みでも叶う」と
>面白く思っていた所、子息甲斐守(長政)より急な使者が届いた
>使者は如水の前で報告する

>『今度天下分け目の決戦、内府公(家康)勝利を得られ、石田治部少輔は一戦に打ち負け、
>敗北し伊吹山中の民家において生け捕り。大谷刑部少輔は戦場を去らず自害。小西・安国寺は
>どこどこにて生け捕り。すなわち大路を引き回され、三条河原にて獄門にかけられました。

>毛利輝元・金吾中納言(小早川秀秋)は甲州様の御計略を以って裏切りをなさったため、御国御安堵。
>さてまた美濃、神戸川、また関ヶ原では二度、甲州様はご自身でお手柄をなさいました。
>この事やいろいろな方面でのお働き、内府様へのご忠節、人に超えたものである故、内府様も
>甲州様の意向を聞かずに何事も決めないと、いかにも入念に語られました。

>この上は天下静謐になりましたので、九州での弓箭(合戦)はお止めください。』
(続く)
0620人間七七四年2014/11/03(月) 10:01:12.72ID:ZlMuGJ15
>これを聞いた如水はしたたかに腹を立てて怒鳴った

>「さてさて甲斐守、いくらまだ若いとは言いながら、なんと知恵のないことだろう!
>天下分け目の合戦とは、そのように急いでやるものではないぞ!
>何としてでも長引かせ、牢人に口過ぎをさせ、方々にて合戦があれば敵味方ともに、もし歳が行っていれば
>老年の慰みとなるよう、若者は、老いてからも人として生活できるよう、武功を立てさせるように
>させることこそ、人を引き回すものの役目である!

>それなのに、今の状況で天下が治まっては、我が軍に集まってきた牢人たちは餓え死にしてしまう!
>しかも集まってくる牢人は、一日一日増えているのだぞ!?
>全く以て、物を知らぬ日本一の大たわけは、甲斐守である!!
>どうしてそんな忠義立てをして、あれをくり分け、これに裏切りをさせ、それほど急いで家康に勝たせて、
>一体何の利益があるというのか!まったく残念大き事である。上方が治まってしまった上は、
>もはや是非に及ばず。」

>そう言うと不機嫌な表情のまま、中津川の城にすごすごと引き上げた。
>表向きはこの様であったが、その内意については計り難いものであった。
(古郷物語)
0621人間七七四年2014/11/03(月) 10:04:15.52ID:ZlMuGJ15
黒田官兵衛は優秀な戦略家・戦術家ではあった(秀吉が「わしの死後官兵衛が天下を取る」と
冗談で言ったほどだ)が、この時は先見の明が無かったのか
0622人間七七四年2014/11/03(月) 10:39:57.78ID:ZlMuGJ15
>牧野成里というややこしい経歴の武士がいる。
>その経歴の複雑さはhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5455.htmlここにも出ているが
>それがどんなものであったか書いてみよう

>成里の父、牧野某は尾張国毛呂崎城(現愛知県知多郡南知多町師崎)の城主であった石川筑後守と、
>囲碁の事で論争におよび、ついにこの石川に殺されてしまった。享年29歳であったという。

>この頃成里は未だ幼少であり、父の旧臣らによって育てられ成長し、元亀二年(1571)に至って父の敵を討とうとするが、
>石川筑後守はすでに年老い、家督を息子の隼人佑に譲って隠居していた。そして筑後守は成里が父の復讐を
>しようとしている、という話を聞き及び

>「壮年の隼人佑が家督を継いでいるというのに、老衰の私を狙うなどとは、まさしく勇気の無い行い様である!」
>と嘲り笑った。このことを今度は成里は伝え聞き、

>「筑後守は正しく父の仇であり、だからこそ今まで彼の命を狙っていたが、そういう事であるならこの上は
>隼人佑を討つべし!」として年月を送り、大野宮川の狩場においてついにこれを討ち果たした。
>この時隼人佑の家来たちが成里たちを追ってきたが、かねてから牧野成里の敵討ちのことを知っていた
>滝川一益が兵を出してこれを救け、伊勢長島城に迎え入れた。
(続く)
0623人間七七四年2014/11/03(月) 10:41:28.46ID:ZlMuGJ15
>そののち、滝川一益が没落すると織田信雄に仕え、また所縁があったために長谷川藤五郎秀一に属し、
>文禄元年(1573)朝鮮の役に長谷川家の一員として従い、長谷川秀一が陣中において没した時、
>豊臣秀吉が
>「長谷川秀一の軍勢を預かるべき者は誰が良いか?」
>と諸将に尋ねると、皆が牧野成里こそ然るべきと推薦したため、成里は秀吉の命令で長谷川家の軍配を預かり
>士卒を下知して各所で軍功を立てた。
>帰国の後豊臣秀次に仕えたが、秀次事件の後、石田三成に属した。

>慶長5年(1600)の関ヶ原の役において三成が敗亡すると、郎党十余人を従え包囲を突破して
>池田輝政のもとに逃げ込んだ。
>輝政は徳川家康にこのことを報告し、成里を扶持した。
>この時彼は剃髪し名を一楽斎と改め、輝政の領国播磨に暮らした。

>やがて寛永8年(1631)の徳川秀忠の上洛の時に、伏見において仰せを被り江戸に下向し、秀忠の御前に召されて
>還俗して再び名を傳蔵と改め、下野国梁田郡三千石の旗本と成った。

>牧野成里の、非常にややこしい履歴についてである。
(寛政重修諸家譜)
0624人間七七四年2014/11/03(月) 10:44:21.41ID:ZlMuGJ15
この牧野成里というものは知らなかったが、水野勝成並みに戦国の世を体現した武士だったんだな。
太平の世なら悪い話だが、戦国の世では賛否両論だろう
0625人間七七四年2014/11/03(月) 11:19:01.43ID:ZlMuGJ15
>柳生宗矩が剣術仕合について話しているのを傍らで聞いていた
>大久保彦左衛門は突然「但馬殿、仕合を致しましょう」と言い出した。
>宗矩も断る理由がないので仕合の日を約束した。

>当日、宗矩は庭に砂を蒔き、仕合の用意をして待っていた。

>そこに彦左衛門がやって来たのだが、彦左衛門は甲冑を身に付け、直槍を持った
>物々しい出で立ちで、宗矩の方へ行って小さい砥石を取り出し、槍の穂先を研ぐと
>「但馬殿、いざ参らん!」と言った。

>困惑した宗矩が「これは一体どういうことです。
>そのようなお姿では仕合はできません」と言うと彦左衛門はこう言った。

>「それがしはいつもこのようにして仕合を致しております。
>このように庭に砂を蒔いて所で、竹に皮袋をはめ、木の先に毛毬のようなものを
>括り付けて人と仕合を致したことはありませぬ。

>それがしはいつも山や田の中、畠の畷のような所で仕合を致して参った。
>しかし、このような庭で致しても一向に構いませぬ。さあ但馬殿、いざいざ参らん!」

>当然、宗矩は仕合?を断ったという。

――『名将言行録』
0626人間七七四年2014/11/03(月) 11:22:11.30ID:ZlMuGJ15
↑の話読むと改めて大久保彦左衛門の性格の悪さを感じる。
しかし見方を買えれば戦国武将と剣豪、今でいえば軍人と格闘家の
根本的な考えの違いを表しているともみれる
0627人間七七四年2014/11/03(月) 11:57:14.25ID:ZlMuGJ15
>鴫野の戦いの時、上杉景勝は敵の大軍を破って勝利した。
>この時、軍監を務めていた小栗忠政は、徳川家康の陣にやって来て、
>戦の次第を伝えると御次の間に退いた。

>そこで忠政は戦の時の話をし始めた。

>「今日の戦で敵を追い討ちする絶好の機会があったゆえ、
>景勝にすすめたのだが、もう日暮れだといって聞き入れなかった。

>しかし、残った敵も多かったゆえ諦めきれず、直江に兵を貸せ、
>わしが行くと言ったのだが、これも同じ様なことを言って断られたわい。
>さてさて、残念なことじゃ」

>…と言っているところに家康が入って来た。忠政の声がよほど
>大きかったのか、家康は話をすべて聞いていた。

>「やい、又一。お前の身分で景勝の指揮を非難するはいらざることぞ。
>このたわけ者め!」

>主に厳しく咎められて、流石の忠政も平伏して恐縮した。

――『徳川実紀』
0628人間七七四年2014/11/03(月) 12:00:20.45ID:ZlMuGJ15
↑の話から判断すると、家康って案外地位にこだわる保守的な人だったのかな?
相手の地位に関わらずいい意見ならどんどん耳を傾けた信長や秀吉と異なって
0629人間七七四年2014/11/03(月) 13:45:13.60ID:VWxejr8+
>黒田如水は関ヶ原の後、徳川家康へのお目見えのため上洛し京都狼谷に宿泊していたのだが、
>その宿舎には諸大名たちは言うに及ばず、越前中納言様、当時は三河守(結城秀康)からは、
>日々御使者が送られ、度々自身御見舞され、懇ろに饗すという、類少ない扱いであった。
>その他徳川家の御旗本衆、御近習、外様衆、更には牢人衆など、訪問者が門前市をなすありさまであった。

>こういった状況を心配したのが、久しい如水の友人である山名禅高(豊国)であった。
>彼は如水を尋ねるとこの様に忠告した

>「諸大名衆が色々と訪問する場所がある中、あえてここに参られるというのは、一体何の御用があるのか?
>人目を避けて夜から明け方まで御密談なされているという。
>牢人衆の事も、一体どんな理由があって、ここに大勢入れ込まれているのか?
>特に三河守殿に関しては、3日と開けず御使者を使わされ、ご自身による御見舞も度々のことだという。
>私がその場にたまたま居合わせた時に見たが、三河守殿はまるで親を崇めもてなすように
>心がけられていた。その様なこと、家康公にとってお気に召すはずがないではありませんか。

>ご存知のように内府公は単純な人ではない。いかにも親しい体の出入りの衆の内に、内府公の横目(監視役)も
>きっといるだろう。きっと内府公は、如水は面倒な相手であると思われていることでしょう。
>それでは立場はどんどん悪くなり、さらにもっと大事を引き起こすと考えます。

>現在、筑前守殿(黒田長政)の幸福は極まっていて、当代肩を並べる人も稀な程です。
>ご自身の様子、人からの評価、内府公からの信頼、今の日本において彼よりも幸福な人は2,3人も
>居ないでしょう。そうであるのに、貴老のそのほうな、現在の御作法では、筑前殿のためにも
>然るべからざるものでありましょう。
>ここは、同行させてきた家臣も大方国元に返され、病気療養として静かに在京されるべきでしょう。

>天下が治まったというのに、『未だ治まらず』と、徳川家の御旗本が警戒しているのは、大方
>貴老の事を念頭にしている事であると、世の中では申し散らしている。無論邪推ではあるが、
>天に口無しとも言い、猶以て警戒しなければいけないことです。

>真偽は知りません。ですが醍醐・山科・狼谷・六地蔵・宇治・その他京に近い在家に牢人であるとして、
>侍たちが方々に居住しているが、これは如水が隠し置いている人数であると、もっぱら噂されています。
>返す返すも大変なことだと思う。あなたはこれについて、その様に見られている事への御覚悟を
>持っているのか!?」

>このように繰り返し繰り返し意見した所、如水は言った
(続く)
0630人間七七四年2014/11/03(月) 13:46:50.30ID:VWxejr8+
>「禅高、よく聞いて欲しい。もし私が、家康の天下を奪おうと思っていたなら、関ヶ原の折
>九州において数ヶ国討ち取り、島津だけが手に入っていないは国境まで押し詰めていた。
>あの時彼らを蹴散らすにしても味方に引き入れるにしても、さほど時間はかからなかったであろう。
>そうして九州を掌握した上で甲斐守(黒田長政・当時)を引き取り堂々と、家康に敵対するという
>我らの方針をはっきりさせて、当時中国地方、備前、播磨は空き国であったし、我々には
>2万余の人数があった。これを以って陸海を押し上がり、道中牢人や侍たちを吸収しつつ、
>内府との出会い次第に合戦を行えば、天下が私の掌中に入った、ということもありえただろう。

>だが、私は老体でもあり、何の望みもなかったために、討ち取った国を捨て、下鞘一つで上洛したのだ。
>特に筑前守は大国の主になったので、心安く養われ、後は後生に願いをかけているだけの状況である。
>そんな私に何の用心、何の気遣いがあるだろうか!?
>あなたの言ったような風聞には、このたわけ共はそんな事を言っていると聞き流し、真実とは
>考えないでいただきたい。少しでも私のことを知り、会話をしたことのある人間なら、
>その様に思うことはない!」

>そう、扇で畳を叩き、まったく取り付く島もない有り様で主張したので、禅高も呆れてしまい
>もう何も言わなかった。

>やがて禅高の言ったように、京大阪の牢人に対する取り締まりが厳しくなったが、徳川家の
>老中のうち黒田長政と特に親しいものより密かに連絡があったため、如水と親しい牢人たちは
>俄に取り散ったという。
(古郷物語)
0631人間七七四年2014/11/03(月) 13:51:04.19ID:VWxejr8+
天下分け目の戦いの動向についての予想は見事に外してしまった如水だったが
その後の保身は見事だったんだな

下手すりゃ切腹ものだったんだから
0632人間七七四年2014/11/03(月) 14:52:35.94ID:VWxejr8+
>ある日、南光坊天海が江戸城で語った。
>「最近『甲陽軍鑑』という本を読んだが、上杉謙信が武田陣に乗り込み、武田信玄は謙信の太刀を軍配で請けた
>と、書いてある。ありゃ、ウソじゃ。

>わしは、あのころ会津不動院に住しておったが、武田家に祈祷師として呼ばれる事があった。
>天文23年(1554)8月、わしが甲州へ檀那廻りに行くと、信玄公は信州で上杉と対陣との話。急いで川中島へ
>向かい、8月17日、信玄公と対面かなった。信玄公は機嫌良く会ってくれたが、

>「一両日に輝虎と合戦に及ぶであろう。ひとまず御坊は会津に帰り、来年ゆるゆると甲斐に来られよ。」
>と、さっさと追い出されてしもうた。

>わしも一度は帰路に着いたが、「出家の身が、大檀那の大事なる戦を聞き捨てにして去るとは、道理に合わぬ」
>と思い直し、夜通しかけて立ち戻り、翌18日の合戦を、近くの山に登って眼下に見届けた。
>両大将は御幣川に馬を乗り入れ、太刀にて一騎打ちに及んだが、敵味方入り乱れるうち、退いて行ったわ。

>その夜、わしは信玄公の陣小屋へ見舞いに行った。信玄公は手負い、壁に寄りかかっておったが、
>「御坊は帰られたと思っていたわ!」と喜んで迎えて下さった。
(続く)
0633人間七七四年2014/11/03(月) 14:55:27.71ID:VWxejr8+
>それを受けて、わしも
>「源平の合戦以来、大将の太刀打ちなど、聞いた事がありませぬ。古今に無きお手柄にございますぞ。」
>と褒めたが信玄公は、にわかに顔色を変え、

>「輝虎と太刀打ちしたのは、わしでは無い。知らぬ者は信玄と見ただろうがアレは、わしに似せた法師武者よ。
>わしでは無いので御坊、奥州に帰られても、左様な話は無用ぞ!」
>と怒られた。が、わしは近々と見たのじゃ。なかなか見間違えるハズも無し。」

>話を聞いていた横田尹松が尋ねた。
>「わしも謙信公の太刀にての斬り掛けに、信玄公は軍配で受けた、と聞きましたが・・・」

>「しゃっ!甚右衛門は生まれてもおらぬ時の話の、何を存ずるか!?わしは直に見たのじゃ、両大将の、
>騎馬にて川に乗り込んでの太刀打ちをな。わしが45歳の時の話じゃ、間違いない。」
(上杉将士書上より)
0634人間七七四年2014/11/03(月) 14:58:11.97ID:VWxejr8+
>>632-633の話、自分もあの信玄謙信の一騎打ちはフィクションだと思うが、
この天海の聞かせた話フィクションだと思う。
一体天海何歳まで生きたことになるんだよw
0635人間七七四年2014/11/03(月) 15:51:15.82ID:VWxejr8+
>天正10年(1582)、明智光秀は本能寺で主君織田信長を滅ぼすと、三宅式部を京都所司代とし、洛中洛外の
>地下人に金銀を下し、地子銭(固定資産税)の永代免除を発表した。
>これに京都の人々はみな有難く思って喜び合い、禁裏よりは久我宰相・土御門少将を勅使として、地子銭免除が
>叡聞に達し叡感を得られた旨を伝えられた。

>6月10日の未明、明智日向守光秀は参内し、久我宰相を通して金子五百両、白絹百疋、
>綿五百把を献上。そして奏上して曰く

>「私は奸心によって信長親子を害し、不慮に天下の政道を掌握しましたが、これは天の許さないところなのでしょう。
>それ故に今、朋輩であった羽柴筑前守秀吉が中国より馳上り、諸勢を尼崎に集結させていると報告を受けました。
>きっとここ両3日の内に、洛外において山河を動かすほどの戦いをし、私は討ち死にをするのだと思い定めております。

>今日は、今生のお暇乞いとして帝の龍顔を拝し、忝く思い奉ります。」

>これに久我宰相は天意を承って、答えた

>「戦の勝敗は、朝廷の関知できることではない。
>しかし地子銭免除は洛中洛外の永代の厚情であり、その積善は後世の子孫にまで及ぶだろう。」

>これを聞いた光秀は忝なさのあまり落涙して退出した。

>光秀はその他に仙院、女院、三公、九卿、百司、女官等まで尽くに金絹を献呈した。
>これこそ死後までの栄華であると、その頃言われたのだという。
(増補筒井家記)
0636人間七七四年2014/11/03(月) 15:55:15.54ID:VWxejr8+
>>635の話はいい話として紹介されているようだが、
この緊急時にやることではないと思うな。
さすがに秀吉があれだけ早く来ることは想定外だったとしても
謀反人の自分を主君の敵討ちとして多くのものが狙ってくるのはわかりきっていたはずだから、
もっと軍事に集中しろよ・・・
と自分も思うし、海音寺潮五郎も書いていた。
0637人間七七四年2014/11/03(月) 16:49:55.68ID:VWxejr8+
>大坂の陣にて、塙直之が蜂須賀至鎮に夜討を仕掛けた時、
>至鎮の家臣、稲田九郎兵衛は十五歳にして大功を立てたので
>徳川家康から感状を下された。

>この時に家康が近臣に向かって曰く、

>「子に名前をつける時はきちんと考えなければならないな。
>九郎兵衛はわずか十五だというのに、無闇に大人らしい名前を
>つけるから散々なことになる。

>何丸とか何若とかつけておいたなら、今度の働きも珍しいこととして
>評判になるだろうに。いやー、惜しい惜しい。皆もよくよく心得ておけよ」

――『徳川実紀(天元実記)』
0638人間七七四年2014/11/03(月) 16:52:57.53ID:VWxejr8+
>>637の話、途中までは悪い話というか家康の言いたいことがわからなかった。
子供らしからぬ大功を立てたのにその子供らしからぬ名前に苦言を呈されるなんて
どういうことだ?と。
しかし最後の2行でどんでん返し、意味がわかった。
0639人間七七四年2014/11/03(月) 20:12:44.81ID:Unc3epob
>天正10年(1582)3月14日、信州浪合に駐屯していた織田信長のもとに、武田家滅亡の知らせと勝頼の首が届いた。
>信長は喜んで勝頼の首に向かい、

>「うぬが父、信玄入道以来の積悪によって、うぬは信玄の死から時を経ずして滅亡するハメになったのよ。
>しかし、かかる小せがれめに多くの将士を討たれしこと、くやしゅうてならぬわ。
>・・・よし、うぬら親子は上洛を望んでいたと聞く。望み通り、その首を都の大路にさらしてくれるぞ!」

>そう言うが早いか床机から立ち上がり、勝頼の首を蹴飛ばした。

>見ていた近習の竹中重矩は、たまらず隣にいた後輩の細川忠興に話しかけた。

>(アレは、今回の御征討が始まって百日もせぬうちに大した苦もなく取った首ゆえ、あのような真似を
>されるのだろうか?普通は、大将首なら首実検をするものだが・・・)

>(うむ、そうだな。ならばその旨、信長様にご注進いたそう。)
>(やめておけ、あの御景色では聞き届けていただけまい。益なき事ぞ。)
>(それもそうか。)


>「・・・それから百日もせぬうちに、信長様は本能寺に果てた。ゆえに、大将首は丁重に実検せねばならんぞ。」
>細川忠興は、のちに家臣たちにそう言ってきかせた。
(綿考輯録)
0640人間七七四年2014/11/03(月) 20:16:14.41ID:Unc3epob
>>639のような祟りの話、平清盛が東大寺大仏殿を焼いた報いとして
恐ろしい熱病(かけた水が蒸発するような体温になったら即死だってw)にかかったというのと同じで
自分は信じない。
単なる偶然だろう。
0641人間七七四年2014/11/03(月) 20:19:07.02ID:Unc3epob
信長と対照的に家康が勝頼の首に対して
「さぞご無念であったろう」と丁重に扱ったという話も有名だが
それも自分は信じない。
江戸時代に神君家康として崇められる中で捏造された創作だと思う。
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