戦国ちょっといい話34
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0001人間七七四年
2012/08/10(金) 04:43:55.95ID:ZfC0qa9S戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1340096330/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1339809373/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0853人間七七四年
2012/10/10(水) 01:23:24.23ID:Rb3K20Cz0854人間七七四年
2012/10/10(水) 01:55:58.98ID:D+VVUjpm0856人間七七四年
2012/10/10(水) 02:32:54.66ID:+LtVpcB6光成を捕らえて突き出したのは農民ってか農村文化の悪い面がでたかも・・・
0858人間七七四年
2012/10/10(水) 02:42:55.84ID:+LtVpcB6誤字失礼
友人であるならお上に突き出さない文化というか共同体もあれば、
共同体のために人身御供を出す文化もあるじゃん
そりゃ同じ共同体に育っても個人で考え方や性格の違いもあるけどね
0860人間七七四年
2012/10/10(水) 09:35:55.94ID:GWfFz1Trあの状況じゃ仕方ないんじゃないのかな〜
0861人間七七四年
2012/10/10(水) 09:37:50.98ID:cBiiaKz2風流を解せぬお方じゃ…
0862人間七七四年
2012/10/10(水) 11:16:12.51ID:wlTnMlnqきっと祭りになったら人一倍はしゃぐ
0863人間七七四年
2012/10/10(水) 11:26:40.44ID:2k798HK/→実質西軍総大将だし絶対に不可能。
2、家康に三成は賊将だけど、自分の恩人なので菩提を弔う為に寺を建てる許可を貰う。
→寺は無理かもしれないが、墓建てて弔う事くらいなら許されたかも。
3、家族を家康に内緒で匿う。
→バレると処罰されるので、歴史の闇に埋もれ逸話にならず...
恩人に対して2くらいはしてもいいような気がするけど
0865人間七七四年
2012/10/10(水) 17:57:01.27ID:N7aukXBa世間から変に誤解されてるしこのスレで挙げられたエピソードが使われるといいな
0866人間七七四年
2012/10/10(水) 18:03:11.03ID:i8YO2FRx0867人間七七四年
2012/10/10(水) 18:10:35.77ID:eXs0vwEgしかも争わないんです。
0868人間七七四年
2012/10/10(水) 18:14:23.92ID:GWfFz1Tr0869人間七七四年
2012/10/10(水) 19:45:26.49ID:YARdXBCH……まあ天地人もキャストを見たときは同じ感想を抱いたんだが
0870人間七七四年
2012/10/10(水) 19:47:27.07ID:JWHMPgU7黒田長政が小早川隆景と語った時の事。長政が訊ねるに
「人はあなたを天下の分別者だと言います。分別とはどのようなものでしょうか」
それに対する隆景の答えは
「分別というのは知恵のことで、知恵をもって色々なことに個別に対処することを言います。
そして世の中広しと言えども、あなたの父・如水殿ほどの知恵を持った人はいません。
私も知恵では如水殿には到底及びません。父上の言行を学ばれたら、あなたは天下の分別者になれるでしょう。
しかし、世上が私を分別者と言い、如水殿の事を言わないのはなぜかと言えば、それもまた如水殿が無二の知恵を持つからです。
如水殿に何か相談すれば、速やかに事の善悪を分別し、これはこれと最も良い配慮、判断を下してくれるでしょう。
その判断に聞いた時、例えば秀吉公のように聡明な人には、その分別の正しさを汲みとる事ができるでしょうが、
大抵の者はその分別の速さ深さについて行けず、大丈夫だろうかと無用の不安や不信に駆られてしまうのです。
私などは愚鈍なため、当座に決めたことについても今一度思案してから相談するという具合なので、
却って分別者のように思われているだけで、如水殿の速やかな決断と比べたら劣ることばかりなのです。
分別者になりたければ、如水殿の知恵を学び、分別者と呼ばれたければ、即断する前にひと思案されると良いでしょう」
長政はさらに訊ねた「では分別に肝要の事というのはありますか」隆景は答えて、
「分別の肝要は仁愛です。万事を決断するのに、仁愛を持って分別すれば、思慮が外れてもそう大きくは間違いません。
仁愛なき分別はいかに才知が巧みであってもみな誤りです。」
0871人間七七四年
2012/10/10(水) 20:06:59.45ID:oMCukF1a0872人間七七四年
2012/10/10(水) 20:09:02.15ID:qwbksDWg0873人間七七四年
2012/10/10(水) 20:15:23.33ID:KYIRVEUV数学教師には頭いい人より、頭が悪いにもかかわらず高学歴な人がいいと聞いたが
そんな感じかな
0875人間七七四年
2012/10/10(水) 20:23:53.46ID:Xu+hTzNB気がするw
0876人間七七四年
2012/10/10(水) 20:34:33.08ID:1+j4CPym「うちの夫は答えは分かるんだけど過程が説明できないのよ」
って言ってた話をどこかで見たのを思い出した。
問題を見ると答えだけポーンと頭に浮かぶらしい。
とりあえずあの人の頭はレスポンス良すぎて誤操作誘発してそう。
0877人間七七四年
2012/10/10(水) 20:49:49.64ID:2k798HK/長政「あなたの父・元就殿ほどの知恵を持った人はいません」
0878人間七七四年
2012/10/10(水) 22:04:44.53ID:aN7oTPW/0879人間七七四年
2012/10/11(木) 01:15:14.03ID:lmSaCmml0880人間七七四年
2012/10/11(木) 02:13:20.80ID:1FncheTp0881人間七七四年
2012/10/11(木) 02:58:18.17ID:wnewuAgD0883人間七七四年
2012/10/11(木) 07:36:13.28ID:brrbDoes言ったって奴でしょ?三成の秀次事件への関与自体諸説あるので、単純に事実といっていいものやら。
0884人間七七四年
2012/10/11(木) 14:57:16.93ID:AdLUoIWj寛文9年(1669)のシャクシャインの乱で、松前藩は弘前藩に援軍を求めたが、その年は弘前藩主津軽信政が参勤交代により江戸にいた。
国元の重臣たちは集まり江戸藩邸に指示を求めた。
藩主からの指示は「松前への援軍は津軽喜左衛門、杉山八兵衛を当て、緊急の場合は杉山八兵衛を先発とすること」という内容であった。
やがて、老中稲葉美濃守正則からの書状により杉山八兵衛を総大将とする700人程の弘前藩の援軍が出発した。
松前に無事に着いたは良いが前線への出動はなく、特に何もないまま津軽に戻ってきた。
帰国した杉山八兵衛はすぐに藩主信政の書状を持ち、江戸城に向かった。
江戸城では藩主信政の姉婿土井利房以外の全ての幕閣が待っており、将軍家綱の口上書と土井利房の口上書が読み上げられ、その後祐筆の則田安信は「幕閣諸侯と杉山八兵衛との会話は之を略す」と記しており、酒肴を賜り、歓談が行われたようである。
逸話でもなんでもないけど、石田三成の嫡孫と幕府のちょっとした関わり。既出だったらごめんなさい。
0885人間七七四年
2012/10/11(木) 16:27:12.70ID:7y7v6tMy0886人間七七四年
2012/10/11(木) 17:02:37.66ID:Z/ryKddj0887人間七七四年
2012/10/11(木) 17:43:44.57ID:rsYOP+wD大坂夏の陣の折、徳川家康と秀忠の両御所は伏見城の舟入の櫓に渡御して、
軍の進む様子を見ていた。
この時、井伊直孝の旗奉行である孕石豊後と広瀬左馬助の二人は、城下にて
幟旗を伏せて通るので、直孝は般若野宮内に命じて「両御所が御覧になって
おられるのに何故旗を伏せるのか。早く旗を立てよ」と伝えさせたが、両人は
「旗のことは奉行にお任せください」と言って聞かず、直孝が馬場藤左衛門に
催促させても、二人は聞き入れなかった。
やがて二人は肥後橋を通過し、城から遠く離れて初めて旗を立てた。
これは主将が渡御した城へ旗を向けることを憚った故に、旗を隠していたのである。
家康はこれに感心して秀忠に向かい「この城に旗先を向けることを憚り、
今になって旗を押し立てるとは、直孝のもとには信玄の家風に慣れた古兵が多い
だけあって、軍陣の作法を心得ておるわ」と賞賛したということである。
――『徳川実紀(村越覚書)』
0888人間七七四年
2012/10/11(木) 18:45:28.06ID:ml726taz直孝「孕石豊後と広瀬左馬助です」
権現「さっさと腹切らせろ」
0889人間七七四年
2012/10/11(木) 19:09:39.20ID:BdlzcD3M江戸に続く
0890人間七七四年
2012/10/11(木) 22:56:21.60ID:yqdu46Q7再来年の黒田官兵衛に期待したいところだ。
ただ、荒木村重に拉致監禁されてびっこになったり、
頭に瘡が出来たりといったところをどこまで再現できるか・・・
>>870
小早川隆景が愚鈍なら俺はいったいなんなんだ?
ハエか?ゴキブリか?w
0891人間七七四年
2012/10/11(木) 23:30:15.37ID:Z/ryKddj0892人間七七四年
2012/10/11(木) 23:54:46.28ID:RTURwGJQ三成の孫だったかひ孫が家光の側室になったとかいう説もあったな
その娘が尾張家に入ってるんだっけか
0893人間七七四年
2012/10/12(金) 01:18:30.68ID:H7KMdTwS人なみ外れた奇行をする気性であるがゆえに、
気力も強くて勇気もあったのである。
このあたりがいまいち納得出来なかったので老武者に聞いてみると、
「気力が強いゆえ、普段も手荒く、他人からは奇行者のように思われる。
今の者たちは気力が弱いから、そういうことをしないのだ。
しかしだぞ、気力は劣っていても人柄は昔より良くなっている。
昔と今を比べてみたが、勇気の有無は別のことだ。
今の者は無気力で、大人しいからと言って、
死にもの狂いになることにおいて、
昔の侍に劣るということは根本的にはないのだ。
死狂いになるのに気力がなければならないという道理はない」
とのことだ 【葉隠】
0895人間七七四年
2012/10/12(金) 10:42:35.03ID:S09DAfZH秩序のない世代と秩序を求められる世代を比べても意味ないしな。
0896人間七七四年
2012/10/12(金) 13:22:35.17ID:FN00yU0A草食草食騒ぐ糞ジジイが昔も多かったんだろうな
それにキチガイ具合じゃ戦国の武者だって鎌倉の武者に比べれば大人しいもんだしな
0898人間七七四年
2012/10/12(金) 20:30:35.86ID:iDfdGD7W0899人間七七四年
2012/10/12(金) 20:35:27.65ID:6KZn9KQW【読み】はらみいし,はらいし,こいし
【解説】
現静岡県西部である遠江国佐野郡孕石村が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
藤原南家工藤氏族、和邇部氏がある。現高知県である土佐藩、小田原藩等にみられる「石」は石や岩、硬い地盤を表す。
http://www.myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AD%95%E7%9F%B3
0900人間七七四年
2012/10/12(金) 21:21:01.48ID:I0GB3Awo井伊家の旗奉行の孕石といえば、旧武田家家臣で、
信玄秘蔵の家臣として山県昌景に付された孕石源右衛門のことだけど、
甲陽軍鑑の注釈によるとあの孕石(主水)の息子さんではないかって、言われてるみたいだね
0901人間七七四年
2012/10/13(土) 00:46:11.93ID:5yVzBdzJ織田信雄が京で猿楽を催した時、小早川秀秋ら諸大名が見物に行った。
この時、秀秋は十四、五歳であったが秀吉の猶子だったためにその従士までが
その威に誇り「金吾の御出ましだ!」とすぐに戸口に入っていったところ、
側にいた加藤清正の家臣十人ばかりが「何が金吾だ」と過言した。
怒った秀秋の近習は棒を取って三人まで打ち叩いた。これがきっかけで喧嘩となり、
秀秋の帰宅後、両家の士が伏見より馳せ来たり、互いに武装して警固した。
秀秋の老臣は「打たれた三人は清正が成敗するでしょう。ならばこちらの者も切腹
させなければなりません。先延ばしにして自害でもされたらそれこそ恥辱ですぞ」
と具申した。
「清正が何と言おうと元々彼の無礼により起こったことだ。我が家来が死ぬ必要は
ないだろう。お前たちの心配には及ばない」
秀秋はそのように言ったが、老臣たちは清正のような剛勇の士ならば必ず大事に
なると恐れ慄いた。また、打擲した者もすでに沐浴して礼服を身に着け、清正の使者が
来れば、すぐに自決しようと覚悟して待っていた。
間もなく清正自身がやって来た。秀秋はきっと争論になると思っていたが、思いの外
清正は温和な態度で「今日の家人の失礼を只今承り、遅参致しました。御近習の人々が
それがしの家人の無礼をもって斬り殺すべきところを、怒りをなだめられて打擲程度に
留めて下さったことは喜悦に堪えません。それがしも彼らを成敗しようと思いましたが、
それでは御近習も閉門になってしまうのではと思い、本国に帰して閉門を申しつけました。
どうぞ御近習を罰するようなことはなさらないで下さい」と、秀秋に詫びた。
秀秋は清正の思いもよらない挨拶に心も打ち解けて会釈すると、清正も大いに喜び、
「三里の道のりを急いで参りましたので喉が渇きました。御酒を一盃頂けませんか」と
言うので酒が用意された。また、清正は「打擲した人々も呼んで下さい」と言って
その席に招き、酒を酌み興を催して帰っていった。
――『名将言行録』
0902人間七七四年
2012/10/13(土) 00:55:46.91ID:M/tDoDaQ0903人間七七四年
2012/10/13(土) 01:25:27.23ID:zTi6fMAs下手人どもをその場に呼び出して成敗するはかりごとかと思った・・・
まあ、他家でしかも格上の郎党に手を出すわけないけどさ
0904人間七七四年
2012/10/13(土) 03:30:03.04ID:2nQbfbWVまあ同盟の関係だけれど
0905人間七七四年
2012/10/13(土) 09:47:53.06ID:4/txyCnV国府台と足利義明
(前略)
天文八年下総の古河にあって古河公方といわれた左馬頭足利高基は、
北条氏綱の娘を子の晴氏に娶わせた縁で、氏綱は高基を援けたのである。
高基の弟右兵衛督義明は兄と仲が悪く、下総の小弓にいたので小弓御所といった。
足利義明は勇猛の将である。自ら関東八州を征服して、覇府を鎌倉に開こうする大野心があった。
そこで同年八月古河に晴氏を攻めた。晴氏驚いて急使を以って小田原の北条氏綱に援けを頼んだ。
氏綱は義明の勢力が強いのは自分にも不利益であると考え、晴氏を援けることにした。
この情勢を伝え聞いた義明は、北条軍を途中でむかえて撃つ作戦計画を立て、
弟基頼、里見義尭と共に房総二国の兵七千を率いて国府台に至り、
江戸川を前にひかえて陣を張った。
天文八年十月四日北条氏綱は子の氏康と共に小田原を出発し、二万余人の兵を率いて江戸城に入った。
群議の結果進撃と決し、諸隊は忍んで金町に進み、江戸川の堤の下に隠れて、夜の明けるのを待った。
七日の朝北条軍は川を渡って松戸の岸に上がり、勢い猛に攻めかかる。
義明の弟基頼は第一陣将として勇戦して倒れたので、小弓勢の一陣先ず敗れ、小田原勢は士気大いに振う。
義明は見方の敗走に憤激し、ただ一騎敵中に突入し、縦横に斬りまくる。
その大長刀にふれて斬らるるもの数知れず、その勢いに敵はどっと崩れ走る。
義明は丘上に立って味方が来るのを待ったが、小弓勢はこの時総崩れとなったから、義明を援けに馳せ集まる兵士はなかった。
北条軍の横井新助は剛弓の勇士、義明の丘上に立つを見て、馬から下り立ち、密かに近づき、矢頃を計って三人張りの弓に十三束の矢をつがえ
『これは三浦の守護代横井新助と申すもの、一矢受けたまえ。』
大音に呼ばわりつつ、きりきりと引きしぼってひょうと放つ。矢は義明の胸にぐさと射貫けば、流石の勇将もどっと地に落ち、太刀を杖につきつつ息絶えた。
『横井新助敵の大将を射とめたぞ。』
と呼ばわれば、北条軍はどっと鯨波をつくって勇み立った。義明の旗下の勇士はこの時馳せつけて、新助に斬ってかかる。
この隙に松田彌二郎は素早く義明の首を取った。
乱軍の中を斬り抜けた佐々木四郎等は小弓に馳せ戻って義明の一子頼純を連れて安房に落ち、小弓御所はここに滅びたのである。
『日本英雄史蹟 : 歴史地理. 関東地方及中部地方巻』より
内容自体は悪い話なのだが、原典元の趣旨が”歴史と地理は切り離すことの出来ない因縁で成り立っているよ!
引きこもって研究ばかりしてないで、治乱盛衰や文化興廃の跡をその目で見て肌で感じるために旅しようぜ!(要約)”
本書に掲載されているのが明治天皇を皮切りに、乃木大将・徳川家康・伊能忠敬・大石良雄・新田義興等、
有名人が名を連ねる中で紹介されていて、今の知名度の低さからとても考えられないと俺的にイイ話だったから
0906人間七七四年
2012/10/13(土) 10:34:32.92ID:1CHK3a6O本当関東の状況はカオスで楽しいんだけどいまいち認知度がなぁ
0907人間七七四年
2012/10/13(土) 11:09:55.83ID:L7i5fm+Z0908人間七七四年
2012/10/13(土) 11:16:04.54ID:WF2ixMjG0909人間七七四年
2012/10/13(土) 11:35:05.88ID:4/txyCnVおお、やっと話の分かる人がいてなんか嬉しい
後北条氏が興隆する陰に古河公方の没落があるからね
当方後北条氏好きだが、関東史を全体的に掘り下げた一般書籍が出回って欲しいと思うよ
>>907
ゲームでネタにされているだけで、古河公方のこと知らなかったら意味ないじゃんw
0910人間七七四年
2012/10/13(土) 11:41:43.10ID:WF2ixMjG0911人間七七四年
2012/10/13(土) 11:51:49.34ID:pMAA7Nd012月に発売予定のこれがドンピシャだと思われる
東国を知れば日本史が変わる! 動乱の東国史シリーズ、好評刊行中
E古河公方と伊勢宗瑞
則竹雄一著 〈12月発売予定〉978-4-642-06445-3
http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n4643.html
こっちはこの間出たばかりで、なかなか面白かった
東国の戦国争乱と織豊権力 7
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b103247.html
0912人間七七四年
2012/10/13(土) 12:09:15.09ID:+bBk8dQC0913人間七七四年
2012/10/13(土) 13:44:01.89ID:uHwI5Nqd0914人間七七四年
2012/10/13(土) 18:20:24.08ID:L7i5fm+Z0915人間七七四年
2012/10/13(土) 18:22:21.23ID:o0IUkIam0917人間七七四年
2012/10/13(土) 22:16:39.39ID:JWdX5Sw/日源は俗名を真柄景基といい、姉川の合戦で戦死した兄たちの霊を弔う為に
僧門に入り諸国行脚をしていたという。
彼は溝口村に越前の紙漉きの技術を伝えようと故郷から甥の新左衛門・
新右衛門・新之丞の三兄弟を呼びよせ溝口村で紙作りを始めた。
1595年、朝鮮から戻った領主の立花宗茂はその話を聞くと日源に見本紙を
出させた上で御用紙にすることを決め、日源達に紙漉きをより広めるようにと
郡中の楮(こうぞ)、紙漉きの諸道具、舟等と田を与え、さらに年貢を納めなくて
よいという特別な援助をした。この宗茂の支援により、彼らは益々紙作りに励み
溝口紙は九州でも有名なものになっていった。
1600年、立花家は改易となり宗茂は肥後の加藤家に一時預けられるが、
日源の甥の新左衛門は宗茂を慕っていたため肥後まで着いて来ていた。
そこで清正からの要請を受けて八代宮地で紙漉き業を行うこととなり、
それが宮地紙と呼ばれるようになったという。
1620年、立花宗茂が再び柳川の領主となったが、日源は既に亡く溝口村も
久留米藩に組み込まれた。それを聞いた肥後の新左衛門は宮地の紙漉きを
末弟の新之丞に任せて自身は柳川に赴き、溝口の対岸にある唐尾の地に
土地をもらって新たに紙漉き業を始めたという。
かくして、柳川の新左衛門、久留米の新右衛門、肥後八代の新之丞と三兄弟が
分かれて紙漉き業を広め九州各地へと伝わっていったのである。
――『八女手漉き和紙、溝口紙、八代宮地紙等の歴史から』
0918人間七七四年
2012/10/13(土) 23:13:25.27ID:x6xFblEb大太刀の直隆さんとご親戚だろうか
0919人間七七四年
2012/10/14(日) 02:27:37.01ID:JgIdNK4S日源上人の兄達は、長兄が真柄十郎左衛門真元、
次兄が次左衛門直高、三兄を十郎三郎直澄というらしいんで、
直隆・直澄兄弟っぽくもあるけど、どっちも残ってる資料が
少ないんで不明としか言いようがないですね
0920人間七七四年
2012/10/14(日) 03:30:58.14ID:VusLJixU0921人間七七四年
2012/10/14(日) 07:21:55.24ID:SVFD6enZ大勇小勇十八巻書などの口伝を受けるが、
それを書き留めず、 記憶しようともせずに、
伝授を受けたことを意識せず忘れてしまう。
そうして、いざ事にぶつかった時は自らの心にまかせ動く。
するとこのとき、習っていたことが自然に知慧となり出てくる。
これが因縁性である 【葉隠】
0922人間七七四年
2012/10/14(日) 10:01:16.98ID:wrPvOMB9よし!今度の試験で試してみよう。
0923人間七七四年
2012/10/14(日) 11:18:18.14ID:D0a7bFrJすぴぃど何某だな!
0924人間七七四年
2012/10/14(日) 15:28:09.04ID:SVFD6enZ三極流は筆記試験には向きません(涙)
学校で三極流参考になるのは運動部かな
一呼吸おいて考える時間も隙になるような競技なら、
三極流の因縁性の教えは参考になる
0925人間七七四年
2012/10/14(日) 17:26:15.34ID:/QajXNT30926人間七七四年
2012/10/14(日) 18:00:11.71ID:Lc9bBxPgダンスとかやってると分かる
0928人間七七四年
2012/10/14(日) 18:36:38.92ID:Q/Do/fEh0929人間七七四年
2012/10/14(日) 22:37:29.88ID:9PZZTHpR細川某「嫁をチラ見しているヤツがいるとつい…」
森某「拙者も、関所を見るとつい…」
松永某「主君の隙をみるにつけ、ついつい…」
0930人間七七四年
2012/10/15(月) 00:21:05.26ID:z9QFnsn3まーくん「いいものをみるとな」
0931人間七七四年
2012/10/15(月) 00:23:13.83ID:RhmDVWTD既出の戦国ちょっといい話・悪い話で、自分の好きな話などをいろいろ雑談したいと思いスレ立ててみました。
良かったら書き込みしたりして下さい。
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
失礼しました。
0932人間七七四年
2012/10/15(月) 17:28:23.44ID:XZBVDR98弱小勢力の悲哀 筑紫家の身の守り方
一.「長いものには巻かれろ」
筑紫氏は大宰少弐氏の一族の出といわれている。
筑前国御笠郡筑紫村の地頭職であったため、筑紫と名乗ったらしい。
少弐氏は鎌倉時代から筑前において大きな力を持っていたが、
大内氏の西進により徐々に衰退して行く。室町時代、応仁の乱を経て、
大内氏と少弐氏の争いは激化、筑紫家は少弐氏に従い大内氏との戦いに明け暮れた。
しかし大内氏の力は強大で、少弐氏は徐々に筑前における勢力を失い、
肥前の龍造氏を頼っていくこととなる。大内方・陶興房の本格的な少弐攻めにより、
少弐政資・高経父子は討ち取られ、筑紫満門は大内氏に降伏することになる。
その後高経の弟、少弐資元が少弐氏を再興。資元の重臣・馬場頼周は
満門の女婿だったため、大内氏についた満門を再び自軍に引き戻そうとした。
満門は、これからの時代は大内氏の勢い盛んになるのは必定、
少弐氏が生き残っていくためには大内氏の下につくしかないと逆に諭した。
しかし資元は父と兄を滅ぼした憎き大内氏に降伏した筑紫満門を恨み、
頼周は資元と謀って満門を騙し討ちにして殺害。
以降、少弐家と筑紫家は完全に袂を分かつことになる。
しかしそれが本家と関係を絶った弱小勢力の流浪の始まりでもあった。
大内氏の下で少弐氏との戦う→大内義隆が陶晴賢の謀叛で殺害される→大友氏と和睦
→毛利元就が北九州に進出→毛利家に付く→敗れて安芸に落ち延びる
→2年後九州に再上陸し旧領を回復→しかし大友氏に降伏→高橋鑑種が筑前に着任
→鑑種は筑前の国人たちに接近、比較的安定した大友支配下の時代
→龍造寺隆信が毛利氏と組んで筑前に勢力拡大→立花鑑載が毛利氏に通じて謀反
→高橋鑑種もこれに加わり、懇意としていた筑紫惟門・秋月種実らも同調
→大友軍の猛攻により筑紫惟門は子の広門らの助命を条件に自害
→毛利軍も出雲で尼子勝久が挙兵したため退却、秋月種実も降伏→大友支配下時代
→大友宗麟が耳川で大敗→それを契機に龍造寺が筑前進出→龍造寺側につく
→龍造寺隆信が沖田畷で討死→島津が筑前・筑後にまで勢力拡大→島津側につく
→突如高橋家と婚姻、大友氏につく→島津軍北上し敗退→秀吉軍が九州上陸
→幽閉先から脱出、島津軍を追い出し旧地回復→筑後上妻郡一万八千石を安堵、豊臣大名に
→筑前筑後衆として立花宗茂、小早川秀包らとともに肥後国人一揆、小田原征伐、
朝鮮の役など常に行動を共にする→関ヶ原の合戦で東軍について改易
→子は細川忠興の口添えで謝罪、大坂の陣に出陣した功で徳川旗本家として存続
0933人間七七四年
2012/10/15(月) 17:29:30.19ID:XZBVDR98筑紫家の居城・勝尾城の峠を挟んだ筑前国側の五箇山に一ノ岳城という城があった。
五箇山は非常に山深く天険の地であり、大軍が攻めても狭い道で少人数しか通れない。
そのため一ノ岳城は要害とされ、勝尾城が落ちた時の「逃げ込み城」の役割があった。
勝尾城から五箇山までは地元の人間しか分からない無数のけもの道があり、
さらに五箇山からは博多や唐津など海へ抜ける逃げ道までも確保されている。
筑紫家の家風としては「城を枕に討ち死」などありえない考えであり、
とにかく危なくなったら逃げて再起を計れという思いがこの城の存在から見てもわかる。
筑紫惟門が大友軍に敗れ毛利氏を頼って落ち延びた際もこの道を通り唐津から出航したらしい。
その後九州に再上陸した時は大友方の博多代官を殺害し、旧領に戻っている。
高橋鑑種と共に反乱を起こした際はさすがに逃げ切れなかったのか一族の助命を条件に自害。
このとき筑紫惟門が腹を切ったのも一ノ岳城だったそうだ。
筑紫広門が島津軍に降伏した後も、家人の園部財部が五箇山周辺に立て篭もり、
一ノ岳城自体は秋月軍に占領されていたものの、広門が幽閉先から脱出してくると
秋月勢を追い出しまず一ノ岳城を占領、そして翌日にはもう勝尾城を奪い返している。
『上井覚兼日記』によると島津義久は「なぜ早く広門を処刑していなかったのか、
それが叶わないにしてもなぜ早く八代に連れて来なかったのか、言語道断だ」と怒り、
「御恥辱此上ハなく、人の申さぬ所にてハ、御落涙なさるる計也」とかなり悔しんだという。
このように大きな勢力への集合離散を繰り返し、
「逃げ城」まで作って家系を残そうとした筑紫家。
およそ一般的な戦国武将の「義理」のイメージとは離れているためかあまり人気がなく
大友家に忠義を尽くした立花道雪・宗茂、高橋紹運らと常に比べられるが、
戦国時代の小勢力としての生き様に親近感を感じるのは私だけだろうか。
0934人間七七四年
2012/10/15(月) 19:19:16.90ID:UrqYKKPB0935人間七七四年
2012/10/15(月) 19:27:48.54ID:WuH+TaAk0936人間七七四年
2012/10/15(月) 19:41:49.41ID:60ZXLO6g0937人間七七四年
2012/10/15(月) 20:07:32.86ID:x0Hbw+K80938人間七七四年
2012/10/15(月) 20:13:23.96ID:yR7j2g47帝国主義時代のタイ王国や20世紀のフィンランドみたく敬意を払うべき存在だ
0939人間七七四年
2012/10/15(月) 20:21:50.35ID:7002YGsM0940人間七七四年
2012/10/15(月) 20:53:13.61ID:RLfVSYc2>関ヶ原の合戦で東軍について改易
0941人間七七四年
2012/10/15(月) 21:13:09.21ID:mvuryzzP0943人間七七四年
2012/10/15(月) 21:22:09.83ID:Y1u2knWZん?
>関ヶ原の合戦で東軍について改易
「関ヶ原の合戦で西軍について改易」が本当。
0944人間七七四年
2012/10/15(月) 21:25:43.80ID:RP0r2P4J0946人間七七四年
2012/10/15(月) 21:57:49.77ID:Plea9pIU0947人間七七四年
2012/10/15(月) 22:33:29.19ID:yxZMlk+8明確な味方が全くいないんだなあ(自業自得な面もあるが)
>>932とか見ると本当に生き延びるのに必死だったんだろうな
0948人間七七四年
2012/10/15(月) 23:08:35.11ID:eDzTvCWf西軍に寝返って改易くらった人は居るけど、ずっと東軍で改易は無かったような・・・
後は敵前逃亡の木下勝俊とか
0949人間七七四年
2012/10/15(月) 23:22:06.47ID:OqRfzS4J筑紫尚門:杉興連の肥前侵攻軍先鋒となるも龍造寺家兼に討たれる
筑紫惟門:大友から離反し毛利方につくが敗れ山口へ亡命、復帰するも斎藤鎮実に攻められ自害
筑紫広門:龍造寺から離反し大友方につくも島津に居城を奪われ拉致監禁後ドサマギで脱出、筑後へ減封領地替えで大名存続
するかにみえたが関ヶ原で西軍につき鍋島勝茂から居城を包囲され降伏、加藤清正を頼る
が、加藤家も改易され細川家の厄介となり大阪の陣に従軍するも数年後に死没
子の主水正広門が旗本に取り立てられたのは広門死後三年の話
0951人間七七四年
2012/10/16(火) 01:08:50.62ID:vYS+gtvy龍造寺の一家も全滅させてるし、筑紫もこれだし、そりゃ滅びるわ
まぁそれでも毎度毎度不死鳥のように復活してるあたり「家」の魅力なのかねぇ
>>950
嗣子がいて家が存続してれば勝ちってことなんじゃないの
惟門が自害したのも広門助命のためみたいだし
和睦の条件として広門が斎藤鎮実の下の妹と婚姻したのもこの時だ
上の姉が宋雲尼(高橋紹運妻)だっけか
0952人間七七四年
2012/10/16(火) 01:18:27.24ID:VDDbOaCmたしかこのあと捕まってた宋雲尼と娘まで奪還されたから
警戒が強まって立花統増夫妻は薩摩本国まで移送されちゃうもんな
本格的な島津攻めを前に折衝して取り戻したらしいけど
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。