戦国ちょっといい話34
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0001人間七七四年
2012/08/10(金) 04:43:55.95ID:ZfC0qa9S戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっといい話33
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戦国ちょっと悪い話32
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0004人間七七四年
2012/08/10(金) 23:25:48.50ID:/pNXRL/B日本人修道士ロレンソのポルトガルへの報告書によると
三好長慶自身もヴィレラを京都立売町の三好邸にて引見し、布教許可の制札を与えたと言う。
朝廷や公家・寺社など、いわゆる権門がキリシタン排除一色に固まっていたのと異なり
長慶には天竺から来たと言う異形の僧侶を嫌悪する事はなかった。
さきに義輝が免許を与えたのも長慶の黙許があった為と言われている。
とまれ、将軍、長慶らの布教許可と保護は迫害に泣かされていたヴィレラとキリシタンの人々に大きな希望を与えた。
〜中略、逸話まとめの結城弥平次のキリシタン改宗と久秀の話が間に入り
結城氏らを受洗させた後、ヴィレラは飯盛城に三好長慶を訪れた。
フロイス『日本史』によれば
〜国主は彼を大いなる愛情と慇懃さをもって迎え、ゆっくり聖なる副音の説教を聞き
長慶『確かにこのキリシタンの宗門のことは、すべてが余には非常に良いものと思われる。
余は出来る限り、教会とキリシタン宗団を擁護しよう』と述べた
国主がこのように好感を抱いたので、その家臣(結城)達ははみな、非常に慰められ意を強くし安堵した〜
と記されている。このように長慶自身の言葉を直接記したものは、長慶自筆の書状以外極めて珍しく
西洋の記録であるからこそ残ったと言える史料である。
いずれにせよ、長慶が久秀と異なってキリスト教に理解と保護を示していた事は明らかである。
しかし長慶自身の精神生活は法華宗の熱心な壇徒であって、また酒井南宗寺・笑嶺宗訢に参禅する仏教信仰が基本生活であった。
流石は長慶のバランス、当時の宗教勢力全て網羅してるわ。
0005人間七七四年
2012/08/10(金) 23:50:04.36ID:nbYqh1lOそれは北条為昌のことで、綱成ってのは勘違いらしいよ
0006人間七七四年
2012/08/11(土) 17:01:58.04ID:2S2DspoA豊臣秀吉は伊達政宗から奥州会津を没収した後、奥の要地である
会津を任せるに相応しい人物は誰かと考えていた。
そこで自分が相応しいと思う人物の名を書き記し、徳川家康にも
同じようにさせた。書き終わった後に札をひらくと、
秀吉が第一に堀左衛門、第二に蒲生飛騨守。
家康が第一に蒲生飛騨守、第二に堀左衛門、という結果になった。
秀吉は掌を打って「さてさて、名将の思慮は不思議にも一致するものだ。
順序は違えど、選んだ人物が同じとはな。徳川殿はいかなる心をもって
このように見定めたのか」と言った。
「まずは殿下の尊慮をうけたまわりたく思います」
「奥州の人は情の強き者なれば、左衛門のごとき者でなければ
鎮座することはできないだろうと思ったのだ。だから左衛門を第一とした」
「では某の愚意ですが、屈強な奥州人を左衛門のごとき猛烈な者に
治めさせれば、諺にいう『茶碗と茶碗の出合』のごとく、いずれ片方が
砕けることは避けられないでしょう。
氏郷は武略は言うに及ばず、文学にも志深く、和歌茶道を心得ており、
性質も温和です。そのような風流人ですから、屈強な奥州人を治めさせるには
もっとも相応しいであろうと思い、第一に記しました」
家康の意見を聞いて秀吉は「なるほどその通りだ。良い所に気付いたな」
と言い、ついには氏郷を選んだ。
――『徳川実紀(大業広記)』
0007人間七七四年
2012/08/11(土) 19:07:40.34ID:PVQ/QCRb0008人間七七四年
2012/08/11(土) 20:17:33.92ID:/O07kDNa手取川で織田軍を叩き潰した謙信は新谷源助を使者として、信長に「北近江辺りにて正々堂々と一大決戦をしよう!」と申し入れた。
この申し入れに信長、
「謙信殿の弓箭は摩利支天の所業に似て、日本国中、これと比肩するものはない。
本心で謙信殿が上洛されるとあらば、この信長は路地まで出むかえ扇を一本腰にさし一騎で乗り込み、信長めにござる。降参つかまつると申し、都の案内を致したならば、いくら謙信でもこの信長が骨身を砕いて取った天下を取り上げることもなかろう。
さすれば、信長は西国、謙信は東国を治められ、両旗で禁裏を守護つかまつることに致そう」と返答を返した。
(北越軍記)
ない、ないww
まあ謙信マンセー軍記物なのでご容赦を。
0009人間七七四年
2012/08/11(土) 20:21:29.65ID:ToxIMFuFあくまでも油断させて時間を稼ぐためにだけど
0010人間七七四年
2012/08/11(土) 20:34:25.96ID:iu2O5qkN0011人間七七四年
2012/08/11(土) 20:37:12.69ID:S4xwpV3m0012人間七七四年
2012/08/11(土) 20:45:16.32ID:DxcBpOZg0013人間七七四年
2012/08/11(土) 20:53:40.75ID:8bqWtjVd信長さん
「徳川殿は三河から東を平定し、ワシが尾張より西を平定する。
さすれば天下はわけなく手に入るであろう。
天下平定の後、互いに敵対することになれば、
新田、足利の二の舞になるから、
もし織田が先に天下を取れば、徳川氏はこれに従い、
徳川氏が先に天下を取ったなら、織田氏が臣従することを約束しようではないか」
『武徳大成記』
0015人間七七四年
2012/08/11(土) 22:17:00.61ID:iu2O5qkNただ信長って実際にも、自分の利益に則している限り、こういう調子のいいこと平然と言える人物ではあるねw
0016人間七七四年
2012/08/11(土) 22:28:49.88ID:q4QyVjJ7成立過程からみても推移をみても
小国の悲哀というのをみせられるわ
こき使われるだけこき使われ土地はもらえない
なんかオスマン下のセルビアや中華帝国下の朝鮮がまさにあんなかんじ
0017人間七七四年
2012/08/11(土) 22:37:30.40ID:pvO+hckp織田との同盟下でも家康の領土の拡大率は戦国期でも屈指のものだぞ。
特に甲州征伐のあと駿遠三3ヶ国太守というのは、全国でもトップクラスの堂々たる大大名だし。
単純に属国などとみちゃいかんよ。
信長研究の第一人者の谷口克広先生が新書で「信長と家康: 清須同盟の実体」っての最近出したから
読んでみ?
0018人間七七四年
2012/08/11(土) 22:49:50.68ID:HF/OB6T/成立経緯はともかく、途中からは従属同盟だよね。
義昭追放前は同格扱いだけど、義昭追放後はあきらかに軽く扱われてるし。
0019人間七七四年
2012/08/11(土) 22:52:29.10ID:pvO+hckp駿遠三を任せられる、安土で信長自身により接待される存在が、軽く扱われるというのはちょっと同意できんわ。
0020人間七七四年
2012/08/11(土) 22:58:03.24ID:HF/OB6T/そう信じるのは勝手だけど、織田、徳川間の書札礼を見ても
明らかに格下扱いだよ。
逸話スレだから、これ以上は突っ込まないけどね。
0021人間七七四年
2012/08/11(土) 22:59:03.45ID:Ax83a/tY戦うとか許されんやろう
0022人間七七四年
2012/08/11(土) 23:05:15.25ID:MNjwmQ0d0025人間七七四年
2012/08/11(土) 23:55:04.44ID:VkGDilvR0026人間七七四年
2012/08/12(日) 00:04:11.72ID:J+cU7d27大恩ある水野信元の首が見たいと言う信長の強要に屈しきれず泣く泣く首を差し出す関係で対等の同盟国なんてことは有り得ん。
尾張物は公然と三河の犬と呼んでるし信康無理矢理切腹させられてるし隷属関係なのは明らか。
後年なんか家康自身が信長のこと上様って呼んでるw
0027人間七七四年
2012/08/12(日) 00:15:14.36ID:mDOK8tQb別に信長は水野信元を家康に殺せと言ってた訳ではないぞ
任せると言っただけだ
その辺は岡崎市史等で言及されている
それに水野信元は秋山信友あたりと通じて、食料の横流しをしていた疑惑があって、
その上、弁明を聞きに来た信長からの使者を殺してしまったから(松平記)、
追われる身になったんだから自業自得だ
0028人間七七四年
2012/08/12(日) 00:43:12.88ID:J+cU7d27ん?w
0029人間七七四年
2012/08/12(日) 00:57:52.84ID:mDOK8tQb0030人間七七四年
2012/08/12(日) 01:11:29.57ID:a+eRN58w0031人間七七四年
2012/08/12(日) 02:04:52.78ID:DySMI8Gj明らかに対等ではない
0032人間七七四年
2012/08/12(日) 02:08:13.33ID:mDOK8tQb0033人間七七四年
2012/08/12(日) 02:17:41.89ID:x5YE9BOkその場合コピペしてもいいのかしら
0034人間七七四年
2012/08/12(日) 02:21:44.14ID:mDOK8tQbコピペ元に不快を与えるかも知れんし
投稿するなら多少はひねるべきだと思うよ
0035人間七七四年
2012/08/12(日) 02:22:51.76ID:GnSBrtSYコピペは問題だと思う
誰かが「戦国Xファイル」や「やる夫真田」そのままコピペしたら
まとめサイトに載った時に指摘されて削除になったことがあった
0036人間七七四年
2012/08/12(日) 02:32:38.44ID:x5YE9BOkではそう致しまする
0039人間七七四年
2012/08/12(日) 14:10:08.06ID:H3sHZBmVttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3922.html
嫁入り道具の入った長持を中身を取り出して片っ端から叩き壊し
すべて立花屋敷に運び入れることを成功させた男である。
伊達家と立花家(というか小田部個人)との間にはまた違う話が残っている。
小田部土佐守は非常に長い刀を佩いていたらしい。
どれくらい長かったかというと、鞘の先に車を付けて歩いていたとか。
(『キテレツ大百科』のコロ助みたいな感じか)
ある日、小田部は主君の命によって伊達屋敷を訪れたことがあった。
ある伊達家家臣が、小田部が長い刀をコロコロと転がして歩いているのを見つけ、
「あんな長い刀は見かけ倒しに違いない。実際中に刀なんて入ってねえんじゃねえの?」
ということで、鞘の先を割って見せて小田部に恥をかかせようとした。
どういう手を使ったかは不明だがその家臣の企みにより鞘の先を壊すことに成功。
0040人間七七四年
2012/08/12(日) 14:12:49.63ID:H3sHZBmVあった。
ちゃんと入っていた。
割れた鞘の先から長い刀の先端がはっきりと見てとれたのである。
小田部は鞘を壊されたことに気が付いていたが、
素知らぬ顔で伊達家の屋敷をあちこち歩き回ったため、
屋敷の廊下は傷だらけ、畳はズタズタに。
しかし伊達家側は何も言えなかった。そう仕向けたのはこちらの方からだし、
小田部の室は宗茂の妹、一門衆レベルの重臣だったからだ。
伊達家にとっては悪い話だが、小田部土佐と立花家にとっては
度重なる嫌がらせから難を乗り切り、家格とプライドを守った良い話。
たぶんだけど、先の嫁入り話とセットの逸話なんじゃないかと思う。
0042人間七七四年
2012/08/12(日) 14:39:11.22ID:GrvMTl4U鞘を自分で改良して突き出た刃先で他家の畳をザクザクしてたら
その場でなにをされても仕方がないDQNだがw
0043人間七七四年
2012/08/12(日) 15:30:16.35ID:oP0hGDuB0044人間七七四年
2012/08/12(日) 16:00:40.75ID:VBE/hqIi0045人間七七四年
2012/08/12(日) 16:16:49.67ID:0fNYdcsx0046人間七七四年
2012/08/12(日) 16:52:22.23ID:HG+OBwUgやっぱり普通の感覚からすれば異様に見えたかもね
0047人間七七四年
2012/08/12(日) 16:53:36.55ID:2TTNSwp+0048人間七七四年
2012/08/12(日) 16:59:01.59ID:CGsHZW8X0049人間七七四年
2012/08/12(日) 18:33:06.22ID:VBE/hqIi0050人間七七四年
2012/08/12(日) 18:34:09.16ID:LeQbGag9徳川家康が関東に入部した後、鎌倉八幡宮は神領千石を与えられた。
もともと八千石だったものが大幅に減らされたことに神主は嘆いて
家康に訴え出いたが、家康は用いようとはしなかった。
そこで神主は上京し、豊臣秀吉に訴え出たため、家康は村越茂助直吉を
派遣した。この時、家康は自分が着ていた獺虎の羽織を直吉に与えた。
すみやかに上京した直吉は与えられた羽織を着て秀吉に会おうとしたが、
その格好はあまりにも失礼だと止められ、市井で麻の上下をかりて秀吉の前に出た。
まず、社人が「この社は草創よりこの方、源家代々の崇敬があり〜」と
先例を語り始めた。しかし、直吉は口をあけて興味なさげであったので、
秀吉が「お前はこの者の話を聞いているのか」と問うと、直吉は
「もう一度お聞かせください」と言ったので社人はまた同じことを話した。
直吉は話を二度聞くと「なるほど、それは尊いことでございますね。
しかしながら、この直吉を始め家康譜代の者は三河以来、毎年の戦で
今日は討死するか、明日は血をそそぐかと朝夕苦辛してこのように僅かな禄を
得ております。
しかるに、関東へ移ってまだ間もない時期に、空手にして千石の神領を賜るとは、
家康はあまりにもうつけな沙汰をしたものだ。…と、私には思われます」と言った。
これを聞いて秀吉は大笑いし「いかにも直吉の言うことが道理である。
家康もそう思ってお前をよこしたのであろうな。いずれわしが家康と会って
とりはからうとしよう」と言ってそのまま両人を帰したという。
――『徳川実紀(兵家茶話)』
0051人間七七四年
2012/08/12(日) 19:30:10.95ID:terbYSli0053人間七七四年
2012/08/12(日) 21:57:21.85ID:Diz7laHZこのころの日本にラッコの毛皮なんて入ってきてたのかねぇ。
0054人間七七四年
2012/08/12(日) 22:08:45.92ID:Z6a39VNJ平安時代に中国東北部にあった渤海国からラッコの毛皮がせっせと送られてきて、日本では使い道に大変困ったらしいw
0057人間七七四年
2012/08/12(日) 23:35:29.34ID:9LqJqidb0059人間七七四年
2012/08/13(月) 00:46:01.19ID:NfkPMaG7家臣でないのは間違いないが完全な従属関係だね。
水野、信康殺害も相互の同意の元と言われるのはごく最近の研究の主流。
これ自体は間違っていないだろうが三河物語に信長の命令だとハッキリ書いてある。
これは大権現を息子殺しの汚名を着せたくないから信長に罪を被せているのだろうが、少なくとも徳川家自身と世間が信長の圧力に逆らえない状況だったと認識していた証拠。
でないと信長に逆らえませんでした。などの言い訳が全く通用しなくなる。
信長の三河遊興の時には他の大名同様、上様とはっきり呼んでいる。
仮にこれが小説などの誇張にしても決定的なことに家康は信長から駿河を拝領されている。一国を拝領された時点で臣下への道を進んだのは間違いない。
丹羽長秀は秀吉から越前を拝領した時点で完全な従属関係になっているし、関ヶ原後の家康も大名鉢植えはあくまでも秀頼の名前を使っている。
封土を拝領した時点で完全に準臣下で間違いない。
0060人間七七四年
2012/08/13(月) 01:01:54.50ID:gRuJDU5z0061人間七七四年
2012/08/13(月) 01:20:36.92ID:NfkPMaG7余程頭が悪いと見えるな。
信用がないからハッキリ偽造したと書いてるだろう。
ただし三河物語が書かれた時点でその時には徳川家が織田家の従属関係にあったと世間が認識していたと書いただろうが。
歴史を勉強したいなら単に資料を丸読みするだけではなく時代背景、政治的背景を読み取る力くらいつけようね、僕。
0062人間七七四年
2012/08/13(月) 01:40:40.36ID:crgZFUSj0063人間七七四年
2012/08/13(月) 02:57:28.56ID:tARxSaf5彦左「殿なんて所詮昔は信長の家臣!えらくない!俺達のおかげで偉くなったんや誰が神様やぷんぷかぷーん!」
ぐらいやらかす気がする。
0064人間七七四年
2012/08/13(月) 05:03:37.38ID:N+PVv+82同意。過疎ってるけどピッタリのスレあるしな。
織田・徳川の清洲同盟を語る
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1260435134/
0065人間七七四年
2012/08/13(月) 06:25:47.36ID:egYsOZ3aそのうち刀の方がだめになりそうな気がする
0067人間七七四年
2012/08/13(月) 11:17:34.74ID:SUcMwVGz刀の先を上げるには柄を押し下げる必要があるけど、
それって「刀を抜くぞ!」ていう威嚇にもなるしな。
0068人間七七四年
2012/08/13(月) 12:20:18.57ID:7X34yFFk0069人間七七四年
2012/08/13(月) 17:52:58.79ID:JdKNEOUi0070人間七七四年
2012/08/13(月) 19:14:11.69ID:94udm6dJ0071人間七七四年
2012/08/13(月) 21:36:00.63ID:MZsX/QvQ奪われた筑後の平定を命じた。二人は筑後の各城を攻略していったが7月、猫尾城を攻めるに及んで戦線は膠着。
数十日経っても好転しない事態に、宗麟は立花道雪・高橋紹運の両将に援軍を要請した。
8月18日、猫尾城への急行・奇襲を目指し居城を発った立花・高橋勢が夜を迎えたところで、
高橋家の家臣が紹運に申し上げた。
「もはや夜半を過ぎ、月も傾きました。このまま進めば、筑後川辺りで夜が明けまする。明るい日差しのもと、
見通しの良い河原端を敵中行軍するのは、いかがなものでしょうか?」
「ならばその事、道雪殿に相談して参れ。」
紹運よりの使者・萩尾大学が口上を述べ終わると、道雪は板輿に乗ったまま口を開いた。
「ああ、早く夜が明けぬものか?!我らを見つけて寄せる者、みな撫で斬りにしてくれようぞ!!」
興奮した道雪は板輿の縁を叩き出し、あわてて自軍に戻った萩尾は、
「つまらぬ使者をして、恥をかいたではないか。」とグチをこぼした。(常山紀談より)
結局、両将は強行軍を敢行。途中、本当に筑後川の河原で城方の物見に会ったり、秋月勢と交戦したりするも
これを蹴散らして猫尾城に到着。9月1日には城を落としてしまったという。
まあ、これを見た親家・親盛が「ツマンネ。あとは二人でよろしく」とグレて帰ってしまい、老体をおして
筑後国を転戦せにゃならなくなったベッキーは翌年死んじゃうのですが・・・
0072人間七七四年
2012/08/13(月) 21:43:48.89ID:P5RY1qihツマンネといった親家・親盛にベッキーがあきれた話
(まとめスレの関連リンク用に)
0073人間七七四年
2012/08/13(月) 21:59:17.34ID:pO2U2TVn0074人間七七四年
2012/08/13(月) 22:00:29.42ID:UaTtOTGh0075人間七七四年
2012/08/13(月) 22:42:39.94ID:94udm6dJ0077人間七七四年
2012/08/14(火) 16:44:22.90ID:PfYvBoVLもう二十間は突き進んだろうと思い見渡すと、もとの場にいる。
十間は進んだだろうと思っていると、二、三間も後退していた。
山県三郎兵衛という男は、家康公と合戦するときには、
いつも五、六間さきまで突き進んだと九州までも伝わっているが、
山県の槍が天下無双だということがその時に、
実感として始めてわかった」
と安芸殿(鍋島茂賢)の言葉である。
家康公が信玄と戦うときにはいつも山県が立ち向かったが、
一度も槍合わせにひけを取ったことがなく、
槍合わせのたびに、五、六間さきまで突き進んだものである。
山県は欠唇だったので、家康公は、
家中の者に欠唇の子が生まれたとお聞きになると、
その子は山県の再来だから大事に育てるようにと、
お喜びになられたとのことである』
葉隠
0078人間七七四年
2012/08/14(火) 17:30:51.05ID:MeEB7swn0079人間七七四年
2012/08/15(水) 09:06:30.60ID:/k4Ik1zx「侍に臆病な者はいないと確信している。もしそういう者が居たら、それはその当人の科ではなく、その主人の
使い方が悪いためである。悪しき主人を頼んだばかりに、惜しいかな侍を捨ててしまったのだ。
どうしてそんな事が言えるのかといえば、私に従ってくれている者たち(申合わせ候衆)は、侍身分は申すに及ばず、
中間・小者に至るまで度々手柄を立てない、という事は無いからなのだ。
他家において臆病の名高き者たちよ、かわいそうに、私のもとに参るが良い。私のもとで指導してみたいものだ。
仮に一度目は悪くても、二度目には必ず手柄を立てさせるだろう。」
実際に道雪のこの広言に違わず、道雪の配下に度々手柄を立てないような者はいなかった。
道雪がある時、とある若き者が初陣の合戦で遅れを取ったという悪口を言われている、と聞くと、彼を近くに召し寄せ
「其の方は昨日の合戦で些か遅れを取ったようだが、武辺の事は、そういう事が有るものなのだ。それは
全く以て臆病だからではない。出来・不出来・明・塞があるのが武辺なのだ。
特に其方が臆病でないことは、私は老巧でな、能く解っている。
さあ、明日にもまた合戦がある。其方、人に煽られて粗忽の働きをして、討ち死にしてはいかんぞ!
それはこの道雪に対し、最大の不忠である!
身を全うして敵を討つ分別こそ肝要なのだ。お前のような者たちが従ってくれるからこそ、この老いぼれも
口をきけるのだよ。偏に頼み入るぞ。」
その様なことをいかにも親しく、懇ろに申し聞かし、酒など飲ませ、自身の喉輪か脇引きといった小具足を取らせた。
次に合戦のあった時、この若者は火の散るほどの働きをした。そこで道雪は彼を大勢の前に呼び出し
「この者を見よ!お前たち、この道雪が見損じることはなかったぞ!
困ったことには、この者は逸り過ぎて討ち死にしてしまうのではないかと、片面では悔やんでいたのだ。
この者は今、牙に血をつけ面白く嬉しく、また思ったよりも武功を立てるのは簡単だと思っているだろう。
こういった若者が、これから次第に経験も重なり、この道雪の家において5人7人を争う武者になることも多いのだぞ。」
と、褒め称えた。
また道雪が平時に侍を召し使っている時、客人が訪問して、その侍に大いなる仕損じがあった。
普通の主人ならばしたたかに叱りつけるか、又は追放するほどの不調法をした時、道雪は打ち笑って
「御覧になって下さい、私に従ってくれている者たちはいずれも無調法にてなんとも困ったものなのですが、
こういう事になった時には、いつでも火花が散るのですよ。」
そう言って槍を繰り出す真似をした。客はこれを見て、「侍にとってそれより他に、何が必要でしょうか?」と
深く感じ入った。
無調法をした侍は、これによって当座の恥をすすぎ、かたじけなく思い涙を流した。
(古郷物語)
戸次道雪の人使いについての逸話である。
0081人間七七四年
2012/08/15(水) 12:16:24.57ID:/k4Ik1zxああ…orz こっちは未だのはず
戸次道雪は若いころ雷にあたったため、歩行することが出来なかった。
そのため常に手輿に乗り、二尺七寸ばかりの高田打の刀、種子島の鉄砲一挺、三尺ばかりの手棒に腕貫をつけて
いつも手奥に入れ、また長刀だけを持った若侍を、定衆と名付け、これを100人、徒歩にて召し連れていた。
合戦が始まると道雪はこの定衆に手輿を担がせ、敵との距離が近くなれば、手棒にて乗り物の縁を叩き、
自身で
「えいとう!えいとう!」
と声高に音頭を取った。この拍子に合わせて
「輿を担ぎ、あの敵の真ん中に担ぎ入れて、そこに捨てよ!」
と、いきり立った。
手棒の拍子より少し遅いと思えば後先の担ぎ手を手棒にて打ち、打たれたものは敵の面前で
逃げたかのように互いに笑われたので、彼らは面も振らずに輿を担ぎ入れた。
輿を担がないものは長刀を抜き先に進んで攻めかかった。
先手の者たちは道雪の拍子が聞こえてくると、「すわ、例の音頭が出たぞ!懸かれ!」と、
優れた勇士たちが斬りかかるので、いかなる堅陣と言えども、駆け破られない、ということはなかった。
しかし戦の習い、道雪の戦において先手が追い立てられることも度々あった。それでも旗本が堅く踏みとどまるため
幾度も追い返し、最後に勝利しない、ということはなかった。
この様であったので道雪の家来には合戦のたびに、今日は幾度も槍を突いた、と言うものが大変に多かった。
(古郷物語)
戸次道雪の戦ぶりについての逸話である
0082人間七七四年
2012/08/15(水) 12:55:08.40ID:KpQmkjq1無粋でスマンです、戸次音頭の逸話もまとめサイトにあった(ただし別の逸話の中のお話だけど
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3445.html
でもどちらの逸話もより詳しく描かれていてGJですよ
古郷物語って黒官のお話ばかりだと思ってたけど道雪の逸話もあるのか
読み応え十分じゃないか
0083人間七七四年
2012/08/15(水) 13:05:55.34ID:GYCJKnb3いろいろ話残ってたんだろうね
0084人間七七四年
2012/08/15(水) 13:31:28.86ID:9/8v8C50『信長の野望』で戦闘能力は高いが知謀があり得ない程低い尼子軍団を思い浮かべるか…
そして尼子再興軍の事になると、どうしても山中鹿介の存在感が大きく鹿介ありきの再興軍に見え
毛利氏に負け続きで、鹿介の七難八苦発言もあり尼子再興軍=鹿介=ドMとネタにされる始末
再興軍のリーダーである尼子勝久はただの神輿か何をやっていたか良く解らない人もいるかもしれない。
立原久綱や山中鹿介に持ち上げられて本人にその気は無かったんじゃないかor人質の尼子義久からしたら堪ったもんじゃない、などの意見もある。
出典は『陰徳太平記』で資料としては改竄もあり必ずしも1級資料とはいえないが、尼子勝久の言葉を記しているものがある
舞台は1578年、播磨国において、毛利軍と羽柴軍が鬩ぎ合いをしていた
前線の要であった上月城にいた尼子再興軍に織田信長は撤退を促したが(見捨てたとも)
尼子再興軍は敢えてこの場に残る事を選んだ。尼子勝久は降伏し、その時に家臣に伝えたとされる言葉がある。
尼子勝久『法衣をまとって一生を送るべきはずであった自分を一度は尼子の大将にしてくれたことを感謝する。
今後は命を永らえ、命を大切にするように』
享年26歳 尼子勝久はタダの神輿ではなく紛れも無く武士であった
逸話の信憑性はともかく、この勝久の言葉があるからこそ尼子再興軍が徒花とならずに済んだと言えるだろう。
0085人間七七四年
2012/08/15(水) 14:03:19.90ID:/Lh96GhQ0086人間七七四年
2012/08/15(水) 15:52:35.81ID:GUXbvUuR鹿之助「勝久殿、勝久殿は尼子家を最高する石はお持ちでござるか」
勝久「えっ」
鹿之助「尼子家最高の石でござる」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「勝久殿はまだお若いですからな。 …それに勝久殿の境遇を考えれば仕方のない事か」
勝久「いくつになったらもらえるんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「としをとればもらえるということなんでしょうか」
鹿之助「何がでござるか」
勝久「最高の石が」
鹿之助「いえ、最高の石とは人から譲り受けるものではなく自らが生むものでござる」
勝久「なにそれこわい」
鹿之助「えっ」
勝久「うむのはいたくないんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「ああ…確かに我々には七難八苦があるでしょうがその先にあるのは尼子家最高でござる」
勝久「そうなんだすごい」
鹿之助「……勝久殿、どうか我々に力を貸してくださらぬか」
勝久「なんだかおもしろそうだからいいですよ」
鹿之助「おお勝久殿、ついに尼子家を最高する石を持ってくださったか!」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
0087人間七七四年
2012/08/15(水) 16:54:25.75ID:AJBbdbwE本丸から晴久の墓に向かう道はどうなってんだあれ
0088人間七七四年
2012/08/15(水) 18:55:44.44ID:tdBm0c4/北条氏長が徒歩頭の時、家光が板橋のあたりで狩りを行なった。
思いのほか大猟であり、家光は氏長に獲物(鹿)の数を数えるよう命じた。
しかし辺りはすでに暗く、獲物の数も多いので簡単には数えられない。
どうするべきか…
そこで氏長は鼻紙を切り、その数をあらかじめ数えたうえで組の者に渡し、その紙を1枚づつ鹿につけさせた。
全てつけ終わったところで、残りの枚数から鹿の数を割り出し、家光へ報告した。
みな氏長の考えに感心したのであった。
『名将言行録』より
非常に既視感を覚える逸話ですが…一応良い話ということで
あと薄暗い原っぱに敷かれた大量の鹿というのも想像すると不気味ですね
0091人間七七四年
2012/08/15(水) 23:22:58.36ID:3AmN5/i90092人間七七四年
2012/08/15(水) 23:30:34.05ID:PuZaOFjy練馬なんて戦後までド田舎と言うか東京とは名ばかりの田園地帯だったそうたし、
江戸時代は渋谷とかも規模は村であり今みたいな繁栄はしてなかったそうですからね…
0094人間七七四年
2012/08/15(水) 23:45:21.48ID:/Lh96GhQhttp://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/rekishitenbyo/toshimashi.html
0095人間七七四年
2012/08/16(木) 00:19:45.32ID:EuixgF7S0096人間七七四年
2012/08/16(木) 01:51:08.53ID:gWlFiXHT敵の首を取った者、怪我した者、そういう知らせが大将のもとに来る。大将が前におれば、それだけ前面の備えは厚くなって強くなる。
もし大将が後方にいた場合、先陣の兵も知らぬ間に後方に集まり、ちょっと敵に攻められると、おじけついて、我先にと逃げてしまうものだ。
『朝倉宗滴話記』より
あなただからできるんだと思うんですが…
0097人間七七四年
2012/08/16(木) 01:52:10.84ID:FfuCbwfd0098人間七七四年
2012/08/16(木) 02:43:17.94ID:Yp0wxjhx0099人間七七四年
2012/08/16(木) 03:27:33.95ID:B1bwIWwz0100人間七七四年
2012/08/16(木) 04:53:50.56ID:0AEbxoW10101人間七七四年
2012/08/16(木) 06:27:26.90ID:IOF/2KPf0102人間七七四年
2012/08/16(木) 10:10:01.86ID:EuixgF7Sどんな二つ名がつくんだろうw
0103人間七七四年
2012/08/16(木) 11:02:14.54ID:0AEbxoW1直進行軍のレオン
0104人間七七四年
2012/08/16(木) 11:14:40.15ID:MmqyQt1Uそれを体現したのが道雪のお神輿です
大将がどんどん進めば家臣たちも前にいかざるをえない
能力のない大将がやると沖田畷みたいに大敗する諸刃の剣だが
0105人間七七四年
2012/08/16(木) 13:50:27.74ID:kf0LG2l80106人間七七四年
2012/08/16(木) 14:16:46.28ID:IOF/2KPf>能力のない大将がやると
>>77の山県の話もそれなんだね
自分が進みたくても相手だって負けたくないわけだから
互いに押し合い圧し合いなかなか思うようにいかないもの
鍋島茂賢が初めて必死の槍働きをした際に感じた不思議な距離感
その中でもやはり名将は討ちかかるべき相手や場所や頃合を見定めていく
しかも家康相手に常に五〜六間というのだから九州まで音に聞こえる訳だ
0107人間七七四年
2012/08/16(木) 22:14:18.21ID:ujcjoGNt道雪の合戦での輿はともかく、普段はどうしてたのかね。
屋敷内での移動とか、勘を忘れないための鍛錬とか、下の世話とか、褥創防止とか
0108人間七七四年
2012/08/17(金) 00:09:22.62ID:1W5Q48/b0109人間七七四年
2012/08/17(金) 01:25:57.92ID:Z2C7aWiJ徳川家康の言行にこんなものがある。
「その日の生計がわずかであっても馬具をきらびやかにしておき、
人も多く持とうとすることこそ、良き侍の覚悟である。
世の諺に『武士の武士くさきと味噌の味噌くさきは用ひられぬもの』
というが、これは公家か市人などが言いはじめたことだ。
武士は武士臭く、味噌は味噌臭いのが良い。
武士は公家臭くても、出家臭くても、農商臭くても良くない。
味噌は生臭く、焦げ臭くても良くない。
味噌は只本来の味噌臭さが良いのだ」
――『徳川実紀(武野燭談、本多忠勝聞書)』
しれっと味噌ネタを盛り込む徳川実紀であった。
0110人間七七四年
2012/08/17(金) 07:19:34.61ID:VAJbYdBT0111人間七七四年
2012/08/17(金) 09:25:45.73ID:7lCq+nIF0112人間七七四年
2012/08/17(金) 11:48:26.31ID:9b4pGLGn0113人間七七四年
2012/08/17(金) 12:05:51.79ID:G2dOiP7R01141/2
2012/08/17(金) 19:18:05.85ID:BGjsCREX感悦の使者が送られた。しかし筑後路も敵領であり、通路がないので、豊前より船で海路をもって
遣わされた。
さて使いより道雪には、第一の褒美として旗竿を遣わすとの旨が伝えられた。これはとりわけ道雪のため、
吉日を選びこの使者が帰国して報告を次第、船にて送り遣わすとの事であった。
道雪はこれを承り悦び申すこと限りなく
「さて旗竿の事、家の面目、一代の名誉、老後の本望、いったい何事がこれに匹敵するでしょうか。
出来る事なら御本国へ伺候して頂戴したいのですが、方々の敵が隙を伺っている状況です。
そこで、幸いにもご舎弟の田原殿(大友義統の弟・大友親家)が、御代官として筑後黒木城に
御座なされております。ですので旗竿を黒木まで届けて頂ければ、この老体が彼の地まで罷り越し、
田原殿の御前において頂戴仕ります。私は大きすぎる冥加は恐ろしいと考えています。御使者によって
ここに直接に送られるのはどうか御免なされるようにお願いいたします。」
この様にたって申し上げた。
使者が豊後府内に帰ってこの旨を伝えると、大友義統の周りは困惑した。
「道雪が恐縮するのはともかく、立花城から黒木城まで行くのに、筑後までの七里余りは大敵秋月の領分であり、
特に城下一里余りの所を通り、また筑後の問註所氏(一族の一部が寝返っていた)の領内を四里ばかり、
これも城下半里ほどの場所を通ると牛島という巨大な坂があり、これはいかなる鬼神でも通れないような
場所である。
道雪め、自分の手柄の程を人に知らせんがため、広量な御請を申し上げたのだろう。
そんなふうに言ってもどうせ、まさか黒木に送るとは思っていないだろう。」
その様に言って、再び使者を添えて、船にて立花城に直接送った。
この時の道雪への批判は、府内にも多くの道雪贔屓の人々が居たので、彼らから道雪へと伝えられた。
01152/2
2012/08/17(金) 19:18:40.73ID:BGjsCREX道雪は立花城の館を出て、翌日は高橋紹運の領地である三笠郡に逗留、下々の足を休めると、また
夜半に打ち立ち、秋月領である長者町と言う所で夜が明けた。そこかた甘木という町を通り筑後川を越えた。
甘木は秋月城から一里半ばかりの場所であったが、秋月城からこの道雪の一行に向かって
軍勢が駆けつけることはなかった。これは、その頃侍たちは何れも知行地に召し置かれており、
普段は百姓をやっており、軍陣やその他、人の要る時だけ呼び出し召し使うという時代であった。
そのため道雪の一行の直接に見、あるいは聞きつけた者たちだけが在々より集まり、「道雪は
少人数で通るのなら、これを討ち取るべし!」と前後から攻めてきた。
さて道雪はあらかじめ「大勢を引き連れていくのはかえって良くない」と、精鋭を300人ほど、
何れも徒歩にて召し連れ、きっと手負いも出るだろうと馬も少々引き連れ、自身は例の手輿に乗り
先手と手廻りの二手に分け、先を塞ぐ者たちは先手が追い払い、後ろからくる敵には自身がとって返し
蹴散らし、道雪に向かって来るもの達は打ち捨てにした。
この様にして秋月領内を難なく通りぬけ、筑後に入り問註所の城下半里ばかりの所を踏みつけ通り、牛島という
大坂を越えて、何事も無く黒木までたどり着いた。即座に大友親家に面談し、
「御旗竿をお預け頂き、これによる家の面目、弓箭を取るほどの者ならば皆望む程のものです。
老後の本望を遂げ、忝く存じ奉ります。
本来ならば御国元に参上して御礼申し上げるべきなのでしょうが、それがしが今他へ行ってしまえば
方々の敵たちが力を得てしまうと考え、ここまで罷り越しました。
貴方様は御屋形様の御代官であり、特に御兄弟でありますから、御屋形様を拝み奉るのと同じ事です。」
この様に御礼を懇ろに申し上げると、次の日早朝に黒木の城を出立する折、黒木城の軍勢は
問註所の城のある妙見獄を攻めることが決まっていた。
道雪一行は諸勢に先立ち妙見獄を通り過ぎ、問註所の領内を静々と通ったが、問註所の方では
防衛のため城に集結していたため在々に人はなく、心静かに秋月領まで進んだ。
秋月領内の者たちは、普段道雪に手ひどくやられているため、藪の中に隠れながら道雪一行を
監視する、といった有様であった。これによって道雪は何事も無く立花城に帰り着いた。
黒木において、大友親家に付き従っていた豊後の者たちは
「大軍勢で合戦をし、敵を蹴散らせばようやく通れるような場所であるのに、
わずか300人ほどの人数で、敵領12,3里の間を心静かに通り、道すがら遭遇した敵も打ち捨て、
しかも味方に負傷者もなかった。道雪とはなんと、武士冥加の強い侍なのだろうか。
あの人には軍神が乗り移っているのではないだろうか。」
そう、感嘆したそうである。
(古郷物語)
0116人間七七四年
2012/08/17(金) 20:09:07.80ID:1W5Q48/b0117人間七七四年
2012/08/17(金) 22:12:40.86ID:m9sndWvf北松斎(北信愛)と奴踊りの始まり
慶長6年4月26日、伊達に支援された和賀忠親の篭る岩崎城を陥落させた南部軍は、
戦勝に喜びながらもさすがに疲れた様子で、岩崎街道を花巻へと帰還していた。
既に時間も遅く、空には夜闇が立ち込め、兵達は煌煌と灯るたいまつを手に列を作って粛々と行進した。
そして南城というところにさしかかった頃、東の北上山地から光り輝く月が顔をのぞかせた。
北上川は月の光りを映して銀色にさざめき、街道の松の向こうには花巻城のいらかが見える。
先頭を歩む隊長は、自分と馬の影がくっきりと映るほどの、松明もいらないほどの明るさに興が乗り、
部下達に松明を捨てさせ、そしてそれを踏み消させながら朗々と馬上で歌いだした。
つられた士卒たちもこれを真似て歌いだした。
地こぶのてっぺんから
星の親玉顔出して
火事の卵をがちゃりと踏んごわした
地こぶとは土のこぶ、すなわち山のこと。星の親玉とは月。火事の卵とは松明のあかりのこと。
そして火事の卵とは、和賀稗貫領でくすぶっていた和賀一党の反乱のことで、その光を星の親玉――北信愛がうち消した、という歌なのだ。
将士はこの歌をすっかりと覚えこんで、歌に合わせてだれともなく両手を動かし、左右に足さばきをつけて踊りながら歩いた。
これが今に続く奴踊りの一番歌、その元歌とされている。
その後時を経て、花巻にある観音寺の祭礼の際、城中の若侍たちが唐竹で大きな鯨をこしらえ、これを車に乗せて町を練り歩いた。
その山車は評判となり、松斎の耳にも届き、これを見物してすこぶる上機嫌となり、若侍たちに酒をふるまった。
若侍たちは酒興に乗り、例の歌を北松斎の前で歌い踊った。
松斎は大変喜び
「気味のいい歌だ、もっとつづけよ」
とほめそやし、さらに勢いづいた若侍たちは縁側にかけてあった大うちわを手に取り、それをかざして踊りまわった。
これが、にないもの奴踊りの始まりだという。
0118人間七七四年
2012/08/17(金) 22:24:13.36ID:yREJO4JG0119人間七七四年
2012/08/17(金) 22:46:03.49ID:s9xZ4BTH0120人間七七四年
2012/08/18(土) 16:05:37.21ID:oIwLRfRm慶長十七年三月、駿府で徳川家康は林羅山に質問をした。
「中庸に『道はそれ行はるべからず』とあるが、どうして行われなかったのだ」
「行われなかったのではなく、人君はみな暗愚であったので行うことができませんでした」
「では中とは何だ」
「中とはおよそ一定し難きことで、それぞれに格好の道理があることを申しまして、
理と申すも同じ様なことです。中にも権にも善悪があります。湯王と武王の故事は一見すると
悪しきことのようですが、その心は善でありました。古人の『逆に取て順に守る』に当たります」
「では善でも悪でもないのが中の至極か」
「それがしの愚意は尊旨とはまったく違います。中とはまったくの善であっていささかも
悪所のないことを申します。ゆえに善を善とし、悪を悪として取捨することも中ですし、
是非を考えて邪正を分かつのもまた中です」
羅山は湯武について ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2094.html のように言った。
「対して新の王莽や魏の曹操などは人の家国を奪い、己一身の驕奢だけを望んだ奸賊で
あって湯武とは天と地ほどの違いがあります。また『逆に取て順に守る』とは権謀術数の徒の
申す所にして、聖人の言われた権道とはまったく違います。
こうしたことはみな経典に記されておりますので、邪説のためにお疑いの心をお持ちにならない
ことが肝要です。古今聖人が懇ろに教え置いた言葉は、単なる理の一字には留まりません」
この時、家康は羅山の説の醇正さと明晰さに感心したとされる。
――『徳川実紀(羅山行状)』
0121人間七七四年
2012/08/18(土) 17:42:19.96ID:oIwLRfRmうわ、申し訳ない。「中にも権にも〜に当たります」までは家康の言葉だった。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2094.html と同じですね。
こんな感じ↓
「では中にも権にも善悪があるが、湯王と武王の故事は一見すると
悪しきことだが、その心は善であった。古人の『逆に取て順に守る』に当たる。
では善でも悪でもないのが中の至極なのか」
0122人間七七四年
2012/08/18(土) 18:00:56.86ID:sH4sD/XL林羅山「え?」
0123人間七七四年
2012/08/18(土) 18:52:02.82ID:XFFckGPj0124人間七七四年
2012/08/18(土) 22:46:14.91ID:k9w5P8oc0126人間七七四年
2012/08/19(日) 00:04:16.60ID:Hb6qklkdそのあとの南北朝・五胡十六国のぐちゃぐちゃぶりの中から大義名分論が出てきて
江戸時代の儒家はそれに付き合わされて、ついには徳川幕府が自己否定してしまうわけだが。
0127人間七七四年
2012/08/19(日) 14:46:29.19ID:c07NlFBC深く険しい山坂、道無き道を進むうち、さしもの薩摩隼人たちも根を上げた。
「い、いやぁ、しかしノドが渇くこと、ノドが渇くこと!」
「そうじゃのう・・ん?“のどの渇ける、の、ど、の、か、わ、け、る”・・・・・・
どうじゃ武蔵どの!歌数寄で知られた貴殿のこと、このような時でも上の句など付けられるかのう?」
危険な行軍のストレスを逸らすための座興か、イライラがつのっての無茶振りと言ったところだが、
お題を振られた新納武蔵守忠元は、すぐに上の句を詠んでみせた。
「 “中つかふ 女の足の ながければ” 」
「「おお!流石は武蔵どの!!」」
常と変わらぬ忠元に、島津家中は「やはり新納武蔵の武勇、比類無し」と賞賛した。(薩藩旧伝集より)
“中使ふ 女の足の 長ければ のどの渇ける のどの渇ける”
敵地を行軍中に
「 ウチのメイドさんの脚(;´Д`)ハァハァ 」(超意訳)とか言っちゃう親指武蔵マジリスペクト
0128人間七七四年
2012/08/19(日) 16:30:20.97ID:lme70Y/G0129人間七七四年
2012/08/19(日) 17:15:41.73ID:nopW7FZ1それで難行軍の士気が上がれば立派な武勇
0130人間七七四年
2012/08/19(日) 17:16:12.40ID:M1oEUGj70131人間七七四年
2012/08/19(日) 18:08:35.67ID:6X/mc6HF略して武勇
0132人間七七四年
2012/08/19(日) 18:26:32.00ID:BwQaCWrc・・・幽斎さまだったらどんな句になるんだろう?
0134人間七七四年
2012/08/19(日) 19:12:02.58ID:wK/xOXfAまぁ俺は冴えた句を詠む数寄者ではなく冷えた柳陰を飲む方が好きな者だが
0135人間七七四年
2012/08/19(日) 19:23:42.88ID:Hb6qklkd0142人間七七四年
2012/08/20(月) 11:35:32.10ID:q3ggW+190143人間七七四年
2012/08/20(月) 21:07:09.61ID:e5SeXbOW小田原の役の時、わずか十五歳の浅野幸長は疱瘡を病んでいたにもかかわらず、
父長政に出陣させてほしいと頼みこんだ。だが長政は「お前はまだ若い上に
病気でまともに立っていられないではないか。共に出陣できるわけがない」と
許してはくれず、再三頼み込んでもやはり許されなかった。しかし幸長の意志は
固く、老臣の堀田孫左衛門、松井又右衛門と相談して、先に出陣した父を追って
関東までやって来てしまった。さて幸長は岩槻城攻めでは馬を馳せて首級をあげた。
また、忍城攻めで長政の備えが崩れて引く時、幸長は槍を横たえて自軍の兵を
せき留めると「我はここにあり、お前たち私を見捨てるなよ」と只一騎進んでいった。
味方はこれを見て一同に引き返し、千駄口の砦を乗っ取った。その後、ある者が
秀吉に「幸長は御下知を待たずして勝手に動きましたぞ」と告げたが、秀吉は
「あの長満が生まれて七夜目に長政の家に入って、その泣き声を聞いた時、
『これは鳶が鷹を生んだな』と誉めたことがあったが、今の働きはまさに逸物の
鷹である」と言ったので、その者は口をつぐんだ。これによって幸長の名誉は
大いに知れ渡ることとなった。
――『名将言行録』
0144人間七七四年
2012/08/20(月) 21:13:38.19ID:X48DWtBf0145人間七七四年
2012/08/20(月) 21:20:11.97ID:KmVOnD3k0146人間七七四年
2012/08/20(月) 22:34:59.76ID:dLuJ7em60148人間七七四年
2012/08/20(月) 22:49:12.11ID:eLtJDnxP吉清は荒木に明智と謀反人に仕えながら最終的には豊臣家大名と生きながらえることができたのは
妻の存在が大きかったと祖父が語っていた
妻の名前は不明だが、彼女は宇多源氏の血を引く名家出身で
吉清は光秀の計らいで結婚することができた
吉清は何か悩んだことがあったら妻に聞き、妻の答えをそのまま
自分の行動に移していた
結果、荒木家謀反の時にはすぐに明智家に
明智家謀反時には光秀に任された亀山城を秀吉に引き渡して5000石を手にした
しかし吉清も妻の話を聞かなかった時が一度あった
吉清がどれだけ優秀だったのか知らないが
光秀より直々に嫁を選んでもらったり、亀山城の城代として任されたことから
多少の才はあったように思われる
奥州平定後豊臣家からは蒲生と木村の両氏が豊臣家代表として送られ
吉清は30万石を領地とした
このことを妻に「俺は行政能力を買われて大大名になったんだぜ」といったら
妻は「あなたじゃ無理です。すぐに返しなさい。」と言われ
このとき吉清は怒って無視してしまった
結果大崎葛西一揆の発生により切腹は免れたが
領地は5000石→300000石→500石という大幅ダウンを受け
吉清は失意の中妻に詫びたところ
妻は「今のお前さんの方が素敵ですよ。領地が増えても側室が増えるだけなんですから。」と言って
吉清を慰めたという
田舎に帰って祖父にご先祖様は誰と聞いたときに聞かされた話
0149人間七七四年
2012/08/20(月) 22:55:00.34ID:+TJ83YDR0153人間七七四年
2012/08/20(月) 22:56:42.34ID:/1Z1Z7ZW確かに>>143後半の太閤殿下の言を見ると、あたかも忍城攻めに太閤殿下が参加されて
いるような記述だしな… 恐るべし、超時空太閤HIDEYOSHI
0154人間七七四年
2012/08/20(月) 23:02:00.26ID:Nrt28lDkマジだよ。領地の信夫郡杉目を「福島」と改称したのが木村吉清。
今の福島県の名前はこれがルーツ。
0156人間七七四年
2012/08/20(月) 23:49:50.73ID:NQxHo+id>妻は「あなたじゃ無理です。すぐに返しなさい。」と言われ
ワロタw
30万石もの領地もらって得意絶頂の夫にこんなこと言っても、
そりゃ聞く耳持たんわなw
てか、吉清さんはその後豊後で大名に復帰してるんだな。
0157人間七七四年
2012/08/20(月) 23:58:55.45ID:eLtJDnxP復帰した直後に死んじゃって
関ヶ原、大坂の陣でも吉清の息子は負けて死に
残った子供が山形で暮らして今に至る
0158人間七七四年
2012/08/21(火) 11:15:28.81ID:dnRvSKks0159人間七七四年
2012/08/21(火) 18:56:02.96ID:SMwQ8p7l0161人間七七四年
2012/08/21(火) 19:57:11.29ID:dNJHXAHM秀吉は阿波を蜂須賀に、讃岐は仙石秀久、土佐は長宗我部元親、そして伊予国は小早川隆景に下した。
これに蜂須賀・仙石は拝領した国に直ぐに入部した。
ところが小早川隆景はいつまでたっても入部せず、それどころか内々に、この拝領を断ったと聞こえてきた。
隆景に伊予が与えられたのは、かつて本能寺の変により備中高松より撤退しようとする秀吉に、隆景が
律儀を立てて陣中で乱舞などを行い陣を静め、秀吉の撤退を助けたことが、後に秀吉の耳に入り
その感謝の印として与えられたのだ、と言うことだという。
隆景がこれを断った理由は、このようなものであった
「私がこの、伊予国を上様(秀吉)から直に拝領しましては、私は立場上、(毛利)輝元と同格の大名になってしまいます。
そうなっては、もし輝元の意向に反する事態が起こった時、上様の厚い恩義を被ってしまった以上、輝元に一味するのが
難しくなってしまいます。
私が何故こんな事を言うのかといえば、我が父毛利陸奥守元就が亡くなられる時、輝元を見放さないと、父親に対して
誓紙を出したためなのです。」
秀吉は奉行衆よりこれを聞くと深く感じ入り
「その分別、神妙である。ならば伊予は輝元に与え、輝元より隆景に遣わすようにすべし。」
と命じた。
隆景も「それならば」と、伊予を拝領したという。
小早川隆景、伊予拝領の次第である
(川角太閤記)
0162人間七七四年
2012/08/21(火) 20:03:35.93ID:orzdFVdn0163人間七七四年
2012/08/21(火) 20:41:16.30ID:57/081Vp0164人間七七四年
2012/08/21(火) 22:28:11.88ID:Kci/xxnv0165人間七七四年
2012/08/21(火) 22:31:00.13ID:Y3EZtG6H0166人間七七四年
2012/08/21(火) 22:34:12.58ID:ncNEwzwH0167人間七七四年
2012/08/21(火) 23:42:49.41ID:q9lynghV∧,,∧ ∧,,∧
∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U ( ´・) (・` ) と ノ
u-u (l ) ( ノu-u
`u-u'. `u-u'
0169名無しさん@お腹いっぱい
2012/08/22(水) 00:09:40.15ID:P4yn8byU時は1567年9月3日
大友傘下の武将である古処山城主・秋月種実(当時20歳頃)は高橋鑑種に同調し大友氏に対して謀反を起こした。
当然怒った大友宗麟は戸次道雪・吉弘鑑理・臼杵鑑速の所謂「豊後三老」に秋月討伐を命じた。
大友勢は邑城・休松城を落とし本拠・古処山城に迫った。古処山城の守りは堅く名将・戸次道雪を以てしても
容易に落とせず膠着状態が続いた。折りしも秋月氏の盟友・毛利氏(種実は亡き毛利隆元と義兄弟の約を結んでいた)が
九州に迫るとの報を受けると大友傘下の国人衆は動揺し自領に引き上げてしまった。この状態を知った宗麟は一時撤退を命じる。
大友軍の撤退を見るや秋月種実は父・文種や長兄・晴種の仇を討つべく戸次勢に攻撃を加える。
これに対し道雪も異母弟・鑑方ら一族や由布雪下・小野和泉らと迎撃する。
戸次勢の猛攻に秋月勢は逆にに蹴散らされ多くの死者・負傷者を出して撤退。
翌日4日
秋月種実は夜半風雨の強い中夜襲を決行し再度大友勢を襲った。
臼杵・吉弘・戸次陣は秋月勢の夜襲によって大混乱に陥り臼杵勢や吉弘勢は崩れ立つ。
ここでも戸次道雪は冷静に対処し臼杵勢や吉弘勢を収容し撤退には成功したものの、
秋月勢に筑後山隈城まで追撃され多くの将兵を討たれてしまう。
この戦いでも道雪の奮戦は目立った反面、戸次一族や家臣の犠牲は甚大だった。
戸次一族は異母弟・鑑方を始め鎮比・親繁・親宗・親久が
家臣団では十時惟忠・ 小野鑑幸・ 由布惟清・ 綿貫吉廉が討死した。
ちなみに道雪に娘・ァ千代が生まれたのはこの2年後である。
0170人間七七四年
2012/08/22(水) 00:38:54.24ID:NVVah7I9最近はのぶやぼでも大名として使えなくてアレなんだけどさ…
0171人間七七四年
2012/08/22(水) 00:50:50.16ID:kOKlR8Wv0172人間七七四年
2012/08/22(水) 01:17:13.90ID:oCwprfAj0173人間七七四年
2012/08/22(水) 07:52:00.11ID:ouAaLxFO0174名無しさん@お腹いっぱい
2012/08/22(水) 08:06:12.10ID:P4yn8byUある時秋月種実は僧に変装して博多に歌舞伎見物に出向くことにした。しかし博多はあの戸次道雪の勢力圏内にある。
種実からすれば道雪は父兄の仇だが道雪から見ても種実は弟や一族の仇である。種実の行動は大胆不敵ではあるが、
同時に危険極まりない行動である。この行動が戸次家中に気づかれないわけもなく戸次家中は色めきたった。
家臣の一人は道雪に「私めにお命じくだされば(種実を)討ち取って見せます」と囁いた。
すると道雪は怒ってその献策を退け、秋月城に急使を差し向けた。
「お忍びで博多へ出向かれるのを、わが家臣で狙う者がいるやもしれませぬ。ご用心なされよ」
例え相手が弟たちの仇であっても騙し討ちは嫌い相手に注意を促す、それが戸次道雪という武人。
(歴史群像シリーズ『戦国九州軍記』に載ってた話)
0175人間七七四年
2012/08/22(水) 17:19:36.77ID:W4C+cbjW佐々成政が越中を支配していた頃、国中が栄えていたので古道を改修することにした。
ある所に両方を山に囲まれた三十間ばかりの大きな淵があった。谷底を廻って行く
難所だったので、成政はここに橋を掛けて、安心して往来できるようにしようと考えた。
ところが住民によると「昔からここには大蛇が住んでいて、毎年必ず犠牲者が出ます。
旅人はその話を聞いてここを通ろうとはしません」ということだった。
「それは本当か。なんて悪い奴だ。昔は好き勝手できたのだろうが、今は私の領地だ。
往来の邪魔は許さぬ。それならば早く追い出してしまおう」と言うと成政は淵に
石火矢を仕掛け、兵を集めて「私はこの国の守護として、この街道を昔のように
旅人が安心して通れるようにしようとしている。お前が毎年人を喰らっていることは
けしからんことだ。早くここから立ち去れ。何処へなりとも人の迷惑にならない所へ
行け。出て行かないなら酷いことになるぞ。まずは手並みを見せてやろう」と
石火矢数挺を天地も響くばかりに淵の底に打ち込ませた。
すると水面が逆波を立てて震動し始めて突然霧が降り、四方は暗くなった。
そして底より大蛇が長い竿のように出でると、それは一直線に十六、七町飛んで
山の尾崎に落ちた。この時、大地は大きく震動して山は崩れ、五十間ほどの
淵ができた。大蛇はそこを新しい棲みかとした。
この出来事の後、初めの淵に橋が掛けられ、往来は便利になったということだ。
――『名将言行録』
日本昔ばなしみたいな逸話。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2174.html
上の逸話とは何か関係があるのかな?
0176人間七七四年
2012/08/22(水) 18:00:19.63ID:H2BgoqMO0178人間七七四年
2012/08/22(水) 18:54:50.14ID:gIVvrAPU0179人間七七四年
2012/08/22(水) 21:52:43.38ID:CXChx6EW0180人間七七四年
2012/08/22(水) 22:27:22.59ID:FHB3GzUEオレの偏見だけど愛知人て芸術性には疎い感じがするけど、
信長配下の歌は素晴らしいのが多い
まあ、戦国時代は愛知が一番輝いていた時代だからな
0181人間七七四年
2012/08/22(水) 22:58:11.04ID:juAjoS+I0182人間七七四年
2012/08/22(水) 23:14:52.55ID:FHB3GzUE今でも名古屋人てより静岡人っぽいもん
0183人間七七四年
2012/08/22(水) 23:39:47.10ID:/ZQR3Cu50184人間七七四年
2012/08/23(木) 00:25:34.85ID:MPz4H9Ho徳川宗春「もっと金を大放出じゃ! 篝火を焚け! 飲めや、歌えや、名古屋をもっと輝かせるのじゃ!」
0185人間七七四年
2012/08/23(木) 01:37:04.84ID:JVi/jbOU三河の歌は土ストレートだよな
鳥居さんとか忠勝さんとかw
三河の歌は幕末で言うと土方さんみたいな感じ
技巧はないけど、なにを言いたいかは物凄く伝わってくるw
0186人間七七四年
2012/08/23(木) 07:08:58.56ID:S2SfW5cB0187人間七七四年
2012/08/23(木) 18:35:07.51ID:X5IeWwvS徳川家の石川善助はわずか三十貫ほどの家臣だったが、
後に徳川を去って加賀へ行き、三百貫の地に住み着いた。
しかし、三方ヶ原での敗戦を聞きつけると、善助は加賀を去って
再び旧主・徳川家康の前に現れた。
「今回の戦で上方より召抱えられた連中は、みな戦を恐れて逃げ散ったと
聞いています。上方の弱兵どもが何の役に立ちましょうや!
それがしは不肖の身なれど、御先途を見届けるために立ち還って参りました。
願わくはしばらくの間、それがしの罪を御許しください」
この時、家康は口では「汝がいないからといって困ることなどないわ」と
言ったが、本心では善助の質直さを喜び、彼を元のように仕えさせたという。
――『徳川実紀(明良洪範)』
0190人間七七四年
2012/08/23(木) 19:34:00.22ID:QYcBfB7e戻ってくれたのはうれしいけど特に役立つわけでもないし…みたいなw
0191人間七七四年
2012/08/23(木) 20:21:22.22ID:j3tJhBhg0192人間七七四年
2012/08/23(木) 20:25:30.46ID:0hZ60kwz0193人間七七四年
2012/08/23(木) 20:33:15.63ID:QDvOJMPK0194人間七七四年
2012/08/23(木) 20:54:05.60ID:JVi/jbOUどちらか言えば権現様も死に急ぐタイプだろ
死のうとすると三河武士が色々言いだして止めるんだけど(笑)
戦場でとか病気を理由に何回か死のうとしてたはず
0195人間七七四年
2012/08/23(木) 21:09:21.40ID:TI1PRQni>>187
家康のツンデレそのものな物言いが笑えるw
0196人間七七四年
2012/08/23(木) 21:19:11.83ID:gweUgnST0197人間七七四年
2012/08/23(木) 21:27:41.61ID:R68RXcL9言うだけ言って部下に「立場上止めなきゃいけないんでやるなら黙ってやって下さい」て返されただけで。
0198人間七七四年
2012/08/23(木) 21:32:11.49ID:rbppJvAF0199人間七七四年
2012/08/23(木) 21:37:43.15ID:JVi/jbOUまあ国内戦で主君の家に親の代からゆかりのある家が集まっている時代と、
世界戦で徴兵で集められた軍隊一緒にしたらダメだけどね
敗戦後の引き揚げ船の中では鬼上官だった人がリンチされたとかあったみたいだ
0201人間七七四年
2012/08/23(木) 21:45:24.23ID:HJowxG/S0202人間七七四年
2012/08/23(木) 22:16:22.55ID:QoIsPkCW石川善助さん、たぶん一向一揆で門徒側について、終息後に降伏せずに三河を去ったクチだな
石川家は三河の門徒衆の総代だったから、門徒側に立った武士が多かったんだよね
でも、三河を去った門徒武士も、なんだかんだで結局、数年経って家康の元に帰参した者が多
かったよね
加賀やら長島やらも実際行ってみたら想像してた程門徒パラダイスじゃなくて幻滅したのか?
(っていうか、そういうところの方が人間関係ドロドロで三河者には居心地悪かったりして)
もちろん、三河に帰らずに他国に行って仕官した者も多かったんだろうけど。腕に覚えのある
勇者なら、三河に帰るよりも上方か東国に行った方が出世できたんじゃなかろうか
0203人間七七四年
2012/08/24(金) 00:01:43.43ID:fYcYPUnVあの辺の人の赤味噌への執着っぷりを見るに、食が合わなかったとかだったりしてw
江戸移転してからどうしてたんだろう。赤味噌文化ないよねぇ東京。
0204人間七七四年
2012/08/24(金) 00:13:28.56ID:se7JxB450205人間七七四年
2012/08/24(金) 00:55:45.06ID:83IJIaEjもともと東京には辛口の赤味噌である仙台味噌というのがあった。
が、第二次大戦後の食糧難で東京周辺の味噌製造業者が壊滅
その後は白味噌の信州味噌が流入し、赤味噌文化は下火になった。
0206人間七七四年
2012/08/24(金) 09:40:56.45ID:zI5f92ZM三河者が生きていけるのは三河だけなんだよ、きっと。
例えば自分のクラスや職場に三河者が一人いたら浮いちゃうだろ?
0207人間七七四年
2012/08/24(金) 09:44:10.54ID:BjcRyJo3これが三河者だろ。
0208人間七七四年
2012/08/24(金) 11:51:15.09ID:zI5f92ZM「俺を理解してくれるのは松平の殿様だけだ」となる訳ね。
なんか理解できた。
0209人間七七四年
2012/08/24(金) 14:40:42.29ID:fV+FXcHe加藤 嘉明 本多正信 石川数正 水野勝成
他にもいっぱいいる?
0210人間七七四年
2012/08/24(金) 15:21:22.79ID:fiz2RSd40211人間七七四年
2012/08/24(金) 16:19:36.73ID:Fn+bPiOL永禄3年(1560)に三河を出奔(当時22歳くらい)。甲州に行って諸角豊後守の与力として
川中島合戦に参加。討死にした諸角の首級を敵から取り返すという功により黒駒に領地
を得る。つまり武田に正式採用されたわけだ。後に徳川に復帰するんだけど。
(武田家はわりと他国者の採用率高めですね)
長篠合戦で武田武者の旗指物を識別したり、武田滅亡後に旧知の武田遺臣を取り込んだり
といった活躍の話が残ってる。
この正一さん、元和6年(1620)没なので、かなりのご長寿。
晩年の逸話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2662.html
ちなみに次男坊も出奔経験者だったりする
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3523.html
0212人間七七四年
2012/08/24(金) 16:29:51.95ID:cyyC+eiN畠山義総はあの名城七尾城を築いた人物。能登畠山氏全盛期を支えた名君であり、
都の文化人との交流を通して『源氏物語』や和歌への造詣を深めた文化人でもある。
1517年の秋、そんな能登七尾城下へ冷泉為広(当時68歳)がやってきた。
冷泉家は和歌宗匠のひとつであり、文芸界のスーパースターである。
為広( ´∀`)<お前らに和歌の真髄ってやつを教えてやんよ
義総とその部下たち<キタ━━━( ´∀`)・ω・) ゚Д゚)・∀・) ̄ー ̄)´_ゝ`)━━━!!!
このとき為広の元に集まった謝礼金が現在の価値で約1600万円。荘園からの収入が
途絶えがちな冷泉家にとってはまさにほくほくの収入である。
さらに、能登は海に囲まれた土地柄なので、
・イリコ…ナマコの腸を干したもの
・背ワタ…鮭の背骨についてる血を使った塩辛の一種
などという珍味もいただいたらしい。
(続く)
0213人間七七四年
2012/08/24(金) 16:30:29.04ID:cyyC+eiN実は畠山義総、あの藤原定家自筆による勅撰和歌集を所持していた。
その名も『後撰和歌集』、古今和歌集の次に作られた作品集である。
ところが残念なことに、その自筆本には所々に欠けている部分があった。
それを知った為広さん、義総にさっそくアドバイス。
為広( ´∀`)<ウチ(冷泉家)に写本あるから、それ書き写せばいいんじゃね?
義総(;´Д`)<ま、マジでいいんすか?
為広( ´∀`)<いいよ。あとで息子に声かけとくわ。
その後まもなく、息子為和が父の言いつけ通りに欠落部を修正。
しかも為広が奥書(その書物の来歴などの記録)を記してあげるおまけ付き。
ちなみにこの為広さん、能登がたいそうお気に入りだったらしく、
この地において亡くなった(76歳)という説もあるそうです。
おしまい。
0214人間七七四年
2012/08/24(金) 18:59:03.06ID:t4iOJ7fa熾烈を極めた蔚山城の戦いの時(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1549.html)
浅野幸長は自ら銃を手に取り、数多くの敵兵を殺害した。
そのため、幸長の顔の半分ほどが薬煙で黒くなっていた。ある人がそんな幸長の様子を見て、
「浅野殿は殿下の御親戚なのですから、急ぎ本丸へお入り下さい」と勧めたが、
幸長は断って二の丸に留まり続けた。それは蔚山城が加藤清正の城だったからである。
幸長はこの時、二十三歳。その老熟した人のような統率振りに誰もが感嘆した。
――『名将言行録』
0215人間七七四年
2012/08/24(金) 19:53:28.60ID:5jIKgNck平成24年8月25日(土) 8時〜14時(受付終了)浅野幸長公四百年遠忌高台寺追善茶会
浅野幸長(あさの よしなが)は、豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の甥として知られる武将です。
今年は幸長公の四百年忌にあたり、御命日の8月25日に浅野家ゆかりの高台寺と圓徳院において追善茶会を行います。
当日は茶会の前に法要を行い、その後に講演「文武の名将 浅野幸長」も予定しております。
ttp://kanko.city.kyoto.lg.jp/eventdetail.php?event_tab=event&eventid=1877&year=2012&month=8&date=
0217人間七七四年
2012/08/24(金) 21:12:30.77ID:xPTQwiFFその御話を小吉がお断わりしたと「松永聞書」にあるが、
そのときの話である。
太閤様は言う
「家康殿の家来はみな格別に性根がちがうようだ。
なにか武士の育て方に秘伝があるのではないかな。
是非、ワシに教えてはくれぬか?」
家康公は、
「とりたてて特別なことはしていません」
と、お答えになったが、太閤様がさらにお尋ねになるので、
家康公は、
「とくに変わったことはないのですが、
百石以上の者は犬のように扱い、
それより下の者は猿のように扱っております。」
とおおせになった。
太閤様はしばらく目を閉じておられたが、
「十分に合点がいった。今日より人の育て方では徳川殿の弟子となろう」
とおおせられた。
このとき、その場にいた小姓たちが笑ったので、
家康公がお帰りになられたあとで、
「その方どもは何を笑う?」
とお叱りになると、小姓たちは、
「徳川殿の家来は、みな畜生でございますか」
と笑いを我慢しながら答えるので、
太閤様は、
「犬と猿との区別に要点があるのだ」
と説明なさったとのことである 【葉隠】
0219人間七七四年
2012/08/24(金) 23:13:01.16ID:yvZUVzP+0220人間七七四年
2012/08/24(金) 23:15:44.66ID:gSFXm8Ry02211/2
2012/08/24(金) 23:37:17.04ID:wjcuKhHe有馬の猿楽興行に招かれて不在の家康に代わり井伊直政が応対に出た。
話を聞くと直ちに有馬邸の家康に告げ、家康もすぐに邸に帰ったが別に驚いた様子も無かった。
それから3日後に大坂から使者がやって来て家康逆心の気配有るを譴責した。
京大坂の空気は一気に戦争状態となった。
その頃、伏見の闇に家康生害の噂が流れた。
これは大坂より問責された家康が自刃したと事情を知らない人々が早合点した単なる流言だが
これには流石の家康も驚き訳を聞こうと世情に通じる直政を呼び付けたが
いつも傍近くに居る筈の直政は外に出ていないという。
小半刻し早馬で直政が帰館した。
「この物騒な最中に、何処へ行っておったのじゃ」家康が咎める。
「殿が御生害したなどととんでもない噂をわめく者がおりますゆえ外聞に出ておりました。
殿ほどの御方に腹切らすなど思いもよらぬ事ですが左様であれば大坂より敵勢が辻々に押し寄せると存じ
御館は勿論、心もとなき所は実見して参りましたが、何処も堅固にて拙者がわけを話したら騒がしいのも収まりました」
これを聞くと家康もようやく安堵し労を称賛し寝についた。
もともと家康の伏見の館は防備が心許なかった。
心配した家臣らが京極高次の大津城に移るとか何とか安全な道を構ずるべきだと進言したが
敵を恐れて逃げ落ちたと言われたら名折れもいいとこで
平威を天下に奮う事ができなくなる。そんな外聞もあってか家康は取り合わなかった。
直政は江戸より加勢の呼び寄せを進言したがこれも斥けられた。
しかし上方の足並みがいかに不揃いであるとはいえ、押し寄せてきたら相手が数の上で絶対的に優勢である。
家康に心を寄せる諸大名は多いがそれも形勢次第でどうなるか分からない。
家康は窮地に有る、と外界を知る直政はよく理解していた。
直政は家康の言に反してひそかに江戸へ援軍の手配をした。
02222/2
2012/08/24(金) 23:39:34.02ID:wjcuKhHe死を決した直政は配下の木俣守勝に最後の事を諮った。
「この上は主君の切腹の介錯をし自分も殉死する。お前は決死の合戦をし討死せよ」
すると守勝は笑みさえ浮かべ「これは普段の侍従殿に似合わぬ死狂の仰せ」と応じ
更に一膝進めてこう言った。
「大殿より大坂方へこう仰せに遣わせませ。家康伏見にあれば、おのおの気遣いされるようだから近々関東へ下ることにした。
その用意の為、5,6日中に向島へ移転する。その際に太閤殿下の向島の御茶屋を拝借したいと申すのでございます。
加賀大納言や五奉行の面々は大殿が伏見におわすのを最も嫌いますゆえこの申し出を了承致しましょう。
向島に御移りありて柵を付給はば、大坂より取りかかるとも急にはなり申さず」
「成る程、そうすればその内に関東の味方が馳せ参じるというわけじゃな
しかし柵をふるには材木が要る。その備えや兵糧や薪その他の配慮は如何に」
「材木は手の者に調べさせ備えは十分です。兵糧なども20日は持ち堪えられます」
20日も日が稼げれば必ず加勢が来る。1万もあれば上方が10万の兵で押し寄せようとも負けるに及ばず。
さすが齢の功じゃと感心し、早速に家康に言上し、家康は諸手をあげて同意した。
予見通り大坂方は向島移転を一議もなく認め、3月下旬に向島へ移った。
このとき直政は豊後橋を警衛して移動を安全ならしめた。
向島を要害とみたて思い切った伏見脱出を試みた家康の戦略眼は諸侯を瞠目させるに十分だった。
次の天下は徳川とみた諸侯が家康の意を得ようと懸命になりその結果、家康の威光はますます高まった。
徳川陣営実力者の筆頭で家康への窓口として最も近く信頼出来る直政の邸門はこの時期たいへんな混雑をきわめた。
『井伊軍志』より
この箇所の出典は「東照宮御実紀付録」、「慶長記」、「藤堂記」、「東日記」など
0223人間七七四年
2012/08/25(土) 00:10:56.72ID:riIWYfpE全員で玉砕とか、全員逃げ腰、という事態が起らないのが強みかもしれない
幕末もそれで乗り切って?今でも徳川家続いてるとこがあるかも
0224人間七七四年
2012/08/25(土) 00:15:51.06ID:gUyDuL4R徳川家続いてる
が
徳川家継の誤字かと思った
0227人間七七四年
2012/08/25(土) 06:22:28.44ID:Q57Cm1J6現在も京都上京の「冷泉家時雨亭文庫」に保管してある(一般には閲覧不可)。
書庫内は長らく「冷泉家当主および嫡男以外は立ち入り禁止」だったため、
研究者ですら資料を目にする機会が稀だった。
もっとも、それゆえ貴重な資料が奇跡的に散逸を免れ現存してるわけで、
1980年からは資料の整理・目録製作が進んでいる。
0229人間七七四年
2012/08/25(土) 19:26:19.77ID:tHlsOK8J徳川家康は折に触れて源頼朝の事跡を評論することが多かった。
「頼朝が蛭ヶ小島に潜居していた時、『もし私が本意を遂げて天下の兵権を
握ったとしたら、かならずお前に恩禄をとらせるぞ』と家僕に語られたところ、
その家僕は嘲笑ったという。
後に頼朝が将軍職になられて、あまねく恩賞が施された。しかし、その者は
恩賞にあずかることができなかった。そこでその者は頼朝に昔のことを言い出した。
頼朝は『お前は昔私の言葉を笑ったことを忘れたのか』と言った。
するとその者は『いや忘れてはおりません。しかしながら、よく考えて下さいませ、
昔より、あんなにも頼りに思えない主君に今まで付き添って参ったそれがしのことを。
最初からあなた様に仕えて功名を立てようと思っていた連中に比べれば、それがしは
忠義者ではありませんか』と申した。これには頼朝も理に屈して厚恩を施したという話だ。
これは、その者の言葉が実にもっともなことであったな」
――『徳川実紀(駿河土産)』
0231人間七七四年
2012/08/25(土) 20:42:51.64ID:BP1oUpaSなんてwikipediaには書いてあるけど、それについての話ってありませんかね。
wikipediaの記述が本当かどうかわかりませんけども。
0232人間七七四年
2012/08/25(土) 22:27:35.71ID:q8ggWfje幸長って稲富流の鉄砲術を学んでいるんだよね。
「朝鮮ではとにかく鉄砲が必要」というような稲富宛ての書状があったはず。
0233人間七七四年
2012/08/25(土) 22:34:11.17ID:/KaJeQfL加藤清正曰く、鉄砲術は学ぶ必要ないとか
>「ああ、そのことね。いいか、戦は魂でするんだ。砲術の技術
>なんてはっきり言ってどうでもいいんだよ。まあしかし、加藤家
>の人間が名人に教わったとなれば人は俺たちを恐れるからな。
>つまり噂が広まりさえすれば、あとはどうでもいいの。」
まあ海外では意味ないか
(海音寺潮五郎の「史談と史論」では清正のセリフは「鉄砲というものは撃てば撃つほど上達するから
師匠なんてものはいらん」とちょっと違ってた)
0234人間七七四年
2012/08/26(日) 01:46:39.05ID:g5udYP9Kないと上手くならないと思うし、その点では「習うより慣れろ」なのかも知れないけど…
でも、火縄の扱い、火薬や球の装填、発射後の筒の掃除など、定型動作の部分は、
ちゃんと師匠に正しいやり方を習って、ドリル的な教練を繰り返して、それこそ
目をつぶってもできるくらいまでスピードと精度を上げるようにしといた方がい
いと思うぜ
0235人間七七四年
2012/08/26(日) 04:51:13.95ID:6OWjxtF40236人間七七四年
2012/08/26(日) 06:36:27.04ID:HASZhrwCそんな基本は金メダル選手レベルの人に習う必要はないってことだろ
しかし鉄砲がすごい普及したわりには鉄砲の改良ってなんであまり進まなかったんだろうな
0237人間七七四年
2012/08/26(日) 07:37:43.85ID:CCU7Nyvu2連発するための工夫とかはしても、
肝心の本体は変わらないよな
0238人間七七四年
2012/08/26(日) 07:53:30.88ID:sYprceFeあるいは欧州から進んだ鉄砲が輸入されるとか。
全国的に普及したあたりで平和になって改良の必要性が薄れたんじゃないかと。
0239人間七七四年
2012/08/26(日) 08:05:06.33ID:R5+7sVC8サイズバリエーションは多岐に渡ると思うのだけど
0240人間七七四年
2012/08/26(日) 08:06:00.54ID:qb890p4w防具の進化に呼応する形で。
発射機構は改良しようがないだろう。
フリントロック式は日本では作りにくいし。
銃身を並べた連発式も一応戦国時代に開発されたことになってるね。
0241人間七七四年
2012/08/26(日) 09:21:12.39ID:Ua1KRJI8フリントロック式と思われる銃を買ってみたが気に入らず商人に付き返したとか
いくつか記録が残っている
0242人間七七四年
2012/08/26(日) 12:49:16.37ID:swrOJvrB0243人間七七四年
2012/08/26(日) 21:10:25.62ID:AeQrmEyE小田原の役の後、豊臣秀吉は堀尾吉晴に曰く
「わしが藤吉郎と名乗っていた頃から、お前はわしに仕えてきたが、
数度の戦場を経験して、今までに一度も負けたことがないな。
今、わしは天下の主宰となり、最高の地位についた。
それはひとえに諸将の粉骨砕身によるものだ。
しかし、その中でもお前の功労は万人に勝っている。
その昔、源頼光には四天王がおったが、お前はわしにとっての四天王だ」
そのように言うと秀吉は吉晴を浜松城に封じたという。
――『名将言行録』
0244人間七七四年
2012/08/26(日) 21:23:18.35ID:vKQcB3K30245人間七七四年
2012/08/26(日) 21:29:54.74ID:HGSRZv5C0246人間七七四年
2012/08/27(月) 13:56:45.10ID:zECnmT/a0247人間七七四年
2012/08/27(月) 15:44:40.14ID:hMMpY9hx徳川家光が三代将軍となって間もないころ、江戸柳原の裏長屋に、一組の浪人夫婦が住み着いた。浪人者のこと、
日々貧しい暮らしを送っていたが、しばらくして浪人は突然「京へ行く」と言って、旅立ってしまった。
残された浪人の夫人はさらに困窮するようになり、その哀れさに近所の長屋衆は夫人を何くれとなく気遣った。
「しかし、ご主人は何で遠い京まで行かれたのかね?」
ある日、浪人の消息について聞いた長屋衆に、夫人は答えた。
「私の夫は、佐治縫殿助と言います。実は、新太郎少将様(池田光政)から夫に『千石で仕えないか』という
お話があったのですが、夫は『二千石なら奉公いたします』と答え、交渉のために京へ向かったのです。」
浪人の素性を知った長屋衆は、白けた。失笑する者もいた。
佐治縫殿と言えば、富田信高に仕えて武勇を知られた士だったが、富田家を退転した後は小早川秀秋、
小早川家改易後は後藤又兵衛の家臣となり、大坂の陣後に浪人している、いわば『縁起の悪い侍』であり、
そんな男を先々代が『西国将軍』とまで呼ばれた大大名が高禄で雇うとは思えない。
これ以降、夫人を気遣う人はめっきり減り、口さがない者は夫人を『千石婆』と呼び、陰口を叩いた。
それからまたしばらく経ったある日。柳原の裏長屋に、金覆輪の鞍を置いた駿馬にまたがった立派な武士が
十人ほどの従者を連れ、やって来た。武士は勝手知ったる様子で長屋の片隅へ向かい、戸を開けた。
「すまぬ。遅くなった。」「お前様・・・・・・」
「佐治縫殿にござる。留守中、妻が世話になり申した。」空いた口のふさがらぬ長屋衆をよそに、
隣近所に丁重な礼を述べ、礼物まで贈った縫殿は、夫人を馬に乗せ西国へと去って行った。(常山紀談より)
0248人間七七四年
2012/08/27(月) 17:48:24.46ID:mFoH9bix0249人間七七四年
2012/08/27(月) 23:15:29.39ID:utZ9DDNQ0250人間七七四年
2012/08/27(月) 23:21:37.08ID:iubtj+dh0251人間七七四年
2012/08/27(月) 23:24:32.84ID:in7LcjBT0252人間七七四年
2012/08/28(火) 00:09:57.99ID:zwzNmo3B0253人間七七四年
2012/08/28(火) 12:46:52.48ID:JRiJZDN0改易なんて本人次第でどーにかなるもんでもないし運が悪いと大変だな
0254人間七七四年
2012/08/28(火) 13:16:19.43ID:jjWVqCyv0255人間七七四年
2012/08/28(火) 15:36:37.66ID:RFcLmfKb0256人間七七四年
2012/08/28(火) 20:04:21.98ID:XMeqet5D田沼主殿殿
0257人間七七四年
2012/08/28(火) 20:08:22.14ID:jQ1hMNTT0258人間七七四年
2012/08/28(火) 23:38:57.50ID:tbpJN4Bp0259人間七七四年
2012/08/29(水) 18:10:26.39ID:33mHT8id大坂夏の陣の時、徳川家康が茶臼山に据えた陣では祝詞を述べるために諸大将が次々と
参謁した。この時、徳川頼宣はろくに戦うことが出来なかったことを悔いて、「十四歳なのは
今だけだ」と、慰める松平正綱を睨みつけた。(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-709.html)
その後、本多正信が馬に乗って上がってくるのを見た家康が「坂まで上れ」と言うと、
正信は「もちろんですとも」と、家康の側までやって来た。
この時、藤堂高虎が「佐州早いな」と言うと、正信は「今日の私の武者振りはどうですかな」
と笑った。その日の正信は兜羅綿の羽織に裏付の袴、五位の太刀を身に着けていた。
さてその時、城中から黒煙が上がっているのを見ていた家康は小出吉英を呼び、「あれを見よ」と
言った。吉英は城の方を熟視して両手をつき「なんと痛ましいことでしょう」と言った。
その様子を見て家康は「汝の境遇で只今の申しぶりは殊勝である」と言った。吉英は豊臣家の
旧恩を受けた者であったが、その過去を忘れていないことは家康の心に深くとどめられた。
(こちらでは三尹 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5389.html)
それから家康は俄かに「夏目を呼べ」と言い出した。それは夏目吉信の三子・長右衛門信次
のことであったが、信次は小身ゆえに旗馬印もないので、どこにいるのかも分からず、
使番があちこちを探し回ってなんとか見つけ出すことができた。
この時、家康が「昔、汝の父が三方ヶ原でわしに代わって一命をなげうったことは
忠節の至りだ」と言葉をかけたので、信次は思わぬ賞詞に感激して涙を流した。
このような勝利の時にも旧功の者のことを思い出して言葉をかけたのは、小出が豊臣家の
旧恩を忘れていなかったことを賞したことに起因し、家康の仁厚の深さを感じない者はいなかった。
――『徳川実紀(天元実記、古人物語)』
0260人間七七四年
2012/08/29(水) 18:59:10.68ID:Q32skZMw0261人間七七四年
2012/08/29(水) 19:11:00.58ID:eAGydez20262人間七七四年
2012/08/29(水) 19:31:34.75ID:s5ssCwKt0263人間七七四年
2012/08/29(水) 19:59:15.30ID:/Npa1O/P0265人間七七四年
2012/08/29(水) 20:22:05.79ID:8tBtwSyk0266人間七七四年
2012/08/29(水) 20:43:48.30ID:hPQCcTxO義家・義光兄弟は将門あたりの頃の武士と比較すると異常性格としかいえない残酷さだけど、
あれが後の世の武士のスタンダードになっちゃったってことなのかなぁ。
0267人間七七四年
2012/08/29(水) 20:48:48.10ID:5SoZvD8+戦国〜赤穂浪士過ぎて武士は骨がなくなったと言われだすけど、
幕末になるとまた新撰組や攘夷志士のような激しい人たちが出てくるし
0268人間七七四年
2012/08/29(水) 20:57:54.46ID:8tBtwSyk例えば応仁の乱の時、一度伊勢に没落した、足利義政の後継者候補だった足利義視が再上洛するとき、
前の没落の途中自分たち一行を襲った村を、ご丁寧に1つずつ殲滅しつつ上洛してたりw
0270人間七七四年
2012/08/29(水) 21:14:21.78ID:5SoZvD8+まあいろいろ規律が崩れるだとか氏族間の成り立ちや関係とかあるんじゃね?
文字だけで見ればとんでもない差別家でしかないけどw
0272人間七七四年
2012/08/29(水) 23:54:31.34ID:dnSZQFUNある日、光泰は領内の寺に立ち寄った。
そこでは勘太郎という少年が養育されており、彼が茶などを給仕した。
彼はこれを機に加藤家に仕官したいと考え、森五郎兵衛という光泰の家臣に斡旋を依頼した。
五郎兵衛は早速報告した。しかし光泰は、
「そうか」
と、言ったきりさっぱり音沙汰をよこさない。
五郎兵衛は非常に気の短い人物であった。
日数が経つにつれ、焦れて耐えられなくなってきた。
ある夜更け。
五郎兵衛は光泰が眠りについたのを見計らい、その寝所を急襲した。
眠っていた光泰だが、突然の闖入者に驚いて飛び起きた。
「一体どうした! どこで何が起こったというのだ!」
何らかの緊急事態が発生したと考え、急ぎ脇指を差し褥の上に座って問いただした光泰に、五郎兵衛は答えた。
「別に何も起きていません!」
「は?」
「勘太郎のことは一体どうなっているのでしょうか? 是非召抱えるべきです! そうするべきです!」
真夜中にいきなり叩き起こされて吃驚したのに、それが物凄くどうでもいい要件のせいだと知った光泰。
キレた。
相婿同士で付き合いの長い五郎兵衛にとって逆上した主君が殺してくることなど最初から予想の範囲内だったので、
光泰が脇指を抜ききるのを目視する前に一目散に外へ逃げた。
五郎兵衛が去って、暫く。
冷静さを取り戻した光泰は再び眠りにつこうとしていた。
「殿」
そんなところに人影が。
「先刻申し上げた勘太郎のこと勿論ちゃんと考えましたよね? どうなさるおつもりですか? 召抱えますよね?」
五郎兵衛は全く諦めていなかった。
真っ直ぐにひたすら催促しまくる五郎兵衛のあまりの熱心さに、
光泰は心を打たれたのか眠かったのか、とにかく先程とは打って変わって、
「義兄上がそこまで言うなら召抱える」
と言い、勘太郎を召抱えることに決めたという。
こうして勘太郎は無事に家臣になることができ、五郎兵衛は彼を光泰に紹介しながら礼を言ったそうだ。
(温故集)
ちょっと迷ったけど、オチはいい話風味なのでとりあえずこっちで。
0273人間七七四年
2012/08/30(木) 00:09:58.94ID:6txyMceY0274人間七七四年
2012/08/30(木) 01:54:15.90ID:RwWMsq13甲斐を収めるにはこれくらいの性格の方がいいということか?
0275人間七七四年
2012/08/30(木) 09:04:46.38ID:DmL2IuCl0276人間七七四年
2012/08/30(木) 18:53:22.53ID:sXHTnsJi豊臣秀吉は既に織田氏に代わって政治を畿内になしていた。
小田原の北条氏にはたびたび秀吉の使者が訪れ、上京を促した。
北条氏規は氏政の弟として報使に選ばれ上京した。この時、
秀吉は慇懃に氏政父子の上京を勧めた。氏規は秀吉に向かい、
「承りました詳細は氏政父子に申し聞かせます。御慇懃の仰せには
感謝してもしきれないほどです。しかしながら、万が一氏政父子が
上京することなく、無事が破れて関東へ御進発なさる時には、
いかなる仰せがあろうとも、親族兄弟を離れて御内通するなど
ということはありえません。氏規は必ず先鋒となり、
あなたに錆矢を奉りましょう」と言った。
これを聞いた秀吉は「どうして無事が破れるだろうか。
それこそ貴殿の働き次第ではないか。よきに計らって兎も角上京を
勧められよ」と慇懃を尽くして氏規を帰したという。
――『名将言行録』
0277人間七七四年
2012/08/30(木) 22:18:17.23ID:IMFl2WV+「茶の湯に古い道具を用いるのは不粋だ。
新しい器を使えばよいではないか。
と考える人々がいる。
逆に、古い道具は落ち着いていて、
けばけばしくないから使うのだなどと言う人々もある。
しかし、それらはみな思い違いである。
古い道具は、身分の低い者が使ったものでありながら、
長き年月の徳が備わっているからこそ、
身分の高い人の手にも触れられるのである。
それは武士とても同じことである。
賤しい身分から高い位に上がった人は徳があるからこそである。
それを、氏素性も分からぬような人間と同僚になるのは嫌だとか、
つい先ごろまで足軽であった者を頭と呼ぶのは耐えられない、
などと思うのはもってのほかの態度である。
はじめからその地位にある人よりも、
下から登ってきた人に対し、
その徳を貴び、崇敬するのが当然である」
と言われた 【葉隠】
0278人間七七四年
2012/08/30(木) 23:02:30.26ID:RWWxqdIwこの寺での幸隆の扱いはけして良いものではなかったが
寺で知客の役にあった晃運という僧が幸隆の境遇を憐んで何かと世話を焼いてくれた為
二人は遠慮のない親しい間柄となった
ある時幸隆は戯れてこのようなことを言った。
「禿坊主、お前は儂に良くしてくれた。真田を取り戻したら寺を建てお前を招こう。」
晃運も怒ったような真似をして答えた。
「貴殿は臆病者である。はたして何が出来よう。」
そして二人は大いに笑いあった。
のちに幸隆は武田信玄の配下となって村上義清と戦い、これを越後に奔らせた。
旧領真田を取り戻した幸隆は長国寺という寺を建て、真田山と号して晃運を開山にし徳に酬いた。
『長国寺記』
0279人間七七四年
2012/08/30(木) 23:07:44.76ID:tFvJch7sそもそも肥後の一揆は佐々成政の手荒い施政が原因であった。検地をし、さらには、
昔から港より運搬する荷物を運ぶ使役を、三里とされていた所は五里に、五里とされていたところは八里運ばせる
ようにした。このように荒い仕置を行ったために、一揆が起こったのだ。
小早川隆景は肥後に一揆が起こったことを聞くと、この筑前でも一揆が起こりうると判断し、すぐさま国中に
制札を立てた。
『筑前においては、年貢も、津出し(港への荷物運搬の使役)も、小物成(その他の雑税)にいたるまで、
全て昔のままの年貢沙汰とする。』
この制札が出ると、筑前において一揆を計画していた者たちもそれを取りやめ、結果小早川領の筑前は
何事も起こること無かったとのことである。
(川角太閤記)
0280人間七七四年
2012/08/30(木) 23:30:20.06ID:H8ISDO8/0281人間七七四年
2012/08/30(木) 23:34:50.59ID:tFvJch7s1行目、×筑前煮 ◯筑前に
筑前煮が波及するってどんな状況だおいw
0282人間七七四年
2012/08/30(木) 23:38:01.23ID:RwWMsq130285人間七七四年
2012/08/31(金) 00:00:33.55ID:Ig40vyu0三成は治部煮派
家康は関東炊き派
0286人間七七四年
2012/08/31(金) 00:16:07.24ID:hCx3MmD60288人間七七四年
2012/08/31(金) 00:36:26.87ID:xkQJplq/残ってたから起きたけど、秋月種実、原田信種、宗像氏貞等がいなくなった
筑前で反乱おこしそうなのは誰だろ?
0289人間七七四年
2012/08/31(金) 03:03:18.54ID:aNTL/GuG四郎左衛門が、
「わが殿ほど清廉潔白なお方はおられぬ。」と言えば、
兵左衛門は、
「これほど私利私欲のないお方もおられますまい。」と言う。
彦左衛門が言うには、
「伊勢・伊賀・山城・大和の収納を予め計算し、
藩士の知行・切米・扶持がそれぞれいくら、藩費がいくら、家計費がいくら、と定めると
その細目に至るまでいちいち予算額を立てられる。
それを超過する場合は厳しく当事者を責め、少しも見逃ぬのじゃ。」とのこと。さらに、
「藩士の録分に余剰があれば、有能な士を召抱えるか、精励の士に増録する。
逆に怠慢や不謹慎で士風を乱す者は追放し、新たに良き士を礼を尽くして召抱える。
そのため、皆日頃の行いを慎み、人馬・武具の貯蔵に不足しないのだ。」と言う。
「いやいや、厳しいばかりでもござらぬ。」と彦左衛門。
「臨時に知行米に余剰が生じたら、米を一分金・豆板銀に替えられ、
それを革袋に盛って、屋敷内の大広間に小吏らを集めては
御自らの手でそれを撒き散らして拾い取らせるそうじゃ。」
「とにかく、どんな時も藩士知行分の予算の余剰は
御自分のことに流用されたことがない。」と言うのは四郎左衛門。
彼らは、主君藤堂高虎を評して、たびたびそう語り合った。
(開国遺事)
0292人間七七四年
2012/08/31(金) 10:56:23.77ID:VyPVq8rf高虎さんは叩き上げの苦労人の根性が曲がらなかったタイプだな
締めるばかりでなく、緩める時には緩められる人
0293人間七七四年
2012/08/31(金) 12:51:49.86ID:QJ6Gd40w0294人間七七四年
2012/08/31(金) 15:18:22.05ID:zoGj/3B20295人間七七四年
2012/08/31(金) 16:07:06.16ID:LdQIwXtM0296人間七七四年
2012/08/31(金) 18:44:27.68ID:i/fqgRtP文禄元年正月二日、聚楽の邸にて謡初の式が行われた。
着座は第一が豊臣秀次、第二が織田秀信と定められた。
これに前田利家が「秀信は正しく織田殿の孫なのだから
第一たるべきだ。今日の儀注は誰が書いたのだ」と言うと、
石田三成が「それがしが殿下の仰せにより書きました」と言った。
そこで利家が豊臣秀吉にこのことを告げると、
「それは道理だが、秀次は我が甥ゆえ、ゆくゆくは養子にして
家を継がせるつもりだから第一座に定めたのだ」と、秀吉は答えた。
主張を聴き入れようとしない秀吉に気分を害した利家は座を立とうと
したが、その様子を見ていた徳川家康に「利家、しばし待たれよ」と
引き止められた。続けて家康は秀吉に向かい「殿下はかりにも秀信を
後見なさったゆえ、織田家の旧臣もみな帰服しました。
いま利家が秀信を上座に立てようとするのも旧義を忘れない心から
であって、決して秀信の味方をしているわけではありません。
ですから秀信を別に奥の間にて拝礼盃酌の儀を済まし、
表様では秀次を一座につけなされば、人心事体において両方の
便宜を得られるのではないでしょうか」と言った。
秀吉もその理にかなった処置に感心し、その通りに処理したことで
謡初の式は事故なく遂行された。
――『徳川実紀(武辺咄聞書)』
0297名無しさん@お腹いっぱい
2012/08/31(金) 23:58:06.58ID:FeSilS2c高橋家の正統論争は元種の養父・鑑種と鑑種追放後に高橋家を継いだ鎮種(紹運)の頃からあった。
その論争は子の世代に当たる元種と戸次統虎・高橋統増兄弟の時代まで続いていたが、九州征伐後秀吉の裁定で高橋家の正統は元種となった。
代わりに統虎には養父・道雪以来大友家より禁じられていた立花姓の名乗りを許すことでバランスを取った。
時は移り慶長18年(1613年)、元種の延岡藩は大久保長安事件や坂崎左衛門隠匿の罪で改易となる。
元種父子の身柄を預かったのは父祖の代より因縁のある棚倉藩主立花宗茂。
宗茂は義理の従兄弟にしてライバルでもあった元種を客将として厚遇している。また幕閣に元種の赦免を嘆願したり元種にもアドバイスをしたとされる。
しかし元種は東北の気候が堪えたのか改易の翌年に病死してしまい宗茂の奔走は水泡に帰してしまう。
高橋元種の病死から6年後、宗茂は柳川藩主・田中家が無嗣断絶したことに伴い柳川に復帰する。宗茂は、取り潰された田中旧臣の登用を厳禁した。
その理由について宗茂は田中忠政・吉政が関ヶ原合戦で親友・石田三成を捕えた手柄で、大大名になったことを嫌悪していたからだとされる。
の助命に奔走したのは他ならぬ三成だったし、吉政が手柄を上げられたのも三成の配慮があったからである。
豊臣秀次切腹時には三成のおかげで吉政が助かったのに恩人にして友人・三成の助命を図ることを全くせずあまつさえ佐和山城を攻め立てたことなどを嫌悪していた。
さて柳川城下は田中氏時代に都市も整備され屋敷も立派になっていた。
家臣たちがこのことについて「おかげで他国の使者に対して恥をかかずに済み申した」と述べると
宗茂曰く「立派な屋敷だと下々のものが寄りつくかなくなるし上と下との差が大きくなる。ボロ屋敷でも家の名には傷が付かない。田中殿は立派な家屋敷を持ったがその為に財政が逼迫し大坂に参軍出来ずついには滅んでしまった」と述べた。
たとえ因縁ある相手であっても一旦見込めば厚遇するし相手がDQNでもうまくつき合う宗茂さんも田中吉政は大嫌い。
ちなみに前田利長も大嫌いだったのは有名。
0298名無しさん@お腹いっぱい
2012/09/01(土) 00:18:08.74ID:Rj3NcUa6高橋家の正統論争は元種の養父・鑑種と鑑種追放後に高橋家を継いだ鎮種(紹運)の頃からあった。
その論争は子の世代に当たる元種と戸次統虎・高橋統増兄弟の時代まで続いていたが、九州征伐後秀吉の裁定で高橋家の正統は元種となった。
代わりに統虎には養父・道雪以来大友家より禁じられていた立花姓の名乗りを許すことでバランスを取った。
時は移り慶長18年(1613年)、元種の延岡藩は大久保長安事件や坂崎左衛門隠匿の罪で改易となる。
元種父子の身柄を預かったのは父祖の代より因縁のある棚倉藩主立花宗茂。
宗茂は義理の従兄弟にしてライバルでもあった元種を客将として厚遇している。また幕閣に元種の赦免を嘆願したり元種にもアドバイスをしたとされる。
しかし元種は東北の気候が堪えたのか改易の翌年に病死してしまい宗茂の奔走は水泡に帰してしまう。
0299名無しさん@お腹いっぱい
2012/09/01(土) 00:42:20.96ID:Rj3NcUa6宗茂は取り潰された田中旧臣の登用を厳禁し、取り潰された加藤忠広家や柳川時代の旧臣を登用した。
その理由について宗茂は田中忠政の父・吉政が関ヶ原合戦で親友・石田三成を捕えた手柄で大大名になったことを嫌悪していたからとされる。
かつて豊臣秀次家老時代に三成が吉政の助命に奔走したおかげで切腹させられた前野長康・渡瀬繁詮・木村常陸介・服部一忠(小平太)たちと違いお咎めなしになっている。
恩人で友人の三成の助命を図った様子は見えなかったがこの頃でもお互いそれなりの友情は抱いており
吉政は薬を嫌う三成に韮粥を勧め与えた。三成は太閤より譲られた名刀・石田貞宗を吉政に贈っている。
さて柳川城下は吉政が都市設計に長けていたこともあり田中氏時代に都市も整備され屋敷も立派になっていた。
家臣たちがこのことについて「おかげで他国の使者に対して恥をかかずに済み申した」と述べると
宗茂曰く「立派な屋敷だと下々のものが寄りつくかなくなるし上と下との差が大きくなる。ボロ屋敷でも家の名には傷が付かない。田中殿は立派な家屋敷を持ったがその為に財政が逼迫し大坂に参軍出来ずついには滅んでしまった」と述べた。
たとえ因縁ある相手であっても一旦見込めば厚遇するし相手がDQNでもうまくつき合う立花宗茂だが田中吉政は大嫌い。
田中吉政も物に恬淡で大らかで闊達と評されるが宮部長房への仕打ちに見られるように狡猾な部分が多々あり宗茂はそれを嫌ったのだろう。
ちなみに前田利長も大嫌いだったのは有名。
※>>297投稿分を修正し高橋元種と田中吉政の段に分けて投稿
0300人間七七四年
2012/09/01(土) 01:18:22.63ID:zYpw0eEr0301人間七七四年
2012/09/01(土) 13:20:21.16ID:uQpRzpN2遅レスだが、日本の精錬技術が特段の進化をしなかったことも大きな原因じゃないか?
第二次世界大戦の兵器開発、性能あたりにも繋がっていく話になるが。
0302人間七七四年
2012/09/01(土) 14:41:34.37ID:BJf1dxC8固定してしまった節はあるね。
鉄砲にはほどほどの粘りと言うが柔らかさもいるけど。
でも、欧州でも製鉄技術の停滞期が長くって
たまたま幕末のころにあちらで爆発的な進歩があったわけで。
江戸末期に各藩で虎の子のお金を出して最先端技術の反射炉を導入しているうちに
転炉が発明されてあっという間に反射炉は要らない子にあるくらい、速かった。
301のとおり、冶金学の遅れはずっとながびいて、
スウェーデン鋼に相当する強度鋼は量産化できなくて
ベアリングを国内で満足につくれない状態のまま、
アメリカの圧力に対抗しないといけなくなった。
あとは潤滑鉱油の開発も遅かったんだよね。
0304人間七七四年
2012/09/01(土) 17:51:42.68ID:ynPbw/cB吉政が、吉政の親友の三成を捕らえたってことだったか
吉政は捕らえた三成を丁重に扱ったって話をきいたが
0305人間七七四年
2012/09/01(土) 18:10:55.66ID:BbyYCjUx0306人間七七四年
2012/09/01(土) 20:04:34.39ID:dFiKQ5ux徳川家康の言行二つ。一通りまとめ見たけど既出だったらスマソ。
「古人曰く『金は火を以て試み、人は言を以て試む』というごとく、
人々の思慮の浅さ深さは、その言葉によって知られるものだ。
一言でも軽々しいことを言ってはいけない。すべて偽りでも真実らしく語れば
偽りらしくはならず、真実だとしても稀なことは偽りらしく聞こえてしまう。
だから人は真実らしい虚言は言っても、偽りに思えるような真実を語ってはならない」
(名将名言記、霊岩夜話)
「武士に智慮や才能があること自体は良いことであるが、ないからといって
事欠くというわけではない。ただ一途に実直であれば智慮や才能は取り立てて
必要ない。武士として義理に欠けるのは刀剣の刃がかけているようなものだ」
(中泉古老物語)
――『徳川実紀』
0307人間七七四年
2012/09/01(土) 20:20:45.45ID:2SbrTl5L0308人間七七四年
2012/09/01(土) 21:13:27.32ID:APD26eze竹千代の遊び相手をしていた元忠は、自分の手に百舌を乗せたところ、
「百舌の置き方が悪い!」
と縁側から突き落とされてしまった。周囲の者は竹千代を諌め、元忠を心配したが、
当の元忠は
「私は以前、父の忠吉から『普通であればこの忠吉の子だからと遠慮する所を思ったまま戒めるとは大将の器量を
備えておられる。小事は注意するに及ばぬ。ただ忠勤に励め。』と告げられましたので、気にしていません。」
と答えたという。
0309人間七七四年
2012/09/01(土) 22:33:54.93ID:eWA0Nf07分別のおかげである」と仰っていた。その理由はこの様なことである
信長公の時代、幽斎のもとに信長からの使いが来て、このように申し渡した
『摂津・河内の内から12万石、もしくは丹後の内より12万石、このどちらか望みの方をそなたに遣わす。
返事は明日申し上げるように。』
そう伝えると宿所へ戻っていった。
幽斎は、摂津河内に12万石を頂くのがいいと考えたが、ともかく家中の重臣である松井佐渡守、
有吉四郎右衛門、米田次郎兵衛の3人を呼んで相談した。
有吉と米田は「丹後は遠国です。摂津河内は京都に近く、この二ヶ国の内を以って御拝領なされるのが良いでしょう。」
と申し上げた。
ところが松井佐渡守は
「私の判断を申し上げますと、選ぶのはこちらしかありません、丹後です。
丹後は確かに遠国です。京に近い摂津河内とは違います。しかし、ここで考えますに、
今後、天下(畿内)と西との争いがあった時、摂津河内はそれに巻き込まれ、必ず弓田の巷となります。
天下と東との争いがあれば、美濃尾張近江、この2,3ヶ国が戦場となると、古き者どもは言い伝えております。
私が考えますに、摂津河内の間で12万石を領したとして、天下と西との合戦が起こった場合、天下に付いたとしても
西に付いたとしても、その日のうちには裸城となり、その上12万石の領地も2,3年のうちに荒廃してしまうでしょう。
ただただ、遠国の丹後を拝領なさるべきです。
何故ならば、天下に何事があったとしても、50日100日の間には世間は静まるものですが、丹後にあれば
その間をゆるゆると観察することができます。これでこそ、御家を存続させられるのです。
判断を間違われてはいけません。丹後を拝領なさるように、どうかここは私にお任せ下さい。」
そう、たって申し上げ、これに幽斎も「ならば佐渡守に任せる」と、丹後を拝領することに決めた。
その後明智光秀殿が信長公を討った時、摂津河内は大いに乱れ、中でも摂津は二年間に渡り
荒廃し尽くしたという。
『長岡の家がこの被害を避ける事が出来たのは、偏に佐渡守の分別厚きゆえである。かの家が
今まで続き、今ほどの大名に成れたたのも、臣下である松井佐渡守のおかげである。』
当時世間では、このように噂し合ったという。
(川角太閤記)
松井興長による、長岡(細川)家生き残り戦略である
0310人間七七四年
2012/09/01(土) 22:51:51.24ID:NGozBoOj0311人間七七四年
2012/09/01(土) 22:52:34.99ID:mmhaNcaa親子揃って佐渡で紛らわしいパターンだ
0312人間七七四年
2012/09/01(土) 22:54:57.92ID:eWA0Nf070314人間七七四年
2012/09/01(土) 23:21:12.84ID:mmhaNcaa創作物で藤孝忠興をメインで扱ったネタが少ないせいかパッとしないのが残念だ
0315人間七七四年
2012/09/02(日) 00:11:44.54ID:rIaMy6lO0316人間七七四年
2012/09/02(日) 00:20:17.75ID:VLMvjT/b0317名無しさん@お腹いっぱい
2012/09/02(日) 08:19:15.29ID:+e0ZBmy7まず明智柴田丹羽滝川を織田四天王として次に羽柴蜂屋池田鬼武蔵か。
ここから直臣団限定で考えるなら河尻・菅屋・稲葉・工場長・Q太郎あたりが来るかな。
ちなみに菅屋長頼が北陸方面政務官時代に柴田や佐々らの了承を仰ぐことなく政務を執行できたという話から考えれば
前田佐々金森不破黒官クラスの高級与力ですら河尻や菅屋らより格が下がるということになるのかもしれないね。
0318人間七七四年
2012/09/02(日) 10:34:50.34ID:dIFPzsYv柴田、丹羽、羽柴、池田
あと間に合わなかった滝川あたりか
0319人間七七四年
2012/09/02(日) 11:23:37.26ID:ASu5Bnf2表面的に序列つけても意味無いぞ
0320人間七七四年
2012/09/02(日) 11:26:57.28ID:4ZBUMm/e0322人間七七四年
2012/09/02(日) 13:03:28.99ID:Uf9zdeBv0323人間七七四年
2012/09/02(日) 13:55:33.59ID:eZkwCU8B0324人間七七四年
2012/09/02(日) 14:49:05.08ID:bysBIx0B元忠さん…
三方が原で足をやられていなければ、
5人目の徳川四天王に入っていたかも知れないのに
0326人間七七四年
2012/09/02(日) 17:24:58.55ID:vdEO3Xolと思うし、あんまり考えても意味ないんじゃなかろうか。
評定の並び順、年賀や冠婚葬祭の席次など、どうしても順序付けが要る場面もあった
かもしれないけど、そういう場面では形式的な知行高や主君との続柄によって決まる
部分もあっただろうから、普段何もしてなくても一門や親族が上位に来たりしちゃた
だろうし。
有名な武田の四名臣や徳川の四天王も、あれ、家中の序列とは関係ないし。
0327人間七七四年
2012/09/02(日) 19:40:12.60ID:97xvV+IQ笹の才蔵こと可児吉長が福島家に呼び出された時のこと。
福島正則が才蔵に「何か芸はあるのか」と尋ねると、
これに才蔵は慎んで「自分の髪を結ったり髭を剃ることに関しては
年月をかけて手練致しましたので、それが上手になりました」と答えた。
近臣の者はこれを聞いて「まったく才蔵はうつけ者か捻くれ者だ」と
囁いたが、正則は「いやいや、後ろに眼がなければそのようなことは
中々修練できぬものだぞ。
それが上手ということは目に見えないことさえできるということ
なのだから、すなわち目の前のことは何でも簡単にこなせるという
ことだ」と言った。
果たして才蔵は武功比類なき者だったので「正則の目利きは流石に
たくみだ」と言われたということだ。
――『名将言行録』
0328人間七七四年
2012/09/02(日) 19:47:07.71ID:4j6t0bwt0329人間七七四年
2012/09/02(日) 20:05:53.90ID:y7y5CLrr0330人間七七四年
2012/09/02(日) 20:21:21.43ID:5SQsn3k00331人間七七四年
2012/09/02(日) 20:24:47.32ID:EH9UdyJK先ず酒井の先陣が、小笠原與八郎、菅沼新八郎、奥平といった寄騎とともに川を渡ったが、岸が高く
上がり兼ねていた所、榊原の部隊が真一文字に進んできて、上がり難き岸も「遮二無二押し上げよ!!」
そうして、「エイトウエイトウ」の掛け声とともに無理矢理に押し上がり、酒井の部隊の前に進もうとした。
これを見た酒井の部隊の兵たち「榊原の部隊に遅れては無念である!」と競いあうように岸に推し上がって進み、
そのため合戦にも利を得たという。
合戦後徳川家康は
「康政の二の手のやりかたは今後の手本となるべきものだ!二の手の行動はこのようにしたいものだ。」と、
大いに激賞したとのことである。
(常山紀談)
0332人間七七四年
2012/09/02(日) 21:17:00.12ID:TSf9tIc5梶までも壊れてしまった。元々磯の匂いをかいだだけで食事も出来なくなるほどの船嫌いだった直茂は
すっかり平常心を無くし、
「天下に名の知られた自分が、丸腰の死体で見つかっては子孫の恥だ。」
と言って、家臣に刀を渡す様に命じた。しかし、直茂が自刃するつもりだと察した家臣は命令を聞こうとせず、
そうこうしている内に波は静まり直茂も落ち着きを取り戻した。後に一部始終を聞いた正室の陽泰院は涙を流してこの家臣に感謝し、
直茂も
「あの時は不届きな奴だと思ったが、今となれば大功であったな。」
と褒めたという。
0333人間七七四年
2012/09/02(日) 21:23:24.77ID:bysBIx0B0334人間七七四年
2012/09/02(日) 21:36:15.62ID:bysBIx0B榊原康政はここでも先鋒を追い越してるね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4701.html
榊原の韋駄天走りっていうけど、榊原隊の足ってそんなに速かったのかな?
川渡るのも速いってことは、足腰が強いのか?
0337人間七七四年
2012/09/02(日) 23:09:27.13ID:i0Di4b3O0338人間七七四年
2012/09/02(日) 23:55:15.27ID:q4eQkX9k0339人間七七四年
2012/09/02(日) 23:58:08.08ID:NFIy7Xjx0340人間七七四年
2012/09/03(月) 08:00:19.26ID:7uXZt+i50341人間七七四年
2012/09/03(月) 10:32:56.10ID:6JFXRBeQみたいなもんだなぁ
0342人間七七四年
2012/09/03(月) 19:57:49.22ID:y3CmCXPeなんでも出来る康政さんがいの一番に最高禄で再就職が決まりそうだ
ラスボスが曹操が敵の檄文書きを許した故事に倣った場合の制限付で
0343人間七七四年
2012/09/03(月) 23:36:49.60ID:z0uybhUz石川五右衛門が出没していた頃のこと。朔望(陰暦の1日と15日)など登城の日に、
五右衛門は人々に混じって聚楽の城中に侵入し、自分のなまくら刀を他人の
良刀とすり替えていた。
人々は五右衛門の悪さに憤りを覚えてはいたがどうすることもできないでいた。
そんな時に浅野幸長は一計を案じた。玄関で従者に刀を渡して置き、短刀だけで
登城するようにしたのだ。
人々は幸長の智恵に感心してこぞって真似をするようになった。これによって
五右衛門の策略は大いに阻まれたという。またこれを境にこの習慣が士風となった
ということである。
――『名将言行録』
0344人間七七四年
2012/09/04(火) 11:27:27.96ID:vCHaTzWD元々は伊賀忍者で、百地丹波と不仲になり抜け忍となった者だというのもその一つ
0345人間七七四年
2012/09/04(火) 11:36:48.38ID:0vYdCqOT0346人間七七四年
2012/09/04(火) 11:53:39.75ID:vCHaTzWDもしかして「釜茹で」で天下の大泥棒とパスタかけてるのか?
と、ふと思った・・・
0347人間七七四年
2012/09/04(火) 13:54:23.27ID:B7gmyh/L0348人間七七四年
2012/09/04(火) 14:54:16.33ID:vsfNtztb0349人間七七四年
2012/09/04(火) 15:15:16.92ID:toG6VeEQ0350人間七七四年
2012/09/04(火) 16:23:47.36ID:tbL+Xau10351人間七七四年
2012/09/04(火) 17:18:49.30ID:kKXWwvby関白の威光を天下に見せつけた、と聞いたような
0352人間七七四年
2012/09/04(火) 17:49:17.22ID:vCHaTzWD0353人間七七四年
2012/09/04(火) 18:46:02.57ID:66aEW1aU0354人間七七四年
2012/09/04(火) 20:49:16.02ID:558OgzAr0355人間七七四年
2012/09/04(火) 22:34:35.83ID:eWf+5dah豊臣が滅びるわけであるな。殷周伝説的に。
0356人間七七四年
2012/09/04(火) 22:37:04.87ID:ABcqqwS2有名な話だけどまとめにはなかったので。
可児才蔵吉長が森長一(長可)に仕えていた時のこと。
長一は諏訪山の城及び大森上恵らの城塞を攻め、梶田に駐屯して
首実検を行ったところ、長一の軍は460程の首級を得ていた。
この時、才蔵は首3つをひっさげて来て「16級獲りました」と言った。
しかし申告と首の数が合っていないので長一がその理由を問うと、
才蔵は「多く獲りすぎたので捨てました」と言った。
そこで長一が「460余りすべて獲り主がおるぞ。お前が獲ったという
証拠はあるのか」と尋ねると、才蔵は「それがしが獲った首には笹の葉を
含ませてあります」と答えたので、
長一が命じて確認させると確かに笹の葉を含んだ首が13級あった。
こうした出来事により吉長は世に『笹の才蔵』と称されるようになった。
――『名将言行録』
自分が首を獲ったと嘘の申告をした人たちはどうなったんでしょうね。
鬼武蔵的に考えて(´・ω・`)
0357人間七七四年
2012/09/04(火) 23:17:09.50ID:vCHaTzWD葉隠の生々しさがない
江戸初期と明治初期の違いと言えばそれまでだが
0358人間七七四年
2012/09/05(水) 00:04:47.76ID:LHDOh62O>>348
熱湯に油足すなんて想像しただけでとんでもないことになりそうなんだがw
0360人間七七四年
2012/09/05(水) 02:51:21.41ID:UvmRVo0f0361人間七七四年
2012/09/05(水) 12:35:43.82ID:8NRM+OPl戦場でとった首を自分が討った証拠として口の中に笹を詰めてたから笹の才蔵と呼ばれた。
0363人間七七四年
2012/09/05(水) 15:34:48.27ID:CRaeouZK「(没後400年にあたる)2015年の大河ドラマに家康公を取り上げてほしい」と要望した。
一行は川勝平太知事、静岡市の田辺信宏、浜松市の鈴木康友両市長、同じく家康ゆかりの愛知県岡崎市の柴田紘一市長ら35人。
静岡商工会議所の後藤康雄会頭が代表してNHKの松本正之会長に要望書を渡した。
1963年に始まった大河ドラマに家康は何度か登場しているが、川勝知事らは「時代を先取りしていた平和外交などの功績を改めて伝え、
世界へも発信できるようなドラマをお願いしたい」と希望。松本会長は「家康の本は海外でもよく読まれている。(実現へ)検討したい」と応じた。
要望後は都内で推進委の総会を開き、岡崎市の関係者が新たに役員に加わることなどを承認した。
ソース 朝日新聞
http://mytown.asahi.com/shizuoka/news.php?k_id=23000001209010002
【静岡】「徳川家康を大河ドラマに」 川勝知事らがNHKに要望★4
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1346771459/
0364人間七七四年
2012/09/06(木) 01:23:09.70ID:YtAkjXeP仕事にかこつけて、ある者をこっぴどく叱り付け罵った。
その者はその場では一言も言わず座を立ったが、
その様子は叱り付けた男を討ち果たす覚悟を決めたようであった。
それを見ていた、ある人がその者を小屋に招き入れ、
「先ほどの行き掛かりで、貴方が遺恨を晴らそうと考えるのはもっともなことだ。
しかしながら、それは奉公に対する価値観が違うから遺恨が生まれたのではないかと、
差し出がましいが私はそう思うのだ。
その理由は、殿は、貴方や我らには万一の時に一槍働いてほしいと思っておられるから、
普段はいささかよそよそしい態度で召し使われる。
あの男などは平常のたいしたことのない雑用をする役と思っておられるから、
心安く気楽に召し使っておられるのであろう。
あの男は、それに気づかず、殿に気に入られ出世していると勘違いし、
平気で他人に無礼なことを言ってのける大たわけ者なのだ。
そんな大たわけ者だからこそ、殿も気軽に心安くお召し使いになれるわけであろう。
言うならば、蝿が頭にとまるのと同じだと思う。
そんな男を相手にして、大事の場でこそ頼みに思われているひとかどの侍が、
あのような者を討ち果たしたりするのは、
無頼の者と喧嘩をするようなもので誠に馬鹿げている。
その上、討ち果たしたなら、貴方もお咎めを受け、
いざというときのお役に立てず不忠ともなる。
この道理をよく考えて、思いとどまるのが真の侍と私は思う。
もっともこれは、貴方が思い通りにすればよいことで、
私はちょっと思いついたことを申し上げたにすぎぬ。
別に無理に引き止める気はさらさらないのだ」
と自分の考えを伝えた。
その者は、討ち果たすことを思いとどまったとのことである 【葉隠】
0365人間七七四年
2012/09/06(木) 08:00:14.86ID:d1oheUlOこの著者、長崎喧嘩の件は肯定的じゃなかったですかー
・長崎事件
佐賀藩深堀領の藩士と長崎会所役人役人との間で起こった刃傷沙汰
些細な諍いから最終的には深堀領藩士12名による町役人邸宅襲撃事件が発生
死傷者がでて、襲撃犯は全員切腹
0366人間七七四年
2012/09/06(木) 09:47:51.28ID:vEwQWjtK勤め人の処世術本てことか
0367人間七七四年
2012/09/06(木) 10:56:10.51ID:YtAkjXeP仰る通りで山本常朝は長崎喧嘩の速攻の仕返しを肯定していますが、
365さんが言いたいのは長崎喧嘩の肯定と>>364の件の肯定が矛盾してると思うということですか?
私は速攻の仕返しと刀を納める判断、共々の肯定を矛盾だとは思わないですよ
0368人間七七四年
2012/09/06(木) 11:12:49.27ID:YtAkjXeP知らない人もいるはずなので簡単に。
元禄十三年、雪どけがかかったかからないが原因で、
鍋島茂久家臣、深堀三右衛門、志波原武右衛門が、
長崎の街中で、長崎町年寄高木彦右衛門の仲間惣内と口論になった。
二人に殴られた惣内は、その夜深堀の屋敷に高木の家来を数人連れて、
仕返しを決行し深堀、志波原を袋叩きして、刀を奪いとり帰っていった。
この顛末を聞いた深堀三右衛門の息子嘉右衛門(16)と志波原武右衛門の下人が、
佐賀から長崎へ駆けつけて、両者の仕返しに加わり、
高木の屋敷にて、惣内と高木の者多数を斬り殺した。
深堀、志波原両氏は裁定を待つ迄もなく、その場で切腹し、
他の者も後に切腹、遠島などに処せられた、という騒動が長崎喧嘩です
0369人間七七四年
2012/09/06(木) 11:44:46.75ID:4c0Q4+vb0370人間七七四年
2012/09/06(木) 11:51:48.38ID:xtGWdsh30371人間七七四年
2012/09/06(木) 14:09:15.02ID:vEwQWjtK0372人間七七四年
2012/09/06(木) 14:37:09.07ID:sq9qGsAe0373人間七七四年
2012/09/06(木) 20:47:41.17ID:5SA8KMQY真冬になれば普通に雪降りますがな
沖縄と一緒にしないでください
0374人間七七四年
2012/09/06(木) 23:40:10.35ID:tGDPLmVV最近じゃ39度とか群馬や埼玉じゃ毎年だから驚かないけど。
0375人間七七四年
2012/09/07(金) 00:08:03.08ID:XKrcSWrh夏は平気で猛暑日だし
0376人間七七四年
2012/09/07(金) 00:40:36.18ID:2L3OHBfW0377人間七七四年
2012/09/07(金) 01:40:11.07ID:Rsq+95lt0378人間七七四年
2012/09/07(金) 12:20:19.73ID:iZdvwBUr0379人間七七四年
2012/09/07(金) 18:07:45.68ID:xlZ8SbNS江戸時代は小氷期で江戸でも現在の仙台並みの気候だったらしいと。
0380人間七七四年
2012/09/07(金) 18:37:08.30ID:ZMhg+6G30381人間七七四年
2012/09/07(金) 18:44:46.64ID:k1GWvWdU江戸の冬は寒かった。
安永2(1773)年と翌3年には、隅田川が結氷して舟の運航が止まっている。
天明元(1781)年にも川の氷を割って舟を通した記録がある。
文化9(1812)年も隅田川が凍ったそうだ。
200年前の文化6(1809)年には西洋自然科学者の司馬江漢(こうかん)が気温を測定している。
「予(よ)所持する寒暖昇降を以(もっ)て暑寒を計る」として11月から翌年1月10日までの気温を記録した。
日中でも0度や6度どまりであったらしい。
0382人間七七四年
2012/09/07(金) 19:28:23.72ID:yIisNEzp昔はスェーデンなど北欧含めたヨーロッパや北海道でも流行してたのね。
気温よりも、低湿地と劣悪な住環境が要因らしい。
0383人間七七四年
2012/09/07(金) 19:41:05.39ID:jBL3aG4B小田原征伐の時のこと。松田憲秀の手を見た太田資正は
「裏切る腹積りだ」と言った。この時、確かに憲秀は内通して
いたが、資正はその事実を知らなかった。
豊臣秀吉は何故資正に内通が分かったのか奇妙に思い「何をもって
そのように見たのだ」と尋ねた。
「憲秀の勇謀は人の恐れる所ですが、今日は軍備を正さず、諸卒を
戒めず、役所も巡りませんでした。もとより彼は臆するような者では
ありませんから、これは心を味方に通じた故にございます」
資正の答えを聞いて秀吉は大いに感嘆し徳川家康に向かい
「今ここに二つの不思議がある。何だか分かるか」と問いかけた。
「ひとつは三楽でありましょう。もうひとつは分かりかねます」
との家康の答えに秀吉は「わしは匹夫より起こって天下の主となった。
だが、三楽は智がありながら一国をも持つことはできなかった。
これぞ二つの不思議であろう」と言った。
また別の逸話では、秀吉は資正を召して曰く「その方は智仁勇を
兼ねた良将でありながら小身であるな。わしはひとつの徳もないが、
天下を取ることはもっとも得意とするところだ」ともいう。
――『名将言行録』
0384人間七七四年
2012/09/07(金) 21:16:38.44ID:66FBQWN/カリスマブリーダーとしての名声が無い
0385人間七七四年
2012/09/07(金) 23:30:18.49ID:gMAi9LmC0387人間七七四年
2012/09/08(土) 00:26:45.56ID:pq329bjA0388人間七七四年
2012/09/08(土) 00:36:50.78ID:gW8V74mr0391人間七七四年
2012/09/08(土) 01:51:12.97ID:2nUY889Z「雪が降りだしたらもうなんもかんも埋まるからどうしようもない」が切実
家康への釈明に「すぐ上洛しろとかこっち雪国なんですよ!?」とか言ってて凄く切実
0392人間七七四年
2012/09/08(土) 03:21:50.88ID:ky+0Fb5J謙信が三国峠を越えてはるばる関東に遠征しても、本国に帰れば雪で身動き
出来ないので北条が失地挽回してる。
権六も雪で北の庄から身動き取れなかったから滝川の挙兵と連動出来ずに
勝機を逃した。
0393名無しさん@お腹いっぱい
2012/09/08(土) 07:20:28.00ID:gML9kNR2これは武田晴信が今川家の「今川氏親制定の13か条」を参考にして1547年(天文16年)に定めた分国法である。
ちなみに信玄弟・信繁が残した「武田信繁家訓」の要素も加味して永禄年間には俗に言う「信玄家法」に発展していく。
普段のうつけさに似合わず真面目に「甲州法度之次第」の写しを読んでいる信長。読み終わった後で信長は言った。
「この晴信の法度を実行すれば皆が厳法に苦しんで乱を好む心配がある。わしの考えは違う。武勇の道が行われ策略の道に詳しく国の柱となる武士を望む。
領国の政治は領国の人物を見ればわかるものだ」と。
その発言を聞き付家老達は「まるで三歳の子が髭でも生えたことを申される」と涙したとされる。
(コーエー「爆笑信長の野望3巻」に載っていた「髭の生えた三歳児」のエピソードより)
織田家当主に就いて以降信長が一益や藤吉郎に光秀とかを抜擢してきたこと、また鬼武蔵のDQNぶりにも甘かったのは基本的にこういう考えが根っこにあったからか。
0394人間七七四年
2012/09/08(土) 10:13:44.54ID:MfN2127L美濃金山
0395人間七七四年
2012/09/08(土) 10:28:18.96ID:LCm9Tkwl「三歳の子が髭でも生えたこと」
の解説をお願いします
悪口にしか聞こえない
0396人間七七四年
2012/09/08(土) 10:35:30.79ID:kjs2/zUV0397人間七七四年
2012/09/08(土) 10:37:38.38ID:wxwCnopl0398名無しさん@お腹いっぱい
2012/09/08(土) 10:37:52.12ID:gML9kNR2のギャップの大きさがこういう表現になったんじゃない
「髭の生えた三歳児」という言葉は指す相手によって意味が変わるよ
神童や麒麟児を指す言葉である反面、程度の低い大人を揶揄する言葉でもある
0399人間七七四年
2012/09/08(土) 10:42:32.28ID:xlZ/MM+g取り寄せて品物を改めて見ると、なんとその鱈に、ほんの少しだが塵がついていた。伊豆守これを見咎め
「上に捧げるものに、このような粗相をするとはなんと不都合なことか!」
そう担当者をしたたかに叱りつけた。
と、この時たまたま、旗本の井上新左衛門が傍におり、
「伊豆殿、そんなにお叱りなさるな。そもそも鱈というのは、塵のついているものですぞ?」
「井上殿?それはいかなる理由ですか?」
すると井上新左衛門、大真面目な顔をして
「式三番(能の演目)にあるではありませんか、『塵や鱈り鱈り鱈』と謡いるので、
これにより鱈に塵が付いているのは当然のことであります」
(式三番の翁の謡、『とふ くたら里々々ら々りら々里とふ ちりやたら 里々々ら、里ら々り、ら々里とふ 、のもじり)
伊豆守これを聞いて、「また例の、新左衛門殿の滑稽よ」と打笑いつつ
「しかしそうであっても、物には念を入れるに若くはありません。」
と言えば新左衛門
「それは貴殿が御大役を勤められているので、その様にお考えになるのでしょうが、拙者のような
軽い者は余り念を入れすぎると、却って害になることもあるのですよ。」
「ほう?念を入れすぎて害になった例があるのですか?」
これに新左衛門
「大いにあります!昔、唐の玄宗皇帝が楊貴妃との死別を悲しみ、方士に命じてその魂のある所を
尋ねさせました。方士は方々を探し、ついに蓬莱宮で貴妃に会い勅命を伝えれば、貴妃もこれに悲嘆して
私の居る証拠にと、玉の簪を方士に与えました。方士はこれを得てそのまま帰ればその身の害も
なかったというのに、つい念を入れて
『この簪は世に似たものも多くある物ですから、この証拠になり難いかと思います。
貴方様と君との、人知れぬ睦言などがあればお聞かせ下さい。それを証拠として復命したいと
思います。』
これに楊貴妃、それもそうだと思い
『天にあらば願わくば比翼の鳥とならむ、地にあらば願わくば連理の枝とならむ』
との、玄宗皇帝との誓いの言葉を方士に伝えられました。方士はこれを承って立ち返り、
その旨を皇帝に奏上すると、これを聞いた皇帝は
『確かにこの密語は誰も知らないはずだ。これを伝えるからには貴妃に会ったに相違ない。
しかし、これほど他に漏らしたことのない密語を聞いて帰るからには、こいつめ!
貴妃と密通したに相違ない!!」
とて、是非も言わせず忽ちに方士を殺されたとのことです。これぞ念を入れすぎて却って身の害となった
という事ではないでしょうか?」
これに伊豆守、いよいよ大笑いして
「いや実に、その通りです。」
と笑いながら言われたとのことである。
(武士道美譚)
0400人間七七四年
2012/09/08(土) 10:44:37.89ID:UwE+UXHZ0402人間七七四年
2012/09/08(土) 10:49:54.68ID:vpJjED7R0403人間七七四年
2012/09/08(土) 11:36:42.30ID:pq329bjA0404人間七七四年
2012/09/08(土) 11:40:16.66ID:nDwjHDGOむしろ玄宗から褒美をもらってなかったか
0407「小田は勝つ」作詞作曲TEN歌AN
2012/09/08(土) 14:49:43.28ID:hvtbgZHucarry恩carryout討ち負け討ち取られ戦する切なさに少し疲れてもおー もう一度夢見よう
愛される喜びを知っているのなら
夜空に落城を見つけるたびに願いを託し儂は生きてきた
どんなに困難でくじけそうでも信じることさ必ず最後に小田は勝つ
0408人間七七四年
2012/09/08(土) 18:47:17.90ID:uWCrnhW/目線消してあったけど髭を生やした3歳児三成が載ってたノブヤボ本を見た記憶が…
0409名無しさん@お腹いっぱい
2012/09/08(土) 19:05:27.54ID:gML9kNR2三歳児三成は烈風伝のマスターブックに載ってる
それはかわら版内のネタとして使われてただけでゲームでは16歳から登場するようになってる
0410人間七七四年
2012/09/08(土) 23:04:17.56ID:QI+KIRTd大名の松永久秀に仕えていた侍だった。
老人が語る話によると、松永久秀はかつてキリシタン布教を取り締まるため、領内にいた2人の
宣教師を追放することにして配下の2人の侍にその追放令を宣教師たちに伝えるよう命じた。
(続く)
0411人間七七四年
2012/09/08(土) 23:17:41.82ID:QI+KIRTd2人の侍が宣教師たちに会ってみると、その教えが素晴らしかったので侍たちは感激してしまった。
松永久秀の所に戻った2人の侍は追放令を伝えたことと、宣教師の説く教えが
素晴らしかったことを報告した。報告を聞いた久秀は追放令を解除した。
その時の2人の侍の1人がこの老人であった。(耶蘇会年報集)
0412人間七七四年
2012/09/09(日) 18:02:23.93ID:G/YDcRto0413人間七七四年
2012/09/09(日) 18:26:08.18ID:9TP2VF3z0414人間七七四年
2012/09/10(月) 06:56:25.65ID:p7V+8Xg10416人間七七四年
2012/09/10(月) 11:41:31.41ID:gDOTx3uD0417人間七七四年
2012/09/10(月) 13:37:29.77ID:pqaYGti30418人間七七四年
2012/09/10(月) 18:56:42.51ID:r9jGWneM???「越後屋、オヌシもワルよのお」
0419人間七七四年
2012/09/10(月) 19:36:36.42ID:/iCxmnVj合流を果たそうとする九鬼嘉隆が、徳川の水陸軍に大敗を喫し命からがら逃げ帰るという、九鬼水軍の栄光の歴史を
曇らせた、屈辱的敗戦であった。
さて、小牧長久手合戦からしばらく経った後、九鬼嘉隆は豊臣秀頼に京の聚楽に呼ばれ、碁の相手をした。
秀吉は碁を打ちながら嘉隆にこう言った
「右馬充(嘉隆)は度々合戦し大いに手柄があった。日本においては2番目か3番目の、腕に覚えのある者であろうよ。」
この言葉に、嘉隆は
「しかし、蟹江の合戦では面目のないことでした。」
そう、秀吉に向かって謝罪した。蟹江の苦い敗北が、未だ心にわだかまっていたのである。
ところが秀吉はこれを聞くと
「いやいや、その方が手柄を成したのは蟹江の合戦の時である!」
「!?」
「撤退しがたい困難な戦場から、無事撤退したではないか。それが手柄である。」
(九鬼御伝記)
豊臣秀吉、九鬼嘉隆の撤退を評価する、というお話。
0420人間七七四年
2012/09/10(月) 19:41:12.79ID:O1uEiSgS0421人間七七四年
2012/09/10(月) 20:55:35.05ID:QZicFVel最後までまともなら朝鮮出兵は無かったかも
0422人間七七四年
2012/09/10(月) 20:56:00.69ID:Q6yXxDYQ0424人間七七四年
2012/09/10(月) 21:25:13.86ID:Ejnpqiiy0425人間七七四年
2012/09/10(月) 21:29:11.51ID:zpokYFvn0426人間七七四年
2012/09/10(月) 22:08:12.31ID:llk/cNji0427人間七七四年
2012/09/10(月) 22:54:52.02ID:KfiROu6F肝心の徳川が出兵してないって…
0429人間七七四年
2012/09/10(月) 23:18:10.03ID:gRP2F1in伊達越前守が、多賀軍の将に矢を放ち、落馬した所を片岡平次兵衛が首を取ったが、どちらの矢が当たったのか
左衛門尉と越前守の間で論争となった。北条氏康がその時の様子を平次兵衛から聞き、敵将の鎧を確かめた結果、
当たったのは越前守の矢と判明した。恥をかいた左衛門尉は切腹か北条家を去るしかないだろうと周囲の者は考えた。
所が、氏康は
「越前守、左衛門尉、平次兵衛の順に武功がある。」
として三人に褒美を与えた。
「左衛門尉が二番で、首を取った自分が三番なのは無念じゃ。」
と平次兵衛に言われると、氏康は
「敵を仕損じたのは運だ。左衛門尉は強い相手と戦った。勇士の誉れは軽くはあるまい。」
と説いたという。 家臣の武功をしっかり評価した氏康の逸話である。
0430人間七七四年
2012/09/10(月) 23:22:20.53ID:8yeZ0oMb0431人間七七四年
2012/09/11(火) 00:20:20.69ID:3xIVH+x8家来が七左衛門を猪と間違えて鉄砲で撃った。
その弾は七左衛門の膝をかすめたので、
七左衛門は高い所にいたので落ちてしまった。
家来は驚いてしまい、その場で腹を切ろうとしたのだが、
七左衛門は冷静な態度で、
「腹を切るなら後にしろ。
高所から落ち具合が悪い。
まずは水を飲ませてくれ」
と言ったので、家来は急ぎ水を持ってきて飲ませると、
ようやく七左衛門の気分が直った。
そこでまた家来は切腹しようとしたのだが、
七左衛門は無理矢理に引き止めて、
屋敷に連れ帰り、切腹しないように見張りを付けておいて、
父の官左衛門に、その家来を許してほしいと頼みこんだ。
官左衛門は、
「悪気があってやったことではないのだから問題ない。
遠慮することもないのだから、
これまでと同じように勤めてくれと伝えるように」
と申したとのことである 【葉隠】
0432人間七七四年
2012/09/11(火) 00:26:21.18ID:/7OcyAON0433人間七七四年
2012/09/11(火) 18:36:57.61ID:kKNGOlHu岐阜の役の時、堀尾吉晴の子・忠氏は戦功を立てた。
吉晴はこの日の勝利の報告を聞き、首帳を見たところ、
「首一つ、十五歳、山田多門兵衛」とあるのを読みも終わらず、
「近頃まで竹馬に乗っていた童がもう功名を立てたかぁ。
父親が存命ならどれほど喜んだことであろうか…」と涙を流した。
また「梯子権八の功名が記されていないのは何故だ。
討死したならともかく、功名については上から三番目以内に
入っているはずの者なのに」と怪しんだが、やがて飛脚がやって来て、
「権八は一番に続いて首を取りましたが、手負いのために
首帳に記すのが遅れました」と告げたので、
「私の見立てに狂いはなかった」と言ったということだ。
――『名将言行録』
0435人間七七四年
2012/09/12(水) 01:41:42.13ID:nQmp9Qs50436人間七七四年
2012/09/12(水) 08:31:53.66ID:50PrEYgu秀長軍は丸山城を厳重に取り囲んだが、丸山城も守将・山形九衛門を中心に堅く守り、戦況は膠着。
この攻防戦は長くなった。
その様な中、ある時城のある丸山の中腹に棲んでいた狼が火縄銃の音に驚き茂木の中から姿を表した。
狼を見た寄せ手の秀長軍からは、これを撃とうと鉄砲を放ったが、狼は再び林の中に戻っていった。
こんな事があって、秀長は丸山城中に遣いを出した。
『この山中に狼がいるのを見つけました。お互いに人数を出して、長陣の眠気覚ましに狼狩りをいたしませんか?』
この申し入れに山形九衛門は応諾し、双方の士卒が協力してたちまちのうちに狼を狩り取った。
さて、この獲物に羽柴秀長は、狼を分断して頭の方を時分の得分とし、尾の方に美酒十樽、良き肴の折り詰め十合を
副えて城中に贈った。
丸山城中の者たちは上下皆、長い籠城に水さえ尽きようとしていた状況であったので、酒盃の噂を聞いただけでも
口に唾が湧き、我先に飲もうとした。
が、ある者が言う
「ちょっと待て!これに酖毒などが混ぜてあったらどうするのか。これは飲んでいいものなのか!?」
皆、飲もうとした手を止める。と、この時籠城衆の一人、境三右衛門が声を発した。
ちなみにこの境三右衛門、この地に普請で来ていた所を、巻き込まれて籠城するはめになった者である。
ともかくも、境
「その疑問は確かにアリだな。だが疑うばかりというのも良くないだろう。まあいい、ここは俺が試しに飲んでみる!」
そう言って飯椀で6,7杯も飲み、そのまま酔っ払って寝てしまった。
境があまりにぐっすり寝ているので、籠城衆の中には彼が酖毒にやられてしまったのかと考え、彼の呼吸が有るかと
確認するものも居た。しかし泥酔していたので全く起きる気配もなく、さては毒殺されたのだと恐れるものもあった。
そうやきもきしていた所、薄暮れ燭台に火の灯る時分になって境三右衛門、茫々然として起き上がり目をこすり
欠伸をしながら曰く
「この酒は各地の銘酒にも負けない上物であるぞ!」
これを聞いた籠城衆、では我も飲まんと酒樽の前に蝿のように集まった。全く現金なものである。が、境は
「まてまて、ここで大酒して沈酔している間に敵が寄せてくれば、防御することも出来ないぞ!ここは俺に任せろ」と、
上戸下戸の分限に応じて過不足無く与えて飲ませた。
さてさて、酒を飲み干すと籠城衆、この謝礼に何を秀長の陣に遣わすかを話し合った。
こういう所、実に律儀である。
しかし兵糧さえ尽きかけており、余っているものなど何もなく、ただ鉄砲の弾薬が二十斤ばかり在るのみであった。
そこでまた境三右衛門、「では、この弾薬を贈ってやればいいんじゃないか?」
当然ながら他の籠城衆は反対した。「敵が寄せてきた時の用心のため、これは残しておくべきである!」
しかし境はこれを聞くと
「二十斤程度の弾薬なんてあっても、どれほどの役に立つっていうんだ?敵が猛勢で乗り込んでくれば、
こんな飢渇に疲れきっている城中に兵じゃ、たとえ何百斤の弾薬があってもどうやって勝利できるっていうのさ?
みんな刀を抜き連れて一文字に斬死するしかないよ。だから、あいつらに贈ってやればいいさ。」
この言葉に守将の山形九衛門も同意し、弾薬を積んで敵陣の前に置き、慇懃に酒肴の礼を述べた、とのことである。
(陰徳太平記)
丸山城攻防戦における敵味方の、酒とその返礼に関するエピソードである。
0437人間七七四年
2012/09/12(水) 08:49:32.17ID:pn7vjQcF0438人間七七四年
2012/09/12(水) 09:16:02.89ID:9xDUJjoA0439人間七七四年
2012/09/12(水) 09:19:26.09ID:50PrEYgu0440人間七七四年
2012/09/12(水) 09:56:41.64ID:tnas0R4k0441人間七七四年
2012/09/12(水) 12:34:19.08ID:imopRN8vほのぼのするようなムズムズするようなw
0442人間七七四年
2012/09/12(水) 15:36:13.73ID:5ZKU6dU90444人間七七四年
2012/09/12(水) 16:28:46.27ID:qqkt/iTnただし身分の高い捕虜に限る
0445人間七七四年
2012/09/12(水) 17:18:11.69ID:szRimrgYおもてなししても身代金でペイできるからね
捕虜取るのは身代金目的だし
したがって身分の低いものは捕虜にしない
0446人間七七四年
2012/09/12(水) 17:28:57.92ID:qqkt/iTn身代金に上乗せしといてとか言っちゃうからこっちがクラクラしちゃうよ
0448人間七七四年
2012/09/12(水) 17:44:38.34ID:nt03bDac実はハナから恒常的な税収アップを狙ってた、というはなしだが
0449人間七七四年
2012/09/12(水) 18:19:25.35ID:pG/zhTHO0450人間七七四年
2012/09/12(水) 19:17:51.71ID:m5DSgVvi>449、ライオンハートがマジキチな出兵するからだろ・・・ジョンのほうがマシかもしれんw
0451人間七七四年
2012/09/12(水) 19:20:49.67ID:aJ01f6fr以下、小牧長久手の戦いの逸話の脚注。
一説にこの時(豊臣秀吉が竜泉寺にいた時)、
酒井忠次が「秀吉を討つのは今日です!」と言ったところ、
(徳川家康が)「『勝って兜の緒をしめる』とはここだぞ」と仰せになるので、
忠次は重ねて「先陣を破ってことごとく討ち果たすのです!」と言い、
「只今が最良の状況じゃ」などとやり取りしている内に敵はすぐに柵を
設けたので、忠次は「明日は秀吉に降参なさいませ」と言ったとか。
これも(先の逸話の)榊原康政と同様のことを伝えているのだろう。
――『徳川実紀』
関ヶ原以前にも例の言葉を言ってたというお話。
権現様の好きなフレーズだったりするのだろうか?
0452人間七七四年
2012/09/12(水) 20:12:02.71ID:H9nOBwuI家康もだけど忠次みたいなのも頑固っていうのかな?
0453人間七七四年
2012/09/12(水) 20:50:51.25ID:qqkt/iTn0454人間七七四年
2012/09/12(水) 21:07:29.89ID:bE75FO7m家康に直言出来る身分は限られるんだろうけど
入れ替わり立ち替わりこんなんばっか来たら嫌だなww
0455人間七七四年
2012/09/12(水) 21:40:55.74ID:nQmp9Qs50456人間七七四年
2012/09/13(木) 17:32:31.66ID:IPx2QTOchttp://hondashi.jp/scr/
0457人間七七四年
2012/09/14(金) 00:41:33.73ID:QVL12HlA信州真田家に仕える玉川伊予守の足軽が大病を患いった。
そしてこの足軽の妻には何十年と連れ添った夫に対してどうしても聞いておきたいことがあった。
「貴方は年毎に伊勢へ代参しましたが、出立の前夜には
貴方は伊予守様と二人で一晩中話されていました。
さらに同じように伊勢へ代参する人より七日や十日も遅れることが八回もありました。
このわけを教えてください。」
この妻の問いに対し足軽は始め無言だった。
が、いよいよ危なくなった足軽は妻を呼び戻して語りだした。
ある時足軽は玉川伊予守の伴として二人で伊勢へ代参した。
二人は代参の後熊野へと向かう。民家民家がない山道を二日も行くと、岩屋へと着いた。
玉川伊予守は足軽を口元に残して岩屋へ入っていき、一夜そこで過ごして帰った。
その後は毎年正月になると足軽は一人で熊野の岩屋へ行くことになった。。
いつも『上』とだけ書かれて封じられた鳥目十疋ほどの重さの状箱を持たされて
正月の十五日から末の間に岩屋へ着き、一日か二日口元で待る。
すると中から帯まで真っ白な総髪を垂らした七十ほどの翁が出てきて、無言で封状箱を受け取る。
一夜過ぎると返礼らしく『参る』と書かれて封じられた状箱が返され
信州へ戻り状箱を玉川伊予守へ渡して足軽の役目は終わる。
これらのことをしてから一時ほどして足軽は死んだ。
0458人間七七四年
2012/09/14(金) 12:42:20.61ID:aI7Dyn3B0459人間七七四年
2012/09/14(金) 13:44:13.20ID:/riK4bBE0460人間七七四年
2012/09/14(金) 13:53:29.26ID:fDVJvPNN岩屋だけに
0461人間七七四年
2012/09/14(金) 14:07:17.34ID:hIlXJNGm信繁生存伝説とかじゃない? 鬼のような形相の信繁が、
姫のような秀頼を抱えて云々という伝説の続きみたいな感じの
0462人間七七四年
2012/09/14(金) 14:46:20.54ID:9RdCluZd0463人間七七四年
2012/09/14(金) 21:09:25.69ID:plGmYg29用事を済ませ帰ってきたところ、
鍋島家のお屋敷前で、幕府の御目付衆とばったり出会った。
御目付衆は、喜兵衛の腰の物を見て、
「その刀は御法度違反のようだ。
大小の寸法をはからせてもらうぞ」
と言って馬を止め喜兵衛を取り囲んだ。
囲まれた喜兵衛は、小膝を折って、大きな声で、
「私は当屋敷鍋島信濃守の家来です。
国もとより用事を申しつけられ、
昨夜、江戸に到着しました。
江戸の御法度については、主人より厳しく申し聞かされ、
長い大小をたずさえることが御法度だと承知致しております。
しかし江戸への道中、ことのほか治安の悪いところもあり、
若輩の身ではじめての旅ゆえに、寸延びした大小を差して来ました。
ですから江戸では規定の大小を差そうと、
大小を準備するために町方へ行き、
ただいま帰ってきた次第でございます。
お咎めを受けたうえは、私一人の命の覚悟は定めました。
ただし、主人が御法度を私に申し聞かせていたことは、
しっかりとお耳におとめおいてくだされ」
と言って、束に手をかけ、必死の色をあらわした。
御目付衆はたじたじとなり、
「それならば問題ない」
と言ってその場を去った。
このなりゆきを見ていた屋敷じゅうの鍋島の者たちは、
門の内側に詰めかけて、喜兵衛の身になにかあれば、
すぐに斬って出る構えで成り行きを見守っていた。
屋敷奥にいた勝茂様もその報告を受け、
「喜兵衛ならば、当家の恥になるふるまいはしないだろう」
と繰り返しおおせになりながらも、
やはり心配なようで歯がみをなさり、
何度も使いの者を様子見につかわされた。
事が済んだのち、喜兵衛には羽織をたまわったとのことである 【葉隠】
0464人間七七四年
2012/09/15(土) 01:01:11.91ID:Lmw7Wf7H0465人間七七四年
2012/09/15(土) 01:30:28.65ID:0S33Rrqd0466人間七七四年
2012/09/15(土) 04:17:29.76ID:cHnSDcNE0468人間七七四年
2012/09/15(土) 12:47:01.89ID:17iBZplU武士の鏡だねぇ
0469人間七七四年
2012/09/15(土) 12:52:45.24ID:vaYI/Sdh0470人間七七四年
2012/09/15(土) 14:45:10.93ID:mD0XS7/x0474人間七七四年
2012/09/15(土) 18:18:05.17ID:fg19uC2/0475人間七七四年
2012/09/15(土) 18:18:19.44ID:sUUSV7x9でもローマでも
重装甲騎兵は落馬すると自力で再騎乗できないwので
再騎乗補助のためにおつきの人がいるのだけど、
この人たちを攻撃してはいけないルールがあったような。
0476人間七七四年
2012/09/15(土) 18:52:00.00ID:YIfNn8CK平家側の矢が足りず序盤で撃ち尽くしてしまったため
一方的に射られて無防備な水夫や舵取りが先にやられてしまっただけ
防具つけてないからね
0477人間七七四年
2012/09/15(土) 18:56:25.20ID:Lmw7Wf7Hいくさには華がないと
0478人間七七四年
2012/09/15(土) 18:59:06.21ID:JKvx2fFLなんでもありなようで一応最低限の紳士協定みたいなもんがある
それがなくなったらどう言い訳しようが虐殺
0479人間七七四年
2012/09/15(土) 19:28:00.18ID:HoKRRRu5どうみても傀儡な安徳と神器が海中に沈んだのも
ああ、これは生かすつもりはないんだな・・・って
0481人間七七四年
2012/09/15(土) 19:40:55.93ID:KRc/z4lc0482人間七七四年
2012/09/15(土) 20:18:15.87ID:CBep5anU0483人間七七四年
2012/09/15(土) 21:18:55.09ID:hE7L6WJq0485人間七七四年
2012/09/15(土) 23:47:02.19ID:Ju7dJweT0486人間七七四年
2012/09/16(日) 15:19:06.54ID:uHw9FAYx家康の四男の松平忠吉は、関ヶ原東軍の大将格だったという話を。
実際に岳父である井伊直政の補佐を受けて初陣ながら敵の首級をあげる等の活躍もしている。
徳川殿御代官として薩摩守忠吉殿は、海道の大将を任じられ
井伊と本多を軍奉行として東軍の諸侯を引き連れて攻め上がった。
(『藩翰譜』)
0488人間七七四年
2012/09/16(日) 17:15:51.53ID:laZ2rNPL忠吉の活躍が光ると関ヶ原に遅れた兄の威光が…と
意図的に目立たないようにされたとも言われてるし
0490人間七七四年
2012/09/16(日) 19:20:22.39ID:uHw9FAYx忠吉が結果的にボロ勝ちした東軍の大将に任命されていたとうのがミソだという話で
一方の秀忠は?というさ
0491人間七七四年
2012/09/16(日) 19:28:27.63ID:OVd5hny2何時ごろたどり着いたかよく判らんのだよなぁ
0492人間七七四年
2012/09/16(日) 19:35:17.42ID:P66boEXV0493人間七七四年
2012/09/16(日) 19:44:24.40ID:wUfnLzC30494人間七七四年
2012/09/16(日) 19:45:15.08ID:aDytPG2O0495人間七七四年
2012/09/16(日) 19:58:27.10ID:OaS8+f8cさて、天正15年(1587)の、肥後国人一揆において吉川広家は黒田孝高・長政親子らと共に、
城井鎮房の籠る城井谷城を攻めていたが、城井方のゲリラ攻撃に長政が不覚を取るなど、
大いに苦戦していた。
そこで広家、孝高・長政親子は相談をし、城井鎮房に対し和議を提案することとし、
その使者を吉川広家より出すことと決めた。
広家はこの使いを、横道権之丞に命じ、城井鎮房に対し
『あなたが黒田に対して何の遺恨もないのに防戦に及ぶことは、秀吉公の意に逆らう行為です。
早々に和睦を受け入れ、黒田親子の下知に従うのが、最も良い選択です。
過去の戦闘の罪は、この広家が善きように処理します。
秀吉公より御赦免いただき、またあなたの本領が相違無く黒田親子より渡されるように私から
言っておきます。』
そう言い伝えるよう命じた。
ところが権之丞はこの使いに直ぐに向かおうとせず、日が暮れ夜に入ってから、大松明に火を付けさせ、
少しの忍ぶ景色もなくテクテクと歩いて行き、城の近くまで来ると
「吉川蔵人頭広家の使いである!!」
と、頻りに呼びかけたので、これを聞いた城中の者たちはすぐに城井鎮房に知らせた。
城井鎮房は人を出して権之丞に目的を尋ねると、彼は広家に言われた内容を伝えた。
これを聞いた城井鎮房は広家の提案した和議条件に同意し、直ぐ様降伏して黒田親子の手に属した。
まあ、この和議が後にどす黒い事態を起こすのだが…
ともかくも横道権之丞は見事大事の使者に成功したのである。
その後、ある人が横道権之丞にこの時のことを聞いてきた
「あなたはどうして、日が暮れてから城に向かったのですが?」
これに権之丞答えて
「こういう使いに、白昼うかうかと行っては、もし伏兵などに取り巻かれた場合、自分は
和平の使者だ、なんて自分の説明をしても、雄に逸った若者なんかは『そう言って騙す気だな!』なんて
言ってきて、確認も無しに討たれる事もあるんだよ。
だからわざと夜になって、松明を燃やし、何も隠さない形で行ったのさ。
そういうふうに行くとね、敵も『あれはなんの用がある使いだろう?』と考えて、うかつに
討ち取ったりはしないものなのさ。
俺はそういうふうに考えて、日が暮れてから城に向かったんだよ。」
と、その様に語ったそうだ。
(陰徳太平記)
横道権之丞の、交戦中の敵へ使いする心得についての逸話である。
0496人間七七四年
2012/09/17(月) 08:20:13.27ID:ggqP0q70広家の逸話はもっと発掘されて欲しい
0497人間七七四年
2012/09/17(月) 10:34:00.46ID:IUG41wpy0498人間七七四年
2012/09/17(月) 10:47:43.78ID:9G+wQdsj0499人間七七四年
2012/09/17(月) 11:36:33.59ID:rT5UwMWz0500人間七七四年
2012/09/17(月) 23:00:29.29ID:Pg1WQe+C徳川四天王の榊原康政と井伊直政の関係は初めは良好なものでは無かった。
武田家の遺臣が康政よりも13歳も年下で、まだ元服を終えたばかりの直政の付属部隊になった時は
「若造のくせに。こうなったら万千代と刺し違えてくれるわ」
と言い放ち、徳川四天王の長者である酒井忠次に叱責される有り様であった。
0501500の続き
2012/09/17(月) 23:05:59.55ID:Pg1WQe+C後に康政と直政は深い信頼関係で結ばれた間柄となった。
直政が先陣すると康政は安心し、康政が従軍するとあれば直政が安堵した。
「俺が直政より先立てば必ず直政は病気になり、直政が先立てば俺もすぐに死んでしまうだろう
そして家康様のお心を知るのは俺と直政だけだ」
康政は常々語っていたという。
0502501の続き
2012/09/17(月) 23:11:02.62ID:Pg1WQe+C(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5007.html)
その席で関ヶ原本戦に間に合わなくて凹んでいた康政を真摯に励ます直政の姿があった。
関ヶ原から1年半後に直政が没すると、井伊家の行く末に康政が心を砕き何くれとなく世話を焼いている。
そして直政の死から4年後、康政もその生を静かに閉じた。
0503人間七七四年
2012/09/17(月) 23:27:16.00ID:hP+Fqc6y0504人間七七四年
2012/09/17(月) 23:43:55.42ID:XlIBp+gt0505人間七七四年
2012/09/17(月) 23:52:43.41ID:motsuw+B0506人間七七四年
2012/09/18(火) 00:10:50.90ID:e0Z3PZXP直政没後の井伊家を親身に守ってやろうとする康政からの書状があるね
0508人間七七四年
2012/09/18(火) 00:56:47.27ID:RSgyjJ8e0509人間七七四年
2012/09/18(火) 03:53:01.83ID:rLDRY1Tr寺の伝承によると、ある時この寺付近で夜な夜な妖怪が現れ
付近住民達が難儀していたところ、偶然現地に立ち寄った石田三成によって妖怪は退治された。
以来、この寺は寺紋に石田氏と同じものを使うようになり退魔寺と呼ばれるようになったという。
0510人間七七四年
2012/09/18(火) 03:56:46.02ID:rLDRY1Tr異説もありますが、三成が妖怪退治というかなり意外でユニークなエピソードなので紹介します。
因みにこの寺はその名の通り、魔除けや開運に御利益があるそうです。
0511人間七七四年
2012/09/18(火) 05:03:33.33ID:4PyLIHdj俺は好きだなぁ
0512人間七七四年
2012/09/18(火) 07:38:44.21ID:Vz2pnaMF0513人間七七四年
2012/09/18(火) 08:13:06.71ID:9cLo9fyK普通なら改易級のことを代々の藩主がやらかしたが、「榊原家は別格だから」許してもらえたけど、
代わりに転封になった。
あと、井伊家は京都の監視役として動かせない。
0515人間七七四年
2012/09/18(火) 08:58:39.96ID:O72/6u+N息子だかが井伊家の家老になったんじゃなかったか
0516人間七七四年
2012/09/18(火) 09:00:47.26ID:SxCuHzyl0518人間七七四年
2012/09/18(火) 09:20:57.87ID:TaHAp6Fu本来はない言葉のはずだ、という場面があったが
そんな名前の寺が
0519人間七七四年
2012/09/18(火) 10:04:46.71ID:ELXhib7U0520人間七七四年
2012/09/18(火) 10:48:35.41ID:fVvg/iSg寺生まれのIさんだ!
0522人間七七四年
2012/09/18(火) 11:37:34.06ID:/ArkAxyN0525人間七七四年
2012/09/18(火) 16:27:10.66ID:cfjdAnJPネットで検索した限りでは、
・三成自ら一刀のもとに叩っ斬った
・兵を遣わして退治した
という二説があるようですな。
0526人間七七四年
2012/09/18(火) 17:05:29.37ID:dppfpZmO0527523
2012/09/18(火) 17:17:16.63ID:Um4w4ZLW読みばかり頭にあってそのまま変換したw
そりゃ大麻になるよなw
0528人間七七四年
2012/09/18(火) 17:24:06.40ID:7lyVOqbvいや、なんでもない
0529人間七七四年
2012/09/18(火) 17:26:42.07ID:CwYnrZCa酒持った爺さんとすれ違った瞬間
「あの爺、妖怪に違いない!」とたたっ斬るくらいの描写は欲しいよな
0530人間七七四年
2012/09/18(火) 17:33:03.79ID:RSgyjJ8e閻魔直江が親友な時点でかなり嫌な奴だったのは間違いないな。
0531人間七七四年
2012/09/18(火) 17:39:21.02ID:4hdCfDY/大谷は実はそうでもないという話だけど
0532人間七七四年
2012/09/18(火) 17:55:33.11ID:LRZJi5c4三成の話?
なぜ直江が閻魔なのかわからんが直江も信之も外交相手というだけで
別に親友じゃないよ
0535人間七七四年
2012/09/18(火) 21:51:04.05ID:xbGLf+yuところがこの日本丸、元はその名を”鬼宿丸”といった。
その鬼宿丸が日本丸と名を変えたのは、この様なエピソードによる
大陸出兵のため、名護屋には全国の大名の軍船が集結し、豊臣秀吉はそれを観船した。
と、ここに九鬼水軍の鬼宿丸も現れる。これを見た秀吉は叫んだ
「日本の諸大名が軍船で数多く集まったが、これ程カッコイイ船は未だ見たことがない!
この船は日本においては一番カッコイイ船という意味で、日本丸と名付けよ!」
(日本諸大名数多ク参リ候ヘドモ、コレ程恰好ノヨキ船未ダ見ズ、日本ニテハ一番トイフ心ニテ、日本丸ト名ヅケヨ)
こうして鬼宿丸は、『日の本一の日本丸』となった。
日本丸命名の理由は、カッコ良かったから、というお話である。
(九鬼御伝記)
0536人間七七四年
2012/09/18(火) 22:34:41.40ID:ELXhib7U0537人間七七四年
2012/09/18(火) 23:13:31.85ID:N+tsbxf8ひょっとしてこれが由来?
0538人間七七四年
2012/09/18(火) 23:18:33.64ID:s8cq1jAA0539人間七七四年
2012/09/19(水) 00:38:28.52ID:ddNfTXth0540人間七七四年
2012/09/19(水) 10:30:02.06ID:EypCEZv50541人間七七四年
2012/09/19(水) 10:54:30.20ID:0GaEnQMr0542人間七七四年
2012/09/19(水) 15:50:36.35ID:ob/wPDot0543人間七七四年
2012/09/19(水) 16:17:21.66ID:+v06Lauw0544人間七七四年
2012/09/19(水) 19:59:23.66ID:X+QsUgfZ0545人間七七四年
2012/09/19(水) 20:42:20.64ID:FF1BiZBv彼は俗世のことから離れ瀬戸内の風光を楽しみ日々を過ごしていた、
そんなある時、毛利家家臣、林吉兵衛入道梅林が、京より帰国の途中、三原城に立ち寄った。
隆景は梅林と対面し、
「どうだ梅林、京に珍しいことはあったか?最近わたしは上洛していないので、京の噂にも
すっかり疎くなってなあ。」
と話しかけると、梅林
「そうですなあ、特に珍しいというほどのことは無かったように思いますが…、そうそう
この間何か花を遣わすため京の町中を歩いていると、隆達の小歌(隆達節)の中に、
『面白の春雨や。花の散らぬ程ふれ』
と申す歌があるのですが、これが大いに流行っておりまして、男女僧俗、80歳の老人から3歳の幼児まで、
尽くこれを歌っていました。」
「ほう、それは誠に面白い歌だ。されば一節、お主、歌ってみてくれないか?」
「わ、私がですか!?こんな老いさらばえて、気の抜けた歌を聞かれるのは恥ずかしいのですが、
厳命であれば仕方ありませんな!」
そう言い訳しつつ一曲。まんざらでもないようである。
しかし梅林、歌ってみると音程が全く安定せず、歌い終わって後悔
「今から30も40も若ければ、音も少しは麗しく、節回しや拍子もお聞きやすくできたのでしょうが、
私ももう60を超えて、いやはや聞く人の耳を不快にさせてしまうでしょう。
まったく、老いほど恨めしいものはありません。高歌の一曲にある、昨日の少年今は白髪とは、
今このジジイの身の上に知れます。」
しょんぼりしている梅林に隆景笑いながら
「いやいや面白かった。もう一回歌ってくれ。」
「面白い!?この老人入道が声をかすれさせ息継ぎも必死だったその姿を、黄門様は
面白がったのですか!?酷い!」
梅林、すっかり拗ねてしまった。
「これこれ梅林、そなたの声音を面白いと言ったのではない。その歌詞、『面白の春雨や。花の散らぬ程ふれ』
という語意が面白いと言ったのだ。
梅林、広島に帰ったら、輝元様にその歌を聞かせなさい。
輝元様はまだ若い。どんなに賢く在っても、万事の好みに偏りが出来てしまうものだ。
面白の儒学や、武備の廃らぬほどに嗜め、
面白の武道や、文事を忘れぬほどに、
面白の歌学、面白の乱舞、面白の茶の湯の道、
これらに身を捨てぬほどに好まれよと、あの歌は歌っているのさ。
どんな良いことも、中くらいを過ぎる事の無いよう嗜むべきで物である。
諸道を嗜む姿勢は、この歌の一言を以って成すべきなのだ。
返す返すも、輝元様によく聞かせなさい。老臣、奉行たちにもこの歌の心を会得させなさい。」
小早川隆景、隆達節から物を好む姿勢を語る、というお話
(陰徳太平記)
0546人間七七四年
2012/09/20(木) 00:23:05.42ID:sP9kkh1B0547人間七七四年
2012/09/20(木) 00:52:09.41ID:jFNwSsNH0548人間七七四年
2012/09/20(木) 14:02:57.36ID:/XjT+PGh0549人間七七四年
2012/09/20(木) 15:25:21.84ID:nQESUkPH0550人間七七四年
2012/09/20(木) 18:16:31.16ID:SHb5RPY50551人間七七四年
2012/09/20(木) 18:39:56.38ID:UVLY0Ayrまとめで少し触れられていたけど語られていない部分もあったので。
伏見にて、徳川家康は猛暑を避けるために城の櫓の上で涼んでいた。
この時、台所に出入りする下人たちの様子を見ていた家康は不機嫌な様子で
本多正信に語りかけた。
「下人どもは様々な物を懐や袂に入れたり、宿直の荷物に包んで退出しておる
ようだが、どうやら官物をくすねているな。官長の注意が足りぬからこうなるのだ」
「それは、実にめでたいことですな」
「何? 下人の盗みがめでたいとは何事だ!」
「岡崎におられた頃はもちろん、浜松に移られた時も御分国が広大になったとはいえ、
台所の物は鰹節一本とて盗むことはできませんでした。
しかし、関八州の大守となられ、海内第一の大名にして天下の政務にも御参与なさって
おられますと国々の国守より貢物奉ることおびただしき故に、自然と裕福にもなりましょう。
ですから、かような盗人も出てくるのです。いや、これぞ御家繁栄のしるしですな。
前波半入がいつも御前で歌う小歌で、お聞きになったことはありませんか?
『御台所と河の瀬はいつもどむどむとなるがよい』というやつですよ」
正信の言葉を聞いて家康は「佐渡の言うことはいつもこれだからな」と微笑んだ。
――『徳川実紀(霊岩夜話)』
0553人間七七四年
2012/09/20(木) 19:47:32.44ID:jFNwSsNH0554人間七七四年
2012/09/20(木) 19:50:56.86ID:8R7FfNr6もちろん健康中毒の権現様も
0555人間七七四年
2012/09/20(木) 19:53:09.63ID:MSrsUEOF0556人間七七四年
2012/09/20(木) 21:51:18.00ID:h6soEjVJ0557人間七七四年
2012/09/20(木) 21:59:42.85ID:QZgNRW+q本多さんとどっちが正しいのかわからぬが(笑)
0558人間七七四年
2012/09/21(金) 06:05:43.15ID:iy/kyvss0559人間七七四年
2012/09/21(金) 11:04:41.29ID:dwvUxS1x教えてエロい人。
0560人間七七四年
2012/09/21(金) 11:08:21.83ID:+I3Db/Btドムドムハンバーガー
私たちドムドムは、お客様を大切に、そして喜んで頂けるお店作りを目指しています。
0561人間七七四年
2012/09/21(金) 11:43:54.54ID:N7QhuWx+0562人間七七四年
2012/09/21(金) 18:36:02.88ID:vPe/m93+ある雨の日、徳川家康は浅野長政を呼んで「賭碁をするぞ」と言った。
「では私が勝ちましたら、本日別室に控えております船越五郎右衛門(景直)
の倅を上意をもって召し寄せて下さいませ」
「ほう、それは変わった賭けだな。何か理由でもあるのか?」
「はい。五郎右衛門は戦場での振る舞いは天晴れな武者だ、勇者であると
諸卒から大いに賞賛されたものですが、御治世の今では誠に不甲斐ない
臆病者と聞こえております。
この者は中頃に(秀次事件で)御勘気を蒙り、南部へ遠流させられ、
七、八年後に帰参を許されましたが、未だに名跡を継がせる嗣子がおりません。
元々、本妻には子がいなかったのですが、蟄居の折、南部で一男をもうけまして、
本妻の憤りを恐れて披露できなかったようでして」
「そういう事情ならば賭けには及ばない。
その配所での産子を早々に呼び寄せて嗣子とするように」
路次伝馬などについて定めた後、二人は囲碁を始めたという。
――『名将言行録』
0563人間七七四年
2012/09/21(金) 18:42:36.66ID:2M0Px8yd0564人間七七四年
2012/09/21(金) 22:01:54.76ID:LqlbWoBIいかんせんどんな人物だったか、まではよく知られていない
ウィキペディアですらわずか2行(ほとんど1行といってもいい)ほどしか記述がない
そんな稙通だが戴恩記にこんな話がある
あるとき稙通に色々物を習っていた松永貞徳が、4、5日出かけて戻ってきたときに
稙通が「どんなことがありましたか?」と聞いてきたので貞徳が
「いやあ聚楽第の毛利の屋敷で連歌の会がありまして
このとき里村紹巴殿(明智光秀の連歌の会の件でも有名な人)
が庭に咲いている梅花を見て
『梅の花 神代もきかぬ 色香かな』
(この梅の花の色や香りは 不思議なことだらけだったっていう神話の時代にも聞いたことないぜ!)
と呼んだのでみんな喝采の拍手でした」
と言ったらここで稙通
「おやおや、紹巴殿は連歌の腕は確かのようですが
いかんせん古歌には精通していないようですなあ」とご立腹だった
どうしてかと貞徳がわけをきくと
「いいですが、神話の時代にも聞いたことがないとは
在原業平がかつて
『ちはやぶる 神代もきかず たつたがわ からくれないに 水くくるとは』
(竜田川がまるで真っ赤に絞り染めしたように一面紅葉だらけで美しいぜ!
こんなのは不思議なことだらけだったっていう神話の時代も聞いたことがない!!)
と詠んだように具体的に竜田川の見たこともない美しい光景をとって
神話の時代にも聞いたことがないと言っております
同じように夢庵も
『冬咲くは神代も聞かぬ桜かな』
(冬に咲く桜なんて、不思議なことだらけだったていう神話(以下略))
と詠んでいます、これは冬に桜が咲く珍しさと、場所も伊勢ということもあって
神話の時代にも聞いたことがないと言うに相応しい
それにつけて紹巴殿は大して珍しくもない梅の花につけて「神話の時代にも聞いたことがない」
とおっしゃっています、一体何の根拠があってそんなことを言うのでしょう」
これには貞徳も「俺のような若輩者にもなんて分かりやすくて最もな説明……!!」
と感心したそうだ
九条稙通の教養のほどがうかがい知れる話
0565人間七七四年
2012/09/21(金) 22:22:19.27ID:p2VB2c/X0566人間七七四年
2012/09/22(土) 00:09:56.87ID:EB2SNDHC0567人間七七四年
2012/09/22(土) 02:21:26.19ID:OMEEsOQLでも基本、公家と武士って名前そんな違わないでしょ?
0568人間七七四年
2012/09/22(土) 11:02:12.04ID:hBrVEyEn諱の場合は好んで使われる使われる漢字(含む通字)に差があるな
言継とか雅庸とか実条とか武士ではなかなかお目にかからない
0569人間七七四年
2012/09/22(土) 11:12:38.65ID:Rak/zI8J0572人間七七四年
2012/09/22(土) 18:22:07.02ID:BpCeoGsi堀尾吉晴は十六歳より従軍して四十年あまりの間に大小の戦に臨み、
自ら先駆けて多くの敵を討つこともあれば、士卒を下知して城を落とし、
陣を破ることもあった。
しかし、吉晴はそれだけの武勇がありながら深く慎み、子息にさえ
己の武勇を詳しく話そうとはしなかった。それでも自然と世に知られた
高名は二十二度といわれる。
ある人が吉晴の子・忠氏に吉晴の武功について尋ねた。忠氏は父の武功に
ついて詳しく知らなかったので答えなかった。
この時、その人が「この道の嗜みがないから知らないのだな」という様子
だったので、忠氏は深く恥じて、吉晴に大坂貝殻塚を一人で取った時のことを
教えて欲しいと言った。吉晴は答えなかったが、忠氏が他人にその道を
好まないのだと思われたくない一心で重ねて尋ねると、ようやくあらましを語った。
親子の間ですらこのようであったから、他人に語ることはなおさら無かった。
――『名将言行録』
0573人間七七四年
2012/09/22(土) 18:43:07.33ID:h3S9/X5f0574人間七七四年
2012/09/22(土) 18:45:11.51ID:OMEEsOQL現代でも自分から武勇伝話す人は大体ハッタリ気質だよなw
0575人間七七四年
2012/09/22(土) 18:59:00.04ID:4Cw0SdeS黙ったまま死なれると子孫や歴史家は困るんだよ。
ある程度の政治家や軍人は回想録ぐらい書いておいてくれ。
公開は死後でいいから。
0576人間七七四年
2012/09/22(土) 19:09:33.54ID:OMEEsOQLたしかに歴史家は困るな
子孫は知行の面ではその通りだけど、
先祖の武名が高いと比べられたり同輩からの嫉妬で苦労しそうではあるかな
0577人間七七四年
2012/09/22(土) 19:19:57.86ID:QuUwL04t0578人間七七四年
2012/09/22(土) 22:30:21.21ID:aXDYE3V/0579人間七七四年
2012/09/23(日) 01:28:56.19ID:yjCdr72Y土佐に移ってからも両家には行き来があったらしいし
特にキレなかったんだろうね…えらいね…
もともと、それだけ仲良しだったってことなのかもしれないが
0580人間七七四年
2012/09/23(日) 05:12:25.66ID:YwK2PHTm藤堂高虎は、関ヶ原合戦後の新領地伊予国の板島城工事のあと、
近江粟津に新しい城の築城(膳所城)と、
伏見城修築および石垣築造を命ぜられた。
さらに並行して、今治に自身の城も築城していった。
さて、それがようやく竣工なったところで、
江戸城修築の縄張りを命ぜられた高虎は、即座にこれを断った。
命じたのは徳川家康である。
「天下の大都城でございますれば、
方角その他よくわきまえた軍法者にお命じになったらよろしかろう。」
再三にわたって固辞したが、家康は聞き入れない。
「佐渡守。よく聞け。城の縄張りに必要なのは、
攻められて持ちこたえ、
攻めて攻めるに苦労した要害の地をよく知っている、
そなたのような老功者の技術である。
よいな。辞退してはな・ら・な・い。」
(観念した)高虎は、大体の絵図ができるとその都度家康を伺った。
家康自らが筆を取って御朱を引いて修正すると、
その後、将軍秀忠に絵図を見せて説明し、承認を得た。
こうして空堀、石垣などをことごとく完成させていったのであった。
「玉置覚書」
0581人間七七四年
2012/09/23(日) 07:10:27.46ID:w+jE93FD0582人間七七四年
2012/09/23(日) 10:13:08.96ID:mNdfIb8W0583人間七七四年
2012/09/23(日) 10:21:48.00ID:Bb9V1bxm0584人間七七四年
2012/09/23(日) 10:33:04.84ID:5WgmFJ820585人間七七四年
2012/09/23(日) 11:00:48.41ID:YwK2PHTm一説には本多佐渡守正純との混同を避けたためとも。
0587人間七七四年
2012/09/23(日) 11:15:39.70ID:yvQg5f+q0588人間七七四年
2012/09/23(日) 11:31:01.27ID:7AOAxyCdあの高石垣かっこいい
あれが高虎の縄張りとか胸熱
西の丸あたりはおとなしい感じだからな
0592人間七七四年
2012/09/23(日) 17:11:48.65ID:hTrt0d+v0593人間七七四年
2012/09/23(日) 17:12:50.92ID:7AOAxyCd微妙だが
0594人間七七四年
2012/09/23(日) 17:47:30.39ID:/Hqn2hqW>>587
信之と秀忠の関係は悪くなかったという説も。
秀忠が真田屋敷に来たとか夜の話し相手に信之を呼んで軍法について聞いたとか。
0595人間七七四年
2012/09/23(日) 17:49:53.47ID:EMkUoTnH中世城郭の色の濃い上田城のノウハウで江戸城に応用できる要素というのも殆ど無いでしょう。
0596人間七七四年
2012/09/23(日) 18:31:44.10ID:mNdfIb8Wまぁ真田に頼らなくても旗本にその手のテクノクラートはいっぱい居るし
0597人間七七四年
2012/09/23(日) 19:18:55.49ID:VenBuhOf0598人間七七四年
2012/09/23(日) 19:43:45.85ID:mKsQl1WK0599人間七七四年
2012/09/24(月) 10:18:16.73ID:q83Cb0b3その北の丸と西の丸より本丸が低いというのがなんとも。
水戸城や小諸城のような先細りの城ならともかく、郭がかみ合った
馬蹄形の城としては致命的な欠点じゃないかとも思う。
スレ違いで悪いが。
0600人間七七四年
2012/09/24(月) 10:37:34.49ID:vWh66jWU江戸城って大坂城より防御力高かったのかな?
0601人間七七四年
2012/09/24(月) 11:40:15.97ID:+nf0aXPh未だ戦火燻る時代に戦時も意識して建てられた建てられた大坂城のが上じゃないかな?
江戸城もお堀の規模が大きいけど政庁としての平城の要素が強い気がする
築城当時の江戸城と今の皇居とでは大分様変わりしてるだろうからアレだけど
0602人間七七四年
2012/09/24(月) 12:22:49.25ID:ChxMS7kx0603人間七七四年
2012/09/24(月) 12:37:02.51ID:1u6Sos5pあんまり防衛力に偏重した城はちょっと・・・
0604人間七七四年
2012/09/24(月) 12:40:00.54ID:0BeKm1EN天守閣は長政が請け負っているし
健在だったなら縄張りもやっていたんだろうか
0605人間七七四年
2012/09/24(月) 12:51:46.41ID:dEKKPCue0606人間七七四年
2012/09/24(月) 13:05:59.92ID:vWh66jWUttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-139.html
豊臣滅ぼすまでは防御力にある程度気を遣っていたと思うけど、どうだろう?
滅ぼした後は諸大名を疲弊させる為に工事してたのかな?
0607人間七七四年
2012/09/24(月) 13:21:13.62ID:sxm6wKwy海沿いを立地に選んだ時点で
物流の事を優先して
籠城のことはあまり考えてないのではないかな。
小田原城もだけど、どんだけ馬鹿でかいお城つくっても
籠城を選んだ時点で、もうだめぽなわけだし。
0608人間七七四年
2012/09/24(月) 13:27:19.99ID:7Tju4Wlz上田城みたいに縄張りのギミックで減殺するのと思想からして違う
0609人間七七四年
2012/09/24(月) 13:30:27.94ID:eCjwpiPf火縄銃の時代なら十分
甲州流の影響があるみたいだが
0610人間七七四年
2012/09/24(月) 13:52:40.10ID:DRWHlsgH江戸より前、駿府とか御殿場とか小田原とか殲滅するポイントはけっこうあるだろ
0611人間七七四年
2012/09/24(月) 13:56:21.89ID:7Tju4Wlz8万の大軍が立て篭もれる江戸城を作ることで、
それ以上の戦力を揃えないと反乱を起こせないという抑止力になってる。
0613人間七七四年
2012/09/24(月) 14:22:29.39ID:eCjwpiPf0614人間七七四年
2012/09/24(月) 14:27:34.95ID:sxm6wKwy小田原城は東北征伐まえに威勢を見せつける政治的な必要があったから
攻城戦になったわけで、
そういう制限がない場合には
数万の軍勢が立てこもったら立て籠もったで
補給を断ってそのうち内紛自滅するのを待てばいいし。
0615人間七七四年
2012/09/24(月) 15:48:48.26ID:LpVh5Yik無意味ではないな
0616人間七七四年
2012/09/24(月) 17:34:20.90ID:DRWHlsgH0619人間七七四年
2012/09/24(月) 19:52:20.77ID:7Tju4Wlz数万の軍勢が大人しく立てこもってくれるとは限らないんだし
0620人間七七四年
2012/09/24(月) 20:00:32.94ID:2Qj5nQ62秀吉の大坂城より江戸城の方が全然上。
大坂城は南側が空堀で敵が殺到すると予想された
から窮余の策で出丸の真田丸が造られた。
0621人間七七四年
2012/09/24(月) 20:16:49.62ID:nPUXm68o江戸城を完全包囲するだけの兵力持ってればとっくに勝敗ついてるよ
大阪城の何倍あるのか知ってるのかw
0622人間七七四年
2012/09/24(月) 21:34:14.36ID:eCjwpiPfまあそういう意味でも難攻不落だな
0623人間七七四年
2012/09/24(月) 21:38:15.84ID:+nf0aXPhWikipediaに貼ってあった上からの絵図面何枚か見たけど、完全に包囲するのも当時
の総動員出来る兵数だと難しそうだし、堀(川でも良いのか?)からの補給を完全に押さえる
のも困難そう…
大坂の陣の籠城方と攻め手をそっくり置き換えても攻略は大阪城以上に困難かもね…
0624人間七七四年
2012/09/24(月) 21:40:36.33ID:eCjwpiPf0625人間七七四年
2012/09/24(月) 21:41:38.96ID:dEKKPCue0626人間七七四年
2012/09/24(月) 22:54:38.10ID:maC7aOIv大阪城は秀吉最晩年に拡張始めてすぐに関が原前夜のごたごたでストップしちゃったし
でも完成江戸城は平和な時代に拡張した城だけに防衛という観点だけでみると篭城側も膨大な兵員と資材が必要なんだよね
江戸で迎え撃つ羽目になった時にその前提条件を満たす体力残っているかというと・・・
結局大阪城と同じように最後の花火としての戦いしか出来ないような気がする
0627人間七七四年
2012/09/24(月) 23:11:27.86ID:7Tju4Wlz核戦争になったら誰も生き残れないから核兵器意味無いでしょって言ってるのと同じだよ。
巨城はそもそも戦争を抑止するための戦略兵器だから。
0628人間七七四年
2012/09/24(月) 23:17:29.43ID:eCjwpiPf0629人間七七四年
2012/09/24(月) 23:23:11.15ID:maC7aOIv前者の機能については疑問点も有るけど後者の役割は完璧に果たした城だと思ってる
0630人間七七四年
2012/09/24(月) 23:25:59.80ID:DlA6PxMf江戸城を普段まともに維持できるようなレベルの政権であれば
落とすのは難しいと思うよ
0632人間七七四年
2012/09/25(火) 09:41:40.41ID:xaAD7dp6地形的に言えば江戸の方がひどい。
新宿あたりからの台地が西の丸にかけてゆるやかな下り坂になってる。
真田丸は江戸に当てはめれば四谷見附の外に陣地を作って補強したようなもの。
。
0633人間七七四年
2012/09/25(火) 09:53:54.53ID:xaAD7dp6やはり難があると思う。
総構えに必要な膨大な防衛要員を揃えられるなら攻めにいったほうがいいし、
揃えられないなら、外郭を捨てて実城に籠城するしかないけど、むしろその
部分に欠陥があったりする。たとえば水道橋あたりの台地に陣を構えられたら
場内をある程度俯瞰できたり。
0634人間七七四年
2012/09/25(火) 11:49:17.41ID:xHioOqhv豊臣や豊臣恩顧の大名はいるし、徳川もたくさん爆弾抱えていた。
親豊臣で武勇に秀でた結城秀康、家康や秀忠と忠輝や忠直、家光と弟の忠長や御三家は仲が悪かった。
豊臣と同じように武断派と文治派が仲悪かったし。
家康が史実より早く亡くなった場合はもちろん危ないけど、秀忠が急死した場合も結構危なかったと思う。
0635人間七七四年
2012/09/25(火) 19:57:40.52ID:SM4YEede0636人間七七四年
2012/09/25(火) 21:55:05.09ID:eEIbDs5q兵があるなら攻めるから城は無駄
兵がないなら外郭は無駄
短絡的且つ極端だな。1か0しかない人間の頭の中はどうなってるのか興味がある
0637人間七七四年
2012/09/25(火) 22:02:54.03ID:yvgiM9rG無意味な煽りをいれずにいられない人間の方が迷惑度は上だと思うので
早々にどこかに行ってくれると助かる
0638人間七七四年
2012/09/25(火) 23:07:12.06ID:K4LfHsFOつまり江戸城の半分は三河のややこしい人で出来ています
0639人間七七四年
2012/09/26(水) 00:10:22.99ID:wMkph5TO山崎の戦いの際、堀尾吉晴の家臣・則武三太夫は首を取って
吉晴の前にやって来た。
「おお三太夫、思ったよりもやりおったな」
(思ったよりも…?)
吉晴の言葉に怒った三太夫は首を持って進み寄ると、
「こんな時には大将の目も暗くなるものですな!
則武三太夫が取りし首をもっとよく御覧になられよ!」と、吉晴を罵った。
三太夫の非難に吉晴も怒ってしまい「憎い奴め!」と言うままに
三太夫を斬りつけると、三太夫の兜の星が削れてしまった。
すると、三太夫は一直線に敵の中へと馳せて行き、またも首を取って
帰って来た。吉晴は「絶対に三太夫は討死しただろう」と悔やんでいたので、
三太夫の帰還を大いに喜んだ。
「とにかくお前を誉めようと思うあまり、つい『思ったよりも』
などと言ってしまった。剛の者にかけるべき言葉ではなかったよ。
私の過ちではあったが、お前の二度の先掛けは誰よりも大いに勝っているぞ」
吉晴はそのように深く感じ入ったという。
――『名将言行録』
なお元ネタは常山紀談の模様。
0640人間七七四年
2012/09/26(水) 00:56:56.70ID:jWnoSq73間違いを認めて正すのは美徳だけどね。
0641人間七七四年
2012/09/26(水) 16:00:01.69ID:r6oWzknT多久殿の屋敷前で、身分の高い方であろう女乗物が行くのが見えた。
侍がひとり、行列をさけ道の脇で礼をしていたのだが、
行列のナギナタ持ちが、その侍に、
「頭が高い」
と言いながら、ナギナタの柄で頭を打った。
侍が頭を拭くと、手には血がついていた。
それを見ると、侍は静かに立ち上がり、
「礼をする人間に対して、無法なやり方、許せぬ」
と言い、ナギナタ持ちを一刀に斬り伏せた。
女乗物はそのままどこかへ通り去って行った。
見ていた六郎右衛門は、侍の近くまで行き、
自分の持っていた槍の鞘をはずし、
「刀を鞘におさめるのだ。城中で、抜身の刀を持つ者を通すわけにはいかない」
と言うと、その侍は、
「只今、やむを得ぬいきがかり、刀を抜くこととなった。
貴殿も御覧になっていただろう。
刀を納めたいとは思うが、今の一言では納めるわけにはいかない。
迷惑ではあろうが、お相手になろう。
さあ、どこからでもかかって来い」
と、言ったので、六郎右衛門は槍を投げ捨て、
「ごもっともな言い分である。
わたしは福地六郎右衛門といい者です。
天晴れ見事なおふるまいでござったな。
わたしが証人となり、一命を捨てても貴方のお力添えをしよう。
ささっ、刀をお納めくだされ」
と礼儀を整え挨拶をすると、
その侍は刀を納めた。
「どなたの御家来衆ですか」
と尋ねると、多久長門の家来とわかったので、
六郎右衛門はともに付き添い事の次第を届け出た。
ところが女乗物は想像以上に身分高い方の奥方だと分かり、
長門殿は恐縮して、この侍に切腹させることを申し上げられた。
そのとき、六郎右衛門がまかり出て、
「侍の約束ゆえ、この方に切腹を仰せ付けになるならば、
この六郎右衛門がまず切腹をしましょうぞ」
と必死の覚悟を見せたので、
別段のことなくすんだとのことである 【葉隠】
0642人間七七四年
2012/09/26(水) 16:25:59.57ID:r6oWzknT訂正ついでに、この逸話に付随して書いてある話も
福地六郎右衛門は大身でありながら、
家ではいつもゴザ作りをしていたそうだ。
家来たちが、
「身にふさわしくないことをなさる…」
とボヤキあっていることを知り、
ある日、家に迎えにきた家来たちに、
門前で馬に乗ってから、その者たちに、
「肩にゴザの屑はついていないかな?
ついていればみっともないと見る方々もいよう(笑)
よく見ておいてくれ」
と言ったとのことだ。
また、主水殿が役人を勤めていた組親だったので、
主水殿のところへ行って、台所でゴザを作っていたとのことた。
当時は、寄親と組子の間は上司と部下の関係ではなく、
親と子のように親しかったとのことだ
0643人間七七四年
2012/09/27(木) 14:56:16.73ID:5KBqIbgC昨日(2012.09.26)の読売新聞、磯田道史センセのコラムより、ちょんまげ話を引用抜粋
戦国時代、ちょんまげを結うのは激痛をともなった。月代をハゲにする為、木製の毛抜きで引き抜いた
「黒血流れて物すさまじ」(『慶長見聞集』)とも記録されている。
我慢大会が終わったのは、天正期(1580年頃)
「太閤以後は髪を引き抜く代りに剃刀で優雅な格好に剃った」(イエズス会宣教師ロドリーゲス『日本教会史』)
0644人間七七四年
2012/09/27(木) 15:53:50.73ID:f2ihicX80645人間七七四年
2012/09/27(木) 18:01:53.45ID:2YhtCWjs武田信玄は見目麗しい小姓を選び出し、密かに徳川家に送り込んだ。
やがて徳川家康はその小姓を召し抱えて側近くで仕えさせた。
ある日、家康は酒宴を終えて横になっていたが、日ごろ黒本尊を拝めることを
習慣にしていたのをこの日は忘れていたので、起き上がって仏前にて
念仏を唱えていた。
この時、例の小姓は家康が寝ているものと思い、刀を抜いて衾の上に
乗りかかって刀を突き立てるも、即座に召し捕らえられてしまった。
そして家康に「ありのままを白状しろ」と言われると小姓はすべてを話した。
「若年でありながら主君のために一命を捨てて、わしを殺そうとしたか。
すばらしい志だ。決して咎めるに及ばず」
そのように言うと家康は小姓を解き放ち、甲斐へ帰したという。
――『徳川実紀(寛永聞書)』
0648人間七七四年
2012/09/27(木) 19:49:08.31ID:mGc7KhXh「武士として歌道への嗜みも持つようにしたいものだ。
昔の歌に、
『数ならぬ心のどかになり果し
しらせてこそは身をもうらみめ』
というものがあり、古来より歌の心を重んじていることがわかる」
【信玄家法下巻九十九箇条】
0649人間七七四年
2012/09/27(木) 20:39:13.37ID:cCQcAYXm0650人間七七四年
2012/09/27(木) 21:50:03.28ID:NErhFr3oその明石掃部にはレジナと言う娘があった。
彼女は大変聡明な女性であり、父からも子供の中で最も愛され、大阪城にも父とともに入城した。
城内では淀殿から大変可愛がられ、ゆくゆくは一廉の領主と結婚させよう、と言われるほどであった。
慶長20年(1615)5月7日、大阪城陥落。
幕府方の兵が乱入し、レジナを見つけると暴行を働こうとした。レジナはこれに、命がけで激しく抵抗した。
そうしているうちに幕府方の兵の中から
「お前は何者か」
と聞かれ
「私は明石掃部の娘である!私を大御所様(家康)のもとに連れていきなさい!」
そう答えた。
兵士たちは彼女の要求を聞きとどけ、家康の元へと届けた。
レジナの事を聞いた家康は彼女と対面した。
家康はレジナの気高い態度にすっかり感心し、それを大いに褒め称えた。
彼女のことは異教徒の間でも評判となり、彼らはキリシタンを賞賛した。
そして家康は彼女の身柄を、家康の側室の一人である”オカモ”という女性に預けた。
その側室や周りの人々も彼女の態度、振る舞いに感心し、丁重に扱った。
大阪の陣の戦後処理にめどが付き、家康が駿府に帰るという時に、家康は再びレジナと対面した。
家康は彼女に、その父で戦後行方不明となった明石掃部の行方について尋ねた。
彼女は「時分は屋敷の中に居たので解らない」と答えた。
また自分の兄弟は5人いるが、そのうち一人はキリスト教の修道士になった、ということも答えた。
彼女は家康の前でも落ち着き、誠実に答えたので、その姿は家康の側近たちも賞賛するほどであった。
質問を終えると家康はレジナに、
「そなたは今後も、キリスト教への信仰を持ち続け、父である明石掃部の霊魂のため祈りを捧げるように。」
と言って小袖一枚と銀子を与えた。その上でさらに
「そなたが自由に、どこにでも行く事を許可しよう。もし北政所の所に留まりたいと思うのなら、私がその斡旋をしよう。」
とまで言った。しかしレジナはこれに
「私は恵まれない環境に身を投じることこそ、キリシタンとして神への純潔を守ることが出来るのだと考えています。」
と答え、その申し出を断ったのだという。
キリシタンの記録に見える、明石掃部の娘、レジナについての逸話である。
(シュッテ「1614-15大阪の陣と日本の教会」)
0651人間七七四年
2012/09/27(木) 21:58:22.94ID:pml4fx5kさすがに大層な名前ではないだろうし
0653人間七七四年
2012/09/27(木) 22:04:27.16ID:vYIjAbG10654人間七七四年
2012/09/27(木) 22:18:18.91ID:g5jwDPI20655人間七七四年
2012/09/28(金) 00:56:09.29ID:+pibW53T0656人間七七四年
2012/09/28(金) 01:32:38.38ID:9KUwjgBHしらせてこそは身をもうらみめ』
誰か現代訳お願いします
わたしには難しすぎる
0657人間七七四年
2012/09/28(金) 01:33:25.63ID:m7NvOGZk0658人間七七四年
2012/09/28(金) 02:57:11.16ID:pu0XdAN6まぁ西行も元北面武士だけど
0659人間七七四年
2012/09/28(金) 15:07:57.49ID:9KUwjgBHしらせてこそは身をもうらみめ』
『とるにならない心がゆったり落ち着つくようになった。
落ち着くことを知ったからこそ身をうらめしくも思うのであろうが』
古語辞典片手に訳してみたけどイマイチ理解できないw
だれか古典得意な方ご教示を
0661659
2012/09/28(金) 16:03:06.83ID:9KUwjgBH○とるに足らない
ですね
0662人間七七四年
2012/09/28(金) 17:33:15.77ID:uLQrDdHx柳生宗矩は常に猿を二匹飼っていて、打太刀の相手にしていた。
そのために猿は後には鍛練して未熟な弟子なら打ち負かすほどになった。
ある時、槍については自負のあった浪人が縁を求めて宗矩の門人になることを
請い、かつ手合わせを望んだ。
「易きことなり。しかし、まずはこの猿と立ち合ってみたまえ」
「なんと! 畜生の相手になれとは馬鹿にするにも程がある!」
「さぞ不思議に思っているだろうが、ともかくまずは立ち合いたまえ」
しかたなく浪人が立ち合うことにすると、竹具足と小さな面を身につけ、ふくろ竹を
持った猿が出て来た。そしていざ立ち合いが始まると、猿はつかつかと槍の柄を
潜って何の造作もなく浪人を撃った。
思いもよらないことに浪人はもう一度立ち合いを望んだ。宗矩はもう一匹の猿を
出したが、やはり浪人は撃たれて大いに面目を失うことになった。
宿に戻った浪人は四、五十日かけて工夫を懲らした。これならそう簡単には負けない
だろうと思った浪人は、再び猿に挑戦することを望んだ。
「その方は工夫を懲らして殊の外上達したと見える。今度は猿では相手にならなそうだ。
しかし、此度もまずは立ち合ってみたまえ」
再び浪人は猿と向かい合ったが、今度は槍も合わせないうちに猿は大いに鳴き叫び、
逃げ出した。それから浪人は宗矩の門人となり、ついには兵法の奥儀を究めたという。
――『名将言行録』
0663人間七七四年
2012/09/28(金) 18:04:33.26ID:x4aSHy+j0664人間七七四年
2012/09/28(金) 22:38:18.17ID:LISgt9za風雅の心得のないつまらないものは
物事に心が動かされることもなくのほほんとしている
歌道というものを知ってこそ
身を焦がすような思いもするものだ
てな感じではないかと。
0665人間七七四年
2012/09/28(金) 23:16:15.21ID:CKrEPPmd0667人間七七四年
2012/09/29(土) 00:42:44.39ID:ifWKWYyU足利義政
武田信虎
大友宗麟
豊臣秀吉
上杉謙信
加藤嘉明
0669人間七七四年
2012/09/29(土) 00:50:05.78ID:wE6cCju4若者の猿離れ
0670人間七七四年
2012/09/29(土) 01:04:45.33ID:ifWKWYyU0671人間七七四年
2012/09/29(土) 01:06:10.26ID:ifWKWYyU0675人間七七四年
2012/09/29(土) 16:41:36.78ID:z6vCGLNd母親の愛情が不足してたことの表れかもね
幼少期についてしまった爪を噛む癖なんかもおっぱいへの執着と取れるし
…って書いてて気づいたけど、生母と生き別れても乳母はいるんだっけ
0676人間七七四年
2012/09/29(土) 17:04:20.77ID:3u23uz7T0677人間七七四年
2012/09/29(土) 17:28:55.88ID:yc+atVTf田中吉政は初め久兵衛という名で、近江の民衆の一人だった。
ある日、畑の畔で久兵衛が休んでいたところ、ある侍が若党五、六人を
引き連れ、槍を持たせているのを見かけた。
「侍でなければ人ではないのだ」
侍一行をまじまじと見てそう言った久兵衛は百姓を辞めることにした。
久兵衛は宮部継潤の若党となったが、その頃はわずか三石の身分であった。
はれて武士となった吉政に、伯母方の織った麻布一端が贈られてきた。
そこで紺屋に袴を染めさせると、巴の紋が付いていた。これを縁にして
巴を定紋としたのだという。
吉政の働きぶりは礼儀正しく勤勉で、過悪もなかった。豊臣秀吉が秀次を
養子とし、師傅に相応しい人物を選んだが吉政よりも適任の者がいなかった。
よって吉政を秀次の傅とし、近江八幡山城三万石を与えて兵部大輔に任じた。
――『名将言行録』
0678人間七七四年
2012/09/29(土) 18:13:17.67ID:vhwZTDQl剣豪が「四、五十日かけて工夫を懲らした」を上達したって言うのはなんか違う気がするわw
元々ちゃんと強かったからだろうけど
0680人間七七四年
2012/09/29(土) 22:36:30.51ID:vhwZTDQlああそういう風なことか
強くなったわけでは全然ないけど上手くなりましたみたいな
特殊な試験の傾向と対策的な印象受けちゃって
0681人間七七四年
2012/09/30(日) 09:41:19.28ID:q/AyMoqe農民から大名にまで成り上がったミニ秀吉なのにイマイチマイナーなのは、
江戸時代に田中家が断絶してるのと、大恩人の三成を捕まえたり
してるからかね
0682人間七七四年
2012/09/30(日) 10:10:23.54ID:G8uDJ1+k0684人間七七四年
2012/09/30(日) 18:07:03.09ID:SL7Dp0qe成瀬正成と土井利勝は観智国師存応を伴って上州新田にやって来た。
徳川家の先祖の旧蹟を捜索しに来たのである。
しかし、聞き込みをしてもそれを知る者が見つからなかった。
だが、一人の農夫が「世良田の近くの丘に古寺のあとがあると言い伝えがある」
と証言したので、
利勝は人夫を集めて丘の上を掘らせたところ、たくさんの古仏古瓦を発掘した。
「これこそ間違いなく御墳墓の地だ!」
利勝らはその地形を記録して帰り、(徳川家康に?)報告したという。
――『徳川実紀(駿府政事録)』
後の大老もいろんなことやってたんすな。
0685人間七七四年
2012/09/30(日) 18:30:24.46ID:q/AyMoqeすごいゴットハンド臭がする(´・ω・`)
0686人間七七四年
2012/09/30(日) 19:30:18.42ID:WtmvNjRi0688人間七七四年
2012/09/30(日) 21:23:53.91ID:eh+JOYTU0689人間七七四年
2012/09/30(日) 21:51:43.24ID:G8uDJ1+kトッシーなら○く治めるためには埋めるくらいやっちゃいそう・・・
0690人間七七四年
2012/09/30(日) 22:04:55.10ID:DDorhG0P0691人間七七四年
2012/10/01(月) 06:26:56.10ID:bHmGh7wP0692人間七七四年
2012/10/01(月) 18:30:56.55ID:2SUJ1x8S0693人間七七四年
2012/10/01(月) 23:32:24.04ID:T0psQjMtグレート家康公「葵」武将隊
http://www.lets-go-aichi.jp/article/2011/001154.html
http://aoibushoutai.com
「本多隊与力・稲姫」は気になる。
一武将として認識されてるし、知名度高いんだなぁ。
http://aoibushoutai.com/profile/inahime/
0694人間七七四年
2012/10/02(火) 14:53:01.24ID:GV4dywpJ宣伝じゃないけど、これは中々レースイベントとして面白いw
これで関ヶ原やれよとw丁度伊吹山のレースもある訳だし
0695人間七七四年
2012/10/02(火) 16:11:43.50ID:sc7uBas9鍋島直茂直伝の勝口の軍法を編成したほか、
肥前国絵図の作成、視聴覚知妙、先考三以記の編纂を手懸けた、
文武両道の古強者である。
そんな統清であるが、一門の若い侍が集まると、
「若い者は、日頃から勇気を奮い立たせることを意識するように。
勇気というものは、例え武芸の下手な者、腕力の弱い者であっても、
その気にさえなれば奮い立たせられるものだ。
刀が折れたなら手で戦い、手を斬り落とされたなら肩の骨で相手を殴り倒す。
肩から斬り落とされても、口で、敵の首の十や十五は食い切ってしまう。
と、まあ、こういう心掛けを勇気というのだ」
と話していた 【葉隠】
0696人間七七四年
2012/10/02(火) 20:12:15.75ID:Xh9xuIo30697人間七七四年
2012/10/02(火) 23:36:04.85ID:Y9FZOa6Q0698人間七七四年
2012/10/03(水) 00:00:18.88ID:pnq37gDHhttp://youtu.be/dhRUe-gz690
0699人間七七四年
2012/10/03(水) 06:02:14.76ID:VeVuyAD+なんせ征伐されそうな上杉派、挙兵する反家康派が石田三成をはじめウヨウヨいるのだ。
家康が江戸に帰る時の、佐和山付近での家康暗殺計画を三成が検討していたり、長束正家の家康暗殺未遂という話があるが、
(伏見にいた頃から三成が襲撃を検討していて、それを榊原康政が食い止めたという話まである→http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5671.html)
さて、↑の長束正家による家康暗殺未遂(?)は失敗に終わり、甲賀衆の知らせで家康はふらふら〜とうまいこと正家の城下水口を通過することに成功した。
この時長束軍が家康を取り逃がした後、軍勢を繰り出したという話がある。
家康は諦めるが、後ろに来る徳川軍(といっても少数)を通過させないように邪魔をしようとしたのだ。ここで合戦が起これば当然、徳川不利な情勢になるのを見据えて。
かといってとぼとぼ伏見に帰っても鳥居元忠に怒られるだけである。待機していてもそれはそれで困るだろう。
後ろの徳川軍を率いていたのは本多忠勝を筆頭に服部正成・成瀬正成・水野勝成ら錚々たる三河武士。当然帰るなんて選択肢はないし、家康の身が危ない以上一刻も早く合流したい。
忠勝は彼らに命じ火縄銃に火を灯し臨戦態勢をとった。
すわ合戦、かとおもいきや忠勝は兵に掛け声を叫ばせながら、水口城下を行進した。臨戦態勢でやる気満々で城下を練り歩いているのだ。
さすがに長束勢もこれには手が出せず、結果忠勝率いる徳川軍も無事に江戸に行くことができたのである。
出典は家康の侍医板垣卜斎の「慶長年中卜斎記」だそうだが、ネットのあちらこちらから適当に抜き出してきた話なので信憑性は低いかも。
・・・しかし、長束正家の妻は忠勝の妹(姪とも)なのだが。
0700人間七七四年
2012/10/03(水) 10:18:42.88ID:Lo7jkwgW0701人間七七四年
2012/10/03(水) 13:36:51.53ID:nG2FKNl/敵の矢に当たりたくないと思う者には効き目がなく、
雑兵どもの矢には当たりたくない、
自分は名のある武者の矢に当たりたいと念じる者に、
八幡大菩薩により矢除けのお守りの御加護があるとのことだ 【葉隠】
0702人間七七四年
2012/10/03(水) 22:34:04.44ID:OU5HqG9mその中に兼松又四郎(正吉)という老人の名が見え、これは古兵の聞こえた者であったので、その夜、土井大炊頭利勝が
秀忠の使いとして兼松の自宅に赴き、3つの質問をした。
「公方様よりお尋ねになったのはこの3つでござる。
第一の質問は、織田信長公と今川義元公との合戦、いわゆる桶狭間のおりの貴殿の手柄はどういったものであったか。
第二の質問は、刀根山の合戦において信長公より足半(踵の無い短い草履)を賜った誉のことについて。
第三の質問は、貴殿と猪子内匠(一時:信長の赤母衣衆。本能寺後秀吉に仕え、のちに秀忠のお伽衆に)のどちらが
年長か、ということである。公方様は猪子の方が年長だとおっしゃっておられた。
これらについて、いかがであろうか?」
これに又四郎
「仰せの趣、畏まって候。
先ず信長公と今川殿との戦の時には、朋輩7,8人と寄り合って打ち立ったのですが、私は2度までも
馬を乗り損じてしまい、変なことだと思ってよくよく見てみると、私は鎧を逆さまに付けていたのです。
それで、どうも不吉に思ったのでその日は合戦に出ませんでした。
それに対して朋輩達は皆手柄高名をいたして帰ってきたのに、私一人そのような始末であったので、
見苦しいことだと皆よってたかって私を馬鹿にしつつ、彼らがそれぞれ取ってきた首の血を私の具足に塗り、
仕舞いには泥を草摺に塗られ辱められました。
その上彼ら高名した者達と一緒に、心恥ずかしくも信長公にお目見えいたしました。
ですがその時信長公は、義元の首を三方に乗せられ御前に置かれ、たいへん機嫌の良い所でしたので、
手柄を立てた朋輩とともにお暇を賜って帰宅したのでした。
それから刀根山の時のことですが、宵に御触れがあったのですが私は全く油断していておりました。
ところが信長公が早くも御出馬との事を聞き、私は大慌てで、草履を履く暇もなく裸足にて駆けつけ、
なんとか高名を仕った所を信長公がご覧になり、御太刀の鞘に掛けられていた足半を下されたのです。
別に骨折りというほどのことではなかったのです。」
なんともガッカリな真実ばかりである。
ここで土井利勝は言葉をはさみ
「さて、貴殿と猪子内匠との御年齢は、確かに猪子のほうが年上であると上様の御記憶であるが、その通りで
ありますな?」
しかしここで又四郎
「いいえ、それは上様の御記憶違いです。猪子内匠は私よりも年若です。」
土井利勝、これに困った顔で
「兼松殿、上様は御記憶が良いのが自慢なのです。これは大して意味のある話でもありませんし、
ここは貴殿のほうが年若と申し上げておくほうが、何かとよろしいと思うのですが…」
が、又四郎
「ええ、あなたのおっしゃることは解ります。実は私も、ここは自分が年若だと申し上げたほうが何かと
都合も良いとも考えました。
ですが、あなたがお尋ねになった3つの質問の内、2つまで武勇についてのことでした。であればそこに、
偽りを申し上げるわけには行きません!」
土井利勝はこれを聞いて感動し、なんと貴い心がけであろうかと、そのまま秀忠に報告した。
秀忠も兼松又四郎の直良な心に感じ入り、
「偽らず飾らず、さすが武道の達人である。」
そう言って時服、黄金に御内書を添えて又四郎に下された。
これを伝え聞いた人たちはみな、兼松の名にし負う正直さを褒めぬものはいなかったという。
(武士道美譚)
0703人間七七四年
2012/10/03(水) 22:45:08.34ID:nG2FKNl/0704人間七七四年
2012/10/03(水) 22:53:11.70ID:zk6jy1m9これかw
0705人間七七四年
2012/10/04(木) 09:38:09.16ID:EabxPmNO0706人間七七四年
2012/10/04(木) 10:00:45.36ID:DUMiaWQG0707人間七七四年
2012/10/04(木) 10:42:14.22ID:yz9GYuKe>それで私の同僚たちが取った首の血を兜に塗ったり、草摺(股を守るもの)
>に泥を塗ったりして、さも奮闘したかのように偽装してくれました。
>そして信長様の前に出たのですが、今川義元の首を見て喜んでおられたので
>まったくお気づきにはなりませんでした。」
既に載ってたけど、こっちのが朋輩の人がよくていい話だな
0708人間七七四年
2012/10/04(木) 15:47:14.22ID:2h63FlKR忠隣はその後、近江の井伊家において、流人として拘束されていた。
さて、元和2年(1616)4月17日、忠隣の改易を命じた徳川家康が死去した。
これにより名実ともに、かつて大久保忠隣が力強く補佐した将軍徳川秀忠の世となり、井伊家当主。直孝は
「もはや良き時分である」と、忠隣の元を訪れこの様に言った
「あなたはどうして将軍家に上書して、冤罪を雪がないのでしょうか?
もし、そう言った意志がおありなのなら、不肖ながら私も又、あなたの力になりたいと考えています。」
今や幕府有数の実力者でもある直孝の言葉であり、秀忠が忠隣に対し好意的であったこともあわせて、
直孝の後援があれば忠隣の名誉回復も容易ですらあっただろう。ところが
「お断り申す。」
忠隣は即座にそれを辞した
「昔から忠を以って退けられるということ、その例も多い。
私が今この様にあるのも、ただ天のなしたことであろう。
それにな、大御所様は既に身罷られた。なのに今更私が罪のないことを申し出るなど、これは
主人の過ちを天下に暴露するようなものであり、その様なこと私の素意ではない。
その上、強いて私の冤罪を雪ごうとすれば、今の将軍家に父である大御所様の過ちを認めさせるという不孝を
させてしまうことになる。そのような事をたかだか我が身一つと変えるなど、私には到底受け入れられない。
そうであるから、私は今のまま、このようにして臣節を全うすることが、最も良いのだよ。」
これを聞いて直孝は言葉も無く、ただ涙を流し忠隣の元を下がったと言う。
大久保忠隣の臣節、という逸話である。
(武士道美譚)
0709人間七七四年
2012/10/04(木) 15:54:32.53ID:DtyhL/pC0711人間七七四年
2012/10/04(木) 15:57:33.36ID:FJiAJpCG板倉勝重にも復権を勧められてるね。しかし頑固だな。さすが三河武士。
青山さんもそうだったが…
0712人間七七四年
2012/10/04(木) 18:15:46.38ID:H5EgBvVS0713人間七七四年
2012/10/04(木) 18:34:09.02ID:o3nRy/lW直江兼続曰く、
「今日本には大身小身の名将が多くいるが、その中から
選んで主人にするならば、太田三楽と我君の謙信公に及ぶ者はいない」
と他家にて話していたと聞くが、実にもっともなことである。
――『名将言行録』
0714人間七七四年
2012/10/04(木) 18:45:50.82ID:gGJhXDyW0715人間七七四年
2012/10/04(木) 19:49:50.25ID:k/RK6xoz0716人間七七四年
2012/10/04(木) 20:01:15.20ID:iNkf8eRx0717人間七七四年
2012/10/04(木) 20:41:54.53ID:DpkzE+6j0718人間七七四年
2012/10/04(木) 20:43:30.80ID:o3nRy/lW訳を間違いました…
まとめにも載ったのに申し訳ありません
直江兼続曰く、
「今日本には大身小身の名将が多くいるが、その中から
選んで主人にするならば、太田三楽と我君の謙信公に及ぶ者はいない、
と他家にて話題になっていたと聞くが、実にもっともなことである」
――『名将言行録』
0720人間七七四年
2012/10/04(木) 20:49:03.07ID:j1Bn/kwv罪を許されたって形式を正式にとると
それはそれで罪を正式に認めたことになるので面白くないって言うのがある気がする
こうなんというか微妙なとこなんじゃないかな
0721人間七七四年
2012/10/04(木) 21:24:19.51ID:k/RK6xozそういうこともあるかな。
話変わるが彦左の性格悪く見える部分て、
武士として油断大敵を表現するための行動を、
嫌な奴と受けとられてる部分もあると思うんだ。
新撰組の斎藤一の息子たちの話なんだけど、
明治期に入っても息子たちを武士として教育してたみたいで、
子供のころから家に帰って戸を開けると斎藤が隠れていて、
新聞丸めたものでいきなり頭打たれたりしたらしい(笑)
多分、常識に期待するなよ。
なにがあるかわからないのが世の中だって教えなんだと思う。
それも現代でやったらただの嫌なオヤジとしか思われず、
子供にとって悪影響のが大きくなるわな。
彦左の逸話も時代と武士の価値観から見るべきと思う
0723人間七七四年
2012/10/04(木) 23:22:19.76ID:k/RK6xozやりすぎたな…
斎藤一や和田平助は剣豪だから育て方も職人ぽいかな
山本常朝の武士の子育て論はまた違うから面白い
武士の子育ては町人とは違う
卑屈になるから絶対に脅したり恐がらすしつけはするなと言ってるんだよ
まあ、どんなやり方にも成功例、失敗例はあるだろう
0724人間七七四年
2012/10/05(金) 00:52:03.82ID:ImmTqv4a所詮名将言行録だから。
謙信に目通りした事あるかないかはともかく
直江兼続は景勝以外に仕えた事無いし。
まあ上杉の家名箔付けのために
「謙信の家」を強調していた可能性は無くもないかも
0725人間七七四年
2012/10/05(金) 17:14:09.51ID:f62JAsST小山評定により今後の対応を決定した徳川家康は上杉景勝の押さえとして
結城三河守秀康を残すこととし、松平玄蕃允家清を使いにしてその旨を伝えた。
しかし、秀康は「上方の戦を捨ててこの地に残るとは思いもよらなかった。
例え父君の仰せでもその儀には従い難い!」と憤慨し、梶原美濃守と原隼人を
家清に同伴させて、家康に上方への出陣を願った。
「三河守の若さではそのように思うのも無理はない。直接話したい故、急ぎ本陣に参れ」
家康が梶原らにそう伝えると、秀康は本陣にやって来て家康と対面した。
「此度の上方の敵は何十万騎いようとも烏合の衆にすぎない。一体何程のことがあろうか。
しかし、抑えなければならない上杉家は謙信入道以来、弓矢を取って天下に並ぶ者はいない。
また、景勝は幼弱より軍の中にあって、その武名はとても広く知られている。
今彼と容易く戦えるような者はいないだろう。それだけの者を相手取ることが、
おことの面目を著しく損なうようなことにはなるまい。それに上方へ向かう人々や
その家人らは人質を江戸に留めている。関東の守りが薄くては人々の心も堅くはならず、
勇気を振るうこともできないだろう。そうしたことを考えれば、景勝を抑えるためには
おことをこの地に残さなくてはならないのだ」
話を聞いて秀康も終いには残留を了承した。家康は殊の外嬉しい様子で涙を流し、
自ら着背長を一領取り出した。
「この鎧は儂がまだ若い頃より身に着けていた物だ。これを着ていると不覚を取ることは
一度も無かった。父の佳例になぞらえて奥方の大将となり、名を天下に揚げるのだ」
秀康は心も打ち解けて、心地よく鎧を受け取った。すると本多正信が秀康の側に進み寄り、
「よくぞ殿は御受けなさいましたな! 大殿が一統の功を立てなさるのも、この御一言によって
定まりました。天晴れ、内府の御子にございますぞ!」と、秀康の膝をしきりに叩いて喜んだ。
――『徳川実紀』
0726人間七七四年
2012/10/05(金) 18:05:17.51ID:MIIXgLVq秀康を信用してたんだな実子だし99%無い話だけど家康が関が原に向かったあと秀康が謀反起こしたら
とんでもないことになるからなそうなったら伊達や最上も寝返る恐れが出てくるし
秀忠や忠吉じゃ対上杉戦には心もとないからな
0727人間七七四年
2012/10/05(金) 18:06:43.32ID:4wttK68v0728人間七七四年
2012/10/05(金) 18:27:01.09ID:juFqUsIZ0729人間七七四年
2012/10/05(金) 18:30:25.57ID:Bx8jRiDTちょっと違うけど、溺れてる人間はパニクらずもがかなきゃ自然に浮くのは頭で分かってても、なかなか出来ないようなもんで
駆けずり回るだけが働きじゃないんだなぁ
0730人間七七四年
2012/10/05(金) 18:38:30.08ID:uBKtLrES柳生新陰流の極意なり
0731人間七七四年
2012/10/05(金) 20:45:55.88ID:aVbq8uSS不仲なんてもってのほかだろうな。
0732人間七七四年
2012/10/05(金) 20:59:52.44ID:MNnGkwRUでも養子に出たとか、いろいろあったにしても、跡継ぎにしてない時点で
どうしても不仲に見えてしまうけどなw
0733人間七七四年
2012/10/05(金) 21:01:37.79ID:7dNJWe3w母親の身分が、他と比べても著しく低いからしゃーない。
秀忠の生母西郷氏は三河守護代家の家柄だし。
0734人間七七四年
2012/10/05(金) 21:36:25.68ID:kxFkJIdoある時、この吉田大蔵が利常に扈従して京都に赴いたその帰路、近江の宿泊予定の宿に向かっていた。
と、その頃その宿では、大変な騒動が起こっていた。なんと宿の倅に狐が憑いたのである。
宿の主人をはじめ皆困惑していた所、この倅が突然騒ぎ立てた
『吉田大蔵が来る!なんと恐ろしいことだろう!!』
そう叫んで逃げまわったのである。と、そこに一人の武士がこの宿を訪ね現れた。
主人はおずおずと尋ねる「貴方様は、吉田殿ではございませんか?」
「ああ?左様である。」
「おお!では…」主人は息子のことを詳しく大蔵に語った。そして「どうか息子に憑いた狐を祓い退けてほしい」と
懇願した。
大蔵は暫く考えて「ならば、あるいは汝の倅を射殺してしまうことになったとしても、差し支えないか?」
これには主人も顔色を変えたが
「…我が息子は既に狐に憑かれている以上、有るといっても無いに等しい状況です。
そうであれば、貴方様に射殺されたとしても、彼も又成仏つかまつる事になります。ならば、あえて貴方様を
恨むようなことはいたしません。」
「そういう事であれば」
大蔵、この主人からその旨を記した誓詞を取り、宿の者達に命じてその倅を庭の木に縛らせ、
弓を取ってこれに向かい、目いっぱいに弓を引いて倅に狙いをつけると、したたかに叱りつけた!
「狐よ!速やかに去れ!!去らずば直ちに射殺すぞ!!」
するとこの倅は声を上げて泣き始めた。そして暫くすると、正気に戻った。
狐は去ったのである。
この事があって吉田大蔵の名は、さらに遠近に響き渡ったという。
(武士道美譚)
0735人間七七四年
2012/10/05(金) 21:50:57.18ID:Bx8jRiDT0736人間七七四年
2012/10/05(金) 22:21:21.92ID:P8zahjUb0737人間七七四年
2012/10/05(金) 22:41:38.53ID:1PlcJx60当初は秀忠も残してたけど、上杉が撤収しちゃって暇になったから
秀忠を真田討伐へ投入しただけだね。
0738人間七七四年
2012/10/06(土) 09:34:15.97ID:Thi7JGJa織田信広とか他の庶子で後継げなかった者はいっぱいいる。
その中で秀康は活躍できたほうじゃないか。
0739人間七七四年
2012/10/06(土) 13:11:03.45ID:ojgsjiKr0740人間七七四年
2012/10/06(土) 15:04:13.63ID:Liro16MX0741人間七七四年
2012/10/06(土) 15:14:09.33ID:QoY2PF4+ttp://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refBook=978-4-16-381760-6&Sza_id=MM
戦国女性キャラ投票で見事5位にもランクインされ
人気急上昇中の直虎の一生を養子の直政が家康に語るという主旨らしいがどのように描かれているのか
おすすめコメント読んでみて更にwktk
0742人間七七四年
2012/10/06(土) 16:10:20.39ID:PP1criPHのちに槙忠左衛門と名のらせ足軽とした。
忠左衛門の子供の長右衛門は直参に昇進し、
秀島長右衛門と名乗るようになった。
長右衛門の子は秀島五左衛門という 【葉隠】
0743人間七七四年
2012/10/06(土) 16:21:37.62ID:PP1criPH本人の資質もあったんだと思うけど、
江戸時代は暗黒の身分制社会などの大げさ言う人がいるので、
こんな例もあるのだよ、という立身出世のいい話
0744人間七七四年
2012/10/06(土) 16:28:56.44ID:s58dGmDO0745人間七七四年
2012/10/06(土) 16:49:18.10ID:PP1criPH三浦按針のWiki読んできたのだけど、
按針が海賊公ドレイクの指揮下でアルマダ海戦参加してたの知らなかった・・
権現様に気に入られたのわかる気がする
0746人間七七四年
2012/10/06(土) 16:55:33.07ID:e9mpLpCmあながち間違いでもなかったのか
0747人間七七四年
2012/10/06(土) 17:18:10.91ID:xC6kke6Qめんどくさい家臣団が魅力なので徳川四天王あたりの大河やらないかなーと思ってたけど
直虎から大坂の陣くらいまでの井伊家の目を通した今川〜徳川期の大河とかも結構面白そう
権現様主役の大河より静岡県知事や浜松市はこっちを推した方がいいんじゃないかw
0748人間七七四年
2012/10/06(土) 17:21:50.79ID:e9mpLpCm0749人間七七四年
2012/10/06(土) 17:55:54.97ID:QoY2PF4+目新しさがあるよね
父親である当主や婚約者である後継者が主家に殺されて
しかも婚約者は別の女性と結婚
そして虎松が生まれ、後に跡取りとして養子にするがその子も今川に命を狙われる
でも最後は名家没落からの華々しい復活劇で終わるという
0750人間七七四年
2012/10/06(土) 18:15:16.54ID:Thi7JGJa地味だが榊原康政のがいいな。いい加減天気のせいだった秀忠遅参の汚名を少しでも晴らしてやってくれ。
0751人間七七四年
2012/10/06(土) 18:46:31.77ID:xC6kke6Qでも康政だって4年後に死ぬんだしそれなら四天王の方がいいな
井伊家視点なら直孝の大坂の陣までやればいいし。
たまには大坂の陣も幸村じゃない方の使い古して色褪せた赤備えにスポットを宛てて欲しい
天下一の大手柄と言われる活躍したんだしな
0752人間七七四年
2012/10/06(土) 19:49:48.36ID:bGRJJcC+飲富虎昌→山県昌景→井伊直政→井伊直孝
→ →真田信繁
人気の武田、上杉&三英雄に絡ませられるしいけるぞ
0753人間七七四年
2012/10/06(土) 19:51:52.10ID:Liro16MXって思うくらいのスケール多くなってきてるやないですか・・・
0755人間七七四年
2012/10/06(土) 20:03:57.80ID:XqY8T/pD0756人間七七四年
2012/10/06(土) 20:08:51.90ID:wUcWyK27平清盛もついでに大河兼任までやれば立派な大河になる
0758人間七七四年
2012/10/06(土) 20:29:42.73ID:5G/xRxxM0759人間七七四年
2012/10/06(土) 20:57:49.82ID:DCTFGEFv未来環境創造戦士エコマンダー「まさか我らの出番か!」
0760人間七七四年
2012/10/06(土) 21:07:15.66ID:QoY2PF4+0761人間七七四年
2012/10/06(土) 21:17:47.12ID:98c9WrNI0762人間七七四年
2012/10/06(土) 21:29:54.19ID:Bf7sc19e0763人間七七四年
2012/10/06(土) 22:12:18.53ID:/G7bQlfd0764人間七七四年
2012/10/06(土) 22:14:27.43ID:wUcWyK270765人間七七四年
2012/10/06(土) 22:44:05.39ID:Gg8wiBwF0766人間七七四年
2012/10/06(土) 23:03:48.40ID:69NUsNlN0767人間七七四年
2012/10/07(日) 08:40:48.04ID:Mr3L9O4/幻庵は当事者すぎるし滅亡まで見れない。まあそれがいいのかもしれんけど‥‥。
ところで夏の陣の真田の赤備えって本当だったとは思えんのだけど、どうなんだろうか。
0768人間七七四年
2012/10/07(日) 09:26:03.35ID:xJuRG1Rg0769人間七七四年
2012/10/07(日) 09:48:45.60ID:Kkw/U4ck0770人間七七四年
2012/10/07(日) 10:53:22.48ID:o/ss4l/M0771人間七七四年
2012/10/07(日) 12:09:46.04ID:SGttm6PW世に言う浅井畷の戦いの折、江口正吉は引き退く前田軍に喰らい付き、
鳥銃を打ち掛けた。主君の丹羽長重は銃声を聞いて「遅れるな者共!」と、
馬に鐙を合わせて馳せ着け、終には寡兵をもって前田利長の大兵を追撃した。
この時、正吉は「この殿の早業は今に始まったことではないぞ!」と喜んだ。
この戦いは立花宗茂が寡兵で鍋島勝茂の大兵を打ち破ったのと並び称された。
この後、長重は封地を失うことになったが、後に白川十万石に封じられたのは、
この戦いの勇功を賞されてのことといわれた。当時、諸将は長重と会うたびに
その戦略を質問していたということである。
――『名将言行録』
0772人間七七四年
2012/10/07(日) 12:29:16.09ID:QgFtWxCg0773人間七七四年
2012/10/07(日) 14:49:06.91ID:DxV9hUs00775人間七七四年
2012/10/07(日) 15:13:47.07ID:1j1V+xgS0776人間七七四年
2012/10/07(日) 15:19:45.74ID:nlO52Lj80777人間七七四年
2012/10/07(日) 15:31:38.43ID:5gw7IzgQそもそも真田赤備えって幸村が夏の陣で初めて起用したんだが
兄ちゃんと甥っ子って赤備えに関係無いと思うわ
0778人間七七四年
2012/10/07(日) 15:57:07.55ID:fZ775mmHひょっとして「地黄八幡」が戦場に翻ったのはこれが最後?
北条氏長も使ったんだろうか。
0779人間七七四年
2012/10/07(日) 16:05:58.06ID:5gw7IzgQしかも冬の陣から夏の陣の間に短い期間に用意するとは講和後でも戦争する気満々w
0780人間七七四年
2012/10/07(日) 16:08:53.37ID:M7nVJyIO0781人間七七四年
2012/10/07(日) 16:31:20.70ID:Kkw/U4ck0782人間七七四年
2012/10/07(日) 16:36:06.83ID:5gw7IzgQ0783人間七七四年
2012/10/07(日) 16:45:58.23ID:yrJNPUk50784人間七七四年
2012/10/07(日) 16:47:42.52ID:jYy4TFp5真田丸といい、自己アピールに相当長けていたフシが見受けられる。
自分の実力に自信もあったのだろうね。
0785人間七七四年
2012/10/07(日) 16:52:19.27ID:5gw7IzgQ幸村っつうか信繁は負ける事は解っていたというから
冬の陣後は自ら豊臣を滅亡に導いたと余計にそう思えてならない
0786人間七七四年
2012/10/07(日) 17:00:42.92ID:yrJNPUk5自己アピール云々の前に大坂方の深刻な人材不足があったわけで
世間を見渡せば実績的にはたいしたことが無いように見える真田信繁が
前面に立たなければいけない。豊臣もそうせざるを得ない現実がまずあったと
0787人間七七四年
2012/10/07(日) 17:24:18.32ID:2wOVsIrz真田日本一の兵ここにあり
0788人間七七四年
2012/10/07(日) 17:31:22.32ID:3BAH6LCn時代が経てば英雄化
0791人間七七四年
2012/10/07(日) 17:44:54.68ID:gPSMz+xY0793人間七七四年
2012/10/07(日) 18:07:50.39ID:8IZYRcB+親「うちの娘に妖怪がとりついていてるんです」
李逵「よっしゃ、任せとけ…てなんだ、妖怪がとりついてるふりして親を寄せ付けず、
男を引っ張り込んでたんじゃねえか
ヒャッハー男共々殺してやるぜ」
親「あ、なんてことを…殺す必要なんてなかったでしょうに」
李逵「うるせー、妖怪退治してやったんだから金は貰ってくぜ。ついでにごちそうしろよな!」
似てるような違うような
0794人間七七四年
2012/10/07(日) 18:07:59.40ID:Kkw/U4ck数字は失念したが
0796人間七七四年
2012/10/07(日) 19:01:05.45ID:5gw7IzgQ0798人間七七四年
2012/10/07(日) 19:44:27.54ID:UNOAD0ce0799人間七七四年
2012/10/07(日) 19:48:49.70ID:dIDunZJl0800人間七七四年
2012/10/07(日) 19:51:13.45ID:qXWg96nB駿河の家康(幕府を除く)>豊臣家
だった模様
0801人間七七四年
2012/10/07(日) 19:55:52.08ID:5taqcy0y0802人間七七四年
2012/10/07(日) 19:59:33.18ID:o/ss4l/M凄い量だと思う。
ちなみに家康が亡くなった時点で遺産が金94万両、銀99万両。
枚に換算すると9万4千枚と9万9千枚。
家康の場合は、関ヶ原直後に佐渡金山が発見されたり
アドバンテージもあるけどこっちも大概だ。
0804人間七七四年
2012/10/07(日) 20:33:49.98ID:2wOVsIrz永楽銭の織田軍団ここにあり
0805人間七七四年
2012/10/07(日) 20:38:12.03ID:qXWg96nB畿内の銭経済にとどめを刺した模様。
0806人間七七四年
2012/10/07(日) 21:02:32.77ID:Kkw/U4ckそうだったか。とんくす
これをばら撒くとき貨幣になおしたが
その吹替え費用&吹替えのときの自然減が異常に多かったな
0808人間七七四年
2012/10/08(月) 04:43:45.10ID:8FoPvamC武功あげてかつ生き残ったら新興の家あたりに仕官できるだろうしな
0809人間七七四年
2012/10/08(月) 07:42:27.27ID:xeswDvLy勝敗生死は別にして最後にどかんと名を残せればおkwwww的な人が多いのかと思ってたが
0810人間七七四年
2012/10/08(月) 08:07:14.43ID:m0ovu57/徳川方も少なからず戦死者が出たし
浪人対策に加えてその補充の意味もあったのではないだろうか
0811人間七七四年
2012/10/08(月) 08:40:54.74ID:ZSg3eexB浪人が浮かび上がるにはっ・・・!すがるしかないっ・・・!
0812人間七七四年
2012/10/08(月) 09:02:13.58ID:Jaj5m+dt夏頃には、大坂古参は許自由に召し抱えて良いと通告されてたみたい。
大坂の陣で城に駆け込んだような新参連中は、元和9年になって
ようやく召し抱えても良いことになった。
0813人間七七四年
2012/10/08(月) 11:07:02.36ID:ArssE3vlある時、武田信玄の下へ「やんごとない人」の子だという十五、六才の若者を伴って「召使いになさって下さい。」とやってきた者がいた。
見るとその若者は世にも稀な美しい顔立ちなので、召抱えて茶道の重阿弥に預け、頭を剃らせて茶坊主とした。
さて用事をさせてみたのだが、幾度も信玄の意思を先に覚っては、
それに副うようすべて用意しておくといった具合だったので、信玄はこの小坊主をとても気に入っていた。
こうして二年ほど経ったある夜のこと。信玄は自室で、この小坊主に石臼で茶を挽かせていた。
すると部屋に面した庭の向こうで若侍が十人ほど集まって話す声が聞こえたが、そのうち言い争いから散々に斬り合う音となった。
「お庭内で若侍たちが口論の上、斬り合っております!」
小坊主は申し上げたが、信玄は少しも慌てなかった。
「斬り合っているのは誰々か。」
「さあ…誰でしょうか。聞き慣れない声です。」
「にっくき奴らめ。余が庭前において何者がこのような狼藉をいたすか!残らず手討ちにしてくれよう!」
その時小坊主は茶を挽くのを止め、ズッと立って縁側の障子をさっと開け、庭の様子をしかと見て戻ってきた。
「十人ばかりが入り乱れて斬り合っております。どうかご用心を!」
と次の間に立ててあった薙刀を取って信玄に差し出した。
「薙刀の代わりに弓を持て。」
「はっ!」
差し出された弓矢を取った信玄は矢をつがえて引き絞り、斬り合っている者たち目掛けてひょうと放った!
だが矢が届いたと思った瞬間、ドッ!!という音と共に若侍たちの姿は消えてしまい、なんの音もしなくなった。
「はて不思議な事よ。これはきっと天狗の仕業じゃ。余が常に戦さの謀りごとばかり考えているので、
天狗が余を試す為にこのような不思議の業をして驚かせようとしたのであろう。あの若侍たちはまったく人ではあるまい。」
「仰せごもっともにございます…」
その夜の内に小坊主はふいと姿を消してしまった。
「やはり全て天狗の仕業に違いない。油断してはならぬぞ。」と信玄は言ったとの事である。
(義残後覚)
冷静さで天狗を退けた、武田信玄のちょっと不思議なお話。
0814人間七七四年
2012/10/08(月) 11:25:00.46ID:HH1ODFgKノノ `'ミ
/ y ,,,,, ,,, ミ
/ 彡 `゚ ゚' l
〃 彡 "二二つ
| 彡 ~~~~ミ はいはい、わしのせい わしのせい
,-‐― |ll 川| ll || ll|ミ―-、
/ |ll | ヽ
/ z W`丶ノW ヽ
/ \\ / / |
/ 天 \`i / / 狗 |
0815人間七七四年
2012/10/08(月) 11:30:27.04ID:oezG5xZ/二年も潜伏してるのは不自然だけど。
0816人間七七四年
2012/10/08(月) 11:35:54.80ID:vyu6yQch0817人間七七四年
2012/10/08(月) 11:37:35.71ID:yiaEnyt20818人間七七四年
2012/10/08(月) 12:10:42.67ID:Y1f0wWiw0819人間七七四年
2012/10/08(月) 12:12:53.27ID:2adeeVRW0820人間七七四年
2012/10/08(月) 13:25:41.55ID:8FoPvamCうまく殺しに成功直後信玄登場
坊主は逐電したのはばれること恐れてとかか?
0821人間七七四年
2012/10/08(月) 13:39:33.59ID:fJFOYdNLよくある逸話(義残後覚的に考えて)に著名人を使ってみようってやつだろうから
小坊主も天狗だったっていうことだろうね
天狗にとっての2年なんぞほんの一瞬よ
0822人間七七四年
2012/10/08(月) 13:39:35.61ID:QLi8ujvG結局見たのは信玄公ただ一人ともとれますが」
0823人間七七四年
2012/10/08(月) 15:10:12.61ID:9XAlQrLh天正2年(1574年)2月18日、越前を混乱の渦に巻き込んだ富田長繁は越前一向一揆と戦う中で味方であったはずの
小林吉隆の裏切りによって背後から射たれ、落馬した所を小林に首を刎ねられ死亡した。
その長繁の首は2月19日に一揆方の大将の一人である杉浦玄当が陣を張る竜沢寺に持ち込まれて首実検が実施されたが、
杉浦は寡兵で大いに自軍を苦しめた大剛の士である長繁の首が怪しげな籠に入れられて持ち込まれた様を
敵ながら哀れに想い、涙を流したという。
(朝倉始末記)
0824人間七七四年
2012/10/08(月) 15:24:16.27ID:ZSg3eexB0825人間七七四年
2012/10/08(月) 16:33:33.18ID:pRn0c3wm0826人間七七四年
2012/10/08(月) 16:51:00.40ID:HH1ODFgK0827人間七七四年
2012/10/08(月) 20:14:31.71ID:XVcAgnk20828人間七七四年
2012/10/08(月) 20:40:14.81ID:8FoPvamC0829人間七七四年
2012/10/08(月) 21:30:38.99ID:ew/eeaoKそりゃあ哀れなあまり涙も零れ落ちるて
0830人間七七四年
2012/10/08(月) 21:36:03.55ID:9B7fZFeA0831人間七七四年
2012/10/08(月) 21:49:40.24ID:y4s9Q7IG何かに入れて運ばれる様な物か・・・
うん、想像すると何だか切なくなってきた
0832人間七七四年
2012/10/08(月) 21:59:02.87ID:Y6abUE+g0833人間七七四年
2012/10/08(月) 22:58:54.45ID:oezG5xZ/0834人間七七四年
2012/10/08(月) 23:24:28.81ID:lnkGfLvgどっちがマシなんだろうか
0835人間七七四年
2012/10/08(月) 23:35:21.48ID:IiltXzCR行進するときは魚籠を首の代わりに掲げてたとかいう話が
魚籠(びく)と首(くび)だけに逆さまに掲げたんだろうな
0836人間七七四年
2012/10/09(火) 00:36:02.46ID:bb/4athw明智光秀の娘が病に罹った時、光秀は女に任せては心許ないと思い、
明智光春を看病に付けて帳の内に出入りさせた。やがて病気は全快し、
光秀は「お前の看病のおかげだ」と褒賞した。
また、光秀は「お前を娘と一緒にしておいたことを、人は心許なく思い、
疑いもしただろうが、私はそのようには思わなかったぞ」とも言い、
遂には光春と娘を夫婦にしたという。
――『名将言行録』
0837人間七七四年
2012/10/09(火) 00:45:09.10ID:iFLkh8Xc所用の甲冑は実在するけど
http://livedoor.blogimg.jp/akechi_mitsuhide/imgs/b/8/b80829c2.jpg
0838人間七七四年
2012/10/09(火) 00:46:00.18ID:uV/LrbBI0839人間七七四年
2012/10/09(火) 00:49:14.29ID:eWQ3j14h0840人間七七四年
2012/10/09(火) 02:17:00.01ID:3yqJyS7b0841人間七七四年
2012/10/09(火) 06:00:28.25ID:afSJCyuo0842人間七七四年
2012/10/09(火) 15:54:21.22ID:6bzCYBea光秀重臣の三宅弥平次こと明智秀満と
左馬助の官位や光秀の婿養子や湖水渡り伝説などから同一人物だと見られている
0845人間七七四年
2012/10/09(火) 20:32:37.60ID:dv6klQCS0846人間七七四年
2012/10/09(火) 20:47:01.31ID:j/bHHMZr0847人間七七四年
2012/10/09(火) 20:52:20.79ID:qhx2Ekss細川幽斎
筒井順慶
津田信澄
全員味方すればどうなってたんだろ
0848人間七七四年
2012/10/09(火) 22:06:41.40ID:RpgIyQHr流れで、明智光春が坂本龍馬の祖先と言ってるのかとおもった
でも実際の話、長宗我部が光秀の親族かくまってもおかしくないから、ほんとに土佐に子孫がいるかも
0849人間七七四年
2012/10/09(火) 23:43:36.01ID:wdLy0H8+0850人間七七四年
2012/10/09(火) 23:47:01.42ID:GvneNeRZ0851人間七七四年
2012/10/09(火) 23:51:58.92ID:eWQ3j14h0852人間七七四年
2012/10/10(水) 00:25:54.04ID:ecHO9i5m田中吉政は岡崎城主であった頃、毎日城を見廻って普請などを命じ、
朝飯は城より弁当を取り寄せて、所構わず道端や堀の端で食事を取っていた。
また、侍屋敷の前では畳を一、二帖借り出して敷物にした。
結構な仕立てを嫌って、いかにも粗末であることを好んでいた。
寺の門前に役に立たない植木があれば「この木を掘り除き、茶を植えて旦那方に
音信を贈るとよい」と住持に意見した。また知行所は自ら残らず見て廻り、
百姓屋敷に堀のあるところは「警備は男に任せて、堀を埋めて田にして稲を作る
がよい。畠のほうが向いているならそれでもよい」と教えていた。
年貢高を決めるための調査には自ら赴き、稲の善し悪しを綿密に調べて賦課率を
決めたので無理もなく、百姓たちは喜んだという。
――『名将言行録』
0853人間七七四年
2012/10/10(水) 01:23:24.23ID:Rb3K20Cz0854人間七七四年
2012/10/10(水) 01:55:58.98ID:D+VVUjpm0856人間七七四年
2012/10/10(水) 02:32:54.66ID:+LtVpcB6光成を捕らえて突き出したのは農民ってか農村文化の悪い面がでたかも・・・
0858人間七七四年
2012/10/10(水) 02:42:55.84ID:+LtVpcB6誤字失礼
友人であるならお上に突き出さない文化というか共同体もあれば、
共同体のために人身御供を出す文化もあるじゃん
そりゃ同じ共同体に育っても個人で考え方や性格の違いもあるけどね
0860人間七七四年
2012/10/10(水) 09:35:55.94ID:GWfFz1Trあの状況じゃ仕方ないんじゃないのかな〜
0861人間七七四年
2012/10/10(水) 09:37:50.98ID:cBiiaKz2風流を解せぬお方じゃ…
0862人間七七四年
2012/10/10(水) 11:16:12.51ID:wlTnMlnqきっと祭りになったら人一倍はしゃぐ
0863人間七七四年
2012/10/10(水) 11:26:40.44ID:2k798HK/→実質西軍総大将だし絶対に不可能。
2、家康に三成は賊将だけど、自分の恩人なので菩提を弔う為に寺を建てる許可を貰う。
→寺は無理かもしれないが、墓建てて弔う事くらいなら許されたかも。
3、家族を家康に内緒で匿う。
→バレると処罰されるので、歴史の闇に埋もれ逸話にならず...
恩人に対して2くらいはしてもいいような気がするけど
0865人間七七四年
2012/10/10(水) 17:57:01.27ID:N7aukXBa世間から変に誤解されてるしこのスレで挙げられたエピソードが使われるといいな
0866人間七七四年
2012/10/10(水) 18:03:11.03ID:i8YO2FRx0867人間七七四年
2012/10/10(水) 18:10:35.77ID:eXs0vwEgしかも争わないんです。
0868人間七七四年
2012/10/10(水) 18:14:23.92ID:GWfFz1Tr0869人間七七四年
2012/10/10(水) 19:45:26.49ID:YARdXBCH……まあ天地人もキャストを見たときは同じ感想を抱いたんだが
0870人間七七四年
2012/10/10(水) 19:47:27.07ID:JWHMPgU7黒田長政が小早川隆景と語った時の事。長政が訊ねるに
「人はあなたを天下の分別者だと言います。分別とはどのようなものでしょうか」
それに対する隆景の答えは
「分別というのは知恵のことで、知恵をもって色々なことに個別に対処することを言います。
そして世の中広しと言えども、あなたの父・如水殿ほどの知恵を持った人はいません。
私も知恵では如水殿には到底及びません。父上の言行を学ばれたら、あなたは天下の分別者になれるでしょう。
しかし、世上が私を分別者と言い、如水殿の事を言わないのはなぜかと言えば、それもまた如水殿が無二の知恵を持つからです。
如水殿に何か相談すれば、速やかに事の善悪を分別し、これはこれと最も良い配慮、判断を下してくれるでしょう。
その判断に聞いた時、例えば秀吉公のように聡明な人には、その分別の正しさを汲みとる事ができるでしょうが、
大抵の者はその分別の速さ深さについて行けず、大丈夫だろうかと無用の不安や不信に駆られてしまうのです。
私などは愚鈍なため、当座に決めたことについても今一度思案してから相談するという具合なので、
却って分別者のように思われているだけで、如水殿の速やかな決断と比べたら劣ることばかりなのです。
分別者になりたければ、如水殿の知恵を学び、分別者と呼ばれたければ、即断する前にひと思案されると良いでしょう」
長政はさらに訊ねた「では分別に肝要の事というのはありますか」隆景は答えて、
「分別の肝要は仁愛です。万事を決断するのに、仁愛を持って分別すれば、思慮が外れてもそう大きくは間違いません。
仁愛なき分別はいかに才知が巧みであってもみな誤りです。」
0871人間七七四年
2012/10/10(水) 20:06:59.45ID:oMCukF1a0872人間七七四年
2012/10/10(水) 20:09:02.15ID:qwbksDWg0873人間七七四年
2012/10/10(水) 20:15:23.33ID:KYIRVEUV数学教師には頭いい人より、頭が悪いにもかかわらず高学歴な人がいいと聞いたが
そんな感じかな
0875人間七七四年
2012/10/10(水) 20:23:53.46ID:Xu+hTzNB気がするw
0876人間七七四年
2012/10/10(水) 20:34:33.08ID:1+j4CPym「うちの夫は答えは分かるんだけど過程が説明できないのよ」
って言ってた話をどこかで見たのを思い出した。
問題を見ると答えだけポーンと頭に浮かぶらしい。
とりあえずあの人の頭はレスポンス良すぎて誤操作誘発してそう。
0877人間七七四年
2012/10/10(水) 20:49:49.64ID:2k798HK/長政「あなたの父・元就殿ほどの知恵を持った人はいません」
0878人間七七四年
2012/10/10(水) 22:04:44.53ID:aN7oTPW/0879人間七七四年
2012/10/11(木) 01:15:14.03ID:lmSaCmml0880人間七七四年
2012/10/11(木) 02:13:20.80ID:1FncheTp0881人間七七四年
2012/10/11(木) 02:58:18.17ID:wnewuAgD0883人間七七四年
2012/10/11(木) 07:36:13.28ID:brrbDoes言ったって奴でしょ?三成の秀次事件への関与自体諸説あるので、単純に事実といっていいものやら。
0884人間七七四年
2012/10/11(木) 14:57:16.93ID:AdLUoIWj寛文9年(1669)のシャクシャインの乱で、松前藩は弘前藩に援軍を求めたが、その年は弘前藩主津軽信政が参勤交代により江戸にいた。
国元の重臣たちは集まり江戸藩邸に指示を求めた。
藩主からの指示は「松前への援軍は津軽喜左衛門、杉山八兵衛を当て、緊急の場合は杉山八兵衛を先発とすること」という内容であった。
やがて、老中稲葉美濃守正則からの書状により杉山八兵衛を総大将とする700人程の弘前藩の援軍が出発した。
松前に無事に着いたは良いが前線への出動はなく、特に何もないまま津軽に戻ってきた。
帰国した杉山八兵衛はすぐに藩主信政の書状を持ち、江戸城に向かった。
江戸城では藩主信政の姉婿土井利房以外の全ての幕閣が待っており、将軍家綱の口上書と土井利房の口上書が読み上げられ、その後祐筆の則田安信は「幕閣諸侯と杉山八兵衛との会話は之を略す」と記しており、酒肴を賜り、歓談が行われたようである。
逸話でもなんでもないけど、石田三成の嫡孫と幕府のちょっとした関わり。既出だったらごめんなさい。
0885人間七七四年
2012/10/11(木) 16:27:12.70ID:7y7v6tMy0886人間七七四年
2012/10/11(木) 17:02:37.66ID:Z/ryKddj0887人間七七四年
2012/10/11(木) 17:43:44.57ID:rsYOP+wD大坂夏の陣の折、徳川家康と秀忠の両御所は伏見城の舟入の櫓に渡御して、
軍の進む様子を見ていた。
この時、井伊直孝の旗奉行である孕石豊後と広瀬左馬助の二人は、城下にて
幟旗を伏せて通るので、直孝は般若野宮内に命じて「両御所が御覧になって
おられるのに何故旗を伏せるのか。早く旗を立てよ」と伝えさせたが、両人は
「旗のことは奉行にお任せください」と言って聞かず、直孝が馬場藤左衛門に
催促させても、二人は聞き入れなかった。
やがて二人は肥後橋を通過し、城から遠く離れて初めて旗を立てた。
これは主将が渡御した城へ旗を向けることを憚った故に、旗を隠していたのである。
家康はこれに感心して秀忠に向かい「この城に旗先を向けることを憚り、
今になって旗を押し立てるとは、直孝のもとには信玄の家風に慣れた古兵が多い
だけあって、軍陣の作法を心得ておるわ」と賞賛したということである。
――『徳川実紀(村越覚書)』
0888人間七七四年
2012/10/11(木) 18:45:28.06ID:ml726taz直孝「孕石豊後と広瀬左馬助です」
権現「さっさと腹切らせろ」
0889人間七七四年
2012/10/11(木) 19:09:39.20ID:BdlzcD3M江戸に続く
0890人間七七四年
2012/10/11(木) 22:56:21.60ID:yqdu46Q7再来年の黒田官兵衛に期待したいところだ。
ただ、荒木村重に拉致監禁されてびっこになったり、
頭に瘡が出来たりといったところをどこまで再現できるか・・・
>>870
小早川隆景が愚鈍なら俺はいったいなんなんだ?
ハエか?ゴキブリか?w
0891人間七七四年
2012/10/11(木) 23:30:15.37ID:Z/ryKddj0892人間七七四年
2012/10/11(木) 23:54:46.28ID:RTURwGJQ三成の孫だったかひ孫が家光の側室になったとかいう説もあったな
その娘が尾張家に入ってるんだっけか
0893人間七七四年
2012/10/12(金) 01:18:30.68ID:H7KMdTwS人なみ外れた奇行をする気性であるがゆえに、
気力も強くて勇気もあったのである。
このあたりがいまいち納得出来なかったので老武者に聞いてみると、
「気力が強いゆえ、普段も手荒く、他人からは奇行者のように思われる。
今の者たちは気力が弱いから、そういうことをしないのだ。
しかしだぞ、気力は劣っていても人柄は昔より良くなっている。
昔と今を比べてみたが、勇気の有無は別のことだ。
今の者は無気力で、大人しいからと言って、
死にもの狂いになることにおいて、
昔の侍に劣るということは根本的にはないのだ。
死狂いになるのに気力がなければならないという道理はない」
とのことだ 【葉隠】
0895人間七七四年
2012/10/12(金) 10:42:35.03ID:S09DAfZH秩序のない世代と秩序を求められる世代を比べても意味ないしな。
0896人間七七四年
2012/10/12(金) 13:22:35.17ID:FN00yU0A草食草食騒ぐ糞ジジイが昔も多かったんだろうな
それにキチガイ具合じゃ戦国の武者だって鎌倉の武者に比べれば大人しいもんだしな
0898人間七七四年
2012/10/12(金) 20:30:35.86ID:iDfdGD7W0899人間七七四年
2012/10/12(金) 20:35:27.65ID:6KZn9KQW【読み】はらみいし,はらいし,こいし
【解説】
現静岡県西部である遠江国佐野郡孕石村が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
藤原南家工藤氏族、和邇部氏がある。現高知県である土佐藩、小田原藩等にみられる「石」は石や岩、硬い地盤を表す。
http://www.myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AD%95%E7%9F%B3
0900人間七七四年
2012/10/12(金) 21:21:01.48ID:I0GB3Awo井伊家の旗奉行の孕石といえば、旧武田家家臣で、
信玄秘蔵の家臣として山県昌景に付された孕石源右衛門のことだけど、
甲陽軍鑑の注釈によるとあの孕石(主水)の息子さんではないかって、言われてるみたいだね
0901人間七七四年
2012/10/13(土) 00:46:11.93ID:5yVzBdzJ織田信雄が京で猿楽を催した時、小早川秀秋ら諸大名が見物に行った。
この時、秀秋は十四、五歳であったが秀吉の猶子だったためにその従士までが
その威に誇り「金吾の御出ましだ!」とすぐに戸口に入っていったところ、
側にいた加藤清正の家臣十人ばかりが「何が金吾だ」と過言した。
怒った秀秋の近習は棒を取って三人まで打ち叩いた。これがきっかけで喧嘩となり、
秀秋の帰宅後、両家の士が伏見より馳せ来たり、互いに武装して警固した。
秀秋の老臣は「打たれた三人は清正が成敗するでしょう。ならばこちらの者も切腹
させなければなりません。先延ばしにして自害でもされたらそれこそ恥辱ですぞ」
と具申した。
「清正が何と言おうと元々彼の無礼により起こったことだ。我が家来が死ぬ必要は
ないだろう。お前たちの心配には及ばない」
秀秋はそのように言ったが、老臣たちは清正のような剛勇の士ならば必ず大事に
なると恐れ慄いた。また、打擲した者もすでに沐浴して礼服を身に着け、清正の使者が
来れば、すぐに自決しようと覚悟して待っていた。
間もなく清正自身がやって来た。秀秋はきっと争論になると思っていたが、思いの外
清正は温和な態度で「今日の家人の失礼を只今承り、遅参致しました。御近習の人々が
それがしの家人の無礼をもって斬り殺すべきところを、怒りをなだめられて打擲程度に
留めて下さったことは喜悦に堪えません。それがしも彼らを成敗しようと思いましたが、
それでは御近習も閉門になってしまうのではと思い、本国に帰して閉門を申しつけました。
どうぞ御近習を罰するようなことはなさらないで下さい」と、秀秋に詫びた。
秀秋は清正の思いもよらない挨拶に心も打ち解けて会釈すると、清正も大いに喜び、
「三里の道のりを急いで参りましたので喉が渇きました。御酒を一盃頂けませんか」と
言うので酒が用意された。また、清正は「打擲した人々も呼んで下さい」と言って
その席に招き、酒を酌み興を催して帰っていった。
――『名将言行録』
0902人間七七四年
2012/10/13(土) 00:55:46.91ID:M/tDoDaQ0903人間七七四年
2012/10/13(土) 01:25:27.23ID:zTi6fMAs下手人どもをその場に呼び出して成敗するはかりごとかと思った・・・
まあ、他家でしかも格上の郎党に手を出すわけないけどさ
0904人間七七四年
2012/10/13(土) 03:30:03.04ID:2nQbfbWVまあ同盟の関係だけれど
0905人間七七四年
2012/10/13(土) 09:47:53.06ID:4/txyCnV国府台と足利義明
(前略)
天文八年下総の古河にあって古河公方といわれた左馬頭足利高基は、
北条氏綱の娘を子の晴氏に娶わせた縁で、氏綱は高基を援けたのである。
高基の弟右兵衛督義明は兄と仲が悪く、下総の小弓にいたので小弓御所といった。
足利義明は勇猛の将である。自ら関東八州を征服して、覇府を鎌倉に開こうする大野心があった。
そこで同年八月古河に晴氏を攻めた。晴氏驚いて急使を以って小田原の北条氏綱に援けを頼んだ。
氏綱は義明の勢力が強いのは自分にも不利益であると考え、晴氏を援けることにした。
この情勢を伝え聞いた義明は、北条軍を途中でむかえて撃つ作戦計画を立て、
弟基頼、里見義尭と共に房総二国の兵七千を率いて国府台に至り、
江戸川を前にひかえて陣を張った。
天文八年十月四日北条氏綱は子の氏康と共に小田原を出発し、二万余人の兵を率いて江戸城に入った。
群議の結果進撃と決し、諸隊は忍んで金町に進み、江戸川の堤の下に隠れて、夜の明けるのを待った。
七日の朝北条軍は川を渡って松戸の岸に上がり、勢い猛に攻めかかる。
義明の弟基頼は第一陣将として勇戦して倒れたので、小弓勢の一陣先ず敗れ、小田原勢は士気大いに振う。
義明は見方の敗走に憤激し、ただ一騎敵中に突入し、縦横に斬りまくる。
その大長刀にふれて斬らるるもの数知れず、その勢いに敵はどっと崩れ走る。
義明は丘上に立って味方が来るのを待ったが、小弓勢はこの時総崩れとなったから、義明を援けに馳せ集まる兵士はなかった。
北条軍の横井新助は剛弓の勇士、義明の丘上に立つを見て、馬から下り立ち、密かに近づき、矢頃を計って三人張りの弓に十三束の矢をつがえ
『これは三浦の守護代横井新助と申すもの、一矢受けたまえ。』
大音に呼ばわりつつ、きりきりと引きしぼってひょうと放つ。矢は義明の胸にぐさと射貫けば、流石の勇将もどっと地に落ち、太刀を杖につきつつ息絶えた。
『横井新助敵の大将を射とめたぞ。』
と呼ばわれば、北条軍はどっと鯨波をつくって勇み立った。義明の旗下の勇士はこの時馳せつけて、新助に斬ってかかる。
この隙に松田彌二郎は素早く義明の首を取った。
乱軍の中を斬り抜けた佐々木四郎等は小弓に馳せ戻って義明の一子頼純を連れて安房に落ち、小弓御所はここに滅びたのである。
『日本英雄史蹟 : 歴史地理. 関東地方及中部地方巻』より
内容自体は悪い話なのだが、原典元の趣旨が”歴史と地理は切り離すことの出来ない因縁で成り立っているよ!
引きこもって研究ばかりしてないで、治乱盛衰や文化興廃の跡をその目で見て肌で感じるために旅しようぜ!(要約)”
本書に掲載されているのが明治天皇を皮切りに、乃木大将・徳川家康・伊能忠敬・大石良雄・新田義興等、
有名人が名を連ねる中で紹介されていて、今の知名度の低さからとても考えられないと俺的にイイ話だったから
0906人間七七四年
2012/10/13(土) 10:34:32.92ID:1CHK3a6O本当関東の状況はカオスで楽しいんだけどいまいち認知度がなぁ
0907人間七七四年
2012/10/13(土) 11:09:55.83ID:L7i5fm+Z0908人間七七四年
2012/10/13(土) 11:16:04.54ID:WF2ixMjG0909人間七七四年
2012/10/13(土) 11:35:05.88ID:4/txyCnVおお、やっと話の分かる人がいてなんか嬉しい
後北条氏が興隆する陰に古河公方の没落があるからね
当方後北条氏好きだが、関東史を全体的に掘り下げた一般書籍が出回って欲しいと思うよ
>>907
ゲームでネタにされているだけで、古河公方のこと知らなかったら意味ないじゃんw
0910人間七七四年
2012/10/13(土) 11:41:43.10ID:WF2ixMjG0911人間七七四年
2012/10/13(土) 11:51:49.34ID:pMAA7Nd012月に発売予定のこれがドンピシャだと思われる
東国を知れば日本史が変わる! 動乱の東国史シリーズ、好評刊行中
E古河公方と伊勢宗瑞
則竹雄一著 〈12月発売予定〉978-4-642-06445-3
http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n4643.html
こっちはこの間出たばかりで、なかなか面白かった
東国の戦国争乱と織豊権力 7
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b103247.html
0912人間七七四年
2012/10/13(土) 12:09:15.09ID:+bBk8dQC0913人間七七四年
2012/10/13(土) 13:44:01.89ID:uHwI5Nqd0914人間七七四年
2012/10/13(土) 18:20:24.08ID:L7i5fm+Z0915人間七七四年
2012/10/13(土) 18:22:21.23ID:o0IUkIam0917人間七七四年
2012/10/13(土) 22:16:39.39ID:JWdX5Sw/日源は俗名を真柄景基といい、姉川の合戦で戦死した兄たちの霊を弔う為に
僧門に入り諸国行脚をしていたという。
彼は溝口村に越前の紙漉きの技術を伝えようと故郷から甥の新左衛門・
新右衛門・新之丞の三兄弟を呼びよせ溝口村で紙作りを始めた。
1595年、朝鮮から戻った領主の立花宗茂はその話を聞くと日源に見本紙を
出させた上で御用紙にすることを決め、日源達に紙漉きをより広めるようにと
郡中の楮(こうぞ)、紙漉きの諸道具、舟等と田を与え、さらに年貢を納めなくて
よいという特別な援助をした。この宗茂の支援により、彼らは益々紙作りに励み
溝口紙は九州でも有名なものになっていった。
1600年、立花家は改易となり宗茂は肥後の加藤家に一時預けられるが、
日源の甥の新左衛門は宗茂を慕っていたため肥後まで着いて来ていた。
そこで清正からの要請を受けて八代宮地で紙漉き業を行うこととなり、
それが宮地紙と呼ばれるようになったという。
1620年、立花宗茂が再び柳川の領主となったが、日源は既に亡く溝口村も
久留米藩に組み込まれた。それを聞いた肥後の新左衛門は宮地の紙漉きを
末弟の新之丞に任せて自身は柳川に赴き、溝口の対岸にある唐尾の地に
土地をもらって新たに紙漉き業を始めたという。
かくして、柳川の新左衛門、久留米の新右衛門、肥後八代の新之丞と三兄弟が
分かれて紙漉き業を広め九州各地へと伝わっていったのである。
――『八女手漉き和紙、溝口紙、八代宮地紙等の歴史から』
0918人間七七四年
2012/10/13(土) 23:13:25.27ID:x6xFblEb大太刀の直隆さんとご親戚だろうか
0919人間七七四年
2012/10/14(日) 02:27:37.01ID:JgIdNK4S日源上人の兄達は、長兄が真柄十郎左衛門真元、
次兄が次左衛門直高、三兄を十郎三郎直澄というらしいんで、
直隆・直澄兄弟っぽくもあるけど、どっちも残ってる資料が
少ないんで不明としか言いようがないですね
0920人間七七四年
2012/10/14(日) 03:30:58.14ID:VusLJixU0921人間七七四年
2012/10/14(日) 07:21:55.24ID:SVFD6enZ大勇小勇十八巻書などの口伝を受けるが、
それを書き留めず、 記憶しようともせずに、
伝授を受けたことを意識せず忘れてしまう。
そうして、いざ事にぶつかった時は自らの心にまかせ動く。
するとこのとき、習っていたことが自然に知慧となり出てくる。
これが因縁性である 【葉隠】
0922人間七七四年
2012/10/14(日) 10:01:16.98ID:wrPvOMB9よし!今度の試験で試してみよう。
0923人間七七四年
2012/10/14(日) 11:18:18.14ID:D0a7bFrJすぴぃど何某だな!
0924人間七七四年
2012/10/14(日) 15:28:09.04ID:SVFD6enZ三極流は筆記試験には向きません(涙)
学校で三極流参考になるのは運動部かな
一呼吸おいて考える時間も隙になるような競技なら、
三極流の因縁性の教えは参考になる
0925人間七七四年
2012/10/14(日) 17:26:15.34ID:/QajXNT30926人間七七四年
2012/10/14(日) 18:00:11.71ID:Lc9bBxPgダンスとかやってると分かる
0928人間七七四年
2012/10/14(日) 18:36:38.92ID:Q/Do/fEh0929人間七七四年
2012/10/14(日) 22:37:29.88ID:9PZZTHpR細川某「嫁をチラ見しているヤツがいるとつい…」
森某「拙者も、関所を見るとつい…」
松永某「主君の隙をみるにつけ、ついつい…」
0930人間七七四年
2012/10/15(月) 00:21:05.26ID:z9QFnsn3まーくん「いいものをみるとな」
0931人間七七四年
2012/10/15(月) 00:23:13.83ID:RhmDVWTD既出の戦国ちょっといい話・悪い話で、自分の好きな話などをいろいろ雑談したいと思いスレ立ててみました。
良かったら書き込みしたりして下さい。
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
失礼しました。
0932人間七七四年
2012/10/15(月) 17:28:23.44ID:XZBVDR98弱小勢力の悲哀 筑紫家の身の守り方
一.「長いものには巻かれろ」
筑紫氏は大宰少弐氏の一族の出といわれている。
筑前国御笠郡筑紫村の地頭職であったため、筑紫と名乗ったらしい。
少弐氏は鎌倉時代から筑前において大きな力を持っていたが、
大内氏の西進により徐々に衰退して行く。室町時代、応仁の乱を経て、
大内氏と少弐氏の争いは激化、筑紫家は少弐氏に従い大内氏との戦いに明け暮れた。
しかし大内氏の力は強大で、少弐氏は徐々に筑前における勢力を失い、
肥前の龍造氏を頼っていくこととなる。大内方・陶興房の本格的な少弐攻めにより、
少弐政資・高経父子は討ち取られ、筑紫満門は大内氏に降伏することになる。
その後高経の弟、少弐資元が少弐氏を再興。資元の重臣・馬場頼周は
満門の女婿だったため、大内氏についた満門を再び自軍に引き戻そうとした。
満門は、これからの時代は大内氏の勢い盛んになるのは必定、
少弐氏が生き残っていくためには大内氏の下につくしかないと逆に諭した。
しかし資元は父と兄を滅ぼした憎き大内氏に降伏した筑紫満門を恨み、
頼周は資元と謀って満門を騙し討ちにして殺害。
以降、少弐家と筑紫家は完全に袂を分かつことになる。
しかしそれが本家と関係を絶った弱小勢力の流浪の始まりでもあった。
大内氏の下で少弐氏との戦う→大内義隆が陶晴賢の謀叛で殺害される→大友氏と和睦
→毛利元就が北九州に進出→毛利家に付く→敗れて安芸に落ち延びる
→2年後九州に再上陸し旧領を回復→しかし大友氏に降伏→高橋鑑種が筑前に着任
→鑑種は筑前の国人たちに接近、比較的安定した大友支配下の時代
→龍造寺隆信が毛利氏と組んで筑前に勢力拡大→立花鑑載が毛利氏に通じて謀反
→高橋鑑種もこれに加わり、懇意としていた筑紫惟門・秋月種実らも同調
→大友軍の猛攻により筑紫惟門は子の広門らの助命を条件に自害
→毛利軍も出雲で尼子勝久が挙兵したため退却、秋月種実も降伏→大友支配下時代
→大友宗麟が耳川で大敗→それを契機に龍造寺が筑前進出→龍造寺側につく
→龍造寺隆信が沖田畷で討死→島津が筑前・筑後にまで勢力拡大→島津側につく
→突如高橋家と婚姻、大友氏につく→島津軍北上し敗退→秀吉軍が九州上陸
→幽閉先から脱出、島津軍を追い出し旧地回復→筑後上妻郡一万八千石を安堵、豊臣大名に
→筑前筑後衆として立花宗茂、小早川秀包らとともに肥後国人一揆、小田原征伐、
朝鮮の役など常に行動を共にする→関ヶ原の合戦で東軍について改易
→子は細川忠興の口添えで謝罪、大坂の陣に出陣した功で徳川旗本家として存続
0933人間七七四年
2012/10/15(月) 17:29:30.19ID:XZBVDR98筑紫家の居城・勝尾城の峠を挟んだ筑前国側の五箇山に一ノ岳城という城があった。
五箇山は非常に山深く天険の地であり、大軍が攻めても狭い道で少人数しか通れない。
そのため一ノ岳城は要害とされ、勝尾城が落ちた時の「逃げ込み城」の役割があった。
勝尾城から五箇山までは地元の人間しか分からない無数のけもの道があり、
さらに五箇山からは博多や唐津など海へ抜ける逃げ道までも確保されている。
筑紫家の家風としては「城を枕に討ち死」などありえない考えであり、
とにかく危なくなったら逃げて再起を計れという思いがこの城の存在から見てもわかる。
筑紫惟門が大友軍に敗れ毛利氏を頼って落ち延びた際もこの道を通り唐津から出航したらしい。
その後九州に再上陸した時は大友方の博多代官を殺害し、旧領に戻っている。
高橋鑑種と共に反乱を起こした際はさすがに逃げ切れなかったのか一族の助命を条件に自害。
このとき筑紫惟門が腹を切ったのも一ノ岳城だったそうだ。
筑紫広門が島津軍に降伏した後も、家人の園部財部が五箇山周辺に立て篭もり、
一ノ岳城自体は秋月軍に占領されていたものの、広門が幽閉先から脱出してくると
秋月勢を追い出しまず一ノ岳城を占領、そして翌日にはもう勝尾城を奪い返している。
『上井覚兼日記』によると島津義久は「なぜ早く広門を処刑していなかったのか、
それが叶わないにしてもなぜ早く八代に連れて来なかったのか、言語道断だ」と怒り、
「御恥辱此上ハなく、人の申さぬ所にてハ、御落涙なさるる計也」とかなり悔しんだという。
このように大きな勢力への集合離散を繰り返し、
「逃げ城」まで作って家系を残そうとした筑紫家。
およそ一般的な戦国武将の「義理」のイメージとは離れているためかあまり人気がなく
大友家に忠義を尽くした立花道雪・宗茂、高橋紹運らと常に比べられるが、
戦国時代の小勢力としての生き様に親近感を感じるのは私だけだろうか。
0934人間七七四年
2012/10/15(月) 19:19:16.90ID:UrqYKKPB0935人間七七四年
2012/10/15(月) 19:27:48.54ID:WuH+TaAk0936人間七七四年
2012/10/15(月) 19:41:49.41ID:60ZXLO6g0937人間七七四年
2012/10/15(月) 20:07:32.86ID:x0Hbw+K80938人間七七四年
2012/10/15(月) 20:13:23.96ID:yR7j2g47帝国主義時代のタイ王国や20世紀のフィンランドみたく敬意を払うべき存在だ
0939人間七七四年
2012/10/15(月) 20:21:50.35ID:7002YGsM0940人間七七四年
2012/10/15(月) 20:53:13.61ID:RLfVSYc2>関ヶ原の合戦で東軍について改易
0941人間七七四年
2012/10/15(月) 21:13:09.21ID:mvuryzzP0943人間七七四年
2012/10/15(月) 21:22:09.83ID:Y1u2knWZん?
>関ヶ原の合戦で東軍について改易
「関ヶ原の合戦で西軍について改易」が本当。
0944人間七七四年
2012/10/15(月) 21:25:43.80ID:RP0r2P4J0946人間七七四年
2012/10/15(月) 21:57:49.77ID:Plea9pIU0947人間七七四年
2012/10/15(月) 22:33:29.19ID:yxZMlk+8明確な味方が全くいないんだなあ(自業自得な面もあるが)
>>932とか見ると本当に生き延びるのに必死だったんだろうな
0948人間七七四年
2012/10/15(月) 23:08:35.11ID:eDzTvCWf西軍に寝返って改易くらった人は居るけど、ずっと東軍で改易は無かったような・・・
後は敵前逃亡の木下勝俊とか
0949人間七七四年
2012/10/15(月) 23:22:06.47ID:OqRfzS4J筑紫尚門:杉興連の肥前侵攻軍先鋒となるも龍造寺家兼に討たれる
筑紫惟門:大友から離反し毛利方につくが敗れ山口へ亡命、復帰するも斎藤鎮実に攻められ自害
筑紫広門:龍造寺から離反し大友方につくも島津に居城を奪われ拉致監禁後ドサマギで脱出、筑後へ減封領地替えで大名存続
するかにみえたが関ヶ原で西軍につき鍋島勝茂から居城を包囲され降伏、加藤清正を頼る
が、加藤家も改易され細川家の厄介となり大阪の陣に従軍するも数年後に死没
子の主水正広門が旗本に取り立てられたのは広門死後三年の話
0951人間七七四年
2012/10/16(火) 01:08:50.62ID:vYS+gtvy龍造寺の一家も全滅させてるし、筑紫もこれだし、そりゃ滅びるわ
まぁそれでも毎度毎度不死鳥のように復活してるあたり「家」の魅力なのかねぇ
>>950
嗣子がいて家が存続してれば勝ちってことなんじゃないの
惟門が自害したのも広門助命のためみたいだし
和睦の条件として広門が斎藤鎮実の下の妹と婚姻したのもこの時だ
上の姉が宋雲尼(高橋紹運妻)だっけか
0952人間七七四年
2012/10/16(火) 01:18:27.24ID:VDDbOaCmたしかこのあと捕まってた宋雲尼と娘まで奪還されたから
警戒が強まって立花統増夫妻は薩摩本国まで移送されちゃうもんな
本格的な島津攻めを前に折衝して取り戻したらしいけど
0953人間七七四年
2012/10/16(火) 02:36:36.62ID:GEYfB5fz宝満山城の開城は筑紫広門が捕まったことが一因なのに当の広門はさっさと脱出してるんだもの
0954人間七七四年
2012/10/16(火) 03:02:28.19ID:ReE506LX南関(常山紀談だと『北の関』)に捕まっていた宋雲尼を龍造寺家臣の堀江覚仙が保護して立花山へ送った話がある
九州治乱記だと娘と大木兵部丞(蒲池謀殺を隆信に難詰して気に入られた逸話がある人)が加わる
0955人間七七四年
2012/10/17(水) 00:34:08.00ID:phStM6dH少弐家…大内家…
(以降惟門時代)
大友家…毛利家…大友家…高橋(鑑種)家…
(以降広門時代)
大友家…龍造寺家…島津家…大友家…豊臣家…(改易)…徳川家
うん、特に広門時代だよねw
たぶん秋月家あたりも同じような遍歴を辿ってるはずだけども
筑紫家と秋月家は大体一緒に行動することが多いね
島津北上の時に袂を別ったけど、降伏は秋月種実を介在してだったらしいし、
助命されて幽閉で済んだのも種実のお陰だったのかもしれない
0956人間七七四年
2012/10/17(水) 01:27:44.16ID:xrpJIKwq0957人間七七四年
2012/10/17(水) 01:42:54.23ID:V8ZCGupB0958人間七七四年
2012/10/17(水) 01:51:49.17ID:phStM6dH[100万石] (ピコン…)
[改易] (ピーン!)
0959人間七七四年
2012/10/17(水) 02:20:38.91ID:LbhoZAnIあるとき利右衛門の外出を見計らった下人が、
利右衛門の妻に思い詰めた表情で話かけた。
「御主人に不義を為すのは悪いことだと思い、
何度も思いとどまってきましたが、
前世の因縁としか考えられないような気持ちが抑えきれません。」
と言い寄ってきた。
利右衛門の妻は不義に怒り厳しく下人を叱りつけたが、
思い詰めた下人は話を聞き入れそうにない。
そこで、
「それほど思い詰めていたのなら仕方ありません。
人目もあるから奥の物置で待っていてください。
お前の気持ちを叶えてあげます。」
と言うと、下人は喜んで物置に向かった。
利右衛門の妻は、下人を奥へと引き入れてから、
物置を掃除するように装い外に出て戸を閉めて錠をおろした。
そうしてから利右衛門の帰りを待っていると、
やがて帰ってきたので、事の次第を全て話した。
利右衛門はまず下人を物置から出し、
下人の口から事を確かめたうえで討ち捨てたとのことだ 【葉隠】
0960人間七七四年
2012/10/17(水) 02:26:26.75ID:UGTttLN50962人間七七四年
2012/10/17(水) 02:51:52.06ID:cHMTPgvC0963人間七七四年
2012/10/17(水) 05:03:16.64ID:96e1k1Oz武家は三年産まない妻は離縁して
商人は妾を持つのが甲斐性で
色男は夜這いを楽しんでいたけど
本当は女に縁のない下人も貞節をわきまえ
春画やたまに梅毒の危険を省みずに遊郭や夜鷹で我慢しなきゃいけないんだな
こんな時間に外で猫どもがうるさい
0964人間七七四年
2012/10/17(水) 06:16:24.11ID:mt56JGXY0966人間七七四年
2012/10/17(水) 17:41:11.59ID:gRKLHb8e鍋島直茂は曰く、
「木曾義仲は平家を撃ってこれを走らせ、京において驕奢を究めて
遂には義経のために亡ぼされた。義経は平家を撃ち亡ぼし京にあって
義仲よりも一層栄花に誇り、遂には梶原景時の讒言によって亡びた。
この二人は思慮もなく成り上がったので、鎌倉への取り繕いがなかった。
鎌倉より検者を乞いてそれぞれ資財などを与えて、折々の取り繕いがあれば、
思いのまま天下を占めることもできただろう。才覚が下手だったのだ。
弁慶を文武二道の者というが、分別は文武の外たるべし」
――『名将言行録』
0967人間七七四年
2012/10/17(水) 20:15:12.49ID:arxLZ04J09681/2
2012/10/17(水) 20:20:07.42ID:g0zxDbviある男が白昼に人を斬って商家に逃げ込み、そこにわずか8歳の少女が乳母に抱かれていたのを奪い取り、
これを人質にして立て籠もるという事件があった。
商家の者たちは突然の事に皆逃げ出した。この男は内から戸を閉じ少女を膝の上に伏せ置いて、
もし乱入する者が有らば即座にこれを刺し殺すという気色であった。
もとより頑是無い少女であれば、最初は大声で泣き叫んでいたが、やがて声も枯れ果て、
もはや呼吸をするのが精一杯という様相であった。
近辺の者達はその家を七重八重に取り囲んだものの、突入して少女に害が及ぶことを恐れ、
どうすべきかと徒に惑い騒いでいた。
ここに、町与力の間野甚右衛門と言うものがやってきて理由を聞くと、
「ここは私に任せなさい。こういう事は為し様というものがあるのだ」
と言って、男の立て籠もる商家の戸の際まで行き、声を発した
「中の方に言いたいことがありもうす。この戸を少しばかり開けてほしい。但し体が入るほど開けなくて良い。
これは決して貴殿を欺くものではない!どうか騒ぐようなことをしないでほしい!」
男はこれを聞くと、五寸(約15センチ)ばかり戸を開け
「内に入ること、固く無用である!」と、目に角を立て片膝をついて叫んだ。
甚右衛門、これに
「私は決して中に入らない。あなたと話をしたいだけです。」と、その場に座り
刀も下において、戸の間より自分の顔を見せた
「私は間野甚右衛門と申す者です。先ほど貴殿が人を御斬りになられたのは、日頃の宿意からでしょうか、
それともたまたまの喧嘩のためでしょうか?」
「ひ、日頃の宿意からである!」
「ほう。貴殿自ら斬られたものとはいえ、その様に忙しく逃げ入られたのでは、その斬った様子も
よく確認されなかったでしょう。
私はたった今それを見てきたところなのですが、大変良く斬られた刀傷でした。
左の肩先より右の片腹まで、背骨が少し繋がっているばかりでした。
一太刀で死ぬとも思えぬような騒動の中で、一撃で留めまで刺された腕前、感じ入るばかりです。」
甚右衛門、男の腕前をそうほめあげた。
「そ、そうであったか!」
男がまんざらでもない顔をする。すると甚右衛門
「貴殿は誠に、勇気は余りあるほどお持ちですが、知恵が足りません。」
「なんだと!?それはどういう仔細か!?」
09692/2
2012/10/17(水) 20:20:50.02ID:g0zxDbviいたのでしょう。そして今日、往来にて行き合われ名乗りかけて斬られました。
白昼の、しかも往来繁多な街中ですから、これを斬った後逃れようとはお考えになっていませんでしたね?
必ず一命を捨てる覚悟で会ったと推測するのですが、いかがでしょうか?」
「そ、そうだ!全く貴殿の言うとおりだ!」
「然らば!貴殿は心中とやっている事が違うではありませんか!
今、その少女を人質に取った事は、貴殿の心を知らぬ者達にとっては、命を惜しんで行った行為だと
考えるでしょう。この家の周囲は既に、人々により十重にも廿重にも取り巻かれておるますれば、
貴殿がたとえ天に翔び地に潜っても、逃れることはできません。
されば、最期は自害なされるか、人と斬死するか、この2つ以外にはありません。
…その少女が、例え宿意あるものの子であったとしても、素より罪なきものですから、これを許すのが
当然です。いわんや、その子はただの商家の子であり、今日のことに何も関係のない者ではありませんか!
それにこのような、何もわからぬ少女を故無く刃にかけるなど、仮に他所でこれを聞けば、
貴殿は痛ましいことだと思われないか!?
これを殺すのは、拾った子猫を殺すようなものである!一体そこに、どんな武士の気概があるというのか!
とても逃れられない道に、少女を人質としたことは、せっかく宿意のものを斬った誉れも虚しくなり、
却って人々より蔑まれ、死後までの武士の無念となるでしょう。」
「そ、それは…!」
「想像するに、貴殿はよもや、汚く一命を惜しんでいるのではありませんね。
人を斬った者が居ると言われて、人々が棒を持って前後を取り囲んだ、そのため、仔細を語る暇もなく
棒に撃たれては恥辱であると思い、先ず暫くその難を避け、その後に尋常に腹を斬って武士の名を失わじと、
そうお考えになったのでしょう。
されども是非無く取り囲まれて、このように騒ぎ立てられてしまい、町人たちにこうだとも言えず、
時間ばかり経って貴殿の存念が達せられない。そのように私は考えました。
さて、そうではありませんか?いかに?いかに!?」
男はこの言葉を聞くやいなや
「そ、その通りだ!我が心情をなんとよく察してくれたものか、かたじけなく思う!」
「しからば!」
甚右衛門はその言葉に付け入った
「その少女を許してあげてください。貴殿が万一、人を斬り足りないというのであれば、こう言っている
私をお斬りなさい。私も素より貴殿に遺恨はありませんし、貴殿もまた私に遺恨がありません。
ですが斬り合いしようというのなら否とは申しません!不肖ながらいつでも、お相手つかまつります。
…よくよく分別なさいませ。」
男、この言葉に
「…さても言われたるものかな。貴殿は実に、世に稀な弁者でござる。」
そう言って膝下の少女を優しく起こし、髪をかき撫で衣の塵を払い、
「私の不心得により、非道なことに、汝の父母にまで心配をかけてしまった。」
男は少女に謝り、これを開放した。
そして甚右衛門を家の中に呼び入れ
「ならば、私は切腹いたす。…貴殿に、我が解釈を頼む。」
そう言って抜きはなっていた血刀を地に突き立てた。甚右衛門も
「天晴勇者よ。潔し。潔し!」
と言いながら戸を開いて中に入り、見事介錯をはたした、とのことである。
間野甚右衛門、立て籠もった武士を説得する。という逸話である
(武士道美譚)
0970人間七七四年
2012/10/17(水) 20:38:58.62ID:2FWraWMN0971人間七七四年
2012/10/17(水) 20:42:18.78ID:Dy0w92CFここが秀逸すぎる
追い詰めておいて逃げ道を用意する周到さ
0972人間七七四年
2012/10/17(水) 20:44:30.96ID:Dy0w92CF0973人間七七四年
2012/10/17(水) 23:45:50.04ID:CgbOLxCJ0975人間七七四年
2012/10/18(木) 03:50:23.04ID:Eeo9aO870976人間七七四年
2012/10/18(木) 08:33:50.29ID:hxyl9XuJ0977人間七七四年
2012/10/18(木) 10:23:55.68ID:faqCkf9ZJudgment Day
0978人間七七四年
2012/10/18(木) 10:33:20.96ID:SgVQVLsq0979人間七七四年
2012/10/18(木) 17:59:20.84ID:u6xowmGR0980人間七七四年
2012/10/18(木) 19:06:01.56ID:/qlGMV2o0981人間七七四年
2012/10/18(木) 19:09:21.26ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/
0983人間七七四年
2012/10/18(木) 20:31:56.98ID:nb7gs4IC前に出てたらごめんなさい。
父「パパと山に登ろうか」
子「わーい」
山に着くとパパは急に言いました。
父「さて、ここで不意に敵が襲ってきたらどうする?」
子「えっ?じゃあ、あそこに登って防ぎます。」
父「あそこに登るのは時間がかかるからダメ!
パパならここで兵を二手に分けて防ぐね。」
こんな調子で、山や野原を散策する度にいきなり飛び出すパパからの質問。
自然と子供は周囲を見ながら戦術や陣形を考えるようになりました。
この子はやがて元服し高橋統虎と名乗ります。
高橋紹運の子育ての1ページでした。
0984人間七七四年
2012/10/18(木) 20:43:35.98ID:5BaWZdNd幼少期に母からの愛情が欠ける、
半士半農の貧しい家に生まれる、
幼少期に他国で人質となる。
ような人生送ってたら・・・
天下を目指す宗茂が見れたかもしれない
0988人間七七四年
2012/10/18(木) 22:11:24.34ID:1bm6QtRn0991人間七七四年
2012/10/19(金) 10:06:36.87ID:e/ugMP0Qあと、めんどくさい家臣団を忘れてる
0992人間七七四年
2012/10/19(金) 10:58:06.00ID:MrlCTSX8三河武士とか黒田武士みたいな別格中の別格と比べるのが間違いなだけで
0993人間七七四年
2012/10/19(金) 15:29:57.82ID:9+l2T6yk0994人間七七四年
2012/10/19(金) 15:45:29.89ID:5k7PsNqj0995人間七七四年
2012/10/19(金) 15:48:23.84ID:Z8QFrMpQ0996人間七七四年
2012/10/19(金) 16:09:39.91ID:rG23TCW90997人間七七四年
2012/10/19(金) 16:53:10.33ID:sMW7gQmF信長「昔のことをあとからネチネチと言うとは」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3189.html
秀吉「いじめられたくらいで殺すって、器が小さいの」
0998人間七七四年
2012/10/19(金) 17:56:34.90ID:LKiZj7eH0999人間七七四年
2012/10/19(金) 19:07:28.38ID:+LAh1N5L家光が京都上洛の折、東福寺大雄庵に住持が入ることになった
東福寺の檀那は伊達政宗であったので辻固めに兵を出させ旅路を警護させた
これを聞いた建仁寺の熊長老なる者(細川幽斎の甥とされる)が揶揄し
今日をはれと 檀那伊達して 政宗が 辻方目をや 光らかすらん
「京都を張れ(京都を警護しろ)と見栄っ張り政宗の旦那が道で片めくらを光らせてやがるpgr」
「(自分の息のかかった住持が上洛するので)今日が晴れの日だと檀那の伊達政宗が張りきって道路警護してやんの。ひけらかすなよバーカバーカ」
とダブルミーニングで戯歌を詠んだ
伝え聞いた政宗は
ともすれば 吾名におひの 固めをも 光らかす身の かかる迷惑
「我が身に負った片目だからこそ余計に目を光らせてるんだぜ、おかげでお前みたいな変なのまで目について迷惑だわー」
「伊達に課せられた公儀をこなしているだけなのに、どこぞの甥っ子がひけらかすなどとトンチンカンなこと言ってやがるが、なんのこっちゃさっぱりだな」
とダブルカウンターで返す
国史叢書
細川ゆかりだけに「迷惑」程度で皮肉を手加減する辺りが(多分)いい話
誤訳御免
1000人間七七四年
2012/10/19(金) 19:19:47.00ID:4uP7fDO+10011001
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/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
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i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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