>>戸木城開城はたしかに一次史料には無いけど他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと書いてある
普段は軍記引用すると批判する一次資料厨なのにこういうときだけ軍記引用とか基地外だな
>>そこには伊勢国奄芸郡(現・三重県津市一身田の浄土真宗高田派本
>>10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し信雄の清洲へ退いた。
そんな重要な事項が何も秀吉も家康も触れてないとかありえないだろ
大体木造の事は秀吉も家康も書状でなんやかやと触れてるのに
>>ちなみに信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵のメンツが
>>人質を出してるのに木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。
信雄は織田政権時とは全く異なり領地替えまであったのにこの頃まで木造が首脳だというソースよろしく
土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊
小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
>>勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとしか書いてない
>>しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が
>>無事を扱ってくれたので開城したと書いてあって内容がぜんぜん違う。
なぜ内容も違う上に一次資料にもみえない事柄が事実といえるのか不明
>>10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
>>同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが
>>取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて
>>清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
小牧山も戸木も松ノ木も似たような状況で落ちずしかも小牧山周辺の砦すら落とせず二重堀で逆襲くらったのに
囲っただけで勝ったようにいわれても