○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
>>182
>>秀吉が滝川を救いにいかないのが無能とか執拗に主張しておきながら、
当たり前だろアホ。7〜8倍もの圧倒的兵力差で敵地の信雄・家康を分断できる大チャンスを
滝川・九鬼が作ったのに秀吉は自軍総決戦で望んだ長久手戦で信雄に1万人討ち取られる大失態演じてしまったために
秀吉のいる大垣から程近くの蟹江にいる滝川を見捨て結局7月の三河侵攻計画は頓挫。その後の夏の攻防でも家康方は長陣の疲弊により
兵力の半分を三河に帰し今まで以上の圧倒的兵力差にもかかわらず尾張口を突破できず退却
>>家康が信雄を救いに行かずに降伏に追い込まれたことはあんな危険なとこに行く方がバカとか
小牧山近辺の秀吉方城郭に2万人も留守居兵残されてるのにどうやって信雄助けにいくんだアホ
>>平気で矛盾する発言をしたり、
何が矛盾なんだ馬鹿が。両者の圧倒的兵力比と寝返りだらけでガタガタな状況考慮もできねーカスが
>>〜だったからなど家康に関することはことごとく言い訳を連発して、

>>家康から離反しまくりの状況が、家康が引き込もって助けに行かずに
家康からではなく信雄からだろ。しかも>>184のように木曽も毛利も田丸も神戸も信包も池田も森も3月に寝返ったから
家康の動きと関係ねーわアホ
>>どんどん追い詰められ、
どこが追い詰められてるんだアホ。蟹江も長久保も長久手・羽黒も戸木も松ノ木も東駒野も河波も浜田も
皆秀吉方が攻略失敗して退却していっただけだろうがアホ
>>自軍有利を演出するためにずうっと過剰戦果の一万人討死させたから長曾我部くん早く助けてのループ。
自軍有利どころかむしろ2万人くらい戦死してそうな長久手を1万人戦死でとどめてるんだから過小戦果だろ
秀吉の方がほんのさわりにもならないだの家康が相手にしないだの必死にいいつくろって敗北を隠蔽するのに必死だったじゃねぇかw
佐竹宛書状などでも>>140のようにデタラメはきまくってるからいかに秀吉が必死に諸大名をつなぎとめようとしてたかわかる