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織田軍団ってイメージで凄いと思ってたけど…

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0001人間七七四年2012/08/08(水) 15:25:21.76ID:3UERgDvB
雑魚すぎワロタ

手取川で謙信にフルボッコされ木津川口でも毛利水軍にフルボッコされ信玄が死ぬまで武田に手を出せず氏政にも真っ向勝負で大敗する(笑)

桶狭間とか長篠ばっかじゃなくてこういうのもしっかり教科書に載せるべきだね^^;
0161人間七七四年2012/09/10(月) 12:42:13.29ID:vsZcUtVE
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
0162人間七七四年2012/09/11(火) 00:47:42.67ID:1g/WALz0
信長公の威風を継いだ織田信雄公と天下有数勢力の徳川家康公が組めば
いかな巨大勢力を牽引する羽柴秀吉と言えども苦戦は当然
0163人間七七四年2012/09/13(木) 19:52:50.79ID:n406Zjh9
威風をついだといっても毛利秀頼も池田も森も毛利広盛も神戸も関も田丸も信包も
会戦当初からさっさと信雄を見限ってるもんなあ
石川数正も篭絡されつつあったし木曽も既に春時点で寝返ってるし
0164人間七七四年2012/09/13(木) 22:21:47.54ID:jOt7JT8I
所詮本家ではないですし
0165人間七七四年2012/09/14(金) 11:53:47.00ID:2BnH9cSO
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0166人間七七四年2012/09/15(土) 08:38:50.41ID:6qPegW/F
劣勢ながら健闘し織田の家名を保った織田信雄
援軍派遣ながら迅速に信雄を助けて武名を鳴らした徳川家康
合法的に織田家臣を牽引し傷を傷とも思わせない立ち回りをした羽柴秀吉

英雄揃い踏み
0167人間七七四年2012/09/15(土) 12:02:53.99ID:uT4ZYFW3
信雄が健闘というより
秀吉が吉村やら木造やら高木やらに苦しめられて
信雄に1万人戦死の戦国史上まれにみる醜態演じただけの戦い

7〜8倍もの兵力差&相手は基盤ガタガタで会戦当初から寝返り連発・家康は8000のみの動員で
これだけやられまくった雑魚武将なんてそうそういないだろ
0168人間七七四年2012/09/15(土) 16:47:48.03ID:X6V/7J2K
>>167
意外に織田信雄って秀吉相手に優勢に戦ってたんだな
一万人討ち取るなんてすげー
0169人間七七四年2012/09/15(土) 17:46:16.09ID:uT4ZYFW3
織田信雄・毛利輝元・北条氏政。
いずれも伊賀攻めやら宇喜多・大友やら佐竹・里見やらに翻弄されまくった戦国屈指の凡将だが
秀吉にだけは唯一大いに敢闘している
いかに秀吉がゴミクズレベルの雑魚だったかわかる
逆に秀吉が指揮を取らなかった九州攻め・四国攻め・朝鮮出兵の方がよほどスムーズにいっている
0170人間七七四年2012/09/15(土) 17:50:27.21ID:uT4ZYFW3
史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下

荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判

巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
0171人間七七四年2012/09/16(日) 02:47:35.17ID:TBjvxNU/
九州攻めは思いっきり指揮取ってただろwwww
四国攻めは秀次がボッコにした時点で秀吉でも余裕w
長宗我部とかいう田舎大名相手ではなw
0172人間七七四年2012/09/16(日) 07:22:26.74ID:ZVjn7Dm0
>>169
たかが数度の敗けや失敗で戦国屈指の凡将とか
そんな事言ってたら戦国武将みんな凡将になっちまうぞ
0173人間七七四年2012/09/16(日) 07:29:17.34ID:wxPB4UFl
九州攻めが秀吉指揮?
秀長が指揮した15万が動員されただけで秀吉軍は別に何もやってないだろ
宮部らに島津が苦戦して退却して勝手に退却しただけ

>>172
たかが数度って全体でみても要衝要衝で負けて全然うまくいっていないんだが…
信雄…伊賀攻めで大敗、一般的に暗愚の将の評価
輝元…辛川合戦・加茂崩れを始め宇喜多相手にボコボコ。大友には九州の国人思いっきり寝返らせて攻め込んだのに連戦連敗
氏政…上杉が例年侵攻してきたとはいえ佐竹・里見相手に1565年頃から1588年頃までずっと侵攻に梃子摺る(途中で負けも何回かあり)
0174人間七七四年2012/09/16(日) 07:33:19.52ID:wxPB4UFl
輝元の場合国中総動員しての戦いで宇喜多や南条に敗北したり撃退されたりしてるからね
秀吉からすりゃ熊見川で自分を蹴散らした相手がまさか20万石そこそこの宇喜多や5万石程度の南条に苦戦する雑魚だとは思わなかっただろうな
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚

毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
>>606
秀吉はヘタレ毛利が上月を攻め落とし織田軍を蹴散らしたのに
安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し
毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し
毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。
その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを
火事場泥棒

この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか
備中・美作でも劣勢だったがこの窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で
宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山攻防などで大敗し窮地に陥る
備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体で翻弄しまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と
膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが
気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。
0175人間七七四年2012/09/16(日) 07:35:26.87ID:wxPB4UFl
多々良浜では立花城をとられた後はに道雪が小早川隆景隊を破ったり
大友が優勢な戦いが多いからな。それで援軍送ろうとした毛利の隙を突いて大内輝弘送って、
撤退に追い込み、吉弘鎮信隊(弟の紹運も所属)が中心に追撃して3491人を討ったとされてる

そもそも豊前や筑前は大内滅亡まで大内領だったし、立花などの飛び地以外に大友の直轄領なんてほとんどなく、旧大内勢力反大友の敵対国人ばかりの地。
水軍力の低い大友は山がちの豊後の峰や谷を越えて長駆、筑前や豊前北方へ進軍しなきゃならない一方で
毛利は瀬戸内海水軍を勢力下に長門から隣接した豊前北方へ上陸できる。
豊前と長門の間の海峡は非常に狭い運河であり、兵糧補給の面でも地理的にも毛利勢力の方が非常に近く有利に戦える。
さらに君は高等な外交戦略>>超えられない壁>>戦略的失敗の不利を覆す戦術でしかも、戦略的失敗を戦術的勝利の積み重ねで挽回することはまず不可能なのに
戦術で押されて外交戦略で「なんとか毛利を撃退」っておかしな事を主張してるのは失笑。
毛利が大内を滅ぼす際の約定がありながら元就の一方的裏切り奇襲で落とされた門司城を奪回したのは道雪だし、
門司奪回に大軍で来た毛利に対して、道雪の弓隊の破壊力に押されて毛利の進軍がストップし停滞したのが実態。

宇喜多との戦いでもあれだけ国力差ありながら一進一退どころか
総軍で挑みかかって虎倉で大敗したりして備前はおろか備中や美作でも劣勢な時期もあったくらいで
蹴散らされまくってるとしかいいようがない
0176人間七七四年2012/09/16(日) 07:38:05.25ID:wxPB4UFl
そもそも豊前や筑前は大内滅亡まで大内領だったし、立花などの飛び地以外に大友の直轄領なんてほとんどなく、旧大内勢力反大友の敵対国人ばかりの地。
水軍力の低い大友は山がちの豊後の峰や谷を越えて長駆、筑前や豊前北方へ進軍しなきゃならない一方で
毛利は瀬戸内海水軍を勢力下に長門から隣接した豊前北方へ上陸できる。
豊前と長門の間の海峡は非常に狭い運河であり、兵糧補給の面でも地理的にも毛利勢力の方が非常に近く有利に戦える。
さらに君は高等な外交戦略>>超えられない壁>>戦略的失敗の不利を覆す戦術でしかも、戦略的失敗を戦術的勝利の積み重ねで挽回することはまず不可能なのに
戦術で押されて外交戦略で「なんとか毛利を撃退」っておかしな事を主張してるのは失笑。
毛利が大内を滅ぼす際の約定がありながら元就の一方的裏切り奇襲で落とされた門司城を奪回したのは道雪だし、
門司奪回に大軍で来た毛利に対して、道雪の弓隊の破壊力に押されて毛利の進軍がストップし停滞したのが実態。

軍事的常識として
戦死者数の5倍以上の戦傷者や戦闘不能者が発生すると言われている。
1/10の戦死者ということは軍隊として崩壊してる。
しかもこの戦死者は吉川の軍であり、
それの前の戦いで小早川軍が道雪に破れて大被害を出している。
大内や尼子の残党を毛利側が都合が良い言い訳にしてるが
実際は小早川の敗北が決定打になってるのは間違いない。

大友との盟約を破り毛利2万が怒留湯主水がわずかな兵で守る門司城を奇襲する。
大友1万5000で出陣し10月13日に開戦。
大友が終始優勢で、ついに15日に至り毛利が総崩れで山口へ敗走。
門司合戦に敗北した毛利は大友の侵攻を恐れ、筑紫や秋月に支援を約束して謀反を唆す。
弘治3年7月、大友軍が謀反した秋月を滅亡させる。驚いた筑紫も毛利の支援が絶望的なので自ら城に火を放ち亡命。
永禄元年、毛利2万が再度、早鞆の瀬を渡河し門司城を奇襲。宗麟が戦略外交で幕府の仲介で時間稼ぎをしつつ、尼子と同盟を結び包囲網を構築。
永禄7年、元就は豊前の要衝松山城などを大友に明け渡すことに同意し撤退。毛利輝元に娘を娶せて毛利との和平が結ばれた。
ちなみにこの宗麟の娘は毛利の再度の裏切り行為のために送られることはなかった。。
大友絶頂期が到来。
永禄9年7月、尼子を滅亡させた元就は、また和平を破り宝満城督の高橋鑑種に謀反を唆し、それに伴い毛利3000とともに秋月や筑紫の復帰を後援。
この動きに麻生、宗像、城井、長野、千寿、後藤ら国人が同調。
大友は肥前や筑後の国人が龍造寺の動きを恐れて動員が進まなかったが、筑紫を降伏させる。
秋月&高橋救援のたまに毛利来るの噂により、宗像が立花城を襲撃しようとしたのを撃退。
永禄10年9月大友の撤退を秋月が1万2000で襲撃するも大友側が反撃し痛撃を与え撃退する。
夜になり風雨となり秋月が再度襲撃し、油断していた臼杵、吉弘が混乱敗走するも道雪が混乱を沈静化させ撃退。
永禄11年4月、立花鑑載が謀反し、これに同調し原田も挙兵。
これを受けて毛利は清水左近将監を将として立花救援に大規模出兵し立花城は1万以上に膨れ上がる。
0177人間七七四年2012/09/16(日) 07:40:19.61ID:wxPB4UFl
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは
秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな
運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は
秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる
氏政は十分先見性のある武将だろう

秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。

ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して
運だけで取ったようなもん。
実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう

秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が

わずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!

ってまるで漫画だな。

アホすぎる

さすが戦国最強豊臣軍
0178人間七七四年2012/09/16(日) 07:41:08.58ID:wxPB4UFl
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし

織田家中の実力でいえば
柴田・明智・滝川>佐々・佐久間(信盛)>佐久間盛政・蜂谷・森(父)・稲葉・宮部
池田・丹羽>川尻・前田・蒲生・森(子)>日根野・神戸・関>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
秀吉は織田信雄より戦下手。
信雄家臣の木造親子や吉村氏吉に大敗。
二重堀合戦で信雄にも大敗し楽田から敗走した。
0179人間七七四年2012/09/16(日) 09:08:06.18ID:wxPB4UFl
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど

秀吉の三大デタラメ

○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ

○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ

○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ


秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
0180人間七七四年2012/09/16(日) 09:10:20.43ID:wxPB4UFl
上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が

わずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!

ってまるで漫画だな。

アホすぎる

さすが戦国最強豊臣軍
>>170
天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ
3/4柴田勝家→填島宛書状・滝川一益事書
大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦
結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても
抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文)

秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚

毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ

毛利輝元って大友や尼子残党や宇喜多や河野やらに苦しめられまくった戦国屈指の凡将なんだが
秀吉にだけは勝ててるんだよな。熊見川・祝山・備前児島をはじめ美作攻防。
宇喜多も不運だったわな。単体なら勝てる相手に秀吉が出てきたせいで足引っ張りまくって。
総大将は輝元だし両川は熊見川でも美作攻防でも目だってないどころか
吉川は南条に攻略失敗(毛利方史料では数多討ち取りなどとでっち上げているが撃退されてるのが実情)
小早川は20万石そこそこの宇喜多相手に備後だけではなく毛利領国の軍まとめて攻め込んだのに辛川合戦・加茂崩れで大敗するなど
ボロクズのように雑魚っぷりを披露していたからな
0181人間七七四年2012/09/16(日) 10:18:51.17ID:ZVjn7Dm0
そんなに顔真っ赤にして長文連投しなくても君が秀吉アンチで失敗部分だけで偉人達の全てを判断できる気になってる残念な子なのは良くわかったよ
0182人間七七四年2012/09/16(日) 11:04:54.69ID:vntZLysY
秀吉が滝川を救いにいかないのが無能とか執拗に主張しておきながら、
家康が信雄を救いに行かずに降伏に追い込まれたことは、
あんな危険なとこに行く方がバカとか
平気で矛盾する発言をしたり、
〜だったからなど家康に関することはことごとく言い訳を連発して、
家康から離反しまくりの状況が、
家康が引き込もって助けに行かずに
どんどん追い詰められ、
打開策が長曾我部が背後を衝くと言う妄想であり、
自軍有利を演出するためにずうっと過剰戦果の一万人討死させたから長曾我部くん早く助けてのループ。
長曾我部もまともに信じず、
最後は北条が援軍出すからと、
ひたすら他力本願を繰り返す家康。
秀吉の挑発からひたすら逃げまくりの家康。
信雄マンセーとか無理やり過ぎて笑えるw
0183人間七七四年2012/09/16(日) 13:16:55.21ID:iEYMf6+2
1万討死なんて、
中国並みの誇張捏造ワロタw
そんなに殺せるわけねーだろw
そんなに圧勝してるのに寝返りだらけとか矛盾し過ぎw
キチガイ在日くんは小田原城籠城兵力でもバカみたいな主張して、
最後はスレ民に総シカトされてたよなwww
0184人間七七四年2012/09/16(日) 18:44:43.26ID:XhyguwdI
>>183
寝返りだらけだったのは長久手戦前の3月だな。尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。秀吉は黒田や丹羽宛書状などで神戸・関・田丸・信包など信雄方諸将に指示を出している
また家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると 圧倒的不利な状況で会戦


>>129-131を見ればわかるように長久手の戦い後あれだけ圧倒的兵力差がありながら膠着状態に陥っている
んで、結局秀吉は松ノ木戸木蟹江東駒野河波二重堀と攻略失敗。おまけに蟹江・長久保は奪回される始末
寝返りばかりで基盤ガタガタな無能信雄の領国を7〜8倍の圧倒的大軍で攻め込んで
尾張半分すら切り取れずヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉

ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0185人間七七四年2012/09/16(日) 18:57:34.38ID:XhyguwdI
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
>>182
>>秀吉が滝川を救いにいかないのが無能とか執拗に主張しておきながら、
当たり前だろアホ。7〜8倍もの圧倒的兵力差で敵地の信雄・家康を分断できる大チャンスを
滝川・九鬼が作ったのに秀吉は自軍総決戦で望んだ長久手戦で信雄に1万人討ち取られる大失態演じてしまったために
秀吉のいる大垣から程近くの蟹江にいる滝川を見捨て結局7月の三河侵攻計画は頓挫。その後の夏の攻防でも家康方は長陣の疲弊により
兵力の半分を三河に帰し今まで以上の圧倒的兵力差にもかかわらず尾張口を突破できず退却
>>家康が信雄を救いに行かずに降伏に追い込まれたことはあんな危険なとこに行く方がバカとか
小牧山近辺の秀吉方城郭に2万人も留守居兵残されてるのにどうやって信雄助けにいくんだアホ
>>平気で矛盾する発言をしたり、
何が矛盾なんだ馬鹿が。両者の圧倒的兵力比と寝返りだらけでガタガタな状況考慮もできねーカスが
>>〜だったからなど家康に関することはことごとく言い訳を連発して、

>>家康から離反しまくりの状況が、家康が引き込もって助けに行かずに
家康からではなく信雄からだろ。しかも>>184のように木曽も毛利も田丸も神戸も信包も池田も森も3月に寝返ったから
家康の動きと関係ねーわアホ
>>どんどん追い詰められ、
どこが追い詰められてるんだアホ。蟹江も長久保も長久手・羽黒も戸木も松ノ木も東駒野も河波も浜田も
皆秀吉方が攻略失敗して退却していっただけだろうがアホ
>>自軍有利を演出するためにずうっと過剰戦果の一万人討死させたから長曾我部くん早く助けてのループ。
自軍有利どころかむしろ2万人くらい戦死してそうな長久手を1万人戦死でとどめてるんだから過小戦果だろ
秀吉の方がほんのさわりにもならないだの家康が相手にしないだの必死にいいつくろって敗北を隠蔽するのに必死だったじゃねぇかw
佐竹宛書状などでも>>140のようにデタラメはきまくってるからいかに秀吉が必死に諸大名をつなぎとめようとしてたかわかる

0186人間七七四年2012/09/16(日) 19:04:37.73ID:XhyguwdI
>>長曾我部もまともに信じず、
ソースなし
>>最後は北条が援軍出すからと、
北条の援軍なしに単体で8000程度で立ち向かえるわけねーだろアホ
>>ひたすら他力本願を繰り返す家康。
7〜8倍もの圧倒的大軍がありながら佐竹木曽上杉毛利宇喜多河野十河ら諸大名に頼りまくって
必死に誇大喧伝と敗北隠蔽を繰り返して繋ぎとめようとしていたのが秀吉
>>秀吉の挑発からひたすら逃げまくりの家康。
蟹江合戦で眼前にいる家康から敗走。長久手合戦後も結局楽田から敗走
夏の対陣でも眼前にいる家康に何もできず敗走。家康が怖いので
基盤ガタガタで寝返りの応酬だった信雄領国を攻めたら松ノ木戸木蟹江二重堀河波浜田東駒野と
攻略失敗&敗北し続けあれだけの兵力差で1年使って尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>信雄マンセーとか無理やり過ぎて笑えるw
信雄は伊賀攻め失敗の戦国屈指の凡将だがその雑魚に負けまくったのが秀吉(お前の言うとおり家康は引きこもってただけで特に何もしていない)
0187人間七七四年2012/09/16(日) 19:31:10.00ID:XhyguwdI
>>自軍有利を演出するためにずうっと過剰戦果の一万人討死させたから長曾我部くん早く助けてのループ

秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、
>>秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
0188人間七七四年2012/09/16(日) 19:32:32.01ID:XhyguwdI
むしろ1万人くらい死んだとしないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから


0189人間七七四年2012/09/16(日) 21:25:08.10ID:XhyguwdI
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である

0190人間七七四年2012/09/16(日) 21:26:04.97ID:XhyguwdI
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
0191人間七七四年2012/09/16(日) 21:27:57.27ID:XhyguwdI
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
0192人間七七四年2012/09/16(日) 21:38:11.90ID:XhyguwdI
>>自軍有利を演出するためにずうっと過剰戦果の一万人討死させたから長曾我部くん早く助けてのループ。

なんで秀吉側のデタラメハッタリ誇大喧伝は史実で家康側の史料や秀吉側家記や家譜や敵対勢力の毛利の史料に残ってる戦果は誇大戦果になるんだアホ
史料を読む限り圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝して騙しまくって誤魔化していたか「わかる」

3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
0193人間七七四年2012/09/16(日) 21:42:24.66ID:XhyguwdI
>>しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
>>秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
当たり前だろそもそも秀吉陣営は135000くらいいるんだから
筒井はしかも新たにどころか春から動員され続け丹羽も当初から長重派遣、途中から長秀も尾張に参陣
とめちゃめちゃ圧倒的大軍なんだから
>>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
秀吉は9月にも同じ事言ってるのに11月まで終わらなかったし家康も10月にもうすぐ勝つと書状で書いてるし
そもそも秀吉書状なんて都合いい事ばら撒いてるだけだから味方に当てたものでもデタラメばっかり
>>11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。
砦みたいな小さな所分捕っただけだろ。長島も桑名も浜田も囲って苅田してただけで攻撃もろくにかけてないのに勝ったように語るとかアホですか
>>翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して 美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
美濃方面は当初からずっと攻めてるだろ。んで結局この頃まで攻め落とせなかったと。
>>尾濃葉栗見聞集によると、木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
なぜ信憑性が見聞集>>>書状なのか不明
>>天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
>>大半を氏郷とその与力に与えていたりするしこれ取り消したりしないだろうし。
信雄は家臣達に蹂躙された南伊勢に代わって北伊勢与えてるのに秀吉に渡すわけねえだろうがアホ
>>講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。しかも細部の内容がまったくわからないし。
そもそも和睦条件についての話なのに細部の内容持ち出すとか意味不明
>>実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
和睦の条件は信雄の領地で秀吉が攻め落とせなかった所は信雄の物で秀吉が攻め落とした所は秀吉の物だったってだけだろ
>>尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
だからなんで他の史料持ち出す必要あるんだカスが
>>川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
関係ねーわアホ
>>解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
返却も糞も占領すらしてねえだろうが馬鹿
>>どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
いや戦闘レベルでは秀吉が家康ではなく「信雄に」完敗。家康はちょろっと兵連れてきただけだし
信雄が秀吉が攻めるぞってポーズ見せたらビビッて和議結んだから何とかなっただけ
>>講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
>>滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、木造長政の名前がないのは、この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。
吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
むしろ秀吉や家康が木造の事に何も触れていないのが不自然
>>家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるがのちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
降伏ではなく和議なんだから養子だろ。人質なんて秀吉が都合よく妄想したにすぎん
石川は長久手戦頃から秀吉に篭絡されつつあったのが徳川史料にあるんだから人質どうこうはさして影響ないだろ
>>秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
軍備ちゃんと整えたり真田攻めたり浜松会議で主戦派がメインだったりするのに単なる条件闘争なわけねえだろアホ
>>家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
そら領国が困窮してたのと和議結んだからわざわざ破る馬鹿はいないだろ
>>結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
>>家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
秀吉にそもそも従ってるのに借りた事が関東への転封につながるとか意味不明
0194人間七七四年2012/09/17(月) 19:08:41.43ID:IX1BDlGF
織田信雄が凄くなるのは当然の流れ

秀吉子飼いならまだしも、この時の秀吉は滝川一益、池田恒興、羽柴秀長、堀秀政と
信長全盛期時代の勇猛果敢な織田武将ばかり、国力で言っても信長の時代並みの強国。
そんな超精強揃いの人間が織田信雄率いる直参家臣の前ではクルクル舞、池田森に至っては討死する始末

こんなに天下を統一せんとする中央勢力を苦しめた軍勢は過去に例がない。
武田も、北条も、伊達も島津も、毛利も上杉も、長宗我部も三好も朝倉も、全て天下に最も近い織田、豊臣に破られた。
ひとえに織田信雄の才能、徳川家康の才能が太閤豊臣秀吉を苦しめたかがわかる。
0195人間七七四年2012/09/17(月) 21:08:20.96ID:P7OICaPs
○武田

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

○上杉
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞

上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田
しかも上杉は内戦が長期間続き疲弊状況。揚北で新発田が挙兵し
築地・本庄・色部など国人も日和見気味。鮎川も離反するなど
国内はガタガタ状態でもってこの戦果

○北条
235000の全国から総動員した圧倒的大軍でわずか34500で抗戦和平で割れ、皆川が寝返るなど
戦意0の北条に対し緒戦の駿河伊豆国境地域の戦闘でボロカス
山中城攻防で重臣一柳直末戦死。韮山城500や忍城1000に大苦戦しスカスカの小田原城1200に手も足も出ず
兵站もギリギリのところまで追い込まれ堀尾嫡男・前田重臣も戦死。
兵力の集中した八王子・鉢方を陥落させた真田・上杉・依田らの活躍と北条のヘタレ降伏がなけりゃ確実に撤退に追い込まれていたのが秀吉

毛利
熊見川で戦死者3000の大敗。三木城や播磨諸城に2年費やしその間谷ら重臣戦死の大苦戦。
宇喜多・南条に毛利が大苦戦し、その間鳥取などを火事場泥棒したはいいが
因幡方面から備中・美作攻防に転進すると祝山・備前児島で敗北し清水宗治・補井田元清にも翻弄されまくり
自分一人じゃ無理だ〜と信長に泣きつく始末。
0196人間七七四年2012/09/18(火) 14:39:09.41ID:d+/BBFdD
>>21
昔って今と違って車も飛行機もないんだよ?知ってた?
0197人間七七四年2012/09/21(金) 19:32:54.05ID:CheSLsuc
信長の話題から話をそらそうと必死だな。
そもそもいくら秀吉を貶しても、
だからと言って信長が凄かった証明にはならんぞ。
つかお前、下記スレでも大坂城惣堀、総構えより広かった小田原城惣堀、総構え9kmをたった千の兵で守ってたと曲解してバカ荒らししてんだな。



【早雲】後北条家総合スレッド 其の四【氏直】
718:人間七七四年 05/22(火) 21:36 g52UXhs8 
>>713 
無知すぎてワロタwww 

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 
が加わるから235000。 
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 
秀吉書状で2、3万。 
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 

そんな戦闘で一柳や中川が戦死し、韮山300や忍城1000に大苦戦し 
小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。 
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。
0198人間七七四年2012/09/21(金) 20:57:44.13ID:0K6dYDCa
そら豊臣方史料の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書やらもう一点の史料から
忍城・韮山・小田原なんて数百から1000そこそこしかいないのが確定的だからな

そんな諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
0199人間七七四年2012/09/21(金) 21:50:05.92ID:KLBUTPrN
アスペルガーだがの自演がはじまります
よってらっしゃいみてらっしゃい
0200人間七七四年2012/09/22(土) 10:12:52.24ID:qOfWMDQ5
さすが織田チョンw
9mあたり1人で小田原城を守ってたと曲解w
忍城と同戦力だった小田原城とかキチガイ度が突き抜けてるw
さすが在日くんw
0201人間七七四年2012/09/22(土) 13:56:06.14ID:/d2KaOQW
信雄が降伏する前月の10月14〜15日に秀吉は大坂城で大茶会を開いてる余裕っぷり。
すでに戦勝気分であって、
信雄も家康も手も足も出ないほど追い詰められていた事実は動かない。
0202人間七七四年2012/09/23(日) 16:05:18.95ID:Vdwp9t6v
>>200
横レスで申し訳ないが、一度病院に行ってみては?
実生活で在日に殴られ、頭部にダメージを残している様子。
このままでは絶対に危険だと思う。
0203人間七七四年2012/09/23(日) 20:00:42.18ID:nHJyWx79
秀吉への恨み辛みに満ちた曲解捏造ぶりワロタw
さすが在日はやることが偏執的だなあ
0204人間七七四年2012/09/23(日) 20:46:52.84ID:+iAr6Npc
>>201
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
そもそもお前は一次資料を全く読んでいないのがミエミエ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
0205人間七七四年2012/09/23(日) 20:53:05.38ID:+iAr6Npc
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>200
むしろそんなスカスカな城を245000の圧倒的大軍で攻め込んだのに全く落とせず
小牧長久手の時と同じで苦戦や忍城や韮山城の敗戦や山中城の大苦戦を覆い隠すために茶会などという
何の中身もない金だけ膨大にかかる高松城水攻めとか一夜城とかと同じような無駄なパフォーマンスをするだけだったのが秀吉
韮山なんて500そこそこの城に50倍〜70倍の兵力で攻め込んで3ヶ月半〜4カ月も落とせず
忍城もう同様に大苦戦するなどもう弱いどうこうを超えてゴミクズレベルの指揮能力しか持っていないのが秀吉
0206人間七七四年2012/09/23(日) 21:13:03.51ID:+iAr6Npc
>>201
>>信雄が降伏する前月の10月14〜15日に秀吉は大坂城で大茶会を開いてる余裕っぷり。
>>すでに戦勝気分であって
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ

3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

0207人間七七四年2012/09/23(日) 21:19:28.19ID:+iAr6Npc
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ

>>信雄も家康も手も足も出ないほど追い詰められていた事実は動かない
当初去就が不明だった池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出なかったのが秀吉
0208人間七七四年2012/09/24(月) 08:30:57.18ID:WudP9/PY
〜だったから
〜のおかげ

とかひたすら言い訳しないと成り立たない半島人の無理くり秀吉批判ワロタw
つか読む気が失せる垂れ流し駄文で、
論点を曖昧に誤魔化してるだけだし。
0209人間七七四年2012/09/24(月) 09:21:55.28ID:D6FW6ubW
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
0210人間七七四年2012/09/24(月) 17:06:40.70ID:zIZd9tan
徳政連発でガタガタに疲弊してるってんならヘタレとか関係なく和睦は当然の選択じゃないの?
いくら勝利を重ねてると言ってもあくまで防衛戦で得るものなんてほとんど無かったろうし

まあ一番の疑問はスレタイは織田軍団なのに何で君主秀吉批判に終始してるのか?って事だが
0211人間七七四年2012/09/24(月) 21:39:47.14ID:uf0Pcs9W
このスレはアスペルガーだが(アンチ織田人格)とアスペルガーだが(アンチ秀吉人格)が
自演とID操作で叩きあっているだけのスレだからw
0212人間七七四年2012/11/03(土) 19:14:09.42ID:fTPHEJyW
織田軍団って武田や上杉にボロ負けしてるからなー
0213人間七七四年2012/11/03(土) 19:41:29.69ID:fTPHEJyW
中央佐久間軍団
 武田信玄にボロ負け、本願寺戦でも失敗し更迭
北陸柴田軍団
 上杉謙信にボロ負け、加賀を放棄し越前に長期引きこもり
東海信忠軍団
 武田信玄に岩村城を簡単に奪われ、長期引きこもり
 主戦場はほぼ全て徳川家康が担当
畿内明智軍団
 強敵のいない丹波で大苦戦
山陽羽柴軍団
 強敵毛利輝元に負けて上月城まで奪われる
 激戦区は宇喜多直家と長宗我部元親任せ

同盟を取捨選択する手腕だけは凄いけど、基本的に戦は弱かったよな
0214人間七七四年2012/11/04(日) 11:21:56.82ID:Sy0FQKhI
負ける事も多かったけどその負けがほとんど決定的な物で無かったり大事な所で勝ちを拾ってたりするあたりただ弱いって訳では無いと思うが
0215人間七七四年2012/11/04(日) 13:02:43.88ID:/u9t5ucQ
大敗は大敗
対上杉・武田・毛利・赤井などいずれも重将クラス戦死・3000人ほど戦死など
戦闘そのものでいえばかなりガチ負けしてるが
その後謙信死信玄死直正死輝元安芸に帰還などピンチの時強敵の死や運に助けられている
0216人間七七四年2012/11/04(日) 13:32:50.71ID:W67kk+LX
浅井・朝倉に対しても姉川で織田勢の方が圧倒的に多い兵力なのに、
もの凄い損害をだしてギリギリで勝ってるんだよな。
どちらかというと戦自体はけっこう弱い。
徳川、宇喜多、長宗我部、荒木が居なかったら、かなり危なかっただろう。
0217人間七七四年2012/11/04(日) 13:36:19.20ID:W67kk+LX
>>215
赤井直正に対しても負けっぱなしなんだな。
0218人間七七四年2012/11/04(日) 14:02:47.25ID:/u9t5ucQ
丹波の赤鬼赤井に二回大敗した他北条氏直にも蹴散らされてるね
(上野国衆が日和見してまけたなどというのは江戸期の糞講談にしかなく
むしろ神流川緒戦で氏邦勢を奮戦して退けているのは上野衆1万。本戦で滝川8000は氏直の偽退却戦術にかかって大敗
これは滝川家記の滝川一益事書にある)
0219人間七七四年2012/11/04(日) 14:10:04.24ID:W67kk+LX
>>218
上野滝川軍団、上信森軍団、甲斐河尻軍団も確かに負けているけど、
織田信長が死んだあとだから微妙じゃね?
0220人間七七四年2012/11/04(日) 15:07:53.51ID:/u9t5ucQ
>>219
信長が死んだ後とはいえ敗因は士気の低下ではなく完全に戦術面。
緒戦では戦歴豊富な氏邦を他国衆組の上野国衆が撃退するなど滝川軍は多いに氏直を破るチャンスがあった。
本戦で氏直本体のわざと敗れたふりをして退き敵を味方陣中奥深くまで釣りこみ
周りから包囲殲滅する作戦に破れた(戦後の某書状・滝川事書・軍記などで共通している)
のだから完全に戦術負け
滝川軍の士気が崩壊したなどとデタラメをでっち上げているのは徳川時代の糞講談
石川留書のみ
0221人間七七四年2012/11/04(日) 17:49:20.57ID:W67kk+LX
面白い作戦だね。
0222人間七七四年2012/11/05(月) 23:42:58.98ID:/18FS9rd
アスペルガーだがの妄想スレ
0223人間七七四年2012/11/17(土) 20:56:59.82ID:hJcL/kVK
武田よりはマシ
0224人間七七四年2012/11/22(木) 13:26:05.42ID:5y/46q4+
俺が立てたクソスレまだ生きてたのか
0225人間七七四年2012/11/30(金) 22:06:05.40ID:jiF5fRIl
1から読んでみたけど蟹江合戦って何気に凄いな
成功してたら歴史が塗り変わってたよ
戦国の海兵隊だ
0226人間七七四年2012/12/01(土) 00:51:06.49ID:PyH97/Nc
山口重政と織田信雄と徳川家康の尽力のたまもの
0227人間七七四年2013/01/07(月) 21:43:10.32ID:jerz4qKP
原文では
一、此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、一度帰参致し

になっている。「いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ」なんて明らかに手柄を立てて来いという話しだし、
あと言っておくが佐久間はその辺の新米家臣じゃない、信長が佐久間につけた家臣の他に
佐久間が自ら雇った家臣もいる。そいつらを率いるのは佐久間の自由なんだがw
0228人間七七四年2013/01/14(月) 00:58:38.89ID:gtsSibjE
>>227
佐久間が自ら雇った家臣って例えば誰?
0229人間七七四年2013/01/14(月) 19:52:34.12ID:sOaZDESa
斉藤義龍が死んだチャンスに攻めいって大敗した信長・・・
謙信死んで、相続争いの御館の乱やら、その論功行賞でトラぶって混乱の極致に越後にすら攻めいれず大苦戦する柴田軍・・・
信玄死んだのに、勝頼は侮れないとビビる信長(謙信は父と違い勝頼は大したことないと発言していた)
0230人間七七四年2013/01/15(火) 15:57:16.52ID:chpLT9P0
ほとんど滅ぼされた勢力じゃん
最初は有利だった、織田は苦戦した
そう吹聴している間にハラキリまで持ち込まれる敵対勢力・・・
0231人間七七四年2013/01/27(日) 09:13:30.45ID:PCHZ+jDG
>>229
信長が死んだから滝川や川尻や毛利や森が負けただけで
あれは織田軍の実力で負けたんじゃない。
0232人間七七四年2013/01/27(日) 10:23:21.19ID:mCN3Qn6r
神流川の敗因は士気の低下ではなく完全に戦術面。つまり実力で負けただけ。
緒戦では戦歴豊富な氏邦を他国衆組の上野国衆が撃退するなど滝川軍は多いに氏直を破るチャンスがあった。
本戦で氏直本体のわざと敗れたふりをして退き敵を味方陣中奥深くまで釣りこみ
周りから包囲殲滅する作戦に破れた(戦後の某書状・滝川事書・軍記などで共通している)
のだから完全に戦術負け
滝川軍の士気が崩壊したなどとデタラメをでっち上げているのは徳川時代の糞講談
石川留書のみ

大体信長なんて義龍死んで幼君龍興(領国混乱状態)に攻め入っても何回も撃退されたし
当主が死んだからどうこうとかいいわけにすぎん。
普通に実力で負けただけ。
0233人間七七四年2013/01/27(日) 10:42:17.11ID:pYEgb1HI
>>231
んなもんただの言い訳だろ
信玄や家康や義龍が死んでも領土は他大名の草刈場にならなかったし
謙信の時みたいに国中二分する内乱が起こったわけでもねーし
普通に実力で周辺大名に蹴散らされて草刈場になっただけ。
大体徳川や上杉・北条からしたって上野・信濃・甲斐なんて本領でもなんでもなく
むしろ仇敵の土地。
しかも滝川なんて国人が離反するどころか国人は氏邦勢蹴散らしてるし
森や川尻、毛利なども徳川や上杉に蹴散らされまくって美濃に敗走or戦死しただけ。
森なんて本能寺前ですら長沼城の戦いに敗れて、その後景勝が柴田45000相手に軍勢出したため
がら空き状態の越後を火事場泥棒する事すらできなかったし
0234人間七七四年2013/01/27(日) 12:22:45.99ID:PCHZ+jDG
信長が死んだのがつたわった信濃や甲斐はその風評被害で瓦解しただけ。
無能秀吉が信長生きてると嘘ついた地域の織田軍には毛利以下関西は
みんな秀吉は超戦下手のアホなのを知りつつも織田の強さにひれ伏した。
斉藤や武田や上杉の勝利したとの嘘デタラメ書状なんてまったく信用できない。
しかし情報が集まる中央の京を押さえた官軍織田軍は嘘を書いたらいっぱつでばれるから正直に書状を書かざるおえない。
0235人間七七四年2013/01/27(日) 12:24:54.33ID:PCHZ+jDG
しかしだがはアスペだから
視点が偏ってんのに気づかないで
どうせ荒らし行為をするから
レスしても無駄か。
0236人間七七四年2013/01/27(日) 12:36:45.38ID:mCN3Qn6r
斉藤が勝利したって中島文書以外にもデタラメマンセー信長公記にすらかかれてんじゃん
0237人間七七四年2013/01/27(日) 12:40:01.57ID:pYEgb1HI
>>しかし情報が集まる中央の京を押さえた官軍織田軍は嘘を書いたらいっぱつでばれるから正直に書状を書かざるおえない
長篠の戦死者を10倍くらい割り増しにしたり
たいした戦果のない姉川を大勝にしたりデタラメばっかり書いてるのが信長書状。
21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
0238人間七七四年2013/01/27(日) 12:42:26.48ID:mCN3Qn6r
甲斐に関してはともかく信濃に関しては信長生前すら景勝に長沼攻防で敗れて
景勝が柴田45000相手に軍勢出したため がら空き状態の越後を火事場泥棒する事すらできなかったし
実力で負けたとしかいいようがない
0239人間七七四年2013/01/27(日) 12:43:26.16ID:pYEgb1HI
魚津城攻防で柴田ら45000の大軍は5000そこそこの上杉軍に瞬殺されてただろうな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。

内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・下野(20000)
から総兵力7万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
0240人間七七四年2013/01/27(日) 17:15:42.72ID:PCHZ+jDG
案の定、荒らしまくりのだがw
上野を北上した滝川ごとき二軍に負けて
織田の猛軍の越後進入(しかも景勝本拠地の上田www)を許した滅亡確定上杉w
新発田ごときに弱小国人に長期にわたり大苦戦して攻略できず
新発田との間を秀吉に泣きの講和斡旋を依頼する上杉www
0241人間七七四年2013/01/27(日) 17:45:15.64ID:mCN3Qn6r
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞

上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田に
あと数月で落とせるわけがない
まず手も足も出ず苦戦しまくりの須田のいる松倉城どうするかだな
>>上野を北上した滝川ごとき二軍に負けて
滝川は織田家トップクラスの人材だろ
しかも上杉は滝川を三国峠の戦いでカラス組奇襲部隊によって撃退してる(三国誌)
>>織田の猛軍の越後進入(しかも景勝本拠地の上田www)を許した滅亡確定上杉w
そんな事実ない
景勝5000に対して
信濃から森・上野から滝川、柴田から45000の大軍
皆上杉方に撃退されるか城攻めで苦戦して立ち往生してる
0242人間七七四年2013/01/27(日) 17:47:41.82ID:mCN3Qn6r
>>新発田ごときに弱小国人に長期にわたり大苦戦して攻略できず
>>新発田との間を秀吉に泣きの講和斡旋を依頼する上杉www

新発田なんて景勝が本格的に力を入れだしたら瞬殺されてる。それまでは織田や徳川・佐々との対決で下越出兵なんてろくにできてないだけ
信長死んだことで方針転換した探題の伊達がいきなり
天正11年7/27の書状で新発田と景勝の間の無事を執り行いやって
邪魔してるのがわかるし
そもそも最優先順位が北信濃の徳川、第二が佐々、
第三が上田長尾の本領地に接する北上野で、下郡攻略は後回しにされてる。
だから信濃攻めのせいで下郡出陣延期とかよく出てくる。
しかも天正12年6/27書状では綸旨の勅使下向で納馬せざるおえなくなるなど邪魔ばかり入る。
天正13年には秀吉が尊朝法親王を利用して景勝と
新発田へも長谷三位法眼御房を派遣して戦闘中止させてる。
天正14年にも今度は尊朝法親王経由で越後高田の本誓寺まで利用して
殿下となった秀吉が双方を和睦させようと動いてるし景勝も上洛してる。
さらに秀吉は天下静謐を持ち出して
9月には今度は木村清久を派遣して調停させようとしてる。
新発田にも増田・三成・木村連名書状を出してるし。
しかも新発田を一城に攻め詰めているよしなどと三成らが書いていて
はっきり言って新発田が滅びないように戦闘停止を命じてるとしか思えない。
さらに新発田御赦免之儀とか木村まで直江に言い出す始末。
こんな交渉外交で結局、冬まで時間稼ぎされてしまうし。
(北条と徳川が沼田方面での真田への攻勢を強めていて、
秀吉は新発田と和睦させ上杉に兵を出させようとしていた)
11/4書状において真田に続き木曽や小笠原が家康から離反したことで
秀吉が関東征伐すると公表したら
焦った家康が上洛することが決まり、
やっと秀吉は新発田討伐許可を出すようになる。
天正15年5月出陣し、それに応じて葦名義広も新発田支援へ平田・金上を派遣。
5/7新潟着陣。5/13水原城瞬殺した時「ひとえに謙信様之御守護浅からず」として
逆徒近月中に滅亡すると書いて帰陣してる。
8月に再出陣。それに対応して葦名も小田切宛て書状の中で
鉄砲なども赤谷城へ送ったと書いてる。
9/14赤谷城を落とした上杉軍は帰路を封じて会津軍を壊滅させているのが伊達日記でわかる。
9/19鉄砲衆や馬上衆まで討たれ、やばくなった葦名は
時を移さずすぐに助けてくれ、佐竹義重へも加勢依頼をと白河結城へ援軍派遣の懇願してる。
しかし手遅れで10/23には五十公野城が落ち
10/28に新発田討取りの報告を景勝はしてる。
0243人間七七四年2013/01/27(日) 17:48:30.11ID:mCN3Qn6r
新発田になんか実際手を焼いてないしな
本庄や色部ら揚北衆が新発田攻め渋った上に鮎川が裏切ったりして序盤は討伐できなかっただけで
天正11年に八幡表の戦いで新発田は駆逐されてその後何の脅威もなくなって
秀吉の介入により信濃や上野や越中に出陣して永らえただけなのが新発田
天正15年に本腰入れて出兵されたら瞬殺
9倍もの国力差がありながら内乱で自壊した上杉領を火事場泥棒したのに
土肥・小島・須田に苦戦しまくって越中中部で2年も足止め食らった新発田の方がよほど問題がある
こんなんが織田家トップクラスの武将なんだから

まぁ越中で2年も足止めされた挙句に
ロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ越中と越後国境の親不知の天嶮を織田が越えられるとも思えないがな。
新発田なんて完全に新潟から排除されて
下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
三国峠越えの厳しさは御館の乱での北条軍や
関東管領山内上杉顕定が討死に追い込まれたように
冬季を挟むことで確実に疲弊崩壊するし。
0244人間七七四年2013/01/27(日) 17:48:54.98ID:mCN3Qn6r
森の長沼奪回と関山・三本木侵攻は信長公記のデタラメで一次史料にはまったく存在しないウソ。
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし(長沼には島津忠直の滞在が景勝書状から確認)
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらい

当時の芋川は武田配下で上杉配下ではない
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の話は一次史料で全く証明できないわけだが。
ちなみに軍記ソースありなら滝川も三国峠で上杉に撃退されている
0245人間七七四年2013/01/27(日) 17:50:36.26ID:mCN3Qn6r
つうか平城の魚津城と違い
須田が籠城していた松倉城は鬼のような山城だからなー。
これ放置して親不知なんて通過しようもんなら挟撃されるだけだし
上杉水軍にも横っ腹を襲われ逃げ道もなく柴田軍消滅だろ。
天正11年4/17に景勝が糸魚川の新城に兵を入れてるから
糸魚川にも備えを構築準備してただろうし。

新発田ってただ本能寺の前は対織田(平山氏によれば織田は港経由で新発田を支援していた)
本能寺後は対徳川の信濃戦線と
対佐々・北条(上野での攻防が天正12年8月の秀吉書状で確認が取れるし前年の厩橋城攻防でも厩橋北条が景勝に援軍要請してる)
に忙しすぎたのと芦名盛隆の秘密裏での支援と芦名義広の景勝への公然たる敵対行動で長らえただけ
しかも天正11年八幡表の戦いで普通に叩き出されて脅威がなくなっている
その後秀吉の介入が入って動けなくなっただけ
新発田市史とか上越市史とか基礎的な文献でもこのくらいの事情は書いてあるのに
織田厨はほんと無知だな
新発田支援してた芦名も赤谷・津川口の戦いで大敗して普通に叩き出されてるし
0246人間七七四年2013/01/27(日) 17:51:21.50ID:n3aZ42XP
デタラメ専門のアスペルガーだがはこのスレでも読んでしっかり反省したまえ

【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】 part4
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1341025001/
0247人間七七四年2013/01/27(日) 17:52:15.03ID:mCN3Qn6r
上杉37万石上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部で足止め食らったのと同列視して考えるとか馬鹿かと

景勝>>>>>>柴田

戦争の長期化なんて弊害をうむだけだからなあ。なるべく避けられるなら避けるべき事。
景勝が新発田を滅ぼすのに時間かかったのは上記のように秀吉の介入と織田・佐々・徳川・芦名・北条との交戦で
忙しすぎただけだしそもそも上杉の国力じゃ多方面全て敵にまわして自在に遠征拡張なんてできるわけないけど
織田軍の対上杉戦は御館の乱と新発田の乱につけこんで9倍もの圧倒的大軍と北陸地元諸侯の派遣やら調略で
楽に火事場泥棒したのに上杉の内戦が終わりだす天正8年半ばから越中中部で2年も費やしているのは苦戦してるとしかいいようがない
まあ普通に見て謙信死後の上杉でも織田家最高峰の柴田よりは遥かに実力が上だったってだけだな
0248人間七七四年2013/01/27(日) 17:58:51.21ID:mCN3Qn6r
長沼も奪回できない森に越後侵攻なんてできるはずない
森の長沼奪回と関山・三本木侵攻は信長公記のデタラメで一次史料にはまったく存在しないウソ。
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし(長沼には島津忠直の滞在が景勝書状から確認)
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらい

当時の芋川は武田配下で上杉配下ではない
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の話は一次史料で全く証明できないわけだが。
ちなみに軍記ソースありなら滝川も三国峠で上杉に撃退されている

武田が健在の時は
〜謙信生前は手取川で大勝するなど西上
謙信死後〜天正8年半ばまで御館の乱とそれに続く内戦
天正8年後半〜新発田蜂起・すでに北陸を火事場泥棒した圧倒的大軍の織田軍の東上で迎撃体勢整わなかっただけだな

ろくな迎撃体勢のない平城魚津を景勝が武田滅亡後信濃に兵派遣した隙をついて火事場泥棒したはいいが
須田のいた松倉城は大軍に囲まれてもびくともしなかったしここを抜かない限り先に進むなんて無理
また小島らに魚津や富山奪い返されるのがオチ

武田滅亡がもう少し遅れてたら
魚津城攻防で柴田ら45000の大軍は5000そこそこの上杉軍に瞬殺されてただろうな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。

内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・下野(20000)
から総兵力7万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
0249人間七七四年2013/01/27(日) 18:00:28.24ID:pYEgb1HI
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞

上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田に
あと数月で落とせるわけがない
まず手も足も出ず苦戦しまくりの須田のいる松倉城どうするかだな
0250人間七七四年2013/01/27(日) 22:21:03.68ID:Aoc/td8W
アスペルガーだがによる1人2役をお楽しみください
0251人間七七四年2013/01/28(月) 13:11:25.02ID:q4tXU5DH
>>235
アスペは理屈の塊なんで理屈で説明されれば引き下がる
感情が理解できんので感情で説明されても引き下がらんけど
こいつはアスペじゃなくてたんなるガイキチ
0252人間七七四年2013/04/29(月) 21:37:36.73ID:lBr1/xNw
>>236
公記では義昭の名前を隠蔽して
斉藤との戦いがあったことをチラっと書いててスッゲー痛いわなwww
0253人間七七四年2013/04/29(月) 23:04:43.49ID:o3E6y/xS
アスペルガーだが自演スレその2
0254人間七七四年2013/05/02(木) 17:25:28.85ID:bxQa9ueI
織田信長は凄いのに
織田秀信があまりに酷いのは何故か?
0255人間七七四年2013/06/17(月) 17:07:02.25ID:8UzqyucF
ニューポート大学とやらの大学院で博士号をもらって大学教授になってる人もいるんだぞ。


八巻正治・教育学博士の輝かしい実績

http://hrr.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10634/5876/1/HirogakuDaigakuinShakaiFukushi_3_57.pdf
弘前学院大学大学院社会福祉学研究科社会福祉学研究第3号(2008)

(前略)
第1部研究論文
(中略)
八巻正治弘前学院大学大学院社会福祉学研究科教授・教育学博士(障害者福祉論〉
(攻略)

注・八巻正治氏への教育学博士号はニューポート大学より授与されたものである。
2000年03月27日  『米ニューポート大学』より 『教育学博士(Ed.D.)』の学位を取得

http://www7a.biglobe.ne.jp/~kikikirinnoki/taxpayers/academism/diploma_mill_aiueo.html
 このページではイオンド大学・パシフィックウエスタン大学・クレイトン大学などの
非認定大学の経歴を「本人の履歴」に掲載している(していた)教育者、著名人などを掲載します。

八巻正治教授のコメント
『日本の大学だって、海外ならば非認定校だ。ディプロマミルと同一視されるのは、とても不愉快だ』
八巻正治教育学博士のコメント、最高です。
0256人間七七四年2013/06/27(木) 11:24:49.92ID:pmVJsRAu
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先) 義秀が朝廷工作をやっていて信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京西や京南での親義昭側との攻撃に対処すべく撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて
信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
0257人間七七四年2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:6SOkJLLD
信長=ワタミ渡辺
0258人間七七四年2013/07/31(水) NY:AN:NY.ANID:FFWZMqHW
義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
0259人間七七四年2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:yVSc22/N
私が思うに信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである。
0260人間七七四年2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:yVSc22/N
尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、
その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支えていた
尾張は、昔から畿内覇権に関与してる。
継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし、
邪馬台国のライバル、狗奴国が尾張にあったという説まである。
尾張三河は頼朝、尊氏、家康を支えた重臣をたんまり輩出してるからな。
地力がある土地なんだよな。
岡崎城に隣接してる資料館では三河武士が鎌倉幕府も足利幕府も江戸幕府も作ったと書いてるよ。

看羊録によると尾張国は地が厚く、土地が肥えていて
種を蒔くだけで放置してても1000倍を得ることができ
里の多さでも日本国でも抜群に優れており大上国であると
尾張国のチートぶりを超絶賛!
(ちなみに三河国は土の層が浅く一尺ばかりしかないので
五穀があまり熟さないので下下の小国と書いているので
信玄が三河占領に興味が無かった理由もわかる)

実際信長の生涯の半分以上は尾張統一と美濃侵略に使われた訳で…
北条なら二年で美濃攻略してたろう
なぜなら北条は内政を整備し貫高に応じた兵数動員を賦課と兵站整備、
軍全体の統一された軍規や軍事編成で再編し
武器比率をその貫高に応じて指定し
武器ごとに兵を分割再編成をすることができる。

これは織田にはできなかったことだ。
そもそも織田には分国法もなく、ロジスティックス概念がまったくない。
あるのは武辺道の奨励と部下の才覚への過度な依存と猜疑による必罰追放と言う
ブラック企業経営者によるパワハラ恐怖支配と
威圧と恐怖を背景にする信長への妄信的個人崇拝と言う
現代で言えば洗脳手法が取り入れられたキチガイ新興宗教カルト組織でしかない。
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