>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀  池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる