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織田軍団ってイメージで凄いと思ってたけど…

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2012/08/08(水) 15:25:21.76ID:3UERgDvB
雑魚すぎワロタ

手取川で謙信にフルボッコされ木津川口でも毛利水軍にフルボッコされ信玄が死ぬまで武田に手を出せず氏政にも真っ向勝負で大敗する(笑)

桶狭間とか長篠ばっかじゃなくてこういうのもしっかり教科書に載せるべきだね^^;
0002人間七七四年2012/08/08(水) 20:59:23.83ID:WbmwlGPF
織田なんて斎藤に連敗記録を樹立する超弱軍だろ。
0003人間七七四年2012/08/08(水) 21:13:07.76ID:2sNXFy3H
アル中「織田の兵は案外弱い」
0004人間七七四年2012/08/08(水) 21:17:19.83ID:vemOuC8Z
山県昌景「織田軍は弱小」
馬場信房「織田軍など片手で潰せる」
武田勝頼「織田ごとき安々と潰せる」
朝倉義景「織田は寝てても倒せる」
斎藤龍興「戦国で織田軍より弱い軍はいない」
三好義継「織田なんて一年ももたずして攻め滅ぼせる」

0005人間七七四年2012/08/08(水) 23:48:51.29ID:MO0r8oGn
>>2
マジレスで
斎藤義龍があと10年長生きしてりゃ
信長なんぞ
尾張の弱小豪族止まりで
ジ・エンド

美濃三人衆の寝返りもナシ
0006人間七七四年2012/08/09(木) 00:09:45.36ID:8pWsKZfJ
夏休みか。
0007人間七七四年2012/08/09(木) 01:25:39.19ID:TF3m1Hdc
その雑魚にほとんど抵抗する事なく滅ぼされたカス大名がいたらしい
何でも織田軍が挙兵しただけで裏切り・寝返り連発で内部瓦解しちゃったとか
まぁ、織田が雑魚っていうのは認めますが、雑魚っぷりにも上には上がいるって事で
0008人間七七四年2012/08/09(木) 03:44:50.89ID:JX8Kl8YV
美濃三人衆なんて自分の権益のために旧主斎藤道三を討ち取るような連中だからな。
龍興の末路からして義龍も最終的に同じ末路を辿るのは容易に想像できる
0009人間七七四年2012/08/09(木) 09:47:54.40ID:yJzNgvzi
義龍は合議制を確立するなど重臣との対立の解消を図っていたり
宗教改革に乗り出したりと英名だったし、
義龍は尾張の半分を信長から奪って手に入れていたのも
快川和尚の書状から明らかにされてる。
0010人間七七四年2012/08/09(木) 14:35:44.74ID:JX8Kl8YV
対立解消を図っていたにもかかわらず龍興から寝返る恩知らずな連中に何を期待してんの?w
もともと美濃三人衆なんて斎藤家重臣でもなんでもないし、
尾張を取ったと言っても取り返されてるよね?w斎藤不利になったらすぐ寝返るよ?w
0011人間七七四年2012/08/09(木) 23:28:11.02ID:IajQeX8J
手取川って広く語られてるような大規模戦闘は信頼できる一次史料には載ってないんだよな。

実際は小規模な戦闘だったか存在すらしないってのが定説。
だいたいかなり派手にやられたはずなのに有名武将が誰一人討たれてない。
0012人間七七四年2012/08/09(木) 23:46:24.18ID:MuxTtBkZ
織田チョン涙目乙
0013人間七七四年2012/08/10(金) 10:15:50.15ID:HtPzcqXP
でも勝家軍が撤退したには事実
0014人間七七四年2012/08/10(金) 15:44:54.89ID:e+O7/34G
まあここを読めば参考になるかも

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1151169611?fr=rcmd_chie_detail
0015人間七七四年2012/08/10(金) 19:42:23.41ID:0+7bDDsb
>>14
キチガイ織田チョンが暴れてるだけじゃんwww
0016人間七七四年2012/08/12(日) 09:09:06.91ID:GBKm1vZR
>11
>実際は小規模な戦闘だったか存在すらしないってのが定説。

織田軍全体の行動が長期間全てストップしてんのに手取川がなかったって言うのか。
じゃぁ自説を学会に発表してみろ
根拠あるんだろ?
0017人間七七四年2012/08/12(日) 09:17:51.56ID:vboMMD+g
クソ袋ドヤ顔で貼っててワロタ
0018人間七七四年2012/08/12(日) 09:32:40.22ID:D6vV5Lys
そもそも公記において柴田北国相働きの事
の項目がむちゃくちゃ短く、
ほとんど何も書いてないに等しい記述なのも
もともとあった文章が都合の悪い内容なために削除したため。
0019人間七七四年2012/08/12(日) 10:01:33.10ID:CB26fxze
謙信に大敗した事実?
0020人間七七四年2012/08/12(日) 22:55:29.02ID:CzrRhgkQ
手取川の是非はともかく「織田の軍事行動が長期間ストップしていた」って
何を根拠に言ってるんだかw

同年の間にすら松永久秀討伐で松永は城を枕に討死しているし
翌年には別所長治の謀叛鎮圧のために付城攻略が行われている。
この神吉城をはじめとした別所領攻撃には手取川に参加していたと言われる
丹羽や滝川すら参加すると言う本格戦闘なんだがw
0021人間七七四年2012/08/15(水) 14:29:49.28ID:9TgzxfFa
>>20
あぁ?神吉城の攻略&丹羽・滝川って、それ天正6年5月の話でしょ。
しかも講談軍記のウソ長公記のまんまパクり文章じゃんよ一次史料まだかwww
つうか手取川の戦いがあったのは天正5年9月なのも知らんのかよwwwじゅうぶんに長い間停滞してるじゃん。
7/15に神吉城が落城と書いてあるけどさ、つか滝川は大船作りの指揮してたんじゃねぇのかよwww
6/26に鉄鋼船を始めとした艦隊は大坂沖へ向かっているはずですがwww滝川一益が二人いたwwwwさすがウソ長公記wwww

つか毛利の大軍にビビッて山中幸盛を見捨てて戦線を
大幅後退しての神吉城攻めだった事実は無視かよwww
しかも神吉城落ちたら秀吉を放置して急いで京へ帰ってるしw

北陸防衛に全力を挙げていたから
松永攻めには京で予備兵力として治安維持に当たっていた
坂本の明智軍を主力に長岡の細川と地元の筒井で先発したが
兵力不足は明らかで片岡城攻略ごときですら明智軍に「大勢損」が出る始末。
秀吉を北陸から逃亡してきてやっとまともな軍構成になるも
越前が雪に閉ざされ始める時期の天正5年10月まで松永討ち死にまで追い詰めることすらできず。

天正6年3月27日には播磨小国人の黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して
「状況によっては信長自身の出馬がある」と言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを信長が指摘してる。
あきらかに謙信が生存していたら援軍が遅れないことを示している。

丹波の明智・播磨の秀吉・三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間
これらの戦域で増援が必要だったのに全然 信長は増援派兵できない。
結局、彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてない。
織田軍の侵攻はあきらかにストップがかかり停滞してんのは明白じゃんw
それどころか天正6年10月に荒木が摂津一円謀反して播磨戦線が再崩壊してるしwww
0022人間七七四年2012/08/15(水) 14:33:09.07ID:9TgzxfFa
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
0023人間七七四年2012/08/15(水) 14:35:01.61ID:9TgzxfFa
>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退

天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。

>>いわば他人の領土を織田軍が守るために救援するのであるが、
こんな戦いに信長自ら国元を空っぽにしてまでいくのはかなり怪しい。

越前一揆を撲滅するために柴田らはとっくに加賀への進出をすでに行っている。
そのため、もし能登が一向宗と同盟している上杉の手中に落ちたら
織田の加賀領国が危険に晒される。越中が上杉領化した今、能登まで上杉化することは
越前・加賀の織田領国の不安定化につながる。言わば日本を守るためには朝鮮を
朝鮮を守るために満州を!と言う軍事防衛思想に他ならない。
親織田勢力を見捨てることは大規模離反につながりかねないのは、
高天神城落城における信長が家康への指示において、武田が見殺しにしたと思わせるために
降伏を許さないで、皆殺しにせよと命じていることでもわかる。
もっとも高天神城側は降伏するつもりで、
勝頼には援軍はいらないと書状を出していたから救援は最初から来ないわけだが。

>>七尾城が助けて〜と言ってきたから信長は援軍出しただけで織田と関係ないし
>>落城してたのなら、織田の城じゃないし、奪回する気がおきるわけない。

捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
0024人間七七四年2012/08/15(水) 14:35:44.00ID:9TgzxfFa
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響してる。
謙信は信玄と氏康同陣の時にたびたび俺が乗り出してきても決戦せずに退散するくせにと愚痴ってる)
朝倉義景が一乗谷城から越前府中まで3/11には出陣してきたことを報じている。
また濃州・信州境を用心しろとも書いていて、信玄の美濃侵攻が近いことがわかる。
3/7信長→幽斎書状にも長与一(長景連)が味方だと書いてる。
元亀4年時点ですでに明らかに七尾城は織田方なのだがwww

>>1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として北陸へ松田監物を派遣してるところから
>>佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけないほど追い詰められていた。
佐久間まで北陸へ派兵させてまで謙信への防衛に当てる理由はただひとつ。
手取川で信長が超大敗して完全にビビっている証拠。
なぜなら信長が佐久間信盛へ弾劾状を出した内容には
本願寺包囲の責任者の佐久間の軍隊として
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。
これに佐久間自身の配下を加えればと書かれている。

織田軍で一番の大部隊で必死に謙信の攻勢を凌ごうとして焦ってる姿が目に浮かぶ。

畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、
放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。

織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。
なぜなら手取川合戦の存在を消すには、畠山の息子が死んだから
柴田には助ける名目が無くなったことにしないと辻褄が合わなくなるから。
もし生存してるなら当然に、戦わず撤退することが正当化できなくなる。
0025人間七七四年2012/08/16(木) 11:05:28.24ID:OlTaw0KG
>>24
能登からも兵力動員した上で織田兵力たった1万しか集まらずw
むしろ畿内で離反激しくて兵力集まらず、
能登の軍勢まで集めざるを得ないほど追い詰められる信長w
0026人間七七四年2012/08/16(木) 15:08:12.38ID:IRlzi+HW
>>21
え・・・おまえマジで日本語も読めないの?wマジでチョン?w

アホなおまえのために原文そのまま出してやるわ  信長公記 九鬼大船の事

勢州の九鬼右馬允に仰せつけられ、大船六艘作り立て、並びに、滝川左近、大船一艘、
是れは白舟に拵へ、順風を見計らひ、寅六月廿六日、熊野浦へ押し出だ
し、大坂表へ乗り廻し侯のところ、谷の輪海上にて、此の大船相支ふべき行とし
て、雑賀、谷輸、浦浦の小船数知らず乗り懸け、矢を討ち懸け、鉄炮を放ち懸け、
四方より攻め侯なり。九鬼右馬允、七艘の大船に小船を相添へ、山の如く飾り立て、
敵舟を間近く寄せ付け、愛し侯ふ様に持なし、大鉄炮一度に放ち懸け、敵舟余多打ち崩し侯



>>6/26に鉄鋼船を始めとした艦隊は大坂沖へ向かっているはずですがwww滝川一益が二人いたwwww

おまえほんとアホwww恥じた方がいいぞ己のアホさをwwww

原文で登場する滝川左近の文は「滝川左近、大船一艘、是れは白舟に拵へ」までしかかかっとらんのだがwww
九鬼と並列して滝川が白舟を作っていたと言うだけでそれ以上は何も書かれておらず、
しかも後々で「九鬼右馬允、七艘の大船に小船を相添へ、山の如く飾り立て」と
七艘全てを九鬼が統率しているとあるんだがwwww

でたらめ吐く前にオツムを鍛えろよwww
0027人間七七四年2012/08/17(金) 00:24:16.75ID:bWl1RaMn
>>26
それはどの信長公記?80種類以上あるから
ちゃんと書いてくれないと、どの公記かわからんのだが。
0028人間七七四年2012/08/17(金) 10:02:19.11ID:t4iXJmk1
滝川が2人いたwwwwwとまぬけな嘘を隠すために
「どの信長公記?」などとのたまうだがw
陽明文庫写本でも町田本でも好きなのえらんでこいよw
0029人間七七四年2012/08/18(土) 05:38:12.36ID:zpX/9K8x
まただがの妄想火病スレかよ
いい加減こいつ2chからBANされんかな
0030人間七七四年2012/08/18(土) 08:06:33.76ID:hlUERu++
どの信長公記かわからなければ検証できんだろ。
出典拠は明白に。
0031人間七七四年2012/08/18(土) 08:21:31.93ID:9tbnVFGq
町田本信長公記や陽明文庫写本信長公記なんて今時手に入らないわけじゃねーだろw
ましてやわざわざ「九鬼大船の事」と主題まで載せてやってるんだw
そんな状態で「検証できない(キリッ」とか言い出してわずかな努力もしないおまえに検証なんて100年早いわ

新田次郎の本か漫画でも読んでおけ、好きな信玄がマンセーされつくしたなw
0032人間七七四年2012/08/18(土) 10:19:22.76ID:70FM6HAh
おまえらオタクすぎて恐いわ
0033人間七七四年2012/08/18(土) 10:33:28.18ID:RqOgRc/8
北も南も朝鮮は、犯罪国家。捏造は立派な犯罪

歴史的にも竹島は日本領有の証拠資料が出たんだってよ。http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1345210936/

韓国は実際まだ戦争してる国家なんだから、洗脳されてて当たり前なんだよ。
そういったこと重ねてると、どんどん国家としての業(ごう)をせおってしまうよ。
それは因果として、いずれ韓国が背負うことになる。

日本も戦時中、戦況が負けてるのに、勝ってる、勝ってると世論を誘導した結果、
世論として、戦争の引き時が分からなかった。正しい認識がなければ、いずれ自分の国がそれを結果として清算しないと
いけない時期が来る。
ここをみればそれが分かる。
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/war/1345173016/
0034人間七七四年2012/08/18(土) 22:37:33.32ID:XemMjPT/
>>207
豊臣秀吉に気に入られて羽柴姓を許されたり
足利将軍家からの偏諱「義」の字を捨てて「吉」の偏諱を受けたり
権力者対策はばっちりだったはずなのに…
0035人間七七四年2012/08/19(日) 08:31:19.48ID:mbE3hXqN
>>31
どの信長公記かわからなければ検証できんだろ。
出典拠は明白に。
0036人間七七四年2012/08/20(月) 15:32:53.72ID:UmmF38iS
>>22
>>6/26に鉄鋼船を始めとした艦隊は大坂沖へ向かっているはずですがwww滝川一益が二人いたwwwwさすがウソ長公記wwww

>>6/26に鉄鋼船を始めとした艦隊は大坂沖へ向かっているはずですがwww滝川一益が二人いたwwwwさすがウソ長公記wwww


>>6/26に鉄鋼船を始めとした艦隊は大坂沖へ向かっているはずですがwww滝川一益が二人いたwwwwさすがウソ長公記wwww


>>6/26に鉄鋼船を始めとした艦隊は大坂沖へ向かっているはずですがwww滝川一益が二人いたwwwwさすがウソ長公記wwww


自分の誤読と無能さを史料のせいにするアスペルガーだがw
0037人間七七四年2012/08/23(木) 12:10:01.02ID:4cgiEJma
>>26
大船六艘作り立て、並びに、滝川左近、大船一艘、
是れは白舟に拵へ、順風を見計らひ、
寅六月廿六日、熊野浦へ押し出

この文章を読めば明らかに九鬼の大船、並びに滝川も大船を作らされ
二人が順風を見計らって6/26に出航したと書いてあるようにしか解釈できないだろwww
のちの文章は水軍の指揮官の九鬼の名だけ書いているに過ぎず
滝川の名前を省いてるだけなのに必死乙w
だいたい二人は常に歩調を合わせており
家康と秀吉の戦いですらも滝川と九鬼は一緒に行動してる
言わば二人はセットで伊勢衆を動員してるんだがな。
0038人間七七四年2012/08/24(金) 20:11:10.65ID:CNMCCXM0
並びにって書いてるし、
一緒に順風を待ってたんだろう
0039人間七七四年2012/08/28(火) 00:48:02.96ID:ACiDI1aW
長島一向一揆の時も一緒に行動してるな
実は二人は水魚の交わりw
0040人間七七四年2012/08/28(火) 11:02:38.05ID:hnff96gp
家康に包囲された蟹江城の時は
九鬼が滝川を置いて船でさっさと逃亡しようとしてるがなw
結局、信雄の大船に襲撃されて捕縛されたっぽいけどw
ついでに滝川の馬印も奪われてるな。
この戦いを最後に滝川は嫡男ともども改易し九鬼との縁も切れたっぽいな。
舎弟の滝川一時が秀吉によって取り立てられてるけど。
0041人間七七四年2012/08/28(火) 23:26:38.05ID:sgeV1wK9
>>40
凄い初耳かも
最初の行を除いてほとんど信じがたい新情報だから
是非ソース教えてね
0042人間七七四年2012/08/29(水) 01:38:28.01ID:/Qz3WEr7
>>37
だがさん日本語を理解するくらい努力してください

勢州の九鬼右馬允に仰せつけられ、大船六艘作り立て、
並びに、『滝川左近、大船一艘、 是れは白舟に拵へ』、
順風を見計らひ、寅六月廿六日、熊野浦へ押し出だ し、大坂表へ乗り廻し侯のところ

という意味になる、並びにがかかっているのは九鬼と同様に滝川も舟を作らされていたというだけ。
つかその辺の凡将ならまだしも、滝川クラスをその後の戦いに全く書かないとか正気の沙汰じゃない。
0043人間七七四年2012/08/29(水) 21:31:07.55ID:sJy49nsS
九鬼と滝川は常にワンセットだから別々な行動はあり得ない。
なぜなら九鬼の軍功を信長に取り次ぐのが滝川なので、
事実上、九鬼の監視役も兼ねているのが滝川だからね。
0044人間七七四年2012/08/31(金) 04:25:07.36ID:QD5NYKLG
それこそどこソースだよw
九鬼にへばりつくほど滝川は閑職じゃない

上で出ている手取川がどうだの、柴田北国相働きの事なんてのは
滝川が九鬼と離れて行動していると言う証左なわけだが
0045人間七七四年2012/08/31(金) 11:15:15.09ID:FewJxgdL
>>44
>>柴田北国相働きの事なんてのは 滝川が九鬼と離れて

それ自体が嘘長公記がソースじゃんw
0046人間七七四年2012/08/31(金) 11:18:47.77ID:FewJxgdL
ついでに>>41への返答
家忠日記6/19
兼見卿記7/17
7/12秀吉→滝川八(一時)宛書状
0047人間七七四年2012/08/31(金) 22:45:23.07ID:6FC3ygRI
サンキュー
調べてみる
0048人間七七四年2012/08/31(金) 23:30:03.99ID:6FC3ygRI
>40>46
すみません、よく調べられないので原文を教えてください。

>家康に包囲された蟹江城の時は
>九鬼が滝川を置いて船でさっさと逃亡しようとしてるがなw
◆記載不明◆
>結局、信雄の大船に襲撃されて捕縛されたっぽいけどw
◆記載不明◆
>ついでに滝川の馬印も奪われてるな。
記載有り
0049人間七七四年2012/08/31(金) 23:33:16.18ID:6FC3ygRI
>この戦いを最後に滝川は嫡男ともども改易し九鬼との縁も切れたっぽいな。
◆記載無し◆
そもそも滝川一益はこの時点で所領を持っていないので改易は不可能と思われる
>舎弟の滝川一時が秀吉によって取り立てられてるけど。
◆記載不明◆
秀吉に取り立てられた一時は一益の舎弟ではないと思われる
0050人間七七四年2012/09/04(火) 13:34:25.89ID:Jz1JYTuY
>>48
家忠日記6/19
〜九鬼ハ舟にて落候を御本所様(信雄)大舟にてのりかけ敵舟とり人数討捕候〜

>>49
兼見卿記7/17
滝川左近 今度於尾州手遣散々之仕合也 就其自筑州曲事之旨被申逼塞
息三九郎(一忠)者払分国云々、舎弟御八(一時)許容云々

7/12秀吉→滝川八(一時)宛書状 (寛永諸家系図伝の佐久間一時の項にある書状写し)
入庵(一益)江 壱万五千石令契約知行 今度改三千石之通入庵江遣候
相残而壱万二千石分 其方可有領知 向後諸事無御油断御励有之 全可有御領知状如件

6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
その後、あらたに大きな軍事行動を秀吉が開始したのが10月下旬で長島直撃作戦。

蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる。
軍記の太閤記に出てくる「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と
書いてる清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略。

6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。

秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
秀吉軍を呼び込めばいいだけ。長島城が危機的になり敗北確定になるまで
なんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。

長島直撃作戦は開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線に戻って秀吉が冷静にやってるだけだよ。
たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして
尾張東部へ攻め込んだだけ。
0051人間七七四年2012/09/05(水) 00:22:47.60ID:aRq5zBRg
>>50
感謝!
>家忠日記6/19
>〜九鬼ハ舟にて落候を御本所様(信雄)大舟にてのりかけ敵舟とり人数討捕候〜

これは九鬼が捕縛されたとは読めない。

>兼見卿記7/17
>滝川左近 今度於尾州手遣散々之仕合也 就其自筑州曲事之旨被申逼塞
>息三九郎(一忠)者払分国云々、舎弟御八(一時)許容云々

どうみても滝川三九郎(一忠)の舎弟という意味に読める。

0052人間七七四年2012/09/05(水) 00:33:05.33ID:aRq5zBRg
>>50
>7/12秀吉→滝川八(一時)宛書状 (寛永諸家系図伝の佐久間一時の項にある書状写し)
>入庵(一益)江 壱万五千石令契約知行 今度改三千石之通入庵江遣候
>相残而壱万二千石分 其方可有領知 向後諸事無御油断御励有之 全可有御領知状如件

これは有名な書状で素直に読めば、秀吉が一益を1万5千石で起用し、
約束どおり1万5千石の知行を与えたという意味かと。
0053人間七七四年2012/09/05(水) 00:51:09.21ID:aRq5zBRg
>>50
6/25秀吉→木曽伊与守(義昌)宛書状で
今日廿五日到伊勢椋本与申地参着
とある。これは、6/28大坂と矛盾してる。

6/28顕如書状ってどんなの?


それから蟹江に戦略的意味が無いのなら、
家康と信雄が総動員で城を攻め立ててる理由も
不明になると思うけど如何。
0054人間七七四年2012/09/05(水) 00:52:31.63ID:aRq5zBRg
一応age
0055人間七七四年2012/09/05(水) 01:07:44.35ID:s24pC+BQ
>>53
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される



188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 08:34:39.71
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
>>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく
普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ
>>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ
尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い
>>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ
>>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし
>>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる
そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ
0056人間七七四年2012/09/05(水) 01:09:02.09ID:s24pC+BQ
>>53
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる


7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる
0057人間七七四年2012/09/05(水) 01:13:02.68ID:aRq5zBRg
>>50
6/19の舟入の戦いは、九鬼が逃亡しようとした戦では無く、
逆に九鬼が蟹江城に兵糧を運び込もうとした、
もしくは城兵を救出しようとした海戦。

九鬼の配下、村田七太夫が徳川方の間宮信高を討取り、
九鬼嘉隆が逃げのびたとある(常山紀談)

これで滝川と九鬼の縁が切れたというのは変な話かと。>>40
0058人間七七四年2012/09/05(水) 01:13:03.35ID:s24pC+BQ
>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される

0059人間七七四年2012/09/05(水) 01:15:15.31ID:s24pC+BQ
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ

愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。
0060人間七七四年2012/09/05(水) 01:15:47.60ID:s24pC+BQ
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
0061人間七七四年2012/09/05(水) 01:16:36.90ID:aRq5zBRg
だがさんコピペ邪魔だよ
0062人間七七四年2012/09/05(水) 01:17:47.13ID:s24pC+BQ
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め

>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
0063人間七七四年2012/09/05(水) 01:18:59.78ID:s24pC+BQ
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう



160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 23:22:32.50
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
上記のように秀吉は蟹江合戦当初滝川が軍事行動起こした蟹江から近い大垣近辺にいたため秀吉の軍事行動と容易に想像がつく

>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
こんな圧倒的兵力差で負けまくって一年一杯使って信雄ごときの尾張半国すら自力では倒せなかったのが秀吉
0064人間七七四年2012/09/05(水) 01:25:05.17ID:s24pC+BQ
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ
>>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに
放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。
そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
>>15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
0065人間七七四年2012/09/05(水) 09:48:11.04ID:mqnjCNd6
毎度おなじみアスペルガーだがの発狂コピペでござあいw
0066人間七七四年2012/09/05(水) 13:46:58.09ID:s30LmmV8
>>57
常山紀談ができたのは江戸時代中期で全く史料的価値の無い講談話集だから…
0067人間七七四年2012/09/05(水) 18:51:25.18ID:CO74N0VT
つか在日チョンの歪曲自演うぜぇぇぇ。
0068人間七七四年2012/09/06(木) 02:32:51.27ID:7QXGNgez
雑魚なのに、なんで天下統一目前まで行けたんだ?

もしかして目前じゃなかったのか?
0069人間七七四年2012/09/06(木) 08:33:22.92ID:DtEyEi02
>>68
まだ中国四国九州、関東以北を従えてないのになんで天下統一目前
アホじゃないのか
所詮雑魚なんだよ、
0070人間七七四年2012/09/06(木) 11:10:37.81ID:4XQdfP9H
中部近畿だけ押さえて天下統一って言われてもねえ
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