悪逆大名
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0001人間七七四年
2012/08/08(水) 09:45:14.20ID:3YNZAJIg0002人間七七四年
2012/08/08(水) 10:32:01.66ID:3YNZAJIg石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から相変わらず逃げまくる信長
朝倉との和睦条件であった荘園返還すると財政破綻する織田w
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに、
賀茂から嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
銀1300枚受け取り拒否した上京を焼き討ち略奪。下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
0003人間七七四年
2012/08/08(水) 10:37:15.94ID:3YNZAJIg堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、
これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
原則は軍役負担者が安堵地から輸送による自給ではあるが、
軍役に次ぐ軍役でとても負担出来るわけもなく現地略奪方式を取らざるを得ない。
織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は天正8年の本願寺との和睦まで続く。
あんだけ無理を強いて戦い続けてりゃ軍費だって無くなるだろ。
戊辰戦争でも軍費問題はデカかったんだから。ガキの頃から豊かな生活を親が与えると
大人になっても浪費癖が治らないばかりか酷くなるってのは事実なんだな。
それで金が無くなると虐殺と略奪だもんな。
そいつがアスペ・パワハラ独裁権力者だったから日本は不幸の闇に包まれたってわけだ。
0004人間七七四年
2012/08/08(水) 10:43:23.49ID:3YNZAJIg周知のところであると書いてるし。
信長は美術品コレクターだから 召し上げとか言ってすぐ恐喝するから最悪だな。
朱印状貿易も簒奪者の成り上がりだから正統と認められず許可されなかったし。
織田配下だった逸見昌経は8000石の所領を持ち若狭衆筆頭として活躍。
天正9年2/28に馬揃いに傘下したが3/26に死去。
すると信長は所領全没収の上
5000石を溝口秀勝に3000石は武田元明に分配され
子の源太虎清は追放される。
なんら罪もなく武功を重ねてきたのに・・・こんな暴君はありえない。
1565年9月28日に織田への味方をして孤立奮闘してた
加治田城の佐藤紀伊守親子って信長に会って
感涙にむせび言葉も無いほど感激してありがたがったんだけど
翌29日に龍興が信長と決戦に出てきたら、
佐藤紀伊守親子を見捨てて信長逃亡しちゃうんだよな・・・
佐藤紀伊守が斉藤に出してた人質の娘が串刺しにされたのに。
結局のところ息子は斉藤軍の前に討死するし
岐阜陥落後に加治田城は斎藤新五郎のものになっちゃうし。
義龍の死の混乱に乗じてわすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するも大敗。
さて稲葉山を信長が奪ったあとの話だが、
戦乱で失われた壺を義龍妻に出せと執拗にいびる信長に
妻がもう自害するより仕方ないと決意させたが、
面目丸潰れの濃姫やその親類、一族、美濃有力国人たち17人が結束し
失業していたっぽい佐藤紀伊守も参加しみんなで自害するといって信長に抵抗した話が言継日記に佐藤からの話として出ている。
0005人間七七四年
2012/08/08(水) 10:45:17.56ID:3YNZAJIg永禄10年(1567年)に滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが
仁木氏勢力圏の楠城の山路弾正の籠城&神戸氏への支援として
白子からの伊勢水軍・鳥羽からの志摩水軍&鈴鹿の関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反の噂が流れ。
さらに支流支援として北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも
協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝と信包を与えて縁戚化させるしかなかった。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長。勅使が催促のために岐阜へ行ったら
信長は尾張に出発しました。じゃあ尾張へ行くわ→鷹狩りで三河まで行くかも→じゃあ三河行くわ→会うの無理だよ
じゃあ年末年始の岐阜での挨拶までずっとここにいるわとか笑える流れで逃げまくる信長w
0006人間七七四年
2012/08/08(水) 10:46:45.53ID:3YNZAJIg信玄は義昭に、信長と家康の非法を訴えた激文を送付した。
天皇はその文を読み感動し、写を自ら作成された。
天皇家は武田を信任してるからね。
後奈良天皇も天文22年8/20に宸筆の般若心経で
天下泰平を諏訪大社で祈願して晴信の戦勝祈願もしてるし。
悪党家康信長を討つ大義名分を高らかに謳ってるよね。
特に朝倉や比叡山との勅命和睦無視して
比叡山焼き討ちし、権門や寺社らを侮り
税を好き放題にかけたり、略奪したりと京内外でやりたい放題に怒り
正義と秩序を取り戻す宣言をする信玄。
これ義昭の取次ぎ宛なのに、天皇が手に入れて自ら筆写してんだよね。
天皇が自ら行動するのは、ほかには古今和歌集絡みで細川幽斎助命に動いた天皇くらいか。
かなり大雑把な要約だね。原文はすげー長文。
特に>>朝倉や比叡山との勅命和睦無視のところで
信玄は5つの大罪を挙げて信長を非難してる。
戦国遺文武田に収録されてるから図書館で読めば?
大義を掲げて西上していた大僧正信玄はけっこう常識人だよ。
上京を焦土と化して虐殺略奪恐喝して御所まで類延しても構わない態度で
脅迫しての天皇の義昭との和睦が成立したことで
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
焼き討ちを免れようと織田軍に金を納めに行く途中に
織田軍に金を略奪されて
高利貸しから借金して略奪されないように注意して織田軍に金を再納した寺社もあるんだよなw
0007人間七七四年
2012/08/08(水) 10:49:37.73ID:3YNZAJIg義昭が信長を挑発。 信長は自分と信忠がハゲ頭になり義昭様に和睦交渉の謁見したいと哀願。
切羽詰まった信長が自暴自棄で京都で残虐性を剥き出しにして本性を晒して放火虐殺略奪恐喝を始めたのが4/2
信長は義昭に勝てず武田への対応も不可能で絶望的だったのが事実。
まず洛外の寺社群を焼き討ちし、翌日の上京焼討ちでは、
戴恩記に信長が呼び寄せた近隣の土民達の略奪の凄まじさが書かれている。
また庶民が火事に追われ大井川へ飛び込み溺死膨大(東寺光明講過去帳)
「京中辺土にては乱妨の捕物共、宝の山の如し」と京の街がまるで宝山のような略奪乱暴が行われた。
(天正元年織田軍上洛のこと「永禄年代記」「続群書類従」)
また信玄の西上作戦により織田の軍費は金・兵糧・火薬がまったく足らず恐喝を行った信長により
下京や寺社などに焼き討ちを免れるための条件として大金を要求しまくって、
それを軍費にする目的もあったので(加茂野の地の寺社だけで銀棒300、各43匁の重量とフロイスは書いている)
天皇の御所まで延焼するのもまったく気にせず信長は「御所に類火が及べば遷幸するように!」と命じたので
困った天皇は信長の目論見通りに将軍義昭に信長との和睦を勧めて延焼がこれ以上に広がる前に調停させた。
京の寺社や公家ともチャンネルを持つ情報通の安国寺は早くも信長の自爆を予見していたし
こういうこともあり本能寺の変後に義昭は毛利の乃美へ「信長を討ち果たした」と書き送り
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる。
0008人間七七四年
2012/08/08(水) 10:53:13.34ID:3YNZAJIg天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
その後も織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
越前一向一揆を討伐に向かっており、
数万人規模の老若男女の区別ない越前一円での大虐殺大会と大略奪を開始し9/26に帰還する。
織田が常に略奪恐喝をしないと
軍備を維持できない体制なのが理解できる
金遣いが荒く計画性欠如。 金や兵糧が無くなるとその解決策が、
放火虐殺し略奪すると言う盗賊思考。犯罪者集団のゴッドファーザー信長
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
一揆の者で降伏してきたヤツらもことごとく首を切れ。
昨日は洪水で動けないとの由だったが
水も引いて動けるようになっただろ。
念を入れて残らず討ち果たすことに専念せよ。
それをやった上で隙が生まれたら俺のところへ来い。
今後のことを申し聞かせてやろう。
前回の書に書いたように越前豊原に着いた。
その意に成るようにいたせ。天正3年8/29の滝川宛の信長書状。
0009人間七七四年
2012/08/08(水) 10:55:46.57ID:3YNZAJIgそして一寸の休息も許さず、すぐ働け、達成したらすぐ俺のトコへ来い
新たな命令を伝えるとせっかちに命令している。
まさに絶対暴君にして部下を過労に追い立てる姿が見える。
この遠征が終わるや、光秀は新たな丹波戦線に派遣され
そこで敗北して戻るや、すぐ摂津戦線に派遣され病になりながら
本願寺に破れて天王寺籠城をしている。
そして毛利が織田に攻撃を開始し木津川口で織田は大敗する。
信長の判断基準は単純。国人・土豪・惣村・寺社らが自分が命じる指揮官に付いて
大虐殺の行使も含む遠方遠征の無限軍役に物資は基本的に自弁前提で
素直に従うか、従わないかのみだから。
軍役に従わないから謀反だと疑われたのが荒木や松永だしw
信長に一度でも疑われたら絶対に疑いは晴れないとか言われてるしw
命令に従ってても、いきなり改易とかされるしw
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