信長の教育係を務め、後に軍師として織田家を指揮したのは沢彦だった
桶狭間や美濃攻め岐阜改名、これすべて沢彦が行ったこと。
そして、天下布武=天下統一の発想は信長の発想ではなく沢彦の構想。
そもそも天下布武という言葉は宗教的な意味が強い。

そして、沢彦は1570年前後に死去、この後を継いだのが明智光秀である。
なぜ光秀かと言うと、武田家と斉藤家の外交僧を務めた美濃出身の僧・快川紹喜という人物と沢彦は兄弟の契りを結んでいた。
この快川紹喜と同族の明智光秀が沢彦の後を継いだのである。
そして、武田討伐で武田にいた快川紹喜が織田信忠が討たれる事件が起きる。
このことでの明智の恨みが本能寺の変に繋がったと考えられる。