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【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】

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0001人間七七四年2012/08/04(土) 23:21:52.40ID:o+bXyiEt
戦列歩兵はどう並んでいたのか
決戦兵力としての予備兵はいたのか
車懸りとは? 鶴翼や魚鱗? 付城、野戦築城とは?

意外と謎だらけな戦国時代の軍事学について色々と語るスレです
0558人間七七四年2013/12/07(土) 10:35:13.27ID:BDncvnB3
菅沼遼太をいじっても良い事ないぞ
0559人間七七四年2013/12/07(土) 11:14:44.96ID:5YLGEePJ
>>557
要約するとこうか?
勝頼からの停戦についての指示もないのに、
秋山に勝頼の御意もなく独断で敵と和睦交渉する権限はないので秋山の負けに違いない。

上記のあなたの考えを証明する一次史料の根拠はまだなの?
それが書かれてないのでは願望妄想としか思えませんが。
管見の限り、前線の城主が停戦和睦交渉したらいけないなんて史料は
みた事がないからね。
そもそも秋山から救援依頼自体が一切出てないから困っていたようにも思えない。
むしろ勝頼の援軍出撃を聞いて、一刻も早く解決したくて困ってるのは織田の方でしょ。
だから卑怯な騙しての暴挙をする程に必死だっただろ。
0560人間七七四年2013/12/07(土) 12:53:35.70ID:glWnfOkx
>>559
妄想に対して妄想を被せるw
所詮、ヲタの趣味でしかない

誰かしらかの停戦命令が出ての停戦に伴う打合せの際に、無防備に(指揮官が捕縛されるなんて人間の出来ることじゃない)相手陣地に乗り込むか?
現場指揮官の独断にせよ、戦線を維持出来ない状況があったと考えるのが自然。
或いは、指揮官自らが命乞い(彼我問わず)に訪れた可能性も否定出来ないだろう

資料がぁ(」゜□゜)」って基地外は喚くが、資料なんか古来改竄が当たり前。
辻褄が有ってない資料なんざ糞喰らえで良い
(だから、戦国時代と称するノブヤボ時代に真面目な研究がされない理由だろうけど)
0561人間七七四年2013/12/07(土) 13:06:08.97ID:kg51bfIo
普通は無事に撤退できるように、
和睦交渉をして、追撃を避けるために
人質交渉をするもんだ。
信長も和睦交渉で北畠信雄を人質に出すことで追撃を受けずに撤退してるし。
秋山もとうぜんそのつもりで交渉に臨んだのだろう。
0562人間七七四年2013/12/07(土) 17:59:45.69ID:AXbYt8B+
>>559
おまえは戦国時代の知識が無い馬鹿タレなんだから3年間ROMってろ
無知がしゃしゃり出るとスレが白ける
0563人間七七四年2013/12/07(土) 19:46:02.75ID:DamRBE4A
夕方、爆問の人と武勇伝の人がMCしてる番組で、信長と信玄のどっちがすごいか
って再放送かな?やってたね。
0564人間七七四年2013/12/07(土) 19:56:44.92ID:aBcs630e
武田側の一次史料が少ない、
織田側の史料に謙遜や豊臣時代の客観性があるのを良いことに、
武田最強をごり押ししてる人がいるの?
0565人間七七四年2013/12/07(土) 20:36:10.47ID:AU1eJqNG
志賀の陣でも朝倉と織田は和睦交渉して、
人質を交換し合って追撃予防をしてから、
双方が撤退しているよな。
和睦交渉ってのは基本的に追撃を受けないように交渉する事だからな。
0566人間七七四年2013/12/07(土) 22:19:35.56ID:glWnfOkx
>>561
信長にとって信雄は捨て駒に出来る存在だろうが
秋山某自身が自らの意志で捨て駒に出来るか?
秋山某が、捕縛される危険を犯して和平交渉に乗り出すというのはかなり切羽詰まった状況と見るべきでは?

後年、日本とロシアでの和平交渉の際、ステッセルは乃木大将の許可を得ると帯剣したという。
つまり、事実上の降伏状況でさえ講和の席上まで帯剣していたという話だろ
もし、戦線が膠着した状況で秋山某が講和に訪れたのならお互いが手出し出来る状況には無いと取るのが普通では
0567人間七七四年2013/12/07(土) 22:51:12.73ID:AU1eJqNG
>>566
下記の一次史料は?

ステッセルは乃木大将の許可を得ると帯剣したという。
0568人間七七四年2013/12/08(日) 00:59:20.38ID:qFsIBuwS
急に明治時代の軍事学になっている
0569人間七七四年2013/12/08(日) 08:41:08.00ID:XrPdCp8Y
飼料野郎はムシで

>>566
なんとなくわかりますよ。
0570人間七七四年2013/12/08(日) 19:00:48.89ID:OVIn2Ljt
何にせ秋山を見殺しにしなければいけないほど圧倒的な損害を武田が受けたんだし
二俣城、諏訪原城といった遠江中枢の城を奪回されてる時点で武田の大敗だったのがわかる。
結局勝頼は一時的に無理矢理軍を再起動させてみたものの何もできずに終わってるし
0571人間七七四年2013/12/08(日) 19:12:56.81ID:dVoVpmBD
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し
先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候などと書いてる。
このことから当初案では石山本願寺救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して 穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は実数1万くらいの兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り5万の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して
伊勢長島の日根野や郡上八幡の遠藤氏や一揆軍の南下で織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、陣城攻撃を開始し優勢だったが陣城は落ちず
撤退をしたら殿が下手を打って軍が崩壊。義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
長篠決戦前日の勝頼が織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸
信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は
高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。
長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。
6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。
武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけで
やはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。
殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
0572人間七七四年2013/12/08(日) 19:15:56.54ID:dVoVpmBD
諏訪原城問題
ttp://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/29015563.html

願望妄想乙w そもそもその書状は天正2年だからすでに間違えてる。
信玄が死んだ年の末に浜松城再度襲撃なんて、そんな大規模軍事行動はしてないだろ…
んで、書状内容は 家康が篭る浜松を焼き払い、刈田しまくった。
いま久野(袋井市)と掛川を追い詰め佐夜郡に押さえの築城した。
他には佐竹と北条の和睦の提案と、小田原の軍勢が関宿攻めしてる話に言及してる書状。
さて袋井市と掛川市を制する地の利の場所に築城してるのに、
なんでそれが諏訪原なんだよwwwお前さ、地図くらい見てから書けよwww
机上の空論ならぬ、 妄想願望の暴論だぞw 織田チョンはどうしようも無いアホだわ
あーあ。悪質な歪曲してるな。 諏訪原城がある位置は榛原郡だから。
佐夜郡ではなく、小夜の中山と言う山にある急坂の場所が
宿場町の日坂(掛川)→宿場町の金谷(菊川)
の間にある道中の山の急坂を指しているって話なだけ。地理まで曲解すんなよ・・・
なんでそれが佐夜郡の支配領域とイコールになるんだよ。
単に中山にある坂が佐夜郡への道だから名前が転化しただけだろ。
そこは榛原郡であって、佐夜郡はもっと西だから。
延喜期式には遠江国佐野郡に己等乃麻知神社が書かれているので
そもそも文学的表現からではなく元々は佐野郡が佐夜郡に転化したもの。
のちの周智郡なども含まれた広大な領域だったとも言われ
また、中山という呼称は郡と郡の郡堺の山や峠を意味する言葉で
中山から西が佐夜郡であり、東が榛原郡だということがわかります。
小夜の中山を境に、 東側が榛原郡であり諏訪原城がある地域で、
明らかに対高天神城攻略のために徳川が作った牧野城のこと。
中山の西側が佐夜郡であり浜松襲撃した帰り掛けに袋井市や掛川市を追い詰める意図で
武田が数ヶ月突貫で砦を作った場所だろ。
天正元年に諏訪原ができたってのは牧野城がすでにあったことを知っている
江戸時代の作られた甲陽軍鑑のネタに引っ張られた間違った解釈だし
そもそも久野城や掛川城を制する位置に築城されたのは天方城のことだとされている。
諏訪原城がその両城を押さえる形にならないどころか
武田軍が大井川の南下して高天神城へ行く道を塞ぐように築城されてるのが牧野城。
見張り台目的で古い砦のような簡素なものが諏訪原にあっただろうが、
本格的な築城は徳川によってなされたと考えるべきだろう。
(特に家忠日記などでは天正6年以降やたら普請を繰り返している)
そして周の文王が牧野で武王を破った故事から築城するにあたり牧野城としたのであろう。
(犬居城説などもあり判然としないが、ちなみに天方城説にも諸説あってよくわからないのだが、
徳川と武田の争奪が激しく新城があったのではと言われている)
当時、天野氏も2派に分かれて派閥抗争をしており ここを巡って奪回戦が繰り返されたといわれている。
0573人間七七四年2013/12/08(日) 19:28:13.84ID:dVoVpmBD
いやいや織田が江甲同盟交渉で武田の鋭鋒を避けようとしてたから
むしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに
武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。

しかし織田チョンは必死だな〜。
犬居城が落城したなんて大須賀記っていう家譜にしか出てこない捏造話だし、
二俣城落城に至っては浜松城記って言う偽書にしか出てこないのにwwww

また戦死に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く 名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、 甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも
織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。
実際、軍記講談話を除けば、 馬場や山縣がそもそも出陣してたかすら怪しいし、
長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、
嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし、
山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、
天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。
しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、信長も感状を一切出すことも無い。
唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。
明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、
勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、山縣や馬場らが長篠に出陣してる証拠が無い。
むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて長篠に現れたとしか思えない。
だからこそ信長は深く追撃することを恐れて、さっさと帰っていった。
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、 構造改革があって引退してるんじゃないか?
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、 秋山のことは引き寄せてから今日、
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。
長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、
信綱は登場しないし、 山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど。
天正元年7/30の時点では、 武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、
天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。
0574人間七七四年2013/12/09(月) 06:33:48.79ID:xPZMJLvz
このスレの長文の人のぶっ壊れぶり凄いな
0575人間七七四年2013/12/09(月) 08:03:46.21ID:zGtc0tP/
実はこのスレだけじゃないんだぜ
ちょっとほかのスレ見てきたらわかるけど戦国板荒廃の原因だから
0576人間七七四年2013/12/19(木) 23:42:11.57ID:bl5IqCql
西国と東国では合戦のやり方とか備の仕組みとか同じなの?
それとも違うの?
0577人間七七四年2013/12/20(金) 09:36:00.49ID:XFpSe6/0
鉄炮装備率の違いや牧の関係で、東国では騎乗突撃が比較的後期まで残ったとか
0578人間七七四年2013/12/21(土) 19:58:47.80ID:oYBMzSpP
騎乗突撃とは弓をもって馬上から敵を至近に射るために近接することですか?
0579人間七七四年2013/12/21(土) 20:00:27.39ID:hYnMKnr9
>>578
違う。騎乗打物による近接攻撃
0580人間七七四年2013/12/21(土) 20:10:07.00ID:C3OPJUDL
一応、弓を持つパターンもある
家康なんかは三方ヶ原の戦いの敗走時に、
騎射で立ちふさがる敵を突破している
0581人間七七四年2013/12/22(日) 10:08:06.73ID:ahA5y8Hl
騎乗突撃と敗走は同じものなんですか
0582人間七七四年2013/12/22(日) 10:49:53.00ID:amCM5l94
元亀・天正でも騎射が実戦で用いられたという話
0583人間七七四年2013/12/22(日) 11:48:01.85ID:PRh0dRuW
騎兵種単独の突撃が疑問視されているだけで戦国時代でも騎馬武者の突撃は徒士を随伴して行う
0584人間七七四年2013/12/22(日) 13:13:59.79ID:1RFhliqs
>>583
そういう非効率的な戦いを成り立たせるために、
馬乗り身分の人間を足軽が討つってのを非道とする逸話が多いのかな
歩兵がついて行ける速度で馬上にいたんじゃ、良い的だし。
0585人間七七四年2013/12/22(日) 13:24:37.27ID:amCM5l94
敵陣に突入するまでで、距離も火縄銃の射程を考慮すれば数百メートル
徒従者を後続させても時を置かずに合流できる
0586人間七七四年2013/12/22(日) 13:58:15.29ID:ahA5y8Hl
戦国の騎馬は言う所の重装騎兵だから正面衝撃力がメインで機動力は重視されない
また軍旗物に出てくる「先駆けの足軽」をツヴァイヘンダーの類と見れば
歩兵が槍を切り払った後に騎馬が突撃する戦法も普遍的だったと考えられる
0587人間七七四年2013/12/22(日) 14:31:59.18ID:1RFhliqs
>>586
>重装騎兵
日本の騎馬武者の武装って
革と竹?で組み合わせたスケールメイルと篭手と脛当て
と片手剣(太刀って短いんだよな)もしくは騎槍じゃなかったか?
盾も無いし、戦車の代わりにはならんだろ?
それに銃器が普及してからなら馬上の重装兵なんか只の的だし。
0588人間七七四年2013/12/22(日) 14:45:42.83ID:ahA5y8Hl
ちょっとは調べてからレスしようよ
0589人間七七四年2013/12/22(日) 20:06:17.91ID:jEBE5W8H
基本的な事だけど戦術理論上の衝撃力と打撃力(火力)は別概念なのよね
0590人間七七四年2013/12/23(月) 14:46:35.09ID:8A0Y5EoJ
戦術上の衝撃力にはその場の空気が大事
0591人間七七四年2013/12/23(月) 18:26:13.51ID:kUzmoyl/
だから戦国時代の騎馬武者の得物はいったいなんなんだろう
弓かポン刀か槍なのか
ちなみに手持ちのとある学研の書籍では、武田、上杉、北条の兵装比率は
北条が騎馬武者比率断トツだが、基本北条のドクトリンはお城にこもること
だから追撃にお馬さんは活躍したんか?
0592人間七七四年2013/12/23(月) 20:04:58.05ID:NT3lcp/i
>>591
自弁なので個人の自由
上記以外にも鉄炮・長刀・金砕棒etcetc
0593人間七七四年2013/12/24(火) 19:55:56.97ID:q5swGg9p
自由
使いもんにならんな
0594人間七七四年2013/12/25(水) 06:26:54.36ID:30f646xE
>>592
>鉄砲>金砕棒>長刀
一次資料(笑)に載ってそうだな。
そんな話をするから、戦闘時は下馬したって説がでんじゃねw
馬上で手綱離して両手武器が振れるわけないだろ
乗馬の首でも切り落とす気か?
東北の殿様のみたいな指揮棒を金砕棒なんて誇大表現するならまだしもw
鉄砲での馬上射撃にしたって先込の火縄銃って馬上で使えるかどうか考えてみれば良い。
0595人間七七四年2013/12/25(水) 09:29:23.77ID:zjJXOyVV
煽りのレベルが低すぎて付いて行けません
0596人間七七四年2013/12/25(水) 10:10:01.82ID:/YlqyjK8
じっさい伊達の竜騎兵もどきはどんな運用したんだろ
0597人間七七四年2013/12/25(水) 10:53:04.36ID:ZeQyeXWY
騎馬武者が常に騎乗戦闘か下馬戦闘のどちらかしか行わなかったという発想がダメ
0598人間七七四年2013/12/25(水) 11:13:55.11ID:/YlqyjK8
どうゆうシチエーションで騎乗戦闘し、下馬したのでしょう?
0599人間七七四年2013/12/25(水) 11:38:47.55ID:CFW01JRO
伊達家の騎馬鉄砲隊について知っていることを纏めなさい
0600人間七七四年2013/12/25(水) 11:58:18.69ID:ZeQyeXWY
>>598
例えば敵陣に突撃する時は馬に乗り、敵陣に侵入後は下馬したと
生駒利豊は関ヶ原合戦を回想した書状で語っている
0601人間七七四年2013/12/25(水) 18:25:21.91ID:30f646xE
>>596
単なる虚仮威し
行軍の時のはったり
0602人間七七四年2013/12/25(水) 18:30:37.32ID:30f646xE
>>600
書いてある通りだと
馬に乗って戦闘エリアに突入、交戦時には下馬してるってことだろ
騎乗での戦闘が有ったとは読めないな

つまり、移動時も馬の轡を取る従者がついて行って、戦闘エリアに入ると下馬し、馬は従者が確保しておくと

移動時は馬に乗って戦闘時は下馬したってことじゃんw
0603人間七七四年2013/12/25(水) 18:31:28.95ID:LmzGJUsA
>>602
お前は日本語が読めないらしいな
0604人間七七四年2013/12/25(水) 18:38:43.87ID:zjJXOyVV
構っても利益はない人種やねぇ。労力の無駄
0605人間七七四年2013/12/25(水) 21:33:04.73ID:ZeQyeXWY
>>602
味方と敵の陣が花いちもんめでもしているのかw
0606人間七七四年2013/12/25(水) 21:57:07.68ID:ianDC/QH
ID:30f646xEは荒らしだからスルーすべし
どのスレでも挑発しては喧嘩を売ってる
0607人間七七四年2013/12/26(木) 19:04:13.51ID:NJMWl1ai
「風が吹けば桶屋が儲かる」戦術

http://music.geocities.jp/jphope21/0203/39/266_1.html

徳川家康の戦術にあった。

( http://music.geocities.jp/jphope21/01/6/74.html )
0608人間七七四年2014/01/24(金) 20:00:12.77ID:nOJraPQP
久しぶりに来たらすげー伸びてたからワクワクしながら見たらだがかよ……
0609人間七七四年2014/01/27(月) 23:49:11.45ID:4LrPB4MN
私も期待して見たら騙された
アスペルガーだがウゼーからしゃしゃり出てくるなカス
0610人間七七四年2014/02/14(金) 15:54:22.14ID:qwYbg9rc
車懸りってなんで後世の軍記物の捏造ってことになったんだ?
突撃離脱を繰り返して長い間戦うのなんてよくあることだし、
突撃開始位置と目標が斜めになってたら普通に車懸りみたいな陣形に自然になると思うんだが
0611人間七七四年2014/02/14(金) 16:56:18.74ID:LWQyK/4z
無理に車懸り陣形を作ってそれが否定されるついでに
車懸りの存在そのものが否定された
0612人間七七四年2014/02/14(金) 16:58:01.09ID:b5FqVm+F
出典の甲陽軍鑑が一時期にまったく信用できないものとされたからだろ
あと検索してみれば上位にヒットするが車輪のようになってクルクル回りながら戦うという
誰もが否定したくなる戦術に改変されてるから

車懸り=順撃法、啄木鳥戦法=鉄床戦術
実際その時に使われたかは一次資料の裏付けがなく分からないが
戦術自体は否定できるようなものじゃない
最近の話だと三段撃ち否定論も似たようなものだな
0613人間七七四年2014/02/14(金) 16:59:03.62ID:7BjaOQEG
そもそも車懸りなんて宇佐美定祐の『北越軍記』『越後軍記』で初めて出てきた話だし
0614人間七七四年2014/02/14(金) 17:17:20.11ID:b5FqVm+F
北越軍談が出典ならまぁ信憑性はより落ちるわな
戦術自体はともかく
0615人間七七四年2014/02/14(金) 17:39:57.51ID:qwYbg9rc
>>611-612
あぁ画像検索で出るあのカタツムリの殻みたいなのはそりゃおかしいわ
0616人間七七四年2014/02/14(金) 18:23:06.75ID:qwYbg9rc
上の方のレスに備と陣形についての話しあったけど、欧州もこの時期はそこまで戦列を全体で整えたりはせず
中規模の各兵科を組み合わせた部隊をいくつも並べてそれぞれに行動させてたようだ

ニーウポールトの戦い布陣図1600年
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8a/Slag_bij_Nieuwpoort_%281600%29_-_2_Fases.jpg

80年戦争中期の軍制改革がある程度進んだ状態
当時は欧州最先端軍事国家の一つだったオランダのマウリッツが率いているのが左側の軍
右側はスペインのアルプレヒト
0617人間七七四年2014/02/14(金) 18:39:55.62ID:LWQyK/4z
欧州は兵科の最小は連隊単位だけど、日本は中隊内で諸兵科連合している
もっとも日本は大砲を除外しているけど
0618人間七七四年2014/02/15(土) 19:22:15.96ID:RtB6sEli
車がかり=五段瀬越ではないかの
車がかり=戦闘行軍的な意見を何度か散見して納得してるが
五段瀬は戦闘行軍に近い気がする
0619人間七七四年2014/02/15(土) 19:57:43.20ID:IwxXeTlF
五段瀬越の意味が分からない
0620人間七七四年2014/02/15(土) 21:58:01.52ID:cIAgOfDq
>>617
欧州も中隊は諸兵科連合風(混合?)です。

少し後の時代になりますが、
1692年10月1日制定、フランス軍歩兵中隊の下士官兵士定数
2名 軍曹(ショートパイク、ハルベルド)
3名 伍長(フリントロック・マスケット)
5名 anspessade/兵長または上等兵相当(フリントロック・マスケット)
10名 パイクマン(パイク)
13名 フュジリエ(フリントロック・マスケット)
21名 マスケッティア(マッチロック・マスケット)
1名 鼓手
下士官兵士合計55名
この内1〜2名(人数と人選は大尉の裁量)にライフル・カービンを装備させ、カラビニエとしました。
将校は大尉1名、下級尉官1〜2名

戦闘時に大隊(13個中隊)を組む際に中隊は一旦解体され、兵科毎に決められた配置に付きました。
大隊の中央から左右両翼に向かって、パイクマン→マスケッティア→フュジリエみたいに。
5横列(rank)、130縦列(file)、合計650名。
1個中隊が50名の計算になりますが、将校と鼓手の全て、下士官の一部は隊列の外側に位置したのだと思います。
横列やパイクマンが減っていますが、基本的にマウリッツの大隊隊形を踏襲。

中隊は兵の管理の為の単位であり戦闘時には解体されていた為、中隊が純粋な諸兵科連合とは言えませんが・・・
0621人間七七四年2014/02/15(土) 23:07:46.19ID:IwxXeTlF
日本は歩兵だけでなく、騎馬武者や小荷駄も含まれます
0622人間七七四年2014/02/15(土) 23:35:23.89ID:72cCEDpE
成り立ちは全然違うが和洋で大隊編成が基準になるのは面白いわな
0623人間七七四年2014/02/16(日) 07:59:24.07ID:qLksCDtT
指揮できる人数というのは人間の基本性能で決まるからね
0624人間七七四年2014/02/16(日) 08:03:53.48ID:dCcimD2h
一番不思議なのは気が生い茂った山岳地帯だらけの日本と、平地が多く水が少ない欧州の軍隊が
そこまで違いが生まれなかったこと

まぁ大きく欧州の軍事が発展する17世紀に、逆に日本は戦争が収束してしまったけど
もしあのまま戦争続けてたら、森林山岳地帯の日本でどんな戦術や軍制になってたかなぁ
欧州は銃兵の戦列でならんで撃ち合う狂気の戦術が発展したけど、日本の地形からいってそれはあまり合わないだろうし
0625人間七七四年2014/02/16(日) 09:06:34.85ID:qLksCDtT
手工業のライフル導入で、騎馬武者が竜騎兵化
足軽はより散兵化し擲弾兵も登場、砲兵は山砲がメイン

そんな所かと
0626人間七七四年2014/02/16(日) 12:07:37.90ID:kIIs6djl
山砲て分解して馬に積んで山々を移動できるやつだっけ?
0627人間七七四年2014/02/16(日) 12:20:41.91ID:0ZvCAPxc
つかヨーロッパって日本よりも遥かにキツイ基地外天嶮がそびえたってるんだが
日本では最もキツイのは信濃のアルプス地帯だが
ヨーロッパのピレネー山脈やアルプス山脈ウラル山脈バルカン山脈ロタール山地などの基地外天嶮は日本の物とは全く比較にならないレベルだし
0628人間七七四年2014/02/16(日) 12:22:52.59ID:dnhKGlv8
指揮できる人数は国力で決まるものでしょ。
同じ国力があれば、同じような兵力を動員できる。
毛利輝元だろうが秀頼だろうが上杉憲政だろうが徳川秀忠だろうが秀次だろうが
大内義興だろうが同じ。
0629人間七七四年2014/02/16(日) 12:29:01.77ID:0ZvCAPxc
動員であろうが指揮だろうが同じ。国力や基盤があって大軍を指揮できなかった武将なんぞいない。
今川氏真だろうが毛利アホ元だろうが石田三成だろうが
毛利輝元だろうが豊臣秀頼だろうが徳川秀忠だろうが一緒
指揮官の能力を超えた大軍とか意味不明
指揮官の能力があろうがなかろうが大軍の統率とは関係ない
無能な指揮官なら寡兵だろうが大軍だろうがうまく統率できないし
有能なら寡兵だろうが大軍だろうが統率する
指揮官の指揮能力不足で軍の数が多過ぎて統率が取れず負けた例なんてない
大軍のために統率がとれなかったのではなく純粋に指揮官の戦術能力や采配能力によるものでしょ
0630人間七七四年2014/02/16(日) 12:29:41.32ID:dnhKGlv8
大体大軍の指揮には高度な指揮能力が必要で難易度高いというなら最初から頼りになる部下だけ連れて寡兵で出撃すりゃいいだけじゃん
物資兵糧調達や兵站の面・戦後の恩賞の面・行軍のスピード・機敏性など圧倒的に寡兵のがローコストでメリットも大きいんだし
それにもかかわらず毎回寡兵の敵に向けて大軍でたくさん物資や人件費かけてはるばる遠くまで出撃してるのはそれだけメリットが大きいんだろ
所詮大軍の指揮がどうとか妄言やいいわけにすぎん。
0631人間七七四年2014/02/16(日) 12:31:03.81ID:Yfy9opjo
「大軍」は「寡兵」よりも圧倒的にアドバンテージであって、統率が難しいのではなく統率失敗するような武将は無能というだけ。

信長でも家康でも信玄でも敵が大軍であればあるほど、味方は寡兵であればあるほど苦戦や敗戦は増えてる
戦争なんて物量や兵力が圧倒的にものをいい、兵力の2乗は実際の戦力になる。
寡兵側が勝つには特別な戦術で敵を自陣深く釣り込んだり油断ついて奇襲したり地形をうまく使って包囲殲滅したり
偶発的条件、幸運などに恵まれない限り無理。普通にガチンコでやりあえば山地だろうが渓谷だろうが平野だろうが100%大軍が勝つに決まってる
純粋に相手も大軍だったか寝返り・日和見(指揮能力以外の要因に起因する)が主要因だったか
「兵の数と関係なく」指揮官の指揮・采配・戦術・戦略面に問題があっただけじゃんって言ってるだけなんだが。
(関が原の戦いが6000対7000の戦いだろうが、史実のように裏切り・日和見があれば間違いなく負けてた)
0632人間七七四年2014/02/16(日) 12:31:55.55ID:dnhKGlv8
普通の頭で考えれば地形に関係なく普通に正面からガチンコで戦えば大軍側が勝つに決まってるじゃん
20対10で戦った場合10人の方は結束したとしても20人分の攻撃を10人でうけなきゃいけないけど
20人の方は10人分の攻撃を20人で分散できるから一人のダメージ比は4対1だし
寡兵側が勝ってるのは相手の油断をついて奇襲・敵を自陣深くうまく釣り込んで殲滅・ポエニ戦争みたいに敵の左右の陣を突破して
包囲殲滅など優れた戦術や敵の油断をつくなど、かなりの指揮采配能力の差や、偶発的事故などが続くなりしないと無理。
普通に正面衝突すりゃ大軍側が100%勝つに決まってる
0633人間七七四年2014/02/16(日) 12:33:54.42ID:qLksCDtT
>>627
当たり前のようしそれらを越えて、戦争するのが日本
0634人間七七四年2014/02/16(日) 12:45:49.48ID:dnhKGlv8
外国の方が遥かにガチで行われてるだろ。
日本の戦国期よりもはるか昔のポエニ戦争の時代ですら何十万もの大軍が
日本のそれより遥かにキツイガチンコ天嶮をまともに乗り越えて戦争とかやってるし
日本のショボイ天嶮なんて、アトラクションの息抜き程度でしかないだろ
0635人間七七四年2014/02/16(日) 12:47:44.31ID:Er5c9uPu
別に地形補正で侵攻側不利って事はないな
織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない



どうみても武田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
0636人間七七四年2014/02/16(日) 12:50:36.03ID:+dAhUbAD
菅沼遼太のキチガイはこんなところにまでくんのかよ
0637人間七七四年2014/02/16(日) 13:01:58.36ID:v9gVhPmK
>>634
北斗の拳に出てくるモヒカンの縄張り争い程度の、室町〜江戸の空白時代の内ゲバと国家間の戦争を同列にしちゃいけない
0638人間七七四年2014/02/16(日) 13:31:33.37ID:qLksCDtT
>>634
どこを通り抜けたという話なんだが
0639人間七七四年2014/02/16(日) 13:34:09.45ID:+dAhUbAD
キチガイの自演うんこだから触るだけ無駄
0640人間七七四年2014/02/16(日) 14:37:34.90ID:DmF0+SFm
>>627>>634
そんなところで大軍の戦いなんてしてない。
イタリア北部のガリア人とスペインのアルモバガルが少数でいたくらい
ローマに大移動してきた各部族の戦域ですら山岳は少なく、中世以降はハプスブルク勢力を筆頭に通ることすら極力避けてる
ウェールズやスイスの山岳地帯は可能な限り戦役を拡大させない方針でいってる

というか普通に考えてそういう天然の要害でわざわざ軍を展開したがるような将は欧州では少なかった
避けれられるなら当然避けただけ、日本は国土の大半が山や森で避けられなかった

ちなみにアルプス越えしたのはハンニバル以前には一人もおらず
その後近世になってスヴォーロフがこえるまでほぼ誰も軍を率いていっていない
0641人間七七四年2014/02/16(日) 14:46:02.66ID:DmF0+SFm
アルモバガル ×
アルモガバル ○

アルモガバルの軽装山岳兵は優秀で、遠くビザンチンまで派遣されて、雇い主に裏切られて殺されかけたところ
返り討ちにして王国作ったり、重装歩兵や重装騎士ぶっとばしたりしてる

山岳地帯で隊列が細くなりやすいことや、重装備の兵は動きが鈍くふところまで飛びこめば弱いことから包丁みたいな太い短剣を装備して殺しまくった
足場がしっかりしていない地域での騎馬の弱点を知っていたようで、湿地帯に騎士をおびきよせたりして倒した
0642人間七七四年2014/02/16(日) 15:56:47.01ID:p2THHmWy
>>640
日本の会戦でも、山岳部での戦闘なんてごく一部で大半は平野部で行われてるよ。
特に大軍同士の衝突だとまず山岳部なんて使われない。
0643人間七七四年2014/02/16(日) 16:07:39.01ID:eqHcQp7J
ナポレオンもヒトラーも十字軍もハンニバルも日本の何倍もあるヨーロッパの基地外天嶮を越えまくって
大軍で戦争しまくったんだが。
ポエニ戦争のときでいうとローマからスペインに派遣されたローマ型将官もかなり遠征してるぞ
0644人間七七四年2014/02/16(日) 16:14:51.88ID:Yfy9opjo
大軍が展開できないような天嶮なんて日本にないだろ
信濃のアルプス地帯でも信忠らが侵攻してるし
山陰山陽道だって毛利や大内などが何回か大軍で通ってるし
単に生産力が低いか相手が手ごわくて後回しにされただけ
0645人間七七四年2014/02/16(日) 16:18:44.38ID:dnhKGlv8
こうしてみると信玄はやっぱりすごいよなあ
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
0646人間七七四年2014/02/16(日) 16:23:42.35ID:Yfy9opjo
日本みたいなショボイ雑魚天嶮と違って
日本の戦国期よりもはるか昔でも、古代ローマのコルネリウス兄弟は当たり前のように
ローマからアルプス山脈やピレネー山脈越えて楽勝でスペインに行って戦ったりしてるからな。
ハンニバルじゃなくても誰くらいそのくらい余裕だったって事だろ。
それよりも遥かに近距離でのショボイ戦同士の戦いだった日本の戦争を天嶮だの山岳戦だのいうのはおかしい。
現に武田の織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて少ない兵力にもかかわらず侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
0647人間七七四年2014/02/16(日) 16:28:04.18ID:dnhKGlv8
戦下手といわれる北条ですら上野や下野のキツイ山間の諸城上杉との争奪戦などで何回も落としてるし
上杉も遠征のたびに上野下野などの山城落としまくってたからな
武田なんて山間部のキツイ山城一日に16も落とすほどだったし
0648人間七七四年2014/02/16(日) 16:36:52.22ID:Er5c9uPu
ハンニバルの弟のハシュドゥルバルも余裕でアルプス&ピレネー超えしてローマ入りをやってのけてるよ
0649人間七七四年2014/02/16(日) 16:43:10.12ID:DmF0+SFm
>>642
すいませんわかりにくかったですね
>日本は国土の大半が山や森で避けられなかった
ってのは大軍同士がゆっくり対峙してやる会戦じゃなくて、
日本はそもそも山岳を通らない迂回が難しく、そのため戦闘が山岳地帯もしくはその裾野で起きるのはおかしくなかったってことです

進軍中に山城と拠点から出撃してくる兵に邪魔されるリスクがあり、小競り合いを含め、奇襲に使えた
そういった戦闘が避けにくかったのが山岳国家の特色で、日本と欧州の大きな違いじゃないかなと思うんですよ

スイスやウェールズ除けば、欧州は山岳からちょっと離れれば平野だし、わざわざ裾野通って敵と接触するリスク犯す必要もなかった
例えばバイキングがそれで城などの拠点防衛を無視して長期間にわたって縦横無尽に荒らし続けたとか
0650人間七七四年2014/02/16(日) 16:49:41.12ID:DmF0+SFm
>>643>>646>>648
恐らくアルプスの東西の道を通ったのを、アルプス越えしたのだと勘違いしているのだと思われます
その地点を拠点防衛するのが常道だったからこそ、アルプス越えが奇襲効果として大きく欧州戦史に刻まれてるんです

詳しくはスヴォーロフのアルプス越えについて調べればよいかと
0651人間七七四年2014/02/16(日) 17:07:52.15ID:3oS3RPiA
>>649
日本の戦国期の合戦にみても
>進軍中に山城と拠点から出撃してくる兵に邪魔されるリスクがあり、小競り合いを含め、奇襲に使えた
それをやってる戦争ってほとんどないよ。
特に大規模会戦となるとほとんどが平野部で、山城とか出撃兵とか余り関係ない。
つか、攻められるべきポイントはたとえ山城でも出撃兵がいようとも普通に出撃して攻めたりしてるし。
信玄や謙信の戦争なんてそれこそ山間部の比重がかなり大きかったし
北条も毛利も山間部を大軍で攻めたり普通にしてる。それで小規模兵の奇襲とか邪魔が入った例とか
侵攻を阻まれた例ってあまり思いつかないんだけど、何かあったっけ?

つか、ポエニ戦役の時でも
山や川など地形を使って敵を殲滅してる戦術がなくもないわけで
日本もヨーロッパも本質的にはかわりないよ。
ただ日本の場合は城や砦など小規模城郭の取り合いという特質があったから
小競り合いが生まれる機会は多かったかもしれないけど。
0652人間七七四年2014/02/16(日) 17:27:12.12ID:9iyML+Ej
>>646
このスレで嘘は通用しないよ
戦国時代を学びなおせ
0653人間七七四年2014/02/16(日) 17:37:02.92ID:4nqNHhrl
646はアスペルガーだが
嘘もごり押せば真実になると勘違いしてる嘘吐き荒らし
0654人間七七四年2014/02/16(日) 18:35:31.33ID:DmF0+SFm
触れちゃいけないのに触れてしまってすまぬ
0655人間七七四年2014/02/16(日) 18:59:15.06ID:p2THHmWy
>>646って思いっきり事実じゃん。
嘘は>>649>>650
0656人間七七四年2014/02/16(日) 19:00:34.07ID:Er5c9uPu
>>640-641>>649>>650は織田厨が垂れ流した妄想
>>646>>645>>651が事実。
0657人間七七四年2014/02/16(日) 19:13:19.09ID:4TeMn+13
じゃあ俺が>>646が正しいか嘘か検証してみよう

>日本みたいなショボイ雑魚天嶮と違って
>日本の戦国期よりもはるか昔でも、古代ローマのコルネリウス兄弟は当たり前のように
>ローマからアルプス山脈やピレネー山脈越えて楽勝でスペインに行って戦ったりしてるからな。

運確かにそうだね。コルネリウス兄弟はローマからはるか天嶮のアルプスピレネーを越えて
スペインまで行って長期間戦争やってる。
ちなみにハンニバル側も弟が来たりして、ピレネーやアルプスを越えて侵攻してきたりしてる。

>ハンニバルじゃなくても誰くらいそのくらい余裕だったって事だろ。

確かにやってる奴は多いよね。
ナポレオンもバルカン山脈超えてバルカン半島に攻め入ったりしてるし。

>それよりも遥かに近距離でのショボイ戦同士の戦いだった日本の戦争を天嶮だの山岳戦だのいうのはおかしい。

確かに乱暴な言い方だけど、大筋では間違ってないね。日本の山脈とかて天嶮なんてヨーロッパのそれとは比較にならないし
中国などと比べても低い山々ばかりで最も険しい山城が並ぶ信濃や上野ですら武田上杉北条などが馬鹿みたいに楽勝で落としてるよね。
堅城とかデッチあげられてる岐阜城なんて6回もあっさり落ちてるし。

>現に武田の織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて少ない兵力にもかかわらず侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
>大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな

確かにそうだね。これと言って間違ってない

>長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
>ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
>山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
>まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
>以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない

長篠の戦いの経過だけやや疑問符がつくが、まぁ長篠日記を参照するなら正しいといえるね。
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