【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
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0001人間七七四年
2012/08/04(土) 23:21:52.40ID:o+bXyiEt決戦兵力としての予備兵はいたのか
車懸りとは? 鶴翼や魚鱗? 付城、野戦築城とは?
意外と謎だらけな戦国時代の軍事学について色々と語るスレです
0492人間七七四年
2013/11/26(火) 19:52:48.85ID:k35iQE2N菅沼遼太恥ずかしい自演乙
君の様な嘘吐き荒らしはこのスレに居着いたらいけない
かまってもらいたいならだがスレにお帰り
0493人間七七四年
2013/11/26(火) 21:30:49.19ID:dtcPhMFn昨日レスした>>428です
軍事学の話を進めるのはいいけど取っ掛かりが思いつかず
というわけで>>433氏がレスした内容からでいいかな?
徳川が敵対関係の武田に戦略を練っていたのは当然と考えます
しかし北条も友好関係の武田ではあるけど戦略を練っていたんじゃないかな?
United StatesのCalor-coded War PlansではWar Plan OrangeだけではなくWar Plan Redも存在している
まあ北条はUnited Statesではないので絶対とまでは言い切れないけどね
それでも御館の乱で武田が北条を裏切ったため交戦状態に突入する
ここまで来たら対武田戦略も上野だけではなく甲斐も含まれたはず
ただ主戦場は駿豆方面と上野方面ですので甲斐や相模が主戦場にならなかったのは双方とも総力戦を避けたと解釈してます
武田は徳川との戦いが北条は佐竹との戦いがあるから消耗戦を警戒したんでしょうね
対武田戦略(甲斐方面)の手法の差は歴史的にも長く重要性も高い徳川の方に分があるのは同意です
0494人間七七四年
2013/11/26(火) 23:00:17.34ID:cM6/mb1H甲江同盟の影響で双方とも警戒を緩めていて武田は対北条戦に全力で臨んでいた。
一次資料みても武田は景気いい話ばかり書いてるし高天神城を落されるとも全く予想していなかったようだ。
北条は北条で二年連続で甲斐に侵攻したり(撃退されたが)
駿河伊豆国境の長窪城を陥落させたり反撃をやるにはやってる。
ただ佐竹結城宇都宮といった連中に下総や下野や上野や南常陸などを攻撃されまくり
戦力が分散状態だったため、全体的には劣勢で、関宿防衛のために築いた飯沼城を攻略されたりしてた。
0495人間七七四年
2013/11/26(火) 23:51:07.12ID:4XZ9TqtT応答ありがと>>433です
武田は徳川に苦戦してたし出兵し過ぎで財政破綻してたから相模攻めは不可能という背景もある
北条は武田みたいにやたら出兵しなかった分先が見えた戦略を持っていたかな
長期消耗戦では武田より北条の方が役者が一枚上手
0496人間七七四年
2013/11/27(水) 20:17:57.66ID:7ot5VLKw昨日レスした>>428です
>北条は武田みたいにやたら出兵しなかった
武田が最初から攻勢に出た理由は早期終結を目指していたからではないかな?
北条と合戦を始め徳川とも交戦状態が続いているのに織田が本腰入れて戦闘再開したら武田の滅亡は免れない
北条の方は織田の様な敵対強国が背後にいるわけでもないから慌てる必要もない
織田の存在が武田の戦略の足枷となっているのは間違いないでしょうね
そもそも武田は織田が本腰入れて攻めてこなかったことにいいことに胡坐をかいていたね
織田と戦い抜くか和睦するかどちらでも構わないけど何か手を打つべきだったと思う
本願寺が織田と和睦したことで織田の足枷が外れ武田家中でも動揺が起こる
高天神城を見殺しにしたことで武田の後詰能力低下が世間に晒されることになる
これで木曾や穴山の心は離反に決したと言えるよね
何で武田は織田との関係を中途半端にしちゃったんだろう?
0497人間七七四年
2013/11/27(水) 21:11:18.86ID:SCQb2YzQ>>496
織田単独で攻めてきても武田滅亡は確実だから早期終結を目指す方が当然ですな
武田も徳川の遠江侵攻に対応してたのもあるけど無策と言われても仕様がない
本願寺が織田をなんとかしてくれる他力本願な考えも持っていたんだろう
0498人間七七四年
2013/11/27(水) 23:35:02.27ID:iGfNALaiむしろ家康の方が田中城の依田信蕃に最後まで歯が立たず
高天神城も同盟詐欺の隙をついて火事場ドロしただけだし
それまで2年余りも苦戦続けてたじゃん。
それに相模は直接攻めてないけど
それ以外の北条領である武蔵・上野・伊豆は攻勢かけまくってたし
上野は東部の由良長尾富岡領以外全て武田の物になってる。
由良や長尾も武田の攻勢の結果、北条から離反しつつあったようだしな
0499人間七七四年
2013/11/27(水) 23:59:09.52ID:Cs+EsEOM天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるしそのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して 遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。 つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら 突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて 南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
0500人間七七四年
2013/11/28(木) 00:23:43.58ID:y4AbZ/fe景勝が同盟を持ちかけた時に、
謙信が遺していた莫大な金塊に、
財政破綻していた勝頼の目が眩んだとする軍記の記述が元ネタだからな。
0501人間七七四年
2013/11/29(金) 19:57:34.25ID:CQUoMiAe昨日レスしなくてすみません>>428です
>武田も徳川の遠江侵攻に対応してたのもあるけど無策と言われても仕様がない
武田的には徳川の6月侵攻が痛かったかもしれませんね
武田は8月に出陣するも時すでに遅く遠江の多くの城を失ってしまう
織田と武田はこれを見て武田の後詰能力が麻痺していると判断し武田領へ侵攻
動きが取れない武田は岩村城や二俣城を見殺しにしてしまう
武田の内情はここに露呈され織田は本願寺との戦いに専念し徳川に武田を任せる
徳川は単独で武田と戦いを進め犬居城を奪還し北遠の武田勢を一掃
徳川の連戦連勝に武田も高天神城だけは確保しておきたいと考え熾烈な争奪戦が始まる
武田も信濃ルートが確保できていたなら両面戦略が採れたけど駿河ルートだけでは厳しいね
>本願寺が織田をなんとかしてくれる他力本願な考えも持っていたんだろう
当初はそう考えていたでしょうね
本願寺だけではなく毛利や上杉という東西の強国の支援もあったし
上杉が織田を滅ぼしてくれるはずと考えていたかもしれません
この辺の焦りが御館の乱の無意味な梃入れ行動につながる様な気がします
0502人間七七四年
2013/11/29(金) 20:23:10.25ID:sO4Ba+xD>>501
いえいえ毎日レスする必要はありませんよ
気が向いた時でいいと思います
武田の後詰能力の低下は長篠の後遺症ですな
これ以降武田は軍役量を増加させて領国経営を悪化させる
領民への負担も激しくなり欠落が続発する
上杉期待の話はなるほどと妙に納得ですな
0503人間七七四年
2013/12/02(月) 19:58:41.25ID:oXUQVLKkいつもの>>428です
>武田の後詰能力の低下は長篠の後遺症ですな
それでも武田が岩村城、二俣城、犬居城を奪還しなかったのは正解と考えます
後詰能力が無いのに無理して奪還しても拠点維持は困難ですからね
あと高天神城も早めに放棄もしくは徳川に返還すべきでした
北条を裏切るなら徳川と和睦すべきでここに武田の限界を見ることができる
多くの家臣を失ったことは家督継承や遺領安堵に多大な時間を費やしたことを意味する
この点でも武田は軍事活動の制限を受けている
しかし天正5年頃から徳川との合戦を本格的に再開する
勝頼は武田軍の早期再建に成功しここは評価できると思う
0504人間七七四年
2013/12/02(月) 22:48:52.19ID:SgYsGM1G結局、城将の依田信蕃の言いなりに従った開城条件の丸飲みの
実質、家康の土下座状態だったじゃん。
なんせ二俣城の城兵は温存されたまま、田中城へ移転引越ししただけだからね。
どうして田中城への移転を決意したかといえば、同時期に勝頼が、
来年に当家は乾坤一擲の勝負を織田・徳川とするって決意を示して
来年の決戦に向けて戦力の大幅整理再編をしていたから。
武田滅亡時でも家康が国境にあったスタート地点の田中城を自力で落せずに大苦戦。
遅れて出陣してきた北条は伊豆を軽快に西進してきたことが
穴山の降伏原因というくらい北条に名を成さしめたくらい
進軍ストップで最後にはまた落城ではなく、開城だったくらい超苦戦しているところからして
二俣城で依田信蕃を討てなかったことは家康最大の恥辱だった。
武田旧臣で籠城と調略の天才だった依田信蕃がいなかったら、
甲斐府中でビビって引きこもっていた家康は北条に大敗して
甲斐も信濃も手に入れることは出来なかった。
依田信蕃はもっと評価されるべき名将。 依田は武田軍団内でも随一の名将だからな。
孤軍奮闘の田中城で結局最後まで徳川方相手に粘り勝ったし、
天正壬午やその後の佐久郡平定戦でも大活躍したからね。
家康の威圧にもまったく屈せず勝頼死去確認と穴山からの開城勧告を得て
やっと開城したほど徹底抗戦したので、依田の旧武田遺臣からの信用性抜群だったのが
幸いして調略がうまくいっていたからね。
特に信濃に進出していた北条軍の背後を遮断するべく佐久郡に戻ってきた依田が
9/28真田家を調略したのは大金星
これがおきて北条は窮してしまい、1ヶ月後の10/29には北条と徳川の和睦成立だからね。
9/13の段階では宇都宮氏を相手に家康は劣勢のあまり、
秀吉と丹羽長秀と柴田勝家がもうすぐ援軍にくるから北条なんて掃討できる
などと、大ウソを吐いてまで、自陣営が見限られないように
必死に佐竹など北関東連合を繋ぎとめてるほど劣勢だったからね。
0505人間七七四年
2013/12/02(月) 23:34:34.79ID:rohCDgos国力的には織田+徳川+上杉で対武田に臨める(上杉は直接攻めてこなくても上野や信濃の後詰が必要)なので
長篠で武田が大損害受けたのならば織田徳川は片手間でも武田を瞬殺して滅ぼすには十分すぎる状況といっていいが
史実でが孤立無援の状態ですら岩村一城に半年かかっても攻め落とせず、最後は騙まし討ちで卑怯に陥落させただけだし
徳川も二俣城を取り返したくらいで、遠州の中部からは全く進めていない。
この事からいえるのは武田が織田よりも圧倒的に戦闘が強いか、あるいは長篠でほとんど損害がなかったかどちらかだろう。
信長は謙信に宛てて信濃にうちいる事肝要とか、上杉と協力して信濃攻めをしたがってたが、
謙信が上野に出兵してもそれと呼応して信濃攻めする事すら、岩村城など東美濃の拠点に手こずったせいで叶わなかったし
0506人間七七四年
2013/12/03(火) 00:29:24.69ID:5CP+97Q0家康は不甲斐ないと言われるのはやむを得ないかも知れないが。
0507人間七七四年
2013/12/03(火) 01:15:29.00ID:hrZ731b9信長は謙信と共同で信濃にうちいる気満々で、そのために信忠に大軍与えて
岩村など東美濃を攻略させたがこれに予想以上に信忠が苦戦しまくり信濃攻めどころじゃなくなっただけ。
東美濃を奪回しない限り信濃にうちいる事は不可能だが、信忠は大軍で孤立無援の岩村城を自力では半年かかっても攻め落とせず
騙まし討ちにしないといけない無能ぶりを発揮してたからな。
0508人間七七四年
2013/12/03(火) 01:21:34.58ID:O1uaYL7E北条氏政の要請に従い上野方面に出兵してたようだ。
つまり長篠の敗戦後も勝頼は織田や徳川なんて全く相手にせず謙信を第一の敵と見定めて
北条との協調を重んじ、上野に出兵する余裕があったと言う事。
そのくらい長篠合戦では武田がほとんど被害を受けてなかったという事だろう。
織田と徳川の国力なら3ヶ月以内もあれば、上杉との協調があれば武田を滅ぼすなんて容易い事だし
長篠で大ダメージ受けたのなら、この好機を信長が見逃すはずがないからな。
だが実際には岩村一城を奪回するのすら半年使っても実力では奪回できず、騙まし討ちに頼るアホっぷり。
0509人間七七四年
2013/12/03(火) 08:56:21.95ID:8VaP3VPyお前、後詰戦略なんて軍記から妄想したデタラメだぞw
んなもん一次史料には一切、それらしいものは出てこない。
それに勝頼の援軍がまもなく来ると聞いて、
あせって秋山を詐欺にかけて岩村城を開城させただけで、
信長は騙くらかして、やっと美濃一国を平定しただけだろ。
どんだけ尾張から北上を始めて美濃統一に時間かけてんだ。
完全に無能だろ。
天皇や将軍の権威が通用した畿内ならそりゃアホでも利用すりゃ簡単だろうが、
通用しない辺境の美濃はこんなていたらく。
0510人間七七四年
2013/12/03(火) 14:46:03.12ID:YPrlRprw岩村城見捨ててない。
0511人間七七四年
2013/12/03(火) 18:46:19.30ID:vmrx5YoH長篠前後で織田徳川の勢力が大なり小なり拡大して武田の勢力が衰退したのは紛れもない事実
0512人間七七四年
2013/12/03(火) 20:39:25.28ID:DeuSQlmb>>503
武田にとって高天神城は足枷以外の何物でもない
織田と戦う気がないならとっとと徳川と和睦すべき
徳川との同盟を北条に先を越されたのは間抜け過ぎ
勝頼が武田軍の早期再建できたのは徳川に負けない程度まで
徳川に勝つまでの再建は最後までできていないね
二俣城や犬居城なんかは最後まで奪還できなかったのがその証ですな
0513人間七七四年
2013/12/03(火) 21:12:01.13ID:MasbcwuRいつもの>>428です
>織田と戦う気がないならとっとと徳川と和睦すべき
>徳川との同盟を北条に先を越されたのは間抜け過ぎ
織田に大敗して和睦を請うでは武田の面目が丸潰れだから難しいかも
いっそのこと勝頼が討死していた方が外交の方針転換できたかもね
外交に関しては勝頼より氏政の方が一枚上手と思う
氏政にしてみたら武田に裏切られるのは2回目だから「またか」って感じかな?
>徳川に勝つまでの再建は最後までできていないね
これは同意
武田は長篠合戦以降失地回復ができないまま滅亡に追い込まれてるしね
北条との戦いが武田軍のさらなる再建を不可能にさせたと思う
0514人間七七四年
2013/12/03(火) 21:25:10.24ID:DeuSQlmb武田の北条を裏切る姿を見せつけられたら同盟相手に選らばない気が
信玄と変わらない勝頼の外交感覚に血は争えないと誰もが思ったことだろう
0515人間七七四年
2013/12/03(火) 22:34:56.90ID:BymGPPp4長篠でもし武田が大損害蒙ったというなら国力的には上杉織田徳川なら謙信が積極的に討ってでなくても
織田徳川で武田を瞬殺するには十分すぎるからな。
なのに実際には岩村一城奪回するのすら、半年かかっても自力で落せず騙まし討ちに頼るアホっぷり。
これでは長篠合戦で武田が大損害蒙ったというのは無理がありすぎる。
信長は謙信に積極的に信濃攻めを要請してたから、織田厨が言うように武田戦線を軽視してたというのはありえないしな。
武田征伐の時もかなり警戒して勇んでどんどん先に進んではならんとか書いてるし
0516人間七七四年
2013/12/03(火) 22:36:47.26ID:eJKw7hR0時間をかければ相手も戦力回復するだろうし実際北条との同盟決裂後関東に出兵しまくる程
戦力は戻ってる。
それなのに長篠合戦後の織田軍の行動が岩村奪回程度に終わっており、
その後は一寸たりとも、武田から領土を切り取っていないのが織田。
また、武田攻めの際の信長の武田への警戒心から見ても、相当長篠では武田の強さを見せ付けられたと思われる。
ちなみに当時の織田は徳川や上杉との対武田での協調や同盟があるため
本願寺攻めに三万〜4万ほどを割いても徳川上杉と結託して攻めれば
傷ついた武田ごとき滅ぼすには十分すぎる国力と兵力差だと思われる。
信濃口や飛騨口が地勢的に攻め入るのがキツイなら駿河口でも伊那口でもどこでもいいしな
0517人間七七四年
2013/12/03(火) 22:37:56.37ID:G16CJgrM実際問題7年も間が開いててその間関東に出兵したり御館の乱に介入したりする余裕もあったし
時期的、状況的に考えて全くといっていいほど関係ないだろ。
時期的・状況的にいえば甲江同盟の成立や、それを反故した織田の騙まし討ちや、北条や徳川との対戦、北条の甲斐侵攻に備えた新府築城などと
結びつけて語られるべきなのが武田滅亡。
0518人間七七四年
2013/12/03(火) 22:42:36.09ID:N6vreS6J北条と協調しての、謙信との上野での攻防を優先した結果であって、長篠合戦とはあまり関係がないだろ。
武田は同時に遠江も徳川に攻められてて同時に兵を出すなんて国力的・状況的にキツイしな。結局どちらかをとって
どちらかを捨てるかって話になって、より本国から遠く、維持の難しい東美濃の後詰を後回しにしただけ。
黒田基樹氏によれば天正3年の長篠敗戦後の勝頼は上杉謙信の関東攻めに対応するため
北条氏政の要請に従い上野方面に出兵してたようだ。
つまり長篠の敗戦後も勝頼は織田や徳川なんて全く相手にせず謙信を第一の敵と見定めて
北条との協調を重んじ、上野に出兵する余裕があったと言う事。
そのくらい長篠合戦では武田がほとんど被害を受けてなかったという事だろう。
織田と徳川の国力なら3ヶ月以内もあれば、上杉との協調があれば武田を滅ぼすなんて容易い事だし
長篠で大ダメージ受けたのなら、この好機を信長が見逃すはずがないからな。
だが実際には岩村一城を奪回するのすら半年使っても実力では奪回できず、騙まし討ちに頼るアホっぷり。
0519人間七七四年
2013/12/03(火) 22:45:10.94ID:sldQMTwm0520人間七七四年
2013/12/03(火) 22:45:43.87ID:X+wCZdnU岩村を半年かけて騙まし討ちで奪回、二俣城を奪回程度の戦果じゃ長篠での武田の損害を証明する材料にはならないね。
武田が長篠で無傷だったとしても両勢力の規模からいえばそのくらいできて同然だし
長篠で武田が大ダメージ負ったのなら、それこそ2ヶ月程度で瞬殺できていいくらいの国力差だしな。
0521人間七七四年
2013/12/03(火) 22:46:48.19ID:eJKw7hR00522人間七七四年
2013/12/03(火) 22:55:17.37ID:sH/p6Gy/あとは徳川に任せればいいと思ったら
案外無能だった家康
0523人間七七四年
2013/12/03(火) 23:21:31.71ID:ELoUdqwt援軍なしの孤立無援の状態ですら岩村一城に半年かかっても攻め落とせず、最後は騙まし討ちで卑怯に陥落させただけだし
徳川はわりと早く遠州での勢力を盛り返したのに対して織田は自力じゃ半年もかかっても奪回が叶わなかったし
勝頼は遠州に出兵してたから、東美濃はスカスカ状態で見捨てられてたにもかかわらず容易には落ちなかったし
0524人間七七四年
2013/12/03(火) 23:25:41.62ID:A8Hxv4PH大軍を与えられて出兵した信忠が東美濃で半年ももたつく無能っぷりを発揮したため
到底かなわず、上杉は信濃ではなく上野に出兵する事になるんだよな。
勝頼も東美濃は全く落ちる気配がなかったため、上野や遠江の上杉や徳川戦線ばかり気にしてたし
信長は武田攻めの時も、長篠や岩村合戦でのトラウマが相当大きいのか、離反連鎖で崩壊状態の武田領に攻め入る時ですら
勇んで進みすぎるなとか注意しまくってたし。
0525人間七七四年
2013/12/03(火) 23:27:10.08ID:MasbcwuRID見ればわかりますが>>428です
>武田の北条を裏切る姿を見せつけられたら同盟相手に選らばない気が
仰るとおりですね
戦国時代の裏切り外交は悪いとは言わないけどあの状況で北条を裏切るとかありえないしね
武田は致命的な失敗で当然の様に滅亡したから結果から見ても当然と思う
0526人間七七四年
2013/12/04(水) 01:27:57.78ID:8Xvt0vj5それに犬居城に関する一次史料はほとんどないから、
よくわからないのが正答回答なのに妄想願望話を書いてて頭がおかしいのか?
0527人間七七四年
2013/12/04(水) 08:01:46.41ID:a0sMQX5I北条信者の妄想の根幹である
0528人間七七四年
2013/12/04(水) 10:34:20.56ID:vbdrQIWg御館の乱で北条が先に裏切ったってどんな話
>>525 初参戦したものです
あの状態で北条を裏切った勝頼はセンスないなと思いますが、北条も少し手ぬるすぎ
というかセンスないと思います。なぜもっと全力で傾注しなかったんでしょう
0529人間七七四年
2013/12/04(水) 11:25:22.76ID:2h+iwFfH全く一次史料が出てこないなw
このスレは軍記講談を元に、戦略や戦術といった軍事学を語る妄想低脳スレでワロタw
長篠の戦いで誰が死んだって?一次史料の根拠付きで頼むわ。
北条が先に裏切ったのに、なんで武田が悪いことになってんだwお前アホだろw
0530人間七七四年
2013/12/04(水) 11:27:37.52ID:Kib7Azii0531人間七七四年
2013/12/04(水) 11:39:27.94ID:vbdrQIWg略術の整合性からぐ軍記の内容を否定したり肯定したりそれでいいんじゃないか
北条がどう先に裏切ったか教えておくれよ おねがいしますよ
0532人間七七四年
2013/12/04(水) 11:42:10.28ID:+UbBz1bB0533人間七七四年
2013/12/04(水) 11:52:26.05ID:iKkIRqXV岩村城見捨てるほどその信長にボコられた勝頼
その勝頼に苦戦した家康
まとめると
信長>>>>>勝頼>>>>>家康
0534人間七七四年
2013/12/04(水) 12:04:37.25ID:OalnIN6F勝頼に見捨てられた岩村城を数万の大軍で半年かかっても自力では落せなかった信長。
信長や家康をわずかな兵でもってまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
勝頼>>>>家康>>>>>>>>>信長
0535人間七七四年
2013/12/04(水) 12:06:35.56ID:AWcfonYE天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
0536人間七七四年
2013/12/04(水) 12:14:51.25ID:vbdrQIWgマナーが悪い人が多いからだ
キミも同じだ
0537人間七七四年
2013/12/04(水) 15:55:50.41ID:F47xHcj7家康が武田領を荒らし回り、 武田もついに徳川攻めに向かうと、 北条が激怒。
北条がむちゃくちゃで傲慢でしょ。 勝頼は最後まで北条の顔を立てて
景勝の援軍要請も拒絶して中立和睦方針で動いてる。
景勝が勝手に武田はこっちの味方と風聞ばらまいてるだけ。
そもそも景勝が勝頼に大金を送った話からして軍記話だし。
6/29に越後府中にいた勝頼は、真田昌幸宛てに北条が援軍出さないことに不満を表しています。
8/28北条の援軍がまったく届く報もないく、
この日ついに徳川の攻勢を無視できなくなり勝頼は越後府中を後にします。
勝頼撤退を知って丸投げしていた北条がやっと動いたと言うことでしょう。
この勝頼の越後府中滞在期間中、景勝と景虎の和平仲介の調停をしています。
9/24には景勝と景虎の和平が破綻したのを嘆いているし、
10/7には大熊と市川らが景勝の援軍依頼を拒否したりしてます。
その後は天正7年正月も普通に武田と北条は普通に年頭贈答もやってる。
天正7/3勝頼願文を掲げ北条の滅亡を祈祷&7/24佐竹義斯が勝頼が北条と断絶すると通告してきたと書状に書く
(元ネタは 下野佐野氏と「下野須賀文書」 黒田基樹著 か?)
黒田基樹によると、勝頼の構想は、甲相同盟を維持した上で、
氏政と景勝の同盟関係を構築し、同時に景勝と景虎の和睦を図っていたので
8/20に景勝と勝頼の同盟が成立していたような話を書いているのですが
妄想が含まれているようで、意味がよくわかりません。
また宮崎求馬氏所蔵文書によれば 2月の時点で北条氏は武田との戦いを考え警戒していたので、
5月には小田原城の普請を始めて軍事衝突に備えていたとも書いていました。
天正7年5月に氏政→由良成繁宛で、
景虎が死んでしまったので上野国は北条が差配するって書状を出していて、
この時点で外交上、北条が西上野の武田領の一掃を宣言したとされているが、
勝頼が北条滅亡を祈願してるのが事実とするならば、すでに北条と武田の関係は修復不可能になって
それぞれが同盟相手を探していたのかも知れませんね。
特にこの時期の後北条は由良氏に加増したり(5/6)
沼田城の河田重親の小田原参陣とともに不動山城への拠点移動を許可したり(5/9)と
上野国の防衛シフトを大幅再編成しており、武田を刺激した可能性もあります。
この期間、勝頼は4/6に毛利宛に出陣する約束の書状を出し、
8月中には実際、駿河へ徳川攻めで出陣しており、
8/20に勝頼と景勝が同盟を結ぶことが、まず考えられないということもあります。
0538人間七七四年
2013/12/04(水) 15:56:54.93ID:F47xHcj78月には家康を討つために駿河へ出陣してる勝頼がなんでわざわざ北条を裏切って
挟撃されるリスクを 自分から背負う必要性があるんだよ?
8月末に突然、厩橋北条高広が後北条を見限って離反してから
関係が悪くなったというのが表面上の出来事だが、
実際には水面下で徳川と北条の同盟交渉がなされており、
9/5に同盟成立して武田と北条の手切れになっている。
厩橋北条の件を指してますか?あれは武田側が調略したものでないので、
一般的に後北条を見限った行為とされてますが。
と言うのも景虎討死後は伊達の支援を受けた黒川清実や
蘆名の支援を受けた本庄秀綱や神余親綱らに対する
伊達と蘆名の支援が止まってしまったことが挙げられます。
また厩橋北条とほぼ同時期に那波顕宗も後北条を見限ってます。
3/24に景虎が死んでいるので、擁立するべき大将と大義名分が存在しなくなったので、
後北条の行動は侵略行為に変質してしまったことと、
勝者として上杉氏を継ぎ事実上の越後の国主となった景勝を
現実問題として認めなければならないことが反映されて、諸将の次の行動に反映したと言える。
菊姫を娶り、甲越同盟成立が天正7年10月20日なのは、
上杉古文書・諸国古文書抄・武田氏系図・越後古實聞書などにも出てるし
東大史料編纂所の大日本史料にも書いてある。
あぁやっと理解した。北条系研究者らが主張する8/20甲越同盟成立説は、
天正6年8/20に景勝と勝頼が同盟結んだに違いないから
8/28に勝頼は越後府中から甲斐に帰っていったに違いないって言う
妄想が一人歩きした結果生まれた、なぜか一年ずれての天正7年8/20同盟説なんだな。
家康と北条の同盟の話に感づいたようで、9/7に武藤三河守を急ぎ越後へ派遣して交渉している。
10/17に早くも菊姫を甲府から送り出し、 同日に景勝が求めた起請文も出してる。
それらが10/20に到着し婚儀がなされたので、 急ぎ10/20に甲越同盟成立でしょ。
9/6に佐竹が蘆名に甲相同盟破綻を告げて、
勝頼の使者が蘆名領を通過するのを許可してくれるように求めて、
本格的に同盟に向けて佐竹も動き出してるし、
10/8に勝頼が太田に佐竹から起請文が届いたのを喜んでる。
すべて北条と徳川が同盟したことが契機で動いてる。
3月に願文を掲げただけなんてエア過ぎて政治的にも物理的にも全く実体化すらしてないやん。
そもそも2月の時点で北条は武田を敵視してるじゃん。それに対して願文掲げて何が悪いの?
願文は他人に見せるものだとか勘違いしてんのか? 影響は外に現れんのだが。
結局、自分らが援軍出さないで武田にはたらかせ、 漁夫の利を狙っていた北条が、
せめて駿河に援軍出して徳川牽制協力でもしてくれたら丸く収ってた話なんだよな。
勝頼が撤退して北条が逆ギレした挙句に、せっかく勝頼がまとめた景勝と景虎の調停和睦をぶち壊し、
景虎敗死に導いたのが北条。 それをさらに勝頼が悪いと逆恨みした北条。これで武田と北条の仲が崩壊。
むしろ景虎なんて北条にとってはどうでもよく越後上野侵略の口実に過ぎす、
景虎死んだら早速、北条が上野を支配する宣言まで出すもんだから、上野諸将の離反を招き、
またまた武田が裏で調略しているに違いないとキチガイ思考をしただけだろ。
0539人間七七四年
2013/12/04(水) 17:28:52.34ID:vbdrQIWg同一人物かどうかわからんけど、流れと考え方は分かりましたよ
長文すぎて読むのがしんどかったし、さいごの文章は頂けないけど
勉強になりました。
0540人間七七四年
2013/12/04(水) 18:03:04.25ID:KPI37Y7Aどこのスレに行っても相手にされないのはお前自身に原因があることを理解しろ
0541人間七七四年
2013/12/04(水) 18:05:39.34ID:Kib7Azii0543人間七七四年
2013/12/04(水) 22:39:29.88ID:OalnIN6F0544人間七七四年
2013/12/05(木) 00:19:03.91ID:mpU+SKcy調子に乗って長篠で犬死させた雑魚勝頼
0545人間七七四年
2013/12/05(木) 00:24:53.71ID:nY1rKTP6誰が長篠で犬死したの?
一次史料を根拠に教えてください。
0546人間七七四年
2013/12/05(木) 07:48:19.81ID:6ZstKJ4e一次史料で山県、馬場、原、真田らがみんな死ななかったって証明出来るんだ?
じゃあなんで岩村城見捨てたの?
0547人間七七四年
2013/12/05(木) 09:03:06.10ID:wplD8J1R卑怯卑劣な信長に秋山が騙されたからだろ。
長篠の時期まで彼らが生きていたとする証拠自体が全く無いだろがw
0548人間七七四年
2013/12/05(木) 20:04:15.28ID:kIHSDwfF良スレばかり狙って必死過ぎるぞ
0549人間七七四年
2013/12/05(木) 20:12:54.84ID:x0l/VZxz0550人間七七四年
2013/12/05(木) 23:59:46.29ID:rUBJmuyl0551人間七七四年
2013/12/06(金) 01:09:35.36ID:XvBhZxLd勝頼とガチでやり合った東国勢は猛者揃い
でも信長と秀吉は卑怯な騙し討ちとラッキーで勝頼たち東国勢を倒したよ
とか馬鹿じゃね?
0552人間七七四年
2013/12/06(金) 09:12:13.20ID:+WCqyI7u勝頼を信長は同盟詐欺の騙まし討ちと北条徳川との対戦で弱りきった所を狙って騙まし討ちしただけ。
0553人間七七四年
2013/12/06(金) 09:27:53.26ID:TNWzfLhs交渉に出てきたところで捕まえて虐殺したって書いてるからな。
しかたねぇ交渉条件によっては織田軍の撤兵を背後から追撃しないように約束してやろうかな!
と思って勝ってニコニコ顔で秋山は城から出てきたんだろうな。
0554人間七七四年
2013/12/06(金) 10:06:43.63ID:yAgLNVHLその妄想が事実だとしたら武田家臣団は戦国武将として致命的に無能としか言えない
武田家滅亡が誰でもできる楽勝作業ということも理解できるな
0555人間七七四年
2013/12/06(金) 18:16:19.37ID:x8DvQy0wエビデンスを要求して、ビビりとかヘタレとか強いとか弱いとか
なんか間違ってるよね。
0556人間七七四年
2013/12/06(金) 23:49:32.01ID:jWDsxzjR軍事学的にスレを進めようよ
軍事学的には騙し討ちを否定するのは如何なものかと思うのですが?
騙された秋山に戦国武将としての資質が欠けていたと見るのが普通かと
0557羽柴秀吉幾三村元親 ◆VD/AOBHl3DqW
2013/12/07(土) 10:19:35.64ID:C9UxTinvさらに秋山に勝頼の御意もなく独断で敵と和睦交渉する権限はない。
交渉に乗るということは岩村城の降伏開城を意味し岩村の武田方が追い詰められ守将の秋山が本国からの増援や城内の様子を複合的に考えても勝ち目ないと判断したからである。
敢闘虚しく半年粘っても『君ならできる…』と救援を不要とし秋山を捨てた武田家。確実に弱体化が進んでいた証拠である
0558人間七七四年
2013/12/07(土) 10:35:13.27ID:BDncvnB30559人間七七四年
2013/12/07(土) 11:14:44.96ID:5YLGEePJ要約するとこうか?
勝頼からの停戦についての指示もないのに、
秋山に勝頼の御意もなく独断で敵と和睦交渉する権限はないので秋山の負けに違いない。
上記のあなたの考えを証明する一次史料の根拠はまだなの?
それが書かれてないのでは願望妄想としか思えませんが。
管見の限り、前線の城主が停戦和睦交渉したらいけないなんて史料は
みた事がないからね。
そもそも秋山から救援依頼自体が一切出てないから困っていたようにも思えない。
むしろ勝頼の援軍出撃を聞いて、一刻も早く解決したくて困ってるのは織田の方でしょ。
だから卑怯な騙しての暴挙をする程に必死だっただろ。
0560人間七七四年
2013/12/07(土) 12:53:35.70ID:glWnfOkx妄想に対して妄想を被せるw
所詮、ヲタの趣味でしかない
誰かしらかの停戦命令が出ての停戦に伴う打合せの際に、無防備に(指揮官が捕縛されるなんて人間の出来ることじゃない)相手陣地に乗り込むか?
現場指揮官の独断にせよ、戦線を維持出来ない状況があったと考えるのが自然。
或いは、指揮官自らが命乞い(彼我問わず)に訪れた可能性も否定出来ないだろう
資料がぁ(」゜□゜)」って基地外は喚くが、資料なんか古来改竄が当たり前。
辻褄が有ってない資料なんざ糞喰らえで良い
(だから、戦国時代と称するノブヤボ時代に真面目な研究がされない理由だろうけど)
0561人間七七四年
2013/12/07(土) 13:06:08.97ID:kg51bfIo和睦交渉をして、追撃を避けるために
人質交渉をするもんだ。
信長も和睦交渉で北畠信雄を人質に出すことで追撃を受けずに撤退してるし。
秋山もとうぜんそのつもりで交渉に臨んだのだろう。
0562人間七七四年
2013/12/07(土) 17:59:45.69ID:AXbYt8B+おまえは戦国時代の知識が無い馬鹿タレなんだから3年間ROMってろ
無知がしゃしゃり出るとスレが白ける
0563人間七七四年
2013/12/07(土) 19:46:02.75ID:DamRBE4Aって再放送かな?やってたね。
0564人間七七四年
2013/12/07(土) 19:56:44.92ID:aBcs630e織田側の史料に謙遜や豊臣時代の客観性があるのを良いことに、
武田最強をごり押ししてる人がいるの?
0565人間七七四年
2013/12/07(土) 20:36:10.47ID:AU1eJqNG人質を交換し合って追撃予防をしてから、
双方が撤退しているよな。
和睦交渉ってのは基本的に追撃を受けないように交渉する事だからな。
0566人間七七四年
2013/12/07(土) 22:19:35.56ID:glWnfOkx信長にとって信雄は捨て駒に出来る存在だろうが
秋山某自身が自らの意志で捨て駒に出来るか?
秋山某が、捕縛される危険を犯して和平交渉に乗り出すというのはかなり切羽詰まった状況と見るべきでは?
後年、日本とロシアでの和平交渉の際、ステッセルは乃木大将の許可を得ると帯剣したという。
つまり、事実上の降伏状況でさえ講和の席上まで帯剣していたという話だろ
もし、戦線が膠着した状況で秋山某が講和に訪れたのならお互いが手出し出来る状況には無いと取るのが普通では
0568人間七七四年
2013/12/08(日) 00:59:20.38ID:qFsIBuwS0570人間七七四年
2013/12/08(日) 19:00:48.89ID:OVIn2Ljt二俣城、諏訪原城といった遠江中枢の城を奪回されてる時点で武田の大敗だったのがわかる。
結局勝頼は一時的に無理矢理軍を再起動させてみたものの何もできずに終わってるし
0571人間七七四年
2013/12/08(日) 19:12:56.81ID:dVoVpmBD作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し
先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候などと書いてる。
このことから当初案では石山本願寺救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して 穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は実数1万くらいの兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り5万の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して
伊勢長島の日根野や郡上八幡の遠藤氏や一揆軍の南下で織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、陣城攻撃を開始し優勢だったが陣城は落ちず
撤退をしたら殿が下手を打って軍が崩壊。義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
長篠決戦前日の勝頼が織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸
信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は
高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。
長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。
6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。
武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけで
やはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。
殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
0572人間七七四年
2013/12/08(日) 19:15:56.54ID:dVoVpmBDttp://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/29015563.html
願望妄想乙w そもそもその書状は天正2年だからすでに間違えてる。
信玄が死んだ年の末に浜松城再度襲撃なんて、そんな大規模軍事行動はしてないだろ…
んで、書状内容は 家康が篭る浜松を焼き払い、刈田しまくった。
いま久野(袋井市)と掛川を追い詰め佐夜郡に押さえの築城した。
他には佐竹と北条の和睦の提案と、小田原の軍勢が関宿攻めしてる話に言及してる書状。
さて袋井市と掛川市を制する地の利の場所に築城してるのに、
なんでそれが諏訪原なんだよwwwお前さ、地図くらい見てから書けよwww
机上の空論ならぬ、 妄想願望の暴論だぞw 織田チョンはどうしようも無いアホだわ
あーあ。悪質な歪曲してるな。 諏訪原城がある位置は榛原郡だから。
佐夜郡ではなく、小夜の中山と言う山にある急坂の場所が
宿場町の日坂(掛川)→宿場町の金谷(菊川)
の間にある道中の山の急坂を指しているって話なだけ。地理まで曲解すんなよ・・・
なんでそれが佐夜郡の支配領域とイコールになるんだよ。
単に中山にある坂が佐夜郡への道だから名前が転化しただけだろ。
そこは榛原郡であって、佐夜郡はもっと西だから。
延喜期式には遠江国佐野郡に己等乃麻知神社が書かれているので
そもそも文学的表現からではなく元々は佐野郡が佐夜郡に転化したもの。
のちの周智郡なども含まれた広大な領域だったとも言われ
また、中山という呼称は郡と郡の郡堺の山や峠を意味する言葉で
中山から西が佐夜郡であり、東が榛原郡だということがわかります。
小夜の中山を境に、 東側が榛原郡であり諏訪原城がある地域で、
明らかに対高天神城攻略のために徳川が作った牧野城のこと。
中山の西側が佐夜郡であり浜松襲撃した帰り掛けに袋井市や掛川市を追い詰める意図で
武田が数ヶ月突貫で砦を作った場所だろ。
天正元年に諏訪原ができたってのは牧野城がすでにあったことを知っている
江戸時代の作られた甲陽軍鑑のネタに引っ張られた間違った解釈だし
そもそも久野城や掛川城を制する位置に築城されたのは天方城のことだとされている。
諏訪原城がその両城を押さえる形にならないどころか
武田軍が大井川の南下して高天神城へ行く道を塞ぐように築城されてるのが牧野城。
見張り台目的で古い砦のような簡素なものが諏訪原にあっただろうが、
本格的な築城は徳川によってなされたと考えるべきだろう。
(特に家忠日記などでは天正6年以降やたら普請を繰り返している)
そして周の文王が牧野で武王を破った故事から築城するにあたり牧野城としたのであろう。
(犬居城説などもあり判然としないが、ちなみに天方城説にも諸説あってよくわからないのだが、
徳川と武田の争奪が激しく新城があったのではと言われている)
当時、天野氏も2派に分かれて派閥抗争をしており ここを巡って奪回戦が繰り返されたといわれている。
0573人間七七四年
2013/12/08(日) 19:28:13.84ID:dVoVpmBDむしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに
武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。
しかし織田チョンは必死だな〜。
犬居城が落城したなんて大須賀記っていう家譜にしか出てこない捏造話だし、
二俣城落城に至っては浜松城記って言う偽書にしか出てこないのにwwww
また戦死に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く 名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、 甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも
織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。
実際、軍記講談話を除けば、 馬場や山縣がそもそも出陣してたかすら怪しいし、
長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、
嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし、
山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、
天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。
しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、信長も感状を一切出すことも無い。
唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。
明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、
勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、山縣や馬場らが長篠に出陣してる証拠が無い。
むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて長篠に現れたとしか思えない。
だからこそ信長は深く追撃することを恐れて、さっさと帰っていった。
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、 構造改革があって引退してるんじゃないか?
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、 秋山のことは引き寄せてから今日、
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。
長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、
信綱は登場しないし、 山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど。
天正元年7/30の時点では、 武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、
天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。
0574人間七七四年
2013/12/09(月) 06:33:48.79ID:xPZMJLvz0575人間七七四年
2013/12/09(月) 08:03:46.21ID:zGtc0tP/ちょっとほかのスレ見てきたらわかるけど戦国板荒廃の原因だから
0576人間七七四年
2013/12/19(木) 23:42:11.57ID:bl5IqCqlそれとも違うの?
0577人間七七四年
2013/12/20(金) 09:36:00.49ID:XFpSe6/00578人間七七四年
2013/12/21(土) 19:58:47.80ID:oYBMzSpP0580人間七七四年
2013/12/21(土) 20:10:07.00ID:C3OPJUDL家康なんかは三方ヶ原の戦いの敗走時に、
騎射で立ちふさがる敵を突破している
0581人間七七四年
2013/12/22(日) 10:08:06.73ID:ahA5y8Hl0582人間七七四年
2013/12/22(日) 10:49:53.00ID:amCM5l940583人間七七四年
2013/12/22(日) 11:48:01.85ID:PRh0dRuW0584人間七七四年
2013/12/22(日) 13:13:59.79ID:1RFhliqsそういう非効率的な戦いを成り立たせるために、
馬乗り身分の人間を足軽が討つってのを非道とする逸話が多いのかな
歩兵がついて行ける速度で馬上にいたんじゃ、良い的だし。
0585人間七七四年
2013/12/22(日) 13:24:37.27ID:amCM5l94徒従者を後続させても時を置かずに合流できる
0586人間七七四年
2013/12/22(日) 13:58:15.29ID:ahA5y8Hlまた軍旗物に出てくる「先駆けの足軽」をツヴァイヘンダーの類と見れば
歩兵が槍を切り払った後に騎馬が突撃する戦法も普遍的だったと考えられる
0587人間七七四年
2013/12/22(日) 14:31:59.18ID:1RFhliqs>重装騎兵
日本の騎馬武者の武装って
革と竹?で組み合わせたスケールメイルと篭手と脛当て
と片手剣(太刀って短いんだよな)もしくは騎槍じゃなかったか?
盾も無いし、戦車の代わりにはならんだろ?
それに銃器が普及してからなら馬上の重装兵なんか只の的だし。
0588人間七七四年
2013/12/22(日) 14:45:42.83ID:ahA5y8Hl0589人間七七四年
2013/12/22(日) 20:06:17.91ID:jEBE5W8H0590人間七七四年
2013/12/23(月) 14:46:35.09ID:8A0Y5EoJ0591人間七七四年
2013/12/23(月) 18:26:13.51ID:kUzmoyl/弓かポン刀か槍なのか
ちなみに手持ちのとある学研の書籍では、武田、上杉、北条の兵装比率は
北条が騎馬武者比率断トツだが、基本北条のドクトリンはお城にこもること
だから追撃にお馬さんは活躍したんか?
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