【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
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0001人間七七四年
2012/08/04(土) 23:21:52.40ID:o+bXyiEt決戦兵力としての予備兵はいたのか
車懸りとは? 鶴翼や魚鱗? 付城、野戦築城とは?
意外と謎だらけな戦国時代の軍事学について色々と語るスレです
0429人間七七四年
2013/11/23(土) 19:28:27.01ID:RnxY6h53http://music.geocities.jp/jphope21/0203/39/266_1.html
そこに戦術の特徴があったのだ。
( http://music.geocities.jp/jphope21/0104/41/271.html )
0430人間七七四年
2013/11/23(土) 20:14:14.31ID:DiBeaoar元々甲斐の穴山領に当たる巨摩郡は穴山信君死後あっさり家康の物になったし
家康は旧武田国人を武田滅亡後までかくまってたから、依田も禰津も武川衆も恩義のある家康に対してあっさり恭順するどころか
北条軍相手に活躍してたし、甲斐への足がかりが丸きり違うわな。
北条方は甲斐を徳川に制圧されると上野〜信濃ルートと補給戦も領土も細長く飛び地的になるし
背後に上杉もいるしで地勢的に孤立しやすく、維持が大変だし。
0431人間七七四年
2013/11/23(土) 20:26:29.15ID:4P+yE56Jあれで北条は力攻めが難しくなった
この辺の塹壕線構築は長篠の戦い以降、賤ヶ岳や小牧・長久手に至るトレンドになる
0432人間七七四年
2013/11/23(土) 20:38:48.65ID:ZRoUk6ZWまあ、新府城の向かいに城を築いたりして北条方を迎撃してたとは思うけど。
0433人間七七四年
2013/11/23(土) 20:46:41.30ID:xoflkUUo徳川の戦略目標は西に盟友織田がいるから必然的に駿河や甲斐になる
この双方の歴史背景の違いも戦略手法の数の差を生んだね
0434人間七七四年
2013/11/23(土) 20:54:37.60ID:4P+yE56J能見城を中心に微高地を遮断する塹壕線を形成したとされる
http://www15.ocn.ne.jp/~castle04/nokenjo.html
0435人間七七四年
2013/11/23(土) 22:42:41.74ID:UcE1Us7k0436人間七七四年
2013/11/23(土) 22:47:50.79ID:5LViEUVG小田原の陣でも徳川塹壕陣地は総構えに食い込む感じにガッツリ作ったそうだ
0437人間七七四年
2013/11/24(日) 10:24:19.40ID:VlkFFc4nむしろ小牧山には柵も付けずかけはなちに陣取らせ給う(三河物語)と無防備に
兵を展開してたのがわかる
0438人間七七四年
2013/11/24(日) 10:26:45.13ID:zBe5QJypつかあの時代の築城技術にそんな大それた物はないし
敵が攻めてきたらあっさり陥落しまくる雑魚城しかないよ。
0440人間七七四年
2013/11/24(日) 10:55:03.22ID:jrZbVcfx武田・北条の特徴とされた城の構造が、実は徳川家の改築によるものという
結果が出てたりする
0441人間七七四年
2013/11/24(日) 11:01:20.34ID:oap1OSgBだってそんな事書いてる史料ないし、家康からすれば蟹清水、外山、宇田津、比良、小幡といった
秀吉方に狙われる拠点は一杯あるわけで、小牧山なんて固めた所で周辺や背後から攻められて孤立無援にされるだけだから
そんな事したって無意味なんだよ。つか小牧山周辺の塹壕研究なんて勝手に学者が論拠もなく天正12年に無理矢理比定してるだけだろうが。
>>400
そもそも城の築かれた時期そのものが無理矢理根拠なく比定してるだけじゃん。
江戸期に築かれたものか幕末に築かれたものかもわからんのに
0442人間七七四年
2013/11/24(日) 11:05:26.00ID:zBe5QJyp戦国後期織豊系城郭が普及した後の事だしそれ以前の日本の城塞なんて
山中城とか荒戸城とか各城郭の復元模型とか見る限りまぁお粗末なもんだよ
それで日本の築城技術や防衛普請技術がしょぼ過ぎるから毎年毎年上野や信濃といった日本一の天嶮がそびえる地域ですら
馬鹿みたいに城が陥落しまくってたじゃん。
ましてそれより遥かに短期間で即席的に作ったと思われる小牧山の防衛なんてたかが知れてるわ。
堅城とか捏造されてる岐阜城なんて6回くらい馬鹿みたいにあっさり落ちてるし
0443人間七七四年
2013/11/24(日) 11:06:27.60ID:4Pk6Z+oZ武田の信濃侵攻なんて侵攻側にしては大して多くもない兵力で北信濃の日本で最もキツイ天嶮山城を毎回毎回簡単に落しまくってるからな。
織田徳川の大軍に対して行われた三・遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってる。
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
0444人間七七四年
2013/11/24(日) 11:07:35.92ID:0bOITmoK山中城とか忍城とか荒戸城の復元がネットで見られるけど城と呼ぶには到底貧相な代物だし
日本で最も厳しい天嶮が立ち並ぶ信濃とか上野とか奥三河の城だって馬鹿みたいに落城しまくってるし
堅城とか言われてる岐阜城なんて6回くらいあっさり陥落してるし
ましてそれより遥かに即席で作ったのが小牧山なわけだし
0445人間七七四年
2013/11/24(日) 11:08:26.18ID:HP4IUeNe何もせずにほっといても勝っても領土の広がらない上に兵力劣勢の城方は降伏・自落・寝返り・逃散で楽に勝てるのは
目に見えてるし長期間もたつくのはよほど寄せての大将が雑魚の時だけだよ。
0446人間七七四年
2013/11/24(日) 11:10:53.47ID:0VJ564oq0447人間七七四年
2013/11/24(日) 11:21:54.17ID:z84A8loaとっとと仕事探せよ
0448人間七七四年
2013/11/24(日) 11:30:23.22ID:rGcPh6vs何年もかけて莫大な財産かけてようやく築かれた城などでもあっさり陥落してるのに
わずか2週間で築かれる即席の防衛施設なんてたかがしれてるだろ
0449人間七七四年
2013/11/24(日) 11:35:24.23ID:jrZbVcfx0450人間七七四年
2013/11/24(日) 11:35:43.88ID:cFiaDhb70451人間七七四年
2013/11/24(日) 11:36:03.58ID:VlkFFc4n大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
0452人間七七四年
2013/11/24(日) 11:48:16.99ID:0VJ564oq堅城であるはずの岐阜城、日本一の天嶮が立ち並ぶ信濃、上野、奥三河の山城
日本一の財力と期間で築かれた大阪城、いずれもあっさり陥落してる。
特に前二者は、ほんの短期間であっさり落ちてるし
ましてや2週間程度の即席の防衛施設なんてハナクソみたいなもんでしかないと思う
0453人間七七四年
2013/11/24(日) 11:50:25.80ID:/g6Ugc0G発掘で出てきてるんだよなあ…
徳川の塹壕も秀吉方の塹壕も
いわゆる「当たり前すぎて書かなかった」ことなんだろうな
0454人間七七四年
2013/11/24(日) 11:54:21.91ID:zBe5QJyp発掘といっても年代比定は適当だろ。
しかも楽田や小牧山は元々両軍が接触する地点として全く想定されていなかった場所だし
0455人間七七四年
2013/11/24(日) 11:57:27.95ID:/g6Ugc0Gはいはい俺の考えと違うことは全部ウソデタラメ陰謀だよねー
否定するなら発掘された塹壕跡がなんのために作られたか証明する責任があるぞ?
0456人間七七四年
2013/11/24(日) 11:59:40.36ID:zLWhLx6jID:zBe5QJyp は軍事知識ゼロなんだろうな
0457人間七七四年
2013/11/24(日) 12:00:42.94ID:0bOITmoK戦国末期のショボイ技術でしかも短期間で即席的にそんなもんが作れるというのは
大いに疑問がつくわな
つか接触ポイントはいくらでもあるのに小牧山ばっかり固めていたって意味がないし
周辺の砦や小城郭を先に落されればアボーンだろ
0458人間七七四年
2013/11/24(日) 12:02:42.65ID:HP4IUeNeそんなもんなんでもいいだろ。
江戸期の訓練のためでも信長の斉藤からの防衛のためでも
関ヶ原合戦の時のためでも。
0459人間七七四年
2013/11/24(日) 12:02:55.68ID:Os3ZfgwK籠城は下策〜と言ってる連中は戦術面でもそう思ってそうで心配になる
0460人間七七四年
2013/11/24(日) 12:03:46.95ID:HP4IUeNe大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
そもそも攻撃側は攻めるのキツイと思ったら攻めずに十分準備を整えてから攻めるか
他の拠点を攻めればいいだけだけど、防衛側は戦闘の回避→領土喪失、死につながるからそういうわけにはいかないからな。
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
0461人間七七四年
2013/11/24(日) 12:04:55.60ID:0VJ564oqその証拠に岐阜城は馬鹿みたいに毎回陥落しまくってるし
北信濃や上野のガチンコ山城もアホみたいに簡単に落ちまくってる
0462人間七七四年
2013/11/24(日) 12:06:01.90ID:zBe5QJyp戦争において弱小勢力なんて周辺の強国に飲み込まれてくだけだし
小さい勢力で大きな勢力跳ね返し続けた大名なんて佐竹とか田村とか甲斐とか名将しかいない。
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
0463人間七七四年
2013/11/24(日) 12:06:21.62ID:HP4IUeNe後詰の望みがない防戦なんてよほどの偶発的条件か両将の指揮能力のよほどの差がない限り基本勝つ可能性皆無なんだから
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
0464人間七七四年
2013/11/24(日) 12:07:14.79ID:zBe5QJyp二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
0465人間七七四年
2013/11/24(日) 12:09:28.67ID:4Pk6Z+oZ後詰の望みがない防戦なんてよほどの偶発的条件か両将の指揮能力のよほどの差がない限り基本勝つ可能性皆無なんだから
0466人間七七四年
2013/11/24(日) 12:10:33.90ID:zBe5QJyp織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
どうみても武田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
0467人間七七四年
2013/11/24(日) 12:11:45.05ID:VlkFFc4n兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
0468人間七七四年
2013/11/24(日) 12:19:08.95ID:0VJ564oq他のルートで侵攻するなりすればいいだけで、敵が打って出てきたらそれこそ迎撃すればいいだけだし
大軍側は戦争の主導権握ってる
寡兵側、防衛側は戦争回避したら領土失うか死ぬだけだが大軍側は自分が好きなタイミングで自分が好きなルートで、また十分に用意して攻め込む事ができる点でも
圧倒的に有利。また勝っても領土が広がらない防衛側は離散や逃散が出やすく士気が下がりやすいが
勝てば領土、恩賞が約束される大軍側はそれはない。
0469人間七七四年
2013/11/24(日) 12:19:38.17ID:4Pk6Z+oZ日本で最も険しい天嶮が立ち並ぶ信濃や甲斐や上野でも武田や上杉によって一日に10も20もアホみたいに落城しまくってるし
他の地域の城攻めでも数ヶ月の長期に及ぶ城攻めなんて全体からしたらごくごく稀でしかないし
大体近くの拠点まで示威行動したら恭順したりボロボロ城方から離反が出たりしてあっさり終結する戦闘がほとんどだし
ヨーロッパの戦争とか日本よりも遥かにキツイ天嶮を日本よりも遥かに大軍が日本より遥かに重装備で動きまくってて、
これでも基本的には数の論理は生きていたし、それこそハンニバルのポエニ戦争は指揮官の能力で決まった戦争というべきだろ
地勢兵力ともにローマ軍有利のはずだしな
0470人間七七四年
2013/11/24(日) 12:34:48.25ID:DLjWeWss0471人間七七四年
2013/11/24(日) 13:08:49.37ID:z84A8loaリアルでも我慢できなくてビチョビチョもらしちゃうんだろうな
0472人間七七四年
2013/11/24(日) 13:41:52.85ID:0bOITmoK0473人間七七四年
2013/11/24(日) 14:59:01.94ID:inqCtTHH>日本で最も険しい天嶮が立ち並ぶ信濃や甲斐や上野でも武田や上杉によって一日に10も20もアホみたいに落城しまくってるし
ワロタw
それだけ成果出してるのに領土拡張が遅いとかどんだけ武田と上杉は無能なんだよw
0474人間七七四年
2013/11/24(日) 15:51:39.28ID:VlkFFc4n信濃は甲斐の2倍の国力
領土面積も美濃より広い
0475人間七七四年
2013/11/24(日) 16:02:44.14ID:inqCtTHHマジでKING OF 馬鹿だろこいつらw
0476人間七七四年
2013/11/24(日) 16:14:01.19ID:HP4IUeNe濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
0477人間七七四年
2013/11/24(日) 16:19:42.93ID:MUnaw58w拡張が遅くなるのは至極自然の事だろう。しかも戦ってはのはいずれも最も移動も攻撃も手間がかかりまくる
山間部や狭隘部が多く、キツイ城ランキングトップクラスの城が立ち並ぶ地域。
信長みたいに畿内の有力者が次々死んで足利嘉昭が格好の大義名分を引っさげて尾張まで
やってくる棚ボタは上杉にも武田にも北条にもなかったしな
0478人間七七四年
2013/11/24(日) 16:28:48.21ID:zBe5QJyp斉藤は幼君で極度に弱体化
義元は運よく突発事故で戦死
六角も観音寺騒動で弱体化
三好は統率が取れずバラバラ
北畠は内紛で分裂
上杉は内紛で極度に弱体化
武田は勝頼が発狂失政自爆&徳川北条戦で疲弊しきり抗戦したのは仁科だけ
浅井はわずか10万石そこそこで織田領国の20分の1か30分の1くらいの国力
朝倉・毛利は大チャンスでも本国にヘタレ退却するアホが当主
こんな弱体化した雑魚相手の火事場泥棒戦争ばっかやってるのに負けまくり蹴散らされまくる信長の無能さは異常レベル。
0479人間七七四年
2013/11/24(日) 16:33:18.53ID:0VJ564oq加治田城・黒田城・小口城・鵜沼城・猿啄城・犬山城とか内通と自落でおちてるだけだし
信長は何もやってないしただ幼君で統制がぐらついてただけ。斉藤はクーデターまで起こってたし
しかも後半になると浅井や甲賀衆まで援軍で送られてくるし
あと織田の内紛ガタガタという事情って一体なんだ?
公記にも諸資料にも全くない妄想言われても困る
0480人間七七四年
2013/11/24(日) 16:34:03.31ID:0bOITmoKほとんど抗戦意欲なしで自落・内通ばかりだったし国内でクーデターまで起きてたし
まともに戦える状態じゃなかったんだし
0481人間七七四年
2013/11/24(日) 16:36:03.69ID:zBe5QJyp畿内で賢主と呼ばれた大名はみんな死んでいて最盛期が過ぎ
衰退に向かっていく大名ばっかりだったじゃん
それに比べ関東地方は強豪揃い
しかし北条・武田・上杉の三国が互角の鼎のように竜虎獅子が合い戦う強豪っぷりだったしな。
武蔵国の名は武器の蔵と言われていたと信玄も言ってるし。
家康は武田旧臣を配下に入れて翼が生えたようなもんだ。
そのおかげで信濃や甲斐が統治できたしな。
戦国関東三国志と呼ばれるほど
三雄は強かったからねぇ。
興福寺の史料でも織田軍大和衆が越後と甲斐の兵の強さにビビってたからなー
そんな中で勢力拡大してた武田さんは素直に凄い
0482人間七七四年
2013/11/24(日) 16:36:53.16ID:0VJ564oq駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。
越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。
南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)
美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。
跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。
一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
0483人間七七四年
2013/11/24(日) 19:16:22.32ID:gWi2JZXY一度しかない人生を棒に振るのか。
どうでもいいけど、武田勝頼って二人より無能だよな。
0484人間七七四年
2013/11/24(日) 19:38:55.60ID:VlkFFc4n武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
0485人間七七四年
2013/11/25(月) 08:12:00.13ID:vkYmBb5E雑魚中の雑魚、キングオブ雑魚とは武田勝頼のこと
0486人間七七四年
2013/11/25(月) 19:38:51.95ID:AtOvjfIS双方とも荒らしが目的じゃないんならこのスレで何がしたいのかよく考えてくれるとありがたい
誰かを崇めるために誰かを蔑む発想は見苦しいと思うよ
0487人間七七四年
2013/11/25(月) 19:41:53.66ID:9nzREQBN実際自分がその立場になったら先の未来も知らないでその人よりうまく立ち回れるのか
自分が経営者なりトップになってるならいま何が出来てるか
学生や使われる身だったら零細企業の社長の座を得たら潰さず大企業に出来るのか想像して考えてみるといい
今のようなここにレスする余裕のある生活はできないと思うぞ
そう考えたら家滅ぼした人もこんなに大変だったなと思えると思うぞ
0488人間七七四年
2013/11/25(月) 19:54:13.02ID:empw2kvTどちらかというと、一昔前のガキ大将とか、暴走族が部下を率いて抗争を繰り広げるのと似てる感じがする。
0489人間七七四年
2013/11/25(月) 19:54:43.81ID:8UUK8wyc0490人間七七四年
2013/11/25(月) 19:54:44.37ID:3Bt/HExR私は>>433でレスしました
スレタイの軍事学で話が進むと嬉しい
0491人間七七四年
2013/11/25(月) 19:56:20.77ID:Mai5WVDs0492人間七七四年
2013/11/26(火) 19:52:48.85ID:k35iQE2N菅沼遼太恥ずかしい自演乙
君の様な嘘吐き荒らしはこのスレに居着いたらいけない
かまってもらいたいならだがスレにお帰り
0493人間七七四年
2013/11/26(火) 21:30:49.19ID:dtcPhMFn昨日レスした>>428です
軍事学の話を進めるのはいいけど取っ掛かりが思いつかず
というわけで>>433氏がレスした内容からでいいかな?
徳川が敵対関係の武田に戦略を練っていたのは当然と考えます
しかし北条も友好関係の武田ではあるけど戦略を練っていたんじゃないかな?
United StatesのCalor-coded War PlansではWar Plan OrangeだけではなくWar Plan Redも存在している
まあ北条はUnited Statesではないので絶対とまでは言い切れないけどね
それでも御館の乱で武田が北条を裏切ったため交戦状態に突入する
ここまで来たら対武田戦略も上野だけではなく甲斐も含まれたはず
ただ主戦場は駿豆方面と上野方面ですので甲斐や相模が主戦場にならなかったのは双方とも総力戦を避けたと解釈してます
武田は徳川との戦いが北条は佐竹との戦いがあるから消耗戦を警戒したんでしょうね
対武田戦略(甲斐方面)の手法の差は歴史的にも長く重要性も高い徳川の方に分があるのは同意です
0494人間七七四年
2013/11/26(火) 23:00:17.34ID:cM6/mb1H甲江同盟の影響で双方とも警戒を緩めていて武田は対北条戦に全力で臨んでいた。
一次資料みても武田は景気いい話ばかり書いてるし高天神城を落されるとも全く予想していなかったようだ。
北条は北条で二年連続で甲斐に侵攻したり(撃退されたが)
駿河伊豆国境の長窪城を陥落させたり反撃をやるにはやってる。
ただ佐竹結城宇都宮といった連中に下総や下野や上野や南常陸などを攻撃されまくり
戦力が分散状態だったため、全体的には劣勢で、関宿防衛のために築いた飯沼城を攻略されたりしてた。
0495人間七七四年
2013/11/26(火) 23:51:07.12ID:4XZ9TqtT応答ありがと>>433です
武田は徳川に苦戦してたし出兵し過ぎで財政破綻してたから相模攻めは不可能という背景もある
北条は武田みたいにやたら出兵しなかった分先が見えた戦略を持っていたかな
長期消耗戦では武田より北条の方が役者が一枚上手
0496人間七七四年
2013/11/27(水) 20:17:57.66ID:7ot5VLKw昨日レスした>>428です
>北条は武田みたいにやたら出兵しなかった
武田が最初から攻勢に出た理由は早期終結を目指していたからではないかな?
北条と合戦を始め徳川とも交戦状態が続いているのに織田が本腰入れて戦闘再開したら武田の滅亡は免れない
北条の方は織田の様な敵対強国が背後にいるわけでもないから慌てる必要もない
織田の存在が武田の戦略の足枷となっているのは間違いないでしょうね
そもそも武田は織田が本腰入れて攻めてこなかったことにいいことに胡坐をかいていたね
織田と戦い抜くか和睦するかどちらでも構わないけど何か手を打つべきだったと思う
本願寺が織田と和睦したことで織田の足枷が外れ武田家中でも動揺が起こる
高天神城を見殺しにしたことで武田の後詰能力低下が世間に晒されることになる
これで木曾や穴山の心は離反に決したと言えるよね
何で武田は織田との関係を中途半端にしちゃったんだろう?
0497人間七七四年
2013/11/27(水) 21:11:18.86ID:SCQb2YzQ>>496
織田単独で攻めてきても武田滅亡は確実だから早期終結を目指す方が当然ですな
武田も徳川の遠江侵攻に対応してたのもあるけど無策と言われても仕様がない
本願寺が織田をなんとかしてくれる他力本願な考えも持っていたんだろう
0498人間七七四年
2013/11/27(水) 23:35:02.27ID:iGfNALaiむしろ家康の方が田中城の依田信蕃に最後まで歯が立たず
高天神城も同盟詐欺の隙をついて火事場ドロしただけだし
それまで2年余りも苦戦続けてたじゃん。
それに相模は直接攻めてないけど
それ以外の北条領である武蔵・上野・伊豆は攻勢かけまくってたし
上野は東部の由良長尾富岡領以外全て武田の物になってる。
由良や長尾も武田の攻勢の結果、北条から離反しつつあったようだしな
0499人間七七四年
2013/11/27(水) 23:59:09.52ID:Cs+EsEOM天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるしそのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して 遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。 つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら 突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて 南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
0500人間七七四年
2013/11/28(木) 00:23:43.58ID:y4AbZ/fe景勝が同盟を持ちかけた時に、
謙信が遺していた莫大な金塊に、
財政破綻していた勝頼の目が眩んだとする軍記の記述が元ネタだからな。
0501人間七七四年
2013/11/29(金) 19:57:34.25ID:CQUoMiAe昨日レスしなくてすみません>>428です
>武田も徳川の遠江侵攻に対応してたのもあるけど無策と言われても仕様がない
武田的には徳川の6月侵攻が痛かったかもしれませんね
武田は8月に出陣するも時すでに遅く遠江の多くの城を失ってしまう
織田と武田はこれを見て武田の後詰能力が麻痺していると判断し武田領へ侵攻
動きが取れない武田は岩村城や二俣城を見殺しにしてしまう
武田の内情はここに露呈され織田は本願寺との戦いに専念し徳川に武田を任せる
徳川は単独で武田と戦いを進め犬居城を奪還し北遠の武田勢を一掃
徳川の連戦連勝に武田も高天神城だけは確保しておきたいと考え熾烈な争奪戦が始まる
武田も信濃ルートが確保できていたなら両面戦略が採れたけど駿河ルートだけでは厳しいね
>本願寺が織田をなんとかしてくれる他力本願な考えも持っていたんだろう
当初はそう考えていたでしょうね
本願寺だけではなく毛利や上杉という東西の強国の支援もあったし
上杉が織田を滅ぼしてくれるはずと考えていたかもしれません
この辺の焦りが御館の乱の無意味な梃入れ行動につながる様な気がします
0502人間七七四年
2013/11/29(金) 20:23:10.25ID:sO4Ba+xD>>501
いえいえ毎日レスする必要はありませんよ
気が向いた時でいいと思います
武田の後詰能力の低下は長篠の後遺症ですな
これ以降武田は軍役量を増加させて領国経営を悪化させる
領民への負担も激しくなり欠落が続発する
上杉期待の話はなるほどと妙に納得ですな
0503人間七七四年
2013/12/02(月) 19:58:41.25ID:oXUQVLKkいつもの>>428です
>武田の後詰能力の低下は長篠の後遺症ですな
それでも武田が岩村城、二俣城、犬居城を奪還しなかったのは正解と考えます
後詰能力が無いのに無理して奪還しても拠点維持は困難ですからね
あと高天神城も早めに放棄もしくは徳川に返還すべきでした
北条を裏切るなら徳川と和睦すべきでここに武田の限界を見ることができる
多くの家臣を失ったことは家督継承や遺領安堵に多大な時間を費やしたことを意味する
この点でも武田は軍事活動の制限を受けている
しかし天正5年頃から徳川との合戦を本格的に再開する
勝頼は武田軍の早期再建に成功しここは評価できると思う
0504人間七七四年
2013/12/02(月) 22:48:52.19ID:SgYsGM1G結局、城将の依田信蕃の言いなりに従った開城条件の丸飲みの
実質、家康の土下座状態だったじゃん。
なんせ二俣城の城兵は温存されたまま、田中城へ移転引越ししただけだからね。
どうして田中城への移転を決意したかといえば、同時期に勝頼が、
来年に当家は乾坤一擲の勝負を織田・徳川とするって決意を示して
来年の決戦に向けて戦力の大幅整理再編をしていたから。
武田滅亡時でも家康が国境にあったスタート地点の田中城を自力で落せずに大苦戦。
遅れて出陣してきた北条は伊豆を軽快に西進してきたことが
穴山の降伏原因というくらい北条に名を成さしめたくらい
進軍ストップで最後にはまた落城ではなく、開城だったくらい超苦戦しているところからして
二俣城で依田信蕃を討てなかったことは家康最大の恥辱だった。
武田旧臣で籠城と調略の天才だった依田信蕃がいなかったら、
甲斐府中でビビって引きこもっていた家康は北条に大敗して
甲斐も信濃も手に入れることは出来なかった。
依田信蕃はもっと評価されるべき名将。 依田は武田軍団内でも随一の名将だからな。
孤軍奮闘の田中城で結局最後まで徳川方相手に粘り勝ったし、
天正壬午やその後の佐久郡平定戦でも大活躍したからね。
家康の威圧にもまったく屈せず勝頼死去確認と穴山からの開城勧告を得て
やっと開城したほど徹底抗戦したので、依田の旧武田遺臣からの信用性抜群だったのが
幸いして調略がうまくいっていたからね。
特に信濃に進出していた北条軍の背後を遮断するべく佐久郡に戻ってきた依田が
9/28真田家を調略したのは大金星
これがおきて北条は窮してしまい、1ヶ月後の10/29には北条と徳川の和睦成立だからね。
9/13の段階では宇都宮氏を相手に家康は劣勢のあまり、
秀吉と丹羽長秀と柴田勝家がもうすぐ援軍にくるから北条なんて掃討できる
などと、大ウソを吐いてまで、自陣営が見限られないように
必死に佐竹など北関東連合を繋ぎとめてるほど劣勢だったからね。
0505人間七七四年
2013/12/02(月) 23:34:34.79ID:rohCDgos国力的には織田+徳川+上杉で対武田に臨める(上杉は直接攻めてこなくても上野や信濃の後詰が必要)なので
長篠で武田が大損害受けたのならば織田徳川は片手間でも武田を瞬殺して滅ぼすには十分すぎる状況といっていいが
史実でが孤立無援の状態ですら岩村一城に半年かかっても攻め落とせず、最後は騙まし討ちで卑怯に陥落させただけだし
徳川も二俣城を取り返したくらいで、遠州の中部からは全く進めていない。
この事からいえるのは武田が織田よりも圧倒的に戦闘が強いか、あるいは長篠でほとんど損害がなかったかどちらかだろう。
信長は謙信に宛てて信濃にうちいる事肝要とか、上杉と協力して信濃攻めをしたがってたが、
謙信が上野に出兵してもそれと呼応して信濃攻めする事すら、岩村城など東美濃の拠点に手こずったせいで叶わなかったし
0506人間七七四年
2013/12/03(火) 00:29:24.69ID:5CP+97Q0家康は不甲斐ないと言われるのはやむを得ないかも知れないが。
0507人間七七四年
2013/12/03(火) 01:15:29.00ID:hrZ731b9信長は謙信と共同で信濃にうちいる気満々で、そのために信忠に大軍与えて
岩村など東美濃を攻略させたがこれに予想以上に信忠が苦戦しまくり信濃攻めどころじゃなくなっただけ。
東美濃を奪回しない限り信濃にうちいる事は不可能だが、信忠は大軍で孤立無援の岩村城を自力では半年かかっても攻め落とせず
騙まし討ちにしないといけない無能ぶりを発揮してたからな。
0508人間七七四年
2013/12/03(火) 01:21:34.58ID:O1uaYL7E北条氏政の要請に従い上野方面に出兵してたようだ。
つまり長篠の敗戦後も勝頼は織田や徳川なんて全く相手にせず謙信を第一の敵と見定めて
北条との協調を重んじ、上野に出兵する余裕があったと言う事。
そのくらい長篠合戦では武田がほとんど被害を受けてなかったという事だろう。
織田と徳川の国力なら3ヶ月以内もあれば、上杉との協調があれば武田を滅ぼすなんて容易い事だし
長篠で大ダメージ受けたのなら、この好機を信長が見逃すはずがないからな。
だが実際には岩村一城を奪回するのすら半年使っても実力では奪回できず、騙まし討ちに頼るアホっぷり。
0509人間七七四年
2013/12/03(火) 08:56:21.95ID:8VaP3VPyお前、後詰戦略なんて軍記から妄想したデタラメだぞw
んなもん一次史料には一切、それらしいものは出てこない。
それに勝頼の援軍がまもなく来ると聞いて、
あせって秋山を詐欺にかけて岩村城を開城させただけで、
信長は騙くらかして、やっと美濃一国を平定しただけだろ。
どんだけ尾張から北上を始めて美濃統一に時間かけてんだ。
完全に無能だろ。
天皇や将軍の権威が通用した畿内ならそりゃアホでも利用すりゃ簡単だろうが、
通用しない辺境の美濃はこんなていたらく。
0510人間七七四年
2013/12/03(火) 14:46:03.12ID:YPrlRprw岩村城見捨ててない。
0511人間七七四年
2013/12/03(火) 18:46:19.30ID:vmrx5YoH長篠前後で織田徳川の勢力が大なり小なり拡大して武田の勢力が衰退したのは紛れもない事実
0512人間七七四年
2013/12/03(火) 20:39:25.28ID:DeuSQlmb>>503
武田にとって高天神城は足枷以外の何物でもない
織田と戦う気がないならとっとと徳川と和睦すべき
徳川との同盟を北条に先を越されたのは間抜け過ぎ
勝頼が武田軍の早期再建できたのは徳川に負けない程度まで
徳川に勝つまでの再建は最後までできていないね
二俣城や犬居城なんかは最後まで奪還できなかったのがその証ですな
0513人間七七四年
2013/12/03(火) 21:12:01.13ID:MasbcwuRいつもの>>428です
>織田と戦う気がないならとっとと徳川と和睦すべき
>徳川との同盟を北条に先を越されたのは間抜け過ぎ
織田に大敗して和睦を請うでは武田の面目が丸潰れだから難しいかも
いっそのこと勝頼が討死していた方が外交の方針転換できたかもね
外交に関しては勝頼より氏政の方が一枚上手と思う
氏政にしてみたら武田に裏切られるのは2回目だから「またか」って感じかな?
>徳川に勝つまでの再建は最後までできていないね
これは同意
武田は長篠合戦以降失地回復ができないまま滅亡に追い込まれてるしね
北条との戦いが武田軍のさらなる再建を不可能にさせたと思う
0514人間七七四年
2013/12/03(火) 21:25:10.24ID:DeuSQlmb武田の北条を裏切る姿を見せつけられたら同盟相手に選らばない気が
信玄と変わらない勝頼の外交感覚に血は争えないと誰もが思ったことだろう
0515人間七七四年
2013/12/03(火) 22:34:56.90ID:BymGPPp4長篠でもし武田が大損害蒙ったというなら国力的には上杉織田徳川なら謙信が積極的に討ってでなくても
織田徳川で武田を瞬殺するには十分すぎるからな。
なのに実際には岩村一城奪回するのすら、半年かかっても自力で落せず騙まし討ちに頼るアホっぷり。
これでは長篠合戦で武田が大損害蒙ったというのは無理がありすぎる。
信長は謙信に積極的に信濃攻めを要請してたから、織田厨が言うように武田戦線を軽視してたというのはありえないしな。
武田征伐の時もかなり警戒して勇んでどんどん先に進んではならんとか書いてるし
0516人間七七四年
2013/12/03(火) 22:36:47.26ID:eJKw7hR0時間をかければ相手も戦力回復するだろうし実際北条との同盟決裂後関東に出兵しまくる程
戦力は戻ってる。
それなのに長篠合戦後の織田軍の行動が岩村奪回程度に終わっており、
その後は一寸たりとも、武田から領土を切り取っていないのが織田。
また、武田攻めの際の信長の武田への警戒心から見ても、相当長篠では武田の強さを見せ付けられたと思われる。
ちなみに当時の織田は徳川や上杉との対武田での協調や同盟があるため
本願寺攻めに三万〜4万ほどを割いても徳川上杉と結託して攻めれば
傷ついた武田ごとき滅ぼすには十分すぎる国力と兵力差だと思われる。
信濃口や飛騨口が地勢的に攻め入るのがキツイなら駿河口でも伊那口でもどこでもいいしな
0517人間七七四年
2013/12/03(火) 22:37:56.37ID:G16CJgrM実際問題7年も間が開いててその間関東に出兵したり御館の乱に介入したりする余裕もあったし
時期的、状況的に考えて全くといっていいほど関係ないだろ。
時期的・状況的にいえば甲江同盟の成立や、それを反故した織田の騙まし討ちや、北条や徳川との対戦、北条の甲斐侵攻に備えた新府築城などと
結びつけて語られるべきなのが武田滅亡。
0518人間七七四年
2013/12/03(火) 22:42:36.09ID:N6vreS6J北条と協調しての、謙信との上野での攻防を優先した結果であって、長篠合戦とはあまり関係がないだろ。
武田は同時に遠江も徳川に攻められてて同時に兵を出すなんて国力的・状況的にキツイしな。結局どちらかをとって
どちらかを捨てるかって話になって、より本国から遠く、維持の難しい東美濃の後詰を後回しにしただけ。
黒田基樹氏によれば天正3年の長篠敗戦後の勝頼は上杉謙信の関東攻めに対応するため
北条氏政の要請に従い上野方面に出兵してたようだ。
つまり長篠の敗戦後も勝頼は織田や徳川なんて全く相手にせず謙信を第一の敵と見定めて
北条との協調を重んじ、上野に出兵する余裕があったと言う事。
そのくらい長篠合戦では武田がほとんど被害を受けてなかったという事だろう。
織田と徳川の国力なら3ヶ月以内もあれば、上杉との協調があれば武田を滅ぼすなんて容易い事だし
長篠で大ダメージ受けたのなら、この好機を信長が見逃すはずがないからな。
だが実際には岩村一城を奪回するのすら半年使っても実力では奪回できず、騙まし討ちに頼るアホっぷり。
0519人間七七四年
2013/12/03(火) 22:45:10.94ID:sldQMTwm0520人間七七四年
2013/12/03(火) 22:45:43.87ID:X+wCZdnU岩村を半年かけて騙まし討ちで奪回、二俣城を奪回程度の戦果じゃ長篠での武田の損害を証明する材料にはならないね。
武田が長篠で無傷だったとしても両勢力の規模からいえばそのくらいできて同然だし
長篠で武田が大ダメージ負ったのなら、それこそ2ヶ月程度で瞬殺できていいくらいの国力差だしな。
0521人間七七四年
2013/12/03(火) 22:46:48.19ID:eJKw7hR00522人間七七四年
2013/12/03(火) 22:55:17.37ID:sH/p6Gy/あとは徳川に任せればいいと思ったら
案外無能だった家康
0523人間七七四年
2013/12/03(火) 23:21:31.71ID:ELoUdqwt援軍なしの孤立無援の状態ですら岩村一城に半年かかっても攻め落とせず、最後は騙まし討ちで卑怯に陥落させただけだし
徳川はわりと早く遠州での勢力を盛り返したのに対して織田は自力じゃ半年もかかっても奪回が叶わなかったし
勝頼は遠州に出兵してたから、東美濃はスカスカ状態で見捨てられてたにもかかわらず容易には落ちなかったし
0524人間七七四年
2013/12/03(火) 23:25:41.62ID:A8Hxv4PH大軍を与えられて出兵した信忠が東美濃で半年ももたつく無能っぷりを発揮したため
到底かなわず、上杉は信濃ではなく上野に出兵する事になるんだよな。
勝頼も東美濃は全く落ちる気配がなかったため、上野や遠江の上杉や徳川戦線ばかり気にしてたし
信長は武田攻めの時も、長篠や岩村合戦でのトラウマが相当大きいのか、離反連鎖で崩壊状態の武田領に攻め入る時ですら
勇んで進みすぎるなとか注意しまくってたし。
0525人間七七四年
2013/12/03(火) 23:27:10.08ID:MasbcwuRID見ればわかりますが>>428です
>武田の北条を裏切る姿を見せつけられたら同盟相手に選らばない気が
仰るとおりですね
戦国時代の裏切り外交は悪いとは言わないけどあの状況で北条を裏切るとかありえないしね
武田は致命的な失敗で当然の様に滅亡したから結果から見ても当然と思う
0526人間七七四年
2013/12/04(水) 01:27:57.78ID:8Xvt0vj5それに犬居城に関する一次史料はほとんどないから、
よくわからないのが正答回答なのに妄想願望話を書いてて頭がおかしいのか?
0527人間七七四年
2013/12/04(水) 08:01:46.41ID:a0sMQX5I北条信者の妄想の根幹である
0528人間七七四年
2013/12/04(水) 10:34:20.56ID:vbdrQIWg御館の乱で北条が先に裏切ったってどんな話
>>525 初参戦したものです
あの状態で北条を裏切った勝頼はセンスないなと思いますが、北条も少し手ぬるすぎ
というかセンスないと思います。なぜもっと全力で傾注しなかったんでしょう
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