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【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】

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0001人間七七四年2012/08/04(土) 23:21:52.40ID:o+bXyiEt
戦列歩兵はどう並んでいたのか
決戦兵力としての予備兵はいたのか
車懸りとは? 鶴翼や魚鱗? 付城、野戦築城とは?

意外と謎だらけな戦国時代の軍事学について色々と語るスレです
0399人間七七四年2013/05/02(木) 17:46:24.43ID:NcFkJ+x/
>>397
そういう決まりがあるわけではないが、
武家の参謀には禅僧が多い傾向。
禅宗以外なら空海が天台宗。
本願寺の武官に下間氏がいたり
0400人間七七四年2013/05/02(木) 20:30:45.25ID:upvhkMJ3
>>397
武家の信者が多かったり、漢籍を多く保有していた
0401人間七七四年2013/05/03(金) 10:00:21.87ID:niV13QZ6
こういうのって信憑性が不確かな軍記中心の研究になるからあんまり盛り上がらないんだろうね。
信憑性のほとんどない軍記だと戦術がファンタジーになってるから。
0402人間七七四年2013/05/03(金) 10:12:36.83ID:gebgZCnY
そもそも戦後日本では軍事学戦史学は学問じゃねーから
研究が進みようもない
0403人間七七四年2013/05/04(土) 04:19:03.99ID:N24S4jPb
ここで何度も話題になってる「戦国の軍隊」の第2弾的な本が出たみたいだね
今気づいてポチってきた

だれか読んだ人いる?
0404人間七七四年2013/05/04(土) 13:03:54.91ID:i64USUpH
結構評判良かったってことか

どちらかといえば他の学者の反論本が読みたいところだけどな
まだまだ孤軍奮闘って感じ
0405人間七七四年2013/05/04(土) 14:55:32.70ID:3IO2wfWk
他の学者の反論なんてないんじゃない
へーそんなのやってるんだ物好きだねー程度で
桶狭間正面突撃説とか無検証でいろんな学者が採用してる体たらくだし
0406人間七七四年2013/05/04(土) 14:57:49.28ID:SiDwMHKF
とりあえずここに行け…と言う事で
ここに来ました、どうかお歴々のお知恵を拝借下さい。

「火縄銃の部品点数」って幾つ位なのでしょうか?」

どうかよろしくご教授下さい。
0407人間七七四年2013/05/04(土) 15:04:53.29ID:hhH728Ol
>>406
細かく分けるともっと多くなるだろうが、おおまかに20前後くらいかと
0408人間七七四年2013/05/04(土) 15:15:40.12ID:FpbL+zkr
>>406
こんな感じ
http://www.poverty.jeez.jp/loda/img/iyan13084.jpg
0409人間七七四年2013/05/04(土) 15:28:23.88ID:N24S4jPb
>>404,405
ちょっと前にでた歴史評論3月号で反論も含んだ論文が掲載されてたよ
その号のテーマが「戦国時代の軍隊と戦争」だったし
「戦争」そのものを研究対象にすることも若手の研究者の間ではそんなに抵抗感がなくなってきてるのではなかろうか
0410人間七七四年2013/05/04(土) 17:21:09.28ID:SiDwMHKF
>>408
サンクスです
おおよそ36〜38個ですか…
0411人間七七四年2013/05/04(土) 17:46:45.05ID:i64USUpH
>>409
それは楽しそうだ

ちょっと大きめの図書館行くかw
0412人間七七四年2013/05/05(日) 00:59:16.78ID:QPeG7eXf
>>398
未だ謀士の骨を残すを見ず
0413人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:akxDwJDb
自分も歴史評論3月号を読んできた。
則竹雄一氏の論文に西股氏の論が出てて、概ね評価してたけど、
・兵種別編成への転換は完全に行われたのではなく、まだ領主別編成が残った二元構造だったんではないか。
・軍役で大多数を傭兵で賄ったとするのは近年の雑兵論に影響されすぎで、基本は被官層で構成したはずだ。
・足軽は大名直属の傭兵から広まったとするのは明確な史料が無い。
っていう批判というか反論があった。
0414人間七七四年2013/08/19(月) NY:AN:NY.ANID:knTgOkCK
age
0415人間七七四年2013/08/19(月) NY:AN:NY.ANID:knTgOkCK
ミスった

age
0416人間七七四年2013/11/21(木) 19:31:43.58ID:fcmXNW9Q
城ってわざわざ攻め落とさずに素通りすればよくね?
敵が慌てて出てきたとこ潰せばいいじゃん?三方ヶ原みたいに
それか最低限の抑え残して本隊は先進むとか
関とかも周り山越えして突破しちゃえばいいじゃん
険峻なとこでも少数部隊でもって突破して裏側と表から挟撃しちゃえばいいじゃん?
0417人間七七四年2013/11/21(木) 20:44:36.87ID:XK2CsAVL
そうやな。できる限り素通りすればいいやな。城に籠った敵はそうそうは出てこない。だって出てって勝てる相手だったら、
初めから城に籠らんよ。最低限の抑え残して本体は先に進むのもいいね。峻険なとこでも少数部隊って、誰がやるかだよな。
城攻めしている方は勝ち組であって、あえて命の危険に晒そうっていう物好きはいないね。
0418人間七七四年2013/11/21(木) 20:55:52.96ID:5RHgOWJ1
>>416
>それか最低限の抑え残して本隊は先進むとか
「田分け」って言葉を知ってるかい?
兵を何回も分けて続けていけばどうなるか想像してみてごらん
0419人間七七四年2013/11/21(木) 21:24:55.61ID:cgDcQOO5
そもそも抑えの兵を置いてもその兵は無駄飯を食い続けるんだぞ
そしてそうしたからと言って目標とする相手が確実に滅ぼせるという保証はないんだぞ
資金的、人的な浪費をどこでカバーするんだよ

>>416は典型的な馬鹿の妄想
0420人間七七四年2013/11/21(木) 21:33:11.70ID:d2i+TOrH
放って置くと後ろからチクチクやられて、囲みの兵を置くと戦力分散。
三方ヶ原反転遅れたら背後突かれて死亡
山越え時間と物資の浪費。敵に悟られたら無意味
少数部隊で強攻損害大きい、失敗したら戦力の逐次投入損害増大
軍事って難しいやね
0421人間七七四年2013/11/21(木) 21:51:13.21ID:fcmXNW9Q
>>418
そりゃ何度も分けて進めばどんどん本隊の兵は減るだろうけど
敵領深くの城落とせばそれまで抑え置いておいた城とか降伏する可能性大じゃん?
降伏しなかったとしてもそれ以上進まずに抑えの兵置いといた城に引き返してじっくり攻めればいいし
どっちにしろ効率的なやり方だと思ったけど古今東西の名将がやってないってことは俺の考えは間違いなんだろうな
なんかすまん
0422人間七七四年2013/11/21(木) 22:08:45.67ID:d2i+TOrH
状況によってはやってるよ。数ある手段の一つとしてね
0423人間七七四年2013/11/21(木) 22:14:32.88ID:5RHgOWJ1
>>421
>敵領深くの城落とせばそれまで抑え置いておいた城とか降伏する可能性大じゃん?
その敵領深くの城に辿り着いた時に味方の兵力がかなり減っているわけで
兵数が減るということは堅牢な敵城を攻略する手法が減るわけで
そもそも敵将は相手の兵力を削ることが目的なわけで
不慣れな土地で安全の質を落とすと何が起こるかわからないわけで
例1 塩買坂合戦では勝者の今川氏が凱旋中に討死

戦国時代の合戦は兵数で決まるのが普通だから多ければ多いほど勝機がある
河越合戦や厳島合戦みたいな大軍が敗退する方が異常
まあ戦に勝っても命を失ったら意味が無いということですよ
0424人間七七四年2013/11/21(木) 22:28:21.69ID:5RHgOWJ1
あと味方の軍勢をいくつもの敵城の押さえとして残すと連絡や連携に難がある
連絡役は少人数だから敵地の領民が集団で襲撃する可能性が非常に高い
情報が漏れたら命取りになるってところかな
0425人間七七四年2013/11/21(木) 23:58:20.36ID:d2i+TOrH
伝令は身軽だからいいけど困るのは小荷駄隊
武士や武装農民ってゲリラだから。川中島屏風絵にも描かれてるけど
0426人間七七四年2013/11/22(金) 06:16:24.55ID:20PsjIhU
そもそも城というのは主城-支城のネットワーク防衛網だから、支城の機能を破壊するのが主城を落とす一番の近道
0427人間七七四年2013/11/22(金) 19:18:05.23ID:YPPJfyZx
補給線考えないから北条氏は徳川に負けたんだ >天正壬午の乱
0428人間七七四年2013/11/23(土) 19:01:10.16ID:u+kHolpz
北条の場合それなりに確保してたけど真田や木曾の離反で信濃ルートが絶たれた
さらに黒駒合戦の敗退で相模ルートも絶たれ氏直本軍の孤立化が決定的になった
北条は兵站線を考えてたが徳川にしてやられたと見るべきかと
逆に北条が徳川の兵站線を破壊 する発想があれば別の結末もあっただろう
兵力の多さで圧しきろうとした北条に油断があったな
0429人間七七四年2013/11/23(土) 19:28:27.01ID:RnxY6h53
家康の戦術「風が吹けば桶屋が儲かる」

http://music.geocities.jp/jphope21/0203/39/266_1.html

そこに戦術の特徴があったのだ。

( http://music.geocities.jp/jphope21/0104/41/271.html )
0430人間七七四年2013/11/23(土) 20:14:14.31ID:DiBeaoar
北条の場合は徳川方の甲斐制圧がすんなりスムーズにいって甲斐国内の国人の協力を得られなかったのが大きいな
元々甲斐の穴山領に当たる巨摩郡は穴山信君死後あっさり家康の物になったし
家康は旧武田国人を武田滅亡後までかくまってたから、依田も禰津も武川衆も恩義のある家康に対してあっさり恭順するどころか
北条軍相手に活躍してたし、甲斐への足がかりが丸きり違うわな。
北条方は甲斐を徳川に制圧されると上野〜信濃ルートと補給戦も領土も細長く飛び地的になるし
背後に上杉もいるしで地勢的に孤立しやすく、維持が大変だし。
0431人間七七四年2013/11/23(土) 20:26:29.15ID:4P+yE56J
戦術に絞るなら、家康の構築した塹壕線の構築も大きい
あれで北条は力攻めが難しくなった

この辺の塹壕線構築は長篠の戦い以降、賤ヶ岳や小牧・長久手に至るトレンドになる
0432人間七七四年2013/11/23(土) 20:38:48.65ID:ZRoUk6ZW
塹壕線というほど大袈裟な事はやってなかったんじゃ?
まあ、新府城の向かいに城を築いたりして北条方を迎撃してたとは思うけど。
0433人間七七四年2013/11/23(土) 20:46:41.30ID:xoflkUUo
北条の戦略目標は第一が上野で甲斐や信濃はついでに感がある
徳川の戦略目標は西に盟友織田がいるから必然的に駿河や甲斐になる
この双方の歴史背景の違いも戦略手法の数の差を生んだね
0434人間七七四年2013/11/23(土) 20:54:37.60ID:4P+yE56J
>>432
能見城を中心に微高地を遮断する塹壕線を形成したとされる
http://www15.ocn.ne.jp/~castle04/nokenjo.html
0435人間七七四年2013/11/23(土) 22:42:41.74ID:UcE1Us7k
小牧長久手もそうだが家康は長大な塹壕を作る戦が得意だよな
0436人間七七四年2013/11/23(土) 22:47:50.79ID:5LViEUVG
長期攻城戦だから作るのが当たり前だけど
小田原の陣でも徳川塹壕陣地は総構えに食い込む感じにガッツリ作ったそうだ
0437人間七七四年2013/11/24(日) 10:24:19.40ID:VlkFFc4n
小牧長久手の戦いで家康は塹壕なんて全く作ってないんだが。
むしろ小牧山には柵も付けずかけはなちに陣取らせ給う(三河物語)と無防備に
兵を展開してたのがわかる
0438人間七七四年2013/11/24(日) 10:26:45.13ID:zBe5QJyp
小田原合戦でも家康は全くそんな事やってない。
つかあの時代の築城技術にそんな大それた物はないし
敵が攻めてきたらあっさり陥落しまくる雑魚城しかないよ。
0439人間七七四年2013/11/24(日) 10:28:12.17ID:/g6Ugc0G
>>437
お、考古学的研究完全否定か
0440人間七七四年2013/11/24(日) 10:55:03.22ID:jrZbVcfx
徳川家の築城技術については最近、見直しが行われていて、
武田・北条の特徴とされた城の構造が、実は徳川家の改築によるものという
結果が出てたりする
0441人間七七四年2013/11/24(日) 11:01:20.34ID:oap1OSgB
>>439
だってそんな事書いてる史料ないし、家康からすれば蟹清水、外山、宇田津、比良、小幡といった
秀吉方に狙われる拠点は一杯あるわけで、小牧山なんて固めた所で周辺や背後から攻められて孤立無援にされるだけだから
そんな事したって無意味なんだよ。つか小牧山周辺の塹壕研究なんて勝手に学者が論拠もなく天正12年に無理矢理比定してるだけだろうが。

>>400
そもそも城の築かれた時期そのものが無理矢理根拠なく比定してるだけじゃん。
江戸期に築かれたものか幕末に築かれたものかもわからんのに
0442人間七七四年2013/11/24(日) 11:05:26.00ID:zBe5QJyp
中国西洋で言う城塞都市のまともな「城」の形にようやく少し近づいたのは
戦国後期織豊系城郭が普及した後の事だしそれ以前の日本の城塞なんて
山中城とか荒戸城とか各城郭の復元模型とか見る限りまぁお粗末なもんだよ
それで日本の築城技術や防衛普請技術がしょぼ過ぎるから毎年毎年上野や信濃といった日本一の天嶮がそびえる地域ですら
馬鹿みたいに城が陥落しまくってたじゃん。
ましてそれより遥かに短期間で即席的に作ったと思われる小牧山の防衛なんてたかが知れてるわ。
堅城とか捏造されてる岐阜城なんて6回くらい馬鹿みたいにあっさり落ちてるし
0443人間七七四年2013/11/24(日) 11:06:27.60ID:4Pk6Z+oZ
上杉と北条での関東の城郭攻防戦とか両軍の遠征のたびに天嶮のガチ山城が陥落しまくってるし
武田の信濃侵攻なんて侵攻側にしては大して多くもない兵力で北信濃の日本で最もキツイ天嶮山城を毎回毎回簡単に落しまくってるからな。
織田徳川の大軍に対して行われた三・遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってる。
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
0444人間七七四年2013/11/24(日) 11:07:35.92ID:0bOITmoK
戦国期の城郭なんてほとんどショボイ砦みたいなものが大半でしょ。
山中城とか忍城とか荒戸城の復元がネットで見られるけど城と呼ぶには到底貧相な代物だし
日本で最も厳しい天嶮が立ち並ぶ信濃とか上野とか奥三河の城だって馬鹿みたいに落城しまくってるし
堅城とか言われてる岐阜城なんて6回くらいあっさり陥落してるし
ましてそれより遥かに即席で作ったのが小牧山なわけだし
0445人間七七四年2013/11/24(日) 11:08:26.18ID:HP4IUeNe
基本的に後詰なしの篭城戦は負けるしかないといわれるほど愚策だからね。
何もせずにほっといても勝っても領土の広がらない上に兵力劣勢の城方は降伏・自落・寝返り・逃散で楽に勝てるのは
目に見えてるし長期間もたつくのはよほど寄せての大将が雑魚の時だけだよ。
0446人間七七四年2013/11/24(日) 11:10:53.47ID:0VJ564oq
豊臣時代の規格外の財力の限りをつくして築城されたと思われる大阪城ですら兵力3倍程度であっさり陥落してるしね
0447人間七七四年2013/11/24(日) 11:21:54.17ID:z84A8loa
また菅沼遼太が適当な事いってる
とっとと仕事探せよ
0448人間七七四年2013/11/24(日) 11:30:23.22ID:rGcPh6vs
普通にかんがえりゃ分かる事じゃん。
何年もかけて莫大な財産かけてようやく築かれた城などでもあっさり陥落してるのに
わずか2週間で築かれる即席の防衛施設なんてたかがしれてるだろ
0449人間七七四年2013/11/24(日) 11:35:24.23ID:jrZbVcfx
耐久性を無視すれば、直ぐに作れるけど
0450人間七七四年2013/11/24(日) 11:35:43.88ID:cFiaDhb7
なんだ菅沼だったか
0451人間七七四年2013/11/24(日) 11:36:03.58ID:VlkFFc4n
織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
0452人間七七四年2013/11/24(日) 11:48:16.99ID:0VJ564oq
中世に即席で作られた陣城を近世での本格的な城塞みたいに過大評価するのはおかしいだろ。
堅城であるはずの岐阜城、日本一の天嶮が立ち並ぶ信濃、上野、奥三河の山城
日本一の財力と期間で築かれた大阪城、いずれもあっさり陥落してる。
特に前二者は、ほんの短期間であっさり落ちてるし
ましてや2週間程度の即席の防衛施設なんてハナクソみたいなもんでしかないと思う
0453人間七七四年2013/11/24(日) 11:50:25.80ID:/g6Ugc0G
>>441
発掘で出てきてるんだよなあ…
徳川の塹壕も秀吉方の塹壕も

いわゆる「当たり前すぎて書かなかった」ことなんだろうな
0454人間七七四年2013/11/24(日) 11:54:21.91ID:zBe5QJyp
>>453
発掘といっても年代比定は適当だろ。
しかも楽田や小牧山は元々両軍が接触する地点として全く想定されていなかった場所だし
0455人間七七四年2013/11/24(日) 11:57:27.95ID:/g6Ugc0G
>>454
はいはい俺の考えと違うことは全部ウソデタラメ陰謀だよねー

否定するなら発掘された塹壕跡がなんのために作られたか証明する責任があるぞ?
0456人間七七四年2013/11/24(日) 11:59:40.36ID:zLWhLx6j
そもそも塹壕は比較的短期間で作ることができるから、急遽戦場になったとしても作れない、なんてことはありえない

ID:zBe5QJyp は軍事知識ゼロなんだろうな
0457人間七七四年2013/11/24(日) 12:00:42.94ID:0bOITmoK
幕末までの時代までにも何回も普請や改修などはされてるだろうし
戦国末期のショボイ技術でしかも短期間で即席的にそんなもんが作れるというのは
大いに疑問がつくわな
つか接触ポイントはいくらでもあるのに小牧山ばっかり固めていたって意味がないし
周辺の砦や小城郭を先に落されればアボーンだろ
0458人間七七四年2013/11/24(日) 12:02:42.65ID:HP4IUeNe
>>455
そんなもんなんでもいいだろ。
江戸期の訓練のためでも信長の斉藤からの防衛のためでも
関ヶ原合戦の時のためでも。
0459人間七七四年2013/11/24(日) 12:02:55.68ID:Os3ZfgwK
火力が爆発的に増加した近現代ならいざ知らず、それ以前の戦場は防御的に戦った方が有利なんだよ原則的に
籠城は下策〜と言ってる連中は戦術面でもそう思ってそうで心配になる
0460人間七七四年2013/11/24(日) 12:03:46.95ID:HP4IUeNe
織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
そもそも攻撃側は攻めるのキツイと思ったら攻めずに十分準備を整えてから攻めるか
他の拠点を攻めればいいだけだけど、防衛側は戦闘の回避→領土喪失、死につながるからそういうわけにはいかないからな。
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
0461人間七七四年2013/11/24(日) 12:04:55.60ID:0VJ564oq
戦国期は寄せてが圧倒的に有利。
その証拠に岐阜城は馬鹿みたいに毎回陥落しまくってるし
北信濃や上野のガチンコ山城もアホみたいに簡単に落ちまくってる
0462人間七七四年2013/11/24(日) 12:06:01.90ID:zBe5QJyp
後詰の望みがない防戦なんてよほどの偶発的条件か両将の指揮能力のよほどの差がない限り基本勝つ可能性皆無なんだから
戦争において弱小勢力なんて周辺の強国に飲み込まれてくだけだし
小さい勢力で大きな勢力跳ね返し続けた大名なんて佐竹とか田村とか甲斐とか名将しかいない。
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
0463人間七七四年2013/11/24(日) 12:06:21.62ID:HP4IUeNe
城攻めでも野戦でも兵力差が大きいと少ない方は味方の士気が下がったり離反や逃亡する兵が出まくるからね。
後詰の望みがない防戦なんてよほどの偶発的条件か両将の指揮能力のよほどの差がない限り基本勝つ可能性皆無なんだから
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
0464人間七七四年2013/11/24(日) 12:07:14.79ID:zBe5QJyp
確かに秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
0465人間七七四年2013/11/24(日) 12:09:28.67ID:4Pk6Z+oZ
城攻めでも野戦でも兵力差が大きいと少ない方は味方の士気が下がったり離反や逃亡する兵が出まくるからね
後詰の望みがない防戦なんてよほどの偶発的条件か両将の指揮能力のよほどの差がない限り基本勝つ可能性皆無なんだから
0466人間七七四年2013/11/24(日) 12:10:33.90ID:zBe5QJyp
別に地形補正で侵攻側不利って事はないな
織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない



どうみても武田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
0467人間七七四年2013/11/24(日) 12:11:45.05ID:VlkFFc4n
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
0468人間七七四年2013/11/24(日) 12:19:08.95ID:0VJ564oq
まず大前提として侵攻側・大軍側は自分がこの戦場で戦うのは不利だと判断したら攻め込まなきゃいいだけ。持久戦に切り替えるなり
他のルートで侵攻するなりすればいいだけで、敵が打って出てきたらそれこそ迎撃すればいいだけだし
大軍側は戦争の主導権握ってる
寡兵側、防衛側は戦争回避したら領土失うか死ぬだけだが大軍側は自分が好きなタイミングで自分が好きなルートで、また十分に用意して攻め込む事ができる点でも
圧倒的に有利。また勝っても領土が広がらない防衛側は離散や逃散が出やすく士気が下がりやすいが
勝てば領土、恩賞が約束される大軍側はそれはない。
0469人間七七四年2013/11/24(日) 12:19:38.17ID:4Pk6Z+oZ
日本程度のショボイ天嶮でそんな攻めるのが困難な地勢とか大軍が生かせない地形なんてないからな

日本で最も険しい天嶮が立ち並ぶ信濃や甲斐や上野でも武田や上杉によって一日に10も20もアホみたいに落城しまくってるし
他の地域の城攻めでも数ヶ月の長期に及ぶ城攻めなんて全体からしたらごくごく稀でしかないし
大体近くの拠点まで示威行動したら恭順したりボロボロ城方から離反が出たりしてあっさり終結する戦闘がほとんどだし

ヨーロッパの戦争とか日本よりも遥かにキツイ天嶮を日本よりも遥かに大軍が日本より遥かに重装備で動きまくってて、
これでも基本的には数の論理は生きていたし、それこそハンニバルのポエニ戦争は指揮官の能力で決まった戦争というべきだろ
地勢兵力ともにローマ軍有利のはずだしな
0470人間七七四年2013/11/24(日) 12:34:48.25ID:DLjWeWss
論破されたアンチ秀吉の織田チョンの爆撃開始w
0471人間七七四年2013/11/24(日) 13:08:49.37ID:z84A8loa
菅沼遼太の尻尾の出しやすさは異常
リアルでも我慢できなくてビチョビチョもらしちゃうんだろうな
0472人間七七四年2013/11/24(日) 13:41:52.85ID:0bOITmoK
至極当たり前の主張にしか見えないんだが
0473人間七七四年2013/11/24(日) 14:59:01.94ID:inqCtTHH
>>469
>日本で最も険しい天嶮が立ち並ぶ信濃や甲斐や上野でも武田や上杉によって一日に10も20もアホみたいに落城しまくってるし

ワロタw
それだけ成果出してるのに領土拡張が遅いとかどんだけ武田と上杉は無能なんだよw
0474人間七七四年2013/11/24(日) 15:51:39.28ID:VlkFFc4n
お互いにとっては取り返しを繰り返してたし
信濃は甲斐の2倍の国力
領土面積も美濃より広い
0475人間七七四年2013/11/24(日) 16:02:44.14ID:inqCtTHH
一日に10も20も城の取り返しを繰り返してたのかwww
マジでKING OF 馬鹿だろこいつらw
0476人間七七四年2013/11/24(日) 16:14:01.19ID:HP4IUeNe
そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
0477人間七七四年2013/11/24(日) 16:19:42.93ID:MUnaw58w
同レベルの国力の勢力と城をとっては取り返しをしてたから
拡張が遅くなるのは至極自然の事だろう。しかも戦ってはのはいずれも最も移動も攻撃も手間がかかりまくる
山間部や狭隘部が多く、キツイ城ランキングトップクラスの城が立ち並ぶ地域。
信長みたいに畿内の有力者が次々死んで足利嘉昭が格好の大義名分を引っさげて尾張まで
やってくる棚ボタは上杉にも武田にも北条にもなかったしな
0478人間七七四年2013/11/24(日) 16:28:48.21ID:zBe5QJyp
尾張は全国トップクラスの好立地&チート国力

斉藤は幼君で極度に弱体化
義元は運よく突発事故で戦死
六角も観音寺騒動で弱体化
三好は統率が取れずバラバラ
北畠は内紛で分裂
上杉は内紛で極度に弱体化
武田は勝頼が発狂失政自爆&徳川北条戦で疲弊しきり抗戦したのは仁科だけ
浅井はわずか10万石そこそこで織田領国の20分の1か30分の1くらいの国力
朝倉・毛利は大チャンスでも本国にヘタレ退却するアホが当主

こんな弱体化した雑魚相手の火事場泥棒戦争ばっかやってるのに負けまくり蹴散らされまくる信長の無能さは異常レベル。
0479人間七七四年2013/11/24(日) 16:33:18.53ID:0VJ564oq
美濃は尾張より小さい54万石だし
加治田城・黒田城・小口城・鵜沼城・猿啄城・犬山城とか内通と自落でおちてるだけだし
信長は何もやってないしただ幼君で統制がぐらついてただけ。斉藤はクーデターまで起こってたし

しかも後半になると浅井や甲賀衆まで援軍で送られてくるし

あと織田の内紛ガタガタという事情って一体なんだ?
公記にも諸資料にも全くない妄想言われても困る
0480人間七七四年2013/11/24(日) 16:34:03.31ID:0bOITmoK
54万石あるうち、信長が実質相手にしてたのは10万石くらいじゃないかね
ほとんど抗戦意欲なしで自落・内通ばかりだったし国内でクーデターまで起きてたし
まともに戦える状態じゃなかったんだし
0481人間七七四年2013/11/24(日) 16:36:03.69ID:zBe5QJyp
信長の周りには強敵斎藤氏ぐらいしかいなかったからな
畿内で賢主と呼ばれた大名はみんな死んでいて最盛期が過ぎ
衰退に向かっていく大名ばっかりだったじゃん

それに比べ関東地方は強豪揃い
しかし北条・武田・上杉の三国が互角の鼎のように竜虎獅子が合い戦う強豪っぷりだったしな。
武蔵国の名は武器の蔵と言われていたと信玄も言ってるし。
家康は武田旧臣を配下に入れて翼が生えたようなもんだ。
そのおかげで信濃や甲斐が統治できたしな。
戦国関東三国志と呼ばれるほど
三雄は強かったからねぇ。
興福寺の史料でも織田軍大和衆が越後と甲斐の兵の強さにビビってたからなー

そんな中で勢力拡大してた武田さんは素直に凄い
0482人間七七四年2013/11/24(日) 16:36:53.16ID:0VJ564oq
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達

駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。

越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。

南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)

美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。

跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。

結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。

一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
0483人間七七四年2013/11/24(日) 19:16:22.32ID:gWi2JZXY
信長、秀吉が無能と言い張りたいがために
一度しかない人生を棒に振るのか。

どうでもいいけど、武田勝頼って二人より無能だよな。
0484人間七七四年2013/11/24(日) 19:38:55.60ID:VlkFFc4n
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
0485人間七七四年2013/11/25(月) 08:12:00.13ID:vkYmBb5E
親から引き継いだ最強家臣団を犬死にさせて大敗し、滅亡した、
雑魚中の雑魚、キングオブ雑魚とは武田勝頼のこと
0486人間七七四年2013/11/25(月) 19:38:51.95ID:AtOvjfIS
土曜日にレス(>>428)してから日曜日は2ch見ていなかったけど随分雰囲気が変わっちゃったのね
双方とも荒らしが目的じゃないんならこのスレで何がしたいのかよく考えてくれるとありがたい
誰かを崇めるために誰かを蔑む発想は見苦しいと思うよ
0487人間七七四年2013/11/25(月) 19:41:53.66ID:9nzREQBN
誰それが上下言っても仕方ないと思うんだ
実際自分がその立場になったら先の未来も知らないでその人よりうまく立ち回れるのか
自分が経営者なりトップになってるならいま何が出来てるか
学生や使われる身だったら零細企業の社長の座を得たら潰さず大企業に出来るのか想像して考えてみるといい
今のようなここにレスする余裕のある生活はできないと思うぞ
そう考えたら家滅ぼした人もこんなに大変だったなと思えると思うぞ
0488人間七七四年2013/11/25(月) 19:54:13.02ID:empw2kvT
戦国時代の大名と現代の会社の社長とは全く違うからな。
どちらかというと、一昔前のガキ大将とか、暴走族が部下を率いて抗争を繰り広げるのと似てる感じがする。
0489人間七七四年2013/11/25(月) 19:54:43.81ID:8UUK8wyc
相手が菅沼だとわかった時点でまともな会話が成立するわけがないのに
0490人間七七四年2013/11/25(月) 19:54:44.37ID:3Bt/HExR
何か荒らしがのさばって雰囲気悪いと思ったからレスしなかったけどスレ住人がんばるなら協力する
私は>>433でレスしました
スレタイの軍事学で話が進むと嬉しい
0491人間七七四年2013/11/25(月) 19:56:20.77ID:Mai5WVDs
菅沼遼太にかまう奴も荒らし。ゆえにお前も荒らし
0492人間七七四年2013/11/26(火) 19:52:48.85ID:k35iQE2N
>>491
菅沼遼太恥ずかしい自演乙
君の様な嘘吐き荒らしはこのスレに居着いたらいけない
かまってもらいたいならだがスレにお帰り
0493人間七七四年2013/11/26(火) 21:30:49.19ID:dtcPhMFn
>>490
昨日レスした>>428です
軍事学の話を進めるのはいいけど取っ掛かりが思いつかず
というわけで>>433氏がレスした内容からでいいかな?

徳川が敵対関係の武田に戦略を練っていたのは当然と考えます
しかし北条も友好関係の武田ではあるけど戦略を練っていたんじゃないかな?
United StatesのCalor-coded War PlansではWar Plan OrangeだけではなくWar Plan Redも存在している
まあ北条はUnited Statesではないので絶対とまでは言い切れないけどね
それでも御館の乱で武田が北条を裏切ったため交戦状態に突入する
ここまで来たら対武田戦略も上野だけではなく甲斐も含まれたはず
ただ主戦場は駿豆方面と上野方面ですので甲斐や相模が主戦場にならなかったのは双方とも総力戦を避けたと解釈してます
武田は徳川との戦いが北条は佐竹との戦いがあるから消耗戦を警戒したんでしょうね

対武田戦略(甲斐方面)の手法の差は歴史的にも長く重要性も高い徳川の方に分があるのは同意です
0494人間七七四年2013/11/26(火) 23:00:17.34ID:cM6/mb1H
武田と徳川間の抗争はその時期はほとんどストップしてる
甲江同盟の影響で双方とも警戒を緩めていて武田は対北条戦に全力で臨んでいた。
一次資料みても武田は景気いい話ばかり書いてるし高天神城を落されるとも全く予想していなかったようだ。
北条は北条で二年連続で甲斐に侵攻したり(撃退されたが)
駿河伊豆国境の長窪城を陥落させたり反撃をやるにはやってる。
ただ佐竹結城宇都宮といった連中に下総や下野や上野や南常陸などを攻撃されまくり
戦力が分散状態だったため、全体的には劣勢で、関宿防衛のために築いた飯沼城を攻略されたりしてた。
0495人間七七四年2013/11/26(火) 23:51:07.12ID:4XZ9TqtT
>>493
応答ありがと>>433です

武田は徳川に苦戦してたし出兵し過ぎで財政破綻してたから相模攻めは不可能という背景もある
北条は武田みたいにやたら出兵しなかった分先が見えた戦略を持っていたかな
長期消耗戦では武田より北条の方が役者が一枚上手
0496人間七七四年2013/11/27(水) 20:17:57.66ID:7ot5VLKw
>>495
昨日レスした>>428です

>北条は武田みたいにやたら出兵しなかった
武田が最初から攻勢に出た理由は早期終結を目指していたからではないかな?
北条と合戦を始め徳川とも交戦状態が続いているのに織田が本腰入れて戦闘再開したら武田の滅亡は免れない
北条の方は織田の様な敵対強国が背後にいるわけでもないから慌てる必要もない
織田の存在が武田の戦略の足枷となっているのは間違いないでしょうね

そもそも武田は織田が本腰入れて攻めてこなかったことにいいことに胡坐をかいていたね
織田と戦い抜くか和睦するかどちらでも構わないけど何か手を打つべきだったと思う
本願寺が織田と和睦したことで織田の足枷が外れ武田家中でも動揺が起こる
高天神城を見殺しにしたことで武田の後詰能力低下が世間に晒されることになる
これで木曾や穴山の心は離反に決したと言えるよね

何で武田は織田との関係を中途半端にしちゃったんだろう?
0497人間七七四年2013/11/27(水) 21:11:18.86ID:SCQb2YzQ
433です

>>496
織田単独で攻めてきても武田滅亡は確実だから早期終結を目指す方が当然ですな
武田も徳川の遠江侵攻に対応してたのもあるけど無策と言われても仕様がない
本願寺が織田をなんとかしてくれる他力本願な考えも持っていたんだろう
0498人間七七四年2013/11/27(水) 23:35:02.27ID:iGfNALai
武田が徳川に苦戦なんてしてないし
むしろ家康の方が田中城の依田信蕃に最後まで歯が立たず
高天神城も同盟詐欺の隙をついて火事場ドロしただけだし
それまで2年余りも苦戦続けてたじゃん。
それに相模は直接攻めてないけど
それ以外の北条領である武蔵・上野・伊豆は攻勢かけまくってたし
上野は東部の由良長尾富岡領以外全て武田の物になってる。
由良や長尾も武田の攻勢の結果、北条から離反しつつあったようだしな
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