【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
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0001人間七七四年
2012/08/04(土) 23:21:52.40ID:o+bXyiEt決戦兵力としての予備兵はいたのか
車懸りとは? 鶴翼や魚鱗? 付城、野戦築城とは?
意外と謎だらけな戦国時代の軍事学について色々と語るスレです
0038人間七七四年
2012/08/12(日) 02:01:32.35ID:DrNBkFgP傭兵の活躍は確かだが、彼らが戦術を共有する上で参考にしたのは、
やっぱり国民皆兵だったアテナイやテーバイ等ギリシャ各国の密集隊形であることは間違いないし、
カエサルを例に出すのも、マリウス以前の古代ローマの躍進を無視することになる
ハンニバルも結局“傭兵だから”負けたとも言えるしね
0039人間七七四年
2012/08/12(日) 02:05:20.02ID:DrNBkFgP0040人間七七四年
2012/08/12(日) 02:57:08.12ID:v2tKLiaS陣形を組んでの戦いになったよな。
前列に長槍組の横隊、その前もしくは両翼に鉄砲組・弓組、足軽大将や徒歩武者、その後ろに騎馬組
というのがオーソドックスな配置だけど。
備 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
0041人間七七四年
2012/08/12(日) 03:14:10.34ID:v2tKLiaS号令や銅鑼によって進退し、攻撃は呼吸を合わせて一斉に槍を振り下ろした。
続いて一斉に槍を振り上げ、また一斉に叩き伏せた。
長柄はしなるので叩くのに都合がいい。武田の長槍は穂の横に打撃用の木槌がついていた。
長柄組は足軽ではあるが上から振り下ろされる槍への防御のため、陣笠ではなく兜を着用することがある。
騎馬に対しては槍衾を作って防御。
0042人間七七四年
2012/08/12(日) 12:38:54.87ID:RVVoa8vpそれ以前は大河ドラマのようにある程度バラけた状態で、突き合っていたんじゃないかと
0043人間七七四年
2012/08/12(日) 13:21:21.95ID:0g3urcdr朝鮮の役、関が原くらいだと、一斉射撃→その混乱中に突撃、ってなのが基本になるしね
0044人間七七四年
2012/08/12(日) 14:25:20.14ID:RVVoa8vp0045人間七七四年
2012/08/12(日) 19:19:27.68ID:aIcIkdQR0046人間七七四年
2012/08/13(月) 00:05:16.21ID:mbM7CIYfその長槍隊を守る竹束隊みたいなのはいなかったのかね
0047人間七七四年
2012/08/13(月) 00:22:23.22ID:LhPY2nF10050人間七七四年
2012/08/13(月) 07:35:51.15ID:jhhokubZ遭遇戦ではなく対陣する時間があれば、竹束と掻盾(木製の置き盾)、更に柵を準備して矢戦から始めるよ。
鉄砲組と、その装填の隙間を埋める弓組が始めに戦う。
矢玉が少なくなると、双方の長柄足軽が進み出てやりあう。
崩れたところを見計らって、徒歩武者や騎馬組が突入して白兵戦。
ってな流れが典型的では。
0051人間七七四年
2012/08/13(月) 13:34:44.28ID:TjwFobTh日本だとあまり大平原の会戦がないからかな
平地はあってもちょっとずれれば丘や山があるし
隊形を工夫するより地形利用するほうがいいわな
0052人間七七四年
2012/08/13(月) 16:33:37.48ID:P3kOh57p平地じゃそうはいかねぇ
不勉強なせいか海外の戦で夜襲ってあんまりきいたことないな
いつも昼間やってるかんじ
0053人間七七四年
2012/08/14(火) 04:08:07.79ID:oSi9ZOI/丁度クラウゼヴィッツ『戦争論』の夜襲の項目読んでたわw
守る側は陣地のことを熟知しているし、奇襲なら小さい部隊ですべきだけど小さい部隊でやっても敵は倒せないし、
大きい部隊で動けばばれるしで、正直限定的な効果しか望めないって
「夜襲は、本戦に従属する個々の部隊において実施されるのが通例であり、大会戦において行われることは滅多にない」
しかしみんな見てきたように話してるがどっからその見解は出てきたんだw
0054人間七七四年
2012/08/14(火) 15:23:17.17ID:qpuLEr9J戦国時代にほんまにそんな言葉あったんかね
あの漫画、途中からやけに通説はこうだが古戦場を実地に調べたらどうのこうのとやっているが…
0055人間七七四年
2012/08/14(火) 16:14:30.02ID:uKWQpOgbセンゴクは初期に鈴木眞哉の影響か、偏った解釈しすぎて批判くらったんで
途中から突飛なことは言わなくなったね・・・
0057人間七七四年
2012/08/15(水) 11:05:21.08ID:BY1UbRSI鉄砲持って走り回れても
束竹は邪魔なんで時間に余裕がある場合の対陣限定と読んだ
0058人間七七四年
2012/08/15(水) 13:09:53.61ID:hWXSod7v0059人間七七四年
2012/08/15(水) 17:31:18.40ID:BY1UbRSI足軽<ヒソヒソ(まじかよ)
雑兵<ヒソヒソ(大将、柵は切るの運ぶの?)
小者<(どっちも勘弁してくれ…)
0060人間七七四年
2012/08/16(木) 00:47:00.26ID:zZbvynIW要するに最小単位300の細胞壁の集まりと思っていいのかな
備制度ってどの段階で確立したんだろ
太田道灌あたりかな。そもそもあの辺りの戦の体系が謎だよね
0061人間七七四年
2012/08/16(木) 02:21:51.02ID:3zL2/QQk寄親(家臣)とその陪臣の主従単位で部隊分け(戦国初期)
↓
複数の寄親衆を集めて作った備(戦国中期)
↓
兵科ごとに再編成、足軽大将のもと組衆化した備(武田信玄・北条氏康等)
という流れかと。
0062人間七七四年
2012/08/17(金) 03:39:05.88ID:tvy6haG9その当たりの流れ、長文で全然良いからもう少し詳しく説明してくれたら嬉しいなぁ
例えばそういう移行って戦国大名の中央集権化と関わりがあったと思うんだけど、
「備えってなんだよしちめんどくさい!」みたいな寄親の軋轢や戸惑いみたいなのって文献に残ってたりするのかね
0063人間七七四年
2012/08/17(金) 08:51:34.74ID:vFmRhHnh最小単位300?
なんぞそれ
0064人間七七四年
2012/08/17(金) 09:00:39.04ID:E7YzFrziという問題点がある
0065人間七七四年
2012/08/17(金) 09:06:49.59ID:GeKQ6XE+いつまでも、反日と精神的奴隷として生かす。
日本が目覚めると、困るのは、韓・中・米みんな一緒。
靖国では英霊が日本の為に戦ったというけど、何が日本の為、アジアの為だったのか見直さないといけない。
日本は人種差別問題の礎になった。それはインド、東南アジア多くの国が認めている。
http://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=rjthSfB1RF4
0066人間七七四年
2012/08/18(土) 10:55:35.53ID:1lnIkmvXもろその手の内容の本が本屋の歴史コーナーにあったな
今度タイトル見てくるか
0067人間七七四年
2012/08/18(土) 13:19:51.13ID:KTVAbZZ+基本的に挑発だから乗るんじゃないよ、と定められていた、という風には聞きはするのですが、
あの時代の罵り合いなどというのはどのようなものだったのでしょうか。
私が見たことがあるのはマンガになってしまいますがセンゴクとそのスピンオフ作品のセンゴク兄弟です。
どなたかご存知でしたらよろしくお願いします。
0070人間七七四年
2012/08/19(日) 03:07:08.63ID:D2ZMq44V「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」
から分かること
・戦場では個々の部隊の活躍が目に見えて分かる
・総大将はその活躍が見える位置にいた
・部隊と部隊は結構、ついたり離れたりするものだった
0071人間七七四年
2012/08/19(日) 04:54:45.89ID:mOL+/Dvh平地なら見えないだろうし
もしくは使い番が頻繁に出入りしてたか
あと常に部隊同士くっついている必要はない気がした
0072人間七七四年
2012/08/19(日) 10:12:33.41ID:VPce+S5V0073人間七七四年
2012/08/20(月) 01:17:39.35ID:n/lK74iyhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
>備の人員は一般的に300名から800名、本陣備の場合は1500名前後であるが、
>これらは大名の石高、戦時における戦闘要員、後方要員双方の動員、各備の任務により増減する。
>因みに石高一万石の領主を大名とする一つの基準は、備を一つでも編成できる事にある。
これハッとさせられたな。本当かどうかは分からんがw
0074人間七七四年
2012/08/20(月) 20:45:07.53ID:yZ6pyhBWてのが読んでておもろかった
領主別編成か兵種別編成かの考察や
足軽の位置付け
戦国時代の兵站
兵農分離や農兵動員やら諸々
まぁ好みで諸説突っ込まれるんだとは思うけど
0075人間七七四年
2012/08/21(火) 05:20:16.46ID:ujTTcSygまあ編成にしろ兵站にしろ大名によって様々なんだろうからな
あと、戦国前期か末期かによってもだいぶ変わりそうだな
0076人間七七四年
2012/08/21(火) 07:45:52.35ID:JB38fX8e0077人間七七四年
2012/08/21(火) 16:30:26.26ID:7ZZ6Q7a3本当に興味あるわ
歴史に名前が残ってないんだけどとんでもないアイデアマンとかっていたんだろうな
黒田官兵衛とか石田三成とか、豊臣政権を支えた幕僚にその匂いをちょっと感じる
0078人間七七四年
2012/08/21(火) 16:31:49.62ID:dNJHXAHM0079人間七七四年
2012/08/21(火) 17:07:59.44ID:Ae3eKQ9/0080人間七七四年
2012/08/21(火) 17:43:35.95ID:JB38fX8e0081人間七七四年
2012/08/21(火) 18:10:18.43ID:MZhvM6eQそうなの?
外様と(織田を含む関係者)豊臣親衛軍じゃ、相当に編制が異なりそうだが。
>>74
これは大変良かった。ただ、領主直属の「足軽」部隊と、城を中心として編制される「衆」(この著作中では小机衆が代表)
がどのように組み合わされて「備を立て」られるのかが不明だった。
つまり、鉄砲足軽隊(領主直属、指揮官はいわゆる「武士」が任命される)と
城を中心として集まってくる「武士」の部下たちを、槍、鉄砲、弓、徒侍、馬上と分けたときの鉄砲を持っている身分としての「足軽」の寄せ集め
がどのように組み合わされているのかが全く分からなかった。
008281
2012/08/21(火) 18:22:34.15ID:MZhvM6eQA.支配階級・ 常備兵 戦闘員・ 侍(領主およびその一族・郎党) ただし、着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制される
B.被支配階級 常備兵 戦闘員・ 傭兵としての足軽
C.被支配階級 臨時役 非戦闘員 領主が軍役によって動員した雑兵
D.被支配階級 臨時役 非戦闘員 侍に従属する小者・中間
E.被支配階級 臨時役 非戦闘員 陣夫として動員された百姓
Aの「着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制」された鉄砲組と、
Bの「鉄砲組」
との関係が分からない。
008381 間違えました
2012/08/21(火) 18:26:08.71ID:MZhvM6eQ『戦国の軍隊』西股総生著 学研刊 P187より
A.支配階級・・ 常備兵 戦闘員・・ 侍(領主およびその一族・郎党) ただし、着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制される
B.被支配階級 常備兵 戦闘員・・ 傭兵としての足軽。兵種ごとに組編制。指揮官は侍が任命される
C.被支配階級 臨時役 戦闘員・・ 領主が軍役によって動員した雑兵 ただし、着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制される
D.被支配階級 臨時役 非戦闘員 侍に従属する小者・中間
E.被支配階級 臨時役 非戦闘員 陣夫として動員された百姓
AおよびCの「着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制」された鉄砲組と、
Bの「鉄砲組」
との関係が分からない。
0084人間七七四年
2012/08/21(火) 19:04:22.72ID:7ZZ6Q7a30085人間七七四年
2012/08/21(火) 19:50:15.31ID:Ae3eKQ9/比較したけど実はなさそう
>>81
Aは大名の家臣がそれぞれ引き連れた陪臣の足軽を指す
Bは大名が直接雇用した足軽を指す
個人的には兵種毎の再編成はないと考えるが
0086人間七七四年
2012/08/21(火) 19:58:51.67ID:7ZZ6Q7a3008781
2012/08/21(火) 20:47:32.67ID:MZhvM6eQ>「兵種別編成方式」に対して、軍役を付加された領主たちがめいめいに動員した兵士たちによって
>部隊を構成する方式を、ここでは仮に「領主別編成方法」と呼んでおこう。
>足軽の基本的属性を、傭兵、非侍身分、軽装歩兵と位置づけ
しかし、「馬上」の足軽もいて、ほとんど侍と変わらず、この足軽隊を指揮するのが「足軽大将」
こうした足軽大将も、領地を与えられ、侍身分として遇されるようになるが、最後まで「足軽」という区別は残った。
>兵力動員のあり方が、封建的原理に則っていなかったためであろう。
また、他国の援軍など「汚れ仕事」を担わせることが多かったからだ。
最後に山本菅助も足軽大将だと例で引かれている。在地外の武士を引き立てるのに足軽大将は好都合な在り方とも
※こうなると、侍大将と足軽大将の上下がよく分からなくなる。
※昔自分は、侍大将が複数の足軽大将を指揮下においていたと思っていたが、違うようだ。
※侍大将と足軽大将は、合戦場では同じレベルの指揮官だが、平時に身分としては侍大将が上ということらしいね。
率いていたのが、鎌倉以来の在地領主を中心とする軍勢か、傭兵かの違いしかないと言うことだろう。
※こう考えると、山本菅助が、軍議で馬場や香坂らに混じって『キツツキの策』を検索できるのも無理なく整合する。
以前は、下の身分のものが、こんな重要な献策が出来るものかと思っていた。
0089人間七七四年
2012/08/21(火) 20:59:28.01ID:7GiGOlWx0090人間七七四年
2012/08/21(火) 22:15:36.48ID:d5XvPEIC0091人間七七四年
2012/08/21(火) 22:36:53.94ID:Fxw3KAbA斎藤道三は「父親」が京の商人、「息子」が守護代家家老
0092人間七七四年
2012/08/22(水) 01:31:36.69ID:bVokXHFG>昔自分は、侍大将が複数の足軽大将を指揮下においていたと思っていたが、違うようだ。
武田軍制における名称と、たとえば西国における名称って同じ言葉でも立場は違うのかもよ
陶晴賢は「西国無双の侍大将」って呼ばれたらしいし、この侍大将は「軍事指揮権者」ってニュアンスがある
0093人間七七四年
2012/08/22(水) 19:29:38.03ID:SZlKUOYk『戦国の軍隊』西股総生著 学研刊 P129より
岩付衆
太田源五郎(←北条氏政三男)が、「侍大将」
小旗 120余本・奉行3名
鑓・・ 600余本・奉行5名(長柄)
鉄炮 50余挺・奉行2名
弓・・ 40余張・奉行3名
歩者 250余人・奉行3名
馬上 500余騎・奉行6名
歩走 20人・・・奉行1名
合計 1580余
岩付衆に「足軽」は、いない。全体が「領主別編成方法」を取っている
0094人間七七四年
2012/08/22(水) 19:41:20.46ID:UjeWGMCT0095人間七七四年
2012/08/22(水) 20:18:31.77ID:4yKX2RrEこのとき陣庭奉行の宮城四郎兵衛に届いた着到状では、
騎馬8騎(含本人)、槍17人、歩者4人、旗持4人、鉄砲2人、弓1人の動員が割り当てられている。
編成段階では、宮城のような家臣(給人)達が動員してきたそれぞれの主従は解体され、兵科別に再編成しているよね。
0096人間七七四年
2012/08/22(水) 20:26:54.42ID:SZlKUOYkたぶん「着到」が終了して「備を立て」(=兵種別編制が完了し)たあとの岩付衆の鉄砲隊のことだと思います。
じゃあ、その鉄炮を操作する「雑兵」は、どこから来たのかというと、ほとんどが領主が連れてきた者たちでず。
『戦国の軍隊』では、「宮城四郎兵衛」の軍役が例としてあげられています。
宮城は、本人1名(=馬上)と本人用指物役1名のほか
小旗3名、馬上7騎、長柄17本、鉄炮2挺、弓1挺、歩者4名の合計36名を動員し、
バラバラに、小旗、馬上、鑓(長柄)、鉄炮、弓、歩者、歩走の各組に組み入れられて、備が出来るというのが、
著者の西股氏の考えのようです。
岩付鉄炮衆という足軽(=常設傭兵)の鉄炮組は、この天正5年(1577年)7月13日付けの「北条家朱印状」の上では確認できません。
0097人間七七四年
2012/08/22(水) 20:40:55.66ID:UjeWGMCT個人的にはそれぞれは北条氏房の家臣だと思うけどね
009896
2012/08/22(水) 20:42:54.44ID:SZlKUOYk「騎馬隊」「騎兵」「騎乗兵」などの定義によります。
「次々と通説を打ち砕く鈴木真哉」氏の定義
(『戦国「常識・非常識」大論争! −旧説・季節を信じる方々への最後通牒』 洋泉社 )によれば、
@騎乗する兵士が(常設的に編制され)組織化されたものが「騎馬隊」(具体的には騎兵中隊/騎兵連隊)であり、「騎馬隊」に属して騎乗する兵士が(兵種としての)「騎兵」
具体的には、ヨーロッパで16世紀後半から編制され始めた。
A馬に乗る兵士がヨーロッパでは「騎士」(日本では)「武士」。騎士が馬に乗ったまま「突撃」することはあっても、
(彼らが常設的に編制され)組織化されているわけではないので
「騎兵隊」とか「騎馬軍団」とかは言わない。「臨時騎士集団」ぐらいだろう。
0099人間七七四年
2012/08/22(水) 20:48:12.78ID:UjeWGMCTだから軍役状にある馬上も自身以外は別個に武家奉公人を従えているはず
0100人間七七四年
2012/08/22(水) 20:57:17.18ID:BQ3bJGYI足軽にも普段から新田や小作が離散した無主農地を屯田兵として耕作させて経済力の向上を図ったのか
どっちなんだろ
0101人間七七四年
2012/08/22(水) 21:06:02.05ID:gIVvrAPU0102人間七七四年
2012/08/22(水) 21:08:01.26ID:bVokXHFG「兵農分離が同時期に全国的に進展したのが不思議」って前に書き込みあったけど確かに
0103人間七七四年
2012/08/22(水) 21:10:06.61ID:gIVvrAPU0104人間七七四年
2012/08/22(水) 21:35:26.91ID:BQ3bJGYI鉄砲という集中かつ統一運用したほうが効果が累乗するけど
維持に金がかかる兵器の存在は、
兵農分離というか寄親寄子というか諸兵科連合単位としての「備」の概念を促進するだろうし
地域統一軍閥の成立が遅い奥州や四国は
それらの軍事改革を行うだけの経済的余力に欠けたというところか
なかでも別方向の軍事改革で四国の大半を制覇した長宗我部は異質ですね
恒常的に国家総動員してたなら土一揆の組織化だ
0105人間七七四年
2012/08/22(水) 21:36:59.88ID:gIVvrAPU0106人間七七四年
2012/08/22(水) 21:49:50.70ID:bVokXHFG「田んぼする人」と「戦う人」が戦国期を通して分かれていったっての定説だったと思うんだけど違うの?
0108人間七七四年
2012/08/22(水) 22:53:26.78ID:s1o2c/hu「兵農分離」は織田家だけで成功してて、他の大名は大軍編成の煽りで(お金がなくて)中小農民を軍役にかり出す傾向にあったよ
北条氏は有名な例だけど、例えば上杉の安田領検地帳(天正二年)では109人中知行2貫以下が23人もいた
徳川家だと甲斐中尾郡軍役帳(天正十三年)では31人中苗字持ち(土豪クラス)10人、苗字なし(被官クラス)21人
これは武田家の家臣団をそのまま継承したと言われるから、武田軍団も多くの中小農民層を含んでたと思われ
伊達家の動員調査(天正十七年)では苅田伊達郡から1540人のうち66名以外は全員百姓だったよ
こういう層は「軍役衆」と呼ばれ、年貢の代わりに兵役についている農民、って見方がなされてる
非常時の総動員となると完全に農民主体、小牧・長久手の戦いで徳川氏は15−60歳まで男子全員軍役にかり出してるよ
で、豊臣時代に兵農分離が進んだ、とは言われるんだけど
伊達氏が仙台城完成の際には”お金がなくて”城下に全員住まわせられず有力家臣をまるごと土着させる方針をとってたり
稲葉氏の在郷鉄砲足軽の制度や徳川頼宣が村々に20丁鉄砲を預けて訓練することを命じてたり、農兵の育成が行われてる
結局、大軍維持するにはお金がかかるので、正規社員だけで揃える(兵農分離)のは金持ち(織田家)以外事実上無理があって
兵力の大部分を派遣社員やパート(軍役、中小農民)に頼らざるを得なかった
…ってのが、最近の見方じゃないかなぁ……
0109人間七七四年
2012/08/22(水) 23:00:24.60ID:bVokXHFG織田軍は兵農分離してた→織田軍だけが兵農分離していたわけじゃない
って流れをここ数年経験したんだけど、今では、
成功していたのは織田軍だけだった
という結論に至るのか。面白いな。
0110人間七七四年
2012/08/22(水) 23:04:23.11ID:5d4D5QsU織田家のどこに兵農分離があるんだよ?
あの守護大名と大差ない旧主的動員しかできてない信長の織田家に。
東国じゃとっくの昔にやってた城下への家臣の集住さえ晩年ようやく取り掛かった「らしい」程度だぞ?
最近の説は「兵農分離」という物自体が存在しなかった。というのが主流だ。
兵農分離は江戸時代の現象であり、戦国期には起こっていない。
0111人間七七四年
2012/08/22(水) 23:09:49.13ID:5d4D5QsU農村にかせられた人的軍役はあくまで「軍夫」「人夫」として、であって、兵士としてではない。
兵になるのは大名、国人、地侍などと主従関係を結んだ給人層だ。彼らは農民ではない。
ちょっとでも調べれば戦国大名は農繁期も農閑期も関係なく大規模な合戦をしているのはすぐに解る。
「兵農分離」なんて言葉自体、江戸時代中期に造られた造語であり、戦国期の概念ではない。
そんな兵農分離を戦国軍隊に、しかもその強さに当てはめるなど馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない
0112人間七七四年
2012/08/22(水) 23:25:15.76ID:s1o2c/hu>戦国大名は農繁期も農閑期も関係なく大規模な合戦をしているのはすぐに解る
秋出兵は多いぞ、例えば上杉謙信の信濃出兵は5回中4回秋(一回夏)
逆に、春夏のほうが秋冬より多かった例を上げてくれないかな?
0113人間七七四年
2012/08/22(水) 23:31:41.26ID:4yKX2RrE鈴木サンはもって行き方が強引というか相変わらずだなw
一般論でいうと日本では、封建的身分と結びついた武士による騎乗戦闘員を「騎馬」と呼んでたよね。
海外における社会身分と結びついた騎乗戦闘員は「騎士」。西欧騎士、オスマン帝国のシパーヒーなど。
「騎兵」はというと、まずは騎乗戦闘員全体を指す用法。モンゴル騎兵、ガリア騎兵。
もうひとつは古今の常備軍、人によっては近世以降の常備軍の騎乗戦闘員のみを「騎兵」と定義する用法と、曖昧なのが現状。
英語のCavalryは騎乗戦闘員全てを指す言葉なのに対し、日本では用法に統一ができていないということだろうね。
0114人間七七四年
2012/08/22(水) 23:33:29.41ID:5d4D5QsU川中島の戦い
第一次 天文22年(1553)4月〜9月
第二次 弘治元年(1555)3月〜閏10月
第三次 弘治3年(1557)7月〜9月
第四次 永禄4年(1561)8月〜9月
第五次 永禄7年(1564)8月〜10月
で?
0115人間七七四年
2012/08/22(水) 23:42:44.37ID:5d4D5QsU何らかの農繁期だったといっていい。コメしか見てない人間は農村の実態をまるで解っていない。
0116人間七七四年
2012/08/22(水) 23:51:38.38ID:5d4D5QsU第2次河東一乱 天文14年(1545)7月〜11月
0118人間七七四年
2012/08/23(木) 00:27:55.86ID:iDmLgZ6o氏綱期 天文6年(1537)7月
氏康期 天文14年(1545)9月〜天文15年4月
0119人間七七四年
2012/08/23(木) 00:36:29.90ID:ipFrQbSeと思ったけどID:5d4D5QsU武田厨っぽいのが気にかかる
どうか議論は冷静に
0120人間七七四年
2012/08/23(木) 00:39:57.86ID:0hZ60kwz結城合戦 永享12年(1440)3月〜嘉吉元年(1441)4月
嘉吉の乱 嘉吉元年(1441)7月〜9月
江ノ島合戦 宝徳2年(1449)4月〜8月
0121人間七七四年
2012/08/23(木) 00:47:14.93ID:WCs33xvs>ちょっとでも調べれば戦国大名は農繁期も農閑期も関係なく大規模な合戦をしている
今度は>>115で
>ほぼ一年中 何らかの農繁期だったといっていい
上で農繁期、農閑期を認めておきながら、下では一年中農繁期だとか言ってる
ID:5d4D5QsUは例の基地外武田厨さんでしょ
0122人間七七四年
2012/08/23(木) 00:51:04.56ID:iDmLgZ6o(君のいう)農繁期農閑期は、関係ない、という意味と、
俺のいう実態としては1年中何らかの農繁期だった、という部分を一緒にするな。
まあキミに出来るようなことはレッテルはって勝手な勝利宣言するくらいだろうけど。
0123人間七七四年
2012/08/23(木) 00:53:41.88ID:ipFrQbSe>そもそも戦国時代、「農民」は「兵」になっていない。
>兵になるのは大名、国人、地侍などと主従関係を結んだ給人層だ。彼らは農民ではない
要するに最初から兵と農は分かれてたってこと?
0124人間七七四年
2012/08/23(木) 00:59:46.49ID:0hZ60kwzそう。戦ってたのは侍身分とその給人。
戦国末期に総動員という形で一部農民を兵士に編成することも、北條や長宗我部などであったが、それは
ごくごく例外的な話。
織田が強かったのは兵農分離なんてへんてこな仕組みではなく、ただ単純に多くの侍身分を
組織できたから。
0125人間七七四年
2012/08/23(木) 01:42:12.96ID:sGq9pEfd謙信の北信濃出兵は
1)天文22年(1553)9月出陣 9月帰国 秋→秋
2)弘治一年(1555)4月出陣 10月和睦 夏→冬(この時は兵糧に苦しんで誓紙を部下に出させてる)
3)弘治三年(1557)4月出陣 6月帰国 夏→夏
4)永禄四年(1561)8月出陣 9月帰国 秋→秋
5)永禄七年(1564)7月出陣 9月帰国 秋→秋
6)永禄八年(1565)7月出陣 9月帰国 秋→秋
つまり、出陣する時ってのは秋か麦秋、そのどっちかしか無いよ(つか6割以上秋出陣やん)
↑の結果見たら「農繁期も農閑期も関係なく大規模な合戦をしているのはすぐに解る(>>111)」
…という主張には同意できない人が多いんじゃないかなぁ……
>>124
「兵農分離」ってのを「常備兵化」ってな現象に伴う事象とみれば、戦国時代でも起きてんじゃない?
大内氏定書(1486)にも載ってるんだし
0126人間七七四年
2012/08/23(木) 01:45:38.34ID:0/u6ZifJ学校で習ったけど
0127人間七七四年
2012/08/23(木) 01:54:44.58ID:0hZ60kwz何で「出陣する時」が基準になるのかがよくわからない。
いわゆる農繁期に大規模な合戦を恒常的に行なっているという事実をどう捉えるの?
あと戦国の「兵農未分離」とは兵士のことではなく、軍隊を維持する輜重や陣地設営などを行う軍夫人夫について。
彼らがなければ軍隊組織は維持できない。(無論村の運営に影響が出るほど徴用するわけではないので
負担ではあっても農繁期などの関係はない)
これら軍夫人夫が城下町から金銭で雇えるようになったのがだいたい徳川家光の時代。
農村が人夫役軍夫役を銭納に切り替えたことも含めて、この時代に「兵農分離」が起きた。
0128人間七七四年
2012/08/23(木) 02:12:35.82ID:sGq9pEfd単純に「補給が出来る時期に大規模合戦があった」って言いたいだけですけど
(つまり年中大規模合戦があった(>>111)ってのはおかしい、って指摘してるだけで)
あと軍役帳に農民の名前が載ってるし、合戦前に根こそぎ徴用の記録もあるのに
「無論村の運営に影響が出るほど徴用するわけではない(>>127)」
…って結論が先に来るのもよくわからないので、
ちょっと参考資料示していただいて詳しくお願いしたく……
あと江戸初期は兵農分離とは逆方向の政策、農民兵育成盛んになったよ(帰農論の時代)
0129人間七七四年
2012/08/23(木) 02:28:11.62ID:0hZ60kwz少なくともいわゆる農繁期農閑期を意識せずに戦国大名は合戦をやっていた。
「合戦の都合」を優先していたわけだ。
あと農村からの徴用は、一般的に農村運営に影響のない形でやっている。
それは北條の軍役帳などからもよく解る。
というか、根こそぎ徴用の記録というのは何かを先ず知りたい。
それから帰農論は江戸中期な。それこそその過程で「兵農分離」という発想が生まれた。
しかもそういう思想が出てきたのは、社会が「兵農分離状態」になっていたため。
前後が逆だよ
0130人間七七四年
2012/08/23(木) 03:04:18.11ID:sGq9pEfdまず「兵農分離」って言葉は”思想”ではなくて”事象”ですよね?(…発想ってなんですか??)
>根こそぎ徴用の記録というのは何かを先ず知りたい
例えば武田家朱印状(1577)では15才から60歳まで一人残らず20日の出陣
北条氏政朱印状(不明)16才から69歳まで全員点呼訓練
徳川家駿河志太郎郡軍役賦課状(1584)では15才から60歳まで一人残らず
太平年代記には、天文五年の今川と北条との争いで「地下人迄軍役難儀いたし候」とかあります
0131人間七七四年
2012/08/23(木) 03:26:22.14ID:iDmLgZ6o思想は「帰農論」、発想は「兵農分離」
現状の社会を表す言葉として、兵農分離という発想が生まれたということ。
あとそのへんの朱印状、特に「一人残らず」の部分は「村から根こそぎ」ではなく、
「軍役義務として割り当てられた人数を残らず」と解釈するのが自然だと思うが。
だいたい村から根こそぎ動員なんかしたら生産が止まって、困るのは大名だし。
それ以外は訓練と、軍役の負担が大きかったよ、って話だし
0132人間七七四年
2012/08/23(木) 03:49:12.94ID:epbmlwB0↓
余剰人口や続く戦乱により農工業から逃散した遊民が武装傭兵化(非侍身分の戦闘員→足軽)
↓
合戦の戦訓から、長柄・鉄砲等を活用した集団戦に移行
↓
勝つためにフレキシブルかつ諸兵連合を実現すべく寄親寄子のより兵科別編成が浸透
こんな解釈。侍にしても足軽にしても、最初から農から分離してる
一領具足、御国大事の農民根こそぎ総動員とか、本願寺の門徒皆兵とかは例外事項
信長は、金があったから足軽を大量に雇えただけで、武田も山本勘助とか足軽衆がいたみたいだし
北条なんざそこそこの身分階層出身ながら悪党崩れの足軽を組織化してのしていったんじゃないかな
織田家のみが兵農分離ってのは無いんだろう
0133人間七七四年
2012/08/23(木) 04:59:15.71ID:sGq9pEfd>「軍役義務として割り当てられた人数を残らず」と解釈するのが自然だ
その解釈なら”年齢指定”はどういう理由でなされているのですか??
…つか”具体的”な否定される根拠が示されてないのでコレ以上の返答に窮しますが……
>>132
「農業経営に関わっていた戦闘員が、近世に入って戦闘に純化し農業活動から離脱していった事象」
として自分は「兵農分離」を使っております(たぶんそうおかしな定義ではありませんよね?)
それ故城下に住むことを定めた大内氏定書も「兵農分離」の一旦を示している、と考えています
>侍にしても足軽にしても、最初から農から分離してる
コレの意味がわかりません、中世では武士は農業経営にも関わっていたわけで
「農から分離」したのはいつ頃でどんな事象なのか、概略ではなく根拠を示してご教授くだされたく
あと17世紀に入ってからの、稲葉氏小田原藩の鉄砲足軽制、郷土制度(伊勢藤堂、紀伊徳川、土佐山ノ内など)
役儀半免鉄砲衆募集(小笠原、仙石)などの農民兵制度は、兵農非分離の政策と見られますが
あなたの江戸兵農分離確立説では、どういう解釈をなされていますか?
0134人間七七四年
2012/08/23(木) 18:40:41.14ID:ipFrQbSeステマじゃないけどw、確かに面白いな。このスレにあってる。
「元寇の防塁はまちまちな戦闘集団の動きを制限するためだった」ってのは飛びすぎだと思うが
0135人間七七四年
2012/08/23(木) 20:05:17.62ID:o8zBFqv10136人間七七四年
2012/08/24(金) 03:33:35.12ID:Qod0Hq0L>信長は、金があったから足軽を大量に雇えただけで
そもそもこの部分――つまり、他の大名軍団と比べて信長の軍団の雇用足軽比率が高かった
ってのが史料的に明らかになってないってのが現状なんじゃね
信長がなんで強かったかって言うと、早い段階で濃尾平野北伊勢手に入れて、そこからパワーゲームに持ち込めたから、
っていう、大味な話が結局のところ真かと
0137人間七七四年
2012/08/24(金) 04:49:29.62ID:xQhRQubh大坂の役の籠城側足軽も、近畿の農村から”出稼ぎ”にでたのが供給源
(だから夏の陣前にお触れ出して冬の陣に大阪方だったものは拘束してる)
まぁ当時”余剰人口”がどうして生まれたのか、ってな説明がないと
「侍にしても足軽にしても、最初から農から分離してる」てのはただの想像上の話としか……
つか「兵農分離」 の結果として、侍の給金が知行から切米に変わる、ってところがあって
(>>131の江戸時代兵農分離成立説も、そこら”だけ”注目した仮説だと思うのだけど)
兵農分離すると基本同じ予算で雇える兵士数は減ることになるので
織田家は征服地での旧領安堵なんてほとんどしてないし、その点他の大名と違うので
「全国で兵農分離は試みられたが、経済的理由で織田家だけ成功した(>>136説?)」
…ってのは自分も賛成ですかねぇ……
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