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【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】

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0001人間七七四年2012/08/04(土) 23:21:52.40ID:o+bXyiEt
戦列歩兵はどう並んでいたのか
決戦兵力としての予備兵はいたのか
車懸りとは? 鶴翼や魚鱗? 付城、野戦築城とは?

意外と謎だらけな戦国時代の軍事学について色々と語るスレです
0026人間七七四年2012/08/11(土) 09:49:21.35ID:v4gwLwQ2
こんな感じ?
君主が出陣を決意
誰々がどこを担当するのか役割を決定
吉日を選ぶ(希望する日が出るまでくじ引きをやり直す)
農閑期に召集をかける
(これこれこういう理由で相手が悪いからこっちが正義の戦を仕掛けます
とあちこちに触れ回る)
いざ出陣!
兵糧等は現地調達という名の略奪か小荷駄隊がゾロゾロ
戦場(敵領内)に近くなると斥候を出す(遭遇戦)
対陣
弓や鉄砲の撃ち合いから槍での叩き合いに移行
騎馬で接近して下馬して(小物他もろもろと)突撃
乱戦
相手の一方が崩れた(壊乱)ため退却→追撃戦
落武者狩り、かちどき、首実験、感状等を下賜
撤収、新領国の代官を任命
0027人間七七四年2012/08/11(土) 10:03:02.61ID:qbbAXUDj
>>25
それは合戦前や足軽位は隊列を維持しているが、後者は突撃後は乱戦、
前者も一番効率が良いからそうしているだけ

>>26
鉄炮隊が何回か撃った後は乱戦じゃないかと
槍足軽も攻撃時はバラバラになっていた気がする
0028人間七七四年2012/08/11(土) 11:49:52.45ID:RGxu24tz
ある程度の規模の軍団だと訓練が必要だと思うけどな

まあこの時代の権力構造だと訓練の為に召集なんて難しいだろうけど
0029人間七七四年2012/08/11(土) 11:55:11.01ID:qbbAXUDj
実戦が訓練だった時代、江戸幕府が成立して戦が無くなると
家康は武経七書を発行したり、演習を兼ねた大規模な狩りを行うことで
練度の意地を図っている
0030人間七七四年2012/08/11(土) 15:32:42.79ID:gHr0wpAK
雑兵物語なんてのもあまり参考にならんからね。
慶長年間に軍隊に編入された雑兵と戦国期の雑兵とは別物だろう。
0031人間七七四年2012/08/11(土) 19:56:30.30ID:aMab3y9R
自分の国の歴史なのになんでそんなにわからんの?(´∵)
0032人間七七四年2012/08/11(土) 19:58:25.04ID:iu2O5qkN
>>31
日本は世界でもトップクラスに解る方だぞ。他の国には400年前のことにこんなに史料は存在しない
0033人間七七四年2012/08/11(土) 21:10:00.03ID:aMab3y9R
>>32
そうなん?西洋だとファランクスとかレギオンとかカタクラフトとか、
どう戦ってたかきっちりわかってる印象だったが違うんか。
0034人間七七四年2012/08/11(土) 22:03:58.03ID:v4gwLwQ2
中国は記録好きだから文官が記す制度やら人口やら地理・天文などは記すけど
軍事関係は卑しい軍人がすることで士太夫がすることではないというのがあったので
戦はあったが戦闘がどのように進んだかは詳しくは書かれないことが多い

日本は政権のために系統だてて書かれるというのが少なかったので
個人の日記やらで補うしかないのが現状
そもそも日本人は中国人ほど記録に執着してないしね(前王朝を打倒した正当性を主張する必要もなかったし)
源氏が平氏を打ち倒し得たのは非道な行いをして平氏の天命が去ったからだなんて聞いたことないし
0035人間七七四年2012/08/11(土) 22:15:43.24ID:qbbAXUDj
記録があまりないということは、逆に厳密な操典がなかったことを意味する
0036人間七七四年2012/08/11(土) 22:30:33.34ID:IctyP7wm
「古代――ギリシャ、ローマの時代は国民皆兵であります。
――ギリシャ、ローマ時代の戦術は極めて整然たる戦術であったのであります。
多くの兵が密集して方陣を作り、巧みにそれが進退して敵を圧倒する。
今日でもギリシャ、ローマ時代の戦術は依然として軍事学に於ける研究の対象たり得るのであります」
石原莞爾『最終戦争論』

イチ見解として
「国民皆兵の制度が乱れて傭兵に堕落する」とも言ってて、傭兵に依存すると戦術が乱れるとのこと
足軽を傭兵と捉えるとあるいはそうかもなぁ
0037人間七七四年2012/08/11(土) 23:37:49.68ID:1JEHlKoX
>>36
シーザー率いるローマ軍は”志願兵”だし、ハンニバルの主力は傭兵だし
ファランクスが有名になったのはギリシャ傭兵がオリエント中で活躍したからだし……

日本が国民皆兵だったのは、律令制と明治以後だけなんじゃないかな 
でも、大規模編成にあたってのコスト減のために、武士に農作業をさせることが増える
(一領具足や島津伊達家なんかも同様になる)
これは西欧でも同じで、16世紀仏も(金がなくなって)民兵制度を整えたりしてる
0038人間七七四年2012/08/12(日) 02:01:32.35ID:DrNBkFgP
>>37
傭兵の活躍は確かだが、彼らが戦術を共有する上で参考にしたのは、
やっぱり国民皆兵だったアテナイやテーバイ等ギリシャ各国の密集隊形であることは間違いないし、
カエサルを例に出すのも、マリウス以前の古代ローマの躍進を無視することになる

ハンニバルも結局“傭兵だから”負けたとも言えるしね
0039人間七七四年2012/08/12(日) 02:05:20.02ID:DrNBkFgP
まぁ、「戦術の深化には傭兵ではなく国民皆兵であることが重要」っていう結論をここから導き出せるとは思わんがw
0040人間七七四年2012/08/12(日) 02:57:08.12ID:v2tKLiaS
「備」によって戦国中期以降は、兵科別部隊を組み合わせ
陣形を組んでの戦いになったよな。
前列に長槍組の横隊、その前もしくは両翼に鉄砲組・弓組、足軽大将や徒歩武者、その後ろに騎馬組
というのがオーソドックスな配置だけど。

備 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
0041人間七七四年2012/08/12(日) 03:14:10.34ID:v2tKLiaS
「雑兵物語」等によると長柄(長槍)組は、互いの肩が触れるくらいの間隔で1〜3列の横隊を数十人で組み、
号令や銅鑼によって進退し、攻撃は呼吸を合わせて一斉に槍を振り下ろした。
続いて一斉に槍を振り上げ、また一斉に叩き伏せた。

長柄はしなるので叩くのに都合がいい。武田の長槍は穂の横に打撃用の木槌がついていた。
長柄組は足軽ではあるが上から振り下ろされる槍への防御のため、陣笠ではなく兜を着用することがある。
騎馬に対しては槍衾を作って防御。
0042人間七七四年2012/08/12(日) 12:38:54.87ID:RVVoa8vp
多分それ、鉄炮の発展で足軽の主戦力でなくなった時代の槍の運用法だと思う
それ以前は大河ドラマのようにある程度バラけた状態で、突き合っていたんじゃないかと
0043人間七七四年2012/08/12(日) 13:21:21.95ID:0g3urcdr
逆じゃないかな、いくら槍持ってても横一列で進んできたら、ただの的
朝鮮の役、関が原くらいだと、一斉射撃→その混乱中に突撃、ってなのが基本になるしね
0044人間七七四年2012/08/12(日) 14:25:20.14ID:RVVoa8vp
その頃になると槍足軽は防御任務にしか携わらなくなったかと
0045人間七七四年2012/08/12(日) 19:19:27.68ID:aIcIkdQR
は?
0046人間七七四年2012/08/13(月) 00:05:16.21ID:mbM7CIYf
>>41
その長槍隊を守る竹束隊みたいなのはいなかったのかね
0047人間七七四年2012/08/13(月) 00:22:23.22ID:LhPY2nF1
走り回るのが基本なので、野戦では余り役に立たない
0048人間七七四年2012/08/13(月) 00:24:14.64ID:mbM7CIYf
>>47
鉄砲隊引き連れて走り回れるんなら竹束持って走り回れるだろw
0049人間七七四年2012/08/13(月) 02:49:30.43ID:LhPY2nF1
>>48
でかい、かさばる、木枠が必要
0050人間七七四年2012/08/13(月) 07:35:51.15ID:jhhokubZ
>>46
遭遇戦ではなく対陣する時間があれば、竹束と掻盾(木製の置き盾)、更に柵を準備して矢戦から始めるよ。
鉄砲組と、その装填の隙間を埋める弓組が始めに戦う。
矢玉が少なくなると、双方の長柄足軽が進み出てやりあう。
崩れたところを見計らって、徒歩武者や騎馬組が突入して白兵戦。
ってな流れが典型的では。
0051人間七七四年2012/08/13(月) 13:34:44.28ID:TjwFobTh
>>20
日本だとあまり大平原の会戦がないからかな
平地はあってもちょっとずれれば丘や山があるし
隊形を工夫するより地形利用するほうがいいわな
0052人間七七四年2012/08/13(月) 16:33:37.48ID:P3kOh57p
遮蔽物も豊富だし夜襲かけたりするにはちょうどいいもんな
平地じゃそうはいかねぇ
不勉強なせいか海外の戦で夜襲ってあんまりきいたことないな
いつも昼間やってるかんじ
0053人間七七四年2012/08/14(火) 04:08:07.79ID:oSi9ZOI/
>>52
丁度クラウゼヴィッツ『戦争論』の夜襲の項目読んでたわw
守る側は陣地のことを熟知しているし、奇襲なら小さい部隊ですべきだけど小さい部隊でやっても敵は倒せないし、
大きい部隊で動けばばれるしで、正直限定的な効果しか望めないって
「夜襲は、本戦に従属する個々の部隊において実施されるのが通例であり、大会戦において行われることは滅多にない」



しかしみんな見てきたように話してるがどっからその見解は出てきたんだw
0054人間七七四年2012/08/14(火) 15:23:17.17ID:qpuLEr9J
センゴク呼んでたら明智が「殺し間」とか言って火縄銃の十字砲火してたけど
戦国時代にほんまにそんな言葉あったんかね
あの漫画、途中からやけに通説はこうだが古戦場を実地に調べたらどうのこうのとやっているが…
0055人間七七四年2012/08/14(火) 16:14:30.02ID:uKWQpOgb
>>54
センゴクは初期に鈴木眞哉の影響か、偏った解釈しすぎて批判くらったんで
途中から突飛なことは言わなくなったね・・・
0056人間七七四年2012/08/15(水) 02:03:22.83ID:iVusP6Te
>>49
>>50
どっちだよw
0057人間七七四年2012/08/15(水) 11:05:21.08ID:BY1UbRSI
>>56
鉄砲持って走り回れても
束竹は邪魔なんで時間に余裕がある場合の対陣限定と読んだ
0058人間七七四年2012/08/15(水) 13:09:53.61ID:hWXSod7v
まー時間あれば馬防柵とか立てたり土塁盛ったりもできるしな
0059人間七七四年2012/08/15(水) 17:31:18.40ID:BY1UbRSI
>>58
足軽<ヒソヒソ(まじかよ)
雑兵<ヒソヒソ(大将、柵は切るの運ぶの?)
小者<(どっちも勘弁してくれ…)
0060人間七七四年2012/08/16(木) 00:47:00.26ID:zZbvynIW
>>40
要するに最小単位300の細胞壁の集まりと思っていいのかな

備制度ってどの段階で確立したんだろ
太田道灌あたりかな。そもそもあの辺りの戦の体系が謎だよね
0061人間七七四年2012/08/16(木) 02:21:51.02ID:3zL2/QQk
>>60
寄親(家臣)とその陪臣の主従単位で部隊分け(戦国初期)

複数の寄親衆を集めて作った備(戦国中期)

兵科ごとに再編成、足軽大将のもと組衆化した備(武田信玄・北条氏康等)
という流れかと。
0062人間七七四年2012/08/17(金) 03:39:05.88ID:tvy6haG9
>>61
その当たりの流れ、長文で全然良いからもう少し詳しく説明してくれたら嬉しいなぁ
例えばそういう移行って戦国大名の中央集権化と関わりがあったと思うんだけど、
「備えってなんだよしちめんどくさい!」みたいな寄親の軋轢や戸惑いみたいなのって文献に残ってたりするのかね
0063人間七七四年2012/08/17(金) 08:51:34.74ID:vFmRhHnh
>>60
最小単位300?
なんぞそれ
0064人間七七四年2012/08/17(金) 09:00:39.04ID:E7YzFrzi
大名が家臣から雑兵を一時的にとはいえ、取り上げることが可能か?
という問題点がある
0065人間七七四年2012/08/17(金) 09:06:49.59ID:GeKQ6XE+
〇アメリカはそもそも中立じゃない。
いつまでも、反日と精神的奴隷として生かす。
日本が目覚めると、困るのは、韓・中・米みんな一緒。

靖国では英霊が日本の為に戦ったというけど、何が日本の為、アジアの為だったのか見直さないといけない。
日本は人種差別問題の礎になった。それはインド、東南アジア多くの国が認めている。
http://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=rjthSfB1RF4
0066人間七七四年2012/08/18(土) 10:55:35.53ID:1lnIkmvX
>>62
もろその手の内容の本が本屋の歴史コーナーにあったな
今度タイトル見てくるか
0067人間七七四年2012/08/18(土) 13:19:51.13ID:KTVAbZZ+
すみません、どなたか言葉戦い(言葉合戦?)について実際のやり取りなどを見ることができる書籍などないでしょうか。
基本的に挑発だから乗るんじゃないよ、と定められていた、という風には聞きはするのですが、
あの時代の罵り合いなどというのはどのようなものだったのでしょうか。
私が見たことがあるのはマンガになってしまいますがセンゴクとそのスピンオフ作品のセンゴク兄弟です。

どなたかご存知でしたらよろしくお願いします。
0068人間七七四年2012/08/18(土) 13:23:54.31ID:q5nYetVq
>>67
信長公記とか甲陽軍鑑とか落穂集とかの軍記読め
0069人間七七四年2012/08/18(土) 15:40:03.34ID:xM8q+gXJ
>>68
ありがとうございます。
0070人間七七四年2012/08/19(日) 03:07:08.63ID:D2ZMq44V
長篠の戦いで信長が大久保忠世に言った
「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」
から分かること

・戦場では個々の部隊の活躍が目に見えて分かる
・総大将はその活躍が見える位置にいた
・部隊と部隊は結構、ついたり離れたりするものだった
0071人間七七四年2012/08/19(日) 04:54:45.89ID:mOL+/Dvh
高台にいたんじゃないの
平地なら見えないだろうし
もしくは使い番が頻繁に出入りしてたか
あと常に部隊同士くっついている必要はない気がした
0072人間七七四年2012/08/19(日) 10:12:33.41ID:VPce+S5V
信長なら当時は家康の本陣にいた
0073人間七七四年2012/08/20(月) 01:17:39.35ID:n/lK74iy
>>63
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99

>備の人員は一般的に300名から800名、本陣備の場合は1500名前後であるが、
>これらは大名の石高、戦時における戦闘要員、後方要員双方の動員、各備の任務により増減する。


>因みに石高一万石の領主を大名とする一つの基準は、備を一つでも編成できる事にある。
これハッとさせられたな。本当かどうかは分からんがw
0074人間七七四年2012/08/20(月) 20:45:07.53ID:yZ6pyhBW
「戦国の軍隊」学研

てのが読んでておもろかった
領主別編成か兵種別編成かの考察や
足軽の位置付け
戦国時代の兵站
兵農分離や農兵動員やら諸々

まぁ好みで諸説突っ込まれるんだとは思うけど
0075人間七七四年2012/08/21(火) 05:20:16.46ID:ujTTcSyg
面白そうだな
まあ編成にしろ兵站にしろ大名によって様々なんだろうからな
あと、戦国前期か末期かによってもだいぶ変わりそうだな
0076人間七七四年2012/08/21(火) 07:45:52.35ID:JB38fX8e
まぁ実際100〜50年くらい幅ある訳ですし
0077人間七七四年2012/08/21(火) 16:30:26.26ID:7ZZ6Q7a3
新しいよりよい編成方法が生まれたとして、それがどこで生まれて、どういう風に伝播していったか
本当に興味あるわ
歴史に名前が残ってないんだけどとんでもないアイデアマンとかっていたんだろうな

黒田官兵衛とか石田三成とか、豊臣政権を支えた幕僚にその匂いをちょっと感じる
0078人間七七四年2012/08/21(火) 16:31:49.62ID:dNJHXAHM
豊臣の動員、編成なんて古いままなんだが
0079人間七七四年2012/08/21(火) 17:07:59.44ID:Ae3eKQ9/
時代の最先端は徳川家
0080人間七七四年2012/08/21(火) 17:43:35.95ID:JB38fX8e
その根底には武田家の編成法があるわけですが
0081人間七七四年2012/08/21(火) 18:10:18.43ID:MZhvM6eQ
>>78
そうなの?
外様と(織田を含む関係者)豊臣親衛軍じゃ、相当に編制が異なりそうだが。

>>74
これは大変良かった。ただ、領主直属の「足軽」部隊と、城を中心として編制される「衆」(この著作中では小机衆が代表)
がどのように組み合わされて「備を立て」られるのかが不明だった。

つまり、鉄砲足軽隊(領主直属、指揮官はいわゆる「武士」が任命される)と
城を中心として集まってくる「武士」の部下たちを、槍、鉄砲、弓、徒侍、馬上と分けたときの鉄砲を持っている身分としての「足軽」の寄せ集め
がどのように組み合わされているのかが全く分からなかった。
0082812012/08/21(火) 18:22:34.15ID:MZhvM6eQ
『戦国の軍隊』西股総生著 学研刊 P187より

A.支配階級・ 常備兵 戦闘員・  侍(領主およびその一族・郎党) ただし、着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制される
B.被支配階級 常備兵 戦闘員・  傭兵としての足軽
C.被支配階級 臨時役 非戦闘員  領主が軍役によって動員した雑兵
D.被支配階級 臨時役 非戦闘員  侍に従属する小者・中間
E.被支配階級 臨時役 非戦闘員  陣夫として動員された百姓

Aの「着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制」された鉄砲組と、
Bの「鉄砲組」
との関係が分からない。
008381 間違えました2012/08/21(火) 18:26:08.71ID:MZhvM6eQ
すいません、82は間違いです。

『戦国の軍隊』西股総生著 学研刊 P187より

A.支配階級・・ 常備兵 戦闘員・・  侍(領主およびその一族・郎党) ただし、着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制される
B.被支配階級 常備兵 戦闘員・・  傭兵としての足軽。兵種ごとに組編制。指揮官は侍が任命される
C.被支配階級 臨時役 戦闘員・・  領主が軍役によって動員した雑兵 ただし、着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制される
D.被支配階級 臨時役 非戦闘員  侍に従属する小者・中間
E.被支配階級 臨時役 非戦闘員  陣夫として動員された百姓

AおよびCの「着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制」された鉄砲組と、
Bの「鉄砲組」
との関係が分からない。
0084人間七七四年2012/08/21(火) 19:04:22.72ID:7ZZ6Q7a3
っていうか面白そうな本だな。ちょっと高いけどポチるか
0085人間七七四年2012/08/21(火) 19:50:15.31ID:Ae3eKQ9/
>>80
比較したけど実はなさそう
>>81
Aは大名の家臣がそれぞれ引き連れた陪臣の足軽を指す
Bは大名が直接雇用した足軽を指す

個人的には兵種毎の再編成はないと考えるが
0086人間七七四年2012/08/21(火) 19:58:51.67ID:7ZZ6Q7a3
武田軍の足軽大将(山本勘助とか?)ってBの兵を操ることになるの?
0087812012/08/21(火) 20:47:32.67ID:MZhvM6eQ
>>86さん
>「兵種別編成方式」に対して、軍役を付加された領主たちがめいめいに動員した兵士たちによって
>部隊を構成する方式を、ここでは仮に「領主別編成方法」と呼んでおこう。

>足軽の基本的属性を、傭兵、非侍身分、軽装歩兵と位置づけ

 しかし、「馬上」の足軽もいて、ほとんど侍と変わらず、この足軽隊を指揮するのが「足軽大将」
 こうした足軽大将も、領地を与えられ、侍身分として遇されるようになるが、最後まで「足軽」という区別は残った。

>兵力動員のあり方が、封建的原理に則っていなかったためであろう。

 また、他国の援軍など「汚れ仕事」を担わせることが多かったからだ。
 最後に山本菅助も足軽大将だと例で引かれている。在地外の武士を引き立てるのに足軽大将は好都合な在り方とも

※こうなると、侍大将と足軽大将の上下がよく分からなくなる。
※昔自分は、侍大将が複数の足軽大将を指揮下においていたと思っていたが、違うようだ。
※侍大将と足軽大将は、合戦場では同じレベルの指揮官だが、平時に身分としては侍大将が上ということらしいね。
 率いていたのが、鎌倉以来の在地領主を中心とする軍勢か、傭兵かの違いしかないと言うことだろう。
※こう考えると、山本菅助が、軍議で馬場や香坂らに混じって『キツツキの策』を検索できるのも無理なく整合する。
 以前は、下の身分のものが、こんな重要な献策が出来るものかと思っていた。 
0088人間七七四年2012/08/21(火) 20:53:42.58ID:7ZZ6Q7a3
>>87
軽装歩兵を傭兵にさせるってのはハンニバルの時代に通じて面白いねw
0089人間七七四年2012/08/21(火) 20:59:28.01ID:7GiGOlWx
この足軽と足軽大将が江戸初期の牢人の主体だったのかな?
0090人間七七四年2012/08/21(火) 22:15:36.48ID:d5XvPEIC
北条早雲や斎藤道三も足軽大将(傭兵隊長)あがりなんかねぇ
0091人間七七四年2012/08/21(火) 22:36:53.94ID:Fxw3KAbA
北条早雲(伊勢盛時)は幕府奉公衆かつ幕府申次という高級官僚。

斎藤道三は「父親」が京の商人、「息子」が守護代家家老
0092人間七七四年2012/08/22(水) 01:31:36.69ID:bVokXHFG
>>87
>昔自分は、侍大将が複数の足軽大将を指揮下においていたと思っていたが、違うようだ。

武田軍制における名称と、たとえば西国における名称って同じ言葉でも立場は違うのかもよ

陶晴賢は「西国無双の侍大将」って呼ばれたらしいし、この侍大将は「軍事指揮権者」ってニュアンスがある
0093人間七七四年2012/08/22(水) 19:29:38.03ID:SZlKUOYk
>>92
『戦国の軍隊』西股総生著 学研刊 P129より
岩付衆
太田源五郎(←北条氏政三男)が、「侍大将」

小旗 120余本・奉行3名
鑓・・ 600余本・奉行5名(長柄)
鉄炮   50余挺・奉行2名
弓・・  40余張・奉行3名
歩者  250余人・奉行3名
馬上  500余騎・奉行6名
歩走   20人・・・奉行1名

合計 1580余

岩付衆に「足軽」は、いない。全体が「領主別編成方法」を取っている

0094人間七七四年2012/08/22(水) 19:41:20.46ID:UjeWGMCT
鉄炮は岩付鉄炮衆とあるが
0095人間七七四年2012/08/22(水) 20:18:31.77ID:4yKX2RrE
>>93
このとき陣庭奉行の宮城四郎兵衛に届いた着到状では、
騎馬8騎(含本人)、槍17人、歩者4人、旗持4人、鉄砲2人、弓1人の動員が割り当てられている。
編成段階では、宮城のような家臣(給人)達が動員してきたそれぞれの主従は解体され、兵科別に再編成しているよね。
0096人間七七四年2012/08/22(水) 20:26:54.42ID:SZlKUOYk
>>94
たぶん「着到」が終了して「備を立て」(=兵種別編制が完了し)たあとの岩付衆の鉄砲隊のことだと思います。
じゃあ、その鉄炮を操作する「雑兵」は、どこから来たのかというと、ほとんどが領主が連れてきた者たちでず。

『戦国の軍隊』では、「宮城四郎兵衛」の軍役が例としてあげられています。
宮城は、本人1名(=馬上)と本人用指物役1名のほか
小旗3名、馬上7騎、長柄17本、鉄炮2挺、弓1挺、歩者4名の合計36名を動員し、
バラバラに、小旗、馬上、鑓(長柄)、鉄炮、弓、歩者、歩走の各組に組み入れられて、備が出来るというのが、
著者の西股氏の考えのようです。

岩付鉄炮衆という足軽(=常設傭兵)の鉄炮組は、この天正5年(1577年)7月13日付けの「北条家朱印状」の上では確認できません。



0097人間七七四年2012/08/22(水) 20:40:55.66ID:UjeWGMCT
後、この岩付の陣定書は「今度之陣一廻之定」つまり臨時の軍備とある
個人的にはそれぞれは北条氏房の家臣だと思うけどね
0098962012/08/22(水) 20:42:54.44ID:SZlKUOYk
では、この「馬上」「組」(組は、便宜上勝手につけたもの)が、「騎馬隊」なのか、「騎兵隊」なのかという議論は、
「騎馬隊」「騎兵」「騎乗兵」などの定義によります。

「次々と通説を打ち砕く鈴木真哉」氏の定義
(『戦国「常識・非常識」大論争! −旧説・季節を信じる方々への最後通牒』 洋泉社 )によれば、
@騎乗する兵士が(常設的に編制され)組織化されたものが「騎馬隊」(具体的には騎兵中隊/騎兵連隊)であり、「騎馬隊」に属して騎乗する兵士が(兵種としての)「騎兵」
 具体的には、ヨーロッパで16世紀後半から編制され始めた。

A馬に乗る兵士がヨーロッパでは「騎士」(日本では)「武士」。騎士が馬に乗ったまま「突撃」することはあっても、
(彼らが常設的に編制され)組織化されているわけではないので
「騎兵隊」とか「騎馬軍団」とかは言わない。「臨時騎士集団」ぐらいだろう。


0099人間七七四年2012/08/22(水) 20:48:12.78ID:UjeWGMCT
馬上とは騎乗武士を指し、その中にはその武家奉公人も含まれている
だから軍役状にある馬上も自身以外は別個に武家奉公人を従えているはず
0100人間七七四年2012/08/22(水) 20:57:17.18ID:BQ3bJGYI
一領具足って、僻地で雇うべき足軽が居ないor経済力が低くて足軽を雇用する余力がないために、農民を普段から総動員して軍事力を水増ししていたのか
足軽にも普段から新田や小作が離散した無主農地を屯田兵として耕作させて経済力の向上を図ったのか
どっちなんだろ
0101人間七七四年2012/08/22(水) 21:06:02.05ID:gIVvrAPU
いわゆる総動員でいいと思う。で、長宗我部の場合それが常態化(と言うか四国征伐で固定化)したものかと
0102人間七七四年2012/08/22(水) 21:08:01.26ID:bVokXHFG
軍制の地域差って当然かなりあったろうなぁ

「兵農分離が同時期に全国的に進展したのが不思議」って前に書き込みあったけど確かに
0103人間七七四年2012/08/22(水) 21:10:06.61ID:gIVvrAPU
そもそも戦国期に兵農分離などという現象自体起こっていないと考えた方がいい
0104人間七七四年2012/08/22(水) 21:35:26.91ID:BQ3bJGYI
地域差はあるだろうけど、うまくやってる大名のやり方が周囲に伝搬して鉄砲のように瞬く間に広まったのかも
鉄砲という集中かつ統一運用したほうが効果が累乗するけど
維持に金がかかる兵器の存在は、
兵農分離というか寄親寄子というか諸兵科連合単位としての「備」の概念を促進するだろうし

地域統一軍閥の成立が遅い奥州や四国は
それらの軍事改革を行うだけの経済的余力に欠けたというところか
なかでも別方向の軍事改革で四国の大半を制覇した長宗我部は異質ですね
恒常的に国家総動員してたなら土一揆の組織化だ
0105人間七七四年2012/08/22(水) 21:36:59.88ID:gIVvrAPU
そもそも足軽という存在自体、土一揆の軍事化だとも考えられる。
0106人間七七四年2012/08/22(水) 21:49:50.70ID:bVokXHFG
>>103
「田んぼする人」と「戦う人」が戦国期を通して分かれていったっての定説だったと思うんだけど違うの?
0107人間七七四年2012/08/22(水) 21:50:52.40ID:BGSRQYMJ
>>105
足軽は農地を捨てて土地に縛られていないと思う
0108人間七七四年2012/08/22(水) 22:53:26.78ID:s1o2c/hu
>>106
「兵農分離」は織田家だけで成功してて、他の大名は大軍編成の煽りで(お金がなくて)中小農民を軍役にかり出す傾向にあったよ

北条氏は有名な例だけど、例えば上杉の安田領検地帳(天正二年)では109人中知行2貫以下が23人もいた
徳川家だと甲斐中尾郡軍役帳(天正十三年)では31人中苗字持ち(土豪クラス)10人、苗字なし(被官クラス)21人
これは武田家の家臣団をそのまま継承したと言われるから、武田軍団も多くの中小農民層を含んでたと思われ
伊達家の動員調査(天正十七年)では苅田伊達郡から1540人のうち66名以外は全員百姓だったよ
こういう層は「軍役衆」と呼ばれ、年貢の代わりに兵役についている農民、って見方がなされてる
非常時の総動員となると完全に農民主体、小牧・長久手の戦いで徳川氏は15−60歳まで男子全員軍役にかり出してるよ

で、豊臣時代に兵農分離が進んだ、とは言われるんだけど
伊達氏が仙台城完成の際には”お金がなくて”城下に全員住まわせられず有力家臣をまるごと土着させる方針をとってたり
稲葉氏の在郷鉄砲足軽の制度や徳川頼宣が村々に20丁鉄砲を預けて訓練することを命じてたり、農兵の育成が行われてる

結局、大軍維持するにはお金がかかるので、正規社員だけで揃える(兵農分離)のは金持ち(織田家)以外事実上無理があって
兵力の大部分を派遣社員やパート(軍役、中小農民)に頼らざるを得なかった
…ってのが、最近の見方じゃないかなぁ……
0109人間七七四年2012/08/22(水) 23:00:24.60ID:bVokXHFG
>>108
織田軍は兵農分離してた→織田軍だけが兵農分離していたわけじゃない
って流れをここ数年経験したんだけど、今では、
成功していたのは織田軍だけだった
という結論に至るのか。面白いな。
0110人間七七四年2012/08/22(水) 23:04:23.11ID:5d4D5QsU
>>108
織田家のどこに兵農分離があるんだよ?
あの守護大名と大差ない旧主的動員しかできてない信長の織田家に。
東国じゃとっくの昔にやってた城下への家臣の集住さえ晩年ようやく取り掛かった「らしい」程度だぞ?

最近の説は「兵農分離」という物自体が存在しなかった。というのが主流だ。
兵農分離は江戸時代の現象であり、戦国期には起こっていない。
0111人間七七四年2012/08/22(水) 23:09:49.13ID:5d4D5QsU
そもそも戦国時代、「農民」は「兵」になっていない。
農村にかせられた人的軍役はあくまで「軍夫」「人夫」として、であって、兵士としてではない。
兵になるのは大名、国人、地侍などと主従関係を結んだ給人層だ。彼らは農民ではない。

ちょっとでも調べれば戦国大名は農繁期も農閑期も関係なく大規模な合戦をしているのはすぐに解る。
「兵農分離」なんて言葉自体、江戸時代中期に造られた造語であり、戦国期の概念ではない。

そんな兵農分離を戦国軍隊に、しかもその強さに当てはめるなど馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない
0112人間七七四年2012/08/22(水) 23:25:15.76ID:s1o2c/hu
>>111
>戦国大名は農繁期も農閑期も関係なく大規模な合戦をしているのはすぐに解る
秋出兵は多いぞ、例えば上杉謙信の信濃出兵は5回中4回秋(一回夏)

逆に、春夏のほうが秋冬より多かった例を上げてくれないかな?
0113人間七七四年2012/08/22(水) 23:31:41.26ID:4yKX2RrE
>>98
鈴木サンはもって行き方が強引というか相変わらずだなw

一般論でいうと日本では、封建的身分と結びついた武士による騎乗戦闘員を「騎馬」と呼んでたよね。
海外における社会身分と結びついた騎乗戦闘員は「騎士」。西欧騎士、オスマン帝国のシパーヒーなど。
「騎兵」はというと、まずは騎乗戦闘員全体を指す用法。モンゴル騎兵、ガリア騎兵。
もうひとつは古今の常備軍、人によっては近世以降の常備軍の騎乗戦闘員のみを「騎兵」と定義する用法と、曖昧なのが現状。

英語のCavalryは騎乗戦闘員全てを指す言葉なのに対し、日本では用法に統一ができていないということだろうね。
0114人間七七四年2012/08/22(水) 23:33:29.41ID:5d4D5QsU
>>112
川中島の戦い
第一次 天文22年(1553)4月〜9月
第二次 弘治元年(1555)3月〜閏10月
第三次 弘治3年(1557)7月〜9月
第四次 永禄4年(1561)8月〜9月
第五次 永禄7年(1564)8月〜10月


で?
0115人間七七四年2012/08/22(水) 23:42:44.37ID:5d4D5QsU
そもそも戦国期も農民は米ばっかり作っていたわけではなく、春夏に収穫される麦やその他雑穀など、ほぼ一年中
何らかの農繁期だったといっていい。コメしか見てない人間は農村の実態をまるで解っていない。
0116人間七七四年2012/08/22(水) 23:51:38.38ID:5d4D5QsU
第1次河東一乱 天文6年(1537)2月〜6月
第2次河東一乱 天文14年(1545)7月〜11月
0117人間七七四年2012/08/23(木) 00:22:25.49ID:epbmlwB0
>>112
北条早雲も農繁期狙って相模を切り取ったらしい
0118人間七七四年2012/08/23(木) 00:27:55.86ID:iDmLgZ6o
河越城の戦い

氏綱期 天文6年(1537)7月
氏康期 天文14年(1545)9月〜天文15年4月
0119人間七七四年2012/08/23(木) 00:36:29.90ID:ipFrQbSe
賢い人と賢い人のバトルが見られるか?
と思ったけどID:5d4D5QsU武田厨っぽいのが気にかかる
どうか議論は冷静に
0120人間七七四年2012/08/23(木) 00:39:57.86ID:0hZ60kwz
室町時代でもこうだな

結城合戦 永享12年(1440)3月〜嘉吉元年(1441)4月
嘉吉の乱 嘉吉元年(1441)7月〜9月
江ノ島合戦 宝徳2年(1449)4月〜8月
0121人間七七四年2012/08/23(木) 00:47:14.93ID:WCs33xvs
>>111
>ちょっとでも調べれば戦国大名は農繁期も農閑期も関係なく大規模な合戦をしている

今度は>>115
>ほぼ一年中 何らかの農繁期だったといっていい

上で農繁期、農閑期を認めておきながら、下では一年中農繁期だとか言ってる
ID:5d4D5QsUは例の基地外武田厨さんでしょ
0122人間七七四年2012/08/23(木) 00:51:04.56ID:iDmLgZ6o
>>121
(君のいう)農繁期農閑期は、関係ない、という意味と、
俺のいう実態としては1年中何らかの農繁期だった、という部分を一緒にするな。

まあキミに出来るようなことはレッテルはって勝手な勝利宣言するくらいだろうけど。
0123人間七七四年2012/08/23(木) 00:53:41.88ID:ipFrQbSe
>>111
>そもそも戦国時代、「農民」は「兵」になっていない。
>兵になるのは大名、国人、地侍などと主従関係を結んだ給人層だ。彼らは農民ではない

要するに最初から兵と農は分かれてたってこと?
0124人間七七四年2012/08/23(木) 00:59:46.49ID:0hZ60kwz
>>123
そう。戦ってたのは侍身分とその給人。
戦国末期に総動員という形で一部農民を兵士に編成することも、北條や長宗我部などであったが、それは
ごくごく例外的な話。

織田が強かったのは兵農分離なんてへんてこな仕組みではなく、ただ単純に多くの侍身分を
組織できたから。
0125人間七七四年2012/08/23(木) 01:42:12.96ID:sGq9pEfd
>>114
謙信の北信濃出兵は
1)天文22年(1553)9月出陣 9月帰国 秋→秋
2)弘治一年(1555)4月出陣 10月和睦 夏→冬(この時は兵糧に苦しんで誓紙を部下に出させてる)
3)弘治三年(1557)4月出陣 6月帰国 夏→夏
4)永禄四年(1561)8月出陣 9月帰国 秋→秋
5)永禄七年(1564)7月出陣 9月帰国 秋→秋
6)永禄八年(1565)7月出陣 9月帰国 秋→秋

つまり、出陣する時ってのは秋か麦秋、そのどっちかしか無いよ(つか6割以上秋出陣やん)

↑の結果見たら「農繁期も農閑期も関係なく大規模な合戦をしているのはすぐに解る(>>111)」
…という主張には同意できない人が多いんじゃないかなぁ……

>>124
「兵農分離」ってのを「常備兵化」ってな現象に伴う事象とみれば、戦国時代でも起きてんじゃない?
大内氏定書(1486)にも載ってるんだし
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