【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
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0001人間七七四年
2012/08/04(土) 23:21:52.40ID:o+bXyiEt決戦兵力としての予備兵はいたのか
車懸りとは? 鶴翼や魚鱗? 付城、野戦築城とは?
意外と謎だらけな戦国時代の軍事学について色々と語るスレです
0142人間七七四年
2012/08/24(金) 18:54:16.52ID:Qod0Hq0Lちょうどそんなこと書こうと思ってたわ
東国の軍制を「先進的」で「合理的」だったという意見がここに来て主流だけど、
その「合理性」ってのは必ずしも「戦力の効率化」に結びついたりするものじゃなかったのかも
0143人間七七四年
2012/08/24(金) 19:37:20.31ID:zstQDjYa後者のほうが圧倒的に豊かで巨大だって話だわな。
しかし時代的社会的にはやはり合理化効率化が求められており、東国の諸制度を受け継いだ徳川政権が、
京兆政権から豊臣政権までの畿内政権的性格の強い政権に対し長期安定政権となったのは、そういう理由だったと
見るべきなのだろう。
0144人間七七四年
2012/08/24(金) 21:40:34.09ID:6fh+R0i20146人間七七四年
2012/08/24(金) 23:14:42.31ID:I55TsdfB0148人間七七四年
2012/08/25(土) 00:09:04.17ID:fQOJ4Ctl「先進的」だの「合理的」だの言われるようになっただけ
0149人間七七四年
2012/08/25(土) 00:39:34.34ID:vQKOEpN80150人間七七四年
2012/08/25(土) 00:42:43.48ID:nagH/188横取り?
天正壬午の乱の甲斐討ち入りなら秀吉や勝家も含めた織田公儀の完全な支持のもとの、
公儀としての武力介入だぞ?
そんな事も知らんおかお前は。
0151人間七七四年
2012/08/25(土) 00:48:34.23ID:M8PWV1s6サラリーでの雇用だった。本多忠勝や榊原康政などもこの旗本先手組の高級将校で、彼らは領地を持たなかったが
家康から与えられ、大名クラスの軍勢を動かせた。
それと、これは今川から受け継いだのだろうが、検地による軍役割り当ても早い時期から行なっていたらしい。
0152人間七七四年
2012/08/25(土) 03:00:25.49ID:qgRuUubc>侍の給金が知行から切米に変わる
一番最初、「武士は一所懸命を守る集団でした」で武士を説明しておいて、
江戸時代に入ってみんな俸禄に切り替わってることの原因を説明してないしできないなんて、
考えてみれば日本の歴史教育は穴だらけだなぁw
0153人間七七四年
2012/08/25(土) 23:54:24.22ID:8AF/Mwkkその理由って単純に「常備兵化した」ってことだけなんじゃぁ……
昔そう習った気がするけど、今は違うの?
兵農分離はソレに伴う変化の一つ、西欧では単純に傭兵に置き換わったわけで
そんなものを日本では身分制の確立とか”特別なこと”って見てるのは不思議な気はする
0154人間七七四年
2012/08/26(日) 00:18:55.75ID:C2nN0D9vそんで更には軍制は末期にようやく寄子寄親がなんとか形になっただけ・・・戦国大名にすらなってなくないか?
0155人間七七四年
2012/08/26(日) 00:21:46.06ID:LYuMY5nf0156人間七七四年
2012/08/26(日) 00:55:21.12ID:+8SzAlY4槍足軽だけ300人別働隊とか、城攻めに鉄砲800人の部隊を編成とか。
まあどこの大名でも備にとらわれず、状況に合わせて編成の融通は利かせていたんだろうね。
0157人間七七四年
2012/08/26(日) 03:21:36.44ID:WbsuYkoD信長のカリスマでグッと押さえつけて、領主の権力をって感じか
ただ、家臣を城に集めてはいたんじゃないか
0158人間七七四年
2012/08/26(日) 10:42:28.59ID:1IIAssB70159人間七七四年
2012/08/26(日) 12:41:57.72ID:Vn5pNaVT0160人間七七四年
2012/08/26(日) 14:27:41.79ID:sxvXOn120161人間七七四年
2012/08/26(日) 23:45:36.42ID:GvSMVfmH尾張より西は雑魚しかいなかったし
0163人間七七四年
2012/08/28(火) 01:32:14.38ID:KEAtvbem藤堂高虎みたいな一騎駆け経験者に長柄足軽ワロスとか言われてんじゃん実際
0165164
2012/08/28(火) 03:19:59.07ID:nUAUfwb30166人間七七四年
2012/08/28(火) 07:26:04.07ID:Hux/fkHyという部分の事だろう。
0168人間七七四年
2012/08/28(火) 12:32:31.95ID:xU5RLg9W(何人ぐらいがこの本読んでて何人ぐらいがこの展開納得してくれてるんだろw)、
その本だと侍もまた一箇所に集められて、「戦場の缶切り役」として、重装歩兵として動いてたって書いてあるんだよ
だとすると、史料でたまに出てくる400騎とか500騎とかに、「気取った書き方しやがって×4すんのめんどいよ!」
って思ってたが、意外ときちんとした戦闘能力を表す数字だったのかもなぁ
0169人間七七四年
2012/08/28(火) 14:34:08.98ID:KEAtvbem長柄槍≠パイクってことだな
マジで叩き合うためだけの長さなんだなアレ
>>168
あの本では、侍一騎=重装歩兵もしくは騎兵でかつ侍パッケージ(郎党含む)だから実数は掛け算で正しいと思う
0170人間七七四年
2012/08/30(木) 01:31:22.64ID:dD01pO/b戦国の過渡期では、
記録者にとって戦力としての足軽などものの数に入ってなかったのだと思えばニヤニヤできる
ちょっと性急かも知れんが、史料に出てくる「首級」って言葉の本質的意義をとにかく把握したいよ
0171人間七七四年
2012/08/30(木) 01:50:39.11ID:IQbgOT0vそれって「同じ槍隊でも槍の長さが短くて不揃いなのはプロの武士の部隊だから気をつけろ」って話じゃなかった?
0172人間七七四年
2012/08/30(木) 01:56:55.46ID:m+xP5SWz0173人間七七四年
2012/08/30(木) 02:33:54.90ID:qyWk5U0h0174人間七七四年
2012/08/30(木) 04:05:19.31ID:2prFSbhe徒歩武者は重装歩兵って感じだよな
0175人間七七四年
2012/08/30(木) 06:55:14.56ID:RwWMsq13横陣とかファランクス隊形のままどうやって動かすんだろう?
山の斜面か、川を挟んでか、砂浜か、低木地の荒地でも使ってやりあったのか?
最近読んだ小説では細いあぜ道での戦闘で田んぼに嵌って討死とかそんなのだったが
街道でも整備されても3間5.5m未満で、2m未満なんてとこもザラだったような
0177人間七七四年
2012/08/30(木) 12:26:51.58ID:dD01pO/bじゃあ縦一人分の移動スペースを開けとけばイイって問題でもない気がするけどな、
そんなの戦場のドタバタで埋まったりすんじゃねえのかよとか思う
0178人間七七四年
2012/08/30(木) 13:00:32.42ID:i/QEh0IB昔の戦場ではけっこう世界的に普通の行為(イッソスの戦いとか)
つか家康が「本格的な槍合わせは一度しか見たことがない」って言ってるので
あくまで”理想の合戦ではの話”ってな部分はあるとは思うけどね
0181人間七七四年
2012/08/31(金) 03:32:50.73ID:y60O8tJxその深い知識を考察も併せて出典、引用を引いて出してくれって思うなw
0182人間七七四年
2012/08/31(金) 05:01:30.38ID:9IxVeR/E「陣形」ってのが意味ある言葉なのか、いまいち不信に思うけど……
姉川の合戦、とかどうだろ?
信長は兵力の逐次投入、柴田・佐久間・丹羽らを行軍から即戦線に投入してるし
家康は旗本衆で横槍(延翼)しまくってるし
0183人間七七四年
2012/08/31(金) 06:26:57.83ID:QJ6Gd40w>家康が「本格的な槍合わせは一度しか見たことがない」って言ってる
北国の農耕不能地帯とかならともかく中央では野戦やっぱりそういうもんかな
せいぜい何とか坂の戦いとか何とか峠とか何とか川の戦いとかをやってて
それが複数箇所になったら何とかヶ原の戦いみたいに呼ばれるとか
0184人間七七四年
2012/08/31(金) 08:55:02.05ID:bjSKRmm2変陣の十種とか変陣十ヶ条とか言うらしい
基本となる八陣からの変形させた応用陣を作るぽい【兵法神武雄備集】
ちなみに長柄倒の法と言って槍隊殲滅方法も一応マニュアル化された物はある
槍隊が存在する以上対処法を考えるのは当然っちゃー当然なんだけどねw
0186人間七七四年
2012/08/31(金) 09:56:20.37ID:j+sSIqjk旗本で思ったけど
旗本近習が予備兵力として出てくる記録って多いね。
信長の黒母衣衆・赤母衣衆、あと有名なのはなんだろう
0187人間七七四年
2012/08/31(金) 10:06:57.61ID:VY1J2o8Sまあこんなのは戦国大名というより南北朝の頃の戦い方と変わらん(足利尊氏の花一揆とか)、
軍事組織の未発達な織田系らしいやりかただな。
0188人間七七四年
2012/08/31(金) 10:14:36.76ID:DR8+wyB5後方の総大将の指示で整然と前後するということは先ず無い
0189人間七七四年
2012/08/31(金) 10:30:17.45ID:VY1J2o8S場合によるがな。
備は確かに高い完結性を与えられているが、その行動はやはり総大将の作戦に拘束される。
指示を受けて動くことが必要とされた作戦では、指示によって行動するよ。
0190人間七七四年
2012/08/31(金) 10:36:08.95ID:DR8+wyB5それやって交代時に付け込まれて壊乱とか、手柄横取りされるのが嫌で拒否とかザラにある
それよりも予備を多数置いといて、それで穴埋めの方が上手くいく
猟犬の綱みたいなもので、一度離したら総攻撃か撤退でもない限り統制は効かないと見るべし
0192人間七七四年
2012/08/31(金) 10:41:24.66ID:DR8+wyB5実際、詳細な指示を出してその通りに動いた例は無いが
精精新手を出す際にどの方面に行け程度でしかない
0194人間七七四年
2012/08/31(金) 13:40:34.17ID:OXqIITb00195人間七七四年
2012/08/31(金) 20:28:16.11ID:j+sSIqjk>交代時に付け込まれて壊乱
道明寺の伊達政宗隊のことかw
古代ローマは前線が疲労してくるとマニプルス(中隊)単位で入れ替わって交代してたけど
フレッシュな新手を投入できる強みもさることながら、戦闘中の部隊の後退はそのまま敗走となる危険があった。
唐代の中国でも三重の戦列を敷いて似たようなことをやっていたな。
0196人間七七四年
2012/08/31(金) 22:59:07.20ID:2i38w6hy0198人間七七四年
2012/09/01(土) 01:36:14.56ID:MeGjclJb信長の旗本が戦場で予備兵力として活躍したって話はなくね?
上洛の時の城攻めで先陣として出てきて自分たちがするものだと思ってた美濃三人衆が驚いたとか、
あと万見重元が塀を乗り越えようとして死んだとか、先陣として使われたって話はあるけど
逆に考えると、
黒母衣衆の河尻秀隆も岩村城攻めで名前を上げたわけだし、信長軍団の旗本衆は先陣を切らせられてたのかもな
ここに織田軍団の特異性を見出すことが出来るかどうか
0199人間七七四年
2012/09/01(土) 01:44:50.08ID:eWA0Nf07家康の「旗本先手組」も、その名前の通り「先手」を取らせるのが主目的の部隊だし。
0200人間七七四年
2012/09/01(土) 01:58:21.91ID:DeotAWOh0201人間七七四年
2012/09/01(土) 02:04:33.31ID:eWA0Nf07そんなたまたま当たった悪手をいい歳した戦国大名がドヤ顔で自慢してたら、情けなくて泣くしか無いだろ。
0202人間七七四年
2012/09/01(土) 07:35:04.59ID:z/JtvVRvそして家康の危機に対しては壁となり奮戦した
0203人間七七四年
2012/09/01(土) 09:43:07.76ID:MeGjclJb武田も島津も重臣が務めてるよね
「旗本がやった」っていうのはちょっと違うと思うけど
0204人間七七四年
2012/09/01(土) 11:26:47.10ID:kZOnkix9先手で予備で親衛で参謀?
すごいねー何人居るんだろ
0205人間七七四年
2012/09/01(土) 11:43:59.95ID:U+c9cdQo0206人間七七四年
2012/09/01(土) 12:15:46.93ID:z/JtvVRv先手は榊原や大久保?
>>205
一言坂の戦いは斥候とシンガリ部隊
姉川の突撃が事実だとすれば榊原と同じ迂回部隊
0207人間七七四年
2012/09/01(土) 12:42:14.31ID:B5468FyG0209人間七七四年
2012/09/01(土) 12:58:24.91ID:B5468FyGそんなとこに歴史的な価値が発生するなんてのは現代人の思い込みに過ぎないんだから
0210人間七七四年
2012/09/01(土) 13:19:47.56ID:MeGjclJb戦果の大部分は追撃戦ってクラウゼヴィッツも言ってたし意味あったろ
あれが無ければ越前手に入ってたかどうか分からん
0211人間七七四年
2012/09/01(土) 20:10:30.94ID:wHNahJE/0213人間七七四年
2012/09/02(日) 00:58:10.83ID:LCMtfgaLそもそも徳川の先手組も織田の母衣衆も何も分かってないってのが実情じゃね
胡散臭いの我慢して甲陽軍鑑辺りから読み解いたほうが早いかも
0214人間七七四年
2012/09/02(日) 13:07:20.01ID:D9LFBJzl先手とかいうのを独創したのか?
0215人間七七四年
2012/09/02(日) 14:00:15.49ID:eJXCas/2手元に数千〜万の規模で組織しており、戦国大名の旗本組織としては飛び抜けて巨大だ。
まあ単純に当時の家康の置かれた条件のもとで、直属部隊を試行錯誤して作り上げた結果だと思うが。
0216人間七七四年
2012/09/02(日) 20:26:40.93ID:s2Qs0dvR0217人間七七四年
2012/09/02(日) 23:09:45.16ID:S9v2pNbb0221人間七七四年
2012/09/03(月) 01:51:10.05ID:GK3DgYj2その代わり息子や娘はアホみたいに作ったけどなw
秀吉に家康なみの種があれば豊家は安泰だったろうに
0222人間七七四年
2012/09/04(火) 04:04:22.60ID:VRGDJVPp毛利元就の軍制改革とか何か残ってないもんか
0223人間七七四年
2012/09/04(火) 05:51:05.47ID:nnPv7FPR大内氏だとされる
0224人間七七四年
2012/09/04(火) 16:28:21.59ID:TPaBj2zL0225人間七七四年
2012/09/06(木) 05:42:50.18ID:Yn1QSVJF0226人間七七四年
2012/09/06(木) 09:14:51.64ID:CfNqguhz例えば鉄砲を含む構えを編成した場合wikiペディアには鉄砲50とあったが、そんな中途半端な数の鉄砲いても意味合ったんだろうか?
こんな編成だと斉射ではなく散発的な射撃になりそうなんだけど、どうなんだろ。それとも弓鉄砲60パーセントで編成した鉄砲衆とかあったんだろうか(雑賀や織田ならやってそうだが)
こんな小規模な諸兵科連合でそうそう戦える物かね?三兵戦術やテルシオみたいに仕事とか配置がはっきりした方が使いやすそうだけど
0227人間七七四年
2012/09/06(木) 09:37:46.85ID:lPCXcyow0228人間七七四年
2012/09/06(木) 13:20:51.42ID:gQ3CkeAVそうだね〜細切れより集中運用のほうが効率がいい。特に白兵部隊は数が多いほうが衝力が強くなる。
備は諸兵科で編成し弱点を補い合う、現代軍制の戦闘団に近いね。
狭隘な地形に林、田んぼ、急斜面、川が次々現れ、大兵力の展開に支障のある日本では
機動の柔軟さと、戦闘時全ての兵科が揃っている事による汎用性を優先させたんじゃね?
関ヶ原から30年後のスウェーデンも、歩・騎・砲を組み合わせた三兵戦術でセンセーションを起こしてる。
パイク(長槍)兵216人・銃兵192人で大隊を組み、さらに騎兵・小型砲も組み込んだ。
ただ歩兵に随伴したら騎兵の速度を生かせないよね?って言われてた。
0229人間七七四年
2012/09/06(木) 20:30:57.40ID:CfNqguhzそうなると合戦は小さな備えが横列に広がってぶつかり合ってたことになるけど、敵陣突破するには衝力が足りなさそうだな
でも朝倉の力士隊みたいに切り込み専門部隊もいたみたいだし、そういう奴らが衝力を担当したのかな
それとも槍でペチペチしてるのを弓鉄砲でチクチクして、先に崩れた方に乗り込めー^^ してたんだろか
0232人間七七四年
2012/09/08(土) 01:26:41.53ID:BqRfVJvJ0233人間七七四年
2012/09/08(土) 08:40:18.38ID:0RWWYw2b二番槍、三番槍と後続が続いて初めて手柄になる。
0235人間七七四年
2012/09/09(日) 11:53:04.63ID:jmS+73wbしかも馬に乗ってると他者を追い抜いている可能性があるとして即認められる事はなかった
第三者の目撃情報も必要となるので地味な格好では誰も認めてくれない状態になる事もある
しかし派手な格好で活躍がイマイチだと士気に影響するとして切腹させられる事態も・・・
色々大変だよなww
0236人間七七四年
2012/09/21(金) 14:09:12.71ID:R9JnpGbP私のHPに詳細を載せているので感想等よろしく
0237人間七七四年
2012/09/21(金) 18:57:35.35ID:v4p/J8AYどの陣を破るにはどの陣、どの陣で攻められたらどの陣で防御が有利、という解説があれば尚よろし
0238人間七七四年
2012/09/26(水) 05:11:26.11ID:tUojjeHJ当時の徴兵?の仕方には三種類くらいあって、三兵戦術とか不可能だったのよ
主力だった「侍」は、知行地に応じた兵士ユニット(主人と脇侍、200石で5人が目安)を出したので
そのユニットを崩す編成(軍功がはっきりしなくなる)はしにくかった
これらの軍費は税の減免(つまり自弁)安く動員できたので軍の主力担ってたし
で、無産階級やあんまり資産を持ってない人たちを編成したのが「足軽(無足人)」
戦争始まってから集めるのも大変なので、平時から小金?与えて他のことさせたりしてた
装備は支給されて知行(土地)ではなく蔵米で支払われてた(武田だと野組と言われるクラス)
織田家では城下に住まわして(川角太閤記)即出陣可能だったのは他の大名と違ったりする
たぶん当時同一兵種で編成運用可能だったのは、この人達くらい
最後が「牢人」 当時は領地をめぐって2つにわかれて争うってのが常で負け組が牢人になる
織田の越前一向一揆討伐も先陣は「越前牢人衆」、まぁ旧領回復が報酬なので、お金はかからない
この人達も「軍功第一」なので再編成する対象にはしにくい
西欧でも「傭兵」が主力になってから軍事革命本格化した(グスタフ・アドルフなんか最たるもの)
日本はそれに移行する前に、パックス・トクガワーナが始まっちゃったからねぇ……
0239人間七七四年
2012/09/26(水) 08:52:13.91ID:j/nFnq7o0240人間七七四年
2012/09/26(水) 16:30:56.59ID:tUojjeHJ戦国時代初期と末期江戸(常備兵化した)では足軽の意味が変わるけど……
wikiの「備」は江戸中期の説明(「牢人」の存在がない)だけど
騎馬武者は「侍」 鉄砲、長柄、弓は「足軽」ってちゃんと記述されてるよ
それにwikiでも「騎馬隊」の編成が侍と奉公人の混合で弓や武器も装備してた
って書いてあるから、江戸中期になっても完全な単一兵種編成出来なかったのでは?
0241人間七七四年
2012/09/26(水) 17:17:09.93ID:j/nFnq7o初期の足軽でも機動戦力たる騎乗武士と前衛の足軽という関係は変わらない
浪人も持っている戦力に応じてそれらに配分される
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