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【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2012/08/04(土) 23:21:52.40ID:o+bXyiEt
戦列歩兵はどう並んでいたのか
決戦兵力としての予備兵はいたのか
車懸りとは? 鶴翼や魚鱗? 付城、野戦築城とは?

意外と謎だらけな戦国時代の軍事学について色々と語るスレです
0129人間七七四年2012/08/23(木) 02:28:11.62ID:0hZ60kwz
>>128
少なくともいわゆる農繁期農閑期を意識せずに戦国大名は合戦をやっていた。
「合戦の都合」を優先していたわけだ。

あと農村からの徴用は、一般的に農村運営に影響のない形でやっている。
それは北條の軍役帳などからもよく解る。
というか、根こそぎ徴用の記録というのは何かを先ず知りたい。

それから帰農論は江戸中期な。それこそその過程で「兵農分離」という発想が生まれた。
しかもそういう思想が出てきたのは、社会が「兵農分離状態」になっていたため。
前後が逆だよ
0130人間七七四年2012/08/23(木) 03:04:18.11ID:sGq9pEfd
>>129
まず「兵農分離」って言葉は”思想”ではなくて”事象”ですよね?(…発想ってなんですか??)

>根こそぎ徴用の記録というのは何かを先ず知りたい
例えば武田家朱印状(1577)では15才から60歳まで一人残らず20日の出陣
北条氏政朱印状(不明)16才から69歳まで全員点呼訓練
徳川家駿河志太郎郡軍役賦課状(1584)では15才から60歳まで一人残らず
太平年代記には、天文五年の今川と北条との争いで「地下人迄軍役難儀いたし候」とかあります
0131人間七七四年2012/08/23(木) 03:26:22.14ID:iDmLgZ6o
>>130
思想は「帰農論」、発想は「兵農分離」
現状の社会を表す言葉として、兵農分離という発想が生まれたということ。

あとそのへんの朱印状、特に「一人残らず」の部分は「村から根こそぎ」ではなく、
「軍役義務として割り当てられた人数を残らず」と解釈するのが自然だと思うが。
だいたい村から根こそぎ動員なんかしたら生産が止まって、困るのは大名だし。
それ以外は訓練と、軍役の負担が大きかったよ、って話だし
0132人間七七四年2012/08/23(木) 03:49:12.94ID:epbmlwB0
そもそも、御家人やらなんやら侍身分の者のみの戦闘集団&領主別編成
   ↓
余剰人口や続く戦乱により農工業から逃散した遊民が武装傭兵化(非侍身分の戦闘員→足軽)
   ↓
合戦の戦訓から、長柄・鉄砲等を活用した集団戦に移行
   ↓
勝つためにフレキシブルかつ諸兵連合を実現すべく寄親寄子のより兵科別編成が浸透


こんな解釈。侍にしても足軽にしても、最初から農から分離してる


一領具足、御国大事の農民根こそぎ総動員とか、本願寺の門徒皆兵とかは例外事項


信長は、金があったから足軽を大量に雇えただけで、武田も山本勘助とか足軽衆がいたみたいだし
北条なんざそこそこの身分階層出身ながら悪党崩れの足軽を組織化してのしていったんじゃないかな
織田家のみが兵農分離ってのは無いんだろう
0133人間七七四年2012/08/23(木) 04:59:15.71ID:sGq9pEfd
>>131
>「軍役義務として割り当てられた人数を残らず」と解釈するのが自然だ
その解釈なら”年齢指定”はどういう理由でなされているのですか??
…つか”具体的”な否定される根拠が示されてないのでコレ以上の返答に窮しますが……

>>132
「農業経営に関わっていた戦闘員が、近世に入って戦闘に純化し農業活動から離脱していった事象」
として自分は「兵農分離」を使っております(たぶんそうおかしな定義ではありませんよね?)
それ故城下に住むことを定めた大内氏定書も「兵農分離」の一旦を示している、と考えています

>侍にしても足軽にしても、最初から農から分離してる
コレの意味がわかりません、中世では武士は農業経営にも関わっていたわけで
「農から分離」したのはいつ頃でどんな事象なのか、概略ではなく根拠を示してご教授くだされたく

あと17世紀に入ってからの、稲葉氏小田原藩の鉄砲足軽制、郷土制度(伊勢藤堂、紀伊徳川、土佐山ノ内など)
役儀半免鉄砲衆募集(小笠原、仙石)などの農民兵制度は、兵農非分離の政策と見られますが
あなたの江戸兵農分離確立説では、どういう解釈をなされていますか?
0134人間七七四年2012/08/23(木) 18:40:41.14ID:ipFrQbSe
届いた「戦国の軍隊」読んでる。
ステマじゃないけどw、確かに面白いな。このスレにあってる。
「元寇の防塁はまちまちな戦闘集団の動きを制限するためだった」ってのは飛びすぎだと思うが
0135人間七七四年2012/08/23(木) 20:05:17.62ID:o8zBFqv1
農業経営者って農民なの?
0136人間七七四年2012/08/24(金) 03:33:35.12ID:Qod0Hq0L
>>132
>信長は、金があったから足軽を大量に雇えただけで

そもそもこの部分――つまり、他の大名軍団と比べて信長の軍団の雇用足軽比率が高かった
ってのが史料的に明らかになってないってのが現状なんじゃね

信長がなんで強かったかって言うと、早い段階で濃尾平野北伊勢手に入れて、そこからパワーゲームに持ち込めたから、
っていう、大味な話が結局のところ真かと
0137人間七七四年2012/08/24(金) 04:49:29.62ID:xQhRQubh
>>132
大坂の役の籠城側足軽も、近畿の農村から”出稼ぎ”にでたのが供給源
(だから夏の陣前にお触れ出して冬の陣に大阪方だったものは拘束してる)
まぁ当時”余剰人口”がどうして生まれたのか、ってな説明がないと
「侍にしても足軽にしても、最初から農から分離してる」てのはただの想像上の話としか……

つか「兵農分離」 の結果として、侍の給金が知行から切米に変わる、ってところがあって
>>131の江戸時代兵農分離成立説も、そこら”だけ”注目した仮説だと思うのだけど)
兵農分離すると基本同じ予算で雇える兵士数は減ることになるので
織田家は征服地での旧領安堵なんてほとんどしてないし、その点他の大名と違うので
「全国で兵農分離は試みられたが、経済的理由で織田家だけ成功した(>>136説?)」
…ってのは自分も賛成ですかねぇ……
0138人間七七四年2012/08/24(金) 09:23:19.71ID:6fh+R0i2
雇用の場合は農民からの動員とはなされないかと
0139人間七七四年2012/08/24(金) 18:16:43.07ID:8s+vEWc0
織田と豊臣は室町と変わらない後進的な軍隊だから天下がとれた
0140人間七七四年2012/08/24(金) 18:39:31.75ID:zstQDjYa
逆説的だけどそういうことだな。畿内はよくも悪くも進歩の必要がない環境だったって事だ。
0141人間七七四年2012/08/24(金) 18:45:29.53ID:8s+vEWc0
「軍制改革とか行政改革とか何必死こいてやってんの?」って感じだろうな
0142人間七七四年2012/08/24(金) 18:54:16.52ID:Qod0Hq0L
>>141
ちょうどそんなこと書こうと思ってたわ

東国の軍制を「先進的」で「合理的」だったという意見がここに来て主流だけど、
その「合理性」ってのは必ずしも「戦力の効率化」に結びついたりするものじゃなかったのかも
0143人間七七四年2012/08/24(金) 19:37:20.31ID:zstQDjYa
というか、同じ軍事行動でも合理化効率化しないと回せない環境と、そんな事をしなくても回せる環境というのは
後者のほうが圧倒的に豊かで巨大だって話だわな。

しかし時代的社会的にはやはり合理化効率化が求められており、東国の諸制度を受け継いだ徳川政権が、
京兆政権から豊臣政権までの畿内政権的性格の強い政権に対し長期安定政権となったのは、そういう理由だったと
見るべきなのだろう。
0144人間七七四年2012/08/24(金) 21:40:34.09ID:6fh+R0i2
東国に移る前から徳川家はそれなりに先進的だけどね
0145人間七七四年2012/08/24(金) 22:08:44.57ID:sl/HsgVa
>>144
「東国」って戦国期一般的に三河以東なんだわ
0146人間七七四年2012/08/24(金) 23:14:42.31ID:I55TsdfB
武田領横取り以前のどのへんが先進的なん?
0147人間七七四年2012/08/24(金) 23:39:22.50ID:6fh+R0i2
>>146
旗本先手組とか、三備の制で一門衆と言える松平一族を家老(石川・酒井)の指揮下にいれたこと
0148人間七七四年2012/08/25(土) 00:09:04.17ID:fQOJ4Ctl
東国大名で流行ってて後に徳川本家がそれを導入したから
「先進的」だの「合理的」だの言われるようになっただけ
0149人間七七四年2012/08/25(土) 00:39:34.34ID:vQKOEpN8
別に東国大名では流行ってはいないのだが
0150人間七七四年2012/08/25(土) 00:42:43.48ID:nagH/188
>>146
横取り?
天正壬午の乱の甲斐討ち入りなら秀吉や勝家も含めた織田公儀の完全な支持のもとの、
公儀としての武力介入だぞ?

そんな事も知らんおかお前は。
0151人間七七四年2012/08/25(土) 00:48:34.23ID:M8PWV1s6
家康は三河時代既に旗本先手組という、城下に集住する直轄兵力を整備しており、しかも給米という
サラリーでの雇用だった。本多忠勝や榊原康政などもこの旗本先手組の高級将校で、彼らは領地を持たなかったが
家康から与えられ、大名クラスの軍勢を動かせた。

それと、これは今川から受け継いだのだろうが、検地による軍役割り当ても早い時期から行なっていたらしい。
0152人間七七四年2012/08/25(土) 03:00:25.49ID:qgRuUubc
>>137
>侍の給金が知行から切米に変わる

一番最初、「武士は一所懸命を守る集団でした」で武士を説明しておいて、
江戸時代に入ってみんな俸禄に切り替わってることの原因を説明してないしできないなんて、
考えてみれば日本の歴史教育は穴だらけだなぁw
0153人間七七四年2012/08/25(土) 23:54:24.22ID:8AF/Mwkk
>>152
その理由って単純に「常備兵化した」ってことだけなんじゃぁ……
昔そう習った気がするけど、今は違うの?

兵農分離はソレに伴う変化の一つ、西欧では単純に傭兵に置き換わったわけで
そんなものを日本では身分制の確立とか”特別なこと”って見てるのは不思議な気はする
0154人間七七四年2012/08/26(日) 00:18:55.75ID:C2nN0D9v
信長って、直轄地少なくて家臣が大領を持ち、分国法すらなく、検地すらしてなく、それどころか家臣の集住すら未達成・・・
そんで更には軍制は末期にようやく寄子寄親がなんとか形になっただけ・・・戦国大名にすらなってなくないか?
0155人間七七四年2012/08/26(日) 00:21:46.06ID:LYuMY5nf
戦国大名化の過程で天下人になったのが信長だ
0156人間七七四年2012/08/26(日) 00:55:21.12ID:+8SzAlY4
天正年間の伊達家だと、我軍の備は8個、敵は11個といった記録もあるんだが、単一兵科の部隊も存在している。
槍足軽だけ300人別働隊とか、城攻めに鉄砲800人の部隊を編成とか。
まあどこの大名でも備にとらわれず、状況に合わせて編成の融通は利かせていたんだろうね。
0157人間七七四年2012/08/26(日) 03:21:36.44ID:WbsuYkoD
>>154
信長のカリスマでグッと押さえつけて、領主の権力をって感じか
ただ、家臣を城に集めてはいたんじゃないか
0158人間七七四年2012/08/26(日) 10:42:28.59ID:1IIAssB7
信長にカリスマなんてあったか?
0159人間七七四年2012/08/26(日) 12:41:57.72ID:Vn5pNaVT
要するに信長は先進的合理性もカリスマもない、俺以下の人間ってことね
0160人間七七四年2012/08/26(日) 14:27:41.79ID:sxvXOn12
「部屋から出る」ことができたら、信長以上の逸材なんだな……
0161人間七七四年2012/08/26(日) 23:45:36.42ID:GvSMVfmH
信長は生まれた場所と時間がよかっただけ
尾張より西は雑魚しかいなかったし
0162人間七七四年2012/08/26(日) 23:51:59.22ID:IwdDHBaU
>>161
喜べ。お前とそっくり同じ事を上杉謙信が言うとる。
0163人間七七四年2012/08/28(火) 01:32:14.38ID:KEAtvbem
兵科別に集団としてまとまってた足軽って役に立ったのか実際?
藤堂高虎みたいな一騎駆け経験者に長柄足軽ワロスとか言われてんじゃん実際
0164人間七七四年2012/08/28(火) 03:19:26.85ID:nUAUfwb3
>>163
柄が長いのはいかんみたいな事は話してたけど、
そんなくだりあったっけ?
01651642012/08/28(火) 03:19:59.07ID:nUAUfwb3
刀の柄のことね。
0166人間七七四年2012/08/28(火) 07:26:04.07ID:Hux/fkHy
馬で乗り込むときは槍の長さが揃ってるとこに突っ込め、
という部分の事だろう。
0167人間七七四年2012/08/28(火) 11:57:17.47ID:SyVfpVAB
>>163
全員、侍部隊のように手練ならという前提だよ、それ
0168人間七七四年2012/08/28(火) 12:32:31.95ID:xU5RLg9W
また上に出てた「戦国の軍隊」の話になるんだけど
(何人ぐらいがこの本読んでて何人ぐらいがこの展開納得してくれてるんだろw)、

その本だと侍もまた一箇所に集められて、「戦場の缶切り役」として、重装歩兵として動いてたって書いてあるんだよ
だとすると、史料でたまに出てくる400騎とか500騎とかに、「気取った書き方しやがって×4すんのめんどいよ!」
って思ってたが、意外ときちんとした戦闘能力を表す数字だったのかもなぁ
0169人間七七四年2012/08/28(火) 14:34:08.98ID:KEAtvbem
>>166-167
長柄槍≠パイクってことだな
マジで叩き合うためだけの長さなんだなアレ

>>168
あの本では、侍一騎=重装歩兵もしくは騎兵でかつ侍パッケージ(郎党含む)だから実数は掛け算で正しいと思う
0170人間七七四年2012/08/30(木) 01:31:22.64ID:dD01pO/b
>>169
戦国の過渡期では、
記録者にとって戦力としての足軽などものの数に入ってなかったのだと思えばニヤニヤできる
ちょっと性急かも知れんが、史料に出てくる「首級」って言葉の本質的意義をとにかく把握したいよ
0171人間七七四年2012/08/30(木) 01:50:39.11ID:IQbgOT0v
>>163
それって「同じ槍隊でも槍の長さが短くて不揃いなのはプロの武士の部隊だから気をつけろ」って話じゃなかった?
0172人間七七四年2012/08/30(木) 01:56:55.46ID:m+xP5SWz
スイス傭兵と殴りあえそうな長柄足軽が成立したのはいつになるんだろう
0173人間七七四年2012/08/30(木) 02:33:54.90ID:qyWk5U0h
それ槍隊とは言わない
0174人間七七四年2012/08/30(木) 04:05:19.31ID:2prFSbhe
長柄組はいかにも槍隊だけど、
徒歩武者は重装歩兵って感じだよな
0175人間七七四年2012/08/30(木) 06:55:14.56ID:RwWMsq13
しかし備は最小300人とか旗本先手組とか言っても
横陣とかファランクス隊形のままどうやって動かすんだろう?

山の斜面か、川を挟んでか、砂浜か、低木地の荒地でも使ってやりあったのか?
最近読んだ小説では細いあぜ道での戦闘で田んぼに嵌って討死とかそんなのだったが

街道でも整備されても3間5.5m未満で、2m未満なんてとこもザラだったような
0176人間七七四年2012/08/30(木) 08:13:41.39ID:AQWpM+tX
>>175
移動時はもちろん縦列ですが
0177人間七七四年2012/08/30(木) 12:26:51.58ID:dD01pO/b
>>176
じゃあ縦一人分の移動スペースを開けとけばイイって問題でもない気がするけどな、
そんなの戦場のドタバタで埋まったりすんじゃねえのかよとか思う
0178人間七七四年2012/08/30(木) 13:00:32.42ID:i/QEh0IB
敵目前で行軍隊形(縦陣)から戦闘隊形(横陣)に移行ってのは
昔の戦場ではけっこう世界的に普通の行為(イッソスの戦いとか)

つか家康が「本格的な槍合わせは一度しか見たことがない」って言ってるので
あくまで”理想の合戦ではの話”ってな部分はあるとは思うけどね
0179人間七七四年2012/08/30(木) 22:51:34.23ID:2prFSbhe
>>175
敵前に展開後も組単位で地形やシチュエーションに合わせ、柔軟に陣形を変えられるよ
0180人間七七四年2012/08/30(木) 23:08:11.27ID:dD01pO/b
>>179
そういう話残ってるの?
柔軟に陣形変えれたってことが分かるの
0181人間七七四年2012/08/31(金) 03:32:50.73ID:y60O8tJx
「こうだよ」って言ってくれる人いるけど、
その深い知識を考察も併せて出典、引用を引いて出してくれって思うなw
0182人間七七四年2012/08/31(金) 05:01:30.38ID:9IxVeR/E
>>180
「陣形」ってのが意味ある言葉なのか、いまいち不信に思うけど……

姉川の合戦、とかどうだろ?
信長は兵力の逐次投入、柴田・佐久間・丹羽らを行軍から即戦線に投入してるし
家康は旗本衆で横槍(延翼)しまくってるし
0183人間七七四年2012/08/31(金) 06:26:57.83ID:QJ6Gd40w
>>178
>家康が「本格的な槍合わせは一度しか見たことがない」って言ってる

北国の農耕不能地帯とかならともかく中央では野戦やっぱりそういうもんかな
せいぜい何とか坂の戦いとか何とか峠とか何とか川の戦いとかをやってて
それが複数箇所になったら何とかヶ原の戦いみたいに呼ばれるとか
0184人間七七四年2012/08/31(金) 08:55:02.05ID:bjSKRmm2
>>180
変陣の十種とか変陣十ヶ条とか言うらしい
基本となる八陣からの変形させた応用陣を作るぽい【兵法神武雄備集】

ちなみに長柄倒の法と言って槍隊殲滅方法も一応マニュアル化された物はある
槍隊が存在する以上対処法を考えるのは当然っちゃー当然なんだけどねw
0185人間七七四年2012/08/31(金) 09:24:39.54ID:DR8+wyB5
>>181
そこまで求めるなら金を出せになるなw
0186人間七七四年2012/08/31(金) 09:56:20.37ID:j+sSIqjk
>>182
旗本で思ったけど
旗本近習が予備兵力として出てくる記録って多いね。
信長の黒母衣衆・赤母衣衆、あと有名なのはなんだろう
0187人間七七四年2012/08/31(金) 10:06:57.61ID:VY1J2o8S
秀吉の黄母衣衆。
まあこんなのは戦国大名というより南北朝の頃の戦い方と変わらん(足利尊氏の花一揆とか)、
軍事組織の未発達な織田系らしいやりかただな。
0188人間七七四年2012/08/31(金) 10:14:36.76ID:DR8+wyB5
備は前線指揮官の独断専行を積極的に認めることを前提としたものだから
後方の総大将の指示で整然と前後するということは先ず無い
0189人間七七四年2012/08/31(金) 10:30:17.45ID:VY1J2o8S
>>188
場合によるがな。
備は確かに高い完結性を与えられているが、その行動はやはり総大将の作戦に拘束される。
指示を受けて動くことが必要とされた作戦では、指示によって行動するよ。
0190人間七七四年2012/08/31(金) 10:36:08.95ID:DR8+wyB5
>>189
それやって交代時に付け込まれて壊乱とか、手柄横取りされるのが嫌で拒否とかザラにある
それよりも予備を多数置いといて、それで穴埋めの方が上手くいく
猟犬の綱みたいなもので、一度離したら総攻撃か撤退でもない限り統制は効かないと見るべし
0191人間七七四年2012/08/31(金) 10:37:24.61ID:Y39JoAuw
>>190
見るべし言われてもなあ。そりゃお前の思い込みに過ぎんだろ
0192人間七七四年2012/08/31(金) 10:41:24.66ID:DR8+wyB5
>>191
実際、詳細な指示を出してその通りに動いた例は無いが
精精新手を出す際にどの方面に行け程度でしかない
0193人間七七四年2012/08/31(金) 11:19:54.38ID:y60O8tJx
>>185
ならんだろw
案の定、191に「お前の思い込み」とか言われてるし
0194人間七七四年2012/08/31(金) 13:40:34.17ID:OXqIITb0
結局さ、功名欲しさに死狂って突撃してくる一騎駆け連中が多いほうが強いのが戦国時代
0195人間七七四年2012/08/31(金) 20:28:16.11ID:j+sSIqjk
>>190
>交代時に付け込まれて壊乱
道明寺の伊達政宗隊のことかw

古代ローマは前線が疲労してくるとマニプルス(中隊)単位で入れ替わって交代してたけど
フレッシュな新手を投入できる強みもさることながら、戦闘中の部隊の後退はそのまま敗走となる危険があった。
唐代の中国でも三重の戦列を敷いて似たようなことをやっていたな。
0196人間七七四年2012/08/31(金) 22:59:07.20ID:2i38w6hy
命令違反で功績を上げた奴は処罰しるって韓非さんが言ってた。
0197人間七七四年2012/08/31(金) 23:02:38.50ID:y60O8tJx
>>195
入れ替わりってどうやってたんだろ
右側通行とかあったんだろね
0198人間七七四年2012/09/01(土) 01:36:14.56ID:MeGjclJb
>>186
信長の旗本が戦場で予備兵力として活躍したって話はなくね?
上洛の時の城攻めで先陣として出てきて自分たちがするものだと思ってた美濃三人衆が驚いたとか、
あと万見重元が塀を乗り越えようとして死んだとか、先陣として使われたって話はあるけど

逆に考えると、
黒母衣衆の河尻秀隆も岩村城攻めで名前を上げたわけだし、信長軍団の旗本衆は先陣を切らせられてたのかもな
ここに織田軍団の特異性を見出すことが出来るかどうか
0199人間七七四年2012/09/01(土) 01:44:50.08ID:eWA0Nf07
旗本衆って基本「最強部隊」なので、先陣切らせて敵勢を切り裂く作業をさせるのは普通じゃないか?
家康の「旗本先手組」も、その名前の通り「先手」を取らせるのが主目的の部隊だし。
0200人間七七四年2012/09/01(土) 01:58:21.91ID:DeotAWOh
朝倉殲滅戦も馬廻りだけで突っ込んで信長が重臣共ワロスして佐久間が泣いたろ
0201人間七七四年2012/09/01(土) 02:04:33.31ID:eWA0Nf07
そりゃ泣くわ。あんな冒険的作戦なんかしなくても、ほっとけば損害なしに潰せる敵でしかねえもの。
そんなたまたま当たった悪手をいい歳した戦国大名がドヤ顔で自慢してたら、情けなくて泣くしか無いだろ。
0202人間七七四年2012/09/01(土) 07:35:04.59ID:z/JtvVRv
本多忠勝が家康の旗本代表であり軍師的な存在なんだよな?
そして家康の危機に対しては壁となり奮戦した
0203人間七七四年2012/09/01(土) 09:43:07.76ID:MeGjclJb
「先陣は新しく部下に入った外様組が務めるもの」ってイメージあったけど、
武田も島津も重臣が務めてるよね
「旗本がやった」っていうのはちょっと違うと思うけど
0204人間七七四年2012/09/01(土) 11:26:47.10ID:kZOnkix9
>>202
先手で予備で親衛で参謀?
すごいねー何人居るんだろ
0205人間七七四年2012/09/01(土) 11:43:59.95ID:U+c9cdQo
軍師と参謀は意味合い的なもんだが違う。あと忠勝が軍師はねーよ。一言坂にしろ姉川にしろ突撃だけしてるような奴に軍師が務まるわけねーだろ
0206人間七七四年2012/09/01(土) 12:15:46.93ID:z/JtvVRv
>>204
先手は榊原や大久保?

>>205
一言坂の戦いは斥候とシンガリ部隊
姉川の突撃が事実だとすれば榊原と同じ迂回部隊
0207人間七七四年2012/09/01(土) 12:42:14.31ID:B5468FyG
徳川旗本先手組は尾張一統前の信長馬廻衆のパクリ
0208人間七七四年2012/09/01(土) 12:51:36.36ID:eWA0Nf07
>>207
仕組みも組織もぜんぜん違うんですけど。
織田みたいな後進組織といっしょにするなや
0209人間七七四年2012/09/01(土) 12:58:24.91ID:B5468FyG
先進性とか後進性なんて馬鹿な二項対立を勝手に想定して絶対視するのはやめろよもう
そんなとこに歴史的な価値が発生するなんてのは現代人の思い込みに過ぎないんだから
0210人間七七四年2012/09/01(土) 13:19:47.56ID:MeGjclJb
>>201
戦果の大部分は追撃戦ってクラウゼヴィッツも言ってたし意味あったろ
あれが無ければ越前手に入ってたかどうか分からん
0211人間七七四年2012/09/01(土) 20:10:30.94ID:wHNahJE/
後進的な織田のぶさんにフルボッコにされた関東勢(´・ω・`)
0212人間七七四年2012/09/01(土) 20:31:59.29ID:hHonBYSz
>>211
物量にはかなわん、つーこっちゃ
0213人間七七四年2012/09/02(日) 00:58:10.83ID:LCMtfgaL
>>208
そもそも徳川の先手組も織田の母衣衆も何も分かってないってのが実情じゃね

胡散臭いの我慢して甲陽軍鑑辺りから読み解いたほうが早いかも
0214人間七七四年2012/09/02(日) 13:07:20.01ID:D9LFBJzl
徳川が北条武田今川織田の影響なく
先手とかいうのを独創したのか?
0215人間七七四年2012/09/02(日) 14:00:15.49ID:eJXCas/2
少なくとも周辺大名に類似した組織は確認されんな。
手元に数千〜万の規模で組織しており、戦国大名の旗本組織としては飛び抜けて巨大だ。

まあ単純に当時の家康の置かれた条件のもとで、直属部隊を試行錯誤して作り上げた結果だと思うが。
0216人間七七四年2012/09/02(日) 20:26:40.93ID:s2Qs0dvR
兄弟は勿論、伯父・従兄弟もいないから一門衆を作り様がないという事情もある
0217人間七七四年2012/09/02(日) 23:09:45.16ID:S9v2pNbb
結局さ、「手明」って何者なんだよ。何やってんだよ
0218人間七七四年2012/09/02(日) 23:11:51.23ID:S9v2pNbb
>>216
兄弟と甥っ子に恵まれた秀吉に比べたらかわいそうなくらいぼっちだったんだな家康・・・
0219人間七七四年2012/09/02(日) 23:22:43.71ID:eJXCas/2
>>218
家康の異父弟はみんな結構優秀だったりする
0220人間七七四年2012/09/02(日) 23:56:28.82ID:FCyo1etE
>>217
非戦闘員じゃね?
0221人間七七四年2012/09/03(月) 01:51:10.05ID:GK3DgYj2
>>218
その代わり息子や娘はアホみたいに作ったけどなw
秀吉に家康なみの種があれば豊家は安泰だったろうに
0222人間七七四年2012/09/04(火) 04:04:22.60ID:VRGDJVPp
西国の軍事事情ってどうだったんだよ
毛利元就の軍制改革とか何か残ってないもんか
0223人間七七四年2012/09/04(火) 05:51:05.47ID:nnPv7FPR
大名が配下国人に対して動員する兵員の数を、規模に応じて割り当てる制度を初めて行ったのが
大内氏だとされる
0224人間七七四年2012/09/04(火) 16:28:21.59ID:TPaBj2zL
ご冗談をw
0225人間七七四年2012/09/06(木) 05:42:50.18ID:Yn1QSVJF
近世の窓を開いた革新者後北条氏
0226人間七七四年2012/09/06(木) 09:14:51.64ID:CfNqguhz
あの時代の合戦って今の大隊くらいの構えに分かれて戦闘してたんだよね?
例えば鉄砲を含む構えを編成した場合wikiペディアには鉄砲50とあったが、そんな中途半端な数の鉄砲いても意味合ったんだろうか?
こんな編成だと斉射ではなく散発的な射撃になりそうなんだけど、どうなんだろ。それとも弓鉄砲60パーセントで編成した鉄砲衆とかあったんだろうか(雑賀や織田ならやってそうだが)

こんな小規模な諸兵科連合でそうそう戦える物かね?三兵戦術やテルシオみたいに仕事とか配置がはっきりした方が使いやすそうだけど
0227人間七七四年2012/09/06(木) 09:37:46.85ID:lPCXcyow
独断専行を前提とするなら、前線の指揮官が直接指揮できる少数の方が便利
0228人間七七四年2012/09/06(木) 13:20:51.42ID:gQ3CkeAV
>>226
そうだね〜細切れより集中運用のほうが効率がいい。特に白兵部隊は数が多いほうが衝力が強くなる。
備は諸兵科で編成し弱点を補い合う、現代軍制の戦闘団に近いね。
狭隘な地形に林、田んぼ、急斜面、川が次々現れ、大兵力の展開に支障のある日本では
機動の柔軟さと、戦闘時全ての兵科が揃っている事による汎用性を優先させたんじゃね?

関ヶ原から30年後のスウェーデンも、歩・騎・砲を組み合わせた三兵戦術でセンセーションを起こしてる。
パイク(長槍)兵216人・銃兵192人で大隊を組み、さらに騎兵・小型砲も組み込んだ。
ただ歩兵に随伴したら騎兵の速度を生かせないよね?って言われてた。
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