>>106
「兵農分離」は織田家だけで成功してて、他の大名は大軍編成の煽りで(お金がなくて)中小農民を軍役にかり出す傾向にあったよ

北条氏は有名な例だけど、例えば上杉の安田領検地帳(天正二年)では109人中知行2貫以下が23人もいた
徳川家だと甲斐中尾郡軍役帳(天正十三年)では31人中苗字持ち(土豪クラス)10人、苗字なし(被官クラス)21人
これは武田家の家臣団をそのまま継承したと言われるから、武田軍団も多くの中小農民層を含んでたと思われ
伊達家の動員調査(天正十七年)では苅田伊達郡から1540人のうち66名以外は全員百姓だったよ
こういう層は「軍役衆」と呼ばれ、年貢の代わりに兵役についている農民、って見方がなされてる
非常時の総動員となると完全に農民主体、小牧・長久手の戦いで徳川氏は15−60歳まで男子全員軍役にかり出してるよ

で、豊臣時代に兵農分離が進んだ、とは言われるんだけど
伊達氏が仙台城完成の際には”お金がなくて”城下に全員住まわせられず有力家臣をまるごと土着させる方針をとってたり
稲葉氏の在郷鉄砲足軽の制度や徳川頼宣が村々に20丁鉄砲を預けて訓練することを命じてたり、農兵の育成が行われてる

結局、大軍維持するにはお金がかかるので、正規社員だけで揃える(兵農分離)のは金持ち(織田家)以外事実上無理があって
兵力の大部分を派遣社員やパート(軍役、中小農民)に頼らざるを得なかった
…ってのが、最近の見方じゃないかなぁ……