【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
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0001人間七七四年
2012/08/04(土) 23:21:52.40ID:o+bXyiEt決戦兵力としての予備兵はいたのか
車懸りとは? 鶴翼や魚鱗? 付城、野戦築城とは?
意外と謎だらけな戦国時代の軍事学について色々と語るスレです
0002人間七七四年
2012/08/04(土) 23:36:29.57ID:475DW9QP足利学校
山本勘助も足利学校出身で、信玄に「足利学校出身なら信頼できる」と言わしめてます。
親不知とか三国峠とか天竜川とか大変だったんだろ?
0004人間七七四年
2012/08/05(日) 01:49:48.73ID:1Ortl7xJ俯瞰で見たら車輪の動きっぽく見えるはず
謙信を軍事天才だったなんてあんま思ってないんだけど(w)、
アレクサンドロスとかフリードリヒとか、戦の天才って言われる人間は基本的にこの戦術を持ってたし、説明はつく
0005人間七七四年
2012/08/05(日) 06:57:12.34ID:zaJt+69H後世の軍記にしか乗ってない妄想の産物
0006人間七七四年
2012/08/05(日) 08:04:49.27ID:yAXPKXQK0007人間七七四年
2012/08/05(日) 08:59:05.70ID:9bK8QBQC地域に詳しい在地国人に先駆けというなの前衛やらせて遭遇戦対策
後退戦闘の後衛に殿
普通じゃね
0008人間七七四年
2012/08/06(月) 01:31:26.74ID:exkukWK3先手役とは名ばかりで、家康はこれを決戦兵力として使ってたんじゃないかなぁと思う
姉川での榊原の横槍とか、関ヶ原の本多忠勝の動きとか見てそう思う
近衛兵といえば信長の赤母衣衆、黒母衣衆が浮かぶが、彼らがそんなことをしたという記録は多分無いんだよなぁ
0009人間七七四年
2012/08/06(月) 09:39:56.50ID:5kZicKjO後、決戦兵力と言うよりは即応戦力という面が強いかと
0010人間七七四年
2012/08/06(月) 19:58:00.60ID:d8ec3x6v無線機以前の戦争では、指揮統制通信情報の無形戦闘力のための
重要な要素だけど直接的な戦闘は期待してないんじゃないかな
信長直轄の決戦予備ではなく、せいぜい信長の野戦指揮所の保営要員
0011人間七七四年
2012/08/06(月) 20:58:43.92ID:JvQbIaET「敵がこうきたらこの陣形に素早く配置転換!」とかやってらんねーよな
想像の産物でしかない。どうせ双方突っ込むしかないんだし
せいぜい右翼を側面に回り込ませて突けとか別動隊は迂回して背後から奇襲しろとかしかない
川を塞き止めて渡河中にドバーとかもあらかじめやっとかないと意味がないし
0012人間七七四年
2012/08/07(火) 04:34:42.75ID:sTFv6xd8伝令、連絡将校の動きって単騎(もしくは少数)で駆けて情報伝えるってイメージなんだけど、
信長の母衣衆って結構いいトコの家の人間で、たとえば利家って荒子城主だし
城主に一騎駆けなんて、そんなこと多分郎党が許さなかったと思うんだw
とすると連絡将校が動くときって必然的に部隊運動になるんじゃないかなぁって思うんだが、どうなんだろう
0013人間七七四年
2012/08/07(火) 19:02:06.79ID:9oNW2pvu母衣衆みたいな精鋭は前面に出されたりしないの?
0014人間七七四年
2012/08/07(火) 21:29:48.41ID:sDxgBrFW戦場で単騎だと危険というか、途中でやられてたら意味ないし
修練積んでるイイとこの家の子にある程度郎党の人数付けて連絡に使ってるとか
それに情報伝えるのって結構難しいから、教養も要るだろうし
0015人間七七四年
2012/08/07(火) 22:30:32.06ID:sPrgldK8連絡役は状況判断が的確でかつ自分の意見も言えないと駄目だろうと思う
ただの馬鹿には出来ない役目
0016人間七七四年
2012/08/08(水) 00:44:33.64ID:qnHC2e8rこんなに複雑にしてもしょうがないだろう、みたいなのが
0017人間七七四年
2012/08/08(水) 00:52:51.66ID:0laLv0v0川中島の戦いは旗本と旗本の決戦になったって言うよな軍記によればだけどw
兼松正吉は刀根坂の戦いで敵の首級取って信長から草鞋貰った人だけどこの人は信長の馬廻りだったはず
まぁ、刀根坂の戦いは例外かもしれんが。
0018人間七七四年
2012/08/08(水) 09:03:01.18ID:bocKDUPp「唐の軍法、一に魚鱗、二に鶴翼、三に長蛇、四に偃月、五に鋒矢、六に方円、
七に衡軛、八に井雁行、是よきと申せど、皆合点仕らず候」 ってあって、
要するにわけわからんって言ってる
0019人間七七四年
2012/08/09(木) 21:56:00.66ID:+DB1ew3n第一列が新参、第二列が若者、第三列が古参――っていう風に列を兵の熟練度で分けてたっていうが、
そういうのは無かったのかな
0020人間七七四年
2012/08/10(金) 00:42:57.53ID:I5uqUwsM0021人間七七四年
2012/08/10(金) 02:08:08.73ID:ZgZc7/nG0023人間七七四年
2012/08/10(金) 07:03:11.01ID:6x4J3G4K0024人間七七四年
2012/08/10(金) 07:21:09.17ID:glpt4CGt0025人間七七四年
2012/08/11(土) 01:34:26.85ID:IctyP7wmそれでもさすがに隊列は最低限守ってたんじゃないのかな
結局さ、戦国時代の合戦像ってものを完璧に頭に描けてる人って学者も含めて誰もいないんじゃないかと思う
雑兵物語ぐらいじゃあ真の姿を見出すのはキツい
一番真の合戦像に肉薄してると言われるのがクレヨンしんちゃんのアニメだってんだからなぁ
0026人間七七四年
2012/08/11(土) 09:49:21.35ID:v4gwLwQ2君主が出陣を決意
誰々がどこを担当するのか役割を決定
吉日を選ぶ(希望する日が出るまでくじ引きをやり直す)
農閑期に召集をかける
(これこれこういう理由で相手が悪いからこっちが正義の戦を仕掛けます
とあちこちに触れ回る)
いざ出陣!
兵糧等は現地調達という名の略奪か小荷駄隊がゾロゾロ
戦場(敵領内)に近くなると斥候を出す(遭遇戦)
対陣
弓や鉄砲の撃ち合いから槍での叩き合いに移行
騎馬で接近して下馬して(小物他もろもろと)突撃
乱戦
相手の一方が崩れた(壊乱)ため退却→追撃戦
落武者狩り、かちどき、首実験、感状等を下賜
撤収、新領国の代官を任命
0027人間七七四年
2012/08/11(土) 10:03:02.61ID:qbbAXUDjそれは合戦前や足軽位は隊列を維持しているが、後者は突撃後は乱戦、
前者も一番効率が良いからそうしているだけ
>>26
鉄炮隊が何回か撃った後は乱戦じゃないかと
槍足軽も攻撃時はバラバラになっていた気がする
0028人間七七四年
2012/08/11(土) 11:49:52.45ID:RGxu24tzまあこの時代の権力構造だと訓練の為に召集なんて難しいだろうけど
0029人間七七四年
2012/08/11(土) 11:55:11.01ID:qbbAXUDj家康は武経七書を発行したり、演習を兼ねた大規模な狩りを行うことで
練度の意地を図っている
0030人間七七四年
2012/08/11(土) 15:32:42.79ID:gHr0wpAK慶長年間に軍隊に編入された雑兵と戦国期の雑兵とは別物だろう。
0031人間七七四年
2012/08/11(土) 19:56:30.30ID:aMab3y9R0033人間七七四年
2012/08/11(土) 21:10:00.03ID:aMab3y9Rそうなん?西洋だとファランクスとかレギオンとかカタクラフトとか、
どう戦ってたかきっちりわかってる印象だったが違うんか。
0034人間七七四年
2012/08/11(土) 22:03:58.03ID:v4gwLwQ2軍事関係は卑しい軍人がすることで士太夫がすることではないというのがあったので
戦はあったが戦闘がどのように進んだかは詳しくは書かれないことが多い
日本は政権のために系統だてて書かれるというのが少なかったので
個人の日記やらで補うしかないのが現状
そもそも日本人は中国人ほど記録に執着してないしね(前王朝を打倒した正当性を主張する必要もなかったし)
源氏が平氏を打ち倒し得たのは非道な行いをして平氏の天命が去ったからだなんて聞いたことないし
0035人間七七四年
2012/08/11(土) 22:15:43.24ID:qbbAXUDj0036人間七七四年
2012/08/11(土) 22:30:33.34ID:IctyP7wm――ギリシャ、ローマ時代の戦術は極めて整然たる戦術であったのであります。
多くの兵が密集して方陣を作り、巧みにそれが進退して敵を圧倒する。
今日でもギリシャ、ローマ時代の戦術は依然として軍事学に於ける研究の対象たり得るのであります」
石原莞爾『最終戦争論』
イチ見解として
「国民皆兵の制度が乱れて傭兵に堕落する」とも言ってて、傭兵に依存すると戦術が乱れるとのこと
足軽を傭兵と捉えるとあるいはそうかもなぁ
0037人間七七四年
2012/08/11(土) 23:37:49.68ID:1JEHlKoXシーザー率いるローマ軍は”志願兵”だし、ハンニバルの主力は傭兵だし
ファランクスが有名になったのはギリシャ傭兵がオリエント中で活躍したからだし……
日本が国民皆兵だったのは、律令制と明治以後だけなんじゃないかな
でも、大規模編成にあたってのコスト減のために、武士に農作業をさせることが増える
(一領具足や島津伊達家なんかも同様になる)
これは西欧でも同じで、16世紀仏も(金がなくなって)民兵制度を整えたりしてる
0038人間七七四年
2012/08/12(日) 02:01:32.35ID:DrNBkFgP傭兵の活躍は確かだが、彼らが戦術を共有する上で参考にしたのは、
やっぱり国民皆兵だったアテナイやテーバイ等ギリシャ各国の密集隊形であることは間違いないし、
カエサルを例に出すのも、マリウス以前の古代ローマの躍進を無視することになる
ハンニバルも結局“傭兵だから”負けたとも言えるしね
0039人間七七四年
2012/08/12(日) 02:05:20.02ID:DrNBkFgP0040人間七七四年
2012/08/12(日) 02:57:08.12ID:v2tKLiaS陣形を組んでの戦いになったよな。
前列に長槍組の横隊、その前もしくは両翼に鉄砲組・弓組、足軽大将や徒歩武者、その後ろに騎馬組
というのがオーソドックスな配置だけど。
備 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
0041人間七七四年
2012/08/12(日) 03:14:10.34ID:v2tKLiaS号令や銅鑼によって進退し、攻撃は呼吸を合わせて一斉に槍を振り下ろした。
続いて一斉に槍を振り上げ、また一斉に叩き伏せた。
長柄はしなるので叩くのに都合がいい。武田の長槍は穂の横に打撃用の木槌がついていた。
長柄組は足軽ではあるが上から振り下ろされる槍への防御のため、陣笠ではなく兜を着用することがある。
騎馬に対しては槍衾を作って防御。
0042人間七七四年
2012/08/12(日) 12:38:54.87ID:RVVoa8vpそれ以前は大河ドラマのようにある程度バラけた状態で、突き合っていたんじゃないかと
0043人間七七四年
2012/08/12(日) 13:21:21.95ID:0g3urcdr朝鮮の役、関が原くらいだと、一斉射撃→その混乱中に突撃、ってなのが基本になるしね
0044人間七七四年
2012/08/12(日) 14:25:20.14ID:RVVoa8vp0045人間七七四年
2012/08/12(日) 19:19:27.68ID:aIcIkdQR0046人間七七四年
2012/08/13(月) 00:05:16.21ID:mbM7CIYfその長槍隊を守る竹束隊みたいなのはいなかったのかね
0047人間七七四年
2012/08/13(月) 00:22:23.22ID:LhPY2nF10050人間七七四年
2012/08/13(月) 07:35:51.15ID:jhhokubZ遭遇戦ではなく対陣する時間があれば、竹束と掻盾(木製の置き盾)、更に柵を準備して矢戦から始めるよ。
鉄砲組と、その装填の隙間を埋める弓組が始めに戦う。
矢玉が少なくなると、双方の長柄足軽が進み出てやりあう。
崩れたところを見計らって、徒歩武者や騎馬組が突入して白兵戦。
ってな流れが典型的では。
0051人間七七四年
2012/08/13(月) 13:34:44.28ID:TjwFobTh日本だとあまり大平原の会戦がないからかな
平地はあってもちょっとずれれば丘や山があるし
隊形を工夫するより地形利用するほうがいいわな
0052人間七七四年
2012/08/13(月) 16:33:37.48ID:P3kOh57p平地じゃそうはいかねぇ
不勉強なせいか海外の戦で夜襲ってあんまりきいたことないな
いつも昼間やってるかんじ
0053人間七七四年
2012/08/14(火) 04:08:07.79ID:oSi9ZOI/丁度クラウゼヴィッツ『戦争論』の夜襲の項目読んでたわw
守る側は陣地のことを熟知しているし、奇襲なら小さい部隊ですべきだけど小さい部隊でやっても敵は倒せないし、
大きい部隊で動けばばれるしで、正直限定的な効果しか望めないって
「夜襲は、本戦に従属する個々の部隊において実施されるのが通例であり、大会戦において行われることは滅多にない」
しかしみんな見てきたように話してるがどっからその見解は出てきたんだw
0054人間七七四年
2012/08/14(火) 15:23:17.17ID:qpuLEr9J戦国時代にほんまにそんな言葉あったんかね
あの漫画、途中からやけに通説はこうだが古戦場を実地に調べたらどうのこうのとやっているが…
0055人間七七四年
2012/08/14(火) 16:14:30.02ID:uKWQpOgbセンゴクは初期に鈴木眞哉の影響か、偏った解釈しすぎて批判くらったんで
途中から突飛なことは言わなくなったね・・・
0057人間七七四年
2012/08/15(水) 11:05:21.08ID:BY1UbRSI鉄砲持って走り回れても
束竹は邪魔なんで時間に余裕がある場合の対陣限定と読んだ
0058人間七七四年
2012/08/15(水) 13:09:53.61ID:hWXSod7v0059人間七七四年
2012/08/15(水) 17:31:18.40ID:BY1UbRSI足軽<ヒソヒソ(まじかよ)
雑兵<ヒソヒソ(大将、柵は切るの運ぶの?)
小者<(どっちも勘弁してくれ…)
0060人間七七四年
2012/08/16(木) 00:47:00.26ID:zZbvynIW要するに最小単位300の細胞壁の集まりと思っていいのかな
備制度ってどの段階で確立したんだろ
太田道灌あたりかな。そもそもあの辺りの戦の体系が謎だよね
0061人間七七四年
2012/08/16(木) 02:21:51.02ID:3zL2/QQk寄親(家臣)とその陪臣の主従単位で部隊分け(戦国初期)
↓
複数の寄親衆を集めて作った備(戦国中期)
↓
兵科ごとに再編成、足軽大将のもと組衆化した備(武田信玄・北条氏康等)
という流れかと。
0062人間七七四年
2012/08/17(金) 03:39:05.88ID:tvy6haG9その当たりの流れ、長文で全然良いからもう少し詳しく説明してくれたら嬉しいなぁ
例えばそういう移行って戦国大名の中央集権化と関わりがあったと思うんだけど、
「備えってなんだよしちめんどくさい!」みたいな寄親の軋轢や戸惑いみたいなのって文献に残ってたりするのかね
0063人間七七四年
2012/08/17(金) 08:51:34.74ID:vFmRhHnh最小単位300?
なんぞそれ
0064人間七七四年
2012/08/17(金) 09:00:39.04ID:E7YzFrziという問題点がある
0065人間七七四年
2012/08/17(金) 09:06:49.59ID:GeKQ6XE+いつまでも、反日と精神的奴隷として生かす。
日本が目覚めると、困るのは、韓・中・米みんな一緒。
靖国では英霊が日本の為に戦ったというけど、何が日本の為、アジアの為だったのか見直さないといけない。
日本は人種差別問題の礎になった。それはインド、東南アジア多くの国が認めている。
http://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=rjthSfB1RF4
0066人間七七四年
2012/08/18(土) 10:55:35.53ID:1lnIkmvXもろその手の内容の本が本屋の歴史コーナーにあったな
今度タイトル見てくるか
0067人間七七四年
2012/08/18(土) 13:19:51.13ID:KTVAbZZ+基本的に挑発だから乗るんじゃないよ、と定められていた、という風には聞きはするのですが、
あの時代の罵り合いなどというのはどのようなものだったのでしょうか。
私が見たことがあるのはマンガになってしまいますがセンゴクとそのスピンオフ作品のセンゴク兄弟です。
どなたかご存知でしたらよろしくお願いします。
0070人間七七四年
2012/08/19(日) 03:07:08.63ID:D2ZMq44V「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」
から分かること
・戦場では個々の部隊の活躍が目に見えて分かる
・総大将はその活躍が見える位置にいた
・部隊と部隊は結構、ついたり離れたりするものだった
0071人間七七四年
2012/08/19(日) 04:54:45.89ID:mOL+/Dvh平地なら見えないだろうし
もしくは使い番が頻繁に出入りしてたか
あと常に部隊同士くっついている必要はない気がした
0072人間七七四年
2012/08/19(日) 10:12:33.41ID:VPce+S5V0073人間七七四年
2012/08/20(月) 01:17:39.35ID:n/lK74iyhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
>備の人員は一般的に300名から800名、本陣備の場合は1500名前後であるが、
>これらは大名の石高、戦時における戦闘要員、後方要員双方の動員、各備の任務により増減する。
>因みに石高一万石の領主を大名とする一つの基準は、備を一つでも編成できる事にある。
これハッとさせられたな。本当かどうかは分からんがw
0074人間七七四年
2012/08/20(月) 20:45:07.53ID:yZ6pyhBWてのが読んでておもろかった
領主別編成か兵種別編成かの考察や
足軽の位置付け
戦国時代の兵站
兵農分離や農兵動員やら諸々
まぁ好みで諸説突っ込まれるんだとは思うけど
0075人間七七四年
2012/08/21(火) 05:20:16.46ID:ujTTcSygまあ編成にしろ兵站にしろ大名によって様々なんだろうからな
あと、戦国前期か末期かによってもだいぶ変わりそうだな
0076人間七七四年
2012/08/21(火) 07:45:52.35ID:JB38fX8e0077人間七七四年
2012/08/21(火) 16:30:26.26ID:7ZZ6Q7a3本当に興味あるわ
歴史に名前が残ってないんだけどとんでもないアイデアマンとかっていたんだろうな
黒田官兵衛とか石田三成とか、豊臣政権を支えた幕僚にその匂いをちょっと感じる
0078人間七七四年
2012/08/21(火) 16:31:49.62ID:dNJHXAHM0079人間七七四年
2012/08/21(火) 17:07:59.44ID:Ae3eKQ9/0080人間七七四年
2012/08/21(火) 17:43:35.95ID:JB38fX8e0081人間七七四年
2012/08/21(火) 18:10:18.43ID:MZhvM6eQそうなの?
外様と(織田を含む関係者)豊臣親衛軍じゃ、相当に編制が異なりそうだが。
>>74
これは大変良かった。ただ、領主直属の「足軽」部隊と、城を中心として編制される「衆」(この著作中では小机衆が代表)
がどのように組み合わされて「備を立て」られるのかが不明だった。
つまり、鉄砲足軽隊(領主直属、指揮官はいわゆる「武士」が任命される)と
城を中心として集まってくる「武士」の部下たちを、槍、鉄砲、弓、徒侍、馬上と分けたときの鉄砲を持っている身分としての「足軽」の寄せ集め
がどのように組み合わされているのかが全く分からなかった。
008281
2012/08/21(火) 18:22:34.15ID:MZhvM6eQA.支配階級・ 常備兵 戦闘員・ 侍(領主およびその一族・郎党) ただし、着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制される
B.被支配階級 常備兵 戦闘員・ 傭兵としての足軽
C.被支配階級 臨時役 非戦闘員 領主が軍役によって動員した雑兵
D.被支配階級 臨時役 非戦闘員 侍に従属する小者・中間
E.被支配階級 臨時役 非戦闘員 陣夫として動員された百姓
Aの「着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制」された鉄砲組と、
Bの「鉄砲組」
との関係が分からない。
008381 間違えました
2012/08/21(火) 18:26:08.71ID:MZhvM6eQ『戦国の軍隊』西股総生著 学研刊 P187より
A.支配階級・・ 常備兵 戦闘員・・ 侍(領主およびその一族・郎党) ただし、着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制される
B.被支配階級 常備兵 戦闘員・・ 傭兵としての足軽。兵種ごとに組編制。指揮官は侍が任命される
C.被支配階級 臨時役 戦闘員・・ 領主が軍役によって動員した雑兵 ただし、着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制される
D.被支配階級 臨時役 非戦闘員 侍に従属する小者・中間
E.被支配階級 臨時役 非戦闘員 陣夫として動員された百姓
AおよびCの「着到後は、槍、弓、鉄砲、馬上などの兵種ごとに編制」された鉄砲組と、
Bの「鉄砲組」
との関係が分からない。
0084人間七七四年
2012/08/21(火) 19:04:22.72ID:7ZZ6Q7a30085人間七七四年
2012/08/21(火) 19:50:15.31ID:Ae3eKQ9/比較したけど実はなさそう
>>81
Aは大名の家臣がそれぞれ引き連れた陪臣の足軽を指す
Bは大名が直接雇用した足軽を指す
個人的には兵種毎の再編成はないと考えるが
0086人間七七四年
2012/08/21(火) 19:58:51.67ID:7ZZ6Q7a3008781
2012/08/21(火) 20:47:32.67ID:MZhvM6eQ>「兵種別編成方式」に対して、軍役を付加された領主たちがめいめいに動員した兵士たちによって
>部隊を構成する方式を、ここでは仮に「領主別編成方法」と呼んでおこう。
>足軽の基本的属性を、傭兵、非侍身分、軽装歩兵と位置づけ
しかし、「馬上」の足軽もいて、ほとんど侍と変わらず、この足軽隊を指揮するのが「足軽大将」
こうした足軽大将も、領地を与えられ、侍身分として遇されるようになるが、最後まで「足軽」という区別は残った。
>兵力動員のあり方が、封建的原理に則っていなかったためであろう。
また、他国の援軍など「汚れ仕事」を担わせることが多かったからだ。
最後に山本菅助も足軽大将だと例で引かれている。在地外の武士を引き立てるのに足軽大将は好都合な在り方とも
※こうなると、侍大将と足軽大将の上下がよく分からなくなる。
※昔自分は、侍大将が複数の足軽大将を指揮下においていたと思っていたが、違うようだ。
※侍大将と足軽大将は、合戦場では同じレベルの指揮官だが、平時に身分としては侍大将が上ということらしいね。
率いていたのが、鎌倉以来の在地領主を中心とする軍勢か、傭兵かの違いしかないと言うことだろう。
※こう考えると、山本菅助が、軍議で馬場や香坂らに混じって『キツツキの策』を検索できるのも無理なく整合する。
以前は、下の身分のものが、こんな重要な献策が出来るものかと思っていた。
0089人間七七四年
2012/08/21(火) 20:59:28.01ID:7GiGOlWx0090人間七七四年
2012/08/21(火) 22:15:36.48ID:d5XvPEIC0091人間七七四年
2012/08/21(火) 22:36:53.94ID:Fxw3KAbA斎藤道三は「父親」が京の商人、「息子」が守護代家家老
0092人間七七四年
2012/08/22(水) 01:31:36.69ID:bVokXHFG>昔自分は、侍大将が複数の足軽大将を指揮下においていたと思っていたが、違うようだ。
武田軍制における名称と、たとえば西国における名称って同じ言葉でも立場は違うのかもよ
陶晴賢は「西国無双の侍大将」って呼ばれたらしいし、この侍大将は「軍事指揮権者」ってニュアンスがある
0093人間七七四年
2012/08/22(水) 19:29:38.03ID:SZlKUOYk『戦国の軍隊』西股総生著 学研刊 P129より
岩付衆
太田源五郎(←北条氏政三男)が、「侍大将」
小旗 120余本・奉行3名
鑓・・ 600余本・奉行5名(長柄)
鉄炮 50余挺・奉行2名
弓・・ 40余張・奉行3名
歩者 250余人・奉行3名
馬上 500余騎・奉行6名
歩走 20人・・・奉行1名
合計 1580余
岩付衆に「足軽」は、いない。全体が「領主別編成方法」を取っている
0094人間七七四年
2012/08/22(水) 19:41:20.46ID:UjeWGMCT0095人間七七四年
2012/08/22(水) 20:18:31.77ID:4yKX2RrEこのとき陣庭奉行の宮城四郎兵衛に届いた着到状では、
騎馬8騎(含本人)、槍17人、歩者4人、旗持4人、鉄砲2人、弓1人の動員が割り当てられている。
編成段階では、宮城のような家臣(給人)達が動員してきたそれぞれの主従は解体され、兵科別に再編成しているよね。
0096人間七七四年
2012/08/22(水) 20:26:54.42ID:SZlKUOYkたぶん「着到」が終了して「備を立て」(=兵種別編制が完了し)たあとの岩付衆の鉄砲隊のことだと思います。
じゃあ、その鉄炮を操作する「雑兵」は、どこから来たのかというと、ほとんどが領主が連れてきた者たちでず。
『戦国の軍隊』では、「宮城四郎兵衛」の軍役が例としてあげられています。
宮城は、本人1名(=馬上)と本人用指物役1名のほか
小旗3名、馬上7騎、長柄17本、鉄炮2挺、弓1挺、歩者4名の合計36名を動員し、
バラバラに、小旗、馬上、鑓(長柄)、鉄炮、弓、歩者、歩走の各組に組み入れられて、備が出来るというのが、
著者の西股氏の考えのようです。
岩付鉄炮衆という足軽(=常設傭兵)の鉄炮組は、この天正5年(1577年)7月13日付けの「北条家朱印状」の上では確認できません。
0097人間七七四年
2012/08/22(水) 20:40:55.66ID:UjeWGMCT個人的にはそれぞれは北条氏房の家臣だと思うけどね
009896
2012/08/22(水) 20:42:54.44ID:SZlKUOYk「騎馬隊」「騎兵」「騎乗兵」などの定義によります。
「次々と通説を打ち砕く鈴木真哉」氏の定義
(『戦国「常識・非常識」大論争! −旧説・季節を信じる方々への最後通牒』 洋泉社 )によれば、
@騎乗する兵士が(常設的に編制され)組織化されたものが「騎馬隊」(具体的には騎兵中隊/騎兵連隊)であり、「騎馬隊」に属して騎乗する兵士が(兵種としての)「騎兵」
具体的には、ヨーロッパで16世紀後半から編制され始めた。
A馬に乗る兵士がヨーロッパでは「騎士」(日本では)「武士」。騎士が馬に乗ったまま「突撃」することはあっても、
(彼らが常設的に編制され)組織化されているわけではないので
「騎兵隊」とか「騎馬軍団」とかは言わない。「臨時騎士集団」ぐらいだろう。
0099人間七七四年
2012/08/22(水) 20:48:12.78ID:UjeWGMCTだから軍役状にある馬上も自身以外は別個に武家奉公人を従えているはず
0100人間七七四年
2012/08/22(水) 20:57:17.18ID:BQ3bJGYI足軽にも普段から新田や小作が離散した無主農地を屯田兵として耕作させて経済力の向上を図ったのか
どっちなんだろ
0101人間七七四年
2012/08/22(水) 21:06:02.05ID:gIVvrAPU0102人間七七四年
2012/08/22(水) 21:08:01.26ID:bVokXHFG「兵農分離が同時期に全国的に進展したのが不思議」って前に書き込みあったけど確かに
0103人間七七四年
2012/08/22(水) 21:10:06.61ID:gIVvrAPU0104人間七七四年
2012/08/22(水) 21:35:26.91ID:BQ3bJGYI鉄砲という集中かつ統一運用したほうが効果が累乗するけど
維持に金がかかる兵器の存在は、
兵農分離というか寄親寄子というか諸兵科連合単位としての「備」の概念を促進するだろうし
地域統一軍閥の成立が遅い奥州や四国は
それらの軍事改革を行うだけの経済的余力に欠けたというところか
なかでも別方向の軍事改革で四国の大半を制覇した長宗我部は異質ですね
恒常的に国家総動員してたなら土一揆の組織化だ
0105人間七七四年
2012/08/22(水) 21:36:59.88ID:gIVvrAPU0106人間七七四年
2012/08/22(水) 21:49:50.70ID:bVokXHFG「田んぼする人」と「戦う人」が戦国期を通して分かれていったっての定説だったと思うんだけど違うの?
0108人間七七四年
2012/08/22(水) 22:53:26.78ID:s1o2c/hu「兵農分離」は織田家だけで成功してて、他の大名は大軍編成の煽りで(お金がなくて)中小農民を軍役にかり出す傾向にあったよ
北条氏は有名な例だけど、例えば上杉の安田領検地帳(天正二年)では109人中知行2貫以下が23人もいた
徳川家だと甲斐中尾郡軍役帳(天正十三年)では31人中苗字持ち(土豪クラス)10人、苗字なし(被官クラス)21人
これは武田家の家臣団をそのまま継承したと言われるから、武田軍団も多くの中小農民層を含んでたと思われ
伊達家の動員調査(天正十七年)では苅田伊達郡から1540人のうち66名以外は全員百姓だったよ
こういう層は「軍役衆」と呼ばれ、年貢の代わりに兵役についている農民、って見方がなされてる
非常時の総動員となると完全に農民主体、小牧・長久手の戦いで徳川氏は15−60歳まで男子全員軍役にかり出してるよ
で、豊臣時代に兵農分離が進んだ、とは言われるんだけど
伊達氏が仙台城完成の際には”お金がなくて”城下に全員住まわせられず有力家臣をまるごと土着させる方針をとってたり
稲葉氏の在郷鉄砲足軽の制度や徳川頼宣が村々に20丁鉄砲を預けて訓練することを命じてたり、農兵の育成が行われてる
結局、大軍維持するにはお金がかかるので、正規社員だけで揃える(兵農分離)のは金持ち(織田家)以外事実上無理があって
兵力の大部分を派遣社員やパート(軍役、中小農民)に頼らざるを得なかった
…ってのが、最近の見方じゃないかなぁ……
0109人間七七四年
2012/08/22(水) 23:00:24.60ID:bVokXHFG織田軍は兵農分離してた→織田軍だけが兵農分離していたわけじゃない
って流れをここ数年経験したんだけど、今では、
成功していたのは織田軍だけだった
という結論に至るのか。面白いな。
0110人間七七四年
2012/08/22(水) 23:04:23.11ID:5d4D5QsU織田家のどこに兵農分離があるんだよ?
あの守護大名と大差ない旧主的動員しかできてない信長の織田家に。
東国じゃとっくの昔にやってた城下への家臣の集住さえ晩年ようやく取り掛かった「らしい」程度だぞ?
最近の説は「兵農分離」という物自体が存在しなかった。というのが主流だ。
兵農分離は江戸時代の現象であり、戦国期には起こっていない。
0111人間七七四年
2012/08/22(水) 23:09:49.13ID:5d4D5QsU農村にかせられた人的軍役はあくまで「軍夫」「人夫」として、であって、兵士としてではない。
兵になるのは大名、国人、地侍などと主従関係を結んだ給人層だ。彼らは農民ではない。
ちょっとでも調べれば戦国大名は農繁期も農閑期も関係なく大規模な合戦をしているのはすぐに解る。
「兵農分離」なんて言葉自体、江戸時代中期に造られた造語であり、戦国期の概念ではない。
そんな兵農分離を戦国軍隊に、しかもその強さに当てはめるなど馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない
0112人間七七四年
2012/08/22(水) 23:25:15.76ID:s1o2c/hu>戦国大名は農繁期も農閑期も関係なく大規模な合戦をしているのはすぐに解る
秋出兵は多いぞ、例えば上杉謙信の信濃出兵は5回中4回秋(一回夏)
逆に、春夏のほうが秋冬より多かった例を上げてくれないかな?
0113人間七七四年
2012/08/22(水) 23:31:41.26ID:4yKX2RrE鈴木サンはもって行き方が強引というか相変わらずだなw
一般論でいうと日本では、封建的身分と結びついた武士による騎乗戦闘員を「騎馬」と呼んでたよね。
海外における社会身分と結びついた騎乗戦闘員は「騎士」。西欧騎士、オスマン帝国のシパーヒーなど。
「騎兵」はというと、まずは騎乗戦闘員全体を指す用法。モンゴル騎兵、ガリア騎兵。
もうひとつは古今の常備軍、人によっては近世以降の常備軍の騎乗戦闘員のみを「騎兵」と定義する用法と、曖昧なのが現状。
英語のCavalryは騎乗戦闘員全てを指す言葉なのに対し、日本では用法に統一ができていないということだろうね。
0114人間七七四年
2012/08/22(水) 23:33:29.41ID:5d4D5QsU川中島の戦い
第一次 天文22年(1553)4月〜9月
第二次 弘治元年(1555)3月〜閏10月
第三次 弘治3年(1557)7月〜9月
第四次 永禄4年(1561)8月〜9月
第五次 永禄7年(1564)8月〜10月
で?
0115人間七七四年
2012/08/22(水) 23:42:44.37ID:5d4D5QsU何らかの農繁期だったといっていい。コメしか見てない人間は農村の実態をまるで解っていない。
0116人間七七四年
2012/08/22(水) 23:51:38.38ID:5d4D5QsU第2次河東一乱 天文14年(1545)7月〜11月
0118人間七七四年
2012/08/23(木) 00:27:55.86ID:iDmLgZ6o氏綱期 天文6年(1537)7月
氏康期 天文14年(1545)9月〜天文15年4月
0119人間七七四年
2012/08/23(木) 00:36:29.90ID:ipFrQbSeと思ったけどID:5d4D5QsU武田厨っぽいのが気にかかる
どうか議論は冷静に
0120人間七七四年
2012/08/23(木) 00:39:57.86ID:0hZ60kwz結城合戦 永享12年(1440)3月〜嘉吉元年(1441)4月
嘉吉の乱 嘉吉元年(1441)7月〜9月
江ノ島合戦 宝徳2年(1449)4月〜8月
0121人間七七四年
2012/08/23(木) 00:47:14.93ID:WCs33xvs>ちょっとでも調べれば戦国大名は農繁期も農閑期も関係なく大規模な合戦をしている
今度は>>115で
>ほぼ一年中 何らかの農繁期だったといっていい
上で農繁期、農閑期を認めておきながら、下では一年中農繁期だとか言ってる
ID:5d4D5QsUは例の基地外武田厨さんでしょ
0122人間七七四年
2012/08/23(木) 00:51:04.56ID:iDmLgZ6o(君のいう)農繁期農閑期は、関係ない、という意味と、
俺のいう実態としては1年中何らかの農繁期だった、という部分を一緒にするな。
まあキミに出来るようなことはレッテルはって勝手な勝利宣言するくらいだろうけど。
0123人間七七四年
2012/08/23(木) 00:53:41.88ID:ipFrQbSe>そもそも戦国時代、「農民」は「兵」になっていない。
>兵になるのは大名、国人、地侍などと主従関係を結んだ給人層だ。彼らは農民ではない
要するに最初から兵と農は分かれてたってこと?
0124人間七七四年
2012/08/23(木) 00:59:46.49ID:0hZ60kwzそう。戦ってたのは侍身分とその給人。
戦国末期に総動員という形で一部農民を兵士に編成することも、北條や長宗我部などであったが、それは
ごくごく例外的な話。
織田が強かったのは兵農分離なんてへんてこな仕組みではなく、ただ単純に多くの侍身分を
組織できたから。
0125人間七七四年
2012/08/23(木) 01:42:12.96ID:sGq9pEfd謙信の北信濃出兵は
1)天文22年(1553)9月出陣 9月帰国 秋→秋
2)弘治一年(1555)4月出陣 10月和睦 夏→冬(この時は兵糧に苦しんで誓紙を部下に出させてる)
3)弘治三年(1557)4月出陣 6月帰国 夏→夏
4)永禄四年(1561)8月出陣 9月帰国 秋→秋
5)永禄七年(1564)7月出陣 9月帰国 秋→秋
6)永禄八年(1565)7月出陣 9月帰国 秋→秋
つまり、出陣する時ってのは秋か麦秋、そのどっちかしか無いよ(つか6割以上秋出陣やん)
↑の結果見たら「農繁期も農閑期も関係なく大規模な合戦をしているのはすぐに解る(>>111)」
…という主張には同意できない人が多いんじゃないかなぁ……
>>124
「兵農分離」ってのを「常備兵化」ってな現象に伴う事象とみれば、戦国時代でも起きてんじゃない?
大内氏定書(1486)にも載ってるんだし
0126人間七七四年
2012/08/23(木) 01:45:38.34ID:0/u6ZifJ学校で習ったけど
0127人間七七四年
2012/08/23(木) 01:54:44.58ID:0hZ60kwz何で「出陣する時」が基準になるのかがよくわからない。
いわゆる農繁期に大規模な合戦を恒常的に行なっているという事実をどう捉えるの?
あと戦国の「兵農未分離」とは兵士のことではなく、軍隊を維持する輜重や陣地設営などを行う軍夫人夫について。
彼らがなければ軍隊組織は維持できない。(無論村の運営に影響が出るほど徴用するわけではないので
負担ではあっても農繁期などの関係はない)
これら軍夫人夫が城下町から金銭で雇えるようになったのがだいたい徳川家光の時代。
農村が人夫役軍夫役を銭納に切り替えたことも含めて、この時代に「兵農分離」が起きた。
0128人間七七四年
2012/08/23(木) 02:12:35.82ID:sGq9pEfd単純に「補給が出来る時期に大規模合戦があった」って言いたいだけですけど
(つまり年中大規模合戦があった(>>111)ってのはおかしい、って指摘してるだけで)
あと軍役帳に農民の名前が載ってるし、合戦前に根こそぎ徴用の記録もあるのに
「無論村の運営に影響が出るほど徴用するわけではない(>>127)」
…って結論が先に来るのもよくわからないので、
ちょっと参考資料示していただいて詳しくお願いしたく……
あと江戸初期は兵農分離とは逆方向の政策、農民兵育成盛んになったよ(帰農論の時代)
0129人間七七四年
2012/08/23(木) 02:28:11.62ID:0hZ60kwz少なくともいわゆる農繁期農閑期を意識せずに戦国大名は合戦をやっていた。
「合戦の都合」を優先していたわけだ。
あと農村からの徴用は、一般的に農村運営に影響のない形でやっている。
それは北條の軍役帳などからもよく解る。
というか、根こそぎ徴用の記録というのは何かを先ず知りたい。
それから帰農論は江戸中期な。それこそその過程で「兵農分離」という発想が生まれた。
しかもそういう思想が出てきたのは、社会が「兵農分離状態」になっていたため。
前後が逆だよ
0130人間七七四年
2012/08/23(木) 03:04:18.11ID:sGq9pEfdまず「兵農分離」って言葉は”思想”ではなくて”事象”ですよね?(…発想ってなんですか??)
>根こそぎ徴用の記録というのは何かを先ず知りたい
例えば武田家朱印状(1577)では15才から60歳まで一人残らず20日の出陣
北条氏政朱印状(不明)16才から69歳まで全員点呼訓練
徳川家駿河志太郎郡軍役賦課状(1584)では15才から60歳まで一人残らず
太平年代記には、天文五年の今川と北条との争いで「地下人迄軍役難儀いたし候」とかあります
0131人間七七四年
2012/08/23(木) 03:26:22.14ID:iDmLgZ6o思想は「帰農論」、発想は「兵農分離」
現状の社会を表す言葉として、兵農分離という発想が生まれたということ。
あとそのへんの朱印状、特に「一人残らず」の部分は「村から根こそぎ」ではなく、
「軍役義務として割り当てられた人数を残らず」と解釈するのが自然だと思うが。
だいたい村から根こそぎ動員なんかしたら生産が止まって、困るのは大名だし。
それ以外は訓練と、軍役の負担が大きかったよ、って話だし
0132人間七七四年
2012/08/23(木) 03:49:12.94ID:epbmlwB0↓
余剰人口や続く戦乱により農工業から逃散した遊民が武装傭兵化(非侍身分の戦闘員→足軽)
↓
合戦の戦訓から、長柄・鉄砲等を活用した集団戦に移行
↓
勝つためにフレキシブルかつ諸兵連合を実現すべく寄親寄子のより兵科別編成が浸透
こんな解釈。侍にしても足軽にしても、最初から農から分離してる
一領具足、御国大事の農民根こそぎ総動員とか、本願寺の門徒皆兵とかは例外事項
信長は、金があったから足軽を大量に雇えただけで、武田も山本勘助とか足軽衆がいたみたいだし
北条なんざそこそこの身分階層出身ながら悪党崩れの足軽を組織化してのしていったんじゃないかな
織田家のみが兵農分離ってのは無いんだろう
0133人間七七四年
2012/08/23(木) 04:59:15.71ID:sGq9pEfd>「軍役義務として割り当てられた人数を残らず」と解釈するのが自然だ
その解釈なら”年齢指定”はどういう理由でなされているのですか??
…つか”具体的”な否定される根拠が示されてないのでコレ以上の返答に窮しますが……
>>132
「農業経営に関わっていた戦闘員が、近世に入って戦闘に純化し農業活動から離脱していった事象」
として自分は「兵農分離」を使っております(たぶんそうおかしな定義ではありませんよね?)
それ故城下に住むことを定めた大内氏定書も「兵農分離」の一旦を示している、と考えています
>侍にしても足軽にしても、最初から農から分離してる
コレの意味がわかりません、中世では武士は農業経営にも関わっていたわけで
「農から分離」したのはいつ頃でどんな事象なのか、概略ではなく根拠を示してご教授くだされたく
あと17世紀に入ってからの、稲葉氏小田原藩の鉄砲足軽制、郷土制度(伊勢藤堂、紀伊徳川、土佐山ノ内など)
役儀半免鉄砲衆募集(小笠原、仙石)などの農民兵制度は、兵農非分離の政策と見られますが
あなたの江戸兵農分離確立説では、どういう解釈をなされていますか?
0134人間七七四年
2012/08/23(木) 18:40:41.14ID:ipFrQbSeステマじゃないけどw、確かに面白いな。このスレにあってる。
「元寇の防塁はまちまちな戦闘集団の動きを制限するためだった」ってのは飛びすぎだと思うが
0135人間七七四年
2012/08/23(木) 20:05:17.62ID:o8zBFqv10136人間七七四年
2012/08/24(金) 03:33:35.12ID:Qod0Hq0L>信長は、金があったから足軽を大量に雇えただけで
そもそもこの部分――つまり、他の大名軍団と比べて信長の軍団の雇用足軽比率が高かった
ってのが史料的に明らかになってないってのが現状なんじゃね
信長がなんで強かったかって言うと、早い段階で濃尾平野北伊勢手に入れて、そこからパワーゲームに持ち込めたから、
っていう、大味な話が結局のところ真かと
0137人間七七四年
2012/08/24(金) 04:49:29.62ID:xQhRQubh大坂の役の籠城側足軽も、近畿の農村から”出稼ぎ”にでたのが供給源
(だから夏の陣前にお触れ出して冬の陣に大阪方だったものは拘束してる)
まぁ当時”余剰人口”がどうして生まれたのか、ってな説明がないと
「侍にしても足軽にしても、最初から農から分離してる」てのはただの想像上の話としか……
つか「兵農分離」 の結果として、侍の給金が知行から切米に変わる、ってところがあって
(>>131の江戸時代兵農分離成立説も、そこら”だけ”注目した仮説だと思うのだけど)
兵農分離すると基本同じ予算で雇える兵士数は減ることになるので
織田家は征服地での旧領安堵なんてほとんどしてないし、その点他の大名と違うので
「全国で兵農分離は試みられたが、経済的理由で織田家だけ成功した(>>136説?)」
…ってのは自分も賛成ですかねぇ……
0138人間七七四年
2012/08/24(金) 09:23:19.71ID:6fh+R0i20139人間七七四年
2012/08/24(金) 18:16:43.07ID:8s+vEWc00140人間七七四年
2012/08/24(金) 18:39:31.75ID:zstQDjYa0141人間七七四年
2012/08/24(金) 18:45:29.53ID:8s+vEWc00142人間七七四年
2012/08/24(金) 18:54:16.52ID:Qod0Hq0Lちょうどそんなこと書こうと思ってたわ
東国の軍制を「先進的」で「合理的」だったという意見がここに来て主流だけど、
その「合理性」ってのは必ずしも「戦力の効率化」に結びついたりするものじゃなかったのかも
0143人間七七四年
2012/08/24(金) 19:37:20.31ID:zstQDjYa後者のほうが圧倒的に豊かで巨大だって話だわな。
しかし時代的社会的にはやはり合理化効率化が求められており、東国の諸制度を受け継いだ徳川政権が、
京兆政権から豊臣政権までの畿内政権的性格の強い政権に対し長期安定政権となったのは、そういう理由だったと
見るべきなのだろう。
0144人間七七四年
2012/08/24(金) 21:40:34.09ID:6fh+R0i20146人間七七四年
2012/08/24(金) 23:14:42.31ID:I55TsdfB0148人間七七四年
2012/08/25(土) 00:09:04.17ID:fQOJ4Ctl「先進的」だの「合理的」だの言われるようになっただけ
0149人間七七四年
2012/08/25(土) 00:39:34.34ID:vQKOEpN80150人間七七四年
2012/08/25(土) 00:42:43.48ID:nagH/188横取り?
天正壬午の乱の甲斐討ち入りなら秀吉や勝家も含めた織田公儀の完全な支持のもとの、
公儀としての武力介入だぞ?
そんな事も知らんおかお前は。
0151人間七七四年
2012/08/25(土) 00:48:34.23ID:M8PWV1s6サラリーでの雇用だった。本多忠勝や榊原康政などもこの旗本先手組の高級将校で、彼らは領地を持たなかったが
家康から与えられ、大名クラスの軍勢を動かせた。
それと、これは今川から受け継いだのだろうが、検地による軍役割り当ても早い時期から行なっていたらしい。
0152人間七七四年
2012/08/25(土) 03:00:25.49ID:qgRuUubc>侍の給金が知行から切米に変わる
一番最初、「武士は一所懸命を守る集団でした」で武士を説明しておいて、
江戸時代に入ってみんな俸禄に切り替わってることの原因を説明してないしできないなんて、
考えてみれば日本の歴史教育は穴だらけだなぁw
0153人間七七四年
2012/08/25(土) 23:54:24.22ID:8AF/Mwkkその理由って単純に「常備兵化した」ってことだけなんじゃぁ……
昔そう習った気がするけど、今は違うの?
兵農分離はソレに伴う変化の一つ、西欧では単純に傭兵に置き換わったわけで
そんなものを日本では身分制の確立とか”特別なこと”って見てるのは不思議な気はする
0154人間七七四年
2012/08/26(日) 00:18:55.75ID:C2nN0D9vそんで更には軍制は末期にようやく寄子寄親がなんとか形になっただけ・・・戦国大名にすらなってなくないか?
0155人間七七四年
2012/08/26(日) 00:21:46.06ID:LYuMY5nf0156人間七七四年
2012/08/26(日) 00:55:21.12ID:+8SzAlY4槍足軽だけ300人別働隊とか、城攻めに鉄砲800人の部隊を編成とか。
まあどこの大名でも備にとらわれず、状況に合わせて編成の融通は利かせていたんだろうね。
0157人間七七四年
2012/08/26(日) 03:21:36.44ID:WbsuYkoD信長のカリスマでグッと押さえつけて、領主の権力をって感じか
ただ、家臣を城に集めてはいたんじゃないか
0158人間七七四年
2012/08/26(日) 10:42:28.59ID:1IIAssB70159人間七七四年
2012/08/26(日) 12:41:57.72ID:Vn5pNaVT0160人間七七四年
2012/08/26(日) 14:27:41.79ID:sxvXOn120161人間七七四年
2012/08/26(日) 23:45:36.42ID:GvSMVfmH尾張より西は雑魚しかいなかったし
0163人間七七四年
2012/08/28(火) 01:32:14.38ID:KEAtvbem藤堂高虎みたいな一騎駆け経験者に長柄足軽ワロスとか言われてんじゃん実際
0165164
2012/08/28(火) 03:19:59.07ID:nUAUfwb30166人間七七四年
2012/08/28(火) 07:26:04.07ID:Hux/fkHyという部分の事だろう。
0168人間七七四年
2012/08/28(火) 12:32:31.95ID:xU5RLg9W(何人ぐらいがこの本読んでて何人ぐらいがこの展開納得してくれてるんだろw)、
その本だと侍もまた一箇所に集められて、「戦場の缶切り役」として、重装歩兵として動いてたって書いてあるんだよ
だとすると、史料でたまに出てくる400騎とか500騎とかに、「気取った書き方しやがって×4すんのめんどいよ!」
って思ってたが、意外ときちんとした戦闘能力を表す数字だったのかもなぁ
0169人間七七四年
2012/08/28(火) 14:34:08.98ID:KEAtvbem長柄槍≠パイクってことだな
マジで叩き合うためだけの長さなんだなアレ
>>168
あの本では、侍一騎=重装歩兵もしくは騎兵でかつ侍パッケージ(郎党含む)だから実数は掛け算で正しいと思う
0170人間七七四年
2012/08/30(木) 01:31:22.64ID:dD01pO/b戦国の過渡期では、
記録者にとって戦力としての足軽などものの数に入ってなかったのだと思えばニヤニヤできる
ちょっと性急かも知れんが、史料に出てくる「首級」って言葉の本質的意義をとにかく把握したいよ
0171人間七七四年
2012/08/30(木) 01:50:39.11ID:IQbgOT0vそれって「同じ槍隊でも槍の長さが短くて不揃いなのはプロの武士の部隊だから気をつけろ」って話じゃなかった?
0172人間七七四年
2012/08/30(木) 01:56:55.46ID:m+xP5SWz0173人間七七四年
2012/08/30(木) 02:33:54.90ID:qyWk5U0h0174人間七七四年
2012/08/30(木) 04:05:19.31ID:2prFSbhe徒歩武者は重装歩兵って感じだよな
0175人間七七四年
2012/08/30(木) 06:55:14.56ID:RwWMsq13横陣とかファランクス隊形のままどうやって動かすんだろう?
山の斜面か、川を挟んでか、砂浜か、低木地の荒地でも使ってやりあったのか?
最近読んだ小説では細いあぜ道での戦闘で田んぼに嵌って討死とかそんなのだったが
街道でも整備されても3間5.5m未満で、2m未満なんてとこもザラだったような
0177人間七七四年
2012/08/30(木) 12:26:51.58ID:dD01pO/bじゃあ縦一人分の移動スペースを開けとけばイイって問題でもない気がするけどな、
そんなの戦場のドタバタで埋まったりすんじゃねえのかよとか思う
0178人間七七四年
2012/08/30(木) 13:00:32.42ID:i/QEh0IB昔の戦場ではけっこう世界的に普通の行為(イッソスの戦いとか)
つか家康が「本格的な槍合わせは一度しか見たことがない」って言ってるので
あくまで”理想の合戦ではの話”ってな部分はあるとは思うけどね
0181人間七七四年
2012/08/31(金) 03:32:50.73ID:y60O8tJxその深い知識を考察も併せて出典、引用を引いて出してくれって思うなw
0182人間七七四年
2012/08/31(金) 05:01:30.38ID:9IxVeR/E「陣形」ってのが意味ある言葉なのか、いまいち不信に思うけど……
姉川の合戦、とかどうだろ?
信長は兵力の逐次投入、柴田・佐久間・丹羽らを行軍から即戦線に投入してるし
家康は旗本衆で横槍(延翼)しまくってるし
0183人間七七四年
2012/08/31(金) 06:26:57.83ID:QJ6Gd40w>家康が「本格的な槍合わせは一度しか見たことがない」って言ってる
北国の農耕不能地帯とかならともかく中央では野戦やっぱりそういうもんかな
せいぜい何とか坂の戦いとか何とか峠とか何とか川の戦いとかをやってて
それが複数箇所になったら何とかヶ原の戦いみたいに呼ばれるとか
0184人間七七四年
2012/08/31(金) 08:55:02.05ID:bjSKRmm2変陣の十種とか変陣十ヶ条とか言うらしい
基本となる八陣からの変形させた応用陣を作るぽい【兵法神武雄備集】
ちなみに長柄倒の法と言って槍隊殲滅方法も一応マニュアル化された物はある
槍隊が存在する以上対処法を考えるのは当然っちゃー当然なんだけどねw
0186人間七七四年
2012/08/31(金) 09:56:20.37ID:j+sSIqjk旗本で思ったけど
旗本近習が予備兵力として出てくる記録って多いね。
信長の黒母衣衆・赤母衣衆、あと有名なのはなんだろう
0187人間七七四年
2012/08/31(金) 10:06:57.61ID:VY1J2o8Sまあこんなのは戦国大名というより南北朝の頃の戦い方と変わらん(足利尊氏の花一揆とか)、
軍事組織の未発達な織田系らしいやりかただな。
0188人間七七四年
2012/08/31(金) 10:14:36.76ID:DR8+wyB5後方の総大将の指示で整然と前後するということは先ず無い
0189人間七七四年
2012/08/31(金) 10:30:17.45ID:VY1J2o8S場合によるがな。
備は確かに高い完結性を与えられているが、その行動はやはり総大将の作戦に拘束される。
指示を受けて動くことが必要とされた作戦では、指示によって行動するよ。
0190人間七七四年
2012/08/31(金) 10:36:08.95ID:DR8+wyB5それやって交代時に付け込まれて壊乱とか、手柄横取りされるのが嫌で拒否とかザラにある
それよりも予備を多数置いといて、それで穴埋めの方が上手くいく
猟犬の綱みたいなもので、一度離したら総攻撃か撤退でもない限り統制は効かないと見るべし
0192人間七七四年
2012/08/31(金) 10:41:24.66ID:DR8+wyB5実際、詳細な指示を出してその通りに動いた例は無いが
精精新手を出す際にどの方面に行け程度でしかない
0194人間七七四年
2012/08/31(金) 13:40:34.17ID:OXqIITb00195人間七七四年
2012/08/31(金) 20:28:16.11ID:j+sSIqjk>交代時に付け込まれて壊乱
道明寺の伊達政宗隊のことかw
古代ローマは前線が疲労してくるとマニプルス(中隊)単位で入れ替わって交代してたけど
フレッシュな新手を投入できる強みもさることながら、戦闘中の部隊の後退はそのまま敗走となる危険があった。
唐代の中国でも三重の戦列を敷いて似たようなことをやっていたな。
0196人間七七四年
2012/08/31(金) 22:59:07.20ID:2i38w6hy0198人間七七四年
2012/09/01(土) 01:36:14.56ID:MeGjclJb信長の旗本が戦場で予備兵力として活躍したって話はなくね?
上洛の時の城攻めで先陣として出てきて自分たちがするものだと思ってた美濃三人衆が驚いたとか、
あと万見重元が塀を乗り越えようとして死んだとか、先陣として使われたって話はあるけど
逆に考えると、
黒母衣衆の河尻秀隆も岩村城攻めで名前を上げたわけだし、信長軍団の旗本衆は先陣を切らせられてたのかもな
ここに織田軍団の特異性を見出すことが出来るかどうか
0199人間七七四年
2012/09/01(土) 01:44:50.08ID:eWA0Nf07家康の「旗本先手組」も、その名前の通り「先手」を取らせるのが主目的の部隊だし。
0200人間七七四年
2012/09/01(土) 01:58:21.91ID:DeotAWOh0201人間七七四年
2012/09/01(土) 02:04:33.31ID:eWA0Nf07そんなたまたま当たった悪手をいい歳した戦国大名がドヤ顔で自慢してたら、情けなくて泣くしか無いだろ。
0202人間七七四年
2012/09/01(土) 07:35:04.59ID:z/JtvVRvそして家康の危機に対しては壁となり奮戦した
0203人間七七四年
2012/09/01(土) 09:43:07.76ID:MeGjclJb武田も島津も重臣が務めてるよね
「旗本がやった」っていうのはちょっと違うと思うけど
0204人間七七四年
2012/09/01(土) 11:26:47.10ID:kZOnkix9先手で予備で親衛で参謀?
すごいねー何人居るんだろ
0205人間七七四年
2012/09/01(土) 11:43:59.95ID:U+c9cdQo0206人間七七四年
2012/09/01(土) 12:15:46.93ID:z/JtvVRv先手は榊原や大久保?
>>205
一言坂の戦いは斥候とシンガリ部隊
姉川の突撃が事実だとすれば榊原と同じ迂回部隊
0207人間七七四年
2012/09/01(土) 12:42:14.31ID:B5468FyG0209人間七七四年
2012/09/01(土) 12:58:24.91ID:B5468FyGそんなとこに歴史的な価値が発生するなんてのは現代人の思い込みに過ぎないんだから
0210人間七七四年
2012/09/01(土) 13:19:47.56ID:MeGjclJb戦果の大部分は追撃戦ってクラウゼヴィッツも言ってたし意味あったろ
あれが無ければ越前手に入ってたかどうか分からん
0211人間七七四年
2012/09/01(土) 20:10:30.94ID:wHNahJE/0213人間七七四年
2012/09/02(日) 00:58:10.83ID:LCMtfgaLそもそも徳川の先手組も織田の母衣衆も何も分かってないってのが実情じゃね
胡散臭いの我慢して甲陽軍鑑辺りから読み解いたほうが早いかも
0214人間七七四年
2012/09/02(日) 13:07:20.01ID:D9LFBJzl先手とかいうのを独創したのか?
0215人間七七四年
2012/09/02(日) 14:00:15.49ID:eJXCas/2手元に数千〜万の規模で組織しており、戦国大名の旗本組織としては飛び抜けて巨大だ。
まあ単純に当時の家康の置かれた条件のもとで、直属部隊を試行錯誤して作り上げた結果だと思うが。
0216人間七七四年
2012/09/02(日) 20:26:40.93ID:s2Qs0dvR0217人間七七四年
2012/09/02(日) 23:09:45.16ID:S9v2pNbb0221人間七七四年
2012/09/03(月) 01:51:10.05ID:GK3DgYj2その代わり息子や娘はアホみたいに作ったけどなw
秀吉に家康なみの種があれば豊家は安泰だったろうに
0222人間七七四年
2012/09/04(火) 04:04:22.60ID:VRGDJVPp毛利元就の軍制改革とか何か残ってないもんか
0223人間七七四年
2012/09/04(火) 05:51:05.47ID:nnPv7FPR大内氏だとされる
0224人間七七四年
2012/09/04(火) 16:28:21.59ID:TPaBj2zL0225人間七七四年
2012/09/06(木) 05:42:50.18ID:Yn1QSVJF0226人間七七四年
2012/09/06(木) 09:14:51.64ID:CfNqguhz例えば鉄砲を含む構えを編成した場合wikiペディアには鉄砲50とあったが、そんな中途半端な数の鉄砲いても意味合ったんだろうか?
こんな編成だと斉射ではなく散発的な射撃になりそうなんだけど、どうなんだろ。それとも弓鉄砲60パーセントで編成した鉄砲衆とかあったんだろうか(雑賀や織田ならやってそうだが)
こんな小規模な諸兵科連合でそうそう戦える物かね?三兵戦術やテルシオみたいに仕事とか配置がはっきりした方が使いやすそうだけど
0227人間七七四年
2012/09/06(木) 09:37:46.85ID:lPCXcyow0228人間七七四年
2012/09/06(木) 13:20:51.42ID:gQ3CkeAVそうだね〜細切れより集中運用のほうが効率がいい。特に白兵部隊は数が多いほうが衝力が強くなる。
備は諸兵科で編成し弱点を補い合う、現代軍制の戦闘団に近いね。
狭隘な地形に林、田んぼ、急斜面、川が次々現れ、大兵力の展開に支障のある日本では
機動の柔軟さと、戦闘時全ての兵科が揃っている事による汎用性を優先させたんじゃね?
関ヶ原から30年後のスウェーデンも、歩・騎・砲を組み合わせた三兵戦術でセンセーションを起こしてる。
パイク(長槍)兵216人・銃兵192人で大隊を組み、さらに騎兵・小型砲も組み込んだ。
ただ歩兵に随伴したら騎兵の速度を生かせないよね?って言われてた。
0229人間七七四年
2012/09/06(木) 20:30:57.40ID:CfNqguhzそうなると合戦は小さな備えが横列に広がってぶつかり合ってたことになるけど、敵陣突破するには衝力が足りなさそうだな
でも朝倉の力士隊みたいに切り込み専門部隊もいたみたいだし、そういう奴らが衝力を担当したのかな
それとも槍でペチペチしてるのを弓鉄砲でチクチクして、先に崩れた方に乗り込めー^^ してたんだろか
0232人間七七四年
2012/09/08(土) 01:26:41.53ID:BqRfVJvJ0233人間七七四年
2012/09/08(土) 08:40:18.38ID:0RWWYw2b二番槍、三番槍と後続が続いて初めて手柄になる。
0235人間七七四年
2012/09/09(日) 11:53:04.63ID:jmS+73wbしかも馬に乗ってると他者を追い抜いている可能性があるとして即認められる事はなかった
第三者の目撃情報も必要となるので地味な格好では誰も認めてくれない状態になる事もある
しかし派手な格好で活躍がイマイチだと士気に影響するとして切腹させられる事態も・・・
色々大変だよなww
0236人間七七四年
2012/09/21(金) 14:09:12.71ID:R9JnpGbP私のHPに詳細を載せているので感想等よろしく
0237人間七七四年
2012/09/21(金) 18:57:35.35ID:v4p/J8AYどの陣を破るにはどの陣、どの陣で攻められたらどの陣で防御が有利、という解説があれば尚よろし
0238人間七七四年
2012/09/26(水) 05:11:26.11ID:tUojjeHJ当時の徴兵?の仕方には三種類くらいあって、三兵戦術とか不可能だったのよ
主力だった「侍」は、知行地に応じた兵士ユニット(主人と脇侍、200石で5人が目安)を出したので
そのユニットを崩す編成(軍功がはっきりしなくなる)はしにくかった
これらの軍費は税の減免(つまり自弁)安く動員できたので軍の主力担ってたし
で、無産階級やあんまり資産を持ってない人たちを編成したのが「足軽(無足人)」
戦争始まってから集めるのも大変なので、平時から小金?与えて他のことさせたりしてた
装備は支給されて知行(土地)ではなく蔵米で支払われてた(武田だと野組と言われるクラス)
織田家では城下に住まわして(川角太閤記)即出陣可能だったのは他の大名と違ったりする
たぶん当時同一兵種で編成運用可能だったのは、この人達くらい
最後が「牢人」 当時は領地をめぐって2つにわかれて争うってのが常で負け組が牢人になる
織田の越前一向一揆討伐も先陣は「越前牢人衆」、まぁ旧領回復が報酬なので、お金はかからない
この人達も「軍功第一」なので再編成する対象にはしにくい
西欧でも「傭兵」が主力になってから軍事革命本格化した(グスタフ・アドルフなんか最たるもの)
日本はそれに移行する前に、パックス・トクガワーナが始まっちゃったからねぇ……
0239人間七七四年
2012/09/26(水) 08:52:13.91ID:j/nFnq7o0240人間七七四年
2012/09/26(水) 16:30:56.59ID:tUojjeHJ戦国時代初期と末期江戸(常備兵化した)では足軽の意味が変わるけど……
wikiの「備」は江戸中期の説明(「牢人」の存在がない)だけど
騎馬武者は「侍」 鉄砲、長柄、弓は「足軽」ってちゃんと記述されてるよ
それにwikiでも「騎馬隊」の編成が侍と奉公人の混合で弓や武器も装備してた
って書いてあるから、江戸中期になっても完全な単一兵種編成出来なかったのでは?
0241人間七七四年
2012/09/26(水) 17:17:09.93ID:j/nFnq7o初期の足軽でも機動戦力たる騎乗武士と前衛の足軽という関係は変わらない
浪人も持っている戦力に応じてそれらに配分される
0242人間七七四年
2012/09/26(水) 17:40:13.50ID:tUojjeHJあなたの使う「足軽」は当時の記述されるものとは意味違ってますよね?
でもまぁ牢人は装備にかかわらず普通ひとまとめに扱われたよ
例えば小西行長が順天城撤退の時に、牢人は「諸牢人寄合組衆」って別隊にまとめてたり(宇都宮高麗帰陣軍物語)
0246人間七七四年
2012/09/27(木) 16:51:40.15ID:4v4M5IJ7明軍の追撃があるかもしれない前線で、船着場に到着した時のために編成を変更した、ってことですか?
それは置いといて、今問題になってるのは正規?部隊と牢人を混在させたか、って話ですよね
小西行長隊には宇都宮国綱(500名程度の部隊)初め、高名な牢人が加わってますので
それらを武装を統一した部隊を作るために再編成した、と考えるのは無理があるかと
0248人間七七四年
2012/09/27(木) 17:35:06.69ID:4v4M5IJ7(>>245)って、前線と輸送での編成に違いがあるから、って意味じゃないんですか?
つか自分は「三兵戦術やテルシオみたいに仕事とか配置がはっきりした方が使いやすそうだけど (>>226)」
に対しての「三兵戦術とか不可能だった(>>238)」理由が当時の徴兵の仕方にある
だから「当時の備は江戸期でも同一兵種編成でなかった(>>240)」とかレスしてるんですが
(>>247)とか、何を主張してるのか、さっぱりわからないんですが……
0250人間七七四年
2012/09/28(金) 17:26:59.26ID:OxgB8foi0251人間七七四年
2012/09/29(土) 17:19:52.68ID:9Nb5zmW+概念だけでも有れば、幕末に「三兵タクチキ」なんて建白書をわざわざ出される事もなかった気もするけど。
0252人間七七四年
2012/09/29(土) 19:08:38.85ID:SIj9AmRU同じ「足軽」でもA君とB君との間で頭に描いてるものが微妙にズレてる。だから混乱する。
戦国時代における軍事研究が遅れてる現状と原因と弊害がよく分かるw
0253人間七七四年
2012/09/29(土) 19:11:19.06ID:6vRJhrV6兵種を表す名詞としてだけでなく、戦闘形態を表す動詞としても使われてたし
0254人間七七四年
2012/09/29(土) 19:57:10.02ID:ba7SPBx1数が十分でない間は家臣の持ってる馬や鉄砲を抽出して
集中運用した方が便利だろう
馬はともかく鉄砲は初期の装備率めっちゃ低いわけだし
0255人間七七四年
2012/09/30(日) 10:31:19.86ID:DpLuLW+10256人間七七四年
2012/09/30(日) 11:06:22.72ID:zMJHmDgo鉄砲を供出すること自体が、鉄砲を自分とこで使ってあげられるであろう武功よりも
高く評価されないことには出し損なわけだし
まあ命がけだけに、背に腹は代えられないで例外もあっただろうけど
0257人間七七四年
2012/09/30(日) 11:36:34.54ID:G5jVTlQkそもそもそれが「強権」だったかどうかってところから踏まないといけないんだろうけどな
「ひとたび戦場に行ったら上の人間の指示に従ってあちこち引き離されるのは当然」
ってのが共通認識としてあったとしたら話は変わってくる
0258人間七七四年
2012/09/30(日) 11:55:51.50ID:DpLuLW+10260人間七七四年
2012/10/01(月) 14:24:13.39ID:fCx11Vit戦国期の軍勢は封建的なものから分離されていたってことにもっと早く気付くべきだったのだ
0261人間七七四年
2012/10/01(月) 14:35:45.50ID:BMQt/iqaより封建的な徴兵の仕方じゃないんかね?
しかも命令連絡機構がきっちりしてない大軍(道明寺合戦とか )なんて
古代ペルシャ並に古臭いシステムのような……
0262人間七七四年
2012/10/01(月) 17:11:45.47ID:kW/mynxn上層部すら一枚岩でないという体たらくだし
隠れて自害するくらいなら顔くらい出せや
0263人間七七四年
2012/10/02(火) 04:52:01.24ID:slFAX12m少なくとも土地を切り離された万単位の集団を囲えた(囲うことのできるノウハウを持っていた!)ということですよ
0264人間七七四年
2012/10/02(火) 05:57:22.83ID:1m4zqM3Q0265人間七七四年
2012/10/02(火) 09:00:46.80ID:Sv2xaaV1幕末みたいにいきなりだと対応不可能だな
大阪だと有力浪人は配下引き連れて入城してるからまだやりやすい
0266人間七七四年
2012/10/02(火) 11:46:20.10ID:03tfyBwi西欧なんかでは、徴税制度が軍事革命とともに発展するんだけど
そういう形での変化がないからねぇ
単に有事に雑兵を農村からお金で動員する、ってのは北条武田以来あったシステム(足軽衆)だし
指揮官クラスの報奨が所領なのに「土地から切り離された」とは言いにくいよ
まぁ長篠の合戦で信長が鉄砲隊を他の大名(筒井家とか)から借りてる、ってくらいしか
部隊抽出して同一兵種で再編成、って記録にないような気がするけど
それが一般化(誰でもできた)ってな証拠はなさそうな気はするけど……他にもあるのかな?
0267人間七七四年
2012/10/02(火) 12:29:17.97ID:DfED3+Dh最期は秀頼が城を枕に討死にするのを決めたんだから意地を見せたって感じだな。
家康や秀頼側近、淀は驚いたろうな。
交渉が進んでたのにな。
また、行き場のない牢人が大阪城から出て行かずに困ったらしいよ。
無理やり出て行かせようとすると秀頼の身だってどうなったかわからんし。
0268人間七七四年
2012/10/04(木) 06:16:12.84ID:FJiAJpCGつまり石高制じゃなく貫高制ということで、そういう意味なら先進的・・・なのか?崖っぷちとも言うが
0269人間七七四年
2012/10/04(木) 06:27:00.15ID:2h63FlKR> また、行き場のない牢人が大阪城から出て行かずに困ったらしいよ。
> 無理やり出て行かせようとすると秀頼の身だってどうなったかわからんし。
だから夏の陣の前に、幕府は自分で牢人をどうにか出来ないんだたら大阪城出ろ!牢人どもは
こっちで処分する。みたいなこと言ってるんだけど、結局秀頼は牢人と運命を共にした。
牢人衆なんてもともと豊臣家の防衛のために雇ったにすぎないのに、秀頼の優先順位はホントに変だ。
0270人間七七四年
2012/10/04(木) 08:44:52.89ID:SvTVkDPJ0271人間七七四年
2012/10/05(金) 03:46:13.51ID:lrYaVBeU979 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2012/10/04(木) 21:12:15.22 O
八陣とは、諸葛亮が改良したものを吉備真備が日本に持ち込み、それを大江維時が編集したものらしい
それが魚鱗、鶴翼、雁行、偃月、鋒光、衡軛、長蛇、方円の日本八陣
武田信玄を始めとする戦国時代の武将達は諸葛亮の兵法を必死に学んでいたようだ
川中島、三方原、関ヶ原の戦いなどで上記陣形が使われてる
こういう書き込みあって気づいたんだけど、陣形持ちだされてるのって徳川武田関連のみなんだよなw
実際全国的にどうだったんだろ
使われたとして、密集隊形の魚鱗、幅広横陣の鶴翼ぐらいしか使い分けられてなかったんじゃないのかねと思うんだが
0272人間七七四年
2012/10/05(金) 04:37:51.61ID:afFEWaf6陣形取らずにどうやって戦うというのだw
0273人間七七四年
2012/10/05(金) 05:43:33.57ID:T8eJJ5r9大阪側は、現地では各部隊の自主判断
…だから道明寺の戦いみたいな齟齬出まくりだよ……
つか同一兵種部隊編成でない場合の「陣形」って、どんなイメージなのかな
古代中国時代でも、実際に「陣形」使われた例ってあったっけ?
0274人間七七四年
2012/10/05(金) 08:49:43.43ID:aVbq8uSS0275人間七七四年
2012/10/05(金) 09:25:06.21ID:NfAGBBfA0276人間七七四年
2012/10/05(金) 10:08:10.49ID:GLEty6W80277人間七七四年
2012/10/05(金) 10:53:16.38ID:kxFkJIdo0278人間七七四年
2012/10/05(金) 12:44:32.08ID:rAU+YTIH「ぬ、〇〇陣で来たか。ならば我らは××陣で迎え撃つ」
「ならばこちらは△△陣よ」
「では□□陣じゃ」
以下気がすむまで続く
実戦の場合
「ぬ、〇〇陣で来たか。ならば我らは××陣で…」
「かまやしねぇ突っ込め!」
「ちょ…まだ陣形整ってないってw」
いちいち隊列整えてられんわな
0279人間七七四年
2012/10/05(金) 13:03:38.63ID:4cwwnmSU0280人間七七四年
2012/10/05(金) 14:19:05.95ID:rAU+YTIH騎射で一撃離脱戦法を取る異民族とでは分が悪かったんだろ
0281人間七七四年
2012/10/05(金) 16:17:48.59ID:z2Wz9Jy2テンプレ作っても地形に合わせて毎回修正だらけだろうに
0283人間七七四年
2012/10/05(金) 21:29:55.22ID:if7NfXvdそのテンプレが有ってこそ、地形に合わせた修正が出来るのでは?
開けた平地で陣形や各隊の隊形を組める様でなければ、応用なんて夢のまた夢・・・
0284人間七七四年
2012/10/05(金) 22:28:32.49ID:T8eJJ5r9「地形に合わせた」なんて準備できるのかな?
0285人間七七四年
2012/10/05(金) 22:58:10.54ID:rAU+YTIH物見(斥候)を出すよ
相手を見つけたけどこちらも見つかったよ
敵が近くにいるようだよ
視認出来る距離まで来たよ
合戦だよ!
陣敷く暇ないよ(;ω;)
0286人間七七四年
2012/10/06(土) 00:49:44.39ID:yvkrLu9+相手は関係ないからできるはず。斜線陣だっていわば雁行だし
問題はそういうことが運用されたって話を聞かないことだな
「毛利元就は偃月が得意だった」とか、「長宗我部元親は蜂矢強かった」とかいうのが無い。欲しい。
っていうか西国の軍事史謎すぎ。なんとかしてくれ。
0287人間七七四年
2012/10/06(土) 01:13:48.27ID:llk8ugOn多用したんだったっけ
あと、島津の釣り野伏せなんてある意味陣形と言ってもいいのかもしれん
まあ、陣形ってよりも戦法だけど
0288人間七七四年
2012/10/06(土) 01:24:28.09ID:CLr8J0lU0289人間七七四年
2012/10/06(土) 03:49:47.71ID:Osc58hFE陣形とはかなり違う実態かと(決まった陣はない)
つか「囮使って伏兵で殲滅する」って世界中ではよく行われてて
九州でも立花道雪とか高橋紹運もよく使ってる(島津軍に対してもそれで勝ってる)
0290人間七七四年
2012/10/06(土) 04:42:21.73ID:jtE6yN/T兵士の並べ方が違うだろうから、それに○○の陣って名前付けて管理することは可能だろう
0291人間七七四年
2012/10/06(土) 05:26:20.70ID:Osc58hFE伏兵が側面攻撃した後、囮だった部隊が反転だから、そんな役ないぞ
>兵士の並べ方が違うだろうから
ここ具体的によろしく 自分の知ってる記録には残ってないので……
0292人間七七四年
2012/10/06(土) 09:44:53.47ID:OpXHtfW0ハンニバルみたいな包囲攻撃をする際の中央のことを言っているのだろう
「違うだろうから」は推測の言い方だから具体例はないだろう
0293人間七七四年
2012/10/06(土) 09:49:39.97ID:8YI+CqXD0295人間七七四年
2012/10/06(土) 11:48:56.25ID:Osc58hFE鉄床戦術でも、拘束する主軍と迂回攻撃する副軍2つだけで陣形っていうのは……
揚げ足じゃなくて、なんか観念論ばかりでよくわからんから
具体的に「陣形」をどのような形でイメージしてるのか、それが知りたいだけだよ
(実際にあった戦闘で説明してくれるとありがたいのだけど)
0296人間七七四年
2012/10/06(土) 12:29:21.24ID:kv/871GG地形・状況に合わせて配置して、後から「このカタチだと〇〇の陣形だな」と判断している
なんでかというとソッチのほうが説明しやすいから
0297人間七七四年
2012/10/06(土) 12:51:37.17ID:yvkrLu9+太田牛一ですら、「陣を何段に分け」っていって、横陣の数しか言及してない
0298人間七七四年
2012/10/06(土) 22:59:59.58ID:vw4XfJiG日本史の場合陣形が変化するので野戦の布陣図は途中経過でしかないから判断し難い
ちなみに姉川の戦いはマケドニア対ペルシャ【イッソスの戦い】の再現
織田の陣形はアレキサンダー大王がやったのと全く同じ斜行陣
勝敗に偶然は無いとは思うが、知っててやったのか偶然同じなのかは知らんw
0299人間七七四年
2012/10/07(日) 00:01:21.02ID:qXWg96nB何をオカルトめいたこと言ってるんだ
0300人間七七四年
2012/10/07(日) 00:11:56.76ID:oGdXYNccどこソースだよ
0301人間七七四年
2012/10/07(日) 02:30:45.20ID:CkId778k0302人間七七四年
2012/10/07(日) 03:24:22.77ID:9/7YkmgXエパミノンダス(レウクトラ)やお父さんのフィリポス(カイロネイア)が有名だけど
自らヘタイロイ(重装騎兵)を率いハンマーとしたアレキサンダーは使ったことがないと思うんだ……
0303人間七七四年
2012/10/07(日) 07:58:30.99ID:jYy4TFp50304人間七七四年
2012/10/07(日) 08:47:57.70ID:Mr3L9O4/よく三方原は魚鱗vs鶴翼とか言われるけど。
0305人間七七四年
2012/10/07(日) 10:38:46.68ID:TUwBKsHkポーランドなら、
中央に重騎兵、その両翼に歩兵と砲兵、更に両翼に中騎兵、最両翼に軽騎兵。
オスマントルコなら、
中央前面に非正規歩兵、その背後に砲兵、更に背後にイエニチェリ、両翼と中央背後に騎兵。
これを基本として地形や戦況に合わせて布陣したらしよ。
何でも出来る魔法の陣形なんて無いだろうからね。
ソースは
「Renaissance Armies 1480-1650」
後年の著作だと言われれば、それまでだけどw
0306人間七七四年
2012/10/07(日) 18:59:25.35ID:CkId778kそれが後世先例として中国にあった〜陣に当てはめられただけだと思う
戦してる当人たち(部隊長以上)は作戦概要を掴んで配置についてるはずだけど
「これが〜陣と呼ばれるものだ」といちいちは意識してないと思うな
0307人間七七四年
2012/10/08(月) 01:04:49.10ID:Gu16grLh俺はあの作者が唱える「備えを立てる=兵科ごとへの再編成」っていうのがやっぱり納得いかん
軍事技術上の必要性としてそうなるのは理解できるが、やっぱ封建領主の論理をどうやって打破したのかって説明が欲しい
武家=軍事政権だからで済まされちゃかなわん
0308人間七七四年
2012/10/08(月) 01:34:07.44ID:A9lYbeW1「配下がひと束になってどっか別の備えに行ったりしてたから」
っていうことだとすると一応の答えにはなってるなと感じた。
積極的に肯定するつもりはないけれども
0309人間七七四年
2012/10/08(月) 02:03:00.97ID:WMApMPBZただし「備」に純粋な騎兵隊がなく、鉄砲操練に戦闘時の”集団行動”が存在しないこと
当時の布陣が、単一兵種部隊化が進んだ西欧では鉄砲部隊は主力火力として陣中央に配置
それに対し、日本では主力(槍騎馬等)突撃部隊の両脇に配置されたこと(火力集中の概念がない)
以上で、「兵科ごとへの再編成は(多くは足軽衆として)試みられたが実現しなかった」
…つまり「備えを立てる=兵科ごとへの再編成」は日本では現実化しなかった、かと自分は思う
まぁ諸説紛々なんだから、そこは自分で判断するしか
0310人間七七四年
2012/10/08(月) 02:05:56.17ID:WMApMPBZそれって、単に「所領や一族家族を人質?に取られてるから」じゃないかな
平時には、けっこうフラフラしてるし……
0311人間七七四年
2012/10/08(月) 02:17:58.60ID:A9lYbeW1>まぁ諸説紛々なんだから、そこは自分で判断するしか
いやそこは「皆で情報交換してなるべく共有していこう」ってならないとダメなんじゃねw
0312人間七七四年
2012/10/08(月) 10:54:57.41ID:C3OH3DNf>鉄砲部隊が主力(槍騎馬等)突撃部隊の両脇に配置された=火力集中の概念がない
は、疑問かと。
それは主力突撃部隊の支援の為に火力集中しているとも見えます。
(共通の戦術ドクトリンの下、連係が取れている事が前提ですが・・・)
>>305にも有る様に、当時のポーランドは重騎兵(突撃部隊)の両翼に、歩兵(銃兵、槍兵)更には砲兵を配置して火力支援していました。
必要な箇所に必要な火力を集中させる事が火力集中で有り、中央に配置する事では無いかと。
(中央背後に予備として配置するなら別ですが)
それと当時のヨーロッパでは単一兵種部隊化からさらに進み、諸兵科連合部隊化しつつ有りました。
テルシオもマウリッツの大隊も銃兵と槍兵から成る部隊(戦術体形、戦術単位)でしたし、騎兵部隊の一部は支援の為の随伴歩兵を部隊内に持っていました。
日本がどうだったのかは解りませんが、対比対象のヨーロッパはこんな感じでした。
0313人間七七四年
2012/10/09(火) 04:00:22.28ID:vy32KRaW備=大隊ってことか
「単一兵科=先進的」って、『戦国の軍隊』の人もここでも認識してる人いるが、それ自体が誤謬だったと
0314人間七七四年
2012/10/09(火) 14:09:34.96ID:a6HpCWcVポーランドの場合、側面は軽騎兵で守ってますが日本は放置なので……
>>313
「備」は諸兵科連合前提じゃないとおもうよ(徴兵元で分けてるから)
0315人間七七四年
2012/10/09(火) 14:38:18.36ID:m9qNN0Yq日本の迂回部隊は山越え谷越えする場合が多いので速度以上に隠密性重視かと
あとナポレオンの菱型陣形は多少武器が違うけど方円に近いね
0316人間七七四年
2012/10/09(火) 17:50:57.54ID:J58kL32N0317人間七七四年
2012/10/31(水) 23:54:06.02ID:9VCDBAR30318人間七七四年
2012/11/01(木) 01:23:25.15ID:PmTgFurd織田とかは蛮族戦士がてんでばらばらに功を競いあう程度の戦闘だったろう
0320人間七七四年
2012/11/01(木) 15:25:07.09ID:Jd++iOAr0321人間七七四年
2012/11/01(木) 17:36:18.15ID:wa9MXoK40322人間七七四年
2012/11/01(木) 18:01:23.56ID:pCc7JlSc0323人間七七四年
2012/11/01(木) 19:22:23.03ID:wa9MXoK4必要以上の長槍は戦闘用ではなく装飾用
0324人間七七四年
2012/11/02(金) 01:03:17.64ID:gqjC5NTI0325人間七七四年
2012/11/02(金) 12:06:54.09ID:zVxoLwM/備単位で対応するから、横撃にも対応可能ですよ
0326人間七七四年
2012/11/08(木) 01:19:48.55ID:YP3DEv0Y「あれ実は織田軍団でもそこまで定着しなかったんじゃないか」
っていう考察をどっかのブログで見たな。他に記述に出てこないとか。
700で精鋭を鍛えてるってときには有効だったかもしれんが、軍団が拡充されていくにつれて廃れていったのかも
0327人間七七四年
2012/11/08(木) 02:22:29.92ID:JlK/Kj6h日本のような戦闘の場合、ちょっと長くなったからって有利になるわけでもないよね
(雑兵物語でも上下に殴ってるし、それほど長さを活かす使い方してない)
結局、銃撃で混乱させる→重装侍中心とした複合兵装ユニットの突撃
…ってな戦法が一般化したので、槍の長さとか問題にされなくなったのかも
0328人間七七四年
2012/11/08(木) 04:32:30.50ID:roMhGdLH0329人間七七四年
2012/11/08(木) 06:12:44.41ID:JlK/Kj6h当時の一般的な三間槍(5.7mm)に対して三間半槍(6.3m)は60cmくらいしか差がありません
これが横一列で叩き合う当時の戦で、どれくらいの有利さだったのか、非常に疑問だと思いますよ
ちなみに当時の西欧でもパイク(5m)に対して「振る」使い方をするハルバートは1.6〜3m
(スイス傭兵はパイクとハルバートの混在)
また日本でも手槍は蜻蛉切り(3.5m)、日本号(3.2m)御手杵(3.8m)
三間槍も三間半槍も長過ぎてちょっと使い勝手が悪い気はするんですよね……
0331人間七七四年
2012/11/08(木) 11:10:29.22ID:mau+Rdlr0332人間七七四年
2012/11/08(木) 22:29:04.35ID:YP3DEv0Yマケドニア式ファランクスも6mの槍だけど騎馬突撃に対する防御でああなったわけじゃないんじゃない?
中央に歩兵、両脇に騎兵っていう会戦スタイルの真ん中に置かれたんだから
0333人間七七四年
2012/11/09(金) 00:58:12.81ID:aXyzKIaAスイス傭兵だってパイク装備が標準だし
対騎兵限定という訳では全然ないよ。テルシオだって歩兵にも非常に有効だしな
0334人間七七四年
2012/11/09(金) 02:04:55.55ID:1KLsbgno古代ギリシアでは元々2〜2.7m程度の槍(ドリュ)で横3x縦8隊列)であったのを
更に大型密集隊列(16x16)にした(しかも五列目まで構える槍衾)ためサリッサは6m程度の長さが必要になったような
しかもサリッサ自体長大化することで機動性を失いレギオン(散開白兵戦術)のいいカモにされたわけですし
テルシオ時代のパイク兵でも縦深20〜30の隊列での”必要な長さ”であるわけで(マウリッツ改革後でも縦深10列)
しかし火力の増加によってパイク兵は脇役になっていくわけで
種子島の火力に夢中だった、しかも隊列に縦深がない(本場の槍衾には程遠い)日本の場合で
槍を長大化する必要性、てのは、あまりない気がしますが……
0335人間七七四年
2012/11/09(金) 03:33:55.28ID:8/tvUrXsレギオンに負けたのはただレギオンが優秀だったからで、
3世紀以上もったんだからマケドニア式ファランクスは優秀だったと思うよ
下段の隊列の縦深の問題で効果があるかどうか考えたほうが良いだろうね
0336人間七七四年
2012/11/09(金) 08:00:44.28ID:aXyzKIaA騎兵相手にはボロ負けしてるんでね
ファランクスもレギオンも両方とも、騎兵が不足していた時代に興隆した戦術に
過ぎないし、騎兵と諸兵科連合をしたファランクスなら、レギオンには余裕で
勝てる
0337人間七七四年
2012/11/09(金) 08:28:55.70ID:aXyzKIaA歩兵戦にも有利に働くのだから、長い必要性は充分にあるよ
突くにせよ打ち払うにせよ、槍が長い方が有利なんだからな。縦深なんか
何の関係も無いよ
0338人間七七四年
2012/11/09(金) 21:58:36.85ID:1KLsbgno…マケドニア式ファランクスは騎馬部隊との諸兵科連合ですが……
>>337
西欧の長槍(ファランクスでもサリッサでも中世のパイク兵でも)は”縦深による槍衾”がキモなんですが……
テルシオで現実のものとなる長槍部隊同士の戦いは、互いの玉ねぎを剥きあうような戦闘で
その時、パイクが長いほうが有利、ってわけでもなかった気はしますが(決定打を与えられない)
まぁ日本では”縦深による槍衾”がなかったわけで、同じ考えでいいのか、とも言えますが
0339人間七七四年
2012/11/09(金) 23:31:19.10ID:aXyzKIaA騎兵はその場にいただけ。ファランクスにしても、真価を発揮出来る地形ではなかった
あと、パイクが長いのはその「縦深」というか、縦列を攻撃力に転化するためでも
あるのだから、普通にパイクは長い方が有利だぞ。逆に、何をもって長い方が有利な
訳ではない、と言ってるのか分からん
テルシオで決定打を担うのは銃隊と騎兵だし、パイクの長さが決定打にならないのは
何の問題にもならん。元から、決定打を与えるための武器という訳ではない
0340人間七七四年
2012/11/10(土) 00:37:47.70ID:wcS3vJ/hは議題なわけだしまだ良い
・昔の合戦でも有利だったよor昔の合戦でも変わらなかったよ
とか
・もともと殴るだけだから関係ないよor殴るんだから関係あるよ
こうなるともうわけが分からん。
結局みんな自分の頭の中で描いている戦争の絵図を引き出して相手に見せることが出来ずにヤキモキしてしまう
0341人間七七四年
2012/11/10(土) 01:23:14.35ID:kXRJVaOd三列から五列程度の縦列はちゃんと敷いていた
というか、最低三列無いと、そもそも槍衾にならん
0342人間七七四年
2012/11/11(日) 00:08:17.01ID:z9N5GrPfどこのどういう記述でそれわかる?
0343人間七七四年
2012/11/12(月) 02:16:15.58ID:kWiQG4Fv野戦じゃなく山岳戦、さらに言えば追撃戦に分類されるけど。
0344人間七七四年
2012/11/12(月) 16:20:48.68ID:QuVqSI6iヘタイロイは優秀な重騎兵部隊ですよね??
アレクサンドロスの時代に「連合」できていたのが出来なかったわけで
「騎兵と諸兵科連合をしたファランクスなら、レギオンには余裕で 勝てる」
とはいえないのでは?
あと元々は 三間槍に対する三間半槍(>>329)の優位性
日本では重量を増やしてでも長くするだけのメリットがある編成(使い方)だったのか
ってな部分を重視しての話で、他はご指摘のとおりの話だと思います
0345人間七七四年
2012/11/16(金) 04:30:05.24ID:ITJOKA8O信玄の戦い方はなんだかんだで面白いよな
カエサルとかフリードリヒとか、海外の名将の運用スケールに通じるものがある
他の大名がそういうのやってなかったってわけじゃないと思うんだけども
やっぱ甲陽軍鑑の存在感はデカいんだな。歴史家達が真書としたがる気持ちは分かる。
0346人間七七四年
2012/11/16(金) 10:48:33.22ID:zWCUxfhP0347人間七七四年
2012/11/17(土) 07:12:14.16ID:FPxxjgvz三増峠の戦いは、実際にどういう展開だったのかは、全く不明だよね。
軍記物の『甲陽軍鑑』『関八州古戦録』ぐらいにしかのっていなんじゃないの?
0348人間七七四年
2012/11/18(日) 03:46:50.11ID:22LUWqhD教育の世界史
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1353159193/l50
0349人間七七四年
2012/11/18(日) 04:01:22.37ID:UKe2LssC0350人間七七四年
2012/11/23(金) 15:18:28.04ID:eIepHY+Fベンチがアホやから野球が出来ないみたいな
0351人間七七四年
2013/02/04(月) 00:14:03.12ID:qz1ReHXQ謙信のように「野戦に強い、野戦での戦術に秀でている」と言われる武将は
何がどう優れていたわけ?
そして、奇襲みたいなのでない普通の野戦の場合、
戦術でひっくり返せる兵力的劣勢はどれくらいが限度?
0352人間七七四年
2013/02/04(月) 19:37:44.69ID:bsgk2pUw0353人間七七四年
2013/02/18(月) 12:21:18.36ID:mm3aw5FH上段、ほぼ同じ質問を2年ぐらいまえにどっかでしたわw
それからいろいろ海外の戦史とかも勉強したけど結局分からん
特に謙信なんて一番分からん。まだ信玄は軍団の戦略的運用が凄く上手いと納得できるけど。
0354人間七七四年
2013/02/18(月) 15:22:20.08ID:CpsRY7yX0355人間七七四年
2013/02/18(月) 15:35:02.50ID:QEVRWymS0356人間七七四年
2013/02/18(月) 16:47:34.80ID:mm3aw5FHハンニバルの評価が高いのは、「包囲殲滅を考案した」っていう分かりやすい理由があるから
一方カエサルは十分な戦果を持っているにもかかわらず最高の戦争指揮官候補にしばしば漏れる。
理由は、「(ファルサルスで)なんで勝ったか分からないから」
個人的には、兵も少なく騎兵も少ないのに何故かポンペイウスに勝ってしまったカエサルも同じくらい戦争能力高いと思うのに
武田がいつのまにか騎馬軍団になったのは、多分「強い理由」「勝った理由」を後世の人間が補強したかったからだろう
謙信は「軍神だから」とかいう一言で説明されてるわけだけど、なんか保護されてるように俺は感じる
0359人間七七四年
2013/02/18(月) 22:43:52.79ID:KiPCT3lD0360人間七七四年
2013/02/18(月) 22:46:33.94ID:c0AXQ9Pk0361人間七七四年
2013/02/19(火) 01:01:38.73ID:+jY3FNb2マジレスすると統制力
普通自軍より優勢な敵と戦う際には兵は逃げ腰になる
でも上杉軍は逃げ腰になることが一度もなかった
0362人間七七四年
2013/02/19(火) 03:41:54.72ID:dx9x4bkAそもそもこと謙信に関しては史料的にも分からん。
検証できる合戦が川中島ぐらいしかない。あとはほぼ軍記になってしまう。
0363人間七七四年
2013/02/19(火) 12:37:59.06ID:a9ht/1sSどのくらいまで兵力的劣勢をひっくり返せるものなの?
0366人間七七四年
2013/02/21(木) 01:46:04.56ID:Q/XKvtBHってことぐらいしか語れないんじゃないかね
一番最初の遠征が一番うまく行って、あとはぐだぐだっていうのはいかがなものか
ぶっちゃけ軍事面で過大評価されてるとしか思えないわ
0367人間七七四年
2013/02/21(木) 11:53:43.91ID:upMdOfWRそれでも領土拡大してるのは
だまし討ちした時だけ。
0368人間七七四年
2013/02/21(木) 22:19:19.78ID:eZSnulg00369人間七七四年
2013/02/23(土) 13:41:13.20ID:050pG4aphttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1361426993/l50
0370人間七七四年
2013/03/08(金) 04:54:03.21ID:JmrG/3QJ「ギリシャのファランクスは味方の死亡兵、負傷兵の穴を、後ろの軍勢が詰めて穴埋めすることで補った
ローマのレギオンは最前線を撤退させ、新手の二列目を押し出すことで補った」
みたいなのがあってなるほどと思った。日本の戦国時代ではどうだったんだろうかね
0371人間七七四年
2013/03/08(金) 23:38:40.34ID:tGK6GpOu0372人間七七四年
2013/03/09(土) 11:01:09.76ID:K4qNsiEu0373人間七七四年
2013/03/09(土) 23:36:14.51ID:T1qM/2VK歩兵操典が残ってるわけじゃないからあれだけど、
幅を詰めるのは理論的じゃないから普通に2列目が前に出てたんだろう。
0374人間七七四年
2013/03/14(木) 08:59:15.42ID:q9GENjmK家毎に各兵種を揃えて参陣する訳だよね
結局のところ、部隊編成ってどうなってたの?
陪臣も持たないような小禄の家は普段から、槍衆三十人組とか一纏まりの集団に属して組頭の下に編成されていたようだが
大身の家の陪臣などがどういう配置になっていたのか想像もつかない
0375人間七七四年
2013/03/14(木) 09:21:48.10ID:cH3b3gRm江戸時代なら、知行の平均化が行われているから騎馬隊の武士は最低限の供回りしかおらず、
比較的多くの陪臣がいる指揮官たる侍大将なんかは、それ自体が予備隊の役割を果たす
0376人間七七四年
2013/03/15(金) 00:00:27.76ID:lQZbodLl0377人間七七四年
2013/03/15(金) 13:56:07.28ID:Yrf1/BIQ0378人間七七四年
2013/03/15(金) 18:34:21.55ID:yMmsVFlJ「軍事の話を歴史研究家の人の集まりでしようとすると『よそでやってくれ』って空気になる」
って話は考えさせられたな
変な話、ノブヤボ世代が研究家として成熟したときに戦国時代の軍事学は花開くかもねw
0379人間七七四年
2013/03/15(金) 19:33:02.98ID:slxYbGxi早く軍事の研究が進んで欲しいわ。
0380人間七七四年
2013/03/16(土) 23:11:56.45ID:X11C3si2僅か70年前のWWUですら曖昧になっている
0382人間七七四年
2013/03/17(日) 06:28:10.40ID:RFCp0PuE0383人間七七四年
2013/03/18(月) 12:16:08.89ID:0TDr6A8I0384人間七七四年
2013/03/18(月) 13:24:31.02ID:yqpXUvd50385人間七七四年
2013/03/18(月) 21:28:55.84ID:dTBbGN+zWWUなら研究されてるだろ。民間だが。
分からないことも多いのは軍隊は敵の手に渡りそうな時とか
全書類焼却することが義務付けられてたから
敗戦の時は全国の基地で盛大な焚き火だったし
0386人間七七四年
2013/03/19(火) 02:02:20.79ID:mIjRX0GG0387人間七七四年
2013/03/19(火) 03:23:26.43ID:oSzXkNiR0389人間七七四年
2013/05/01(水) 01:40:19.27ID:HQbWm1sY「軍隊は動いている間は摘発できるから飢えない。停止すると(つまり包囲戦すると)飢える」
ってあって面白かった。
海外の戦史の話なんだが、戦国時代も似たようなもんだったろう
0390人間七七四年
2013/05/01(水) 15:26:23.22ID:ZMuX8XD3代金の支払もせずに徴発するような事はあったんだろうか?
0391人間七七四年
2013/05/01(水) 16:03:18.79ID:nn1ElgKs禁制が発行されて基本的には略奪不可
ただし馬の飼料の大豆とかは強制徴収可
大量に消費するから止むを得ずなんだろうけど
物や場合によってはな面もあるっちゅうことやね
0392人間七七四年
2013/05/01(水) 20:01:29.62ID:ZMuX8XD3贅沢だな
0393人間七七四年
2013/05/02(木) 10:05:06.73ID:NcFkJ+x/0394人間七七四年
2013/05/02(木) 10:43:19.49ID:yDjPulh2・どの様に?(誰か教師が?、それとも書物か何かで独学ですか?)
勉強してたのでしょうか
どうかご教授下さい
0395人間七七四年
2013/05/02(木) 11:06:52.42ID:SmZCH6Gbまた軍記や中国兵法書も教養の内です。
0396人間七七四年
2013/05/02(木) 13:23:08.50ID:upvhkMJ30397人間七七四年
2013/05/02(木) 14:06:19.19ID:yDjPulh2>禅宗の坊ず
それは「禅宗」でしかダメ…なのでしょうか?
他の宗派とかは出来なかったのでしょうか?
0398人間七七四年
2013/05/02(木) 14:52:01.17ID:z4vsw5kfっていう風に思われてた時期もあったけど、
「軍師は占いやってただけ」ってことになっちゃってうやむやだよね
0399人間七七四年
2013/05/02(木) 17:46:24.43ID:NcFkJ+x/そういう決まりがあるわけではないが、
武家の参謀には禅僧が多い傾向。
禅宗以外なら空海が天台宗。
本願寺の武官に下間氏がいたり
0401人間七七四年
2013/05/03(金) 10:00:21.87ID:niV13QZ6信憑性のほとんどない軍記だと戦術がファンタジーになってるから。
0402人間七七四年
2013/05/03(金) 10:12:36.83ID:gebgZCnY研究が進みようもない
0403人間七七四年
2013/05/04(土) 04:19:03.99ID:N24S4jPb今気づいてポチってきた
だれか読んだ人いる?
0404人間七七四年
2013/05/04(土) 13:03:54.91ID:i64USUpHどちらかといえば他の学者の反論本が読みたいところだけどな
まだまだ孤軍奮闘って感じ
0405人間七七四年
2013/05/04(土) 14:55:32.70ID:3IO2wfWkへーそんなのやってるんだ物好きだねー程度で
桶狭間正面突撃説とか無検証でいろんな学者が採用してる体たらくだし
0406人間七七四年
2013/05/04(土) 14:57:49.28ID:SiDwMHKFここに来ました、どうかお歴々のお知恵を拝借下さい。
「火縄銃の部品点数」って幾つ位なのでしょうか?」
どうかよろしくご教授下さい。
0408人間七七四年
2013/05/04(土) 15:15:40.12ID:FpbL+zkrこんな感じ
http://www.poverty.jeez.jp/loda/img/iyan13084.jpg
0409人間七七四年
2013/05/04(土) 15:28:23.88ID:N24S4jPbちょっと前にでた歴史評論3月号で反論も含んだ論文が掲載されてたよ
その号のテーマが「戦国時代の軍隊と戦争」だったし
「戦争」そのものを研究対象にすることも若手の研究者の間ではそんなに抵抗感がなくなってきてるのではなかろうか
0413人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:akxDwJDb則竹雄一氏の論文に西股氏の論が出てて、概ね評価してたけど、
・兵種別編成への転換は完全に行われたのではなく、まだ領主別編成が残った二元構造だったんではないか。
・軍役で大多数を傭兵で賄ったとするのは近年の雑兵論に影響されすぎで、基本は被官層で構成したはずだ。
・足軽は大名直属の傭兵から広まったとするのは明確な史料が無い。
っていう批判というか反論があった。
0414人間七七四年
2013/08/19(月) NY:AN:NY.ANID:knTgOkCK0415人間七七四年
2013/08/19(月) NY:AN:NY.ANID:knTgOkCKage
0416人間七七四年
2013/11/21(木) 19:31:43.58ID:fcmXNW9Q敵が慌てて出てきたとこ潰せばいいじゃん?三方ヶ原みたいに
それか最低限の抑え残して本隊は先進むとか
関とかも周り山越えして突破しちゃえばいいじゃん
険峻なとこでも少数部隊でもって突破して裏側と表から挟撃しちゃえばいいじゃん?
0417人間七七四年
2013/11/21(木) 20:44:36.87ID:XK2CsAVL初めから城に籠らんよ。最低限の抑え残して本体は先に進むのもいいね。峻険なとこでも少数部隊って、誰がやるかだよな。
城攻めしている方は勝ち組であって、あえて命の危険に晒そうっていう物好きはいないね。
0418人間七七四年
2013/11/21(木) 20:55:52.96ID:5RHgOWJ1>それか最低限の抑え残して本隊は先進むとか
「田分け」って言葉を知ってるかい?
兵を何回も分けて続けていけばどうなるか想像してみてごらん
0419人間七七四年
2013/11/21(木) 21:24:55.61ID:cgDcQOO5そしてそうしたからと言って目標とする相手が確実に滅ぼせるという保証はないんだぞ
資金的、人的な浪費をどこでカバーするんだよ
>>416は典型的な馬鹿の妄想
0420人間七七四年
2013/11/21(木) 21:33:11.70ID:d2i+TOrH三方ヶ原反転遅れたら背後突かれて死亡
山越え時間と物資の浪費。敵に悟られたら無意味
少数部隊で強攻損害大きい、失敗したら戦力の逐次投入損害増大
軍事って難しいやね
0421人間七七四年
2013/11/21(木) 21:51:13.21ID:fcmXNW9Qそりゃ何度も分けて進めばどんどん本隊の兵は減るだろうけど
敵領深くの城落とせばそれまで抑え置いておいた城とか降伏する可能性大じゃん?
降伏しなかったとしてもそれ以上進まずに抑えの兵置いといた城に引き返してじっくり攻めればいいし
どっちにしろ効率的なやり方だと思ったけど古今東西の名将がやってないってことは俺の考えは間違いなんだろうな
なんかすまん
0422人間七七四年
2013/11/21(木) 22:08:45.67ID:d2i+TOrH0423人間七七四年
2013/11/21(木) 22:14:32.88ID:5RHgOWJ1>敵領深くの城落とせばそれまで抑え置いておいた城とか降伏する可能性大じゃん?
その敵領深くの城に辿り着いた時に味方の兵力がかなり減っているわけで
兵数が減るということは堅牢な敵城を攻略する手法が減るわけで
そもそも敵将は相手の兵力を削ることが目的なわけで
不慣れな土地で安全の質を落とすと何が起こるかわからないわけで
例1 塩買坂合戦では勝者の今川氏が凱旋中に討死
戦国時代の合戦は兵数で決まるのが普通だから多ければ多いほど勝機がある
河越合戦や厳島合戦みたいな大軍が敗退する方が異常
まあ戦に勝っても命を失ったら意味が無いということですよ
0424人間七七四年
2013/11/21(木) 22:28:21.69ID:5RHgOWJ1連絡役は少人数だから敵地の領民が集団で襲撃する可能性が非常に高い
情報が漏れたら命取りになるってところかな
0425人間七七四年
2013/11/21(木) 23:58:20.36ID:d2i+TOrH武士や武装農民ってゲリラだから。川中島屏風絵にも描かれてるけど
0426人間七七四年
2013/11/22(金) 06:16:24.55ID:20PsjIhU0427人間七七四年
2013/11/22(金) 19:18:05.23ID:YPPJfyZx0428人間七七四年
2013/11/23(土) 19:01:10.16ID:u+kHolpzさらに黒駒合戦の敗退で相模ルートも絶たれ氏直本軍の孤立化が決定的になった
北条は兵站線を考えてたが徳川にしてやられたと見るべきかと
逆に北条が徳川の兵站線を破壊 する発想があれば別の結末もあっただろう
兵力の多さで圧しきろうとした北条に油断があったな
0429人間七七四年
2013/11/23(土) 19:28:27.01ID:RnxY6h53http://music.geocities.jp/jphope21/0203/39/266_1.html
そこに戦術の特徴があったのだ。
( http://music.geocities.jp/jphope21/0104/41/271.html )
0430人間七七四年
2013/11/23(土) 20:14:14.31ID:DiBeaoar元々甲斐の穴山領に当たる巨摩郡は穴山信君死後あっさり家康の物になったし
家康は旧武田国人を武田滅亡後までかくまってたから、依田も禰津も武川衆も恩義のある家康に対してあっさり恭順するどころか
北条軍相手に活躍してたし、甲斐への足がかりが丸きり違うわな。
北条方は甲斐を徳川に制圧されると上野〜信濃ルートと補給戦も領土も細長く飛び地的になるし
背後に上杉もいるしで地勢的に孤立しやすく、維持が大変だし。
0431人間七七四年
2013/11/23(土) 20:26:29.15ID:4P+yE56Jあれで北条は力攻めが難しくなった
この辺の塹壕線構築は長篠の戦い以降、賤ヶ岳や小牧・長久手に至るトレンドになる
0432人間七七四年
2013/11/23(土) 20:38:48.65ID:ZRoUk6ZWまあ、新府城の向かいに城を築いたりして北条方を迎撃してたとは思うけど。
0433人間七七四年
2013/11/23(土) 20:46:41.30ID:xoflkUUo徳川の戦略目標は西に盟友織田がいるから必然的に駿河や甲斐になる
この双方の歴史背景の違いも戦略手法の数の差を生んだね
0434人間七七四年
2013/11/23(土) 20:54:37.60ID:4P+yE56J能見城を中心に微高地を遮断する塹壕線を形成したとされる
http://www15.ocn.ne.jp/~castle04/nokenjo.html
0435人間七七四年
2013/11/23(土) 22:42:41.74ID:UcE1Us7k0436人間七七四年
2013/11/23(土) 22:47:50.79ID:5LViEUVG小田原の陣でも徳川塹壕陣地は総構えに食い込む感じにガッツリ作ったそうだ
0437人間七七四年
2013/11/24(日) 10:24:19.40ID:VlkFFc4nむしろ小牧山には柵も付けずかけはなちに陣取らせ給う(三河物語)と無防備に
兵を展開してたのがわかる
0438人間七七四年
2013/11/24(日) 10:26:45.13ID:zBe5QJypつかあの時代の築城技術にそんな大それた物はないし
敵が攻めてきたらあっさり陥落しまくる雑魚城しかないよ。
0440人間七七四年
2013/11/24(日) 10:55:03.22ID:jrZbVcfx武田・北条の特徴とされた城の構造が、実は徳川家の改築によるものという
結果が出てたりする
0441人間七七四年
2013/11/24(日) 11:01:20.34ID:oap1OSgBだってそんな事書いてる史料ないし、家康からすれば蟹清水、外山、宇田津、比良、小幡といった
秀吉方に狙われる拠点は一杯あるわけで、小牧山なんて固めた所で周辺や背後から攻められて孤立無援にされるだけだから
そんな事したって無意味なんだよ。つか小牧山周辺の塹壕研究なんて勝手に学者が論拠もなく天正12年に無理矢理比定してるだけだろうが。
>>400
そもそも城の築かれた時期そのものが無理矢理根拠なく比定してるだけじゃん。
江戸期に築かれたものか幕末に築かれたものかもわからんのに
0442人間七七四年
2013/11/24(日) 11:05:26.00ID:zBe5QJyp戦国後期織豊系城郭が普及した後の事だしそれ以前の日本の城塞なんて
山中城とか荒戸城とか各城郭の復元模型とか見る限りまぁお粗末なもんだよ
それで日本の築城技術や防衛普請技術がしょぼ過ぎるから毎年毎年上野や信濃といった日本一の天嶮がそびえる地域ですら
馬鹿みたいに城が陥落しまくってたじゃん。
ましてそれより遥かに短期間で即席的に作ったと思われる小牧山の防衛なんてたかが知れてるわ。
堅城とか捏造されてる岐阜城なんて6回くらい馬鹿みたいにあっさり落ちてるし
0443人間七七四年
2013/11/24(日) 11:06:27.60ID:4Pk6Z+oZ武田の信濃侵攻なんて侵攻側にしては大して多くもない兵力で北信濃の日本で最もキツイ天嶮山城を毎回毎回簡単に落しまくってるからな。
織田徳川の大軍に対して行われた三・遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってる。
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
0444人間七七四年
2013/11/24(日) 11:07:35.92ID:0bOITmoK山中城とか忍城とか荒戸城の復元がネットで見られるけど城と呼ぶには到底貧相な代物だし
日本で最も厳しい天嶮が立ち並ぶ信濃とか上野とか奥三河の城だって馬鹿みたいに落城しまくってるし
堅城とか言われてる岐阜城なんて6回くらいあっさり陥落してるし
ましてそれより遥かに即席で作ったのが小牧山なわけだし
0445人間七七四年
2013/11/24(日) 11:08:26.18ID:HP4IUeNe何もせずにほっといても勝っても領土の広がらない上に兵力劣勢の城方は降伏・自落・寝返り・逃散で楽に勝てるのは
目に見えてるし長期間もたつくのはよほど寄せての大将が雑魚の時だけだよ。
0446人間七七四年
2013/11/24(日) 11:10:53.47ID:0VJ564oq0447人間七七四年
2013/11/24(日) 11:21:54.17ID:z84A8loaとっとと仕事探せよ
0448人間七七四年
2013/11/24(日) 11:30:23.22ID:rGcPh6vs何年もかけて莫大な財産かけてようやく築かれた城などでもあっさり陥落してるのに
わずか2週間で築かれる即席の防衛施設なんてたかがしれてるだろ
0449人間七七四年
2013/11/24(日) 11:35:24.23ID:jrZbVcfx0450人間七七四年
2013/11/24(日) 11:35:43.88ID:cFiaDhb70451人間七七四年
2013/11/24(日) 11:36:03.58ID:VlkFFc4n大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
0452人間七七四年
2013/11/24(日) 11:48:16.99ID:0VJ564oq堅城であるはずの岐阜城、日本一の天嶮が立ち並ぶ信濃、上野、奥三河の山城
日本一の財力と期間で築かれた大阪城、いずれもあっさり陥落してる。
特に前二者は、ほんの短期間であっさり落ちてるし
ましてや2週間程度の即席の防衛施設なんてハナクソみたいなもんでしかないと思う
0453人間七七四年
2013/11/24(日) 11:50:25.80ID:/g6Ugc0G発掘で出てきてるんだよなあ…
徳川の塹壕も秀吉方の塹壕も
いわゆる「当たり前すぎて書かなかった」ことなんだろうな
0454人間七七四年
2013/11/24(日) 11:54:21.91ID:zBe5QJyp発掘といっても年代比定は適当だろ。
しかも楽田や小牧山は元々両軍が接触する地点として全く想定されていなかった場所だし
0455人間七七四年
2013/11/24(日) 11:57:27.95ID:/g6Ugc0Gはいはい俺の考えと違うことは全部ウソデタラメ陰謀だよねー
否定するなら発掘された塹壕跡がなんのために作られたか証明する責任があるぞ?
0456人間七七四年
2013/11/24(日) 11:59:40.36ID:zLWhLx6jID:zBe5QJyp は軍事知識ゼロなんだろうな
0457人間七七四年
2013/11/24(日) 12:00:42.94ID:0bOITmoK戦国末期のショボイ技術でしかも短期間で即席的にそんなもんが作れるというのは
大いに疑問がつくわな
つか接触ポイントはいくらでもあるのに小牧山ばっかり固めていたって意味がないし
周辺の砦や小城郭を先に落されればアボーンだろ
0458人間七七四年
2013/11/24(日) 12:02:42.65ID:HP4IUeNeそんなもんなんでもいいだろ。
江戸期の訓練のためでも信長の斉藤からの防衛のためでも
関ヶ原合戦の時のためでも。
0459人間七七四年
2013/11/24(日) 12:02:55.68ID:Os3ZfgwK籠城は下策〜と言ってる連中は戦術面でもそう思ってそうで心配になる
0460人間七七四年
2013/11/24(日) 12:03:46.95ID:HP4IUeNe大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
そもそも攻撃側は攻めるのキツイと思ったら攻めずに十分準備を整えてから攻めるか
他の拠点を攻めればいいだけだけど、防衛側は戦闘の回避→領土喪失、死につながるからそういうわけにはいかないからな。
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
0461人間七七四年
2013/11/24(日) 12:04:55.60ID:0VJ564oqその証拠に岐阜城は馬鹿みたいに毎回陥落しまくってるし
北信濃や上野のガチンコ山城もアホみたいに簡単に落ちまくってる
0462人間七七四年
2013/11/24(日) 12:06:01.90ID:zBe5QJyp戦争において弱小勢力なんて周辺の強国に飲み込まれてくだけだし
小さい勢力で大きな勢力跳ね返し続けた大名なんて佐竹とか田村とか甲斐とか名将しかいない。
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
0463人間七七四年
2013/11/24(日) 12:06:21.62ID:HP4IUeNe後詰の望みがない防戦なんてよほどの偶発的条件か両将の指揮能力のよほどの差がない限り基本勝つ可能性皆無なんだから
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
0464人間七七四年
2013/11/24(日) 12:07:14.79ID:zBe5QJyp二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
0465人間七七四年
2013/11/24(日) 12:09:28.67ID:4Pk6Z+oZ後詰の望みがない防戦なんてよほどの偶発的条件か両将の指揮能力のよほどの差がない限り基本勝つ可能性皆無なんだから
0466人間七七四年
2013/11/24(日) 12:10:33.90ID:zBe5QJyp織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
どうみても武田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
0467人間七七四年
2013/11/24(日) 12:11:45.05ID:VlkFFc4n兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
0468人間七七四年
2013/11/24(日) 12:19:08.95ID:0VJ564oq他のルートで侵攻するなりすればいいだけで、敵が打って出てきたらそれこそ迎撃すればいいだけだし
大軍側は戦争の主導権握ってる
寡兵側、防衛側は戦争回避したら領土失うか死ぬだけだが大軍側は自分が好きなタイミングで自分が好きなルートで、また十分に用意して攻め込む事ができる点でも
圧倒的に有利。また勝っても領土が広がらない防衛側は離散や逃散が出やすく士気が下がりやすいが
勝てば領土、恩賞が約束される大軍側はそれはない。
0469人間七七四年
2013/11/24(日) 12:19:38.17ID:4Pk6Z+oZ日本で最も険しい天嶮が立ち並ぶ信濃や甲斐や上野でも武田や上杉によって一日に10も20もアホみたいに落城しまくってるし
他の地域の城攻めでも数ヶ月の長期に及ぶ城攻めなんて全体からしたらごくごく稀でしかないし
大体近くの拠点まで示威行動したら恭順したりボロボロ城方から離反が出たりしてあっさり終結する戦闘がほとんどだし
ヨーロッパの戦争とか日本よりも遥かにキツイ天嶮を日本よりも遥かに大軍が日本より遥かに重装備で動きまくってて、
これでも基本的には数の論理は生きていたし、それこそハンニバルのポエニ戦争は指揮官の能力で決まった戦争というべきだろ
地勢兵力ともにローマ軍有利のはずだしな
0470人間七七四年
2013/11/24(日) 12:34:48.25ID:DLjWeWss0471人間七七四年
2013/11/24(日) 13:08:49.37ID:z84A8loaリアルでも我慢できなくてビチョビチョもらしちゃうんだろうな
0472人間七七四年
2013/11/24(日) 13:41:52.85ID:0bOITmoK0473人間七七四年
2013/11/24(日) 14:59:01.94ID:inqCtTHH>日本で最も険しい天嶮が立ち並ぶ信濃や甲斐や上野でも武田や上杉によって一日に10も20もアホみたいに落城しまくってるし
ワロタw
それだけ成果出してるのに領土拡張が遅いとかどんだけ武田と上杉は無能なんだよw
0474人間七七四年
2013/11/24(日) 15:51:39.28ID:VlkFFc4n信濃は甲斐の2倍の国力
領土面積も美濃より広い
0475人間七七四年
2013/11/24(日) 16:02:44.14ID:inqCtTHHマジでKING OF 馬鹿だろこいつらw
0476人間七七四年
2013/11/24(日) 16:14:01.19ID:HP4IUeNe濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
0477人間七七四年
2013/11/24(日) 16:19:42.93ID:MUnaw58w拡張が遅くなるのは至極自然の事だろう。しかも戦ってはのはいずれも最も移動も攻撃も手間がかかりまくる
山間部や狭隘部が多く、キツイ城ランキングトップクラスの城が立ち並ぶ地域。
信長みたいに畿内の有力者が次々死んで足利嘉昭が格好の大義名分を引っさげて尾張まで
やってくる棚ボタは上杉にも武田にも北条にもなかったしな
0478人間七七四年
2013/11/24(日) 16:28:48.21ID:zBe5QJyp斉藤は幼君で極度に弱体化
義元は運よく突発事故で戦死
六角も観音寺騒動で弱体化
三好は統率が取れずバラバラ
北畠は内紛で分裂
上杉は内紛で極度に弱体化
武田は勝頼が発狂失政自爆&徳川北条戦で疲弊しきり抗戦したのは仁科だけ
浅井はわずか10万石そこそこで織田領国の20分の1か30分の1くらいの国力
朝倉・毛利は大チャンスでも本国にヘタレ退却するアホが当主
こんな弱体化した雑魚相手の火事場泥棒戦争ばっかやってるのに負けまくり蹴散らされまくる信長の無能さは異常レベル。
0479人間七七四年
2013/11/24(日) 16:33:18.53ID:0VJ564oq加治田城・黒田城・小口城・鵜沼城・猿啄城・犬山城とか内通と自落でおちてるだけだし
信長は何もやってないしただ幼君で統制がぐらついてただけ。斉藤はクーデターまで起こってたし
しかも後半になると浅井や甲賀衆まで援軍で送られてくるし
あと織田の内紛ガタガタという事情って一体なんだ?
公記にも諸資料にも全くない妄想言われても困る
0480人間七七四年
2013/11/24(日) 16:34:03.31ID:0bOITmoKほとんど抗戦意欲なしで自落・内通ばかりだったし国内でクーデターまで起きてたし
まともに戦える状態じゃなかったんだし
0481人間七七四年
2013/11/24(日) 16:36:03.69ID:zBe5QJyp畿内で賢主と呼ばれた大名はみんな死んでいて最盛期が過ぎ
衰退に向かっていく大名ばっかりだったじゃん
それに比べ関東地方は強豪揃い
しかし北条・武田・上杉の三国が互角の鼎のように竜虎獅子が合い戦う強豪っぷりだったしな。
武蔵国の名は武器の蔵と言われていたと信玄も言ってるし。
家康は武田旧臣を配下に入れて翼が生えたようなもんだ。
そのおかげで信濃や甲斐が統治できたしな。
戦国関東三国志と呼ばれるほど
三雄は強かったからねぇ。
興福寺の史料でも織田軍大和衆が越後と甲斐の兵の強さにビビってたからなー
そんな中で勢力拡大してた武田さんは素直に凄い
0482人間七七四年
2013/11/24(日) 16:36:53.16ID:0VJ564oq駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。
越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。
南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)
美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。
跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。
一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
0483人間七七四年
2013/11/24(日) 19:16:22.32ID:gWi2JZXY一度しかない人生を棒に振るのか。
どうでもいいけど、武田勝頼って二人より無能だよな。
0484人間七七四年
2013/11/24(日) 19:38:55.60ID:VlkFFc4n武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
0485人間七七四年
2013/11/25(月) 08:12:00.13ID:vkYmBb5E雑魚中の雑魚、キングオブ雑魚とは武田勝頼のこと
0486人間七七四年
2013/11/25(月) 19:38:51.95ID:AtOvjfIS双方とも荒らしが目的じゃないんならこのスレで何がしたいのかよく考えてくれるとありがたい
誰かを崇めるために誰かを蔑む発想は見苦しいと思うよ
0487人間七七四年
2013/11/25(月) 19:41:53.66ID:9nzREQBN実際自分がその立場になったら先の未来も知らないでその人よりうまく立ち回れるのか
自分が経営者なりトップになってるならいま何が出来てるか
学生や使われる身だったら零細企業の社長の座を得たら潰さず大企業に出来るのか想像して考えてみるといい
今のようなここにレスする余裕のある生活はできないと思うぞ
そう考えたら家滅ぼした人もこんなに大変だったなと思えると思うぞ
0488人間七七四年
2013/11/25(月) 19:54:13.02ID:empw2kvTどちらかというと、一昔前のガキ大将とか、暴走族が部下を率いて抗争を繰り広げるのと似てる感じがする。
0489人間七七四年
2013/11/25(月) 19:54:43.81ID:8UUK8wyc0490人間七七四年
2013/11/25(月) 19:54:44.37ID:3Bt/HExR私は>>433でレスしました
スレタイの軍事学で話が進むと嬉しい
0491人間七七四年
2013/11/25(月) 19:56:20.77ID:Mai5WVDs0492人間七七四年
2013/11/26(火) 19:52:48.85ID:k35iQE2N菅沼遼太恥ずかしい自演乙
君の様な嘘吐き荒らしはこのスレに居着いたらいけない
かまってもらいたいならだがスレにお帰り
0493人間七七四年
2013/11/26(火) 21:30:49.19ID:dtcPhMFn昨日レスした>>428です
軍事学の話を進めるのはいいけど取っ掛かりが思いつかず
というわけで>>433氏がレスした内容からでいいかな?
徳川が敵対関係の武田に戦略を練っていたのは当然と考えます
しかし北条も友好関係の武田ではあるけど戦略を練っていたんじゃないかな?
United StatesのCalor-coded War PlansではWar Plan OrangeだけではなくWar Plan Redも存在している
まあ北条はUnited Statesではないので絶対とまでは言い切れないけどね
それでも御館の乱で武田が北条を裏切ったため交戦状態に突入する
ここまで来たら対武田戦略も上野だけではなく甲斐も含まれたはず
ただ主戦場は駿豆方面と上野方面ですので甲斐や相模が主戦場にならなかったのは双方とも総力戦を避けたと解釈してます
武田は徳川との戦いが北条は佐竹との戦いがあるから消耗戦を警戒したんでしょうね
対武田戦略(甲斐方面)の手法の差は歴史的にも長く重要性も高い徳川の方に分があるのは同意です
0494人間七七四年
2013/11/26(火) 23:00:17.34ID:cM6/mb1H甲江同盟の影響で双方とも警戒を緩めていて武田は対北条戦に全力で臨んでいた。
一次資料みても武田は景気いい話ばかり書いてるし高天神城を落されるとも全く予想していなかったようだ。
北条は北条で二年連続で甲斐に侵攻したり(撃退されたが)
駿河伊豆国境の長窪城を陥落させたり反撃をやるにはやってる。
ただ佐竹結城宇都宮といった連中に下総や下野や上野や南常陸などを攻撃されまくり
戦力が分散状態だったため、全体的には劣勢で、関宿防衛のために築いた飯沼城を攻略されたりしてた。
0495人間七七四年
2013/11/26(火) 23:51:07.12ID:4XZ9TqtT応答ありがと>>433です
武田は徳川に苦戦してたし出兵し過ぎで財政破綻してたから相模攻めは不可能という背景もある
北条は武田みたいにやたら出兵しなかった分先が見えた戦略を持っていたかな
長期消耗戦では武田より北条の方が役者が一枚上手
0496人間七七四年
2013/11/27(水) 20:17:57.66ID:7ot5VLKw昨日レスした>>428です
>北条は武田みたいにやたら出兵しなかった
武田が最初から攻勢に出た理由は早期終結を目指していたからではないかな?
北条と合戦を始め徳川とも交戦状態が続いているのに織田が本腰入れて戦闘再開したら武田の滅亡は免れない
北条の方は織田の様な敵対強国が背後にいるわけでもないから慌てる必要もない
織田の存在が武田の戦略の足枷となっているのは間違いないでしょうね
そもそも武田は織田が本腰入れて攻めてこなかったことにいいことに胡坐をかいていたね
織田と戦い抜くか和睦するかどちらでも構わないけど何か手を打つべきだったと思う
本願寺が織田と和睦したことで織田の足枷が外れ武田家中でも動揺が起こる
高天神城を見殺しにしたことで武田の後詰能力低下が世間に晒されることになる
これで木曾や穴山の心は離反に決したと言えるよね
何で武田は織田との関係を中途半端にしちゃったんだろう?
0497人間七七四年
2013/11/27(水) 21:11:18.86ID:SCQb2YzQ>>496
織田単独で攻めてきても武田滅亡は確実だから早期終結を目指す方が当然ですな
武田も徳川の遠江侵攻に対応してたのもあるけど無策と言われても仕様がない
本願寺が織田をなんとかしてくれる他力本願な考えも持っていたんだろう
0498人間七七四年
2013/11/27(水) 23:35:02.27ID:iGfNALaiむしろ家康の方が田中城の依田信蕃に最後まで歯が立たず
高天神城も同盟詐欺の隙をついて火事場ドロしただけだし
それまで2年余りも苦戦続けてたじゃん。
それに相模は直接攻めてないけど
それ以外の北条領である武蔵・上野・伊豆は攻勢かけまくってたし
上野は東部の由良長尾富岡領以外全て武田の物になってる。
由良や長尾も武田の攻勢の結果、北条から離反しつつあったようだしな
0499人間七七四年
2013/11/27(水) 23:59:09.52ID:Cs+EsEOM天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるしそのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して 遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。 つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら 突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて 南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
0500人間七七四年
2013/11/28(木) 00:23:43.58ID:y4AbZ/fe景勝が同盟を持ちかけた時に、
謙信が遺していた莫大な金塊に、
財政破綻していた勝頼の目が眩んだとする軍記の記述が元ネタだからな。
0501人間七七四年
2013/11/29(金) 19:57:34.25ID:CQUoMiAe昨日レスしなくてすみません>>428です
>武田も徳川の遠江侵攻に対応してたのもあるけど無策と言われても仕様がない
武田的には徳川の6月侵攻が痛かったかもしれませんね
武田は8月に出陣するも時すでに遅く遠江の多くの城を失ってしまう
織田と武田はこれを見て武田の後詰能力が麻痺していると判断し武田領へ侵攻
動きが取れない武田は岩村城や二俣城を見殺しにしてしまう
武田の内情はここに露呈され織田は本願寺との戦いに専念し徳川に武田を任せる
徳川は単独で武田と戦いを進め犬居城を奪還し北遠の武田勢を一掃
徳川の連戦連勝に武田も高天神城だけは確保しておきたいと考え熾烈な争奪戦が始まる
武田も信濃ルートが確保できていたなら両面戦略が採れたけど駿河ルートだけでは厳しいね
>本願寺が織田をなんとかしてくれる他力本願な考えも持っていたんだろう
当初はそう考えていたでしょうね
本願寺だけではなく毛利や上杉という東西の強国の支援もあったし
上杉が織田を滅ぼしてくれるはずと考えていたかもしれません
この辺の焦りが御館の乱の無意味な梃入れ行動につながる様な気がします
0502人間七七四年
2013/11/29(金) 20:23:10.25ID:sO4Ba+xD>>501
いえいえ毎日レスする必要はありませんよ
気が向いた時でいいと思います
武田の後詰能力の低下は長篠の後遺症ですな
これ以降武田は軍役量を増加させて領国経営を悪化させる
領民への負担も激しくなり欠落が続発する
上杉期待の話はなるほどと妙に納得ですな
0503人間七七四年
2013/12/02(月) 19:58:41.25ID:oXUQVLKkいつもの>>428です
>武田の後詰能力の低下は長篠の後遺症ですな
それでも武田が岩村城、二俣城、犬居城を奪還しなかったのは正解と考えます
後詰能力が無いのに無理して奪還しても拠点維持は困難ですからね
あと高天神城も早めに放棄もしくは徳川に返還すべきでした
北条を裏切るなら徳川と和睦すべきでここに武田の限界を見ることができる
多くの家臣を失ったことは家督継承や遺領安堵に多大な時間を費やしたことを意味する
この点でも武田は軍事活動の制限を受けている
しかし天正5年頃から徳川との合戦を本格的に再開する
勝頼は武田軍の早期再建に成功しここは評価できると思う
0504人間七七四年
2013/12/02(月) 22:48:52.19ID:SgYsGM1G結局、城将の依田信蕃の言いなりに従った開城条件の丸飲みの
実質、家康の土下座状態だったじゃん。
なんせ二俣城の城兵は温存されたまま、田中城へ移転引越ししただけだからね。
どうして田中城への移転を決意したかといえば、同時期に勝頼が、
来年に当家は乾坤一擲の勝負を織田・徳川とするって決意を示して
来年の決戦に向けて戦力の大幅整理再編をしていたから。
武田滅亡時でも家康が国境にあったスタート地点の田中城を自力で落せずに大苦戦。
遅れて出陣してきた北条は伊豆を軽快に西進してきたことが
穴山の降伏原因というくらい北条に名を成さしめたくらい
進軍ストップで最後にはまた落城ではなく、開城だったくらい超苦戦しているところからして
二俣城で依田信蕃を討てなかったことは家康最大の恥辱だった。
武田旧臣で籠城と調略の天才だった依田信蕃がいなかったら、
甲斐府中でビビって引きこもっていた家康は北条に大敗して
甲斐も信濃も手に入れることは出来なかった。
依田信蕃はもっと評価されるべき名将。 依田は武田軍団内でも随一の名将だからな。
孤軍奮闘の田中城で結局最後まで徳川方相手に粘り勝ったし、
天正壬午やその後の佐久郡平定戦でも大活躍したからね。
家康の威圧にもまったく屈せず勝頼死去確認と穴山からの開城勧告を得て
やっと開城したほど徹底抗戦したので、依田の旧武田遺臣からの信用性抜群だったのが
幸いして調略がうまくいっていたからね。
特に信濃に進出していた北条軍の背後を遮断するべく佐久郡に戻ってきた依田が
9/28真田家を調略したのは大金星
これがおきて北条は窮してしまい、1ヶ月後の10/29には北条と徳川の和睦成立だからね。
9/13の段階では宇都宮氏を相手に家康は劣勢のあまり、
秀吉と丹羽長秀と柴田勝家がもうすぐ援軍にくるから北条なんて掃討できる
などと、大ウソを吐いてまで、自陣営が見限られないように
必死に佐竹など北関東連合を繋ぎとめてるほど劣勢だったからね。
0505人間七七四年
2013/12/02(月) 23:34:34.79ID:rohCDgos国力的には織田+徳川+上杉で対武田に臨める(上杉は直接攻めてこなくても上野や信濃の後詰が必要)なので
長篠で武田が大損害受けたのならば織田徳川は片手間でも武田を瞬殺して滅ぼすには十分すぎる状況といっていいが
史実でが孤立無援の状態ですら岩村一城に半年かかっても攻め落とせず、最後は騙まし討ちで卑怯に陥落させただけだし
徳川も二俣城を取り返したくらいで、遠州の中部からは全く進めていない。
この事からいえるのは武田が織田よりも圧倒的に戦闘が強いか、あるいは長篠でほとんど損害がなかったかどちらかだろう。
信長は謙信に宛てて信濃にうちいる事肝要とか、上杉と協力して信濃攻めをしたがってたが、
謙信が上野に出兵してもそれと呼応して信濃攻めする事すら、岩村城など東美濃の拠点に手こずったせいで叶わなかったし
0506人間七七四年
2013/12/03(火) 00:29:24.69ID:5CP+97Q0家康は不甲斐ないと言われるのはやむを得ないかも知れないが。
0507人間七七四年
2013/12/03(火) 01:15:29.00ID:hrZ731b9信長は謙信と共同で信濃にうちいる気満々で、そのために信忠に大軍与えて
岩村など東美濃を攻略させたがこれに予想以上に信忠が苦戦しまくり信濃攻めどころじゃなくなっただけ。
東美濃を奪回しない限り信濃にうちいる事は不可能だが、信忠は大軍で孤立無援の岩村城を自力では半年かかっても攻め落とせず
騙まし討ちにしないといけない無能ぶりを発揮してたからな。
0508人間七七四年
2013/12/03(火) 01:21:34.58ID:O1uaYL7E北条氏政の要請に従い上野方面に出兵してたようだ。
つまり長篠の敗戦後も勝頼は織田や徳川なんて全く相手にせず謙信を第一の敵と見定めて
北条との協調を重んじ、上野に出兵する余裕があったと言う事。
そのくらい長篠合戦では武田がほとんど被害を受けてなかったという事だろう。
織田と徳川の国力なら3ヶ月以内もあれば、上杉との協調があれば武田を滅ぼすなんて容易い事だし
長篠で大ダメージ受けたのなら、この好機を信長が見逃すはずがないからな。
だが実際には岩村一城を奪回するのすら半年使っても実力では奪回できず、騙まし討ちに頼るアホっぷり。
0509人間七七四年
2013/12/03(火) 08:56:21.95ID:8VaP3VPyお前、後詰戦略なんて軍記から妄想したデタラメだぞw
んなもん一次史料には一切、それらしいものは出てこない。
それに勝頼の援軍がまもなく来ると聞いて、
あせって秋山を詐欺にかけて岩村城を開城させただけで、
信長は騙くらかして、やっと美濃一国を平定しただけだろ。
どんだけ尾張から北上を始めて美濃統一に時間かけてんだ。
完全に無能だろ。
天皇や将軍の権威が通用した畿内ならそりゃアホでも利用すりゃ簡単だろうが、
通用しない辺境の美濃はこんなていたらく。
0510人間七七四年
2013/12/03(火) 14:46:03.12ID:YPrlRprw岩村城見捨ててない。
0511人間七七四年
2013/12/03(火) 18:46:19.30ID:vmrx5YoH長篠前後で織田徳川の勢力が大なり小なり拡大して武田の勢力が衰退したのは紛れもない事実
0512人間七七四年
2013/12/03(火) 20:39:25.28ID:DeuSQlmb>>503
武田にとって高天神城は足枷以外の何物でもない
織田と戦う気がないならとっとと徳川と和睦すべき
徳川との同盟を北条に先を越されたのは間抜け過ぎ
勝頼が武田軍の早期再建できたのは徳川に負けない程度まで
徳川に勝つまでの再建は最後までできていないね
二俣城や犬居城なんかは最後まで奪還できなかったのがその証ですな
0513人間七七四年
2013/12/03(火) 21:12:01.13ID:MasbcwuRいつもの>>428です
>織田と戦う気がないならとっとと徳川と和睦すべき
>徳川との同盟を北条に先を越されたのは間抜け過ぎ
織田に大敗して和睦を請うでは武田の面目が丸潰れだから難しいかも
いっそのこと勝頼が討死していた方が外交の方針転換できたかもね
外交に関しては勝頼より氏政の方が一枚上手と思う
氏政にしてみたら武田に裏切られるのは2回目だから「またか」って感じかな?
>徳川に勝つまでの再建は最後までできていないね
これは同意
武田は長篠合戦以降失地回復ができないまま滅亡に追い込まれてるしね
北条との戦いが武田軍のさらなる再建を不可能にさせたと思う
0514人間七七四年
2013/12/03(火) 21:25:10.24ID:DeuSQlmb武田の北条を裏切る姿を見せつけられたら同盟相手に選らばない気が
信玄と変わらない勝頼の外交感覚に血は争えないと誰もが思ったことだろう
0515人間七七四年
2013/12/03(火) 22:34:56.90ID:BymGPPp4長篠でもし武田が大損害蒙ったというなら国力的には上杉織田徳川なら謙信が積極的に討ってでなくても
織田徳川で武田を瞬殺するには十分すぎるからな。
なのに実際には岩村一城奪回するのすら、半年かかっても自力で落せず騙まし討ちに頼るアホっぷり。
これでは長篠合戦で武田が大損害蒙ったというのは無理がありすぎる。
信長は謙信に積極的に信濃攻めを要請してたから、織田厨が言うように武田戦線を軽視してたというのはありえないしな。
武田征伐の時もかなり警戒して勇んでどんどん先に進んではならんとか書いてるし
0516人間七七四年
2013/12/03(火) 22:36:47.26ID:eJKw7hR0時間をかければ相手も戦力回復するだろうし実際北条との同盟決裂後関東に出兵しまくる程
戦力は戻ってる。
それなのに長篠合戦後の織田軍の行動が岩村奪回程度に終わっており、
その後は一寸たりとも、武田から領土を切り取っていないのが織田。
また、武田攻めの際の信長の武田への警戒心から見ても、相当長篠では武田の強さを見せ付けられたと思われる。
ちなみに当時の織田は徳川や上杉との対武田での協調や同盟があるため
本願寺攻めに三万〜4万ほどを割いても徳川上杉と結託して攻めれば
傷ついた武田ごとき滅ぼすには十分すぎる国力と兵力差だと思われる。
信濃口や飛騨口が地勢的に攻め入るのがキツイなら駿河口でも伊那口でもどこでもいいしな
0517人間七七四年
2013/12/03(火) 22:37:56.37ID:G16CJgrM実際問題7年も間が開いててその間関東に出兵したり御館の乱に介入したりする余裕もあったし
時期的、状況的に考えて全くといっていいほど関係ないだろ。
時期的・状況的にいえば甲江同盟の成立や、それを反故した織田の騙まし討ちや、北条や徳川との対戦、北条の甲斐侵攻に備えた新府築城などと
結びつけて語られるべきなのが武田滅亡。
0518人間七七四年
2013/12/03(火) 22:42:36.09ID:N6vreS6J北条と協調しての、謙信との上野での攻防を優先した結果であって、長篠合戦とはあまり関係がないだろ。
武田は同時に遠江も徳川に攻められてて同時に兵を出すなんて国力的・状況的にキツイしな。結局どちらかをとって
どちらかを捨てるかって話になって、より本国から遠く、維持の難しい東美濃の後詰を後回しにしただけ。
黒田基樹氏によれば天正3年の長篠敗戦後の勝頼は上杉謙信の関東攻めに対応するため
北条氏政の要請に従い上野方面に出兵してたようだ。
つまり長篠の敗戦後も勝頼は織田や徳川なんて全く相手にせず謙信を第一の敵と見定めて
北条との協調を重んじ、上野に出兵する余裕があったと言う事。
そのくらい長篠合戦では武田がほとんど被害を受けてなかったという事だろう。
織田と徳川の国力なら3ヶ月以内もあれば、上杉との協調があれば武田を滅ぼすなんて容易い事だし
長篠で大ダメージ受けたのなら、この好機を信長が見逃すはずがないからな。
だが実際には岩村一城を奪回するのすら半年使っても実力では奪回できず、騙まし討ちに頼るアホっぷり。
0519人間七七四年
2013/12/03(火) 22:45:10.94ID:sldQMTwm0520人間七七四年
2013/12/03(火) 22:45:43.87ID:X+wCZdnU岩村を半年かけて騙まし討ちで奪回、二俣城を奪回程度の戦果じゃ長篠での武田の損害を証明する材料にはならないね。
武田が長篠で無傷だったとしても両勢力の規模からいえばそのくらいできて同然だし
長篠で武田が大ダメージ負ったのなら、それこそ2ヶ月程度で瞬殺できていいくらいの国力差だしな。
0521人間七七四年
2013/12/03(火) 22:46:48.19ID:eJKw7hR00522人間七七四年
2013/12/03(火) 22:55:17.37ID:sH/p6Gy/あとは徳川に任せればいいと思ったら
案外無能だった家康
0523人間七七四年
2013/12/03(火) 23:21:31.71ID:ELoUdqwt援軍なしの孤立無援の状態ですら岩村一城に半年かかっても攻め落とせず、最後は騙まし討ちで卑怯に陥落させただけだし
徳川はわりと早く遠州での勢力を盛り返したのに対して織田は自力じゃ半年もかかっても奪回が叶わなかったし
勝頼は遠州に出兵してたから、東美濃はスカスカ状態で見捨てられてたにもかかわらず容易には落ちなかったし
0524人間七七四年
2013/12/03(火) 23:25:41.62ID:A8Hxv4PH大軍を与えられて出兵した信忠が東美濃で半年ももたつく無能っぷりを発揮したため
到底かなわず、上杉は信濃ではなく上野に出兵する事になるんだよな。
勝頼も東美濃は全く落ちる気配がなかったため、上野や遠江の上杉や徳川戦線ばかり気にしてたし
信長は武田攻めの時も、長篠や岩村合戦でのトラウマが相当大きいのか、離反連鎖で崩壊状態の武田領に攻め入る時ですら
勇んで進みすぎるなとか注意しまくってたし。
0525人間七七四年
2013/12/03(火) 23:27:10.08ID:MasbcwuRID見ればわかりますが>>428です
>武田の北条を裏切る姿を見せつけられたら同盟相手に選らばない気が
仰るとおりですね
戦国時代の裏切り外交は悪いとは言わないけどあの状況で北条を裏切るとかありえないしね
武田は致命的な失敗で当然の様に滅亡したから結果から見ても当然と思う
0526人間七七四年
2013/12/04(水) 01:27:57.78ID:8Xvt0vj5それに犬居城に関する一次史料はほとんどないから、
よくわからないのが正答回答なのに妄想願望話を書いてて頭がおかしいのか?
0527人間七七四年
2013/12/04(水) 08:01:46.41ID:a0sMQX5I北条信者の妄想の根幹である
0528人間七七四年
2013/12/04(水) 10:34:20.56ID:vbdrQIWg御館の乱で北条が先に裏切ったってどんな話
>>525 初参戦したものです
あの状態で北条を裏切った勝頼はセンスないなと思いますが、北条も少し手ぬるすぎ
というかセンスないと思います。なぜもっと全力で傾注しなかったんでしょう
0529人間七七四年
2013/12/04(水) 11:25:22.76ID:2h+iwFfH全く一次史料が出てこないなw
このスレは軍記講談を元に、戦略や戦術といった軍事学を語る妄想低脳スレでワロタw
長篠の戦いで誰が死んだって?一次史料の根拠付きで頼むわ。
北条が先に裏切ったのに、なんで武田が悪いことになってんだwお前アホだろw
0530人間七七四年
2013/12/04(水) 11:27:37.52ID:Kib7Azii0531人間七七四年
2013/12/04(水) 11:39:27.94ID:vbdrQIWg略術の整合性からぐ軍記の内容を否定したり肯定したりそれでいいんじゃないか
北条がどう先に裏切ったか教えておくれよ おねがいしますよ
0532人間七七四年
2013/12/04(水) 11:42:10.28ID:+UbBz1bB0533人間七七四年
2013/12/04(水) 11:52:26.05ID:iKkIRqXV岩村城見捨てるほどその信長にボコられた勝頼
その勝頼に苦戦した家康
まとめると
信長>>>>>勝頼>>>>>家康
0534人間七七四年
2013/12/04(水) 12:04:37.25ID:OalnIN6F勝頼に見捨てられた岩村城を数万の大軍で半年かかっても自力では落せなかった信長。
信長や家康をわずかな兵でもってまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
勝頼>>>>家康>>>>>>>>>信長
0535人間七七四年
2013/12/04(水) 12:06:35.56ID:AWcfonYE天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
0536人間七七四年
2013/12/04(水) 12:14:51.25ID:vbdrQIWgマナーが悪い人が多いからだ
キミも同じだ
0537人間七七四年
2013/12/04(水) 15:55:50.41ID:F47xHcj7家康が武田領を荒らし回り、 武田もついに徳川攻めに向かうと、 北条が激怒。
北条がむちゃくちゃで傲慢でしょ。 勝頼は最後まで北条の顔を立てて
景勝の援軍要請も拒絶して中立和睦方針で動いてる。
景勝が勝手に武田はこっちの味方と風聞ばらまいてるだけ。
そもそも景勝が勝頼に大金を送った話からして軍記話だし。
6/29に越後府中にいた勝頼は、真田昌幸宛てに北条が援軍出さないことに不満を表しています。
8/28北条の援軍がまったく届く報もないく、
この日ついに徳川の攻勢を無視できなくなり勝頼は越後府中を後にします。
勝頼撤退を知って丸投げしていた北条がやっと動いたと言うことでしょう。
この勝頼の越後府中滞在期間中、景勝と景虎の和平仲介の調停をしています。
9/24には景勝と景虎の和平が破綻したのを嘆いているし、
10/7には大熊と市川らが景勝の援軍依頼を拒否したりしてます。
その後は天正7年正月も普通に武田と北条は普通に年頭贈答もやってる。
天正7/3勝頼願文を掲げ北条の滅亡を祈祷&7/24佐竹義斯が勝頼が北条と断絶すると通告してきたと書状に書く
(元ネタは 下野佐野氏と「下野須賀文書」 黒田基樹著 か?)
黒田基樹によると、勝頼の構想は、甲相同盟を維持した上で、
氏政と景勝の同盟関係を構築し、同時に景勝と景虎の和睦を図っていたので
8/20に景勝と勝頼の同盟が成立していたような話を書いているのですが
妄想が含まれているようで、意味がよくわかりません。
また宮崎求馬氏所蔵文書によれば 2月の時点で北条氏は武田との戦いを考え警戒していたので、
5月には小田原城の普請を始めて軍事衝突に備えていたとも書いていました。
天正7年5月に氏政→由良成繁宛で、
景虎が死んでしまったので上野国は北条が差配するって書状を出していて、
この時点で外交上、北条が西上野の武田領の一掃を宣言したとされているが、
勝頼が北条滅亡を祈願してるのが事実とするならば、すでに北条と武田の関係は修復不可能になって
それぞれが同盟相手を探していたのかも知れませんね。
特にこの時期の後北条は由良氏に加増したり(5/6)
沼田城の河田重親の小田原参陣とともに不動山城への拠点移動を許可したり(5/9)と
上野国の防衛シフトを大幅再編成しており、武田を刺激した可能性もあります。
この期間、勝頼は4/6に毛利宛に出陣する約束の書状を出し、
8月中には実際、駿河へ徳川攻めで出陣しており、
8/20に勝頼と景勝が同盟を結ぶことが、まず考えられないということもあります。
0538人間七七四年
2013/12/04(水) 15:56:54.93ID:F47xHcj78月には家康を討つために駿河へ出陣してる勝頼がなんでわざわざ北条を裏切って
挟撃されるリスクを 自分から背負う必要性があるんだよ?
8月末に突然、厩橋北条高広が後北条を見限って離反してから
関係が悪くなったというのが表面上の出来事だが、
実際には水面下で徳川と北条の同盟交渉がなされており、
9/5に同盟成立して武田と北条の手切れになっている。
厩橋北条の件を指してますか?あれは武田側が調略したものでないので、
一般的に後北条を見限った行為とされてますが。
と言うのも景虎討死後は伊達の支援を受けた黒川清実や
蘆名の支援を受けた本庄秀綱や神余親綱らに対する
伊達と蘆名の支援が止まってしまったことが挙げられます。
また厩橋北条とほぼ同時期に那波顕宗も後北条を見限ってます。
3/24に景虎が死んでいるので、擁立するべき大将と大義名分が存在しなくなったので、
後北条の行動は侵略行為に変質してしまったことと、
勝者として上杉氏を継ぎ事実上の越後の国主となった景勝を
現実問題として認めなければならないことが反映されて、諸将の次の行動に反映したと言える。
菊姫を娶り、甲越同盟成立が天正7年10月20日なのは、
上杉古文書・諸国古文書抄・武田氏系図・越後古實聞書などにも出てるし
東大史料編纂所の大日本史料にも書いてある。
あぁやっと理解した。北条系研究者らが主張する8/20甲越同盟成立説は、
天正6年8/20に景勝と勝頼が同盟結んだに違いないから
8/28に勝頼は越後府中から甲斐に帰っていったに違いないって言う
妄想が一人歩きした結果生まれた、なぜか一年ずれての天正7年8/20同盟説なんだな。
家康と北条の同盟の話に感づいたようで、9/7に武藤三河守を急ぎ越後へ派遣して交渉している。
10/17に早くも菊姫を甲府から送り出し、 同日に景勝が求めた起請文も出してる。
それらが10/20に到着し婚儀がなされたので、 急ぎ10/20に甲越同盟成立でしょ。
9/6に佐竹が蘆名に甲相同盟破綻を告げて、
勝頼の使者が蘆名領を通過するのを許可してくれるように求めて、
本格的に同盟に向けて佐竹も動き出してるし、
10/8に勝頼が太田に佐竹から起請文が届いたのを喜んでる。
すべて北条と徳川が同盟したことが契機で動いてる。
3月に願文を掲げただけなんてエア過ぎて政治的にも物理的にも全く実体化すらしてないやん。
そもそも2月の時点で北条は武田を敵視してるじゃん。それに対して願文掲げて何が悪いの?
願文は他人に見せるものだとか勘違いしてんのか? 影響は外に現れんのだが。
結局、自分らが援軍出さないで武田にはたらかせ、 漁夫の利を狙っていた北条が、
せめて駿河に援軍出して徳川牽制協力でもしてくれたら丸く収ってた話なんだよな。
勝頼が撤退して北条が逆ギレした挙句に、せっかく勝頼がまとめた景勝と景虎の調停和睦をぶち壊し、
景虎敗死に導いたのが北条。 それをさらに勝頼が悪いと逆恨みした北条。これで武田と北条の仲が崩壊。
むしろ景虎なんて北条にとってはどうでもよく越後上野侵略の口実に過ぎす、
景虎死んだら早速、北条が上野を支配する宣言まで出すもんだから、上野諸将の離反を招き、
またまた武田が裏で調略しているに違いないとキチガイ思考をしただけだろ。
0539人間七七四年
2013/12/04(水) 17:28:52.34ID:vbdrQIWg同一人物かどうかわからんけど、流れと考え方は分かりましたよ
長文すぎて読むのがしんどかったし、さいごの文章は頂けないけど
勉強になりました。
0540人間七七四年
2013/12/04(水) 18:03:04.25ID:KPI37Y7Aどこのスレに行っても相手にされないのはお前自身に原因があることを理解しろ
0541人間七七四年
2013/12/04(水) 18:05:39.34ID:Kib7Azii0543人間七七四年
2013/12/04(水) 22:39:29.88ID:OalnIN6F0544人間七七四年
2013/12/05(木) 00:19:03.91ID:mpU+SKcy調子に乗って長篠で犬死させた雑魚勝頼
0545人間七七四年
2013/12/05(木) 00:24:53.71ID:nY1rKTP6誰が長篠で犬死したの?
一次史料を根拠に教えてください。
0546人間七七四年
2013/12/05(木) 07:48:19.81ID:6ZstKJ4e一次史料で山県、馬場、原、真田らがみんな死ななかったって証明出来るんだ?
じゃあなんで岩村城見捨てたの?
0547人間七七四年
2013/12/05(木) 09:03:06.10ID:wplD8J1R卑怯卑劣な信長に秋山が騙されたからだろ。
長篠の時期まで彼らが生きていたとする証拠自体が全く無いだろがw
0548人間七七四年
2013/12/05(木) 20:04:15.28ID:kIHSDwfF良スレばかり狙って必死過ぎるぞ
0549人間七七四年
2013/12/05(木) 20:12:54.84ID:x0l/VZxz0550人間七七四年
2013/12/05(木) 23:59:46.29ID:rUBJmuyl0551人間七七四年
2013/12/06(金) 01:09:35.36ID:XvBhZxLd勝頼とガチでやり合った東国勢は猛者揃い
でも信長と秀吉は卑怯な騙し討ちとラッキーで勝頼たち東国勢を倒したよ
とか馬鹿じゃね?
0552人間七七四年
2013/12/06(金) 09:12:13.20ID:+WCqyI7u勝頼を信長は同盟詐欺の騙まし討ちと北条徳川との対戦で弱りきった所を狙って騙まし討ちしただけ。
0553人間七七四年
2013/12/06(金) 09:27:53.26ID:TNWzfLhs交渉に出てきたところで捕まえて虐殺したって書いてるからな。
しかたねぇ交渉条件によっては織田軍の撤兵を背後から追撃しないように約束してやろうかな!
と思って勝ってニコニコ顔で秋山は城から出てきたんだろうな。
0554人間七七四年
2013/12/06(金) 10:06:43.63ID:yAgLNVHLその妄想が事実だとしたら武田家臣団は戦国武将として致命的に無能としか言えない
武田家滅亡が誰でもできる楽勝作業ということも理解できるな
0555人間七七四年
2013/12/06(金) 18:16:19.37ID:x8DvQy0wエビデンスを要求して、ビビりとかヘタレとか強いとか弱いとか
なんか間違ってるよね。
0556人間七七四年
2013/12/06(金) 23:49:32.01ID:jWDsxzjR軍事学的にスレを進めようよ
軍事学的には騙し討ちを否定するのは如何なものかと思うのですが?
騙された秋山に戦国武将としての資質が欠けていたと見るのが普通かと
0557羽柴秀吉幾三村元親 ◆VD/AOBHl3DqW
2013/12/07(土) 10:19:35.64ID:C9UxTinvさらに秋山に勝頼の御意もなく独断で敵と和睦交渉する権限はない。
交渉に乗るということは岩村城の降伏開城を意味し岩村の武田方が追い詰められ守将の秋山が本国からの増援や城内の様子を複合的に考えても勝ち目ないと判断したからである。
敢闘虚しく半年粘っても『君ならできる…』と救援を不要とし秋山を捨てた武田家。確実に弱体化が進んでいた証拠である
0558人間七七四年
2013/12/07(土) 10:35:13.27ID:BDncvnB30559人間七七四年
2013/12/07(土) 11:14:44.96ID:5YLGEePJ要約するとこうか?
勝頼からの停戦についての指示もないのに、
秋山に勝頼の御意もなく独断で敵と和睦交渉する権限はないので秋山の負けに違いない。
上記のあなたの考えを証明する一次史料の根拠はまだなの?
それが書かれてないのでは願望妄想としか思えませんが。
管見の限り、前線の城主が停戦和睦交渉したらいけないなんて史料は
みた事がないからね。
そもそも秋山から救援依頼自体が一切出てないから困っていたようにも思えない。
むしろ勝頼の援軍出撃を聞いて、一刻も早く解決したくて困ってるのは織田の方でしょ。
だから卑怯な騙しての暴挙をする程に必死だっただろ。
0560人間七七四年
2013/12/07(土) 12:53:35.70ID:glWnfOkx妄想に対して妄想を被せるw
所詮、ヲタの趣味でしかない
誰かしらかの停戦命令が出ての停戦に伴う打合せの際に、無防備に(指揮官が捕縛されるなんて人間の出来ることじゃない)相手陣地に乗り込むか?
現場指揮官の独断にせよ、戦線を維持出来ない状況があったと考えるのが自然。
或いは、指揮官自らが命乞い(彼我問わず)に訪れた可能性も否定出来ないだろう
資料がぁ(」゜□゜)」って基地外は喚くが、資料なんか古来改竄が当たり前。
辻褄が有ってない資料なんざ糞喰らえで良い
(だから、戦国時代と称するノブヤボ時代に真面目な研究がされない理由だろうけど)
0561人間七七四年
2013/12/07(土) 13:06:08.97ID:kg51bfIo和睦交渉をして、追撃を避けるために
人質交渉をするもんだ。
信長も和睦交渉で北畠信雄を人質に出すことで追撃を受けずに撤退してるし。
秋山もとうぜんそのつもりで交渉に臨んだのだろう。
0562人間七七四年
2013/12/07(土) 17:59:45.69ID:AXbYt8B+おまえは戦国時代の知識が無い馬鹿タレなんだから3年間ROMってろ
無知がしゃしゃり出るとスレが白ける
0563人間七七四年
2013/12/07(土) 19:46:02.75ID:DamRBE4Aって再放送かな?やってたね。
0564人間七七四年
2013/12/07(土) 19:56:44.92ID:aBcs630e織田側の史料に謙遜や豊臣時代の客観性があるのを良いことに、
武田最強をごり押ししてる人がいるの?
0565人間七七四年
2013/12/07(土) 20:36:10.47ID:AU1eJqNG人質を交換し合って追撃予防をしてから、
双方が撤退しているよな。
和睦交渉ってのは基本的に追撃を受けないように交渉する事だからな。
0566人間七七四年
2013/12/07(土) 22:19:35.56ID:glWnfOkx信長にとって信雄は捨て駒に出来る存在だろうが
秋山某自身が自らの意志で捨て駒に出来るか?
秋山某が、捕縛される危険を犯して和平交渉に乗り出すというのはかなり切羽詰まった状況と見るべきでは?
後年、日本とロシアでの和平交渉の際、ステッセルは乃木大将の許可を得ると帯剣したという。
つまり、事実上の降伏状況でさえ講和の席上まで帯剣していたという話だろ
もし、戦線が膠着した状況で秋山某が講和に訪れたのならお互いが手出し出来る状況には無いと取るのが普通では
0568人間七七四年
2013/12/08(日) 00:59:20.38ID:qFsIBuwS0570人間七七四年
2013/12/08(日) 19:00:48.89ID:OVIn2Ljt二俣城、諏訪原城といった遠江中枢の城を奪回されてる時点で武田の大敗だったのがわかる。
結局勝頼は一時的に無理矢理軍を再起動させてみたものの何もできずに終わってるし
0571人間七七四年
2013/12/08(日) 19:12:56.81ID:dVoVpmBD作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し
先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候などと書いてる。
このことから当初案では石山本願寺救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して 穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は実数1万くらいの兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り5万の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して
伊勢長島の日根野や郡上八幡の遠藤氏や一揆軍の南下で織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、陣城攻撃を開始し優勢だったが陣城は落ちず
撤退をしたら殿が下手を打って軍が崩壊。義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
長篠決戦前日の勝頼が織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸
信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は
高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。
長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。
6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。
武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけで
やはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。
殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
0572人間七七四年
2013/12/08(日) 19:15:56.54ID:dVoVpmBDttp://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/29015563.html
願望妄想乙w そもそもその書状は天正2年だからすでに間違えてる。
信玄が死んだ年の末に浜松城再度襲撃なんて、そんな大規模軍事行動はしてないだろ…
んで、書状内容は 家康が篭る浜松を焼き払い、刈田しまくった。
いま久野(袋井市)と掛川を追い詰め佐夜郡に押さえの築城した。
他には佐竹と北条の和睦の提案と、小田原の軍勢が関宿攻めしてる話に言及してる書状。
さて袋井市と掛川市を制する地の利の場所に築城してるのに、
なんでそれが諏訪原なんだよwwwお前さ、地図くらい見てから書けよwww
机上の空論ならぬ、 妄想願望の暴論だぞw 織田チョンはどうしようも無いアホだわ
あーあ。悪質な歪曲してるな。 諏訪原城がある位置は榛原郡だから。
佐夜郡ではなく、小夜の中山と言う山にある急坂の場所が
宿場町の日坂(掛川)→宿場町の金谷(菊川)
の間にある道中の山の急坂を指しているって話なだけ。地理まで曲解すんなよ・・・
なんでそれが佐夜郡の支配領域とイコールになるんだよ。
単に中山にある坂が佐夜郡への道だから名前が転化しただけだろ。
そこは榛原郡であって、佐夜郡はもっと西だから。
延喜期式には遠江国佐野郡に己等乃麻知神社が書かれているので
そもそも文学的表現からではなく元々は佐野郡が佐夜郡に転化したもの。
のちの周智郡なども含まれた広大な領域だったとも言われ
また、中山という呼称は郡と郡の郡堺の山や峠を意味する言葉で
中山から西が佐夜郡であり、東が榛原郡だということがわかります。
小夜の中山を境に、 東側が榛原郡であり諏訪原城がある地域で、
明らかに対高天神城攻略のために徳川が作った牧野城のこと。
中山の西側が佐夜郡であり浜松襲撃した帰り掛けに袋井市や掛川市を追い詰める意図で
武田が数ヶ月突貫で砦を作った場所だろ。
天正元年に諏訪原ができたってのは牧野城がすでにあったことを知っている
江戸時代の作られた甲陽軍鑑のネタに引っ張られた間違った解釈だし
そもそも久野城や掛川城を制する位置に築城されたのは天方城のことだとされている。
諏訪原城がその両城を押さえる形にならないどころか
武田軍が大井川の南下して高天神城へ行く道を塞ぐように築城されてるのが牧野城。
見張り台目的で古い砦のような簡素なものが諏訪原にあっただろうが、
本格的な築城は徳川によってなされたと考えるべきだろう。
(特に家忠日記などでは天正6年以降やたら普請を繰り返している)
そして周の文王が牧野で武王を破った故事から築城するにあたり牧野城としたのであろう。
(犬居城説などもあり判然としないが、ちなみに天方城説にも諸説あってよくわからないのだが、
徳川と武田の争奪が激しく新城があったのではと言われている)
当時、天野氏も2派に分かれて派閥抗争をしており ここを巡って奪回戦が繰り返されたといわれている。
0573人間七七四年
2013/12/08(日) 19:28:13.84ID:dVoVpmBDむしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに
武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。
しかし織田チョンは必死だな〜。
犬居城が落城したなんて大須賀記っていう家譜にしか出てこない捏造話だし、
二俣城落城に至っては浜松城記って言う偽書にしか出てこないのにwwww
また戦死に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く 名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、 甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも
織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。
実際、軍記講談話を除けば、 馬場や山縣がそもそも出陣してたかすら怪しいし、
長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、
嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし、
山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、
天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。
しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、信長も感状を一切出すことも無い。
唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。
明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、
勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、山縣や馬場らが長篠に出陣してる証拠が無い。
むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて長篠に現れたとしか思えない。
だからこそ信長は深く追撃することを恐れて、さっさと帰っていった。
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、 構造改革があって引退してるんじゃないか?
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、 秋山のことは引き寄せてから今日、
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。
長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、
信綱は登場しないし、 山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど。
天正元年7/30の時点では、 武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、
天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。
0574人間七七四年
2013/12/09(月) 06:33:48.79ID:xPZMJLvz0575人間七七四年
2013/12/09(月) 08:03:46.21ID:zGtc0tP/ちょっとほかのスレ見てきたらわかるけど戦国板荒廃の原因だから
0576人間七七四年
2013/12/19(木) 23:42:11.57ID:bl5IqCqlそれとも違うの?
0577人間七七四年
2013/12/20(金) 09:36:00.49ID:XFpSe6/00578人間七七四年
2013/12/21(土) 19:58:47.80ID:oYBMzSpP0580人間七七四年
2013/12/21(土) 20:10:07.00ID:C3OPJUDL家康なんかは三方ヶ原の戦いの敗走時に、
騎射で立ちふさがる敵を突破している
0581人間七七四年
2013/12/22(日) 10:08:06.73ID:ahA5y8Hl0582人間七七四年
2013/12/22(日) 10:49:53.00ID:amCM5l940583人間七七四年
2013/12/22(日) 11:48:01.85ID:PRh0dRuW0584人間七七四年
2013/12/22(日) 13:13:59.79ID:1RFhliqsそういう非効率的な戦いを成り立たせるために、
馬乗り身分の人間を足軽が討つってのを非道とする逸話が多いのかな
歩兵がついて行ける速度で馬上にいたんじゃ、良い的だし。
0585人間七七四年
2013/12/22(日) 13:24:37.27ID:amCM5l94徒従者を後続させても時を置かずに合流できる
0586人間七七四年
2013/12/22(日) 13:58:15.29ID:ahA5y8Hlまた軍旗物に出てくる「先駆けの足軽」をツヴァイヘンダーの類と見れば
歩兵が槍を切り払った後に騎馬が突撃する戦法も普遍的だったと考えられる
0587人間七七四年
2013/12/22(日) 14:31:59.18ID:1RFhliqs>重装騎兵
日本の騎馬武者の武装って
革と竹?で組み合わせたスケールメイルと篭手と脛当て
と片手剣(太刀って短いんだよな)もしくは騎槍じゃなかったか?
盾も無いし、戦車の代わりにはならんだろ?
それに銃器が普及してからなら馬上の重装兵なんか只の的だし。
0588人間七七四年
2013/12/22(日) 14:45:42.83ID:ahA5y8Hl0589人間七七四年
2013/12/22(日) 20:06:17.91ID:jEBE5W8H0590人間七七四年
2013/12/23(月) 14:46:35.09ID:8A0Y5EoJ0591人間七七四年
2013/12/23(月) 18:26:13.51ID:kUzmoyl/弓かポン刀か槍なのか
ちなみに手持ちのとある学研の書籍では、武田、上杉、北条の兵装比率は
北条が騎馬武者比率断トツだが、基本北条のドクトリンはお城にこもること
だから追撃にお馬さんは活躍したんか?
0593人間七七四年
2013/12/24(火) 19:55:56.97ID:q5swGg9p使いもんにならんな
0594人間七七四年
2013/12/25(水) 06:26:54.36ID:30f646xE>鉄砲>金砕棒>長刀
一次資料(笑)に載ってそうだな。
そんな話をするから、戦闘時は下馬したって説がでんじゃねw
馬上で手綱離して両手武器が振れるわけないだろ
乗馬の首でも切り落とす気か?
東北の殿様のみたいな指揮棒を金砕棒なんて誇大表現するならまだしもw
鉄砲での馬上射撃にしたって先込の火縄銃って馬上で使えるかどうか考えてみれば良い。
0595人間七七四年
2013/12/25(水) 09:29:23.77ID:zjJXOyVV0596人間七七四年
2013/12/25(水) 10:10:01.82ID:/YlqyjK80597人間七七四年
2013/12/25(水) 10:53:04.36ID:ZeQyeXWY0598人間七七四年
2013/12/25(水) 11:13:55.11ID:/YlqyjK80599人間七七四年
2013/12/25(水) 11:38:47.55ID:CFW01JRO0600人間七七四年
2013/12/25(水) 11:58:18.69ID:ZeQyeXWY例えば敵陣に突撃する時は馬に乗り、敵陣に侵入後は下馬したと
生駒利豊は関ヶ原合戦を回想した書状で語っている
0602人間七七四年
2013/12/25(水) 18:30:37.32ID:30f646xE書いてある通りだと
馬に乗って戦闘エリアに突入、交戦時には下馬してるってことだろ
騎乗での戦闘が有ったとは読めないな
つまり、移動時も馬の轡を取る従者がついて行って、戦闘エリアに入ると下馬し、馬は従者が確保しておくと
移動時は馬に乗って戦闘時は下馬したってことじゃんw
0604人間七七四年
2013/12/25(水) 18:38:43.87ID:zjJXOyVV0606人間七七四年
2013/12/25(水) 21:57:07.68ID:ianDC/QHどのスレでも挑発しては喧嘩を売ってる
0607人間七七四年
2013/12/26(木) 19:04:13.51ID:NJMWl1aihttp://music.geocities.jp/jphope21/0203/39/266_1.html
徳川家康の戦術にあった。
( http://music.geocities.jp/jphope21/01/6/74.html )
0608人間七七四年
2014/01/24(金) 20:00:12.77ID:nOJraPQP0609人間七七四年
2014/01/27(月) 23:49:11.45ID:4LrPB4MNアスペルガーだがウゼーからしゃしゃり出てくるなカス
0610人間七七四年
2014/02/14(金) 15:54:22.14ID:qwYbg9rc突撃離脱を繰り返して長い間戦うのなんてよくあることだし、
突撃開始位置と目標が斜めになってたら普通に車懸りみたいな陣形に自然になると思うんだが
0611人間七七四年
2014/02/14(金) 16:56:18.74ID:LWQyK/4z車懸りの存在そのものが否定された
0612人間七七四年
2014/02/14(金) 16:58:01.09ID:b5FqVm+Fあと検索してみれば上位にヒットするが車輪のようになってクルクル回りながら戦うという
誰もが否定したくなる戦術に改変されてるから
車懸り=順撃法、啄木鳥戦法=鉄床戦術
実際その時に使われたかは一次資料の裏付けがなく分からないが
戦術自体は否定できるようなものじゃない
最近の話だと三段撃ち否定論も似たようなものだな
0613人間七七四年
2014/02/14(金) 16:59:03.62ID:7BjaOQEG0614人間七七四年
2014/02/14(金) 17:17:20.11ID:b5FqVm+F戦術自体はともかく
0616人間七七四年
2014/02/14(金) 18:23:06.75ID:qwYbg9rc中規模の各兵科を組み合わせた部隊をいくつも並べてそれぞれに行動させてたようだ
ニーウポールトの戦い布陣図1600年
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8a/Slag_bij_Nieuwpoort_%281600%29_-_2_Fases.jpg
80年戦争中期の軍制改革がある程度進んだ状態
当時は欧州最先端軍事国家の一つだったオランダのマウリッツが率いているのが左側の軍
右側はスペインのアルプレヒト
0617人間七七四年
2014/02/14(金) 18:39:55.62ID:LWQyK/4zもっとも日本は大砲を除外しているけど
0618人間七七四年
2014/02/15(土) 19:22:15.96ID:RtB6sEli車がかり=戦闘行軍的な意見を何度か散見して納得してるが
五段瀬は戦闘行軍に近い気がする
0619人間七七四年
2014/02/15(土) 19:57:43.20ID:IwxXeTlF0620人間七七四年
2014/02/15(土) 21:58:01.52ID:cIAgOfDq欧州も中隊は諸兵科連合風(混合?)です。
少し後の時代になりますが、
1692年10月1日制定、フランス軍歩兵中隊の下士官兵士定数
2名 軍曹(ショートパイク、ハルベルド)
3名 伍長(フリントロック・マスケット)
5名 anspessade/兵長または上等兵相当(フリントロック・マスケット)
10名 パイクマン(パイク)
13名 フュジリエ(フリントロック・マスケット)
21名 マスケッティア(マッチロック・マスケット)
1名 鼓手
下士官兵士合計55名
この内1〜2名(人数と人選は大尉の裁量)にライフル・カービンを装備させ、カラビニエとしました。
将校は大尉1名、下級尉官1〜2名
戦闘時に大隊(13個中隊)を組む際に中隊は一旦解体され、兵科毎に決められた配置に付きました。
大隊の中央から左右両翼に向かって、パイクマン→マスケッティア→フュジリエみたいに。
5横列(rank)、130縦列(file)、合計650名。
1個中隊が50名の計算になりますが、将校と鼓手の全て、下士官の一部は隊列の外側に位置したのだと思います。
横列やパイクマンが減っていますが、基本的にマウリッツの大隊隊形を踏襲。
中隊は兵の管理の為の単位であり戦闘時には解体されていた為、中隊が純粋な諸兵科連合とは言えませんが・・・
0621人間七七四年
2014/02/15(土) 23:07:46.19ID:IwxXeTlF0622人間七七四年
2014/02/15(土) 23:35:23.89ID:72cCEDpE0623人間七七四年
2014/02/16(日) 07:59:24.07ID:qLksCDtT0624人間七七四年
2014/02/16(日) 08:03:53.48ID:dCcimD2hそこまで違いが生まれなかったこと
まぁ大きく欧州の軍事が発展する17世紀に、逆に日本は戦争が収束してしまったけど
もしあのまま戦争続けてたら、森林山岳地帯の日本でどんな戦術や軍制になってたかなぁ
欧州は銃兵の戦列でならんで撃ち合う狂気の戦術が発展したけど、日本の地形からいってそれはあまり合わないだろうし
0625人間七七四年
2014/02/16(日) 09:06:34.85ID:qLksCDtT足軽はより散兵化し擲弾兵も登場、砲兵は山砲がメイン
そんな所かと
0626人間七七四年
2014/02/16(日) 12:07:37.90ID:kIIs6djl0627人間七七四年
2014/02/16(日) 12:20:41.91ID:0ZvCAPxc日本では最もキツイのは信濃のアルプス地帯だが
ヨーロッパのピレネー山脈やアルプス山脈ウラル山脈バルカン山脈ロタール山地などの基地外天嶮は日本の物とは全く比較にならないレベルだし
0628人間七七四年
2014/02/16(日) 12:22:52.59ID:dnhKGlv8同じ国力があれば、同じような兵力を動員できる。
毛利輝元だろうが秀頼だろうが上杉憲政だろうが徳川秀忠だろうが秀次だろうが
大内義興だろうが同じ。
0629人間七七四年
2014/02/16(日) 12:29:01.77ID:0ZvCAPxc今川氏真だろうが毛利アホ元だろうが石田三成だろうが
毛利輝元だろうが豊臣秀頼だろうが徳川秀忠だろうが一緒
指揮官の能力を超えた大軍とか意味不明
指揮官の能力があろうがなかろうが大軍の統率とは関係ない
無能な指揮官なら寡兵だろうが大軍だろうがうまく統率できないし
有能なら寡兵だろうが大軍だろうが統率する
指揮官の指揮能力不足で軍の数が多過ぎて統率が取れず負けた例なんてない
大軍のために統率がとれなかったのではなく純粋に指揮官の戦術能力や采配能力によるものでしょ
0630人間七七四年
2014/02/16(日) 12:29:41.32ID:dnhKGlv8物資兵糧調達や兵站の面・戦後の恩賞の面・行軍のスピード・機敏性など圧倒的に寡兵のがローコストでメリットも大きいんだし
それにもかかわらず毎回寡兵の敵に向けて大軍でたくさん物資や人件費かけてはるばる遠くまで出撃してるのはそれだけメリットが大きいんだろ
所詮大軍の指揮がどうとか妄言やいいわけにすぎん。
0631人間七七四年
2014/02/16(日) 12:31:03.81ID:Yfy9opjo信長でも家康でも信玄でも敵が大軍であればあるほど、味方は寡兵であればあるほど苦戦や敗戦は増えてる
戦争なんて物量や兵力が圧倒的にものをいい、兵力の2乗は実際の戦力になる。
寡兵側が勝つには特別な戦術で敵を自陣深く釣り込んだり油断ついて奇襲したり地形をうまく使って包囲殲滅したり
偶発的条件、幸運などに恵まれない限り無理。普通にガチンコでやりあえば山地だろうが渓谷だろうが平野だろうが100%大軍が勝つに決まってる
純粋に相手も大軍だったか寝返り・日和見(指揮能力以外の要因に起因する)が主要因だったか
「兵の数と関係なく」指揮官の指揮・采配・戦術・戦略面に問題があっただけじゃんって言ってるだけなんだが。
(関が原の戦いが6000対7000の戦いだろうが、史実のように裏切り・日和見があれば間違いなく負けてた)
0632人間七七四年
2014/02/16(日) 12:31:55.55ID:dnhKGlv820対10で戦った場合10人の方は結束したとしても20人分の攻撃を10人でうけなきゃいけないけど
20人の方は10人分の攻撃を20人で分散できるから一人のダメージ比は4対1だし
寡兵側が勝ってるのは相手の油断をついて奇襲・敵を自陣深くうまく釣り込んで殲滅・ポエニ戦争みたいに敵の左右の陣を突破して
包囲殲滅など優れた戦術や敵の油断をつくなど、かなりの指揮采配能力の差や、偶発的事故などが続くなりしないと無理。
普通に正面衝突すりゃ大軍側が100%勝つに決まってる
0634人間七七四年
2014/02/16(日) 12:45:49.48ID:dnhKGlv8日本の戦国期よりもはるか昔のポエニ戦争の時代ですら何十万もの大軍が
日本のそれより遥かにキツイガチンコ天嶮をまともに乗り越えて戦争とかやってるし
日本のショボイ天嶮なんて、アトラクションの息抜き程度でしかないだろ
0635人間七七四年
2014/02/16(日) 12:47:44.31ID:Er5c9uPu織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
どうみても武田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
0636人間七七四年
2014/02/16(日) 12:50:36.03ID:+dAhUbAD0637人間七七四年
2014/02/16(日) 13:01:58.36ID:v9gVhPmK北斗の拳に出てくるモヒカンの縄張り争い程度の、室町〜江戸の空白時代の内ゲバと国家間の戦争を同列にしちゃいけない
0639人間七七四年
2014/02/16(日) 13:34:09.45ID:+dAhUbAD0640人間七七四年
2014/02/16(日) 14:37:34.90ID:DmF0+SFmそんなところで大軍の戦いなんてしてない。
イタリア北部のガリア人とスペインのアルモバガルが少数でいたくらい
ローマに大移動してきた各部族の戦域ですら山岳は少なく、中世以降はハプスブルク勢力を筆頭に通ることすら極力避けてる
ウェールズやスイスの山岳地帯は可能な限り戦役を拡大させない方針でいってる
というか普通に考えてそういう天然の要害でわざわざ軍を展開したがるような将は欧州では少なかった
避けれられるなら当然避けただけ、日本は国土の大半が山や森で避けられなかった
ちなみにアルプス越えしたのはハンニバル以前には一人もおらず
その後近世になってスヴォーロフがこえるまでほぼ誰も軍を率いていっていない
0641人間七七四年
2014/02/16(日) 14:46:02.66ID:DmF0+SFmアルモガバル ○
アルモガバルの軽装山岳兵は優秀で、遠くビザンチンまで派遣されて、雇い主に裏切られて殺されかけたところ
返り討ちにして王国作ったり、重装歩兵や重装騎士ぶっとばしたりしてる
山岳地帯で隊列が細くなりやすいことや、重装備の兵は動きが鈍くふところまで飛びこめば弱いことから包丁みたいな太い短剣を装備して殺しまくった
足場がしっかりしていない地域での騎馬の弱点を知っていたようで、湿地帯に騎士をおびきよせたりして倒した
0642人間七七四年
2014/02/16(日) 15:56:47.01ID:p2THHmWy日本の会戦でも、山岳部での戦闘なんてごく一部で大半は平野部で行われてるよ。
特に大軍同士の衝突だとまず山岳部なんて使われない。
0643人間七七四年
2014/02/16(日) 16:07:39.01ID:eqHcQp7J大軍で戦争しまくったんだが。
ポエニ戦争のときでいうとローマからスペインに派遣されたローマ型将官もかなり遠征してるぞ
0644人間七七四年
2014/02/16(日) 16:14:51.88ID:Yfy9opjo信濃のアルプス地帯でも信忠らが侵攻してるし
山陰山陽道だって毛利や大内などが何回か大軍で通ってるし
単に生産力が低いか相手が手ごわくて後回しにされただけ
0645人間七七四年
2014/02/16(日) 16:18:44.38ID:dnhKGlv8自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
0646人間七七四年
2014/02/16(日) 16:23:42.35ID:Yfy9opjo日本の戦国期よりもはるか昔でも、古代ローマのコルネリウス兄弟は当たり前のように
ローマからアルプス山脈やピレネー山脈越えて楽勝でスペインに行って戦ったりしてるからな。
ハンニバルじゃなくても誰くらいそのくらい余裕だったって事だろ。
それよりも遥かに近距離でのショボイ戦同士の戦いだった日本の戦争を天嶮だの山岳戦だのいうのはおかしい。
現に武田の織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて少ない兵力にもかかわらず侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
0647人間七七四年
2014/02/16(日) 16:28:04.18ID:dnhKGlv8上杉も遠征のたびに上野下野などの山城落としまくってたからな
武田なんて山間部のキツイ山城一日に16も落とすほどだったし
0648人間七七四年
2014/02/16(日) 16:36:52.22ID:Er5c9uPu0649人間七七四年
2014/02/16(日) 16:43:10.12ID:DmF0+SFmすいませんわかりにくかったですね
>日本は国土の大半が山や森で避けられなかった
ってのは大軍同士がゆっくり対峙してやる会戦じゃなくて、
日本はそもそも山岳を通らない迂回が難しく、そのため戦闘が山岳地帯もしくはその裾野で起きるのはおかしくなかったってことです
進軍中に山城と拠点から出撃してくる兵に邪魔されるリスクがあり、小競り合いを含め、奇襲に使えた
そういった戦闘が避けにくかったのが山岳国家の特色で、日本と欧州の大きな違いじゃないかなと思うんですよ
スイスやウェールズ除けば、欧州は山岳からちょっと離れれば平野だし、わざわざ裾野通って敵と接触するリスク犯す必要もなかった
例えばバイキングがそれで城などの拠点防衛を無視して長期間にわたって縦横無尽に荒らし続けたとか
0650人間七七四年
2014/02/16(日) 16:49:41.12ID:DmF0+SFm恐らくアルプスの東西の道を通ったのを、アルプス越えしたのだと勘違いしているのだと思われます
その地点を拠点防衛するのが常道だったからこそ、アルプス越えが奇襲効果として大きく欧州戦史に刻まれてるんです
詳しくはスヴォーロフのアルプス越えについて調べればよいかと
0651人間七七四年
2014/02/16(日) 17:07:52.15ID:3oS3RPiA日本の戦国期の合戦にみても
>進軍中に山城と拠点から出撃してくる兵に邪魔されるリスクがあり、小競り合いを含め、奇襲に使えた
それをやってる戦争ってほとんどないよ。
特に大規模会戦となるとほとんどが平野部で、山城とか出撃兵とか余り関係ない。
つか、攻められるべきポイントはたとえ山城でも出撃兵がいようとも普通に出撃して攻めたりしてるし。
信玄や謙信の戦争なんてそれこそ山間部の比重がかなり大きかったし
北条も毛利も山間部を大軍で攻めたり普通にしてる。それで小規模兵の奇襲とか邪魔が入った例とか
侵攻を阻まれた例ってあまり思いつかないんだけど、何かあったっけ?
つか、ポエニ戦役の時でも
山や川など地形を使って敵を殲滅してる戦術がなくもないわけで
日本もヨーロッパも本質的にはかわりないよ。
ただ日本の場合は城や砦など小規模城郭の取り合いという特質があったから
小競り合いが生まれる機会は多かったかもしれないけど。
0653人間七七四年
2014/02/16(日) 17:37:02.92ID:4nqNHhrl嘘もごり押せば真実になると勘違いしてる嘘吐き荒らし
0654人間七七四年
2014/02/16(日) 18:35:31.33ID:DmF0+SFm0657人間七七四年
2014/02/16(日) 19:13:19.09ID:4TeMn+13>日本みたいなショボイ雑魚天嶮と違って
>日本の戦国期よりもはるか昔でも、古代ローマのコルネリウス兄弟は当たり前のように
>ローマからアルプス山脈やピレネー山脈越えて楽勝でスペインに行って戦ったりしてるからな。
運確かにそうだね。コルネリウス兄弟はローマからはるか天嶮のアルプスピレネーを越えて
スペインまで行って長期間戦争やってる。
ちなみにハンニバル側も弟が来たりして、ピレネーやアルプスを越えて侵攻してきたりしてる。
>ハンニバルじゃなくても誰くらいそのくらい余裕だったって事だろ。
確かにやってる奴は多いよね。
ナポレオンもバルカン山脈超えてバルカン半島に攻め入ったりしてるし。
>それよりも遥かに近距離でのショボイ戦同士の戦いだった日本の戦争を天嶮だの山岳戦だのいうのはおかしい。
確かに乱暴な言い方だけど、大筋では間違ってないね。日本の山脈とかて天嶮なんてヨーロッパのそれとは比較にならないし
中国などと比べても低い山々ばかりで最も険しい山城が並ぶ信濃や上野ですら武田上杉北条などが馬鹿みたいに楽勝で落としてるよね。
堅城とかデッチあげられてる岐阜城なんて6回もあっさり落ちてるし。
>現に武田の織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて少ない兵力にもかかわらず侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
>大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
確かにそうだね。これと言って間違ってない
>長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
>ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
>山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
>まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
>以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
長篠の戦いの経過だけやや疑問符がつくが、まぁ長篠日記を参照するなら正しいといえるね。
0658人間七七四年
2014/02/16(日) 19:17:34.73ID:eqHcQp7J行われてる例なんて数えるほどしかないし
ヨーロッパや中国でも逆に山の麓を通ったりする例はバンバンある
日本の場合はショボイ陣城や砦の取り合いが多くて小競り合いが多いように見えただけ。
0659人間七七四年
2014/02/16(日) 19:18:40.74ID:bdaa352PIDはすでに消滅してますからwww
0660人間七七四年
2014/02/16(日) 19:54:00.08ID:+dAhUbAD0661人間七七四年
2014/02/16(日) 20:20:55.39ID:p2THHmWy0662人間七七四年
2014/02/16(日) 21:33:14.65ID:9iyML+EjID:dnhKGlv8 が荒らしているスレ
参照:http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/ZG5oS0dsdjg.html
【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら…
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その17
関ヶ原、西軍勝利 その2
ID:Yfy9opjo が荒らしているスレ
参照:http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/WWZ5OW9wam8.html
【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら…
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その17
関ヶ原、西軍勝利 その2
ID:Er5c9uPu が荒らしているスレ
参照:http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/RXI1Yzl1UHU.html
【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その17
関ヶ原、西軍勝利 その2
【治部】石田三成総合スレ 11【佐吉】
ID:p2THHmWy が荒らしているスレ
参照:http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/cDJUSEhtV3k.html
【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら…
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その17
【治部】石田三成総合スレ 11【佐吉】
ID:eqHcQp7J が荒らしているスレ
参照:http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/ZXFIY1FwN0o.html
【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら…
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その17
関ヶ原、西軍勝利 その2
※一言一句同じ文章を書いてしまうミスを犯す馬鹿なところ
>>635 ID:Er5c9uPu
>>646 ID:Yfy9opjo
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
見てのとおり自演IDを丸一日駆使して嘘をでっち上げていることが分かる
0663人間七七四年
2014/02/16(日) 21:39:05.61ID:+dAhUbAD0664人間七七四年
2014/02/16(日) 22:31:23.07ID:ApPBOZ9Aそれだけ引用されるって事はそれだけその意見に賛同する人間が多いって事だろうが
何言ってんだお前
0665人間七七四年
2014/02/16(日) 22:38:26.24ID:p7jyumUOhttp://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/RG1GMCtTRm0.html
http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/djlnVmhQbUs.html
http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/UXVobXgxeDY.html
http://hissi.org/read.php/sengoku/20140216/cUxrc0NEdFQ.html
0667人間七七四年
2014/02/16(日) 22:49:26.62ID:bdaa352Pまたお得意の自演単発IDをぶっ込んできたか
その戦法が本当に好きだね
0668人間七七四年
2014/02/16(日) 22:57:05.64ID:p2THHmWy0669人間七七四年
2014/02/16(日) 23:03:46.25ID:bdaa352P自演単発ID戦法がバレるやいなや通常自演に切り替えかwww
単細胞で分かりや過ぎ
0670人間七七四年
2014/02/16(日) 23:22:26.72ID:YULNgTb/お前は本当に馬鹿だな
辛い現実から逃げてないで、
多人数に叩かれてる現実をちゃんと直視しろ
ネットの外でも中でもちゃんと現実を見るのが大切だ。
0671人間七七四年
2014/02/16(日) 23:59:52.29ID:bdaa352Pつ鏡
0672人間七七四年
2014/02/17(月) 06:36:50.34ID:xdQiGt+B2chで他人のレスを丸丸コピペして拡散するなんて
ともすれば煽り行為になりかねない本来大変失礼な行為だから
もし本当に他人がそれをやっているんなら
完全にバカにされてることになるけどな
賛同する場合はレスアンカをつけて意見した当人を尊重する
0673人間七七四年
2014/02/17(月) 15:39:29.95ID:qDi5MUk7闘戦経の謙信
どうしても中国的な騙しより日本文化的な謙信の方が好きだな。
0674人間七七四年
2014/02/17(月) 19:03:06.26ID:ormiEvh5嘘吐き荒らしはこのスレに来るな
0675人間七七四年
2014/02/18(火) 01:37:39.84ID:IFBgFkST0676人間七七四年
2014/02/18(火) 01:39:44.82ID:99/zexUe0677人間七七四年
2014/02/18(火) 01:42:26.95ID:qfl+opCP戦国板の大半は織田厨の妄想で埋め尽くされてる。
0678人間七七四年
2014/02/18(火) 08:12:43.49ID:aMdjuBrlアスペルガーだがの深夜5分間の自演単発ID戦略爆撃
0679人間七七四年
2014/02/18(火) 20:34:37.90ID:SNyQTVm3しかも最後の自画自賛レスは恥ずかしさ爆死もんだな
0680人間七七四年
2014/02/18(火) 21:27:45.82ID:DHnhaxQi自分が皆から嫌われてる事にいい加減気付け。
0681人間七七四年
2014/02/18(火) 21:31:04.73ID:o7+ALE0c素人は黙ってろカス
0682人間七七四年
2014/02/18(火) 21:46:01.05ID:o0YQ64bt0686人間七七四年
2014/02/18(火) 22:06:32.37ID:53P7f5EJ0688人間七七四年
2014/02/18(火) 22:36:57.92ID:u7iXy3iKグッジョブ
単発IDの短時間爆撃は明らかに不自然
662氏が検証してくれたIDも荒らしてるスレに偏りがあり不自然
このスレの住人は自分の誇りを懸けてレスしている
スレ住人なら誰もがわかっているのでこの違和感もみんな気がついてる
0689人間七七四年
2014/02/18(火) 22:43:57.03ID:u7iXy3iK0690人間七七四年
2014/02/18(火) 23:59:27.83ID:o7+ALE0c0691人間七七四年
2014/02/19(水) 00:52:52.63ID:oY8N2KVaなんか鎌倉時代のわりと正々堂々とやりあうイメージひきずってしまうんだが
0692人間七七四年
2014/02/19(水) 01:31:25.29ID:SBEvhAY1自演がバレバレだな
0693人間七七四年
2014/02/19(水) 01:32:17.97ID:lBjTBWH60694人間七七四年
2014/02/19(水) 01:33:03.75ID:tNVy7QCZ0695人間七七四年
2014/02/19(水) 10:05:46.16ID:PxbGZqxFアスペルガーだがの深夜2分間の自演単発ID戦略爆撃
0696人間七七四年
2014/03/02(日) 00:40:33.79ID:0JtBIPBQhttp://img839.imageshack.us/img839/1006/kawanakajima.jpg
0697人間七七四年
2014/03/02(日) 13:11:41.08ID:f25XZ1ww弓だけなら武術だ
0698人間七七四年
2014/03/02(日) 15:39:20.81ID:1aVuoJHA0699人間七七四年
2014/03/02(日) 20:11:39.75ID:mwJi32Jbいくら人数を集めても同じ武器ばかりでは戦術とは言えないよ
戦術とは何かを今一度見直すのが吉かと
0700人間七七四年
2014/03/02(日) 20:21:57.78ID:Ma/cuctY0701人間七七四年
2014/03/02(日) 21:06:30.90ID:MLdGUgPwどの様な本で提唱されている説なのでしょうか?
0703人間七七四年
2014/03/02(日) 22:17:44.43ID:mwJi32Jb鑓隊抜きで野戦できると思っているの?
0704人間七七四年
2014/03/02(日) 22:42:12.20ID:8JxE+bSA槍を使わず弓だけの部隊による合戦が無ければそんなの机上の空論じゃね?
0706人間七七四年
2014/03/02(日) 22:57:14.24ID:8JxE+bSAそんなに自信があるなら弓だけの部隊でやった合戦を挙げてごらん
それができないなら君は戦術を理解してないことだということ
0707人間七七四年
2014/03/02(日) 22:58:51.16ID:8JxE+bSA0708人間七七四年
2014/03/02(日) 23:06:30.60ID:NI2WhslN0709人間七七四年
2014/03/02(日) 23:10:26.91ID:mwJi32Jb単発IDばかりだったとは今まで気がつかなかったよ
アスペルガーだがに餌を与えてしまってすまん
0710人間七七四年
2014/03/02(日) 23:19:06.49ID:FVR5GcMOこのスレまだ粘着されてるんだな
0711人間七七四年
2014/03/03(月) 23:58:00.25ID:1h3Z5uU3一般名無しならだが認定されたら必死に否定し事情を説明して許しを乞う
実際だが認定され必死に事情を説明している人を何人も見たことがる
しかしだがは自分を否定したら敗北を認めることになるので絶対に否定しない
そして昨日の自演単発IDは今も否定することは無い
間違いなくこの自演単発IDはだがだな
0712人間七七四年
2014/03/08(土) 09:19:53.31ID:3Z8a5RPz誰一人として一次史料の根拠を示さず、妄想で書いてるだけ。
アホ2人の自演による口論でくだらない。
0713人間七七四年
2014/03/08(土) 10:03:53.40ID:La6ZyuQ6俺の意見の根拠である史料の妄想解釈を使わない奴は妄想
俺以外の人間は存在する価値がないからこのスレは無意味
by菅沼遼太
0714人間七七四年
2014/03/09(日) 10:36:49.31ID:2ow0lptAおまえのほうが馬鹿の妄想ちんこ野郎だとわかった
まず一次資料とか戦術や戦略を語るうえで法源のごとく
尊重してるスタンスがあやまり
0715人間七七四年
2014/03/09(日) 11:14:00.40ID:wytGjuo6最重要するのは当たり前でしょ。
0716人間七七四年
2014/03/09(日) 12:38:00.72ID:CGEGZB1Zよく分からない先入観と印象が飛び交ってるだけ
0717人間七七四年
2014/03/14(金) 12:16:20.93ID:52e3yFqi0718人間七七四年
2014/03/14(金) 13:48:39.34ID:9D/eaQgf0719人間七七四年
2014/03/14(金) 16:32:43.51ID:60GYzFV4頑迷な保守派みたいなのがいたのかね
0721人間七七四年
2014/05/15(木) 09:53:30.84ID:3DkOdQ2I欧州の山越えなんざほとんどねぇよ
ショボくて雑魚はてめぇだろ濺民以下の
最底辺野郎死ねカス
0723人間七七四年
2014/09/13(土) 22:10:50.18ID:vg0c3NFzまさに薩摩そのものだな
バカサヨは
0724人間七七四年
2014/10/05(日) 19:46:26.93ID:fLTRStc8100騎とか150騎とか、「騎」で表現されてるよね
つまり土地と武将が分離されてて、
「武田家の代官が兵を募って、それを武将に預ける」っていうことだとしたら、
相当近代的だったと思うんだが、ちょっとありえないとも思うんだよな
山県昌景なんかも、「江尻城代」なんて表現されてるけど実際は一帯の地域の大名だったんじゃないのか?
どう思う?
0725人間七七四年
2014/10/05(日) 20:26:35.45ID:G/zBQCh8指揮下に入れた場合があるので、そういうのを指しているかと
0727人間七七四年
2014/11/16(日) 01:41:19.05ID:AtOpGNJ2旗指し物なんかも、「京より東はこうやって軍隊作ってるんです」って秀吉が毛利家に教えてやっとできた、
って本山一城が書いてたけどほんとかね?
0728人間七七四年
2014/11/16(日) 10:29:48.82ID:mk/M2VlJ軍事技術の最先端の鉄砲は種子島から広まったはずだけど…
それに毛利には足利義昭が逃げ込んだんだから少なくとも
信長存命中の中央の軍事レベルは毛利に伝わってるでしょ
0729人間七七四年
2014/11/16(日) 12:12:40.05ID:BdnnzEo4特に大名権力が低い毛利は強制的に部下に精度を押し付けることが出来なかったから軍事改革が遅れたんだよね。
他にも毛利は中国の流儀とやらは兵を集めるのが遅いと秀吉に苦言されていたり
鍋島も軍隊の体をなしてないと秀吉に軍事顧問を送られて改革させられている。
0730人間七七四年
2014/11/16(日) 12:54:22.06ID:6dEOgkbo文化的なものの流行りに乗ったものだと思うんだけど
0731人間七七四年
2014/11/16(日) 16:45:06.22ID:iBSEoz1l撓いにするようにと酒井忠次から指示を貰っているね
0732人間七七四年
2014/11/19(水) 03:24:53.11ID:XMCXsCSS軍事レベルが高いのは、いや、急速にレベルアップしたのは濃尾と近江、畿内、紀伊だろうな。
0733人間七七四年
2014/11/19(水) 03:31:09.17ID:S5lvlA9v違う。戦国期はそれぞれの土地に対応した戦術があるものの、戦い方や装備に大きな違いはない。
異なる点は物資の面のみといっていい
0734人間七七四年
2014/11/19(水) 19:51:50.45ID:eyWz48oa0736人間七七四年
2014/11/21(金) 03:50:48.01ID:6MjMoKHlあんなもん持ってたら戦いの足しにならんだろと思うんだが、
相手を威圧する、孔雀の羽みたいな効果でもあったのかな
0738人間七七四年
2014/11/21(金) 07:40:50.06ID:qZVM64pR敵味方の区別や位置確認に旗は必須
ただし安土桃山時代から旗の数は減っている
これは鉄砲の数と比例して増加して硝煙で旗の視認が
難しくなったためと考えられる
0739人間七七四年
2014/11/21(金) 11:58:17.29ID:jRwsxZfR通信機が無い時代は旗に頼りきりで非常に重要なものだし
視認性が変動の原因なら逆に増やすだろ
0740人間七七四年
2014/11/22(土) 10:30:04.23ID:xolWmJESそれとも旗指物のこと?
0741人間七七四年
2014/11/22(土) 10:40:38.43ID:6dGrunnY0742人間七七四年
2014/11/22(土) 11:05:27.10ID:8DmckVP60743人間七七四年
2014/11/24(月) 16:48:17.07ID:GhhYnrvN泡沫候補の選挙カーの前では、仕込み部隊が、雨の日は一人二本ずつ傘を持つらしい
泡沫候補も、「雨なのにこんなに来てくれて」見たいに力が入って、比例代表に貢献出来るかららしいよ
0744人間七七四年
2014/11/24(月) 17:07:27.03ID:1TonuRJ4>泡沫候補の選挙カーの前では、仕込み部隊が、雨の日は一人二本ずつ傘を持つらしい
なるほどこれすごい分かりやすいわ。旗の重要性を現代に置き換えて完全に説明してるw
0745人間七七四年
2015/01/01(木) 19:05:05.97ID:7VkPPcN6日本や中国の軍記物によく出てくるね
旗を多く持たせて大軍に見せかけるという線術
0746人間七七四年
2015/01/02(金) 00:31:40.91ID:rFxea8900747人間七七四年
2015/01/02(金) 20:09:41.30ID:S1d91A350748人間七七四年
2015/01/03(土) 04:34:26.09ID:2f7IM/Nw0749人間七七四年
2015/01/03(土) 08:25:59.77ID:/q1YKBvE軍学書もあるね
0750人間七七四年
2015/01/03(土) 10:40:56.91ID:XtuB80Dyそのうちの一つに車引がある
6方向に備を分けて、楕円状に配置して、6つのうち1つの備が敵に当たり、回転させながら退く
遅滞戦術
攻めに使う場合は敵の情報が無いときにこの陣形で攻めてみるというもので、これを車懸という
つまりは円陣であり、退く場合は車引、攻める場合は車懸と呼び名が変わる
なので、車懸かりは視界の効かない霧の中を全方位を警戒して行軍しただけ
武田の軍勢を先に発見したからその方角に攻めかかって、そのまま善光寺平へ抜けた事になる
陣を回転させて次々と〜ってのは運動量が激しいくせに敵に当たる数が少なすぎて無駄でしかない
0751人間七七四年
2015/01/03(土) 12:57:41.97ID:mLMtRA7c捏造で済ます方がそこが浅い
0752人間七七四年
2015/01/03(土) 16:58:56.88ID:BZIIhlcE足軽の機動力では無理ってことではなかった?
0753人間七七四年
2015/01/04(日) 09:13:34.88ID:MXYTeVwv0754人間七七四年
2015/01/04(日) 14:23:42.81ID:TMxfTGoJ0755人間七七四年
2015/01/04(日) 15:33:12.86ID:zTdtTqfJそれを察知した謙信は、信玄本隊を背後から襲うべく、妻女山を降りて善光寺方面に潜もうと移動するのが妥当
しかし軍鑑だと、その動きを知らせる物見の報告「謙信は越後(善光寺方面)に退却しつつあり!」に
信玄「たわけ!それは車懸かりの陣じゃ!」とかアホな事言わせてる
0756人間七七四年
2015/01/05(月) 04:41:15.95ID:3khqtZUa0757人間七七四年
2015/01/05(月) 04:42:59.80ID:5JF8W35y0758人間七七四年
2015/01/05(月) 06:09:46.12ID:3khqtZUa0759人間七七四年
2015/01/05(月) 10:15:02.94ID:Dd7BiFBo山本勘助は足軽大将でああり、戦国期の合戦の作戦立案は侍大将と足軽大将の合議で決定されるものだから、
勘助は作戦を立案する立場にあったと見ていい
0760人間七七四年
2015/01/06(火) 12:27:03.70ID:pR9OrI+N戦術家として有名になってしまった
0761人間七七四年
2015/01/06(火) 20:57:47.03ID:2/qzdKyP(代表例はもちろん官渡)が
日本の戦国には城攻め以外ではそういう相手の兵糧を狙うのが無いような気がする。
何故だろう?
0762人間七七四年
2015/01/06(火) 21:12:14.23ID:CD4QZE7F0763人間七七四年
2015/01/06(火) 21:22:59.24ID:AVLaRlpY単独だと目立たないだけ
0764人間七七四年
2015/01/06(火) 21:36:42.48ID:2/qzdKyP民家等に火をつけるってのはよく出てくるけど、
相手の兵糧をピンポイントで狙った戦術って出てきたっけ?
三国志での戦いは3分の一数近くが相手の兵糧を狙う戦いと言っても過言でない印象だけど
0765人間七七四年
2015/01/06(火) 21:40:53.39ID:qctIoaCn上杉方は兵糧が欠乏して難渋したっていう記述があるらしい
「北条記」からそんな事例をいくつか引いて、
「小荷駄は狙い撃ちされることが多かった」って、盛本昌広は書いてるけどソースは分厚いとは言えないわな
0766人間七七四年
2015/01/06(火) 22:16:44.59ID:2/qzdKyPああ、あることはあるんだね
貴重な情報サンクス
0767人間七七四年
2015/01/07(水) 07:06:00.24ID:A7u9U8fn0768人間七七四年
2015/01/07(水) 08:27:50.03ID:zg1kdhZ10769人間七七四年
2015/01/07(水) 08:39:51.62ID:A7u9U8fnありがとう
0770人間七七四年
2015/01/07(水) 15:00:54.43ID:az1kvwcK0771人間七七四年
2015/01/07(水) 16:02:05.13ID:d5vTR+VSあったとしても大坂の一戦だけで廃れた程度の戦法となる
0772人間七七四年
2015/01/07(水) 16:35:24.53ID:136cMU0L0773人間七七四年
2015/01/07(水) 17:12:56.37ID:hqSwTat20774人間七七四年
2015/01/07(水) 17:38:11.69ID:d5vTR+VSカラコールが出来るくらいに組織的に馬上筒が配備された部隊の記録は今のところ無い
0775人間七七四年
2015/01/07(水) 21:44:56.78ID:icB5q+k5島津では身分の高い武将も鉄砲を使う練習をしていたという話じゃなかったっけ?
0776人間七七四年
2015/01/08(木) 07:25:30.31ID:mYlSCMgd真田信繁に破られたからな
0777人間七七四年
2015/01/09(金) 13:56:34.01ID:kK8S2/Jg鉄砲は初期の高価で希少なころは専業軍人(武士)が銃兵として当てられてたし
北条や武田も武士なら鉄砲の鍛錬怠るなと軍令出してたし
時代が下っても江戸幕府の将軍ですら必修武芸だった一貫して武士の武器だよ
島津に関してはイメージと違って鉄砲装備率の低い家だったけど
どうにか装備率を上げるために武士に鉄砲装備を義務付けてただけ
熊本藩をはじめそういう家はいくつかあったけど。普通の武士は言われなくても鉄砲装備している
0778人間七七四年
2015/01/09(金) 17:00:52.07ID:K25Vzfrf織豊軍では足軽の武器だろ
あんなもの白兵突撃する武士が持っていたら無駄な気がするな
もちろん指揮官として使えて理解しておく必要はあるだろうが
0779人間七七四年
2015/01/09(金) 17:07:47.85ID:kK8S2/Jg0781人間七七四年
2015/01/09(金) 17:32:33.90ID:kK8S2/Jg0782人間七七四年
2015/01/09(金) 17:37:20.73ID:61mG0maT該当箇所を抜き出してくれない?
0783人間七七四年
2015/01/09(金) 17:49:41.08ID:dUS3UDFI禁裏御守衛総督時代の慶喜公の写真でも、背後に写っているのは刀、騎兵銃(後装のシャープス・カービン?)、弾薬盒でしたね
火縄銃じゃ無いのが慶喜らしいけれど、ミニエーの輸入単価が18ドルなのに対して、 40ドルもした高級品
0784人間七七四年
2015/01/10(土) 10:49:08.21ID:AGcNAfBJ弓を扱うこと
刀剣を扱うこと
火縄銃を打つこと
たぶん全部武士の必修科目な気がする
しかし火縄銃普及後でも武士が手柄をたてるにはに火縄銃に優れるより
鑓働きや馬の扱いのが大事だと思う
さらに馬が最もコストがかかると思う
0785人間七七四年
2015/01/12(月) 07:30:09.32ID:5igoDUhU実際に戦で自分で撃ってたのは初耳だな
0786人間七七四年
2015/01/12(月) 08:51:42.85ID:ay0PY0dCこういうのが軍隊を指揮すると最悪な結果になる。
三国志演義を読みインテリを気取り生兵法で叩きあげの経験者を論破するアホ
0788人間七七四年
2015/01/12(月) 11:50:57.59ID:QlY9m5oJ一次史料が無ければダメとか固い事言わなくてもいいんじゃ?
0789人間七七四年
2015/01/12(月) 13:33:51.76ID:0q2+C+exそりゃあ、お前の事だろw
自衛隊の体験入隊すら体験しないでインテリ気取り生兵法w
一次史料が出てても負けると見ないふりして逃げる詐欺師光秀
0790人間七七四年
2015/01/12(月) 14:02:49.26ID:M1+ob4wQ0791人間七七四年
2015/01/12(月) 16:38:26.78ID:Vstb5C6o0792人間七七四年
2015/01/13(火) 08:28:35.95ID:Uy0jOuDq0793人間七七四年
2015/01/13(火) 12:51:06.09ID:hTR4EvNN0794人間七七四年
2015/01/13(火) 13:25:48.76ID:ynBvmZg3武器の質量の統一と兵種ごとに再編成される兵制改革が必要。
よって陣形を組むのは武田や北条は可能でも織田には不可能。
織田は各自の才覚による個別判断で勝手に動き、
デタラメなバラバラ編成のまま各々の武辺道で戦うだけの後進的軍隊
0795人間七七四年
2015/01/13(火) 13:29:09.60ID:2aBHRN9i0796人間七七四年
2015/01/13(火) 14:36:34.70ID:QnBHyRdV0797人間七七四年
2015/01/13(火) 14:49:59.42ID:jKnsP9kH戦が起こるたびにそのへんから寡兵してきたのでは練度が足りなさすぎるように思います
同時代のヨーロッパの軍隊のように一部を常備軍化してたりしたんですか?
0799人間七七四年
2015/01/13(火) 14:58:25.67ID:jKnsP9kHありがとうございます
やっぱり訓練はちゃんとやってたんですね
ネットとかだと長柄足軽=『その辺の田んぼから引っ張ってきた素人』みたいな
扱いされてたりするのでずっと疑問でした
訓練の対象や規模が気になるんで本を読んでみます
0800人間七七四年
2015/01/13(火) 15:47:45.66ID:LTvTGpLW0801人間七七四年
2015/01/15(木) 05:34:33.72ID:v0RUAVeP0802人間七七四年
2015/01/15(木) 06:15:14.09ID:AkfdMddc日本の救援軍は同時に海上機動もしているし、補給不全で飢えて凍えていた明鮮軍は壊滅するしかなかった。
0803人間七七四年
2015/01/15(木) 08:20:11.54ID:eYsJqATq0804人間七七四年
2015/01/15(木) 11:35:55.37ID:R5raIoQQ0805人間七七四年
2015/01/15(木) 15:25:22.24ID:5otiU5BL0806人間七七四年
2015/01/15(木) 15:47:24.68ID:L+YjOFigそんなものは存在しない
0807人間七七四年
2015/01/15(木) 16:07:38.77ID:aYBETUDL0808人間七七四年
2015/01/15(木) 16:12:37.17ID:L+YjOFig政策は存在しない、現象としても起こったのは江戸期、少なくとも徳川家光の時代。
軍役の銭による代納が始まってから
0809人間七七四年
2015/01/15(木) 21:01:15.91ID:GRHrKVHC0810人間七七四年
2015/01/15(木) 21:16:14.09ID:JP8GBxRz0811人間七七四年
2015/01/16(金) 07:01:15.06ID:9YXWa1EY弓矢と投石じゃ時代に差があるだろw
0812人間七七四年
2015/01/16(金) 11:13:13.33ID:SiZZs8zc三戦板の某コテハンの投糞機を思い出してしまったでござるw
0813人間七七四年
2015/01/16(金) 14:10:17.89ID:x9OPrEeE籠城の時とか実際に便所から取ってきた糞尿を煮えたぎらせて
攻めのぼってくる敵兵に浴びせていたんでしょ?
漫画とかだと普通の熱湯になっているけど、籠城の時に超貴重品である水を
そんなことに使うとは考えられない。
0814人間七七四年
2015/01/16(金) 14:19:02.73ID:DkoxuId6兵糧消費して増産すっかw
0815人間七七四年
2015/01/16(金) 14:22:05.09ID:NOwXI6Qd使ったあと洗って粥煮たりすんだろうか
0816人間七七四年
2015/01/16(金) 15:22:00.36ID:x9OPrEeE元々それ専用の大釜があったか、
糞尿を煮た後は流石にそれ専用にするだろw
0817人間七七四年
2015/01/16(金) 16:46:02.88ID:Rw9ozBr0城内の汚物も処理出来る一石二鳥の戦術
0818人間七七四年
2015/01/16(金) 23:13:25.89ID:X3Nnw92hゴリラとかも糞を敵に投げてくるという
0820人間七七四年
2015/01/17(土) 13:05:37.15ID:itTMHgEV0821人間七七四年
2015/01/17(土) 16:07:14.90ID:SQryTn8l『南総里見八犬伝』の子供たちの戦ごっこの場面でも登場する
0822人間七七四年
2015/01/17(土) 21:20:56.84ID:bYb4wP9R陣形でなく兵数の差で負けただけなのにw
0823人間七七四年
2015/01/18(日) 11:36:07.40ID:fQAXrN/u勝ち目が無いだろう
0824人間七七四年
2015/01/18(日) 16:15:40.70ID:ZekWnbd+0825人間七七四年
2015/01/18(日) 16:24:00.55ID:jJ2SPgig死者は14:5000だったそうな
0826人間七七四年
2015/01/18(日) 17:13:04.66ID:ZekWnbd+兵士と民兵だから装備、戦闘能力等に大差があったんじゃないの?
0827人間七七四年
2015/01/18(日) 18:21:07.07ID:jJ2SPgig民兵側18000のうち4000は傭兵だったしもともと城塞を攻囲してた軍なんで装備もそれなりだったと思われる
0830人間七七四年
2015/01/18(日) 20:39:57.68ID:78xXjSGTこれか背後関係不勉強だから兵の質とか戦略的にどうこうとかなんにもいえねーw
0831人間七七四年
2015/01/18(日) 21:10:09.63ID:3zDZFYpeまあ誇張だろうね
0832人間七七四年
2015/01/19(月) 07:10:18.15ID:KoUM/BA7大抵奇襲だね
0833人間七七四年
2015/01/19(月) 07:31:31.69ID:LX2L6gSV0835人間七七四年
2015/01/19(月) 15:14:04.53ID:pGP4lbFU0837人間七七四年
2015/01/19(月) 15:21:08.62ID:pGP4lbFU0838人間七七四年
2015/01/19(月) 18:10:02.47ID:ICjBuCWZそれとも実戦で覚えるものだったのかね
0839人間七七四年
2015/01/19(月) 22:50:42.00ID:BjI8eM4P0840人間七七四年
2015/01/19(月) 23:04:27.12ID:Y++YoyTX0841人間七七四年
2015/01/20(火) 00:10:19.54ID:RqNqgsT10842人間七七四年
2015/01/20(火) 00:45:41.07ID:J1byk/Ft0843人間七七四年
2015/01/20(火) 01:10:50.70ID:RqNqgsT1名前のまんま、侍大将=侍を統括、足軽大将=足軽を統括、だからな。
戦国の軍隊が武士と足軽の二本立てである以上両者の合議で作戦を立案して実行しないと、合戦自体できない。
双方が勝手に戦ったら戦にならんよ。
0844人間七七四年
2015/01/20(火) 01:44:46.57ID:X/XtxoRm0845人間七七四年
2015/01/20(火) 01:53:30.31ID:RqNqgsT10846人間七七四年
2015/01/20(火) 03:32:59.08ID:JMPjyY1wそれだと部隊指揮権を大名が持ってないことになる
そんな馬鹿な話はないだろう
0847人間七七四年
2015/01/20(火) 08:08:58.37ID:DM1zZXbI0848人間七七四年
2015/01/20(火) 08:53:21.31ID:RqNqgsT1>>847
当然、計画立案も大名から諮問があった上でだし、最終的な作戦とその実行の承認も大名自身によって行われる。
すべて大名の主導権の元で、侍大将と足軽大将が参謀的役割を果たしているに過ぎない。
ソースとしては甲陽軍鑑を始めとした、比較的戦国期に近い軍記物だな。
0849人間七七四年
2015/01/20(火) 15:08:11.01ID:SK6ogVk90850人間七七四年
2015/01/20(火) 18:56:57.37ID:JMPjyY1w絶対モメると思うんだよな。血気盛んな奴らが、生死が掛かってる状態で、
「俺はこうしたい」「俺はああしたい」ってならないわけがない
ドラマだと家康あたりが「そなたはどう思う?」って、粛々とした場で色んな家臣の意見を聞いて、
それを取りまとめて号令を出すシーンあるけど、あれを広義で言う「合議」とするんならそうだろうと思うけど
もっと積極的な形で、軍隊らしく上意下達的に、大名の関与は大前提だったと思うんだけど
0851人間七七四年
2015/01/20(火) 19:14:03.70ID:AlFcQARM締切時間までにちゃんと決が出ればいいじゃん
0852人間七七四年
2015/01/20(火) 20:29:35.46ID:bvQTAiC7やはり大将の一存で決まるのではないかと
0854人間七七四年
2015/01/20(火) 20:49:20.68ID:bvQTAiC7そうなのか?
0855人間七七四年
2015/01/20(火) 21:47:18.26ID:JMPjyY1w「近陣に御陣を居えさせられ、懸けまはし御覧じ、諸口の陣取り仰せ付けられ候」
なんなら自分で瀬踏みしてるし、確かフロイスにも「誰にも相談せず自分で決めた」って書かれてるけど、
まぁ、信長は例外だと思う
0856人間七七四年
2015/01/20(火) 21:58:26.71ID:bvQTAiC7信長公記は第一次史料ではないという奴が湧いてくるぞw
0857人間七七四年
2015/01/21(水) 00:39:16.43ID:EMjcB7tN足軽大将=下士官
侍=尉官
侍大将=佐官
一門衆=将官
基本的に侍以上の将校になれるのは信頼のある譜代の家臣
山本勘助は能力は高かったが流れ者だから武田軍の将校にはなれなかった
一方信長は譜代だろうが流れ者だろうが能力のある者はどんどん将校にしていく
そりゃあ人材の質が違うよ
0859人間七七四年
2015/01/21(水) 00:44:11.86ID:+KLC213w0860人間七七四年
2015/01/21(水) 01:23:56.29ID:/4fR8zJo上杉武田は人材抜擢型。
0861人間七七四年
2015/01/21(水) 01:35:49.24ID:+KLC213w似てるというかそうじゃなくては強大な勢力に成れなかったんだろう
0862人間七七四年
2015/01/21(水) 06:10:27.98ID:VfvAiwAI親族でないのを任命することが多かったよ
0863人間七七四年
2015/01/21(水) 06:21:06.24ID:arHxozrM0864人間七七四年
2015/01/21(水) 10:14:23.36ID:k9/Y5PhJ秀吉は秀長や秀次を司令官にしているが
0865人間七七四年
2015/01/21(水) 12:07:49.05ID:vcXAMS9V0866人間七七四年
2015/01/21(水) 21:31:06.81ID:lHtV9Has天賦の才?
0867人間七七四年
2015/01/21(水) 23:16:59.45ID:oZKGJEjC秀吉「兵糧攻めします。ごめんね(´・ω・`)」
鳥取城「兵糧攻め怖いからコメ蓄えておかないといかんな。」
秀吉「コメ買い占めました。ごめんね(´・ω・`)」
高松城「秀吉軍の戦術はもう読めた!兵糧攻めに注意しろ!」
秀吉「水攻めします。ごめんね(´・ω・`)」
0868人間七七四年
2015/01/21(水) 23:26:22.73ID:qxYV22ZY0869人間七七四年
2015/01/21(水) 23:34:29.62ID:lHtV9Hasエジソンみたいなものなのか
0870人間七七四年
2015/01/21(水) 23:39:45.82ID:/4fR8zJo養子を入れたヤツばっかじゃん
0871人間七七四年
2015/01/22(木) 00:19:04.04ID:ZbSQarYn人造の親族じゃん
0873人間七七四年
2015/01/22(木) 01:42:37.14ID:api/WFdU信長は信用したって池上氏も主張してたでしょ。
0874人間七七四年
2015/01/22(木) 01:52:13.44ID:ZbSQarYn秀次といい秀秋といい
0875人間七七四年
2015/01/22(木) 02:01:11.93ID:IzM/Hb0C0876人間七七四年
2015/01/22(木) 09:23:18.73ID:api/WFdUすげーかわいいって言うよな。
戦国の気風冷めやらぬ時期で
自分が死ぬ寸前じゃ不安で仕方ないよな。
0877人間七七四年
2015/01/22(木) 13:32:43.84ID:KP4s4MZ20878人間七七四年
2015/01/22(木) 21:35:25.02ID:82wpLPCL0879人間七七四年
2015/01/23(金) 00:35:20.86ID:wYSknSvC秀吉の戦術って人道的に見えて実はえげつないね
0880人間七七四年
2015/01/23(金) 03:44:56.67ID:3R8xgbHil:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::// ヽ::::::::::::::l
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http://www.youtube.com/watch?v=z2qK2lhk9O0
0881人間七七四年
2015/01/23(金) 04:15:47.74ID:ClzxR1rO信長の兵農分離説を採用してたな
磯田道史って信じていいのか?
0882人間七七四年
2015/01/23(金) 04:20:45.66ID:TqpKgmMl> 磯田道史って信じていいのか?
全く信用してはいけない。アレはただのメディアに出たいだけの人。
0883人間七七四年
2015/01/23(金) 20:11:33.72ID:4Y/f6nxJ0884人間七七四年
2015/01/23(金) 23:06:26.37ID:QftynMXJ単なるパフォーマーかw
0885人間七七四年
2015/01/23(金) 23:15:18.82ID:1X7iV3qK史料を読み解かないでも楽して分かる、そのものずばり書いてある早期の信頼のある史料ってこれだけ
信長革命児説の補強や信長の連戦志向や織田の兵力が多かった説明に便利に使われて定説化
0886人間七七四年
2015/01/24(土) 00:37:35.81ID:hOTRH+ac1次史料じゃないのか
0887人間七七四年
2015/01/24(土) 01:29:44.00ID:6SRcaEX3織田包囲網で朝倉軍は農作業があるから帰って行ったが織田軍はそんなことで帰る描写ないし
兵農分離というか兵と土地の分離だな
0888人間七七四年
2015/01/24(土) 01:46:35.43ID:O/4zunnCそもそも戦国大名は織田に限らずだれでも一年通して季節関係なく戦ってるっつーの。
「農兵は農作業があると帰る」という思い込みこそが幻想。
0889人間七七四年
2015/01/24(土) 03:39:12.65ID:4FPA9v4/基本的な構造
大名┐
├足軽
└侍─足軽
足軽大将 大名の直参足軽を預かる侍
侍大将 大名の直参侍を預かる侍、寄り親と寄り子の関係
江戸時代で言えば奉行だね
0890人間七七四年
2015/01/24(土) 04:17:53.96ID:zjhDyYND軍役の代納と兵農分離がいまいちつながらないんだけどどういうこと?
「自分の土地」を持ってる人間がいるとするでしょ
「軍役の代わりにお金出しますね」ってなるでしょ
で、なんでそこからその人物が土地を手放して扶持米を貰うようになるのかが分からない
0891人間七七四年
2015/01/24(土) 05:26:49.43ID:4FPA9v4/まずは足軽大将
直轄領には足軽はいるが大名との間に侍はいない
規模にもよるが数百、数千人の大名直属の足軽がいるわけよ
これを束ねるのが足軽大将
数十人〜100人程度の足軽を束ねていたみたいね
0892人間七七四年
2015/01/24(土) 11:47:14.11ID:p/dNAyke織田家にしても
0893人間七七四年
2015/01/24(土) 13:53:37.39ID:e1L4BCcv十万石級の大名は備を数個保有
数十万石の大大名はその数個の備を一手としたものを更に複数保有する
備が1つしか編成できない大名
備(大名)─足軽大将─足軽組頭─足軽小頭─足軽
備を複数編成できる大名
本陣備(大名)─足軽大将─足軽組頭─足軽小頭─足軽
│
└───備(侍大将)─足軽組頭─足軽小頭─足軽
組頭の上位に、槍奉行や鉄砲大将等がはいるのかな
0894人間七七四年
2015/01/24(土) 14:05:43.26ID:4FPA9v4/足軽大将衆
一、横田十郎兵衛 騎馬三拾騎 足軽百人
一、原与左衛門 騎馬十騎 足軽五十人
一、市川梅印 騎馬拾騎 足軽五拾人
一、城伊庵 騎馬拾騎 足軽(三)拾人
一、多田治部右衛門 足軽(二)十人
一、遠山右馬ノ介 騎馬十騎 足軽三十人
一、今井九兵衛 足軽十人
一、江間右馬丞 足軽三十人
一、関甚五兵衛 足軽十人
一、小幡又兵衛 騎馬三騎 足軽十人
一、大熊備前守 騎馬三十騎 足軽七十五人
一、三枝新三(十)郎 騎馬三騎 足軽十人
一、長坂長閑 騎馬四十騎 足軽四十五人
一、下曽禰(根) 騎馬廿騎 足軽五十人
一、曽根内匠 騎馬十五騎 足軽三十人
(一、上原民部入道随翁軒 騎馬三騎 足軽三十人)
一、曽根七郎兵衛 足軽七十人
一、武藤喜兵衛 騎馬十五騎 足軽三十人
一、三枝勘解由左衛門 騎馬三拾騎 足軽七十人
一、あんま(三右衛門)(騎馬五騎) 足軽五十人
一、小幡弥左衛門 騎馬十二騎 足軽六十五人
http://rek.jp/?p=1738
ざっと数えると足軽だけで1000人
この足軽大将たちは甲斐だけか?
となると甲斐17万石のうち4万石が信玄の直轄領だったと推定できる
0895人間七七四年
2015/01/24(土) 14:08:21.92ID:qPF6jrEh備(大名)─足軽大将─足軽組頭─足軽小頭─足軽
│
└侍大将ー馬上侍ー徒歩武者{末期は侍部隊専属の鉄砲隊も)
騎馬隊(侍部隊}も書き加えた方が正確じゃね
0896人間七七四年
2015/01/24(土) 16:00:24.15ID:3ldKhqXOあれもフィクションだよね。
大体槍を片手で扱えるわけないんだから
馬に乗ったまま槍で戦えるわけがない
0897人間七七四年
2015/01/24(土) 16:08:37.34ID:qPF6jrEh0898人間七七四年
2015/01/24(土) 16:22:10.19ID:uFUyKGML十人程度しか配下の足軽がいない足軽大将ってまともに戦えなさそう
それとも直属の足軽が10人ってだけで他に足軽組頭とかが足軽をぞろぞろ引き連れてたりするの?
0899人間七七四年
2015/01/24(土) 16:38:07.26ID:qPF6jrEh甘利信康に与力して鉄砲隊を編成してたといわれる
0900人間七七四年
2015/01/24(土) 16:43:15.51ID:uFUyKGML0901人間七七四年
2015/01/24(土) 17:04:06.84ID:qPF6jrEh寄親寄子制だから平時の管理も同様にするけど
0902人間七七四年
2015/01/24(土) 17:13:50.22ID:uFUyKGMLそれだったらむしろ敵将狙撃したりする特殊部隊的な役目って方がしっくりくる気がするけど
0903人間七七四年
2015/01/24(土) 17:25:08.96ID:qPF6jrEh0904人間七七四年
2015/01/24(土) 17:29:48.03ID:uFUyKGML0905人間七七四年
2015/01/24(土) 17:33:07.89ID:O/4zunnC0906人間七七四年
2015/01/24(土) 17:37:33.05ID:uFUyKGML一発ずつしか撃てなくて弾込めに1分から2分かかる10人の部隊と
それぞれが自動小銃持ってて分隊支援火器備えてる部隊じゃ戦闘単位としての強さがまるで違うでしょ
0907人間七七四年
2015/01/24(土) 17:41:21.43ID:qPF6jrEh0908人間七七四年
2015/01/24(土) 17:43:23.05ID:O/4zunnC0909人間七七四年
2015/01/24(土) 17:43:30.66ID:uFUyKGML0916人間七七四年
2015/01/24(土) 18:25:27.46ID:uFUyKGML現代の軍隊をそのまま火縄銃の時代の軍隊に当てはめることができないように
遊牧民の軍隊の騎兵を火縄銃の時代の軍隊に当てはめることもできないと思うんだけど
というかモンゴルの戸制って管理集団としての性格の方が強いんじゃないの
西欧でもないし
0917人間七七四年
2015/01/24(土) 19:02:03.42ID:eSckjSbZ17世紀末のフランス軍、5列横隊の頃かな?
2縦列10 名を下士官1名が管理していました
名称(単位?)は不明ですが・・・
ただし、射撃等の戦術単位では無く、担当縦列を督戦するのが目的
1642年頃だと1縦列は
スペイン:12名
オランダ:10名
イギリス:8名
フランス、スウェーデン:6名
が基本だったと
何縦列かを下士官1名が束ねていました
それぞれ何列担当だったのかは資料が無くて・・・
小隊(platoon)が登場したのは18世紀初頭です
射撃単位として採用され、当時は中隊(company)よりも大きな編制単位でした
1小隊=2中隊が標準で、大小の関係は
regiment>battalion>division>platoon>company
でした
(divisionは師団とは別物)
0918人間七七四年
2015/01/24(土) 19:17:33.46ID:uFUyKGMLPike and Shot Tactics 1590-1660だと1932年のスウェーデンで6名の縦列が8個束ねられてplatoonであるとされてる
んでplatoonは二つのcorporalshipからなると説明されてる
0919人間七七四年
2015/01/24(土) 20:53:14.34ID:4FPA9v4/次が10人、什
0920人間七七四年
2015/01/24(土) 21:01:06.66ID:xCOuIb+D0921人間七七四年
2015/01/24(土) 21:58:24.35ID:IIDNiyxV携帯や無線機はもちろん拡声器だって当然ない時代だから
有ったのはせいぜいホラ貝ぐらいか
0922人間七七四年
2015/01/24(土) 23:53:45.18ID:jcaS8Ihg0923人間七七四年
2015/01/25(日) 00:25:53.70ID:5lM/X4HU0924人間七七四年
2015/01/25(日) 00:25:57.91ID:d9SzSLblいや、組織体制は必要だろ
でないと収拾がつかなくなって命令も行き届かなくなるぞ
0925人間七七四年
2015/01/25(日) 00:32:37.38ID:6RvMM9Ql一、士五十騎、但一番ニ二十五騎ヅツ二ニ分ル、下人ハ馬取一人、槍持一人主共ニ百五十人ナリ
二、弓鉄砲足軽五十人、但二十五人ヅツ二組ナリ
三、長柄槍三十本、士大将ノ持槍二十本合而五十本、之レヲ持ツ者五十人
四、拠旗七本内二本ハ大将ノ馬印ナリ、五本ハ三ノカケノ小旗ナリ、之レヲ持ツ者一本ニ付三人宛ニシテ人数十五人ナリ
五、歩若党三十人、小者仲間合而五十人
六、士大将一騎、五十騎許ノ備ニハ武者奉行無之、即大将武者奉行ナリ、但百騎ヲ二備ニ仕ル時ハ、武者奉行一人有ツテ、其士大将共ニ二騎ヲ以テ、人数ヲツカハザレバ勝負アヤウシ
七、組頭二騎、下人五人連ニシテ主共ニ十人ナリ
八、足軽大将二騎、下人同前
九、槍奉行二騎、下人同前
十、旗奉行二騎、下人同前
十一、使武者四騎、下人四人ヅツニシテ主共ニ二十人
十二、台所人二人
十三、坊主一人
十四、小姓三人
十五、祐筆二人
十六、士大将ノ台所ニツカフ人夫二十人
十七、惣士衆ノ荷物ヲ持ツ人夫百人、但冬初春迄ハ人夫百五十人、少シ余計ニシテ人夫合而百九十四人
十八、小荷駄馬五疋、惣士衆ヘ渡ス、但春夏秋ハ斯如、冬初春迄ハ十疋ナレモ、少シ余力ヲ以テ夫馬十五疋ナリ
十九、乗馬三疋、士大将ノ乗替ナリ
二十、夫馬五疋、大将ノ小荷駄馬ナリ
二十一、乗掛馬八疋
二十二、乗馬六十三疋、是ハ士大将、者頭、物奉行人数二百三十八人、馬数九十四疋、五十騎ノ備都合人数六百二十八人、人馬数合而百二十二也
これだと
侍大将(士大将)1騎で武者奉行は必要無し
足軽大将は2騎
槍奉行も2騎
旗奉行も2騎
組頭も2騎
騎馬武者も25騎ずつで、備の中でも更に2手に分けて運用するスタイルみたいだね
使武者は4騎で下人4人ずつの計20人はいいけど、
足軽大将等の2騎で下人5人連れで計10人ってのはどういう事だ?
主従合わせて12人だよね?
0926人間七七四年
2015/01/25(日) 09:21:34.59ID:aTaO32Au書籍の紹介、有り難う御座います
17世紀中頃までのパイク&ショット戦術を扱った本が欲しかったので助かりました
>>917は主に
The Anatomy of Victory: Battle Tactics 1689ー1763
Brent Nosworthy
辺りから
各国の縦列人数は
Soldiers of the English Civil War (1): Infantry
Osprey Elite
0927人間七七四年
2015/01/25(日) 14:12:44.77ID:7iNMfgwe出典は甲陽軍鑑?
0928人間七七四年
2015/01/25(日) 19:58:27.20ID:8rvtvTdKもちろん鉄砲も大事だが、いぜれにせよ白兵戦になるわけで
0929人間七七四年
2015/01/25(日) 20:07:57.95ID:vfzBx3UH一騎駆けの兵士もいたらしいこいつらの存在はどうしよう
0931人間七七四年
2015/01/26(月) 03:43:21.49ID:5QqP988y>一、士五十騎、但一番ニ二十五騎ヅツ二ニ分ル、下人ハ馬取一人、槍持一人主共ニ百五十人ナリ
>十七、惣士衆ノ荷物ヲ持ツ人夫百人、但冬初春迄ハ人夫百五十人、少シ余計ニシテ人夫合而百九十四人
>二十二、乗馬六十三疋、是ハ士大将、者頭、物奉行人数二百三十八人、馬数九十四疋、五十騎ノ備都合人数六百二十八人、人馬数合而百二十二也
総体的な人数はこの三行に修められてるな
一、士五十騎、但一番ニ二十五騎ヅツ二ニ分ル、下人ハ馬取一人、槍持一人主共ニ百五十人ナリ
十七、惣士衆ノ荷物ヲ持ツ人夫百人、但冬初春迄ハ人夫百五十人、少シ余計ニシテ人夫合而百九十四人
二十二、乗馬六十三疋、是ハ士大将、者頭、物奉行人数二百三十八人、馬数九十四疋、五十騎ノ備都合人数六百二十八人、人馬数合而百二十二也
基本戦闘部隊 騎馬50、徒歩200人
人夫 150人
各奉行人 238人
合計628人(※10人ほど合わない)
0932人間七七四年
2015/01/26(月) 04:16:10.18ID:YEWY6uVy戦闘の内容によって主力武器は違う。
遠距離時は「矢合わせ」で弓鉄砲、
接近して「鑓合わせ」があって、
最終的には刀剣で突撃する。
必ずしも鑓が主武器であったわけではない。
0933人間七七四年
2015/01/26(月) 07:29:50.09ID:5QqP988y>九、槍奉行二騎、下人同前
>十、旗奉行二騎、下人同前
この意味は、たぶん旗と槍は支給品で奉行が一括管理して必要な部隊に配布・配置するんだろうな
0934人間七七四年
2015/01/26(月) 09:37:39.02ID:s46HKvYP0935人間七七四年
2015/01/26(月) 11:46:31.03ID:Vh45Yi010936人間七七四年
2015/01/26(月) 14:05:07.91ID:JetFfHon衣装さんとか小道具さんとか舞台俳優か
0937人間七七四年
2015/01/26(月) 16:17:44.71ID:Vh45Yi01飯も全部自分で運搬しろちゅう改革後のローマ兵みたいな例外もあるけどな
0938人間七七四年
2015/01/26(月) 18:17:47.97ID:9GHiOq38兵糧は運ぶ部隊があるんじゃないの?
三国志なんかではよくそれが戦のポイントになってる。
0939人間七七四年
2015/01/26(月) 18:41:29.96ID:ny3Q/lXs逆に輜重(人夫)も定数に入れて管理しているのは凄いかも
ナポレオン軍でさえ、軍団付き装備輜重中隊や砲兵付き輜重中隊の人員を、民間人→軍人化や定数化したけれど、その他では相変わらず定数外の民間人頼りだったし
0940人間七七四年
2015/01/26(月) 18:55:03.70ID:YEWY6uVy0941人間七七四年
2015/01/26(月) 19:54:12.69ID:ibDwBJG6そのほうが兵士の全体数は増えそうだが
0942人間七七四年
2015/01/26(月) 20:00:06.86ID:YEWY6uVy兵糧に関しては商人の輸送が中心だぞ。例えば小田原役の時、豊臣軍は清水に兵糧を集積したが、
その後はそれを商人に売り、商人が各地へと売り歩いた。
0944人間七七四年
2015/01/26(月) 20:09:32.39ID:YEWY6uVy当時の商人は基本ローカルな存在で輸送力も限られるから、遠征の場合頼り切るわけにもいかないからな。
朝鮮の役の時も兵糧は釜山に集積したけど、そこから先は商人が運んだ。
0946人間七七四年
2015/01/26(月) 20:23:31.81ID:Vh45Yi01大名がつれてた大荷駄隊がイメージ的に該当するかな
>>941
それもやってた。前線まで商人が持ってきて、あるいは当地の商人から買って
最前線までは自分の小荷駄隊で持っていくのが当時のスタイル
0947人間七七四年
2015/01/26(月) 20:27:24.50ID:Vh45Yi01この戦闘員比率でも10日ほどしか行動できなかったんだぜ。
人類最大の非生産軍団なめちゃいけねえ。
0948人間七七四年
2015/01/26(月) 20:28:09.49ID:ibDwBJG6ある程度までは商人でそこから先は自分たちで持って行ってたのね
兵士相手に商売する小売の商人はどれくらいいたんだろう?
0949人間七七四年
2015/01/26(月) 20:34:25.85ID:+qG9nQ+y0950人間七七四年
2015/01/26(月) 22:54:36.57ID:9s0UbVG0家康に小豆餅を売った(もちろんフィクションです)
0951人間七七四年
2015/01/27(火) 00:52:45.20ID:Ohxi/MQW0952人間七七四年
2015/01/27(火) 01:42:07.79ID:QQ6/vjjX婆さんだぞ
武田の騎馬武者よりも徒歩で走るのが速い(もしくはスタミナがある)婆さんではあるがw
0953人間七七四年
2015/01/27(火) 20:58:14.70ID:RyYwxSrg疑問に思ったのは人数の部分です
>使武者四騎、下人四人ヅツニシテ主共ニ二十人
使武者4騎に下人が4人ずつなので1騎+4人が4組で計20人
ですが、
>組頭二騎、下人五人連ニシテ主共ニ十人ナリ
組頭2騎に下人5人ずつでは1騎+5人が2組で計12人のはず
ですが10人ナリとなっている部分です。
0954人間七七四年
2015/01/27(火) 21:32:08.94ID:Q+MnXLLk0955人間七七四年
2015/01/27(火) 22:00:51.84ID:CaPvmyJgこの数字の矛盾ってどう説明してたんだろなw
0956人間七七四年
2015/01/27(火) 22:16:14.49ID:gHsdQF2i解体新書が来るまでの医学書がいい加減なものだったように。
0957人間七七四年
2015/01/28(水) 00:01:04.98ID:hmAnnXXJ>各奉行人 238人
この中身は、各指揮官とその供回り、伝令、雑用、特殊部隊、旗本部隊なだなどだな
0958人間七七四年
2015/01/28(水) 00:43:18.89ID:DvY+KoLf0959人間七七四年
2015/01/28(水) 00:50:02.54ID:iB86GM6H0960人間七七四年
2015/01/28(水) 01:26:42.56ID:hmAnnXXJ>三、長柄槍三十本、士大将ノ持槍二十本合而五十本、之レヲ持ツ者五十人
>四、拠旗七本内二本ハ大将ノ馬印ナリ、五本ハ三ノカケノ小旗ナリ、之レヲ持ツ者一本ニ付三人宛ニシテ人数十五人ナリ
面倒だからこれを特殊部隊とした
>五、歩若党三十人、小者仲間合而五十人
これを旗本とした。本部付けの部隊だろうな
0961人間七七四年
2015/01/28(水) 09:29:55.89ID:xgaMglQt信玄のそれで有名な
0963人間七七四年
2015/01/28(水) 10:38:52.41ID:xgaMglQt0964人間七七四年
2015/01/28(水) 12:03:45.15ID:DvY+KoLf侍大将から奉行までの各指揮官の指揮下の人数。
いわゆる戦闘員数だと思うよ。いまいち数合わんけど
0966人間七七四年
2015/01/28(水) 20:47:36.01ID:OKh/KCdf0967人間七七四年
2015/01/28(水) 21:52:39.72ID:ai5r17gE掘られた高阪弾正は浮気の弁明の手紙に感激してるほどだぞ
0968人間七七四年
2015/01/28(水) 22:06:39.58ID:bTbqG0Ly「源助」ってあるけどそれと高坂昌信が繋がらないらしい
0969人間七七四年
2015/01/28(水) 22:07:53.48ID:aq6CIIcU0970人間七七四年
2015/01/28(水) 22:23:24.49ID:ai5r17gEえ、そうなのか
一次史料だと思っていたよ
0972人間七七四年
2015/01/28(水) 23:29:40.36ID:DvY+KoLfいいめいわくだなw
0973人間七七四年
2015/01/28(水) 23:44:27.23ID:ai5r17gE0974人間七七四年
2015/01/29(木) 00:20:52.78ID:G/ks3OQKいい迷惑?
信長と利家(鶴の吸い物の話)件見るまでもなく
当時は殿様の男色の相手にされるのは名誉なことだったんじゃなくて?
0975人間七七四年
2015/01/29(木) 00:31:34.50ID:HSAKekJJそもそも信長と利家の関係も、男色ではなく主君の夜間警護である「舎人」以上の意味はなかったとすら言われている。
0976人間七七四年
2015/01/29(木) 00:36:20.50ID:u7aK/O7y一、馬場美濃守 旗白地黒山道 百廿騎
一、内藤修理正 旗色白地どうあか 二百五十騎
一、山県三郎兵衛 旗黒地に白桔梗 三百騎
一、高坂弾正 旗くちばの四方 四百五拾騎
一、小山田弥三郎 旗色きれてみえず 二百(五十)騎
一、甘利左衛門ノ丞 旗白赤晴(段)々 百騎
一、栗原左兵衛 旗白地黒わくのて 百騎
一、今福浄閑(同息 兄丹波守 弟市左衛門) 旗きれて見えず 七十騎
一、土屋右衛門ノ丞 旗黒地に白鳥井 百騎
一、秋山伯耆守 旗きれてみえず 五十騎
一、原隼人佐 旗色きれて見えず 百廿騎(内五十騎は外様近習)
一、小山田備中守 旗色きれてみえず 七十騎
一、跡部大炊助 旗色きれて見えず 三百騎
一、浅利 (旗)きれてみえず (三百)百廿騎
一、駒井右京 (旗)きれて見えず 五十五騎(内五十騎外様近習、常は在郷に居る)
一、小宮山丹後 (旗)きれてみえず 三十騎
(一、跡部美作 旗色きれてみえず 五十騎)
高坂昌信の兵力が異様に多いんだよな〜
上杉謙信への抑えだからか?
0977人間七七四年
2015/01/29(木) 02:08:35.94ID:Ae3h8cLd0979人間七七四年
2015/01/29(木) 12:47:02.51ID:KeleVGbF0980人間七七四年
2015/01/29(木) 19:02:34.76ID:8bA7aSFE当時の銃弾の成分分析とかは面白かった
ここだけでもこの本読んだ価値があった
できればもうちょい火薬入手ルートについて細かくやってほしかった
疑問だったのが騎馬について
戦馬には日常的な訓練が必要としながら戦時には農耕馬から選抜して
戦馬にしてたというように矛盾するような記述がされてる
騎兵突撃が行われていたとする戦例もかなり小規模なものが多いように感じた
でもまあ全体的に面白かったわ
0981人間七七四年
2015/01/29(木) 19:22:36.29ID:rvD6B0aDへぇ何ページ?ちょうど読んでるところなんだ。
0983人間七七四年
2015/01/29(木) 19:48:08.49ID:rvD6B0aD「武士の馬は軍馬専属の訓練をつんだもの、
そこまで余裕の無い地侍や軍役衆は兼用したたんのではないか、ちゃんとそれなりに選抜した上で。」
ちゅう話で、特に根拠がなさげなのは問題だけど矛盾とまではいえないと思う。
0984人間七七四年
2015/01/29(木) 19:55:21.37ID:rvD6B0aD0985人間七七四年
2015/01/29(木) 19:56:43.39ID:8bA7aSFE0986人間七七四年
2015/01/29(木) 19:59:22.86ID:8bA7aSFE俺も正直戦国時代のことそこまで詳しくないから頓珍漢なこと言ってるかもしれんのでお互い様ということで
0988人間七七四年
2015/01/29(木) 21:03:46.80ID:8bA7aSFE職業戦士的な存在ではないのか
というか戦場に農耕馬を連れて行っても戦えない気がするんだがどうしてたんだろう
0991人間七七四年
2015/01/29(木) 22:28:21.70ID:3UKbetYB兵站は自分で見繕えということかと
0992人間七七四年
2015/01/29(木) 22:29:29.04ID:u7aK/O7y一、武田典厩(様) 旗黒地に白丸 二百騎
一、逍遥軒(様) 旗色きれて見えず 八十騎
一、勝頼公 旗白地に大文字 二百騎
一、一条右衛門大夫殿 旗白地にすそあか 二百騎
一、武田兵庫殿 旗色書付なし (百)十五騎
一、武田左衛門(佐)殿 旗色書付なし 百騎
一、仁科殿 旗色きれてみえず 百騎
一、望月殿 旗色きれて見えず 六十騎
一、かづら山殿 旗色書付なし 百廿騎
一、板墻殿 旗色書付なし 百廿騎
一、木曽殿 旗色書付なし 二百騎
一、穴山殿 旗色きれてみえず 二百騎
木曽の領土は5万石強ってところかな?
0993人間七七四年
2015/01/29(木) 23:01:45.10ID:4Fno5r0+0994人間七七四年
2015/01/30(金) 00:00:12.69ID:LLbsf/MEレス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。