信長が最も恐れた男は誰なのか?
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0867人間七七四年
2014/10/15(水) 11:01:30.48ID:I2E9lAlE道三は信長の大叔父玄蕃允秀敏に信長の悪行を心配している書状を出してる(浅井家文書)
そして同じく後見役とされていた林も信長を見放す。
しかし道三は娘を人質にされてるためか、信長を見放さず、
水野の小川城に対抗して岡崎衆が村木に砦を築くや天文23年正月に安藤伊賀守の軍勢を派遣し
小川城で水野信元と会談後に砦を落として帰っている。
明らかに信長がどうしようもない馬鹿で尾張が分裂していっただけで、
信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。義龍によって尾張反語句を奪われたのは信長の糞アスペ人格が原因。
道三が織田家臣へ愚主信長を見限らないように心配する書状を出していたり
後見役の道三が死去するや、英傑な義龍に尾張半国を奪われるほどの馬鹿アスペが信長。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。
結局、信秀が死後を心配し信長の後見につけた4人の側近団は崩壊。
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
信長は信秀の遺産として三河国碧海郡を中心とした水野氏+尾張国+美濃大垣+信秀姉妹の美濃岩村を領土としていた。
他に婚姻関係の下に斉藤道三の後見と
信秀の献金力を背景として朝廷と六角氏の圧力で今川義元が土下座して織田との同盟を結んでいた。
鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
(鳴海を今川が調略していた証拠はなく、ただ単に信長が見限られ離反されただけ)
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、
今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点ではちゃんと引き継いでいるし。
そもそも一次史料をみる限り、どう考えてもすでに清洲城に織田敵対勢力なんぞいないわw
清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に消え去るので間もなく死去と思われる。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
織田信清も軍記の架空人物。ただ犬山城は金山城などと共に斎藤氏が信長から奪って支配していた可能性が高い。
織田信光は名古屋城で信長に暗殺されたっぽい。
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