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信長が最も恐れた男は誰なのか?

レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001人間七七四年2012/07/19(木) 12:38:14.87ID:4zFxHj+u
上杉謙信?顕如?
0826人間七七四年2014/10/12(日) 11:05:29.62ID:O158NpXD
>>825
>本能寺近隣で兵を動かせそうなのは妙覚寺にいた信忠だけに思えたから

でも妙覚寺にいた信忠も大した兵力持っていなかったよね
実際その後信長同様に光秀に包囲され殺されてるし
0827人間七七四年2014/10/12(日) 12:22:39.98ID:VJUV1kSC
寺囲む分には2千も1万もおなじやろうし。
0828人間七七四年2014/10/12(日) 12:48:35.09ID:tm7IURvr
>>819
つまり信長は光秀が裏切る可能性はないと考えていたわけね。
だから取り囲まれた時、是非もなしとなるわけだ。
0829人間七七四年2014/10/12(日) 14:50:35.78ID:tWtuAdru
松永弾正だろ
0830人間七七四年2014/10/12(日) 15:29:31.52ID:But0JZAj
>>829
あの信長が何度も裏切りを許しているからな
0831人間七七四年2014/10/12(日) 15:33:12.20ID:lrhXB34g
かつて機内を治めてた三好政権のその残党を纏めるために必要な存在だったのでは?
0832人間七七四年2014/10/12(日) 20:58:19.37ID:Yla3djFS
斉藤義龍
彼が長生きすれば信長は美濃侵攻できず上洛も無理だった
0833人間七七四年2014/10/12(日) 23:33:58.82ID:Aoq2E2Bp
今川義元
0834人間七七四年2014/10/13(月) 11:49:18.71ID:JxHYGDKd
今川義元上洛の際の信長はそれこそヘビに睨まれたカエルの心境だったであろう
0835人間七七四年2014/10/13(月) 12:45:42.07ID:4HYCSlQH
>>834
信長「とりあえず茶漬けを食うか」
0836人間七七四年2014/10/13(月) 13:12:34.21ID:JxHYGDKd
>>835
柴田勝家、林秀貞「ああ、織田家もおしまいか(涙」

実際、信長は勝算が有ったわけではなく
恐怖→死ぬ覚悟&開き直りになっただけであったろう
0837人間七七四年2014/10/13(月) 14:36:56.40ID:pYQkYLk7
ぶっちゃけて言うと義元は大高城の後詰めに来ただけであって
上洛どころか尾張の制圧すら予定してなかったけどな
信長からすれば適当にやり過ごしさえすればいい戦
それで運よく大将首取れたもんだから超ラッキー
0838人間七七四年2014/10/13(月) 16:29:39.54ID:2Ckl3VjX
しかし今川みたいな大勢力、しかも父の代から争っているのと常に接してるのは怖いだろ
0839人間七七四年2014/10/13(月) 20:23:07.10ID:/P4BgyR/
信秀は何度も今川を撃退していたな
0840人間七七四年2014/10/13(月) 22:01:37.19ID:nUmRtExr
一言坂の一回だけだろ
0841人間七七四年2014/10/13(月) 22:27:41.17ID:pYQkYLk7
安城落されるまではむしろ織田の方が強かった。
そんときの負けと信秀死後のゴタゴタで一気に力関係に差がついたけど
元々は互角ぐらいの相手。
0842人間七七四年2014/10/13(月) 22:39:48.13ID:Py+1aUHn
>>841
互角とか、そんなわけねーよ
信秀は尾張一国の国主ですらない

三国同盟できるまでは、今川は南以外の全方位と戦っていて、
単に尾張方面の局地線では、アウェイの今川よりホームの織田が
強かったってだけだ
0843人間七七四年2014/10/13(月) 23:19:11.12ID:ILqSNUWG
ぶっちゃけ初期の信秀は今川じゃなくて松平の内輪もめに介入して勝っていたってレベルだな
そして今川が武田北条の問題を片付けて三河へ力を注ぐようになってからは防戦一方
0844人間七七四年2014/10/14(火) 00:23:18.59ID:UBTm8g/4
 信玄はこう考えていた。
 「尾張から都までの間は一戦ごとにこちらが強くなる。
上方の敵は義理も作法も知らず、自分さえ助かればどんな卑怯なことでもすると聞いている。
(『甲陽軍鑑』品第三十九)
0845人間七七四年2014/10/14(火) 00:29:28.52ID:OnrHobY1
>そして今川が武田北条の問題を片付けて三河へ力を注ぐようになってからは防戦一方

松平広忠の死後は岡崎まで完全に領土としたしな
0846人間七七四年2014/10/14(火) 04:40:23.55ID:h8NC7bAC
信秀の実力や立場を定義するの難しいよな
ある時期とある時期でまるで違う
0847人間七七四年2014/10/14(火) 06:29:48.66ID:igYmJite
>>846
尾張を乗っ取っただけでも優秀な武将だと思うけどな
0848人間七七四年2014/10/14(火) 07:38:31.11ID:266lUZMl
>>842
それを言うなら今川だって義元の初期は三河どころか
駿河と遠江すら完全に掌握していない。
家中がゴタゴタで割れてたからな。
駿河は東半分北条に侵食されてたし。
0849人間七七四年2014/10/14(火) 12:40:31.05ID:F8XKuN6D
信長は信秀の遺産として三河国碧海郡を中心とした水野氏+尾張国+美濃大垣+信秀姉妹の美濃岩村を領土としていた。
他に婚姻関係の下に斉藤道三の後見と
信秀の献金力を背景として朝廷と六角氏の圧力で今川義元が土下座して織田との同盟を結んでいた。

鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、
今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点ではちゃんと引き継いでいるし。


そもそも一次史料をみる限り、どう考えてもすでに清洲城に織田敵対勢力なんぞいないわw

清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に消え去るので間もなく死去と思われる。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
織田信清も軍記の架空人物。ただ犬山城は金山城などと共に斎藤氏が信長から奪って支配していた可能性が高い。
織田信光は名古屋城で信長に暗殺されたっぽい。


永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
0850人間七七四年2014/10/14(火) 12:42:51.64ID:F8XKuN6D
熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
つまり公記の記す信長の尾張での内戦話がほぼデタラメなのがわかるのである。

信秀が尾張一国の主と朝廷も六角も斎藤も今川も認識していたのは、
外交文書をみれば歴然としているのに、
デタラメ吐くなよwww
むしろ尾張の他の誰も外交文書なんて全く出してないしなw
清洲側なんて全く書状すら出してないから存在自体が疑われているレベル。
信長が相続したのは、80万石以上。
尾張国一国+美濃岩村+美濃大垣+三河水野領
信秀が残した外交的遺産は、六角との同盟+道三の後見+今川との同盟+朝廷の絶対的信頼
ここまで御膳立てしてもらいながら、
道三が織田家臣へ愚主信長を見限らないように心配する書状を出していたり、
信長が今川を奇襲して同盟をぶち壊していたり、
織田外交を一手に引き受けていた信長後見役の平手が絶望して自殺。
数々の悪行で尾張国内の結束を自ら破壊して自壊に導き、
今川を恫喝していた後見役の道三が死去するや、英傑な義龍に尾張半国を奪われるほどの馬鹿アスペが信長。

織田軍の残虐行為の証拠隠滅行為から逃れるために
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へ、その犯罪行為を告発しているほど

「後世の方はどうか語り伝えて下さい。
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」

またフロイスも日本史において
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた)
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした)
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。

これが信長のやり方で、異常な暴君以外のなにものでもなかった。

信長は日本史上、唯一の恐怖と虐殺を礎に王朝を築き上げようとした
大陸中国人的専制独裁君主なんだよな。
だから猜疑心が異常に強く、
行き着いた終着駅はカルト宗教の神になって崇拝を強要し権力だけでなく新たな権威を備えようとした挙句に自滅。 
朝廷も異常なまでに恐怖し、家格も前例も段階も踏まずに一気に位階官職を引き上げようとしてるくらい媚びへつらい朝廷存立の危機感を持ってたが、
それすらも拒絶して朝廷秩序の枠外に出てしまった日本史上、唯一の暴君。
0851人間七七四年2014/10/14(火) 13:16:50.23ID:kZxTRJHt
信長公記にかいてあることはデタラメだらけ
0852人間七七四年2014/10/14(火) 13:55:18.97ID:kZxTRJHt
道三の美濃と信長の尾張の二大国を相手に
義元はビビっていたからね。
0853人間七七四年2014/10/14(火) 14:04:50.12ID:+doeOv/k
>>851
信長公記に書いてあることを信じなければ一体何を信じればいいの?
0854人間七七四年2014/10/14(火) 14:36:57.85ID:kZxTRJHt
>>853
一次史料
0855人間七七四年2014/10/14(火) 15:00:46.85ID:+doeOv/k
>>854
その一次史料って何よ?
0856人間七七四年2014/10/14(火) 17:23:00.39ID:kZxTRJHt
>>855
アホ乙www
0857人間七七四年2014/10/14(火) 17:28:01.05ID:+doeOv/k
>>856
出たよ逃げレスw
0858人間七七四年2014/10/14(火) 20:00:06.33ID:pnlvNBpq
>>852
その二国だって決して一枚岩じゃなかったじゃん
0859人間七七四年2014/10/14(火) 20:40:51.95ID:266lUZMl
信秀生存時はともかく死後は尾張は割れまくりだし
美濃は親子喧嘩やらかすし道三の美濃支配はおせじにも盤石とは言えなかったし
0860人間七七四年2014/10/14(火) 21:16:26.44ID:pnlvNBpq
>>859
その通りだな
>>852は二“大国”というのからしておかしい
0861人間七七四年2014/10/14(火) 21:44:10.98ID:NsiesiJo
あの時期武田だって今川と連携して西進していたというのに
0862人間七七四年2014/10/14(火) 22:06:40.73ID:vTNg2wKS
しかし、信長のシェフ→信長協奏曲
と、信長作品が続いているから、話題にことが欠かないな
0863人間七七四年2014/10/15(水) 00:18:25.93ID:H5GQHkxu
信長が戦国一、いや日本で一番の人気のある歴史上の人物になったのって
ノブヤボ以降だろうね
それ以前は秀吉のほうが人気あったと思う
0864人間七七四年2014/10/15(水) 00:30:48.76ID:XIJCvSsd
信長協奏曲は漫画だからネタとして許せるけど実写は駄目だろ。
原作でも始めの方の思いつくままやったらたまたま史実通り、じゃなくなってきて何故か普通に知将になってるし。
0865人間七七四年2014/10/15(水) 09:40:35.51ID:Yy9pxfzD
>>859
それは信長が愚主だったからだろが。
自業自得。
0866人間七七四年2014/10/15(水) 09:50:32.46ID:opkuzO7M
>>865
信長が大うつけだったというのはどこまで本当だったのかね
結構誇張が入っているような気がするんだが
むしろまだ若年で家督を継いだため舐められて家臣団が割れたという面があったのでは?
0867人間七七四年2014/10/15(水) 11:01:30.48ID:I2E9lAlE
天文22年閏正月13日に信秀が外交を委任していた平手政秀が信長に悲観して自殺するや
道三は信長の大叔父玄蕃允秀敏に信長の悪行を心配している書状を出してる(浅井家文書)
そして同じく後見役とされていた林も信長を見放す。
しかし道三は娘を人質にされてるためか、信長を見放さず、
水野の小川城に対抗して岡崎衆が村木に砦を築くや天文23年正月に安藤伊賀守の軍勢を派遣し
小川城で水野信元と会談後に砦を落として帰っている。
明らかに信長がどうしようもない馬鹿で尾張が分裂していっただけで、
信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。義龍によって尾張反語句を奪われたのは信長の糞アスペ人格が原因。

道三が織田家臣へ愚主信長を見限らないように心配する書状を出していたり
後見役の道三が死去するや、英傑な義龍に尾張半国を奪われるほどの馬鹿アスペが信長。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。
結局、信秀が死後を心配し信長の後見につけた4人の側近団は崩壊。
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。


信長は信秀の遺産として三河国碧海郡を中心とした水野氏+尾張国+美濃大垣+信秀姉妹の美濃岩村を領土としていた。
他に婚姻関係の下に斉藤道三の後見と
信秀の献金力を背景として朝廷と六角氏の圧力で今川義元が土下座して織田との同盟を結んでいた。

鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
(鳴海を今川が調略していた証拠はなく、ただ単に信長が見限られ離反されただけ)
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、
今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点ではちゃんと引き継いでいるし。


そもそも一次史料をみる限り、どう考えてもすでに清洲城に織田敵対勢力なんぞいないわw

清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に消え去るので間もなく死去と思われる。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
織田信清も軍記の架空人物。ただ犬山城は金山城などと共に斎藤氏が信長から奪って支配していた可能性が高い。
織田信光は名古屋城で信長に暗殺されたっぽい。
0868人間七七四年2014/10/15(水) 11:10:22.60ID:G8JmlJ3K
池上遼一の信長漫画の台詞で、天下はうつけが見る夢ぞ
うつけでなくては天下は取れん
ってのがあったな
0869人間七七四年2014/10/15(水) 11:29:13.70ID:ekbGklB6
>>866
普通に考えてまだ男盛りな齢の親父がぽっくり逝って十代の若造が後を継いで
国が割れないなんてことはまずないからな。
誰が後継いでも割れるもんは割れる。要はそれをちゃんとリカバリーできるか否かよ。
0870人間七七四年2014/10/15(水) 11:32:50.10ID:ekbGklB6
つうかこの手の戦国武将の逸話で若い頃はどうたらこうたらなんて付き物だしねえ。
その方が話として面白いし。
むしろ小さなころからずっと品行方正で名を遺した戦国武将って誰かいたっけ?
0871人間七七四年2014/10/15(水) 12:20:45.69ID:Yy9pxfzD
>>869
例えば?具体的に5.6件あげてくれよ。
0872人間七七四年2014/10/15(水) 12:29:52.07ID:Yy9pxfzD
信秀は家臣団との対立状態がなく下記に該当しないから、
信長の政権継承はヌルゲーで楽なもんだったでしょ。
父が殺された大友宗麟
父が追放された武田信玄
父が強制隠居に追込まれた上杉謙信
父を打倒せざるを得なかった斉藤義龍
父を竹生島に幽閉したがのち融和した浅井長政
0873人間七七四年2014/10/15(水) 14:40:55.56ID:G8JmlJ3K
尾張半分の守護代の3人いる家老の内の1人でしかないが、己の手腕1つで纏めてた父が、自分が若い内に死んだ織田信長
ってところか
0874人間七七四年2014/10/15(水) 15:39:51.57ID:ekbGklB6
信秀個人の力量でまとめていたんであって弾正家自体は尾張でろくに権威ある家ではないからな。
だから信長も結構後々まで守護の斯波氏を担がなきゃいけなかったし。
逆に自分が担がれる側だった信玄とは違うわな。
0875人間七七四年2014/10/15(水) 17:38:43.55ID:i02grvgX
信玄や謙信はむしろ家臣団が一致団結して彼等を後押しする形での政権交代だから
もともと家臣団は盤石、むしろ新君主を積極的にサポートするよな
0876人間七七四年2014/10/15(水) 17:51:15.06ID:lZThKTOL
可哀想な低脳による一次史料皆無の
盲目信長擁護www
0877人間七七四年2014/10/16(木) 00:36:25.34ID:/6H3ohcG
>>869
織田の場合は信秀晩年既に尾張は分裂状態だったからなー
0878人間七七四年2014/10/16(木) 00:50:08.20ID:DgxGXkUL
>>877
相変わらず一次史料を無視して妄想願望を書き込む可哀想な織田チョンwww
父親を捏造で必死に貶すキチガイ脳は、
政宗厨と信長厨の専売特許だな。
0879人間七七四年2014/10/16(木) 07:10:40.45ID:93cWMdKu
信秀が急に死に過ぎたのは信長にとって不運
だからといって葬式で抹香投げていいことにはならないが(そもそも事実か?)
0880人間七七四年2014/10/16(木) 08:08:29.60ID:hCKNnYE3
逆に早いうちに対抗馬を軒並み潰すことができたってことにもなるけどね。
武田なんかは豪族の寄り合い所帯体質から中々抜け出せなかったし。
そこらへんは長短やね。
0881人間七七四年2014/10/16(木) 09:45:30.10ID:DgxGXkUL
早いうちに対抗馬を潰した?
はぁ?誰を潰したって言うんだ?
一次史料で説明してくれよ嘘つき君www
0882人間七七四年2014/10/16(木) 10:20:46.98ID:nmqsPGUA
そもそも対抗馬なんていなかったし、
尾張は分裂などしていなかった。
尾張国内で外交をしていたのは
そもそも信秀と、それを引き継いだ信長のみ。
0883人間七七四年2014/10/16(木) 11:15:15.08ID:ftMwH+C3
>>880
確かに信秀が後10年生きていたら、信長の上洛も難しかったかもな。
0884人間七七四年2014/10/16(木) 12:32:25.12ID:zqhj9ler
>>867
滅茶苦茶適当なこと書いているな
もう少し辻褄合わせろよ
0885人間七七四年2014/10/16(木) 14:08:56.08ID:DgxGXkUL
>>884
事実を書かれても
まともな反論すらできないとは哀れだなお前w
0886人間七七四年2014/10/16(木) 14:14:56.90ID:hCKNnYE3
>>883
信秀は実権は掌握しても守護・守護代から完全に取って代わるまでには至ってなかったからなあ。
そこが信秀の限界。信長が守護の斯波をダシに大和守家潰して、利用価値のなくなった斯波家を放逐して
ようやく織田弾正家は下剋上を完遂したってところ。
0887人間七七四年2014/10/16(木) 15:42:46.49ID:DgxGXkUL
>>886
で、あんたが書いた内容は一次史料で
何一つ一切証明できない妄想なんだけどwww
0888人間七七四年2014/10/16(木) 18:12:58.37ID:JbKfdvpZ
>>883
何故?
0889人間七七四年2014/10/16(木) 20:00:11.53ID:1x+ryqmq
これは菅沼遼太
0890人間七七四年2014/10/16(木) 20:55:21.21ID:WO3S5ytx
信長が最も恐れた男は菅沼遼太とやらなの?
0891人間七七四年2014/10/16(木) 23:44:48.13ID:BkYtP4Re
太源雪斎
彼の生存中は義元もあんなアホしなかっただろう
0892人間七七四年2014/10/17(金) 00:14:04.53ID:hxz4nD78
雪斎が健在なら信長は義元に負けていた
0893人間七七四年2014/10/17(金) 00:58:35.00ID:hz7FPBPO
徳川家康
0894人間七七四年2014/10/17(金) 06:16:04.15ID:gaGlJm1g
戦力差で言うなら義元やろうね。
信玄や謙信は来られると厄介な敵ではあるけど
総力戦なら順当に勝てる相手だし。
0895人間七七四年2014/10/17(金) 06:42:07.39ID:22/FYTru
>>894
包囲網があったから信長の側は総力を結集できなかったろうけどな
0896人間七七四年2014/10/17(金) 07:07:22.27ID:gaGlJm1g
実際そうだったように武田・上杉なんてのは9回負けても
最後に1回勝てればそれでほぼ大勢決まる相手。
逆に今川は1回負けたらそれでジ・エンド。
0897人間七七四年2014/10/17(金) 07:56:05.42ID:gJ2jg699
そもそも桶狭間の合戦なんて存在してないでっち上げだからなあ。
義元はただの突然死。
0898人間七七四年2014/10/17(金) 11:28:41.28ID:1dja7xtG
信秀が死去し信長が相続した時点で、大高や鳴海が今川領だった根拠を出してみろよwwwwwww
>>信秀は今川に尾張半分を奪われてた
信長領だった鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、 今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期は、
信秀死去からすでに3年も経過してるから、信長が相続した時点では鳴海はちゃんと引き継いでいるし。

信長公記首巻なんて小豆坂合戦での勝利とか捏造だらけだし
信長公記基準だと1553年に桶狭間合戦があったと書いてるくらいいい加減なものなのに
都合のいい記事だけ盲信して桶狭間合戦の根拠として用いるとか相当アホだよな
歴戦の義元があんな素人丸出しな死に方するとはとても思えない。
龍造寺隆信が鍋島の内応で殺されたように、
甲陽軍鑑に書かれる武田の密偵に義元が暗殺されたとする方がまだ納得出来る。
それなら不慮の死って理由が暗殺ってことで自然だし、
三村家親を銃撃で暗殺した宇喜多直家みたいな例もあるから珍しいことでもない。

愚主信長は義龍に尾張半国を奪われてるから 信長の兵力が少ないのは納得。
そして義元が突然死というラッキーさ
桶狭間の戦いって信秀の戦いを信長の戦いに作り変えただけでしょ。
信秀が今川の侵攻を排除して尾張に入れなかったって書いた越中の僧の書状は原本だし。
そもそも公記が信秀のこの戦いを隠蔽してる時点で操作してるの確定でしょ。
今川が発給した感状から考えるにあきらかに今川が勝ってたが、
義元急死になって退却しただけの証拠にしかならんから、
巷で言う桶狭間の戦いとは全く違う話だわな。
だいたい敗戦した織田には信長発給の感状一つ無いじゃないか。
今川は鵜殿・梁瀬・平野・菅沼・松井・後藤・尾上らに
恩賞と感状を相次いで出してるので、桶狭間の戦いは今川の勝利の可能性が高い。
織田は感状を一切出してないのに義元の急死を良いことに勝ったと歪曲した。
0899人間七七四年2014/10/17(金) 11:30:19.02ID:1dja7xtG
岡崎城の北に位置する賀茂郡松平郷を発祥地とする松平氏にとって
加茂郡寺部城の鈴木氏は家康の祖父の松平清康の宿敵
義元は家康の初陣に今川軍の援軍を付け岡崎へ送り
祖父以来の敵を討たせ寺部城攻略を成功させる演出をしている。
加茂郡名倉船戸橋城は奥三河に位置しており、
そこまで織田信秀の勢力圏が伸びていたのがわかる。
信秀は三河国加茂郡一円も領地に加えていたと見るべきだろう。
>>寺部城攻略
実は織田方にすぐ奪回されてるっぽい。
城に砦を築いて寺部城を攻撃してる匂坂長能が今川の将だし。
落とせないためか、それで来年(永禄2年)の義元出馬が書かれてるけど、結局出馬してない。
三河にある寺部城すら攻略できない今川軍が、
尾張にある大高城を落とせるわけが無いな。
永禄元年4/26付け義元→足立右馬助宛
今川方が寺部へ出陣した際に寺部と広瀬が共同して向かってきたので、
岡崎と上野の今川方が一戦に及び、
右馬助の兄が鉄砲に撃たれ討死。
書状では勝ったと自称してるが、寺部城が奪回できたとは書いてない。
それどころか岡崎まで不安定化する。
閏6/20 朝比奈→大樹寺宛
岡崎雑説出来候処、無別儀無事候間、可為御大慶候、何様来秋必可令参陣候条
結局、不安定な岡崎への出陣はなく、かわりに義元の妹の娘と婚姻していた家康の
岡崎での自立を今川がバックアップする方向での岡崎の安定を目指す政策へ変更される。
永禄2年5/16 家康が朝比奈の補佐を受けて岡崎での家中の掟を発布する。
11/28 家康が幡豆郡大浜郷の寺社へ所領返付の判物給付。
0900人間七七四年2014/10/17(金) 11:31:29.04ID:1dja7xtG
名倉船戸橋城の戦いでは美濃の岩村城勢が
今川を討つべく援軍にやってきている。 信秀が大垣城だけでなく、
信秀の姉妹おつやの方が嫁いでいた岩村城も織田領に組み込んでいたのがわかる。
しかしこの後、岩村城は暗愚な信長を見限り武田方へ離反することになる。
岩村から三河へのすげー長距離を考えたら 領国動員令としか考えられない距離だぞ。
善意で援助したいレベルで行ける距離じゃない。
信長が相続したのは尾張国+美濃大垣城+三河水野分+美濃岩村遠山一族分も含めたら85万石くらいになるね。
そりゃあ不安定な岡崎直轄化を諦めざるを得ない状況に陥った義元も
織田の勢力との彼我戦力差があまりに拡大していて恐れ焦るわけだな。
だいたい山や谷が長く続き、いくつもの峯を越え、
いくつもの土着勢力のエリアを通過し奥深く進軍し国境を越え三河側へ出るために
進軍するリスクを考えたら、隣同士の間柄とか馬鹿馬鹿しい発想自体がありえないわ。
国衆の越境する外国からの排他性と団結力と難路険峻さを理解してないとか。
軍隊が他勢力の道を借りるなんてリスクあり過ぎだぞ。
借りて通過した地域が織田騎下だから問題無かっただけで、
今川方の調略が入っていたら待ち構えて山道の前後を封じられ殲滅だぞ。
ただ単に織田勢力下だったから動員に応じて、
織田勢力下を通過してきて、
織田勢力下の戦闘エリアで今川が敗北し、
敗勢を挽回する切り札として家康を独立させて岡崎絶対国防圏を構築したのが今川ってことだろ。

弘治3年に秋山らが東美濃の明智、串原落とし
永禄2年に木曽に高森を守るよう書状出してるし、この辺までは武田の勢力圏
永禄2年〜3年の今川の奥三河北三河への侵攻は織田の援軍に出てきた東美濃勢によって失敗してるし。
それが原因で家康の岡崎独立を今川が後援するはめになるし、
織田を見限り東美濃が武田の影響下に入ったのは永禄6〜7年前後からだし
0901人間七七四年2014/10/17(金) 11:32:19.93ID:1dja7xtG
武田氏研究の47か。
小川氏の論文じゃ名倉船戸橋城の戦いで岩村勢が援軍に来た事とか書いてあるね。
50年代初めは織田斉藤が協力して東美濃・奥三河を支援することで
今川武田の西進に抵抗。
東美濃・奥三河の勢力も武田の侵攻に面従腹背していたが、
道三死亡により織田斉藤が争うようになり、東美濃・奥三河への支援は不可能となり、
東美濃は武田の影響下に、今川は奥三河北三河へ侵攻、今川の影響下に。

更に中濃の関(金山?)一帯を支配する長井が斉藤家から離反、
長井は武田と組み、武田は長井に援軍を出して斉藤家と戦う、
その援軍後の書状で必要なら兵糧などの支援に、更なる援軍の用意、
信玄自身が長井のもとへ援軍として出陣すると述べている。
またこの長井の離反により東美濃は斉藤家から切り離され武田領へ。
とかこんな感じの論文だったかな。

もう史学界もいい加減、桶狭間の戦いなんて無かったと認めるべき時がきてるね。
ぶっちゃけ天文19年8月に今川義元が駿河・遠江・三河の5〜6万の大軍を率いて
知多郡の織田へ攻めてきたが、信秀が国境を支えて侵攻を許さず12月には今川軍を撤退に追込んでる。
その後、信秀主導で今川と織田は無事を結んで
(朝廷は御所修理費などが欲しくて、将軍も三好と戦うために近江・美濃・尾張・駿河の無事を願った)
天文21年に信秀の死を挟み信長が弘治2年3月に今川攻めするまで平和だった。
信長公記は信秀死去を前にずらして天文21年に信長によって桶狭間の戦いが起きたことに順序を逆にしてる。
桶狭間の戦いは信秀によって起されたものであるのは明らかで、
公記は今川の侵攻年と信秀の死去年を交換して調整してる。
現代の史学者は公記の天文21年を書き間違えただけで、実際は永禄3年と書くつもりだったなどと
大きく改変してまで桶狭間の戦いで信長が勝ったなどとウソにウソを重ねて史学者として恥ずかしくないのかねぇ。
0902人間七七四年2014/10/17(金) 11:33:49.10ID:1dja7xtG
その義元の侵攻と信秀の防衛成功を、
越中の僧の誤情報からくる誤伝だとする見方もあるよね。
でもそれが桶狭間の戦いの元ネタに採用されたとする意見では共通しているけど。
だから事実とする人も誤伝とする人も、
それが桶狭間の戦の元ネタだと共通の結論を出してるんだよね。
はぁ?佐久間信盛書状は写だろw
信盛の花押は唯一、熱田浅井文書でしか分から無いからそれは写しで間違いないわウソつくな。
写しにちゃんとした根拠があると言うのは、
それがどういう経緯で写しとられ、どういう理由で現在のような形で所有者に渡ったか。
また軍記譚を元に作成された疑うがないか?
花押の形まで正確にちゃんと写し取られてないか?
花押の形の変化の推移と出された年が一致しているか?
と言う精密な判断が必要不可欠なのも知らない無知織田チョンwww

また「道家祖看記」の著者は1563年生まれで、
父の尾張守が信長に仕えていた聞いた話だとするが尾張守なんて信長家臣にいない。
また三河物語の著者は1560年生まれなので桶狭間の戦いの年の生まれ。
兄たちから聞いた時には、すでに義元急死を信長が討ち取ったとする情報操作を疑う者がいなくなっていたのだろう。
しょーじき三河物語の桶狭間の戦いって、
いい加減なテキトー話を書いてるようにしか読めない。
今川軍は小田原評定並みに答えの出ない議論を永遠にしてる超絶バカ低脳で、
しかも全く戦わずに逃げてるし。 不可解と言うか意味わからん。
甲陽軍鑑が本当に春日虎綱の口述筆記だとしたら、
なんで甲斐にいたのに尾張での戦いを知ってるんだ?って話だからな。
信長が義元急死を、討ち取ったとのちに自慢気にデッチ上げたんだろなあ。
長篠の戦いでも信長は勝頼も死んだとか捏造宣伝してるしなwww

そもそも公記の内容では、 低い地にいる寡兵の織田軍が、
高地にいる大軍の今川軍に対して、 正面から堂々と突撃して義元本陣にたどり着き、
速やかに義元を発見したことになる謎。
これに困惑かつ不可解に思った大日本帝国陸軍参謀本部は、
きっと側面からの奇襲だったんだよ!これは陸戦における奇襲戦の理想的見本であり手本であると賞賛する愚行で、
米軍に対するバカな奇襲が行われた。
戦後、甲陽軍鑑の記述に今川兵が乱捕りしていた記述を奇貨として、
今川の大軍はみんな乱捕りに夢中で、
義元本陣は誰も守る兵がいなかったに違いないなどとまたまたアホなことを言い出す始末。
どう考えても頭が悪過ぎるのが織田研究者。 そんなバカバカしいことを真面目に主張すんなwww
現在は崖を登っての正面奇襲というわけわからん説明をしている体たらくだからなw 桶狭間の戦いは非現実的過ぎる。
0903人間七七四年2014/10/17(金) 11:35:26.32ID:1dja7xtG
義元を討ち取る役目を果たした二人がそもそも死ぬまで出世できず冷遇されていて、
義元を討った褒美すら貰ってない件。
義元を討った大功績をあげたはずの服部一忠や毛利良勝が全く出世してないのは、
そもそも義元を討っていないから。
彼らより、義元急死をいち早く信長に通報した者が褒章されたのだろう。
信長公記首巻に出てくる、 信長が戦った合戦に関する一次史料はすべて偽書状とされてしまい、
もはや首巻に書かれる信長の戦いはすべて架空話になっちまってるからな。
桶狭間だけはあったなんて都合が良い話が認められるわけが無い。
桶狭間の戦いを機にやっと家康が岡崎支配を開始なんてのもウソで
事実は今川がノリノリで後援してくれたので、
永禄2年5/16に家康は三河の家臣団へ向けて家中の掟を明示して、
のちの自立に向けての支配統治を開始してる。
そこに義元急死、 遠州総劇が勃発し、
駿河と三河の連絡線が切断されたことを良いことに家康が自立し、
火事場泥棒で三河を盗んだだけだし 清州同盟も作り話だしな。
あきらかに桶狭間の戦いネタは徳川幕府が、
今川への忠義者家康の止むを得ない自立ストーリーとして利用したのが丸わかり。
家康が義元の仇討ちを願い出たりと、
主家への忠義が強調されるネタに利用され、
義元の妹の娘である瀬名姫を妻にする程に優待し、
義元は家康に家掟を岡崎に発布させる手助けをするなど、
家康自立に向けて協力してくれるなど大恩ある人だからな。
それを裏切り侵略した家康の自己正当化にちょうど良いネタ。
そしてそれを信憑性あるものにする為に偽書状や写書状が作られたに過ぎない。
原本確認できる一次史料には義元が不慮の死としか書いてないしな。
0904人間七七四年2014/10/17(金) 11:36:36.19ID:1dja7xtG
ぜんぶ写の偽書状じゃんよw
現在知られる義元が発給した書状なんてほとんど原本あるのに、
義元は内政に力をいれていたからむちゃくちゃたくさん遺ってる。
しかし、なぜか桶狭間の戦いに決定的に関連する書状は写ばっかって言うwww
さすが架空戦記に沿って写書状を制作しただけあるなw
今川軍は強く、永禄3年以降、感状がたくさん残っている。
むしろ感状と褒美を次々に出したゆえに、財政破綻で破綻したと言える。
それを象徴しているのが、
永禄4年4/11の夜に牧野平左衛門入道親子が逆心して敵方へ逃げた事件を契機とした
牛久保合戦における今川軍の大勝利の裏側に垣間見える。
この時、牛久保城には兵糧がまったく無かった為に、
今川家臣の牧野定成と岩瀬雅楽助が五百俵を立て替えた。
岩瀬はさらに塩硝鉛百斤を援助している。
牧野定成は自分の家臣である稲垣長茂の武功に対して6/7に早速、
領地を与えて恩賞で報いている。
もちろん今川も牧野の部下である稲垣親子に6/11に所領を与えて忠節を讃えている。
また6/17に岩瀬雅楽助に対しても今川は代官職を与えて忠節を讃えている。
もちろん兵糧を肩代わりした功績だけでなく、牛久保合戦の勝利の武功に対しても、
匂坂長能などに所領を今川は与えまくっている。
当時、今川が去年からの吉田雑説(豊橋城)を代表とした
三州錯乱と呼んでいた大規模な国人反乱が起きていたという理由もあるのだが、
7/20の書状で米五百俵の即時返済すらできない財政状況なのが露呈。
今川はその後も三河乱国の情勢で一揆や謀反の討伐を進め、褒美を出したり、
帰参を許した際には本領返付を行いまくった。
今川直轄領がほとんど底を尽きて破綻していく姿が見える。
今川が強過ぎたがゆえに、武功への表彰が致命傷になった。
守護大名である大友が財政破綻した挙句に、キリスト教を掲げ寺社を破壊し、
ついには大友菩提寺まで破壊して寺領を没収し家臣に与えたように、
守護大名は元々、直轄領がほとんどないので破綻崩壊したのであろう。

成る程。吉田雑説が原因で、今川軍は桶狭間の戦いに勝利後に撤退したのか。
吉田は東三河最大の拠点だから、無視など出来ないからな。
三河や遠江の国人達は騒乱を起こしての反乱ビジネスによる錬金術に気付き、
自作自演の一揆や鎮圧や帰順で今川を喰い物にしたからね。
今川の財政破綻か・・・ だとすれば三国同盟後の今川の鈍い動きに合点がいく
尾張侵攻をする余裕がないにも関わらず大高・鳴海が包囲されてしまったもんだから止むに止まれず尾張侵攻をしたというわけだな
今川家の財政破錠はなかなか興味深い視点だ。
確かに財政的には織田家の方が上だろうけど、武田と後北条はそこに付け込まった
のだろうか。 三国同盟が結構強かった?
義元は三河安定化に必死だったから尾張どころじゃ無かったよね。
で、義元本人が尾張国内に侵攻していたことを証明する一次史料はいまだに出てないの?
現状では義元は三河国内で後方指揮に徹していたとしか解釈出来ないんだよね。
そりゃ後方の東三河において吉田雑説が起きているほど三河騒乱中なのに尾張に行くわけが無い。
それが理由で西三河安定化のために姪と婚姻させた家康をバックアップして
岡崎自立策まで打ち出してるほど三河統治失敗寸前だったんだし。
0905人間七七四年2014/10/17(金) 11:37:31.67ID:1dja7xtG
また信長と家康の関係も、義昭の第一次上洛戦に向けた義昭側による働きかけにより成立したと見るべき。
そしてその失敗により義昭が若狭へ逃亡したのちも 関係は存続していた。
だからこそ天正2年に家康は信長に内緒で、 義昭の使者と会談し、
徳川武田同盟の話をしていたのだろう。
その義昭との関係を切ったのが徳川北条同盟成立による信康殺害だろう。

義昭が上洛の為に細川と和田を信長や家康に派遣してるじゃん。
それ以前の織田と徳川は赤の他人で接点が全くない。
永禄9年に義昭の仲介によって 初めて信長と家康が同盟した。
義昭を後援する近江の御本所様と河内畠山氏と越後上杉同盟による上洛作戦戦略の一環として、
織田と徳川と北畠と斎藤の協調体制を成立させたんだよ。
だけど信長が同盟者斎藤義興を騙し討ちしようとして逆に大敗し、
三好に攻められた義昭は信長の背反を怒りながら越後上杉を頼ろうと若狭経由で越前に逃げた。
足利義昭の力で、家康と信長が同盟したってことか。
つまり、家康が姉川の戦いを必死に戦ったので、
信長なんてどーでもいいけど義昭の御為に戦ってたんだな。
だから京で略奪物の奪い合いで、徳川軍が織田軍を大破して、
あわてて信長が土下座して、家康と和解したんだな。

清洲同盟が信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、
信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると臆した信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
9/13の義昭は謙信へ向けて「京表儀 織田尾張守出勢相違故 
江州矢島儀 弥三好・松永計策共候間 難成安座候之条 若州へ相越 
去八日至越州敦賀退座候 義景馳走候」
などと信長を名指しで非難している。
0906人間七七四年2014/10/17(金) 13:43:24.23ID:gaGlJm1g
以上だれも読まない長文コピペを張りつけるしか能がない菅沼くんの今日のお仕事でした。
0907人間七七四年2014/10/17(金) 16:44:12.73ID:4ewHBFnb
菅沼遼太って何ぞやもし
無名の武将?
0908人間七七四年2014/10/17(金) 20:30:59.90ID:QdAVNOLZ
今川義元
0909人間七七四年2014/10/17(金) 22:17:48.61ID:hz7FPBPO
>>907
信長を最も恐れてる男
0910人間七七四年2014/10/17(金) 22:43:30.73ID:fpQhU7+k
>>907
武田信玄のコテハン
0911人間七七四年2014/10/17(金) 23:08:49.02ID:6qtikVNg
常陸の不死鳥こと小田天庵
信長と同じオダ姓で同年代、最大のライバル
菅谷・手塚・赤松・飯塚の小田四天王および平安時代からの当地の名族信太、
軍師天羽源鉄を従え関東八屋形筆頭として猛威を奮った
0912人間七七四年2014/10/17(金) 23:10:49.34ID:PRJ7NcpW
>>907
そいつはニートで一日中2chに張り付いてるキチガイだから関わるな
0913人間七七四年2014/10/17(金) 23:31:01.51ID:AxSddtyi
一個だけ気になったんだけど、
>道三は信長の大叔父玄蕃允秀敏に信長の悪行を心配している書状を出してる(浅井家文書)
これなんて書いてるの?
0914人間七七四年2014/10/18(土) 02:52:14.80ID:MlcqlbEg
>>898
三行で頼む。
0915人間七七四年2014/10/18(土) 08:53:02.28ID:CzxXnthe
>>910
菅沼遼太って信長は信玄を恐れていたと言いたいわけなの?
0916人間七七四年2014/10/18(土) 10:01:53.12ID:KU2j8mBt
韓国人でとにかく日本人に人気のある人物を貶めたいらしい。
本当の信玄好きなら、キチガイ捏造垂れ流したら逆に信玄の方に嫌悪感を持たれることくらい分かるからな。
信玄も貶めて一石二鳥を狙ってるつもりなんだろう。
0917人間七七四年2014/10/18(土) 14:08:49.13ID:4osoi4bA
>>916
それなら秀吉を一番貶めそうなものだが・・・
0918人間七七四年2014/10/18(土) 16:58:17.34ID:MlcqlbEg
人気では秀吉より信長と信玄が上だろ
0919人間七七四年2014/10/18(土) 17:04:57.95ID:M6k1Q23I
最近は信玄って三英傑よりは下ぐらいの人気でね?
昔はもっと人気あったけど。
0920人間七七四年2014/10/18(土) 19:09:44.69ID:oTV8JByO
最近はGacktのお蔭もあってか人気で信玄は謙信に抜かれているような気もする
0921人間七七四年2014/10/18(土) 20:17:06.96ID:EdRfR+tt
秀吉のことも軍事オンチの無能者って言ってるから、秀吉も嫌いなんだろう。より信長が嫌いなだけで。
自分の好悪>半島人の感情
0922人間七七四年2014/10/18(土) 20:36:56.68ID:M6k1Q23I
無双とかBASARAでも武田って影薄い方だしな
確かに最近は上杉の方が人気か。
0923人間七七四年2014/10/18(土) 22:28:15.03ID:xuP1gv+P
>>921
なんかわけのわからん人だな
0924人間七七四年2014/10/18(土) 22:50:07.62ID:b0riR05Z
織田チョン自作自演で必死ワロスw
0925人間七七四年2014/10/18(土) 23:11:11.25ID:i8dAYJZb
信長を最も恐れている男、菅沼遼太降臨
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。