信長が最も恐れた男は誰なのか?
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0001人間七七四年
2012/07/19(木) 12:38:14.87ID:4zFxHj+u0789人間七七四年
2014/10/05(日) 19:52:59.85ID:ninSMO0X願文でも謙信は武田のことを甲南の凶徒とか呼んでる
0791人間七七四年
2014/10/06(月) 10:54:15.55ID:XJ5uShnA0792人間七七四年
2014/10/06(月) 13:55:39.06ID:Dce6wF/K御館の乱の後で甲越同盟結ばれるまでは積極的に争うまではいかなくとも互いに警戒しあう関係。
0793人間七七四年
2014/10/06(月) 19:25:00.47ID:rmm0d56n氏康の死後か?
0794人間七七四年
2014/10/06(月) 23:36:46.63ID:4JtVngZC0795人間七七四年
2014/10/07(火) 01:09:19.82ID:c0weFLKf0796人間七七四年
2014/10/07(火) 06:24:53.10ID:awoCpWUy怖いだろうね
得体のしれない(当時の感覚だから、人種差別ととらないでね)デカくて怪力の黒い人だから
でもそういうのに興味を持ってそばに置くのが信長
0797人間七七四年
2014/10/07(火) 20:05:32.83ID:L2JVx7aS小姓・近習を掘るってのは自分を裏切らせないためってのもあったんでしょ?
0798人間七七四年
2014/10/08(水) 00:00:58.07ID:bpJJufow0799人間七七四年
2014/10/08(水) 00:14:09.29ID:oMTRg0vs0801人間七七四年
2014/10/08(水) 07:46:43.52ID:YeYuTPmO0802人間七七四年
2014/10/08(水) 18:53:54.80ID:HIncPO3p今出版されてるような信長や家康の伝記みたいに
お互いに信頼しきっていた仲ではなかったはず
0803人間七七四年
2014/10/08(水) 19:04:19.44ID:LmRTIDrAこのままじゃ武田に付くしかないと家康に言われるまで援軍を送らないってどうよ。
0804人間七七四年
2014/10/09(木) 00:00:13.61ID:xN2cmMIg信玄には自分の息子
本願寺には金銭要求
家康には信康の首
こうして見ると織田が誰を警戒していたか解るな
0805人間七七四年
2014/10/09(木) 02:21:42.76ID:Q3lBuRyX本能寺の黒幕は家康で光秀と共謀していたとか言ってたがあれどうなんだろうな
信長はこの時京に来た家康を暗殺するつもりだったらしい
光秀はこの時の接待で料理のことで信長に叱られて頭殴られが
これ、家康の膳に毒を盛れって言われたけど毒入れなかったから激怒されたって考えると
合点がいくんだよな
共謀者の膳に毒を盛るわけにはいかない
んで家康と光秀のさらに背後にいるのが朝廷かな?
0806人間七七四年
2014/10/09(木) 07:08:35.82ID:uakTMF11当時朝廷が警戒というか消したかったとすれば信長以外いない
本能寺の変は朝廷の密命というのは結構言われる説だが
そのため家康と共謀したのか
そして信長もそれに感づいていたと
0807人間七七四年
2014/10/09(木) 19:46:14.33ID:FX5v6Z6Kだから家康は無事三河に帰れたと
穴山信君と異なって
0808人間七七四年
2014/10/09(木) 22:49:36.24ID:KMDFWdXe穴山をデコイに使う必要もない
0809人間七七四年
2014/10/10(金) 01:09:42.04ID:mHu8DnJv信玄には自分の息子
本願寺には金銭要求
家康には信康の首
弥助のは巨大な逸物
こうして見ると織田が誰を警戒していたか解るな
0811人間七七四年
2014/10/10(金) 12:31:45.87ID:XtmLYhqxいたなら光秀もそれを前面に押し出して仲間集めの勧誘したはずだし。
縁戚の細川・筒井にすら見限られてる時点でろくな後ろ盾もなく突発的行動だったことは明らか。
0813人間七七四年
2014/10/10(金) 21:48:42.63ID:jO26tp0E仮に光秀と家康が共謀していて
かつ光秀が接待の時に毒を盛るように信長に命令されたと仮定する
「接待ごときに私が選ばれたのは何故だ?」と当然光秀は考えるんじゃないかな
そして家康の料理に毒を盛るよう指示を受けたときに
「すでに信長は私の裏切りに感づいているのでは?
用意した料理に毒を盛るか否かで私が本当に裏切り者かそれを確かめようとしてるのでは?」と疑心暗鬼に
信長からすれば織田政権において大きな役割担った同盟国のその当主を暗殺するのだから
絶対的な信頼を寄せている人物でないといけない
つまり当時ナンバー2の地位にあった光秀だ
実際は信長は光秀が裏切るなんて微塵も考えてなかっただろう
しかしこの時命令に背いた時点で光秀は計画が露呈したと思い込んで
このままでは私の首が危ないと実際よりも早く独断で行動に移してしまったとか多分そんなん
家康が信長が死んだことを知って切腹しようとしたのはまだ根回しの途中で
全然準備できてないこの時に行動しちゃおしまいじゃないか!!ってトチ狂ったんだろう
0816人間七七四年
2014/10/11(土) 00:30:10.02ID:+NGssIx1そもそも話にならないわけで・・・
0817人間七七四年
2014/10/11(土) 08:31:52.12ID:KscS6FH1こんなこと言ってる時点で程度が知れてるな。
饗応役って相応の格の人間じゃないとつとまんないのよ。
外交の場だよ。カウンターパートって言葉知ってる?
0819人間七七四年
2014/10/11(土) 16:56:36.69ID:qKpuBCIVただその割に本能寺を囲んでいるのが光秀の紋だと知って
「光秀か、是非もない」と言ったともいう。
これは矛盾してないか?
0820人間七七四年
2014/10/11(土) 19:41:57.56ID:6GVRw58U0821人間七七四年
2014/10/11(土) 20:51:07.83ID:KscS6FH10822人間七七四年
2014/10/12(日) 09:55:20.51ID:O158NpXD0823人間七七四年
2014/10/12(日) 10:14:52.12ID:lrhXB34g0824人間七七四年
2014/10/12(日) 10:30:25.76ID:O158NpXD確かにたとえ信忠にその気がなくても家臣団が担いで謀反を起こすことは有り得ただろうしね
0825人間七七四年
2014/10/12(日) 10:40:54.34ID:lrhXB34g本能寺近隣で兵を動かせそうなのは妙覚寺にいた信忠だけに思えたから
まさかいらぬ気を起こしたのでは?と思っただけで警戒はしてなかったと思う
この当時は本当に謀反を起こす人間が身近にいるとは思ってなかっただろう
0826人間七七四年
2014/10/12(日) 11:05:29.62ID:O158NpXD>本能寺近隣で兵を動かせそうなのは妙覚寺にいた信忠だけに思えたから
でも妙覚寺にいた信忠も大した兵力持っていなかったよね
実際その後信長同様に光秀に包囲され殺されてるし
0827人間七七四年
2014/10/12(日) 12:22:39.98ID:VJUV1kSC0828人間七七四年
2014/10/12(日) 12:48:35.09ID:tm7IURvrつまり信長は光秀が裏切る可能性はないと考えていたわけね。
だから取り囲まれた時、是非もなしとなるわけだ。
0829人間七七四年
2014/10/12(日) 14:50:35.78ID:tWtuAdru0830人間七七四年
2014/10/12(日) 15:29:31.52ID:But0JZAjあの信長が何度も裏切りを許しているからな
0831人間七七四年
2014/10/12(日) 15:33:12.20ID:lrhXB34g0832人間七七四年
2014/10/12(日) 20:58:19.37ID:Yla3djFS彼が長生きすれば信長は美濃侵攻できず上洛も無理だった
0833人間七七四年
2014/10/12(日) 23:33:58.82ID:Aoq2E2Bp0834人間七七四年
2014/10/13(月) 11:49:18.71ID:JxHYGDKd0836人間七七四年
2014/10/13(月) 13:12:34.21ID:JxHYGDKd柴田勝家、林秀貞「ああ、織田家もおしまいか(涙」
実際、信長は勝算が有ったわけではなく
恐怖→死ぬ覚悟&開き直りになっただけであったろう
0837人間七七四年
2014/10/13(月) 14:36:56.40ID:pYQkYLk7上洛どころか尾張の制圧すら予定してなかったけどな
信長からすれば適当にやり過ごしさえすればいい戦
それで運よく大将首取れたもんだから超ラッキー
0838人間七七四年
2014/10/13(月) 16:29:39.54ID:2Ckl3VjX0839人間七七四年
2014/10/13(月) 20:23:07.10ID:/P4BgyR/0840人間七七四年
2014/10/13(月) 22:01:37.19ID:nUmRtExr0841人間七七四年
2014/10/13(月) 22:27:41.17ID:pYQkYLk7そんときの負けと信秀死後のゴタゴタで一気に力関係に差がついたけど
元々は互角ぐらいの相手。
0842人間七七四年
2014/10/13(月) 22:39:48.13ID:Py+1aUHn互角とか、そんなわけねーよ
信秀は尾張一国の国主ですらない
三国同盟できるまでは、今川は南以外の全方位と戦っていて、
単に尾張方面の局地線では、アウェイの今川よりホームの織田が
強かったってだけだ
0843人間七七四年
2014/10/13(月) 23:19:11.12ID:ILqSNUWGそして今川が武田北条の問題を片付けて三河へ力を注ぐようになってからは防戦一方
0844人間七七四年
2014/10/14(火) 00:23:18.59ID:UBTm8g/4「尾張から都までの間は一戦ごとにこちらが強くなる。
上方の敵は義理も作法も知らず、自分さえ助かればどんな卑怯なことでもすると聞いている。
(『甲陽軍鑑』品第三十九)
0845人間七七四年
2014/10/14(火) 00:29:28.52ID:OnrHobY1松平広忠の死後は岡崎まで完全に領土としたしな
0846人間七七四年
2014/10/14(火) 04:40:23.55ID:h8NC7bACある時期とある時期でまるで違う
0847人間七七四年
2014/10/14(火) 06:29:48.66ID:igYmJite尾張を乗っ取っただけでも優秀な武将だと思うけどな
0848人間七七四年
2014/10/14(火) 07:38:31.11ID:266lUZMlそれを言うなら今川だって義元の初期は三河どころか
駿河と遠江すら完全に掌握していない。
家中がゴタゴタで割れてたからな。
駿河は東半分北条に侵食されてたし。
0849人間七七四年
2014/10/14(火) 12:40:31.05ID:F8XKuN6D他に婚姻関係の下に斉藤道三の後見と
信秀の献金力を背景として朝廷と六角氏の圧力で今川義元が土下座して織田との同盟を結んでいた。
鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、
今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点ではちゃんと引き継いでいるし。
そもそも一次史料をみる限り、どう考えてもすでに清洲城に織田敵対勢力なんぞいないわw
清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に消え去るので間もなく死去と思われる。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
織田信清も軍記の架空人物。ただ犬山城は金山城などと共に斎藤氏が信長から奪って支配していた可能性が高い。
織田信光は名古屋城で信長に暗殺されたっぽい。
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
0850人間七七四年
2014/10/14(火) 12:42:51.64ID:F8XKuN6D信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
つまり公記の記す信長の尾張での内戦話がほぼデタラメなのがわかるのである。
信秀が尾張一国の主と朝廷も六角も斎藤も今川も認識していたのは、
外交文書をみれば歴然としているのに、
デタラメ吐くなよwww
むしろ尾張の他の誰も外交文書なんて全く出してないしなw
清洲側なんて全く書状すら出してないから存在自体が疑われているレベル。
信長が相続したのは、80万石以上。
尾張国一国+美濃岩村+美濃大垣+三河水野領
信秀が残した外交的遺産は、六角との同盟+道三の後見+今川との同盟+朝廷の絶対的信頼
ここまで御膳立てしてもらいながら、
道三が織田家臣へ愚主信長を見限らないように心配する書状を出していたり、
信長が今川を奇襲して同盟をぶち壊していたり、
織田外交を一手に引き受けていた信長後見役の平手が絶望して自殺。
数々の悪行で尾張国内の結束を自ら破壊して自壊に導き、
今川を恫喝していた後見役の道三が死去するや、英傑な義龍に尾張半国を奪われるほどの馬鹿アスペが信長。
織田軍の残虐行為の証拠隠滅行為から逃れるために
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へ、その犯罪行為を告発しているほど
「後世の方はどうか語り伝えて下さい。
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」
またフロイスも日本史において
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた)
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした)
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。
これが信長のやり方で、異常な暴君以外のなにものでもなかった。
信長は日本史上、唯一の恐怖と虐殺を礎に王朝を築き上げようとした
大陸中国人的専制独裁君主なんだよな。
だから猜疑心が異常に強く、
行き着いた終着駅はカルト宗教の神になって崇拝を強要し権力だけでなく新たな権威を備えようとした挙句に自滅。 
朝廷も異常なまでに恐怖し、家格も前例も段階も踏まずに一気に位階官職を引き上げようとしてるくらい媚びへつらい朝廷存立の危機感を持ってたが、
それすらも拒絶して朝廷秩序の枠外に出てしまった日本史上、唯一の暴君。
0851人間七七四年
2014/10/14(火) 13:16:50.23ID:kZxTRJHt0852人間七七四年
2014/10/14(火) 13:55:18.97ID:kZxTRJHt義元はビビっていたからね。
0853人間七七四年
2014/10/14(火) 14:04:50.12ID:+doeOv/k信長公記に書いてあることを信じなければ一体何を信じればいいの?
0855人間七七四年
2014/10/14(火) 15:00:46.85ID:+doeOv/kその一次史料って何よ?
0857人間七七四年
2014/10/14(火) 17:28:01.05ID:+doeOv/k出たよ逃げレスw
0858人間七七四年
2014/10/14(火) 20:00:06.33ID:pnlvNBpqその二国だって決して一枚岩じゃなかったじゃん
0859人間七七四年
2014/10/14(火) 20:40:51.95ID:266lUZMl美濃は親子喧嘩やらかすし道三の美濃支配はおせじにも盤石とは言えなかったし
0861人間七七四年
2014/10/14(火) 21:44:10.98ID:NsiesiJo0862人間七七四年
2014/10/14(火) 22:06:40.73ID:vTNg2wKSと、信長作品が続いているから、話題にことが欠かないな
0863人間七七四年
2014/10/15(水) 00:18:25.93ID:H5GQHkxuノブヤボ以降だろうね
それ以前は秀吉のほうが人気あったと思う
0864人間七七四年
2014/10/15(水) 00:30:48.76ID:XIJCvSsd原作でも始めの方の思いつくままやったらたまたま史実通り、じゃなくなってきて何故か普通に知将になってるし。
0865人間七七四年
2014/10/15(水) 09:40:35.51ID:Yy9pxfzDそれは信長が愚主だったからだろが。
自業自得。
0866人間七七四年
2014/10/15(水) 09:50:32.46ID:opkuzO7M信長が大うつけだったというのはどこまで本当だったのかね
結構誇張が入っているような気がするんだが
むしろまだ若年で家督を継いだため舐められて家臣団が割れたという面があったのでは?
0867人間七七四年
2014/10/15(水) 11:01:30.48ID:I2E9lAlE道三は信長の大叔父玄蕃允秀敏に信長の悪行を心配している書状を出してる(浅井家文書)
そして同じく後見役とされていた林も信長を見放す。
しかし道三は娘を人質にされてるためか、信長を見放さず、
水野の小川城に対抗して岡崎衆が村木に砦を築くや天文23年正月に安藤伊賀守の軍勢を派遣し
小川城で水野信元と会談後に砦を落として帰っている。
明らかに信長がどうしようもない馬鹿で尾張が分裂していっただけで、
信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。義龍によって尾張反語句を奪われたのは信長の糞アスペ人格が原因。
道三が織田家臣へ愚主信長を見限らないように心配する書状を出していたり
後見役の道三が死去するや、英傑な義龍に尾張半国を奪われるほどの馬鹿アスペが信長。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。
結局、信秀が死後を心配し信長の後見につけた4人の側近団は崩壊。
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
信長は信秀の遺産として三河国碧海郡を中心とした水野氏+尾張国+美濃大垣+信秀姉妹の美濃岩村を領土としていた。
他に婚姻関係の下に斉藤道三の後見と
信秀の献金力を背景として朝廷と六角氏の圧力で今川義元が土下座して織田との同盟を結んでいた。
鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
(鳴海を今川が調略していた証拠はなく、ただ単に信長が見限られ離反されただけ)
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、
今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点ではちゃんと引き継いでいるし。
そもそも一次史料をみる限り、どう考えてもすでに清洲城に織田敵対勢力なんぞいないわw
清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に消え去るので間もなく死去と思われる。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
織田信清も軍記の架空人物。ただ犬山城は金山城などと共に斎藤氏が信長から奪って支配していた可能性が高い。
織田信光は名古屋城で信長に暗殺されたっぽい。
0868人間七七四年
2014/10/15(水) 11:10:22.60ID:G8JmlJ3Kうつけでなくては天下は取れん
ってのがあったな
0869人間七七四年
2014/10/15(水) 11:29:13.70ID:ekbGklB6普通に考えてまだ男盛りな齢の親父がぽっくり逝って十代の若造が後を継いで
国が割れないなんてことはまずないからな。
誰が後継いでも割れるもんは割れる。要はそれをちゃんとリカバリーできるか否かよ。
0870人間七七四年
2014/10/15(水) 11:32:50.10ID:ekbGklB6その方が話として面白いし。
むしろ小さなころからずっと品行方正で名を遺した戦国武将って誰かいたっけ?
0872人間七七四年
2014/10/15(水) 12:29:52.07ID:Yy9pxfzD信長の政権継承はヌルゲーで楽なもんだったでしょ。
父が殺された大友宗麟
父が追放された武田信玄
父が強制隠居に追込まれた上杉謙信
父を打倒せざるを得なかった斉藤義龍
父を竹生島に幽閉したがのち融和した浅井長政
0873人間七七四年
2014/10/15(水) 14:40:55.56ID:G8JmlJ3Kってところか
0874人間七七四年
2014/10/15(水) 15:39:51.57ID:ekbGklB6だから信長も結構後々まで守護の斯波氏を担がなきゃいけなかったし。
逆に自分が担がれる側だった信玄とは違うわな。
0875人間七七四年
2014/10/15(水) 17:38:43.55ID:i02grvgXもともと家臣団は盤石、むしろ新君主を積極的にサポートするよな
0876人間七七四年
2014/10/15(水) 17:51:15.06ID:lZThKTOL盲目信長擁護www
0878人間七七四年
2014/10/16(木) 00:50:08.20ID:DgxGXkUL相変わらず一次史料を無視して妄想願望を書き込む可哀想な織田チョンwww
父親を捏造で必死に貶すキチガイ脳は、
政宗厨と信長厨の専売特許だな。
0879人間七七四年
2014/10/16(木) 07:10:40.45ID:93cWMdKuだからといって葬式で抹香投げていいことにはならないが(そもそも事実か?)
0880人間七七四年
2014/10/16(木) 08:08:29.60ID:hCKNnYE3武田なんかは豪族の寄り合い所帯体質から中々抜け出せなかったし。
そこらへんは長短やね。
0881人間七七四年
2014/10/16(木) 09:45:30.10ID:DgxGXkULはぁ?誰を潰したって言うんだ?
一次史料で説明してくれよ嘘つき君www
0882人間七七四年
2014/10/16(木) 10:20:46.98ID:nmqsPGUA尾張は分裂などしていなかった。
尾張国内で外交をしていたのは
そもそも信秀と、それを引き継いだ信長のみ。
0885人間七七四年
2014/10/16(木) 14:08:56.08ID:DgxGXkUL事実を書かれても
まともな反論すらできないとは哀れだなお前w
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