朝鮮出兵で東国武士が主力だったら・・・
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0054人間七七四年
2014/05/07(水) 19:06:06.25ID:0Mz/3VLj>>日本側が軍事的に劣勢に立たされ、講和交渉に入った時期に
>>家康の最上義光への「お互い命を拾った」発言なんだが・・・
>>関係してると考えるのが自然だろ。
なんだか多分に無理矢理感があるけど(笑)
いずれにしても大名は一人も討死していないわけだし、やっぱり家康らにとってより現実的な恐怖だったのは罹病じゃね(笑)
なんたって、渡海のため名護屋で待機していた南部信直も、文禄2年3月13日付の国元へ宛てた書状の中で
「先のとかいも、あまりに本いなく候、ふねにのり候はば、人を下し申すべく候、高麗へわたりて、
人は煩い出で候へば、しに申し候、上下是をめいわくかり申し候」
つまり渡海には気が進まない、朝鮮でいったん発病すれば回復することなく絶命する、
上下皆これに当惑していると書いており、名護屋ですでにそうした風潮があったことを証明しているんだよねー(笑)
ところでさー、秀吉は朝鮮・明はおろかインドまで平定する心積もりをぶち上げてるわけだから、
家康にしてみれば戦局が劣勢だろうが優勢だろうが、戦争が続く限り果てしなく大陸で戦い続けなければならないわけだ(笑)
このままだとほぼ確実に異国の土になるというところに明から講和使節が来たとなれば「夢かうつつかとよろこび候」と感じて当然なんじゃね(笑)
つまりその書状だけでは「文禄の役末期の朝鮮戦線は日本にとって絶望的だった」ことの証明にはならないわけだ(笑)
その上秀吉や名護屋待機の諸将は、碧蹄館で大敗した明が降伏し、幸州山城も激戦の末に朝鮮軍が城を焼いて逃げたと報告されてるわけだから、
家康らが「日本側が軍事的に劣勢に立たされ」たと認識していかどうかも実際のところ怪しいんじゃね(爆笑)
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています