>>49
>>文禄5年の時点で家康が秀吉と渡海する予定なんかあるわけないだろ、この馬鹿が(怒)

ふーん、文禄2年の出陣計画とは別に、文禄4年にも豊臣秀次を総大将とする出陣計画があったことは知らないんだ(笑)
この計画でも前田利家の名が陣立表にあるし、文禄2年の計画と同じように明使節の来日(文禄5年)
を理由に中止されているから、てっきりこれのことかと思ったんだけど(笑)
こんなことも知らず、その上羽柴秀勝を別人と勘違いしちゃうような人に馬鹿呼ばわりはされたくないなー(爆笑)

>>幸州山城の戦いでは、日本側の総大将宇喜多秀家も深手の傷を負っているんだが・・・
>>当然家康にもそのことは伝わっているだから、討死も覚悟したとしてもおかしくない。

宇喜多秀家が特別に深手の傷を負ったというソースは?(笑)
吉見家朝鮮陣日記にも「宇喜多殿、吉川殿、石田殿、前野但馬殿、如是の大名立さへ手をおはれ」としか書いてないジャン!(笑)
まあどっちにせよ、秀家は戦後も引き続き派遣軍総大将として晋州城攻めの指揮を取るなど
元気に活躍してるわけだから、やっぱりたいした負傷じゃなかったんだろ(爆笑)

>>そこまで言うんだったら、家康が最上義光に「お互い命を拾った」が病没だった
>>ソースを出せよ。

はあー?まずお前が先に討死覚悟のソースを出すのが筋だろうが!(爆笑)

>>黒田如水は病を称していたが、文禄2年3月に改めて渡海しているので家康が頭を
>>悩ますほどの状態じゃなかったんだろう。

8月に帰国して猪熊で療養、翌年3月に渡海だから健康オタクの家康なら充分頭を悩ます状態だろ(笑)
伊達政宗が訴えたような流行病の惨状も、名護屋に在陣していた家康なら普段から耳にしていただろうしな(笑)