朝鮮出兵で東国武士が主力だったら・・・
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0001人間七七四年
2012/06/23(土) 22:23:01.66ID:ZF0donHK徳川家康、伊達政宗、最上義光、上杉景勝などが暴れ回ったらどうなっていたか。
0002人間七七四年
2012/06/23(土) 22:25:47.99ID:gHAcSEVk兵の強弱の問題ではない
無意味
0003人間七七四年
2012/06/23(土) 22:47:08.96ID:ZF0donHKなければ誰がやってもかわらんかも。
0004人間七七四年
2012/06/24(日) 02:30:55.26ID:pB13+zgp会津への国換えから幾年も経ってない上杉も微妙だろ。
伊達に至ってはいつ明朝鮮側に寝返って後ろから銃撃してくるかわからないw
0005人間七七四年
2012/06/24(日) 12:00:32.03ID:Oew1xFam0006人間七七四年
2012/06/24(日) 12:08:43.66ID:QDLCvxlz0007人間七七四年
2012/06/24(日) 12:17:39.72ID:sn30vJZS伊達が明・朝鮮に味方するメリットは?
隻眼の皇帝を目指すってのもあるかもだけど。
0008人間七七四年
2012/06/24(日) 12:29:28.75ID:Oew1xFam明皇帝目指すってのもありかと。
もしくは、この機会に日本軍を潰しておき、明や朝鮮の力を借りて日本征服とか。
後者の方が現実味がある。そういう行動してたしね。
0009人間七七四年
2012/06/24(日) 13:17:32.89ID:lQVuy8FS0010人間七七四年
2012/06/24(日) 13:38:53.55ID:GNuwgBwA0011人間七七四年
2012/06/24(日) 16:07:54.63ID:Oew1xFam0013人間七七四年
2012/06/26(火) 03:01:27.70ID:7bVq6NWo0014人間七七四年
2012/06/26(火) 21:47:10.80ID:S6FbNI4y野性味があるというか、モンゴル兵みたいなもんだからな。
0015人間七七四年
2012/06/26(火) 23:02:51.45ID:n/zR/5j6むしろあんだけ大規模会戦・大規模陣地相手なのに短期間ですんなり終結した方じゃん
7〜8倍の兵力差で北条相手に堀尾嫡男や一柳や前田重臣死なせるようなのを醜態という
0016人間七七四年
2012/07/01(日) 10:15:08.51ID:hGAfSBwD0017人間七七四年
2012/07/03(火) 00:18:08.10ID:fPU0BpXo勝てばその土地をやると言われても、あんな化外の地…みたいな感じでしょ
誰が戦地に行っても朝鮮には余裕勝ち、でもそこに永住したくないから
結局最後はみんな撤退みたいな感じだと思うよ
0018人間七七四年
2012/07/03(火) 08:10:58.50ID:DYsskTRl誰も中国を占領できるなんて信じてなかっただろうけど。
結局騎兵主体の遊牧国家じゃないと、中国みたいな広大な国を占領はできないんだな・・・
0019人間七七四年
2012/07/09(月) 22:31:27.96ID:3+Z7K+oN0020人間七七四年
2012/07/10(火) 01:15:04.97ID:fRCqh7MBやる気があったから破竹の進撃だったんだと思うぞ
そもそも国内を統一した権力者は国外を侵略するのは世界史の常識だし
0022人間七七四年
2012/07/10(火) 01:52:19.07ID:fRCqh7MB清盛も頼朝も義満も国内統一は出来てないと思うのだがどうだろう?
家康は前政権の秀吉の失敗とそれに伴う国内の厭戦気分があったので
海外進出という空気にならなかった
0023人間七七四年
2012/07/10(火) 12:19:59.31ID:dYQhoD+20024人間七七四年
2012/07/11(水) 09:57:45.61ID:yrcvYRqd0025人間七七四年
2012/07/11(水) 10:05:15.92ID:vcbRwM390027人間七七四年
2012/07/11(水) 17:03:12.13ID:wOa4ddSM0028人間七七四年
2012/07/13(金) 11:19:48.55ID:dAV30Bdf0029人間七七四年
2012/07/13(金) 11:20:50.27ID:dAV30Bdf0030人間七七四年
2012/07/13(金) 21:28:03.02ID:DJaQJsZS天下人達、みんな世界の非常識w
やっぱやる気なかったんだな、そりゃそうだよな…あそこは歴代の中国王朝も支配嫌がっているようだし
でも一度は半島ほぼ全土を支配したんだから半島の兵は相当弱かったんだろうね
0031人間七七四年
2013/06/10(月) 00:21:34.51ID:cldv93EV0032人間七七四年
2013/09/17(火) 18:10:57.31ID:0hS5pEjb慶長の役で、明史や李朝実録に記されているように、
明朝両国は日本に勝てる見込みはなかった。
実際、慶長の役は、戦略・戦術ともに秀吉軍の企図通りに進んで、
さらに明鮮軍の攻撃も悉く撃退している。
そんな状態で1599年には、秀吉軍の一大攻勢も予定されていた。
完全に日本軍主導で、戦争が進んでた状態で、
秀吉が死去したので、日本軍は帰国した。
これが慶長の役の顛末。
0033人間七七四年
2014/02/10(月) 12:29:16.34ID:AZrhjnic>>157
>>524
緒戦以降も秀吉軍に味方する朝鮮民衆。
テレビやごく一般の書籍では、載せられることのないタブー↓
豊臣軍占領地の朝鮮人が日本人と同化したり、朝鮮勢力内の朝鮮人ですら
日本人と親しく付き合ってるという驚きの内容↓
交渉期間1595年-1597年
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffc3dtdnwa
慶長の役でも、秀吉軍を迎え入れ道案内をし
果ては秀吉軍とともに戦う村まであった始末↓
慶長の役1597年7月-1598年10月
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffccooa39t
0034人間七七四年
2014/02/20(木) 23:31:44.36ID:4m4p3jpCし、利家は家康とともに応接に当たることになった。
この折、先に懐旧の手紙を書いた最上義光が家康のもとに出向いたときのこと
を記している。家康は「不思議に出羽(義光)もわれらも、このたび命を見つ
けた。やがて国へくだり鷹狩ができることはまことに喜ばしい」と述べたという。
家康にして、講和使の到来を「夢かうつつかとよろこび候」としている。
利家の心境も同様であったろうが、家康のようにあけすけな感想を残してはいない。
http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/meoto/meoto_31.html
後に徳川三百年の天下を築きあげた家康が泣き言を言うくらい、文禄の役末期の
朝鮮戦線は日本にとって絶望的だったんだろう。
0035人間七七四年
2014/02/21(金) 01:11:29.72ID:KpFM0DyN近代でも日清戦争で戦いが始まる前から水が当たって赤痢とか続出し何人か死んでるくらい合わないからな
0036人間七七四年
2014/03/06(木) 18:08:45.44ID:YyHBHV9M0037人間七七四年
2014/03/10(月) 15:15:39.68ID:FVSn9IV9日本には唐土幻想ってのがあって久しく中華王朝から使者が来てなかったから、
それに関われることができたから夢かうつつかって家康は言っただけだろう。
文禄の役の特徴として、
平壌の明軍による騙まし討ちを除けば、
これといった敗北は日本にはないわけで。
フロイス日本史には日本の死者、5万人のうち戦死者は僅かで、
あとは病死とある。
ちなみに
1635-1659のフランスでは、兵数の誇張はあるだろうと思われるが50万人の兵士が病死。
1620-1720のスエーデン軍は戦死者が15% 病死者75%。
冬があける文禄二年春以降は秀吉は船をフルに活かして、釜山周辺に
物資を陸揚げして、一年半以上を持ちこたえられるほどの物資が溢れていると
これもフロイス日本史に記されている。
この文禄の経験を活かした慶長の役では、戦略戦術ともに日本側の
作戦通りに進み明朝鮮軍を撃破し続ける。
0038人間七七四年
2014/03/12(水) 00:23:18.40ID:Grcmlr79>日本には唐土幻想ってのがあって久しく中華王朝から使者が来てなかったから、
>それに関われることができたから夢かうつつかって家康は言っただけだろう。
サムライ厨と議論するのは疲れるなー(笑)
家康は親友の最上義光に対して「不思議に出羽(義光)もわれらも、このたび
命を見つけた。やがて国へくだり鷹狩ができることはまことに喜ばしい」と述べてるんだけど
0040人間七七四年
2014/04/01(火) 03:11:23.96ID:qtGYqFNt同じようなことを繰り返し中。
何回も論破されているのに、同じことを繰り返してるので、
ホントに頭おかしいのかもしれない。
0041人間七七四年
2014/05/02(金) 18:42:03.60ID:3G1Z9Tczお前は相変わらず資料をテメエに都合の良い解釈ばかりしてるみたいだけど(笑)
その書状で家康が心配してるのは戦死よりもむしろ病死の方じゃね(笑)
なんたって、その書状が書かれた時点で既に羽柴秀勝、加藤光泰、五島純玄、戸田勝隆、長谷川秀一、牧村利貞、伊東祐勝
など大名が続々と病没し、黒田孝高や毛利輝元も病に倒れているんだから(笑)
それに対し、戦死大名はゼロだ!(爆笑)
0042人間七七四年
2014/05/04(日) 13:16:05.54ID:s87Q3FON朝鮮の貧しさが想定をはるかに上回っていたこと、
あまりの寒さに耐えられないレベルだったこと。
だが東北兵なら寒さに耐えられたかもしれない。
0046人間七七四年
2014/05/05(月) 12:25:47.19ID:mZAHMEIs>お前は相変わらず資料をテメエに都合の良い解釈ばかりしてるみたいだけど(笑)
>その書状で家康が心配してるのは戦死よりもむしろ病死の方じゃね(笑)
>なんたって、その書状が書かれた時点で既に羽柴秀勝、加藤光泰、五島純玄、戸田勝隆、長谷川秀一、
>牧村利貞、伊東祐勝
家康が親友の最上義光に対して「不思議に出羽(義光)もわれらも、このたび命を見つけた。やがて国へ
くだり鷹狩ができることはまことに喜ばしい」って主張したのは明国の使節が名護屋城に滞在中のことなんだが・・・
明の使節は文禄2年5月から6月まで滞在してるんだがお前の主張する連中は皆それ以前に
病没した連中なのか(笑)
それよりも明の使節が滞在する3ヶ月前に行われた幸州山城の戦いで石田三成や宇喜多秀家が負傷した
(言い方を変えれば討死しかけた)ことからも当時日本最強最大の大名家康の泣き言が討死について
主張していると考えることの方が自然んまんだが。
ほんと、お前って適当なことを書きこむなよ(笑)
0047人間七七四年
2014/05/05(月) 13:26:57.52ID:mZAHMEIs羽柴秀勝なんか朝鮮出兵関係ないし、ほかの連中も家康が最上義光に主張した
後に病没してるんだから、家康が病没を心配するはずがないだろ。
だいたい、秀吉の大軍13万を2万ほどの軍勢で振り回した日本最強最大の大名
家康が病没なんかおそれて泣き言を言うわけないだろ(笑)
国内での戦争とは違う明軍や朝鮮義兵の戦い方に戸惑い恐れた上での主張だろう。
0048人間七七四年
2014/05/05(月) 21:42:52.21ID:OccSToooなんだ、直前に利家57歳とあるから文禄5年かと思ったら、文禄2年の書状なのかよ(笑)
まあ、その時点でも既に毛利輝元や黒田考高が病に倒れ、秀吉が名医曲直瀬道三を派遣するも羽柴秀勝は病没、
4月に渡海した伊達政宗は7月に母親に送った手紙の中で「此の国にては、水のちがい候ゆへ、人びと死にうせ申し候事」
「当国にて腫気煩い候者、十人に九人は相果つる事に候」などと朝鮮における風土病流行の惨状を訴えているような状況だから、
やっぱり大名クラスにとっては病気の方が心配だったんじゃね(笑)
なんせ、討死した大名なんてただの一人もいないんだから(爆笑)
>>それよりも明の使節が滞在する3ヶ月前に行われた幸州山城の戦いで石田三成や宇喜多秀家が負傷した
>>(言い方を変えれば討死しかけた)ことからも当時日本最強最大の大名家康の泣き言が討死について
>>主張していると考えることの方が自然んまんだが。
わかってねえなー、この時代の武将にとって負傷なんて日常茶飯事なんだ(笑)
大名クラスでも陣頭に立って自身太刀打ちなんて当たり前、井伊直政や藤堂高虎なんか満身創痍だ(笑)
だいたい、その最強朝鮮軍(笑)がビビって城を放棄する結果に終わった幸州山城の戦い(笑)にしたって、
負傷した大名が臥せったという記録もなけりゃ、その後のキャリアに何の影響も与えていないところをみると
たいした負傷でもなかったんだろ(笑)
ましてやそれを知った家康が自分の討死を心配しただろうなんて、手前勝手な妄想もいいところじゃねえか(爆笑)
>>羽柴秀勝なんか朝鮮出兵関係ないし
朝鮮出兵中に巨済島で病没している羽柴秀勝がどうして朝鮮出兵と関係ないんだ(爆笑)
0049人間七七四年
2014/05/06(火) 01:05:20.80ID:ArBuMopu>なんだ、直前に利家57歳とあるから文禄5年かと思ったら、文禄2年の書状なのかよ(笑)
文禄5年の時点で家康が秀吉と渡海する予定なんかあるわけないだろ、この馬鹿が(怒)
>ましてやそれを知った家康が自分の討死を心配しただろうなんて、幸州山城の戦いでは、日本側の総大将宇喜多秀家も深手の傷を負っているんだが・・・
当然家康にもそのことは伝わっているだから、討死も覚悟したとしてもおかしくない。
>手前勝手な妄想もいいところじゃねえか(爆笑)
そこまで言うんだったら、家康が最上義光に「お互い命を拾った」が病没だった
ソースを出せよ。
お前の例示した大名で家康の主張より先に病になっていたのは毛利輝元だけだろ。
黒田如水は病を称していたが、文禄2年3月に改めて渡海しているので家康が頭を
悩ますほどの状態じゃなかったんだろう。
0050人間七七四年
2014/05/06(火) 11:21:53.78ID:xdPs0Bne>>文禄5年の時点で家康が秀吉と渡海する予定なんかあるわけないだろ、この馬鹿が(怒)
ふーん、文禄2年の出陣計画とは別に、文禄4年にも豊臣秀次を総大将とする出陣計画があったことは知らないんだ(笑)
この計画でも前田利家の名が陣立表にあるし、文禄2年の計画と同じように明使節の来日(文禄5年)
を理由に中止されているから、てっきりこれのことかと思ったんだけど(笑)
こんなことも知らず、その上羽柴秀勝を別人と勘違いしちゃうような人に馬鹿呼ばわりはされたくないなー(爆笑)
>>幸州山城の戦いでは、日本側の総大将宇喜多秀家も深手の傷を負っているんだが・・・
>>当然家康にもそのことは伝わっているだから、討死も覚悟したとしてもおかしくない。
宇喜多秀家が特別に深手の傷を負ったというソースは?(笑)
吉見家朝鮮陣日記にも「宇喜多殿、吉川殿、石田殿、前野但馬殿、如是の大名立さへ手をおはれ」としか書いてないジャン!(笑)
まあどっちにせよ、秀家は戦後も引き続き派遣軍総大将として晋州城攻めの指揮を取るなど
元気に活躍してるわけだから、やっぱりたいした負傷じゃなかったんだろ(爆笑)
>>そこまで言うんだったら、家康が最上義光に「お互い命を拾った」が病没だった
>>ソースを出せよ。
はあー?まずお前が先に討死覚悟のソースを出すのが筋だろうが!(爆笑)
>>黒田如水は病を称していたが、文禄2年3月に改めて渡海しているので家康が頭を
>>悩ますほどの状態じゃなかったんだろう。
8月に帰国して猪熊で療養、翌年3月に渡海だから健康オタクの家康なら充分頭を悩ます状態だろ(笑)
伊達政宗が訴えたような流行病の惨状も、名護屋に在陣していた家康なら普段から耳にしていただろうしな(笑)
0051人間七七四年
2014/05/06(火) 13:58:11.86ID:ArBuMopu>はあー?まずお前が先に討死覚悟のソースを出すのが筋だろうが!(爆笑)
文禄年間の朝鮮攻めが中止され、明との講和に入ったのはどうしてなんだ?
明軍の5万の来襲により半島北部の占領地を放棄したのはどうしてなんだ?
幸州山城の戦いにより1万人以上とも言われる死傷者をだし敗退したのはどうしてなんだ?
お前に言わせれば、朝鮮半島の風土が原因なんだな(笑)
ホントお前のような馬鹿と議論するのはいい加減疲れるよ!!
0052人間七七四年
2014/05/06(火) 14:58:22.63ID:xdPs0Bne>>文禄年間の朝鮮攻めが中止され、明との講和に入ったのはどうしてなんだ?
>>明軍の5万の来襲により半島北部の占領地を放棄したのはどうしてなんだ?
いきなりなにを言い出すんだ(笑)
今その話が議題と何の関係があるんだ(笑)
そんな様子だと、人からよくお前とは会話が成り立たないとか、アスペだとか呆れられてるんだろうな(笑)
いやー、ホントお前のような馬鹿と議論するのはいい加減疲れるよ!!(爆笑)
>>幸州山城の戦いにより1万人以上とも言われる死傷者をだし敗退したのはどうしてなんだ?
はー、1万人!!(笑)
日本軍の死傷者が1万人だなんてどの文献に書かれているんだ(笑)
そもそも日本軍の兵力が1万人を超えていたかどうかも怪しいのに、どうやったら1万人も死傷できるんだ(笑)
わかっちゃいたけど、やっぱり朝鮮じんの歴史認識なんてこんなもんだな(笑)
真実なんてどうでもいい、ひたすらウリナラマンセーのお花畑オナニー史観だ(爆笑)
0053人間七七四年
2014/05/06(火) 23:52:33.58ID:ArBuMopu>いきなりなにを言い出すんだ(笑)
>今その話が議題と何の関係があるんだ(笑)
日本側が軍事的に劣勢に立たされ、講和交渉に入った時期に
家康の最上義光への「お互い命を拾った」発言なんだが・・・
関係してると考えるのが自然だろ。
>日本軍の死傷者が1万人だなんてどの文献に書かれているんだ(笑)
英語版のwikiにかかれてるよ。
>そもそも日本軍の兵力が1万人を超えていたかどうかも怪しいのに、
>どうやったら1万人も死傷できるんだ(笑)
初耳だな!? ソースは?
参加した武将の動員兵力から考えると1万人なんてありえんのだが(笑)
0054人間七七四年
2014/05/07(水) 19:06:06.25ID:0Mz/3VLj>>日本側が軍事的に劣勢に立たされ、講和交渉に入った時期に
>>家康の最上義光への「お互い命を拾った」発言なんだが・・・
>>関係してると考えるのが自然だろ。
なんだか多分に無理矢理感があるけど(笑)
いずれにしても大名は一人も討死していないわけだし、やっぱり家康らにとってより現実的な恐怖だったのは罹病じゃね(笑)
なんたって、渡海のため名護屋で待機していた南部信直も、文禄2年3月13日付の国元へ宛てた書状の中で
「先のとかいも、あまりに本いなく候、ふねにのり候はば、人を下し申すべく候、高麗へわたりて、
人は煩い出で候へば、しに申し候、上下是をめいわくかり申し候」
つまり渡海には気が進まない、朝鮮でいったん発病すれば回復することなく絶命する、
上下皆これに当惑していると書いており、名護屋ですでにそうした風潮があったことを証明しているんだよねー(笑)
ところでさー、秀吉は朝鮮・明はおろかインドまで平定する心積もりをぶち上げてるわけだから、
家康にしてみれば戦局が劣勢だろうが優勢だろうが、戦争が続く限り果てしなく大陸で戦い続けなければならないわけだ(笑)
このままだとほぼ確実に異国の土になるというところに明から講和使節が来たとなれば「夢かうつつかとよろこび候」と感じて当然なんじゃね(笑)
つまりその書状だけでは「文禄の役末期の朝鮮戦線は日本にとって絶望的だった」ことの証明にはならないわけだ(笑)
その上秀吉や名護屋待機の諸将は、碧蹄館で大敗した明が降伏し、幸州山城も激戦の末に朝鮮軍が城を焼いて逃げたと報告されてるわけだから、
家康らが「日本側が軍事的に劣勢に立たされ」たと認識していかどうかも実際のところ怪しいんじゃね(爆笑)
0055人間七七四年
2014/05/07(水) 19:08:36.77ID:0Mz/3VLjよりにもよってウィキペディアがソースって、頭は大丈夫なのか(笑)
そんなもんがソースになるわけないだろ(笑)
さっさと死傷者1万人と書かれた文献を出せや!(怒)
>>初耳だな!? ソースは?
>>参加した武将の動員兵力から考えると1万人なんてありえんのだが(笑)
ふーん、初耳ねえ(笑)
ついこの間お前を論破したときに教えてやったじゃねえか(笑)
いやー、お前の度を越した鳥頭には本当にびっくりするよ(笑)
一度医者に診てもらった方がいいんじゃないのか(爆笑)
「此所に掲げた兵数は、日本出発当時の数で、其後の減耗や守備の為め残留した者を
控除しなければならぬから、幸州攻撃に向った総兵力は、左程大なるものではない。
小早川の七番隊などは遂に攻撃には参加しなかつたのである。上記の県監申景禧の宣祖の間に
答へたものに「日本軍の兵数は三万に過ぎず」とあるのを見ても、日本軍の少なかつたことは分る。
攻撃をした地域から考へても、先づ一万以下と算してよからうと思ふ、吉見家朝鮮陣日記には三万余とある。
併し此の書は兎角兵数に掛値のある書き方がしてあるから、必ずしも證據とはならぬ。 」
渡辺刀水「碧蹄戦史」
0056人間七七四年
2014/05/07(水) 23:17:45.07ID:qOKNfLef結局、家康が最上義光への「お互い命を拾った」発言ってお前的には
朝鮮の気候風土が原因で命を落としかねないことを意味してるのか?
(当然、文禄の役の戦局にも関係してくるけど)
それともほかに理由があると考えてるのか?
わかんないだけど・・・
0057人間七七四年
2014/05/07(水) 23:55:01.41ID:qOKNfLef>渡辺刀水「碧蹄戦史」
それで渡辺何某の主張は学会の定説になったのか?
もっとも定説になっていたら俺が幸州山城戦での日本側の
兵数を3万なんて主張しないがな(笑)
0058人間七七四年
2014/05/08(木) 19:15:17.52ID:uPpwjRsH>>わかんないだけど・・・
上に書いてあるだろ(笑)
まあ、終わりのない外征に駆り出される不安に加えて朝鮮の衛生環境、兵糧不足など様々な懸念があったんだろうね(笑)
家康のように元からやる気のなかった者にとっては悪夢そのものの戦争だからな(笑)
>>それで渡辺何某の主張は学会の定説になったのか?
>>もっとも定説になっていたら俺が幸州山城戦での日本側の
>>兵数を3万なんて主張しないがな(笑)
定説がどうかは知らないが、今手元にある笠谷和比古・黒田慶一共著「秀吉の野望と誤算」にも日本軍の兵力1万人と書いてあるな(笑)
ま、釜山鎮の戦いで討ち取った人数が三万だの、平壌を囲んだ明軍が百万だのと
誇張表現が激しい吉見家朝鮮陣日記の記述を鵜呑みにするというなら、好きにすればいいんじゃね(笑)
まあ、仮に日本軍が10万人いたとしても1万人死傷したなんて俺は信じないがな(笑)
当時の戦闘で万単位の死傷者が出ることなんて希な上に、蔚山や泗川のように敗走する敵軍に追撃を加えて
壊滅させたならまだしも、ひたすら亀のように引き篭もってただけで追撃もできなかった戦いでそこまでの損害を与えられるわけがねえ(爆笑)
0059人間七七四年
2014/05/08(木) 20:31:02.41ID:dZxXt/PKだけど朝鮮やシナなんて誰も欲しくないから、実際にやる気はなかったようだ。
0060人間七七四年
2014/05/08(木) 20:55:55.21ID:BK2Cse3Q琉球→台湾→福建省のルートの方が良かったかも
0061人間七七四年
2014/05/08(木) 23:15:37.17ID:conVE4I+>上に書いてあるだろ(笑)
>まあ、終わりのない外征に駆り出される不安に加えて朝鮮の衛生環境、兵糧不足など様々な懸念があったんだろうね(笑)
>家康のように元からやる気のなかった者にとっては悪夢そのものの戦争だからな(笑)
反論までに時間がかかった割にはこんな中途半端な回答とは・・・
めんどくせえなー、バカの相手をするのは。
朝鮮半島の衛生環境が劣悪だったって言い訳だけど、文禄の役の和平交渉で
秀吉は南部4道を要求してるじゃんよ!
講和交渉が決裂後も交渉相手の明国を直接攻めることもなく、慶長の役を興して
朝鮮の領土化にこだわってるじゃんよ!
0062人間七七四年
2014/05/08(木) 23:24:55.86ID:conVE4I+>上に書いてあるだろ(笑)
>まあ、終わりのない外征に駆り出される不安に加えて朝鮮の衛生環境、兵糧不足など様々な懸念があったんだろうね(笑)
反論までに時間がかかった割にはこんな中途半端な回答とは・・・
めんどくせえなー、バカの相手をするのは。
文禄元年6月の所謂「太閤ご渡海」が中止になった時点なら日本軍が連戦連勝で
年内にも朝鮮を攻略できそうな勢いだったからお前の言い訳も分からんでもないけど
文禄2年3月の「太閤ご渡海」が中止になったのはそれでも戦局が覆せそうにない
状況だったからだろ。
>まあ、終わりのない外征に駆り出される不安
どころの状況じゃないじゃんよ!
0063人間七七四年
2014/05/09(金) 00:18:19.93ID:l0VkbR1Hこの程度で時間がかかったって、お前はどういう時間の感覚をしているんだ(笑)
悪いけど、お前と違って俺は仕事もしなくちゃいけないから、四六時中2ちゃんを見ているわけにはいかないんだ(爆笑)
>>朝鮮半島の衛生環境が劣悪だったって言い訳だけど、文禄の役の和平交渉で
>>秀吉は南部4道を要求してるじゃんよ!
これ前後のつながりが意味不明なんだが、結局何が言いたいんだ(笑)
酔ってるなら素面のときに書き込んでくれよ(笑)
>>講和交渉が決裂後も交渉相手の明国を直接攻めることもなく、慶長の役を興して
>>朝鮮の領土化にこだわってるじゃんよ!
明国を直接攻めるってどうやって?(笑)
それができそうもないから朝鮮を経由したんだろ、頭は大丈夫なのか(笑)
>>文禄2年3月の「太閤ご渡海」が中止になったのはそれでも戦局が覆せそうにない
>>状況だったからだろ。
明から「降伏使節」が来たからだろ。バカかお前は(笑)
0064人間七七四年
2014/05/09(金) 00:19:43.55ID:l0VkbR1H>>56みたいな疑問の答えは>>54とそれ以前のレスで書いてるじゃんよ!(笑)
めんどくせえなー、バカな鳥頭の相手をするのは(爆笑)
結局、件の書状だけじゃ「文禄の役末期の朝鮮戦線は日本にとって絶望的だった」証明にならないことに変わりないジャン!(笑)
ところでさー、俺の質問にもさっさと答えてくれないかな(笑)
家康討死覚悟のソースをさっさと出せや(笑)
宇喜多秀家が特に深手だったというソースをさっさと出せや(笑)
幸州山城の死傷者1万人のソースをさっさと出せや(笑)
0065人間七七四年
2014/05/10(土) 10:09:55.54ID:y/gFCR4F>これ前後のつながりが意味不明なんだが、結局何が言いたいんだ(笑)
>酔ってるなら素面のときに書き込んでくれよ(笑)
馬鹿なのか?それとも反論できないからすっとぼけているのか?!
朝鮮半島の気候風土の過酷さから家康が病没することを心配していた
って言うお前のトンマな妄想だけど、そんな気候風土の朝鮮を文禄の
役後の講和交渉で秀吉が欲しがったのはどうしてなんだってことだよ
この馬鹿が・・・
また交渉決裂後も交渉相手の明国を攻めるのでもなく
>明国を直接攻めるってどうやって?(笑)
過酷な気候風土の朝鮮を避けて倭寇のように船で攻め込まずに
南岸に倭城を立てて時間をかけての朝鮮を領国化するように
攻めたのはなぜなんだってことだよ、この馬鹿が!
馬鹿相手に反論するのも疲れるよ。
ところで
>明から「降伏使節」が来たからだろ。バカかお前は(笑)
これについてはソースがあるんだろうな(笑)
ちゃんと説明してもらうぞ。
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