朝鮮出兵で東国武士が主力だったら・・・
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0001人間七七四年
2012/06/23(土) 22:23:01.66ID:ZF0donHK徳川家康、伊達政宗、最上義光、上杉景勝などが暴れ回ったらどうなっていたか。
0002人間七七四年
2012/06/23(土) 22:25:47.99ID:gHAcSEVk兵の強弱の問題ではない
無意味
0003人間七七四年
2012/06/23(土) 22:47:08.96ID:ZF0donHKなければ誰がやってもかわらんかも。
0004人間七七四年
2012/06/24(日) 02:30:55.26ID:pB13+zgp会津への国換えから幾年も経ってない上杉も微妙だろ。
伊達に至ってはいつ明朝鮮側に寝返って後ろから銃撃してくるかわからないw
0005人間七七四年
2012/06/24(日) 12:00:32.03ID:Oew1xFam0006人間七七四年
2012/06/24(日) 12:08:43.66ID:QDLCvxlz0007人間七七四年
2012/06/24(日) 12:17:39.72ID:sn30vJZS伊達が明・朝鮮に味方するメリットは?
隻眼の皇帝を目指すってのもあるかもだけど。
0008人間七七四年
2012/06/24(日) 12:29:28.75ID:Oew1xFam明皇帝目指すってのもありかと。
もしくは、この機会に日本軍を潰しておき、明や朝鮮の力を借りて日本征服とか。
後者の方が現実味がある。そういう行動してたしね。
0009人間七七四年
2012/06/24(日) 13:17:32.89ID:lQVuy8FS0010人間七七四年
2012/06/24(日) 13:38:53.55ID:GNuwgBwA0011人間七七四年
2012/06/24(日) 16:07:54.63ID:Oew1xFam0013人間七七四年
2012/06/26(火) 03:01:27.70ID:7bVq6NWo0014人間七七四年
2012/06/26(火) 21:47:10.80ID:S6FbNI4y野性味があるというか、モンゴル兵みたいなもんだからな。
0015人間七七四年
2012/06/26(火) 23:02:51.45ID:n/zR/5j6むしろあんだけ大規模会戦・大規模陣地相手なのに短期間ですんなり終結した方じゃん
7〜8倍の兵力差で北条相手に堀尾嫡男や一柳や前田重臣死なせるようなのを醜態という
0016人間七七四年
2012/07/01(日) 10:15:08.51ID:hGAfSBwD0017人間七七四年
2012/07/03(火) 00:18:08.10ID:fPU0BpXo勝てばその土地をやると言われても、あんな化外の地…みたいな感じでしょ
誰が戦地に行っても朝鮮には余裕勝ち、でもそこに永住したくないから
結局最後はみんな撤退みたいな感じだと思うよ
0018人間七七四年
2012/07/03(火) 08:10:58.50ID:DYsskTRl誰も中国を占領できるなんて信じてなかっただろうけど。
結局騎兵主体の遊牧国家じゃないと、中国みたいな広大な国を占領はできないんだな・・・
0019人間七七四年
2012/07/09(月) 22:31:27.96ID:3+Z7K+oN0020人間七七四年
2012/07/10(火) 01:15:04.97ID:fRCqh7MBやる気があったから破竹の進撃だったんだと思うぞ
そもそも国内を統一した権力者は国外を侵略するのは世界史の常識だし
0022人間七七四年
2012/07/10(火) 01:52:19.07ID:fRCqh7MB清盛も頼朝も義満も国内統一は出来てないと思うのだがどうだろう?
家康は前政権の秀吉の失敗とそれに伴う国内の厭戦気分があったので
海外進出という空気にならなかった
0023人間七七四年
2012/07/10(火) 12:19:59.31ID:dYQhoD+20024人間七七四年
2012/07/11(水) 09:57:45.61ID:yrcvYRqd0025人間七七四年
2012/07/11(水) 10:05:15.92ID:vcbRwM390027人間七七四年
2012/07/11(水) 17:03:12.13ID:wOa4ddSM0028人間七七四年
2012/07/13(金) 11:19:48.55ID:dAV30Bdf0029人間七七四年
2012/07/13(金) 11:20:50.27ID:dAV30Bdf0030人間七七四年
2012/07/13(金) 21:28:03.02ID:DJaQJsZS天下人達、みんな世界の非常識w
やっぱやる気なかったんだな、そりゃそうだよな…あそこは歴代の中国王朝も支配嫌がっているようだし
でも一度は半島ほぼ全土を支配したんだから半島の兵は相当弱かったんだろうね
0031人間七七四年
2013/06/10(月) 00:21:34.51ID:cldv93EV0032人間七七四年
2013/09/17(火) 18:10:57.31ID:0hS5pEjb慶長の役で、明史や李朝実録に記されているように、
明朝両国は日本に勝てる見込みはなかった。
実際、慶長の役は、戦略・戦術ともに秀吉軍の企図通りに進んで、
さらに明鮮軍の攻撃も悉く撃退している。
そんな状態で1599年には、秀吉軍の一大攻勢も予定されていた。
完全に日本軍主導で、戦争が進んでた状態で、
秀吉が死去したので、日本軍は帰国した。
これが慶長の役の顛末。
0033人間七七四年
2014/02/10(月) 12:29:16.34ID:AZrhjnic>>157
>>524
緒戦以降も秀吉軍に味方する朝鮮民衆。
テレビやごく一般の書籍では、載せられることのないタブー↓
豊臣軍占領地の朝鮮人が日本人と同化したり、朝鮮勢力内の朝鮮人ですら
日本人と親しく付き合ってるという驚きの内容↓
交渉期間1595年-1597年
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffc3dtdnwa
慶長の役でも、秀吉軍を迎え入れ道案内をし
果ては秀吉軍とともに戦う村まであった始末↓
慶長の役1597年7月-1598年10月
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffccooa39t
0034人間七七四年
2014/02/20(木) 23:31:44.36ID:4m4p3jpCし、利家は家康とともに応接に当たることになった。
この折、先に懐旧の手紙を書いた最上義光が家康のもとに出向いたときのこと
を記している。家康は「不思議に出羽(義光)もわれらも、このたび命を見つ
けた。やがて国へくだり鷹狩ができることはまことに喜ばしい」と述べたという。
家康にして、講和使の到来を「夢かうつつかとよろこび候」としている。
利家の心境も同様であったろうが、家康のようにあけすけな感想を残してはいない。
http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/meoto/meoto_31.html
後に徳川三百年の天下を築きあげた家康が泣き言を言うくらい、文禄の役末期の
朝鮮戦線は日本にとって絶望的だったんだろう。
0035人間七七四年
2014/02/21(金) 01:11:29.72ID:KpFM0DyN近代でも日清戦争で戦いが始まる前から水が当たって赤痢とか続出し何人か死んでるくらい合わないからな
0036人間七七四年
2014/03/06(木) 18:08:45.44ID:YyHBHV9M0037人間七七四年
2014/03/10(月) 15:15:39.68ID:FVSn9IV9日本には唐土幻想ってのがあって久しく中華王朝から使者が来てなかったから、
それに関われることができたから夢かうつつかって家康は言っただけだろう。
文禄の役の特徴として、
平壌の明軍による騙まし討ちを除けば、
これといった敗北は日本にはないわけで。
フロイス日本史には日本の死者、5万人のうち戦死者は僅かで、
あとは病死とある。
ちなみに
1635-1659のフランスでは、兵数の誇張はあるだろうと思われるが50万人の兵士が病死。
1620-1720のスエーデン軍は戦死者が15% 病死者75%。
冬があける文禄二年春以降は秀吉は船をフルに活かして、釜山周辺に
物資を陸揚げして、一年半以上を持ちこたえられるほどの物資が溢れていると
これもフロイス日本史に記されている。
この文禄の経験を活かした慶長の役では、戦略戦術ともに日本側の
作戦通りに進み明朝鮮軍を撃破し続ける。
0038人間七七四年
2014/03/12(水) 00:23:18.40ID:Grcmlr79>日本には唐土幻想ってのがあって久しく中華王朝から使者が来てなかったから、
>それに関われることができたから夢かうつつかって家康は言っただけだろう。
サムライ厨と議論するのは疲れるなー(笑)
家康は親友の最上義光に対して「不思議に出羽(義光)もわれらも、このたび
命を見つけた。やがて国へくだり鷹狩ができることはまことに喜ばしい」と述べてるんだけど
0040人間七七四年
2014/04/01(火) 03:11:23.96ID:qtGYqFNt同じようなことを繰り返し中。
何回も論破されているのに、同じことを繰り返してるので、
ホントに頭おかしいのかもしれない。
0041人間七七四年
2014/05/02(金) 18:42:03.60ID:3G1Z9Tczお前は相変わらず資料をテメエに都合の良い解釈ばかりしてるみたいだけど(笑)
その書状で家康が心配してるのは戦死よりもむしろ病死の方じゃね(笑)
なんたって、その書状が書かれた時点で既に羽柴秀勝、加藤光泰、五島純玄、戸田勝隆、長谷川秀一、牧村利貞、伊東祐勝
など大名が続々と病没し、黒田孝高や毛利輝元も病に倒れているんだから(笑)
それに対し、戦死大名はゼロだ!(爆笑)
0042人間七七四年
2014/05/04(日) 13:16:05.54ID:s87Q3FON朝鮮の貧しさが想定をはるかに上回っていたこと、
あまりの寒さに耐えられないレベルだったこと。
だが東北兵なら寒さに耐えられたかもしれない。
0046人間七七四年
2014/05/05(月) 12:25:47.19ID:mZAHMEIs>お前は相変わらず資料をテメエに都合の良い解釈ばかりしてるみたいだけど(笑)
>その書状で家康が心配してるのは戦死よりもむしろ病死の方じゃね(笑)
>なんたって、その書状が書かれた時点で既に羽柴秀勝、加藤光泰、五島純玄、戸田勝隆、長谷川秀一、
>牧村利貞、伊東祐勝
家康が親友の最上義光に対して「不思議に出羽(義光)もわれらも、このたび命を見つけた。やがて国へ
くだり鷹狩ができることはまことに喜ばしい」って主張したのは明国の使節が名護屋城に滞在中のことなんだが・・・
明の使節は文禄2年5月から6月まで滞在してるんだがお前の主張する連中は皆それ以前に
病没した連中なのか(笑)
それよりも明の使節が滞在する3ヶ月前に行われた幸州山城の戦いで石田三成や宇喜多秀家が負傷した
(言い方を変えれば討死しかけた)ことからも当時日本最強最大の大名家康の泣き言が討死について
主張していると考えることの方が自然んまんだが。
ほんと、お前って適当なことを書きこむなよ(笑)
0047人間七七四年
2014/05/05(月) 13:26:57.52ID:mZAHMEIs羽柴秀勝なんか朝鮮出兵関係ないし、ほかの連中も家康が最上義光に主張した
後に病没してるんだから、家康が病没を心配するはずがないだろ。
だいたい、秀吉の大軍13万を2万ほどの軍勢で振り回した日本最強最大の大名
家康が病没なんかおそれて泣き言を言うわけないだろ(笑)
国内での戦争とは違う明軍や朝鮮義兵の戦い方に戸惑い恐れた上での主張だろう。
0048人間七七四年
2014/05/05(月) 21:42:52.21ID:OccSToooなんだ、直前に利家57歳とあるから文禄5年かと思ったら、文禄2年の書状なのかよ(笑)
まあ、その時点でも既に毛利輝元や黒田考高が病に倒れ、秀吉が名医曲直瀬道三を派遣するも羽柴秀勝は病没、
4月に渡海した伊達政宗は7月に母親に送った手紙の中で「此の国にては、水のちがい候ゆへ、人びと死にうせ申し候事」
「当国にて腫気煩い候者、十人に九人は相果つる事に候」などと朝鮮における風土病流行の惨状を訴えているような状況だから、
やっぱり大名クラスにとっては病気の方が心配だったんじゃね(笑)
なんせ、討死した大名なんてただの一人もいないんだから(爆笑)
>>それよりも明の使節が滞在する3ヶ月前に行われた幸州山城の戦いで石田三成や宇喜多秀家が負傷した
>>(言い方を変えれば討死しかけた)ことからも当時日本最強最大の大名家康の泣き言が討死について
>>主張していると考えることの方が自然んまんだが。
わかってねえなー、この時代の武将にとって負傷なんて日常茶飯事なんだ(笑)
大名クラスでも陣頭に立って自身太刀打ちなんて当たり前、井伊直政や藤堂高虎なんか満身創痍だ(笑)
だいたい、その最強朝鮮軍(笑)がビビって城を放棄する結果に終わった幸州山城の戦い(笑)にしたって、
負傷した大名が臥せったという記録もなけりゃ、その後のキャリアに何の影響も与えていないところをみると
たいした負傷でもなかったんだろ(笑)
ましてやそれを知った家康が自分の討死を心配しただろうなんて、手前勝手な妄想もいいところじゃねえか(爆笑)
>>羽柴秀勝なんか朝鮮出兵関係ないし
朝鮮出兵中に巨済島で病没している羽柴秀勝がどうして朝鮮出兵と関係ないんだ(爆笑)
0049人間七七四年
2014/05/06(火) 01:05:20.80ID:ArBuMopu>なんだ、直前に利家57歳とあるから文禄5年かと思ったら、文禄2年の書状なのかよ(笑)
文禄5年の時点で家康が秀吉と渡海する予定なんかあるわけないだろ、この馬鹿が(怒)
>ましてやそれを知った家康が自分の討死を心配しただろうなんて、幸州山城の戦いでは、日本側の総大将宇喜多秀家も深手の傷を負っているんだが・・・
当然家康にもそのことは伝わっているだから、討死も覚悟したとしてもおかしくない。
>手前勝手な妄想もいいところじゃねえか(爆笑)
そこまで言うんだったら、家康が最上義光に「お互い命を拾った」が病没だった
ソースを出せよ。
お前の例示した大名で家康の主張より先に病になっていたのは毛利輝元だけだろ。
黒田如水は病を称していたが、文禄2年3月に改めて渡海しているので家康が頭を
悩ますほどの状態じゃなかったんだろう。
0050人間七七四年
2014/05/06(火) 11:21:53.78ID:xdPs0Bne>>文禄5年の時点で家康が秀吉と渡海する予定なんかあるわけないだろ、この馬鹿が(怒)
ふーん、文禄2年の出陣計画とは別に、文禄4年にも豊臣秀次を総大将とする出陣計画があったことは知らないんだ(笑)
この計画でも前田利家の名が陣立表にあるし、文禄2年の計画と同じように明使節の来日(文禄5年)
を理由に中止されているから、てっきりこれのことかと思ったんだけど(笑)
こんなことも知らず、その上羽柴秀勝を別人と勘違いしちゃうような人に馬鹿呼ばわりはされたくないなー(爆笑)
>>幸州山城の戦いでは、日本側の総大将宇喜多秀家も深手の傷を負っているんだが・・・
>>当然家康にもそのことは伝わっているだから、討死も覚悟したとしてもおかしくない。
宇喜多秀家が特別に深手の傷を負ったというソースは?(笑)
吉見家朝鮮陣日記にも「宇喜多殿、吉川殿、石田殿、前野但馬殿、如是の大名立さへ手をおはれ」としか書いてないジャン!(笑)
まあどっちにせよ、秀家は戦後も引き続き派遣軍総大将として晋州城攻めの指揮を取るなど
元気に活躍してるわけだから、やっぱりたいした負傷じゃなかったんだろ(爆笑)
>>そこまで言うんだったら、家康が最上義光に「お互い命を拾った」が病没だった
>>ソースを出せよ。
はあー?まずお前が先に討死覚悟のソースを出すのが筋だろうが!(爆笑)
>>黒田如水は病を称していたが、文禄2年3月に改めて渡海しているので家康が頭を
>>悩ますほどの状態じゃなかったんだろう。
8月に帰国して猪熊で療養、翌年3月に渡海だから健康オタクの家康なら充分頭を悩ます状態だろ(笑)
伊達政宗が訴えたような流行病の惨状も、名護屋に在陣していた家康なら普段から耳にしていただろうしな(笑)
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