滅亡した大名家はどの時点で詰んでいたか
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0001人間七七四年
2012/06/07(木) 21:30:09.77ID:cMVBhgd80652人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:SCLT8oAH織田の侵攻の時に新府城に籠城して北信からの上杉の援軍待ちをしなかったんじゃないか。
勝頼は見事に新府をスルーして躑躅館に入ってんじゃん。
実際の戦いで証明されてる話だろ。
0653人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:FMvUOhzSそれは対北条用の城だという根拠にはならないと思うけどね
客観的に見て
新府城は支城群も含めて1万程度の軍勢で守る構造らしいから
離反が相次いで城を維持できなくなったってのが通説じゃないの?
あと新府城は天正壬午の乱で家康が籠城して諏訪方面から甲斐に向けて進撃してた
北条氏直を撃退してる訳だが
だからと言って対北条用ではないとも言い切れないがね
0654人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:vuoM/7Qi上野を攻めるなら躑躅ヶ崎より新府のが交通の便が良い
そういう意味なら対北条用といえるかも
0656人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:ZVoRCR2+氏邦も花園城→鉢形城と移転して両人とも西武蔵に在城して
いつでも甲斐へ進入できる超隣接地で牽制してる。
武田としては、両名の連携による大規模侵攻の可能性を想定して
新府城を築いたと考える方が合理的。
0657人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:r8Z3OQoc0658人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:ZVoRCR2+織田の侵攻自体が噴火日からだしな。
0659人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:2yPdMWzo0660人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:Pz96xdgN0661人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:h2igJWUT0662人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:4gajyWK/天災なめんな
理屈わかってる現代の火山でも間近で見ると洒落にならんのに
浅間山クラスの霊山があのタイミングで噴火したらこの世の終わりと思っても無理は無い
0663人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:GqurQmyj0664人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:tGxd94/p何いってんだこいつ
0665人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:TPVMPh3o0666人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:63opjzS80667人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:AxT751bn0668人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:gAmTm1Ou0669人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:8bbTGnrZ永禄4年頃から病にかかっている長慶を見て5年に義輝が裏で指図した反三好政権大規模蜂起が起きたものの畠山高政を長慶嫡子義興の指揮のもと大勝し六角を和睦に追い込む。
しかし6年に入ると細川晴元と細川氏綱が死んで事実上、細川管領家が滅亡同然になり、
細川政元暗殺以来の細川の分裂闘争が無くなり混乱の種が根絶されたものの、
なんと三好家臣団も心服していた三好義興が22歳で死去してしまう。
長慶の1人息子にして、此人父祖に劣らず器量勝れて一度は天下の乱をも相鎮む可し人だったので、皆が惜合ったと記されていたほど。
これにより長慶は判断力を失い迷走した。
長慶の跡を継いだ養子義継では三好家臣団をまったく統制出来ず三好は崩壊した。
信長は食べてくださいとばかりのイージーモードの畿内制圧が可能だった理由である。
0670人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:gFF5Iy62つうか優秀過ぎて、逆に長慶の期待が高くなり過ぎ、死去した時の失望感が半端なくなり精神が磨耗してしまった。
0671人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:K6TrfmCm0672人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:auqfSUjl三人衆に傀儡にされたからって、単独で宿敵の松永の所まで行って和解。
信長に対しては成す術なく降伏。
安堵されたのは、たったの河内の北半国。南半国は宿敵の畠山に安堵されてるし。
最期は信長に追放された義昭を匿って終わり。
普通、あの状況で匿うか・・・?
0673人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:5AkZdG/tまぁ畠山と協調しがちな大和もこの時期に松永が掌握して、
三好勢力が最大版図になった時だけど。
統治期間が浅過ぎるし、反三好な国人を統御するには
三人衆と敵対した方が統治しやすかったのかも。
ただ松永弟の子の丹波守護代内藤氏も六角氏に攻められたりと
松永自体もけっこう劣勢だったから義昭上洛戦に協力する流れになったのだろうね。
義昭をかばって失敗したのは毛利が弱気になってしまったために本願寺との協調の調整に失敗したんだろうね。
あと三好氏自体も反織田と親織田で分裂して抗争開始してしまい義継の計算どおりにならんかったんだろ。
0674人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:IGJtPi46概ね同意だけど
天正元年って4月は信玄死亡で甲斐へ撤退、7月は義昭追放と石成戦死、
8月は浅井・朝倉の滅亡、長逸・政康が敗走して以後行方不明。
この直後に河内で謀反とか、どう考えても成算が無い。
義継はバカとしか思えないんだが。
0675人間七七四年
2013/07/15(月) NY:AN:NY.ANID:V2wdro4O0676人間七七四年
2013/07/15(月) NY:AN:NY.ANID:uXkNvDS3織田と浅井にも姻戚あったような
0677人間七七四年
2013/07/15(月) NY:AN:NY.ANID:uBOu+gtp尼子経久
大内義興 武田氏 毛利元就
0678人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:VaneZFqP信長が浅井を家臣扱いしたので関係が崩壊した。
信長はアスペなので、まったくその不満が理解できずに逆ギレ
0679人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:Z9uftilC身の程をわきまえろと
0680人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:A/nl4qxC0681人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:kJSA8LA50682人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:yeGgMkzFゲームだとめちゃくちゃ強いのにのぅ
0683人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:Z9uftilC0684人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:c35zIHqS0685人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:0PmMYmUZ0686人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:kJSA8LA5帰雲城を取り戻さなければ……、もしくは取り戻した後に一族揃って祝ったりしなければ……
0687人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:1NrnA7Zw信玄の死によって運よく救われたけどその前は滅亡一直線だったし
0688人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:CFtnrWbn0689人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:NVzyYHj3信長がプッチンしなければ本能寺の変後でも武田は同盟者として生き残ったでそ
0690人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:Xk2ErsLL徳川の立場ってどうなるの?
三河+遠江半国で終了確定なんだけど
後に弱体化した勝頼時代でも北条はかなり苦戦してたから
氏康が死んだ北条は武蔵での影響力を失って相模に圧迫されてたかもしれん
0691人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:DL0UY4/0全く弱体化してない勝頼+佐竹結城宇都宮那須皆川連合に押されただけなんだけど。
勝頼が弱体化しだすのは北条の二年連続の郡内侵攻・高天神城落城・新府築城のある天正8年・9年頃になってようやくだろ
0692人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:XvJfRcGw武田はまったく弱体化してねーよ。
>>北条の二年連続の郡内侵攻
速攻で撃退されてますがw
それどころか天正9年には伊豆三島」まで武田軍が侵食してて
当時箱根の手前を守る山中城(現三島市山中新田)
が無かったので、もう小田原城の目と鼻の先まで武田。
>>高天神城落城
信長の和睦詐欺で、実質的に停戦状態だったので
落城寸前まで使者の往来も普通にできていて
高天神側も一切、救援要請もしてこなかったので
安心して北条と勝頼は戦ってた。
しかも3月に高天神を落とした織田は武田の反撃から逃れるために
すぐ南化玄興の和睦ルートを持ち出して甲江同盟を結んだと思わせて
これには武田だけでなく佐竹や里見も騙されてる(8月)
しかも高天神と田中城と用宗城や江尻城がこの地域の武田方の防衛城だが
家康はこれらの城攻めに悉く失敗しまくり。
さらに高遠には仁科盛信が常駐することになり即援体制が成立し家康は手も足もでなくなる。
>>新府築城
天正9年に築城開始だぞ。テキトーな曖昧話すんなよ。
0693人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:n9t9PNETちなみに柴田と戦う景勝への支援で越中へ勝頼が援軍約束したりしてる中で、
信長は和睦詐欺をやりまくって柴田を支援してるんだな。
武田と和睦詐欺やれば柴田や徳川に対して武田は消極的にならざるを得ないからね。
0694人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:vgqKBFR+これらの城は結局、穴山が降伏するまで落城しなかったね。
なんであんなに家康は長期間に及んで大苦戦してんだろうね。
0695人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:isN4fC+1城攻めが不得手なイメージに繋がるんだよ
0696人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:nB1vsepM田中城がどうやっても落ちないから、そのさらに後ろの用宗城を攻めてみたけど、
やっぱり全く落ちそうになかったってことだろうね。
0697人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:7/5Cthcr0698人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:he8AGbFi小田原落城してたのは間違いない。
佐竹に続いて、里見も参戦だから小田原から逃亡した北条は滅亡確定。
0699人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:42dhxX1q0700人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:2rwD79mu北条 秀吉の命に背いて 説得した家康にもサジを投げられた時点
0701人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:dNo24Lvh信玄の死によって運よく救われたけどその前は滅亡一直線だったし
0702人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:goNxDcw2信長を裏切った時点で詰み
0703人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:fEM7IfLJ0704人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:oepnlzowこの時点で詰んでたとか将棋じゃあるまいしないだろ
スレ立て人は結果論脳の池沼だな
0705人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:Mt9W3Z41詰んでたが織田側が勝手に将棋盤ひっくり返して帰っちゃった
0706人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:oepnlzow内乱の連発で崩壊状態の上杉を9倍もの兵力差と神保・長・佐々など送り込んだりして火事場ドロしたのにろくに進めてないからね
越後に織田軍がなだれこんできたら100%織田方は撃退されてただろ
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない、松倉の一枝城にすぎない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は4/2に長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず(景勝→島津忠直書状で、長沼より更に南東部ですら上杉方が駐屯してるのがわかる)
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田に
あと数月で落とせるわけがない
まず手も足も出ず苦戦しまくりの須田のいる松倉城どうするかだな
実際に攻め込んで撃退されたり苦戦してる。松倉城でも飛騨口別働隊は撃退され
ろくな備えもない魚津城では4ヶ月もかかり
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦し
天正12年段階ですら富山奪い返されたりしてる
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
しかも当時の上杉は石高もしょぼく御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化
0707人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:s9kM1QZc魚津城攻防で柴田ら45000の大軍は5000そこそこの上杉軍に瞬殺されてただろうな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
0708人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:Mt9W3Z41死ねよ
0709人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:n4eZxXR6その度に信玄・謙信・直正らの死、朝廷を介した講和、義元の不慮の事故など超幸運で乗り切ってきたよな
本能寺ではその分のツケが回ってきたんだろうけど
0710人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:Xcpwllfj0711人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:v/7SVTSM本能寺も織田家としては詰んでなかったのに、信忠がなぁ…
信長が信忠の立場なら、神速の逃げ足で速攻で京から逃げただろうに
0712人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:wEe3yzj1信長がむちゃくちゃやり過ぎてるし。
秀吉なんて信長生前から秀吉の凄さは公認されてたどころか、
信長より苦労人秀吉の方が人情の機微も理解しており優秀だったのは宣教師や毛利の史料でわかるし。
秀吉も信忠に仕えるなんてことは絶対にしないな。
0713人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:bKZMUs0F家臣のアドバイスや意見をむちゃくちゃ嫌うとか
超短気とか宣教師が信長について書き残してるからね。
信長のような恐怖支配を信忠ができないと家臣を統制できないし、
やったらやったで謀反が起きて信忠は殺されるだけ。
どっちみち積み。
0714人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:DagkE8od信忠が生きてればもし秀吉が光秀撃ちとっても信忠から加増される程度だろうね
他の織田家の武将たちにとっては微妙な勢力バランスだし信忠の影響力は強い
0715人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:bKZMUs0Fし・か・も川尻と滝川が信忠が失敗しないように保護wwww
森らは信忠の意見を無視しても後で信長に直訴すりゃいいやwwwwなんて姿勢だったし
0716人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:DagkE8od・ 柴田と羽柴は信忠に取り入ることが生き残りの最優先課題
これは三法師の扱いを見ればわかる
・ 信忠が生きて安土もしくは美濃で体勢を立てなおしていれば滝川や川尻、森が
旧武田領を失う可能性も低い
・ 信雄や信孝を羽柴や柴田が担ぐ事もできない
そりゃ信長時代のような訳にはいかないし立て直すのに数年掛かるかもしれんが
羽柴が突出してなんて時代は永遠に来ない
0717人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:rI7EtCix信長の死は言いわけにならんわなあ。
神流川合戦の敗因は士気の低下ではなく完全に戦術面。
緒戦では戦歴豊富な氏邦を他国衆組の上野国衆が撃退するなど滝川軍は多いに氏直を破るチャンスがあった。
本戦で氏直本体のわざと敗れたふりをして退き敵を味方陣中奥深くまで釣りこみ
周りから包囲殲滅する作戦に破れた(戦後の某書状・滝川事書・軍記などで共通している)
のだから完全に戦術負け
滝川軍の士気が崩壊したなどとデタラメをでっち上げているのは徳川時代の糞講談
石川留書だけ
信長が死んで織田軍が瓦解したなんて理屈は通らない
秀吉も細川も池田も筒井も柴田も前田も徳川もみんな元気でやってる。
しかも徳川は北条を排除して甲斐・信濃を領有化
信長なんて義龍死んで幼君龍興(領国混乱状態)に攻め入っても何回も撃退されたし
当主が死んだからどうこうとか単にいいわけ。
>>・ 上野は滝川の本拠地でもなくしかも統治初めて数ヶ月
厩橋城は滝川の本拠地になってたはずだが?
0718人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:6WTiWWD2馬鹿かこのコピペ野郎はw
0719人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:jiMoInVvチョンを馬鹿って言うと馬鹿に失礼だろ
0720人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:7v8v35D1安土の信長側近団や、
秀吉や柴田らは基本的に信忠と接点ないし、
信忠岐阜新政権は滝川や河尻らが発言力を強め、
秀吉らは排除されるから破綻するのは目に見えてる。
0721人間七七四年
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:bdf5HbAF信長は多くの人を殺害した。
そして「鬱憤を散じた」というのである。
異常に感じるほど残忍なやりかたが多かった。
それでも敵対者は次々と現れ必死に戦った。
戦功を積み重ねても、謀反の心を持たなくても
信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない
不安定な状況に家臣たちは置かれていた。
一門と譜代重視のもと、譜代でない家臣には
より強い不安感があった。
独断専行的で、合議の仕組みもなく
弁明・弁護の場も与えられず
家臣に連帯がなく孤立的で、
信長への絶対服従で成り立っている体制が
家臣の将来への不安感を強め、謀反を生むのである。
領域支配には譜代と家長権を振るえる子供や弟の登用が中心になる。
自分のそばにいて手足のごとく動き、あるいは自分の意を体して
各地に赴く者たちも譜代であった。
信長の政権の基盤は一門・譜代にあった。
長住は信長の怒りを買って越中を追われ、二度と戻ることはなかった。
もう用済みだったのである。
一度でも失敗すれば、それを理由に存在を否定される。そのようにして国人層の多くが命脈を絶たれた。
0722人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:aLhaDoZI0723人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:3IehAO9F0724人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:6SOkJLLD健常な社会常識や通念で経営している敵に勝つことは簡単。
その結果、アンドロイド端末が売り上げの大半を占めるサムソン帝国に奴隷のように従う朝鮮人と言う構図が生まれた。
0725人間七七四年
2013/08/01(木) NY:AN:NY.ANID:uinDrXKEあまりにも寂しいので、詳しい方よろしく。
0726人間七七四年
2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:yVSc22/N将軍統治の若狭が不安定になり、
朝倉軍の退路が脅かされた時。
0728人間七七四年
2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:x7cK8figまずはローンがんばれ
0729人間七七四年
2013/10/01(火) 05:47:33.86ID:3B/Sqg1F0730人間七七四年
2013/10/01(火) 18:31:10.37ID:DMpUYtI3織田は本能寺囲まれた時点で積み
吉良は赤穂老子に囲まれた時点で積み
徳川は慶喜将軍になった時点で積み
矢口は旦那に踏み込まれた時点で積み
0731人間七七四年
2013/10/02(水) 11:59:41.65ID:g9j6oEvH0733人間七七四年
2013/10/02(水) 17:03:51.87ID:uCn04YHx0734人間七七四年
2013/10/03(木) 11:21:45.96ID:p4Oa78z/織田厨が削除依頼板に自作自演を駆使し
自分で書き込んだ内容しか存在しないので、
証明するソースはありません。
0735人間七七四年
2013/10/04(金) 01:23:26.10ID:z+HLXXxm普通に考えて、滅亡したときの出来事を挙げても意味ないだろ。
もっと前段階で積んでる例をあげろよ
0736人間七七四年
2013/10/05(土) 01:16:33.46ID:9FVUQ+Br0738人間七七四年
2013/10/11(金) 16:45:38.27ID:sqYAQD36大内を吸収した毛利家を相手しなければならなかった時点で詰んでた。
0739人間七七四年
2013/11/20(水) 12:56:34.95ID:6GLUdHcc0740人間七七四年
2013/11/20(水) 16:08:48.28ID:64Q4pwXs0741人間七七四年
2013/11/20(水) 17:08:40.59ID:WnyHmsPx裏切ってないから。それいい加減な本を読みすぎ。
天正7年正月も普通に武田と北条は年頭贈答もやってる。
8月末に突然、厩橋北条高広が後北条を見限って離反してから
関係が悪くなったというのが表面上の出来事だが、
実際には水面下で徳川と北条の同盟交渉がなされており、
9/5に同盟成立して武田と北条の手切れになっている。
つまり、裏切りの背反行為をしたのは北条の方だ。
0743人間七七四年
2013/11/20(水) 18:29:00.13ID:WnyHmsPx安い大衆本を読んだレベルで
シッタカし得意になっててアホすぎwww
8月には家康を討つために駿河へ出陣してる勝頼が
なんでわざわざ北条を裏切って挟撃されるリスクを
自分から背負う必要性があるんだよ?
しかも4/6の時点で毛利の出馬要請に答えて
義昭のために出陣するって返答してるのに、
なぜ北条を裏切るんだ?明確な返答をしてくれよ?
0744人間七七四年
2013/11/21(木) 13:12:21.81ID:UimDDhod0745人間七七四年
2013/11/21(木) 15:18:27.10ID:YqHetXFo0746人間七七四年
2013/11/21(木) 16:35:07.65ID:s17UwsEC超絶ビビって越相同盟を破棄して、信玄に土下座した北条・・・・
0747人間七七四年
2013/11/23(土) 01:44:09.50ID:P4PEpJGo手元の戦国時代年表後北条氏編によれば、
天正七年の8月20日のことなのですが、と。
同じく、天正七年の七月中には佐竹と連合の段取りを進めていましたよね、と。
0749人間七七四年
2013/11/23(土) 09:00:54.67ID:ECZkvuS1しかし北条は全く援軍を出さずに勝頼に丸投げ。
家康が武田領を荒らし回り、
武田もついに徳川攻めに向かうと、
北条が激怒。
北条がむちゃくちゃで傲慢でしょ。
勝頼は最後まで北条の顔を立てて景勝の援軍要請も拒絶して中立和睦方針で動いてる。
景勝が勝手に武田はこっちの味方と風聞ばらまいてるだけ。
そもそも景勝が勝頼に大金を送った話からして軍記話だし。
0750人間七七四年
2013/11/23(土) 09:39:08.28ID:R/1BiOvh9/7に武藤三河守を急ぎ越後へ派遣して交渉している。
10/17に早くも菊姫を甲府から送り出し、
同日に景勝が求めた起請文も出してる。
それらが10/20に到着し婚儀がなされたので、
急ぎ10/20に甲越同盟成立でしょ。
9/6に佐竹が蘆名に甲相同盟破綻を告げて、
勝頼の使者が蘆名領を通過するのを許可してくれるように求めて、
本格的に同盟に向けて佐竹も動き出してるし、
10/8に勝頼が太田に佐竹から起請文が届いたのを喜んでる。
すべて北条と徳川が同盟したことが契機で動いてる。
0751人間七七四年
2013/11/23(土) 09:49:02.92ID:R/1BiOvhどうせ、その本は超北条マンセーの黒田のバカが関わってる本なんじゃねーのか?
あいつの関わる本は中立性皆無だから。
0752人間七七四年
2013/11/23(土) 11:50:06.72ID:U+3j7ijnその話だと徳川北条の同盟は天正7年でなく天正6年という主張になるけど、
そういう話なのか?
天正6年
>9/7に武藤三河守を急ぎ越後へ派遣して交渉している。
>10/17に早くも菊姫を甲府から送り出し、
>同日に景勝が求めた起請文も出してる。
>それらが10/20に到着し婚儀がなされたので、
>急ぎ10/20に甲越同盟成立でしょ。
>9/6に佐竹が蘆名に甲相同盟破綻を告げて、
>勝頼の使者が蘆名領を通過するのを許可してくれるように求めて、
>本格的に同盟に向けて佐竹も動き出してるし、
>10/8に勝頼が太田に佐竹から起請文が届いたのを喜んでる。
>すべて北条と徳川が同盟したことが契機で動いてる。
天正7年9月5日、北条徳川同盟成立
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