滅亡した大名家はどの時点で詰んでいたか
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0001人間七七四年
2012/06/07(木) 21:30:09.77ID:cMVBhgd80521人間七七四年
2012/12/30(日) 16:01:52.93ID:rHuX9KJ1「へっあんな猿なんかに従えるかよ。こっちには上杉武田の猛攻にも耐えた小田原城あるんだぜ」
って調子こいてるうちに囲まれて
「やばいよやばいよ」「出撃しようよ」「やっぱ籠ってようよ」っていたずらに月日を重ねて
総攻めされてろくに戦わずに滅んだ家が美しいって?
0522人間七七四年
2012/12/30(日) 19:27:46.90ID:PrSvCppM521はこの板じゃ生きていけないだろうなw
0523人間七七四年
2012/12/30(日) 21:05:33.78ID:S4kF2+Ni城燃やし、城下町も燃やし、町人を路頭に迷わして、
その上で一族全滅する方が、美しいと感じる向きがあっても良い、と思う。
私は賛成しないけどねw
あとまあ福原焼いて落ち延びた伊勢平氏さんあたりが、どう違うの?
と言われたら、反論できないのも確かだけど。
0525人間七七四年
2012/12/31(月) 12:59:32.44ID:UarhPV61八王子城 1日で落城
美しいらしい
0526人間七七四年
2012/12/31(月) 13:11:50.14ID:9El47jln兵力比は7.5倍
忍城1000小田原1000に手も足もでず
韮山500に大苦戦
0527人間七七四年
2012/12/31(月) 21:04:53.39ID:R0i3ZAG+皆、最後まで裏切らず戦っているなぁ
0529人間七七四年
2013/01/01(火) 11:22:59.31ID:Iht3Uxs1軍記物によれば、天正18年1月20日の小田原評定において、北条氏邦は出撃を提案。
氏照氏邦のどちらかが先陣。どっちがするかは、くじ引きで決める云々とあります。
しかし北条氏直は、天正17年12月26日の書状で、
上野国衆に対し氏邦の指揮下に入るよう指示しています。
氏邦が上野方面の指揮を執ることは、
軍記物の記述より一月は前に決まっていたことが分かるのです。
さように軍記物は、あてにならない節があります。
巷間、後北条は「小田原城の堅固さをあてに豊臣への臣従を拒んだ」と言われています。
しかし「氏政の上洛には、配下の諸勢から五騎程ずつ出させることを依頼するので、
各国衆への奏者には下知しておく事」(天正17年7月14日。氏政から氏邦へ)
「氏政の上洛費、一貫八四八文三十日までに納入すること」(天正17年10月14日。氏忠から高瀬紀伊守へ)
などなど見られるように、臣従を拒んだ、とまでは言えません。
精々、臣従に積極的ではなかった、程度のことでしょう。
秀吉は、連絡無い! と言っていますが、
少なくとも11月段階で宿老の一人を上洛させていますから、それは過言です。
それで充分と言う話もあります。最低領国の分割が必要な程度には後北条領国は巨大だったと言う事でしょう。
上野では検地が行われ、軍役が課せられ、馬廻衆の集住が進められています。
下総も、まあ同じ状況でした。
武蔵に、独立国衆領を抱えていたとは言え、直轄領だけで結構な規模でしたから。
ですので北条が詰んだのは、その領国を豊臣政権に負けない規模に拡大できなかった時だと思います。
ちなみに、なんで積極的でなかったか? と言いますと、こっから先は妄想ですが、この段階で秀吉は唐入りを公言してるんですよね。
で、一般論から言いますと、そういう場合、新規の外様は先陣です。
0530人間七七四年
2013/01/01(火) 15:06:31.64ID:eN5ckuXP関東八州諸城人数覚書や北条家人数覚書に1000と書いてる
お前松田典秀の軍勢を小田原と書いてないのに下山の誤記を取り上げて小田原だとか勝手に捏造した前スレの馬鹿だろ
0531人間七七四年
2013/01/01(火) 20:04:20.34ID:w4PmCAJCと、言うと、指揮下の軍勢は居なかった、とか言いそうですね。この人。
なにしろ、このスレッドは「滅亡した大名家はどの時点で詰んでいたか」であり、
前スレなんぞ存在しないのに…いやはや。
ツッコミ入れるときりがないのですが、どうやら行間読めないと言う病気の方のようなので、
これまでに。お大事に。
0532人間七七四年
2013/01/01(火) 20:58:46.22ID:eN5ckuXPそれはないな
松田の横の所には何もかかれてないし
最低でも指揮下の軍勢は別の所だろ
0533人間七七四年
2013/01/01(火) 21:02:26.08ID:KDyPcKcG普通に考えて守備はそこだろ
確か子供の笠原が豊臣方に寝返ろうとして氏直に成敗されてたはず
0534人間七七四年
2013/01/04(金) 11:08:59.78ID:2RT3cVmS1000人じゃなくて1000騎だからそんなものだと思う
謙信の小田原包囲が11万5千人で3000騎ぐらいだから
1000騎なら4万人ぐらいの計算になるし
0535人間七七四年
2013/01/04(金) 13:00:54.70ID:sVTb18Qx0536人間七七四年
2013/01/04(金) 13:04:57.16ID:emBCRlh7馬上身分だけを示すとかアホすぎるだろ
3月28日豊臣秀吉状で
5万騎にて山中城攻め崩しとか書いてるけど馬上身分だけで5万もいたのかって話
0537人間七七四年
2013/01/04(金) 16:25:37.52ID:vT+YMa52馬、関係ない
0538人間七七四年
2013/01/11(金) 09:40:10.22ID:+eUzeJBi大袈裟にするためわざとやってるのか、無知でやっているのかは謎だが
どのみち騎馬武者だけの数か、雑兵まで含めているのかは常識で考えれば簡単に分かる事だ
0539人間七七四年
2013/02/08(金) 01:41:34.77ID:QAmVlXPCこんだけ戦力があるんだぞー、というアピールだろうね
0540人間七七四年
2013/02/08(金) 09:22:42.89ID:1wX/hx8A0541人間七七四年
2013/02/14(木) 05:15:07.20ID:T9o5lKGn0542人間七七四年
2013/02/14(木) 06:49:13.45ID:1QQflUCE0543人間七七四年
2013/02/14(木) 07:07:48.41ID:MxNAfLHJ0544人間七七四年
2013/02/14(木) 16:10:57.88ID:SuN30rCm0546人間七七四年
2013/02/14(木) 20:29:05.36ID:MxNAfLHJ0547人間七七四年
2013/02/14(木) 21:14:16.64ID:pCxoAMJp> 義龍生きてたら混乱も分裂もクーデタ騒ぎも起きないから
1556年から1561年までの間に信長は反信長勢力への義龍の介入を斥け尾張をほぼ掌握し、西方からの脅威もほぼ無くなっている。
そうした信長の猛攻をいつまでしのげたもんか。
0548人間七七四年
2013/02/14(木) 21:21:36.04ID:MxNAfLHJ龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか 二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する
と寝返りばかりおきまくったりしてそれまでの間は撃退しまくってるし
義龍生きてたら混乱も分裂もクーデターも起きるわけないからそんな美濃攻略は不可能
0549人間七七四年
2013/02/14(木) 21:31:01.71ID:MxNAfLHJ六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、
斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、
尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、
宗教統制を改革中に急死。
0550人間七七四年
2013/03/07(木) 10:57:12.88ID:DLxhOUw6だから義龍も信長の美濃侵攻は難なくはね返せるが逆に尾張に
侵攻しようとすると背後の浅井が動くので難しかった。
義龍若死にが無ければ、そのままお互い決め手の無いまま両者
とも寿命を迎えた可能性もある。
0551人間七七四年
2013/03/07(木) 14:01:12.35ID:ygLG4Uh6織田と挟撃すれば領地増やせたと思うのだが
0553人間七七四年
2013/03/08(金) 13:59:14.72ID:ZsRHwgH7549 名前:記憶喪失した男 忍法帖【Lv=5,xxxP】(1+0:3) :2013/03/11(月) 20:14:24.46 ID:lhu94D0j0 ?2BP(333)
戦国時代板見ていた。
どうしても、不思議な謎があるんだよ。
つまり、おれの組織体験において、天皇家と公家は忍術を使う。
つまり、朝廷が戦国時代で負けたのは、家康の伊賀越えにおいてである。
というのがおそらく歴史の真相であり、天皇家の秘密。
背中の後ろに隠れる。壁の後ろに隠れるなどの単純な視覚技術によって、
本人と影武者が入れ替わることである。
熊野にも近い。
つまり、天皇家の隠れ里なのだ。
http://ncode.syosetu.com/n1646be/28/
わたしは自分の幻覚譫妄状態における秘密をほとんどばらした。
それによると、
日本で重要な県は、
一、山梨:富士山を登る山梨側の登山道に、富士の秘密基地がある。
二、和歌山:三重県の熊野の隠れ里が和歌山県側にある。
三、宮崎:天孫降臨の地として、天皇の別荘地。
忍者と、朝廷と、空海と、蘭亭序をくっつけて考えているのはおれと天皇家くらいだろう。
0561人間七七四年
2013/03/11(月) 23:10:22.39ID:VtjlTHp70563人間七七四年
2013/03/12(火) 13:07:02.55ID:YvwLBXEB0564人間七七四年
2013/03/13(水) 00:46:57.00ID:VrLVywI7少弐さんはよくもまぁあれだけ討死してるのに一族が絶えなかったよな
大量討死するのが前提で子作りに励んだとしか思えない
天庵さまはあれだけ負け続けてなぜ死なないw
そのかわり家臣団が死にすぎてピンチだけど、こちらもなぜか忠臣が枯渇しないんだよなぁ
0565人間七七四年
2013/03/13(水) 21:17:34.51ID:evX2Whfa城の大半落としても、捕虜にしても起誓文取り交わして返還するのが慣わしだから
0566人間七七四年
2013/03/20(水) 18:36:34.58ID:s5sx/dcB業者じゃ生産する気ない、もうあきらめろって
0567人間七七四年
2013/03/20(水) 18:51:41.84ID:lSOBUMwz0568人間七七四年
2013/03/24(日) 07:48:26.49ID:9n2T3WkG信長の盟友を気取るには少々石高が低すぎてバランス取れてないよ、その辺信長死ぬまで服従してた家康は弁えてたね
0569人間七七四年
2013/03/24(日) 11:25:03.77ID:kj7b/kH30570人間七七四年
2013/03/28(木) 18:59:47.06ID:igSD+C7R浅井を江北の領主なんて誤解をしてるから、わけが判らなくなる。
浅井は領主の圧迫から国人を解放した英雄に過ぎない。
そんなのが急に領主面して明日から織田と組むとか言ったって平和呆けした国人どもなら暴動を起こすだけ
三河の小さいなりにも親分を張った松平某の孫で大国今川でもそれなりに幅を利かせてた松平元康公とは一緒にはできん
0571人間七七四年
2013/03/28(木) 23:22:29.86ID:C7GeTACe従属でも一定の独立性を保てたから今川時代よりは立場が良いし
0572人間七七四年
2013/04/03(水) 23:58:06.14ID:euG7FCtX0573人間七七四年
2013/04/04(木) 00:11:11.84ID:PAYLAyiL0574人間七七四年
2013/04/09(火) 20:01:58.71ID:zHMi5ore義道も義定も義清も特に落ち度ないだろ
0575人間七七四年
2013/04/13(土) 18:45:21.43ID:gf8sSVYI黒田官兵衛親子 伊達政宗 真田信之 前田家 直江兼続 立花宗茂 織田有楽斉
豊臣家 秀次粛清劇で詰み
武田家 信玄の弟の信繁の死で詰み
さすがに秀次一族の粛清劇は明らかにやりすぎで
家康と利家も嘆き眉を潜めた
0576人間七七四年
2013/04/13(土) 19:51:37.43ID:hKo/MA2l0577人間七七四年
2013/04/13(土) 21:49:14.37ID:lkURtdkS秀次事件ではあれ以上最善の対応はあるまい
生まれてすぐ秀頼を殺すと言う手もあるが、現実的じゃないしな
0578人間七七四年
2013/04/13(土) 23:46:00.65ID:gf8sSVYIせめて弟の秀長が長生きしていれば
状況はかなり違っていたはず…
あまり優遇しなかった黒田もいち早く家康についた
0579人間七七四年
2013/04/14(日) 02:50:55.13ID:MPZpKPXp臣下になって20年も経たない程度の関係だから
主家と心中する程の関係を形成するのはかなり困難
ちなみに黒田は優遇されていたと思うけど
秀吉の配下としては新参の外様に当たるが、蜂須賀や堀尾といった割と古い武将や
縁戚の浅野などと同じぐらいの待遇を受けていた訳だし
0580人間七七四年
2013/04/14(日) 13:23:07.58ID:ph0Dv9LL武家官位制や武家清華家など国家体制内序列秩序を確立させ下克上されないシステムを作ろうとした。
それを破壊したのは子飼の福島を中心とした武断派の暴挙
0581人間七七四年
2013/04/14(日) 16:57:26.39ID:GKo/qn6n0582人間七七四年
2013/04/14(日) 21:30:07.82ID:q0SJhLiC0583人間七七四年
2013/04/16(火) 17:07:47.27ID:Qoy+HWIKそれとも一条や今川のように・・・・
0584人間七七四年
2013/04/21(日) 19:47:42.54ID:xVTYET0X0585人間七七四年
2013/06/03(月) 00:14:24.53ID:2ybziRMx0586人間七七四年
2013/06/03(月) 00:38:44.39ID:1wmnsEVf東海道 ・・・ 同盟国の今川ががっちり
関東 ・・・ 同盟国の北条に配慮
上野 ・・・ 長野にコテンパン
信濃 ・・・ 謙信にコテンパン
ってのがね
村上にも手こずってたくらいだし
駿河に侵攻した時に北条が邪魔せずに同盟を継続してくれてれば歴史はだいぶ違っただろうね
0587人間七七四年
2013/06/05(水) 18:53:37.92ID:kMfWUrxI0588人間七七四年
2013/06/05(水) 19:17:16.59ID:mLfvyrtb0590人間七七四年
2013/06/20(木) 00:21:03.92ID:u+DJvWi2その上、内訌で自壊していったからつけ入る隙は多かったと思う
まあ、毛利自身も内訌に苦しんでいたから決して楽だったとは言えないが
0591人間七七四年
2013/06/29(土) 18:29:25.32ID:JJS0YRkkなまじ力があるからガンガン同盟破棄しまくって気づけば周りは敵だらけ
三国同盟破棄で駿河侵攻して平定したり、甲相同盟反古にした御舘の乱介入で北信割譲など短期的には上手くいってるように見えるけど
それがかえって反武田連合(仮)の結成に繋がってるというね
0592人間七七四年
2013/06/29(土) 19:05:48.34ID:57WgTR5O滅亡の危機なんてまったくなかったしね。
軍記講談の誇張に騙されすぎ
0593人間七七四年
2013/06/29(土) 19:27:52.55ID:Ckwd2El6まーたそうやって無知なレスした後に、
武田厨を装って過去の論破レスをコピペして
さらに追撃でコピペ荒らしだがは市ねってレスするくだらない三段階自演するのか?
さすが基地外在日織田厨の日課は恨が源泉だから日本人には理解不能だな。
0594人間七七四年
2013/06/30(日) 09:20:41.49ID:TukDea0U0595人間七七四年
2013/06/30(日) 09:42:23.35ID:Cjj0p3sG0596人間七七四年
2013/06/30(日) 12:25:18.72ID:W4MkKgMc武田厨を装うコピペが投下され、織田厨がだが認定するくだらないコンボ発動の繰り返しで荒らしてんじゃねぇかw
あきらかに織田厨が罠に陥れるための様式美じゃんw
しかもそのコピペに対しても、す「すでに論破されたネタ」
などと主張するが一度たりとも論破している過去レスは見たことないし、
コピペに対してキチンと反論コピペをつくって無力化すればといっても
「キチガイの相手をするやつはいない」とか言って織田厨は常に逃げてるだけ。
0598人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:JQrPbQuU三国同盟を破ったのは今川。
今川が上杉と結んで武田を挟撃しようとしたので
越後が動けない冬に武田が駿河攻めをした。
甲相同盟にしたって、北条が武田に丸投げしてぜんぜん越後にやってこないことを勝頼は不審がってるし
その状況に付け込んで徳川が武田領へ侵攻してるのをこれ以上は放置できない状況の中で
ピンチの景虎のために景勝との間で和睦させる努力をしてたじゃねぇか。
実際、勝頼が景虎支援をしていたから、景勝は「あれは表向きだよ」って家臣にあわてて説明してる。
景虎と景勝の和平を勝頼は見届けてから徳川攻めへ急いで向かってるし。
年頭贈答で氏直と勝頼は挨拶してるし、その後、勝頼は織田・徳川攻撃を義昭・毛利に約束してて北条を敵視してない。
そんなときに厩橋北条がいきなり北条から離反する状況が生まれると同時に
北条と徳川が同盟し家康が信康を斬るトンデモ展開になって
北条と徳川が伊豆と駿河で武田攻めの挟撃を開始したのであって
武田が破ったわけじゃない。
0599人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:JQrPbQuU>>597とか具体的根拠すら書かないアホレスで煽ってるだけだし
0600人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:vnBC75jH0602人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:NgwXgPdF氏邦勢+上野国衆こぞって出兵して坂戸方面攻撃しまくってるのに
0603人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:Z2ERuH5n厩橋北条や他上野諸侯を先に派遣し7/17沼田城攻略 そのまま越後上田荘に侵攻し樺沢城などを攻略
さらに坂戸城も攻撃
8月になると氏邦本軍も上野に進出し9月には越後方面へ進撃上田荘まで進出
これだけでも相当な数じゃないの?
上野の景虎派諸将、例えば北条(きたじょう)なんかは越後で越冬してるよ
冬期で坂戸とかあの辺りで万余の兵糧は確保は乱捕りしたって難しいかと
0604人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:di09zCqI0605人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:z+EtltV40606人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:HCbxY6uD5/13に景虎が春日山から退去したのを受けて
氏政が勝頼に支援要請がきたので5/29日以前に越後へ向け先陣の信豊出陣。
6/29に春日山近辺に到着した勝頼が、
真田相手に勝頼は北条軍来ないって不満言ってる。
8/22徳川軍が駿河田中城攻撃開始。
8/28徳川に対応すべく勝頼は越後を去る。
9/4駿河山西地方へ侵攻していた徳川軍が退却。
これと同時期で北条がやっと坂戸城攻め開始。
またこの時期には景虎は勝頼から支援を受けていると書いている書状もある。
9月下旬再度、徳川が田中城を攻める動きを示したので、
9/22先陣を穴山に派遣し、
勝頼本人も出陣の意向を高天神城へ伝える。
9/24勝頼が景勝へ約束した景勝と景虎の和睦が破れたことを不満に思う書状を出す。
0607人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:HCbxY6uD0609人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:HCbxY6uD蒲沢城将になったのは12月に氏政が河田に在城するように命じてからで、それ以前は沼田城将だったね…
それで北条氏邦が沼田城守備に変更になったんだった。
そういや白井長尾の長尾憲景も北条方だったね。
0610人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:JQrPbQuU天正7年8月に武田と北条が敵対関係になるものの
終始押されっぱなしの氏政は一年後の8/19に、
ついに武田の攻勢への守備に自信をなくして
突如、家督譲渡をやって当主である時期での汚名を受けることを避けて
19歳の氏直に当主の座を押し付け隠居した。
甲相同盟破綻から1年で当主の地位から逃亡する氏政w
0611人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:JQrPbQuU北条は織田に降伏して織田分国にしてもらえるよう土下座してきたと書いてるほど
織田の属国となり大名の地位を捨て去るほど勝頼に追い詰められた氏政www
氏政が落ちぶれ濡れ雑巾のような哀れな姿が目に浮かぶwww神奈川県民の恥www
0612人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:zp+el1M5逆に追い詰められていたのは勝頼の方だよなぁ。
四面楚歌で信長が動いたら武田方即離散。
しかし、勝頼の何がいけなかったのだろうか。
個人的には勝頼は頑張っていたと思うんだけどなぁ。
やっぱ外交?
0613人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:KS2htism織田による和睦詐欺
0614人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:qOIcwj0i0615人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:Hw/CLJLn北条が織田と通じた場合もっと悲惨なことになってたよ
景虎は間違いなく越中戦線で柴田勝家とぶつかる訳で北条的には織田と全面戦争するのは避けたいところだろうし
だから景勝と組んで上野ゲットしたまでは次善の策だったと思う
後は和睦詐欺の間に徳川を抑えつつ北条を屈服させてればね
これがどう考えても無理っぽいから詰んでるわけで
0616人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:pnd4iOa+0617人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:e3ZPc43/結局上杉が放棄した東上野を真田が切り取っただけ
0618人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:9SMvkEpj0619人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:PnikgRVW織田に土下座した時の3月の氏政は「このままでは北条は滅亡してしまう」って嘆いているくらいだからな。
>>610
氏政は氏直が出陣中に抜き打ちで隠居表明するほど焦りまくりw
これ沼田城落城前に当主の座を降りりて責任逃れするためwww
これに調子づいた勝頼が北条と決戦すべく出陣表明し、
一機に金山城館林城を焼き討ちしてまわったので
氏政も全軍を率いて本庄まできたものの
勝頼が利根川を渡ってきたのでさっそく逃亡www
佐竹もモタモタして小山止まりで足利に来ないので
義重の違約を抗議してる。
その後、沼田攻略成功で真田が手空きになったので
天正9月が始まるや八王子方面などからの不意の北条からの攻撃に備えるべく新府城築城の人夫を出させてる。
その勢いを知った里見も同盟参加交渉が開始され
伊豆では武田水軍が圧倒しまくりで
本格的な武田・佐竹・里見同盟と佐竹ルートによる織田との和睦交渉も追加された。
この伊豆での優勢から伊豆の入り口にあたる戸倉城の笠原政晴が武田に寝返り韮山城を攻めたので
武田はついに小田原突撃への道が切り開かれ、勝頼も出陣し
最前線ラインが12/5には玉川表(三島)まで食い上げられた。
そして寒さが厳しくなってきたので19日に勝頼は帰国し24日に新府城に初めて入城した。
来年には小田原まで食い破るつもりだったろうが、木曽氏の織田への内通と浅間山噴火で武田はパニックのまま滅亡。
0620人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:KoteBJgL利根川を渡る寸前には膳城で勝頼は鎧も着けずに突っ込んで落城させた素肌攻めやって、
士気の上がり方がハンパなかったって話だから
氏政のビビりようも相当だったろうな。
まあ、なんにせよ由良の金山城を背後に利根川を渡河するあたり勝頼の自信の程が窺われる。
まあ謙信と違って利根川渡っても西上野から帰れるから、
謙信ほどのリスクは無いのだけどそれでも鉢形城を横に見ながらの撤退にはなるからな。
しかし金山城の堅城ぶりは異常だよな。
北条はなにもやってないが、金山城が落ちないから利根川以南や
金山以東が上杉側に染まらずに済んでるからな。
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