滅亡した大名家はどの時点で詰んでいたか
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2012/06/07(木) 21:30:09.77ID:cMVBhgd80488人間七七四年
2012/12/14(金) 22:02:15.10ID:3vGtEHPoなんか時系列おかしくないか。
長篠後の織田からすれば、武田の方から進出してこない限りは捨て置けばいい訳で、和睦する必要は無い。
実際、それで西や北陸に集中できた。
ましてや武田と同盟なんて上杉を余計に刺激するだけで、何のメリットも無い。
上杉と武田が和睦するのは御館の途中だから。
0489人間七七四年
2012/12/15(土) 17:31:32.51ID:6nNEniMK1豊臣秀頼
2織田信長
3細川晴元
4大内義隆
5大友義鎮
6伊達稙宗
7足利晴氏
8上杉憲政
0491人間七七四年
2012/12/15(土) 20:59:45.18ID:E/T/DxMwまったくだw
機を見るに敏、と褒めるべきか、
田舎もんは自分の身代さえ守れりゃいいのかよ、と罵るべきか。
0492人間七七四年
2012/12/15(土) 21:14:37.73ID:MH6PQssl実際は織田に降ってても問題なかったんだろうな
どーせ甲斐一国に押し込まれて信濃の大名は織田の与力になったんだろうし
0493人間七七四年
2012/12/16(日) 09:04:13.24ID:hFcEN0dZ他にもそういう無理矢理な例ってあるの?
0494人間七七四年
2012/12/16(日) 12:05:10.16ID:MbjU1MUDそんな例いくらでもあると思うが。
朝倉、浅井、北畠、山名も似たようなもんだし。
村重が信長に弁明しに行こうとしたら、中川に止められて謀反を決意したら
真っ先に中川が寝返ったでござるの巻とかな。
0495人間七七四年
2012/12/16(日) 13:37:38.84ID:uiO2OGJuそんな例いくらでもある。
三好秀次、藤田氏邦、小早川秀秋、結城秀康、佐野信吉、高坂昌信、山県昌景、直江兼続、、
0496人間七七四年
2012/12/17(月) 03:22:55.44ID:/vqWpYnvしょせん豪族なんだし自分の権益を守れるかどうかしか本質的に興味はないんだから
0497人間七七四年
2012/12/17(月) 16:10:47.03ID:MmdqKR010498人間七七四年
2012/12/17(月) 16:48:10.83ID:GXI63/t80499人間七七四年
2012/12/19(水) 03:16:28.16ID:O9CCJNkeどこの国の歴史学んでるんだ
0500人間七七四年
2012/12/19(水) 09:26:27.50ID:llSfdtM4もう没落を通り越して滅亡したみたいな感じになってただろうな
やけくそで無楽斎とか言ってたし
0501人間七七四年
2012/12/19(水) 11:36:39.48ID:bnQk4hpu信雄・秀信は改易
信孝は死亡
0502人間七七四年
2012/12/19(水) 12:53:14.88ID:5nGFPKRw以後スルー願います
0503人間七七四年
2012/12/20(木) 13:38:56.94ID:pevICFKa長篠以降も勝頼はそれなりの規模の軍事行動をおこせていたし、北条も徳川も勝頼との
直接決戦は避けるほどの軍事力を持っていた。
それが、高天神城を攻撃された時に後詰めも出せずに見殺しにした事で、勝頼の声望が
地に落ちて家臣の離反を招き、信長・家康の攻撃に対してたいした抵抗もできずに
天目山に至った。
逆に言えば家康にとって高天神城を落とした一手が「王手」であって、純粋に戦略的には
無価値な高天神城を孤立させるために、城攻めの前にきっちりと高天神城を孤立させて
後詰めが不可能な状況に持って行った家康の戦略的な堅実さ(ねちっこさ)は見事といわざるを
えない。
勝頼もまさかその一手が大きな影響を与えるとは思ってなかったろうし、たとえれば羽生の
「伝説の5二銀」を打たれたような、そんな決定的な局面だったと思う。
ifの話をすれば、高天神城自体は敵中に孤立していて戦略的な意味はほとんどなかったので、
勝頼が高天神城を落とされる重要性を認識して撤退していれば、家臣団の離反も招かずに
延命のための行動の自由は保てていた可能性は高いと思う。
信長・家康の進行に対しても、もっと食い止めて時間を稼いで、外交的に挽回するとか。
0504人生七七四年
2012/12/20(木) 20:01:55.63ID:wkXi66p6勝頼の息子を指名してたせいだと思ったが。
0505人間七七四年
2012/12/20(木) 20:35:31.28ID:5M5o3NQv性格が破綻してたんろう つまり幼児教育からして失敗そして詰んでいた
0506人間七七四年
2012/12/20(木) 21:31:02.95ID:L0+2Uiinんでそいつらが家臣になってるでしょ
0507人間七七四年
2012/12/20(木) 21:37:06.83ID:6tYdDYH6そこまでさかのぼると、詰みとはいえないんじゃないかな。
不安材料ではあるけど、致命的なほどではないと思う。
勝頼の息子を指名したとしても、その後うまく経営していく方法はいくらでもあったろうから。
0508人間七七四年
2012/12/21(金) 15:40:29.57ID:kyDiEvld有楽斎って全体でみれば出世しまくりだろ
徳川に何の縁もなく大した兵を率いてなかったのに
戦後になって5万石の大名だろ?
5万石がしょぼいみたいに言われてるが本多忠勝ですら10万石ちょっと
井伊直政の子供が35万石貰っただけで新顔の徳川家臣としては優秀なくらい
最盛期の織田を知るって言っても本能寺の変はほかならぬ信長が招いたことだし
むしろ滅亡しなかっただけマシな方じゃないか?
0509人間七七四年
2012/12/21(金) 15:53:13.93ID:CGS2g9Tw0510人間七七四年
2012/12/21(金) 16:27:04.95ID:3d8wxdHf0511人間七七四年
2012/12/21(金) 22:29:47.73ID:XyIg89pP北条とか織田とか言い訳が見苦しいし話が先に進まない
0512人間七七四年
2012/12/24(月) 10:42:48.02ID:ve9cyoPL0513人間七七四年
2012/12/24(月) 12:59:01.75ID:Ng9ykPG10514人間七七四年
2012/12/24(月) 14:50:44.56ID:/kKCmLaH北条ですら江戸時代に生き残ったもんな。
0515人間七七四年
2012/12/26(水) 11:28:22.10ID:hQ+CUb66内ヶ島ぐらいじゃないのか?
0516人間七七四年
2012/12/26(水) 15:08:32.87ID:JIY1ADJJ0517人間七七四年
2012/12/26(水) 20:05:54.09ID:Fyz/HwI80518人間七七四年
2012/12/28(金) 11:56:36.79ID:+l/IWTwh0520人間七七四年
2012/12/30(日) 11:38:52.15ID:pd31QNHK滅び方が美しい
比べて武田はやはり源氏
0521人間七七四年
2012/12/30(日) 16:01:52.93ID:rHuX9KJ1「へっあんな猿なんかに従えるかよ。こっちには上杉武田の猛攻にも耐えた小田原城あるんだぜ」
って調子こいてるうちに囲まれて
「やばいよやばいよ」「出撃しようよ」「やっぱ籠ってようよ」っていたずらに月日を重ねて
総攻めされてろくに戦わずに滅んだ家が美しいって?
0522人間七七四年
2012/12/30(日) 19:27:46.90ID:PrSvCppM521はこの板じゃ生きていけないだろうなw
0523人間七七四年
2012/12/30(日) 21:05:33.78ID:S4kF2+Ni城燃やし、城下町も燃やし、町人を路頭に迷わして、
その上で一族全滅する方が、美しいと感じる向きがあっても良い、と思う。
私は賛成しないけどねw
あとまあ福原焼いて落ち延びた伊勢平氏さんあたりが、どう違うの?
と言われたら、反論できないのも確かだけど。
0525人間七七四年
2012/12/31(月) 12:59:32.44ID:UarhPV61八王子城 1日で落城
美しいらしい
0526人間七七四年
2012/12/31(月) 13:11:50.14ID:9El47jln兵力比は7.5倍
忍城1000小田原1000に手も足もでず
韮山500に大苦戦
0527人間七七四年
2012/12/31(月) 21:04:53.39ID:R0i3ZAG+皆、最後まで裏切らず戦っているなぁ
0529人間七七四年
2013/01/01(火) 11:22:59.31ID:Iht3Uxs1軍記物によれば、天正18年1月20日の小田原評定において、北条氏邦は出撃を提案。
氏照氏邦のどちらかが先陣。どっちがするかは、くじ引きで決める云々とあります。
しかし北条氏直は、天正17年12月26日の書状で、
上野国衆に対し氏邦の指揮下に入るよう指示しています。
氏邦が上野方面の指揮を執ることは、
軍記物の記述より一月は前に決まっていたことが分かるのです。
さように軍記物は、あてにならない節があります。
巷間、後北条は「小田原城の堅固さをあてに豊臣への臣従を拒んだ」と言われています。
しかし「氏政の上洛には、配下の諸勢から五騎程ずつ出させることを依頼するので、
各国衆への奏者には下知しておく事」(天正17年7月14日。氏政から氏邦へ)
「氏政の上洛費、一貫八四八文三十日までに納入すること」(天正17年10月14日。氏忠から高瀬紀伊守へ)
などなど見られるように、臣従を拒んだ、とまでは言えません。
精々、臣従に積極的ではなかった、程度のことでしょう。
秀吉は、連絡無い! と言っていますが、
少なくとも11月段階で宿老の一人を上洛させていますから、それは過言です。
それで充分と言う話もあります。最低領国の分割が必要な程度には後北条領国は巨大だったと言う事でしょう。
上野では検地が行われ、軍役が課せられ、馬廻衆の集住が進められています。
下総も、まあ同じ状況でした。
武蔵に、独立国衆領を抱えていたとは言え、直轄領だけで結構な規模でしたから。
ですので北条が詰んだのは、その領国を豊臣政権に負けない規模に拡大できなかった時だと思います。
ちなみに、なんで積極的でなかったか? と言いますと、こっから先は妄想ですが、この段階で秀吉は唐入りを公言してるんですよね。
で、一般論から言いますと、そういう場合、新規の外様は先陣です。
0530人間七七四年
2013/01/01(火) 15:06:31.64ID:eN5ckuXP関東八州諸城人数覚書や北条家人数覚書に1000と書いてる
お前松田典秀の軍勢を小田原と書いてないのに下山の誤記を取り上げて小田原だとか勝手に捏造した前スレの馬鹿だろ
0531人間七七四年
2013/01/01(火) 20:04:20.34ID:w4PmCAJCと、言うと、指揮下の軍勢は居なかった、とか言いそうですね。この人。
なにしろ、このスレッドは「滅亡した大名家はどの時点で詰んでいたか」であり、
前スレなんぞ存在しないのに…いやはや。
ツッコミ入れるときりがないのですが、どうやら行間読めないと言う病気の方のようなので、
これまでに。お大事に。
0532人間七七四年
2013/01/01(火) 20:58:46.22ID:eN5ckuXPそれはないな
松田の横の所には何もかかれてないし
最低でも指揮下の軍勢は別の所だろ
0533人間七七四年
2013/01/01(火) 21:02:26.08ID:KDyPcKcG普通に考えて守備はそこだろ
確か子供の笠原が豊臣方に寝返ろうとして氏直に成敗されてたはず
0534人間七七四年
2013/01/04(金) 11:08:59.78ID:2RT3cVmS1000人じゃなくて1000騎だからそんなものだと思う
謙信の小田原包囲が11万5千人で3000騎ぐらいだから
1000騎なら4万人ぐらいの計算になるし
0535人間七七四年
2013/01/04(金) 13:00:54.70ID:sVTb18Qx0536人間七七四年
2013/01/04(金) 13:04:57.16ID:emBCRlh7馬上身分だけを示すとかアホすぎるだろ
3月28日豊臣秀吉状で
5万騎にて山中城攻め崩しとか書いてるけど馬上身分だけで5万もいたのかって話
0537人間七七四年
2013/01/04(金) 16:25:37.52ID:vT+YMa52馬、関係ない
0538人間七七四年
2013/01/11(金) 09:40:10.22ID:+eUzeJBi大袈裟にするためわざとやってるのか、無知でやっているのかは謎だが
どのみち騎馬武者だけの数か、雑兵まで含めているのかは常識で考えれば簡単に分かる事だ
0539人間七七四年
2013/02/08(金) 01:41:34.77ID:QAmVlXPCこんだけ戦力があるんだぞー、というアピールだろうね
0540人間七七四年
2013/02/08(金) 09:22:42.89ID:1wX/hx8A0541人間七七四年
2013/02/14(木) 05:15:07.20ID:T9o5lKGn0542人間七七四年
2013/02/14(木) 06:49:13.45ID:1QQflUCE0543人間七七四年
2013/02/14(木) 07:07:48.41ID:MxNAfLHJ0544人間七七四年
2013/02/14(木) 16:10:57.88ID:SuN30rCm0546人間七七四年
2013/02/14(木) 20:29:05.36ID:MxNAfLHJ0547人間七七四年
2013/02/14(木) 21:14:16.64ID:pCxoAMJp> 義龍生きてたら混乱も分裂もクーデタ騒ぎも起きないから
1556年から1561年までの間に信長は反信長勢力への義龍の介入を斥け尾張をほぼ掌握し、西方からの脅威もほぼ無くなっている。
そうした信長の猛攻をいつまでしのげたもんか。
0548人間七七四年
2013/02/14(木) 21:21:36.04ID:MxNAfLHJ龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか 二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する
と寝返りばかりおきまくったりしてそれまでの間は撃退しまくってるし
義龍生きてたら混乱も分裂もクーデターも起きるわけないからそんな美濃攻略は不可能
0549人間七七四年
2013/02/14(木) 21:31:01.71ID:MxNAfLHJ六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、
斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、
尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、
宗教統制を改革中に急死。
0550人間七七四年
2013/03/07(木) 10:57:12.88ID:DLxhOUw6だから義龍も信長の美濃侵攻は難なくはね返せるが逆に尾張に
侵攻しようとすると背後の浅井が動くので難しかった。
義龍若死にが無ければ、そのままお互い決め手の無いまま両者
とも寿命を迎えた可能性もある。
0551人間七七四年
2013/03/07(木) 14:01:12.35ID:ygLG4Uh6織田と挟撃すれば領地増やせたと思うのだが
0553人間七七四年
2013/03/08(金) 13:59:14.72ID:ZsRHwgH7549 名前:記憶喪失した男 忍法帖【Lv=5,xxxP】(1+0:3) :2013/03/11(月) 20:14:24.46 ID:lhu94D0j0 ?2BP(333)
戦国時代板見ていた。
どうしても、不思議な謎があるんだよ。
つまり、おれの組織体験において、天皇家と公家は忍術を使う。
つまり、朝廷が戦国時代で負けたのは、家康の伊賀越えにおいてである。
というのがおそらく歴史の真相であり、天皇家の秘密。
背中の後ろに隠れる。壁の後ろに隠れるなどの単純な視覚技術によって、
本人と影武者が入れ替わることである。
熊野にも近い。
つまり、天皇家の隠れ里なのだ。
http://ncode.syosetu.com/n1646be/28/
わたしは自分の幻覚譫妄状態における秘密をほとんどばらした。
それによると、
日本で重要な県は、
一、山梨:富士山を登る山梨側の登山道に、富士の秘密基地がある。
二、和歌山:三重県の熊野の隠れ里が和歌山県側にある。
三、宮崎:天孫降臨の地として、天皇の別荘地。
忍者と、朝廷と、空海と、蘭亭序をくっつけて考えているのはおれと天皇家くらいだろう。
0561人間七七四年
2013/03/11(月) 23:10:22.39ID:VtjlTHp70563人間七七四年
2013/03/12(火) 13:07:02.55ID:YvwLBXEB0564人間七七四年
2013/03/13(水) 00:46:57.00ID:VrLVywI7少弐さんはよくもまぁあれだけ討死してるのに一族が絶えなかったよな
大量討死するのが前提で子作りに励んだとしか思えない
天庵さまはあれだけ負け続けてなぜ死なないw
そのかわり家臣団が死にすぎてピンチだけど、こちらもなぜか忠臣が枯渇しないんだよなぁ
0565人間七七四年
2013/03/13(水) 21:17:34.51ID:evX2Whfa城の大半落としても、捕虜にしても起誓文取り交わして返還するのが慣わしだから
0566人間七七四年
2013/03/20(水) 18:36:34.58ID:s5sx/dcB業者じゃ生産する気ない、もうあきらめろって
0567人間七七四年
2013/03/20(水) 18:51:41.84ID:lSOBUMwz0568人間七七四年
2013/03/24(日) 07:48:26.49ID:9n2T3WkG信長の盟友を気取るには少々石高が低すぎてバランス取れてないよ、その辺信長死ぬまで服従してた家康は弁えてたね
0569人間七七四年
2013/03/24(日) 11:25:03.77ID:kj7b/kH30570人間七七四年
2013/03/28(木) 18:59:47.06ID:igSD+C7R浅井を江北の領主なんて誤解をしてるから、わけが判らなくなる。
浅井は領主の圧迫から国人を解放した英雄に過ぎない。
そんなのが急に領主面して明日から織田と組むとか言ったって平和呆けした国人どもなら暴動を起こすだけ
三河の小さいなりにも親分を張った松平某の孫で大国今川でもそれなりに幅を利かせてた松平元康公とは一緒にはできん
0571人間七七四年
2013/03/28(木) 23:22:29.86ID:C7GeTACe従属でも一定の独立性を保てたから今川時代よりは立場が良いし
0572人間七七四年
2013/04/03(水) 23:58:06.14ID:euG7FCtX0573人間七七四年
2013/04/04(木) 00:11:11.84ID:PAYLAyiL0574人間七七四年
2013/04/09(火) 20:01:58.71ID:zHMi5ore義道も義定も義清も特に落ち度ないだろ
0575人間七七四年
2013/04/13(土) 18:45:21.43ID:gf8sSVYI黒田官兵衛親子 伊達政宗 真田信之 前田家 直江兼続 立花宗茂 織田有楽斉
豊臣家 秀次粛清劇で詰み
武田家 信玄の弟の信繁の死で詰み
さすがに秀次一族の粛清劇は明らかにやりすぎで
家康と利家も嘆き眉を潜めた
0576人間七七四年
2013/04/13(土) 19:51:37.43ID:hKo/MA2l0577人間七七四年
2013/04/13(土) 21:49:14.37ID:lkURtdkS秀次事件ではあれ以上最善の対応はあるまい
生まれてすぐ秀頼を殺すと言う手もあるが、現実的じゃないしな
0578人間七七四年
2013/04/13(土) 23:46:00.65ID:gf8sSVYIせめて弟の秀長が長生きしていれば
状況はかなり違っていたはず…
あまり優遇しなかった黒田もいち早く家康についた
0579人間七七四年
2013/04/14(日) 02:50:55.13ID:MPZpKPXp臣下になって20年も経たない程度の関係だから
主家と心中する程の関係を形成するのはかなり困難
ちなみに黒田は優遇されていたと思うけど
秀吉の配下としては新参の外様に当たるが、蜂須賀や堀尾といった割と古い武将や
縁戚の浅野などと同じぐらいの待遇を受けていた訳だし
0580人間七七四年
2013/04/14(日) 13:23:07.58ID:ph0Dv9LL武家官位制や武家清華家など国家体制内序列秩序を確立させ下克上されないシステムを作ろうとした。
それを破壊したのは子飼の福島を中心とした武断派の暴挙
0581人間七七四年
2013/04/14(日) 16:57:26.39ID:GKo/qn6n0582人間七七四年
2013/04/14(日) 21:30:07.82ID:q0SJhLiC0583人間七七四年
2013/04/16(火) 17:07:47.27ID:Qoy+HWIKそれとも一条や今川のように・・・・
0584人間七七四年
2013/04/21(日) 19:47:42.54ID:xVTYET0X0585人間七七四年
2013/06/03(月) 00:14:24.53ID:2ybziRMx0586人間七七四年
2013/06/03(月) 00:38:44.39ID:1wmnsEVf東海道 ・・・ 同盟国の今川ががっちり
関東 ・・・ 同盟国の北条に配慮
上野 ・・・ 長野にコテンパン
信濃 ・・・ 謙信にコテンパン
ってのがね
村上にも手こずってたくらいだし
駿河に侵攻した時に北条が邪魔せずに同盟を継続してくれてれば歴史はだいぶ違っただろうね
0587人間七七四年
2013/06/05(水) 18:53:37.92ID:kMfWUrxI■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています