滅亡した大名家はどの時点で詰んでいたか
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0001人間七七四年
2012/06/07(木) 21:30:09.77ID:cMVBhgd80002人間七七四年
2012/06/07(木) 21:59:59.90ID:OO1uiFtl武田:長篠
北条:上洛命令を無視
浅井:お市の方の輿入れ
織田:本能寺(織田家は滅亡していないが実質滅亡)
豊臣:家康に250万石も与えた
真田(昌幸のほう):犬伏
0003人間七七四年
2012/06/07(木) 22:01:44.19ID:lpI+n0T70004人間七七四年
2012/06/07(木) 22:05:48.15ID:cMVBhgd8それだよそれ、今川家の滅亡は氏真が悪いみたいに言われてるけど、
桶狭間の戦いで主な家臣団を失った中、家の混乱をまとめるのに必死だったのに、
親の仇を討たなかったとか処置にもたついたはねーわ
それを言うならどの道桶狭間の戦いで今川家ボロボロにされた時点で終わってた
0005人間七七四年
2012/06/07(木) 22:07:04.84ID:CiD9YT4B0006人間七七四年
2012/06/07(木) 22:13:26.52ID:cMVBhgd8勝頼自体は親が落とせなかった城を落とせるぐらいの実力はあったんだが、
如何せん周りからの信頼がなかったのか無理に親を越そうとしていた面があったっぽい
でもそもそもは諏訪家の血筋たる勝頼を後継ぎにしたのが悪いわけだし、
出家した次男や早世した三男はまだしも長男の正信が跡を継げなかったのは
駿河侵攻に反対した結果切腹させられたからだろ?
ならば駿河侵攻を行った時点で武田家の滅亡は決まっていたとも言えなくないか?
0007人間七七四年
2012/06/07(木) 22:14:16.68ID:COurgwU1武田は御館じゃない?
0008人間七七四年
2012/06/07(木) 22:15:18.87ID:thbB9w3g>それを言うならどの道桶狭間の戦いで今川家ボロボロにされた時点で終わってた
その理屈なら武田も長篠の時点じゃなく信玄が織田徳川に敵対した時になる
信玄が織田徳川に敵対しなければ滅ぼされることは無かった
勝頼は信玄の失態を何とか挽回しようと必死にがんばってたということ
0010人間七七四年
2012/06/07(木) 22:19:04.84ID:OO1uiFtl武田は義信事件が起きた時点で詰み
0013人間七七四年
2012/06/07(木) 23:29:45.43ID:OO1uiFtl0014人間七七四年
2012/06/07(木) 23:31:17.70ID:OO1uiFtl0015人間七七四年
2012/06/08(金) 00:09:54.24ID:zK7RKpez0017人間七七四年
2012/06/08(金) 02:17:18.59ID:ibUzmW3Dその後の転落っぷりを見ると
0018人間七七四年
2012/06/08(金) 04:31:34.85ID:DnkaL7fAさて、義信事件が起こらずして普通に義信が後継ぎになり、
後継ぎと家臣の不和がなければ織田徳川と敵対したとてどうなっていたのか
>>10
そうそう、俺もそれが言いたかった
0019人間七七四年
2012/06/08(金) 07:18:26.30ID:+hTNJ5WH義信が家督を継いでいたら穴山らは素直に従うであろう。勝頼は義信配下の猛将として名を馳せることに。
問題は今川。徳川が駿河に攻め込み、義信的には正室の実家・今川に援軍を送るだろうから結局、織田・徳川と敵対。
そして今川と心中するカタチで滅亡かも?
0020人間七七四年
2012/06/08(金) 07:28:54.05ID:XjjIJIsf武田信玄が実際に苦戦したのは織田・徳川同盟じゃなくて、
上杉・北条同盟の方だろ。
三国同盟のときに義信の嫁が北条であれば問題無かった。
0023人間七七四年
2012/06/08(金) 09:26:23.10ID:9nnH8/wy0024人間七七四年
2012/06/08(金) 09:27:40.14ID:9nnH8/wy0025人間七七四年
2012/06/08(金) 09:38:39.46ID:jI5CfQno0026人間七七四年
2012/06/08(金) 09:38:46.91ID:+hTNJ5WH今川:桶狭間山で休息をとった時点で詰み
北条;再三の上洛要請を拒否した時点で詰み
武田:義信事件で詰みor今川から義信の嫁をとった時点で詰みor典厩信繁戦死時点で詰み
浅井:浅井久政や頑固な老臣たちの発言権を封じることが出来なかった時点で詰み
真田昌幸:犬伏での決断で詰み
長宗我部:軍勢を関所で止められて戻った時点で詰み
豊臣:家康に250万石も与えた時点で詰みor小牧・長久手で詰みor秀次事件で詰みor秀頼誕生で詰みor淀の方を側室にした時点で詰み・・・などなど・・・詰みがたくさん・・・
石田:秀吉薨去で詰みor挙兵した時点で詰み
明智:(どこの時点で詰んだのか難解・・・
0027人間七七四年
2012/06/08(金) 11:05:02.06ID:YM1nCKYy0028人間七七四年
2012/06/08(金) 20:38:06.63ID:XjjIJIsf軍資金目当てで安土城に向かった時点で詰みだろう。
0029人間七七四年
2012/06/08(金) 21:50:43.40ID:SuXgPQmS「その後」のことを考えて根回し出来てなかったからあんなんなってしまったしなー
カッとなってとか魔がさしたとしか言いようがないな
実は実行理由は本人も分かってないんじゃなかろうかw
0030人間七七四年
2012/06/08(金) 21:56:02.93ID:+hTNJ5WH>実は実行理由は本人も分かってないんじゃなかろうかw
ワラタ、確かにあり得るw
0032人間七七四年
2012/06/09(土) 00:09:30.68ID:dyiIzwLG今川:桶狭間山で休息をとった時点で詰み
北条;再三の上洛要請を拒否した時点で詰み
武田:義信事件で詰みor今川から義信の嫁をとった時点で詰みor典厩信繁戦死時点で詰み
浅井:浅井久政や頑固な老臣たちの発言権を封じることが出来なかった時点で詰み
真田昌幸:犬伏での決断で詰み
長宗我部:軍勢を関所で止められて戻った時点で詰み
豊臣:家康に250万石も与えた時点で詰みor小牧・長久手で詰みor秀次事件で詰みor秀頼誕生で詰みor淀の方を側室にした時点で詰み・・・などなど・・・詰みがたくさん・・・
石田:秀吉薨去で詰みor挙兵した時点で詰み
明智:軍資金目当てで安土城に向かった時点で詰み
0033人間七七四年
2012/06/09(土) 00:15:21.61ID:dyiIzwLG0034人間七七四年
2012/06/09(土) 01:10:06.96ID:w0zoezDI0035人間七七四年
2012/06/09(土) 04:42:18.71ID:jhBE6hFw天目山で放浪しようと、江戸城で長話するだけの老人になろうと、八丈島に流されようと、
実は人生好転のチャンスは消えていない。
0036人間七七四年
2012/06/09(土) 04:48:26.44ID:oS0uudfM海が欲しいのに甲斐から近い関東平野にも東海道にも出れない
もし北陸の越後まで行けたとしても冬は積雪という状況になって身動きが取れない
東海道に関しては今川が滅びるまで徳川待つと北条との共同戦線は可能になるかもしれないが国力的に厳しくなる
かといって早めに手を出すと史実みたいに北条を敵に回す上に嫡子も死亡
関東平野は北条が強いので無理
どう考えても三国同盟で詰みだわ
0037人間七七四年
2012/06/09(土) 07:30:19.76ID:dyiIzwLG武田:義信事件で詰みor今川から義信の嫁をとった時点で詰みor典厩信繁戦死時点で詰みor三国同盟で詰み
0038人間七七四年
2012/06/09(土) 10:08:46.78ID:rdME5fh10041人間七七四年
2012/06/09(土) 10:28:23.35ID:dyiIzwLG今川:桶狭間山で休息をとった時点で詰み
北条;再三の上洛要請を拒否した時点で詰み
武田:義信事件で詰みor今川から義信の嫁をとった時点で詰みor典厩信繁戦死時点で詰み
浅井:浅井久政や頑固な老臣たちの発言権を封じることが出来なかった時点で詰み
真田昌幸:犬伏での決断で詰み
長宗我部:軍勢を関所で止められて戻った時点で詰み
豊臣:家康に250万石も与えた時点で詰みor小牧・長久手で詰みor秀次事件で詰みor秀頼誕生で詰みor淀の方を側室にした時点で詰み・・・などなど・・・詰みがたくさん・・・
石田:秀吉薨去で詰みor挙兵した時点で詰み
明智:軍資金目当てで安土城に向かった時点で詰み
柴田勝家:北陸(越前)指令官で詰み
0042人間七七四年
2012/06/09(土) 10:45:32.12ID:a240AqjF三成は筑前50万石拒否で詰みじゃないのかな?
左近も蒲生も家臣になってたよね
政権中央から離れれば…
とかifを考えてしまう
0045人間七七四年
2012/06/09(土) 12:56:21.90ID:jhBE6hFw1.敵対勢力との和睦交渉、投降は認めない
(例:宇喜多直家みたいなのは除外)
2.全領地を捨てて同盟勢力への逃亡は滅亡とみなす
(例:斎藤などは伊勢へ逃亡した時点で滅亡)
3.10倍以上の兵力差があった場合、必ず敗北すると仮定
(例:いろいろ)
こんなところか。
0047人間七七四年
2012/06/09(土) 20:52:39.85ID:dyiIzwLG今川:桶狭間山で休息をとった時点で詰み
北条;再三の上洛要請を拒否した時点で詰み
武田:義信事件で詰みor今川から義信の嫁をとった時点で詰みor典厩信繁戦死時点で詰み
浅井:浅井久政や頑固な老臣たちの発言権を封じることが出来なかった時点で詰み
真田昌幸:犬伏での決断で詰み
長宗我部:軍勢を関所で止められて戻った時点で詰み
豊臣:家康に250万石も与えた時点で詰みor小牧・長久手で詰みor秀次事件で詰みor秀頼誕生で詰みor淀の方を側室にした時点で詰み・・・などなど・・・詰みがたくさん・・・
石田:秀吉薨去で詰みor挙兵した時点で詰みor筑前50万石拒否で詰み
明智:軍資金目当てで安土城に向かった時点で詰み
柴田勝家:北陸(越前)指令官で詰み
0048人間七七四年
2012/06/09(土) 21:10:24.24ID:W/e3br2P0049人間七七四年
2012/06/09(土) 21:11:08.02ID:14PpYEar0050人間七七四年
2012/06/09(土) 21:52:17.99ID:jhBE6hFw0051人間七七四年
2012/06/09(土) 21:53:50.41ID:0RFPQw6I0052人間七七四年
2012/06/09(土) 21:55:44.66ID:nD8Xtygi0053人間七七四年
2012/06/09(土) 21:57:02.04ID:0RFPQw6I肥え太らせた後でおいしくいただく
0054人間七七四年
2012/06/10(日) 01:13:14.32ID:fiZQThvg0055人間七七四年
2012/06/10(日) 07:01:50.38ID:7pwyWquu0056人間七七四年
2012/06/10(日) 21:40:37.95ID:+wQHPgqX0057人間七七四年
2012/06/10(日) 22:59:52.36ID:ZkRU03RAこれで西軍が勝ってさえいれば…今頃教科書に載るレベルだったのに
0058人間七七四年
2012/06/10(日) 23:14:36.87ID:lGSuuqRR秀吉・秀長兄弟個人の出世物語ってだけで
0059人間七七四年
2012/06/11(月) 02:08:03.41ID:5etI7ZwFむしろ最近、父親ではなく長政本人がノリノリで裏切った説を本で読んだw
最近はそういう説も有力だとか。
0060人間七七四年
2012/06/11(月) 07:21:01.98ID:td4Nn+IG0061人間七七四年
2012/06/11(月) 19:04:19.83ID:jkVV6VvL家康にくだらなかった時点で詰み?
朝鮮出兵や秀次事件の時点で詰み?
家康に250万石与えた時点で詰み?
いやいや、秀吉が生まれた時点で秀吉の天下は詰んでますって
ぶっちゃけ秀吉が秀吉である時点で天下が存続できるとは思えない
そもそも天下を手にする力はあっても天下人としての器はないと思うんよ
0062人間七七四年
2012/06/11(月) 21:25:22.20ID:fvxs281x今川:桶狭間山で休息をとった時点で詰み
北条;再三の上洛要請を拒否した時点で詰み
武田:義信事件で詰みor今川から義信の嫁をとった時点で詰みor典厩信繁戦死時点で詰み
浅井:浅井久政や頑固な老臣たちの発言権を封じることが出来なかった時点で詰み
真田昌幸:犬伏での決断で詰み
長宗我部:軍勢を関所で止められて戻った時点で詰み
豊臣:家康に250万石も与えた時点で詰みor小牧・長久手で詰みor秀次事件で詰みor秀頼誕生で詰みor淀の方を側室にした時点で詰み・・・などなど・・・詰みがたくさん・・・
石田:秀吉薨去で詰みor挙兵した時点で詰みor筑前50万石拒否で詰み
明智:軍資金目当てで安土城に向かった時点で詰み
柴田勝家:北陸(越前)指令官で詰み
0063人間七七四年
2012/06/11(月) 21:58:07.24ID:2+TI9+wO里見氏…上に北条がいたから
大内氏・尼子氏・陶氏…毛利がいたから
龍造寺氏…家臣に鍋島がいたから
大友氏…キリスト教にかぶれたから
0064人間七七四年
2012/06/11(月) 23:30:54.59ID:LgRSsYdF0065人間七七四年
2012/06/12(火) 01:49:04.85ID:22Jbk0hj同じ本かは分からないけど、自分もそういった手の研究書を去年読んだわ
(大河に便乗しただけだけどw)
そもそも浅井は朝倉に恩義あるどころか攻撃されたこともあるくらいで、
旧来の同盟関係にあったのかすら近年では疑問視されてるみたいだね
0066人間七七四年
2012/06/12(火) 03:52:28.84ID:ZjQgl+ob伊達→晴宗が奥州大乱を巻き起こした時点で詰み
蘆名→衆道に走った時点で詰み
龍造寺→太りすぎた時点で詰み
明智→突然本能寺に信長を討ちに行った時点で詰み(=根回ししてないのが仇になった)
0069人間七七四年
2012/06/12(火) 19:38:06.40ID:tWCKVn0L長政の野心が抑えられなかった時点or金ヶ崎で信長を見逃した時点で詰み
明智:軍資金目当てで安土城に向かった時点で詰みor突然本能寺に信長を討ちに行った時点で詰み(=根回ししてないのが仇になった)
0070人間七七四年
2012/06/12(火) 21:21:46.70ID:tWCKVn0L今川:桶狭間山で休息をとった時点で詰み
北条;再三の上洛要請を拒否した時点で詰み
武田:義信事件で詰みor今川から義信の嫁をとった時点で詰みor典厩信繁戦死時点で詰み
浅井:浅井久政や頑固な老臣たちの発言権を封じることが出来なかった時点で詰みor長政の野心が抑えられなかった時点or金ヶ崎で信長を見逃した時点で詰み
真田昌幸:犬伏での決断で詰み
長宗我部:軍勢を関所で止められて戻った時点で詰み
豊臣:家康に250万石も与えた時点で詰みor小牧・長久手で詰みor秀次事件で詰みor秀頼誕生で詰みor淀の方を側室にした時点で詰み・・・などなど・・・詰みがたくさん・・・
石田:秀吉薨去で詰みor挙兵した時点で詰みor筑前50万石拒否で詰み
明智:軍資金目当てで安土城に向かった時点で詰みor突然本能寺に信長を討ちに行った時点で詰み(=根回ししてないのが仇になった)
柴田勝家:北陸(越前)指令官で詰み
伊達;晴宗が奥州大乱を巻き起こした時点で詰み
蘆名:衆道に走った時点で詰み
0071人間七七四年
2012/06/12(火) 23:57:08.08ID:3o2exSseこれはだいたいあってる
倒幕へのターニングポイントは佐久間象山の存在と死だしな
佐久間象山と言えば松代
松代と言えば真田
0072人間七七四年
2012/06/13(水) 01:45:58.74ID:vQpNanRpNHKのむかしの番組「堂々日本史」では公家の日記をもとに
朝廷&光秀共謀説だった
0073人間七七四年
2012/06/13(水) 02:36:38.39ID:9QMOsEs9明智:長宗我部に近づいた時点で詰み(斎藤利三の件で信長に目を付けられ始めた)
水野:武田に物資横流ししてた時点で詰み
荒木:本願寺に物資横流ししてた時点で詰み
信長(怨恨説):林や佐久間がやる気無くなった時点で詰み
信長(思いつき説):明智が叛乱起こすことを決意した時点で詰み
0074人間七七四年
2012/06/13(水) 09:37:51.47ID:1h/N5prfよく聞くけど殺害の見返りとして朝廷から明智になにか与えられる予定あったの?
首尾よく結果は出せたけど明智勢だけで全国の織田家臣団相手に戦える算段がないと
とてもやれないと思うんだけどなぁ。よっぽどのモノでないと
まぁ毛利とさっさと和睦して返ってきた連中の進軍スピードが想定外なんだろうけど
0075人間七七四年
2012/06/13(水) 13:09:09.92ID:KcXGyWf/天皇はともかく周りの公家連中も飯のタネの保証がなくなるんだから
朝廷黒幕説はないわ。
0076人間七七四年
2012/06/13(水) 18:36:27.77ID:XoApztbz0077人間七七四年
2012/06/13(水) 21:32:38.15ID:vQpNanRp信長が閏一月を閏十二月にしようとした問題等々を番組でやっていました
0078人間七七四年
2012/06/13(水) 21:41:28.73ID:vQpNanRpようつべで、本能寺の変 @ で検索してみてください>朝廷&光秀共謀説
かなり細かく検証してる番組です
0079人間七七四年
2012/06/13(水) 21:48:48.21ID:vQpNanRp今川:桶狭間山で休息をとった時点で詰み
北条;再三の上洛要請を拒否した時点で詰み
武田:義信事件で詰みor今川から義信の嫁をとった時点で詰みor典厩信繁戦死時点で詰み
浅井:浅井久政や頑固な老臣たちの発言権を封じることが出来なかった時点で詰みor長政の野心が抑えられなかった時点or金ヶ崎で信長を見逃した時点で詰み
真田昌幸:犬伏での決断で詰み
長宗我部:軍勢を関所で止められて戻った時点で詰みor一条を穏便に乗っ取れなかった時点で詰み
豊臣:家康に250万石も与えた時点で詰みor小牧・長久手で詰みor秀次事件で詰みor秀頼誕生で詰みor淀の方を側室にした時点で詰み・・・などなど・・・詰みがたくさん・・・
石田:秀吉薨去で詰みor挙兵した時点で詰みor筑前50万石拒否で詰み
明智:軍資金目当てで安土城に向かった時点で詰みor突然本能寺に信長を討ちに行った時点で詰みor長宗我部に近づいた時点で詰み(斎藤利三の件で信長に目を付けられ始めた)
柴田勝家:北陸(越前)指令官で詰み
伊達;晴宗が奥州大乱を巻き起こした時点で詰み
蘆名:衆道に走った時点で詰み
水野:武田に物資横流ししてた時点で詰み
荒木:本願寺に物資横流ししてた時点で詰み
0080人間七七四年
2012/06/14(木) 12:13:27.03ID:sqRAU7+v立派に死亡フラグが立ち済。
0081人間七七四年
2012/06/14(木) 15:33:49.71ID:oisUKiO8斎藤:義龍を嫡子とした時点で詰み
逆バージョン
立花家
実父紹運が岩屋城で玉砕した時点で無類の忠義者の看板が立ったから家名存続できたんだと思う
0082人間七七四年
2012/06/14(木) 21:38:33.67ID:BQ1uAtf30083人間七七四年
2012/06/14(木) 21:54:03.49ID:jhjt3lbn0084人間七七四年
2012/06/14(木) 21:58:12.61ID:DutR6bNR0085人間七七四年
2012/06/14(木) 22:48:24.20ID:BQ1uAtf30086人間七七四年
2012/06/15(金) 02:58:46.82ID:/pJu3tUJブラザーズ存命中に義輝殺害、傀儡樹立で延命できてたんじゃないか?
0087人間七七四年
2012/06/15(金) 18:03:15.43ID:yY8yGE9u雑賀衆の壊滅?海上封鎖?比叡山焼き討ち?朝廷の介入による和睦?
0088人間七七四年
2012/06/16(土) 03:16:57.25ID:k0CodOrb0091人間七七四年
2012/06/16(土) 12:22:01.43ID:2Vh/xsc6表立った戦闘行為が出来ないただの宗教勢力に成り下がった辺りが
「戦国の本願寺勢」としての詰みじゃねって話
その(詰みの)遠因は?って
0092人間七七四年
2012/06/16(土) 13:16:54.22ID:CBlKHxGl以降、完全にノーチャンスだからな。
0093人間七七四年
2012/06/16(土) 15:25:24.51ID:JUFNZJdo≒お前のパパとママが中出しした時点で詰み
0094人間七七四年
2012/06/16(土) 16:40:58.07ID:MNQlE3ZT若狭国を武田家を傀儡とした朝倉家の間接的統治国から
1568年8月武田元明を越前に拉致する事によって
直接的武力支配国へと方向転換をした時点で詰み
そう遠く無い時期に来るであろう義昭を擁した対織田家への戦略方針として
足利幕府の直轄地である若狭の国人勢力を当主拉致という形でねじ伏せようとした点が間違いだった
時機を見て信長から義昭や若狭の国人衆が離反する方向に誘導し越前国外に対織田への折衝地域を設けるべきだった
若狭国が親朝倉ならばその後の金ヶ崎や姉川・志賀の陣へと続く一連の流れはもっと有利に運べていたはず
0096人間七七四年
2012/06/16(土) 22:16:37.96ID:2SQuzpTB信長包囲網で後詰めが期待出来ない家康なら何とか屈服させられるだろうと
0097人間七七四年
2012/06/17(日) 01:21:39.91ID:3CscDGV70098人間七七四年
2012/06/17(日) 19:22:22.56ID:GeQ3W4Oc朝倉氏と織田氏って斯波家臣時代から仇敵だからな。
双方が斯波家臣になった時点で詰みじゃね?
0100人間七七四年
2012/06/18(月) 00:14:09.81ID:wavVDuQ80101人間七七四年
2012/06/18(月) 06:07:38.75ID:Ypo96OlD当主が出陣しないのは朝倉家の家訓
0102人間七七四年
2012/06/18(月) 06:17:40.34ID:Ypo96OlD今川:桶狭間山で休息をとった時点で詰み
北条;再三の上洛要請を拒否した時点で詰み
武田:義信事件で詰みor今川から義信の嫁をとった時点で詰みor典厩信繁戦死時点で詰み
浅井:浅井久政や頑固な老臣たちの発言権を封じることが出来なかった時点で詰みor長政の野心が抑えられなかった時点or金ヶ崎で信長を見逃した時点で詰み
真田昌幸:犬伏での決断で詰み
長宗我部:軍勢を関所で止められて戻った時点で詰みor一条を穏便に乗っ取れなかった時点で詰み
豊臣:家康に250万石も与えた時点で詰みor小牧・長久手で詰みor秀次事件で詰みor秀頼誕生で詰みor淀の方を側室にした時点で詰み・・・などなど・・・詰みがたくさん・・・
石田:秀吉薨去で詰みor挙兵した時点で詰みor筑前50万石拒否で詰み
明智:軍資金目当てで安土城に向かった時点で詰みor突然本能寺に信長を討ちに行った時点で詰みor長宗我部に近づいた時点で詰み(斎藤利三の件で信長に目を付けられ始めた)
柴田勝家:北陸(越前)指令官で詰み
伊達;晴宗が奥州大乱を巻き起こした時点で詰み
蘆名:衆道に走った時点で詰み
水野:武田に物資横流ししてた時点で詰み
荒木:本願寺に物資横流ししてた時点で詰み
内ヶ島:金森氏との和平が成立したことを祝う祝賀会の時点で詰み
朝倉:刀禰の敗戦で詰みor若狭国を武田家を傀儡とした朝倉家の間接的統治国から
直接的武力支配国へと方向転換をした時点で詰みor義昭の上洛意向を無視した時or信長
の上洛命令を無視した時or斯波家臣になった時点で詰み
三好:細川と共に将軍下京時に追撃して殺さなかった時に詰んだか、2回目の時も和睦しちゃった時か?
本願寺:塙直政に代わって佐久間信盛が着任した時点で詰み
0103人間七七四年
2012/06/18(月) 06:24:13.61ID:Ypo96OlD参照
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/781-788n
0104人間七七四年
2012/06/18(月) 06:31:00.10ID:Ypo96OlD天正大地震が発生、居城の帰雲城は帰雲山の山崩れに巻き込まれた。これにより氏理は
死亡した。また、金森氏との和平が成立したことを祝う祝賀会を開くために重臣らも城
に集まっていたので、家臣団の多くもほぼ壊滅状態となった。この時、帰雲城に身を寄
せていた娘婿の東常堯や、嫡子内ヶ島氏利も共に亡くなっている。こうして前代未聞の
「天災による一族郎党一夜にして全滅」という悲劇により内ヶ島氏はあっけなく滅亡したのであった。
0107人間七七四年
2012/06/18(月) 17:20:58.71ID:5xk01MbN0108人間七七四年
2012/06/18(月) 19:33:49.53ID:4xnHVoD7っていうか生まれる前に詰んでやんのダセェwww
0109人間七七四年
2012/06/18(月) 21:33:11.15ID:Z+FNQb9Z0110人間七七四年
2012/06/19(火) 09:26:28.26ID:nw8iZtPl0111人間七七四年
2012/06/19(火) 11:37:45.54ID:4FmESM6Sいやいや、そんなわけないだろ
少なくとも桶狭間と浅井の裏切り
これらを切り抜けないとノブは死んでいたんだから
0112人間七七四年
2012/06/19(火) 12:14:02.92ID:rzpfmYsk宇喜多…家中が分裂した時点で詰み
小西……武将になった時点・朝鮮で必死に講和しようとしていた時点で詰み
0113人間七七四年
2012/06/19(火) 17:08:42.78ID:88BRkeEU0115人間七七四年
2012/06/19(火) 18:52:51.03ID:Wjbyt0Raまともに戦ってくれたのが宇喜多小西大谷だけってかわいそう過ぎるだろ
それで五分の戦いやってたんだから凄まじいものがあるよな
大谷…単純な武断派になれなかった時点で詰み
蒲生…転封で詰み
0116人間七七四年
2012/06/20(水) 03:39:46.65ID:5LuQ2C8D今川:桶狭間山で休息をとった時点で詰み
北条;再三の上洛要請を拒否した時点で詰み
武田:義信事件で詰みor今川から義信の嫁をとった時点で詰みor典厩信繁戦死時点で詰み
浅井:浅井久政や頑固な老臣たちの発言権を封じることが出来なかった時点で詰みor長政の野心が抑えられなかった時点or金ヶ崎で信長を見逃した時点で詰み
真田昌幸:犬伏での決断で詰み
長宗我部:軍勢を関所で止められて戻った時点で詰みor一条を穏便に乗っ取れなかった時点で詰み
豊臣:家康に250万石も与えた時点で詰みor小牧・長久手で詰みor秀次事件で詰みor秀頼誕生で詰みor淀の方を側室にした時点で詰み・・・などなど・・・詰みがたくさん・・・
石田:秀吉薨去で詰みor挙兵した時点で詰みor筑前50万石拒否で詰み
明智:軍資金目当てで安土城に向かった時点で詰みor突然本能寺に信長を討ちに行った時点で詰みor長宗我部に近づいた時点で詰み(斎藤利三の件で信長に目を付けられ始めた)
柴田勝家:北陸(越前)指令官で詰み
伊達;晴宗が奥州大乱を巻き起こした時点で詰み
蘆名:衆道に走った時点で詰み
水野:武田に物資横流ししてた時点で詰み
荒木:本願寺に物資横流ししてた時点で詰み
内ヶ島:金森氏との和平が成立したことを祝う祝賀会の時点で詰み
三好:細川と共に将軍下京時に追撃して殺さなかった時に詰んだか、2回目の時も和睦しちゃった時か?
本願寺:塙直政に代わって佐久間信盛が着任した時点で詰み
斎藤:義龍を嫡子とした時点で詰み
宇喜多…家中が分裂した時点で詰みor石田三成の計画に乗った時点で詰み
小西……武将になった時点・朝鮮で必死に講和しようとしていた時点で詰みor石田三成の計画に乗った時点で詰み
大谷…単純な武断派になれなかった時点で詰み
蒲生…転封で詰み
朝倉:刀禰の敗戦で詰みor若狭国を武田家を傀儡とした朝倉家の間接的統治国から
直接的武力支配国へと方向転換をした時点で詰みor義昭の上洛意向を無視した時or信長
の上洛命令を無視した時or斯波家臣になった時点で詰み
0117人間七七四年
2012/06/20(水) 14:47:37.53ID:R7jx8KlU御館で武田が味方しなかったら
本能寺で信長が殺されなったら
家康の会津攻めの前に石田三成が動かなかったら
間違いなく詰んでいた
0118人間七七四年
2012/06/20(水) 18:16:46.16ID:gWuvUhnQ>>117
本能寺が起きなかったらまず間違いなく滅んでたな
一応上杉征伐軍に対抗する戦略は立ててたみたいだけど
勝てはしないだろうが奮戦する毘の旗を見てみたかった気もする
一番見たかったのは佐竹との江戸襲撃・家康追撃というのが衆目の一致するところだろう
0119人間七七四年
2012/06/21(木) 08:08:15.82ID:s3flkeEMは無しの方向なのかな。
0120人間七七四年
2012/06/21(木) 12:21:49.33ID:YiwOPcH0伊達・最上が後背突くとか沼田に秀忠軍三万がいるとか考え出したらきりがないし
0121人間七七四年
2012/06/25(月) 23:02:50.58ID:rlWpxDmt東軍諸将の離脱も無かったんだろうな。
家康が並みの武将だったら、ここで詰んでた気がする。
0122人間七七四年
2012/06/26(火) 20:10:40.56ID:n/zR/5j6御館の乱でも当初は景虎方が多くて武田北条伊達芦名もこぞって敵方
この中で御館を逆襲して奪って敵大名もこぞって撃退
武田は兵を引いただけで北条と戦ってたわけでもないし
0123人間七七四年
2012/06/27(水) 00:45:48.94ID:TmIzTMTa下野方面では、一揆を扇動しつつ、軍事拠点を確保するという動きを
見せているとのこと。
本能寺の変直前には、死ぬ気満々だったのは間違いないんだけどね。
景勝の場合、実力もそうだけど、それ以上に土壇場での悪運が非常に強い印象を受ける。
0124人間七七四年
2012/06/27(水) 00:56:14.00ID:VDXFLRae月山富田城での敗北か陶の謀反の噂を放置したあたりかな
義長も入れると陶が自害した時かね
0125人間七七四年
2012/06/27(水) 10:47:09.21ID:ZPL2qQzK上杉の内戦は御館の乱後も1年余り続き内乱がほぼ終結する天正8年半ばまでには
佐々長縄・神保長住・長連龍の派遣や北陸方面軍・飛騨口別働隊の働き・本い願寺の和睦受諾により
元々攻め取ったばかりで謙信の死により空白地に近かった能登・加賀に加え越中の諸将も織田方に帰参
さらに新発田も蜂起するなど絶望的な状況で越中中部で9倍もの織田軍を2年も食い止めたんだし
0126人間七七四年
2012/06/28(木) 12:02:19.74ID:C3hBFpIr0127人間七七四年
2012/07/01(日) 14:52:35.44ID:uTXjaVH6負けても負けてもいつの間にかに復活する不死鳥のような大名もいるわけですし
0128人間七七四年
2012/07/02(月) 12:35:50.47ID:TsTgH9dg0129人間七七四年
2012/07/03(火) 00:25:51.18ID:kn6c1rcP0130人間七七四年
2012/07/03(火) 00:57:05.24ID:0Awf9JoC0131人間七七四年
2012/07/05(木) 14:19:50.47ID:EbxQq3Vk小笠原さんは息子が復活してるか。
0132人間七七四年
2012/07/05(木) 16:53:46.79ID:UYKJwfXK0133人間七七四年
2012/07/07(土) 13:08:12.62ID:OH+4bj+d0136人間七七四年
2012/07/07(土) 16:52:59.11ID:OH+4bj+d豊臣:家康に250万石も与えた時点で詰みor小牧・長久手で詰みor秀次事件で詰みor秀頼誕生で詰みor淀の方を側室にした時点で詰み
0137人間七七四年
2012/07/08(日) 12:38:12.87ID:v4tYMaju荒木村重
0139人間七七四年
2012/07/08(日) 23:08:37.39ID:93nupNG40141人間七七四年
2012/07/09(月) 22:18:13.42ID:/USb0zZi生まれなけりゃ秀吉死後は秀次体制が万全だったんだからな。
家康も好き勝手できん。
0142人間七七四年
2012/07/12(木) 00:19:25.80ID:WhxCqP+m毛利潰せなかったから約300年後に詰んだ
0143人間七七四年
2012/07/12(木) 09:09:39.67ID:TsIB0cDY0144人間七七四年
2012/07/12(木) 12:56:52.67ID:8djAqjjH0146人間七七四年
2012/07/12(木) 15:48:06.25ID:pL+PK7eF機内の人々…家族構成を弾正さんに把握された時点でツミ
細川家の家人…主君の奥方をチラ見した時点でツミ
小田天庵様…菅えもんに見捨てられたらツミ(城を捕られまくっても無問題なので、詰まなかった)
町人・坊主…鬼武蔵さんか水野勝成さんに絡まれた時点でツミ
某立身出世ゲームの足利義氏さん…村正持って町から出た時点でツミ
0147人間七七四年
2012/07/13(金) 00:33:14.79ID:ORiXH1xb0148人間七七四年
2012/07/13(金) 21:50:15.46ID:YNE9H6vt0149人間七七四年
2012/07/13(金) 22:33:45.10ID:mhFYSTM9毛利は・・・詰んでなかったww
武田は・・・滅んでたwww
0150人間七七四年
2012/07/14(土) 04:23:15.06ID:W5xWWKLs0151人間七七四年
2012/07/14(土) 12:24:40.96ID:ejfBTaqs0152人間七七四年
2012/07/14(土) 16:11:28.44ID:o0kueLZv小西行長 清正と犬猿の仲になった時
宇喜多秀家 関ヶ原の前に内紛があった時
0155人間七七四年
2012/07/17(火) 10:34:02.41ID:KoyJzz3iは無能
0156庭師
2012/07/17(火) 19:24:24.68ID:pRdO1LmC親父が死んで大名としては詰んだ
本人の命運は詰まなかった。世の中一芸とコネだな
0157人間七七四年
2012/07/18(水) 16:13:42.06ID:KafDgIPl詰みそうで、結局詰まなかった例としては
今川氏真…効き足を骨折してリハビリ不能になった時
宇喜多秀家…溺れかけたトラウマで海で泳げなくなった時
荒木村重…茶道具を全部召し上げられた時
惜しかったのは足利義昭。将軍家再興の「夢を見ること」は、秀吉の関白叙任でようやく潰えた。
0158人間七七四年
2012/07/21(土) 06:41:16.88ID:ROv9N7q/0159人間七七四年
2012/07/21(土) 10:30:31.93ID:MVfBjGiV桶狭間=一次資料にないデタラメ
尾張チート国力&朝廷献金&交易収入で今川より国力上
長篠=実際には1000程度の戦死者(多聞院日記)
同時代史料の長篠日記だと織田方も多数戦死
姉川=実際には痛み分け程度
信長公記や信長書状で基地外誇大喧伝
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
0160たぬき
2012/07/21(土) 16:36:31.80ID:MUG1/oda0161人間七七四年
2012/07/22(日) 22:51:21.69ID:CjnoMvgR0162人間七七四年
2012/07/23(月) 08:01:30.87ID:J/iIEAA5末裔が越前の家老として幕末まで残った
0163人間七七四年
2012/07/24(火) 00:08:42.00ID:iuGjTGDu0164人間七七四年
2012/07/28(土) 08:41:31.13ID:FNzoPrvO0165人間七七四年
2012/07/28(土) 08:54:44.61ID:kivXGI8J0166人間七七四年
2012/07/28(土) 12:23:07.96ID:U1ztFwVB息子、お前勝豊元服までの繋ぎなって言っちゃったから
0167人間七七四年
2012/07/28(土) 21:56:21.92ID:6YVfjRlx島津=鹿児島は現代になっても摘みそうで摘まなかった法則発動している
先の大戦で昭和20年9月末には米軍は鹿児島上陸作戦決行する予定が終戦宣言。
第二の沖縄化必至だったのに
0168人間七七四年
2012/07/29(日) 23:52:10.42ID:qHsgUCW20171人間七七四年
2012/07/31(火) 18:50:38.55ID:N/gg86/h0173人間七七四年
2012/08/01(水) 14:53:57.05ID:jqPHHZC9兵を出していれば、兄利長から120万石を相続、異母弟利常に能登20万石を分与
して自らは加越100万石の太守になっていた筈
0174人間七七四年
2012/08/01(水) 20:18:10.27ID:WnE2tgV5詰んでいない。
それに利政が東軍に参加していたら、利長とは別に中国か九州で4,50
万石を得て独立していただろうから、利常の相続も揺るがない。
0175人間七七四年
2012/08/03(金) 00:05:47.37ID:zul2juXY揺るぎねえなあ。これww
0176人間七七四年
2012/08/03(金) 06:49:27.56ID:bwaVkc01なにぃ!?頼みの徳川殿まで臣従してしもうた
あわわ伊達の若造もだと!?
うわぁぁ凄い包囲されとる
滅亡
0177人間七七四年
2012/08/03(金) 11:07:56.97ID:DOkglyGSそれまでは直接交渉無いし。
で、言うまでも無いが、凄い包囲→伊達臣従→滅亡、と。
ありゃ、では徳川臣従の時点で詰んで……ないな。
上洛すれば、悪くても二か国くらいは残っただろうし。
0178人間七七四年
2012/08/05(日) 09:12:58.09ID:d5SzAVwQ父と弟があれだけ徳川家康に嫌われるようなことしていたのに幕末まで詰まなかった。
真田ぱねぇ
0179人間七七四年
2012/08/05(日) 11:15:29.56ID:sxXP6yuO0180人間七七四年
2012/08/05(日) 15:25:57.03ID:D5HD3gyb0182人間七七四年
2012/08/05(日) 22:03:28.76ID:icbIagOn羽生の前に座った時点で詰みとか言うのはどうだろうか
0183人間七七四年
2012/08/06(月) 17:50:35.95ID:4uXJyO+R徳川に歯向かった時点で石田家は詰みとか
0184人間七七四年
2012/08/06(月) 21:34:15.64ID:Lwygztl2毛利:水軍が、木津川河口の織田方水軍を打通できなくなった時点で詰み
だと思うが、へぼ将棋指された方ならお分かりでしょう。
詰んだと思っても、相手が悪手を指して生き延びるケースもあるのです。
明智謀反と言う大チョンボで詰んだ局面が生き返りました。
「負けと知りつつ、目を覆うような手を指して頑張ることは結構辛く、抵抗がある。
でも、その気持ちをなくしてしまったら、きっと坂道を転げ落ちるかのように、転落していくんだろう」
北条は、あきらめるの早かったと思いますww
0185人間七七四年
2012/08/07(火) 00:37:41.52ID:cKZNeDc50186人間七七四年
2012/08/07(火) 01:47:29.26ID:nX4OWxgK「もうちょっと頑張れよ」と伊達正宗さんも言ってることですしw
正直、お前が言うな、と言う奴ですが。
てか秀長死んだら秀吉が壊れると言うなら、
実は、あと半年ちょいの我慢なわけで。
まー知る由もないし、秀長死んで即壊れるわけもないけど、弾薬も兵糧もぎっしりあるんだから、
三木城や七尾城を見習っていただきたかった、とか言う感じの意味ですね。
あきらめ早かったってのは。
0187人間七七四年
2012/08/07(火) 12:36:04.67ID:rlXzBTKN0188人間七七四年
2012/08/11(土) 22:39:48.22ID:uv1W6mNE0189人間七七四年
2012/08/12(日) 02:07:23.91ID:jAS8m9Iu徳川にマークされた時点
…と言いたいところだけど、たしかに致命的な失策が思いつかない
強力な統一政権が成立後の詰みは覆すのが困難ってことだろうか
0190人間七七四年
2012/08/12(日) 02:11:48.72ID:jAS8m9Iuそれで徳川を破ったとしても後で三成に排斥される姿しか浮かばない
0191人間七七四年
2012/08/12(日) 08:11:20.39ID:D6vV5Lysよって信長は天正元年末に自爆のフラグが立っていた。
0192人間七七四年
2012/08/12(日) 15:08:14.66ID:j+f+LbkY0193人間七七四年
2012/08/14(火) 15:24:26.31ID:QzpqR/Inしかし、上杉武田相手の時は敵の物資の補給がつながらなくなれば
退却するだろうという目算があったから耐えきれたけど
豊臣方の兵站は結局切れなかったからなあ
そうなってはもう勝ち目ゼロなわけで
0195人間七七四年
2012/08/16(木) 15:36:11.26ID:sVCUsaMs初めから徳川についたということかい?
0196人間七七四年
2012/08/16(木) 21:10:01.59ID:6PDk4jJ+194ではないが、中立云々以前に小早川=毛利が動かなければ、西軍は結成
されず、関ヶ原そのものがない。
0197人間七七四年
2012/08/17(金) 00:05:57.73ID:bWl1RaMn0198人間七七四年
2012/08/17(金) 01:10:09.13ID:sOhhz5lu減封も入れるなら西軍大名ほとんどが詰んでるし
0199人間七七四年
2012/08/17(金) 06:34:56.05ID:K30oLrApどっちみち所領がデカすぎるから前田上杉みたいにイチャモンつけられて毛利征伐→減封になると思うよ
関ヶ原も毛利がもっと積極的に動いてればいいだけの話だったし
0200人間七七四年
2012/08/17(金) 09:57:49.28ID:Okxo8WF6毛利はもともと改易されるところを、吉川の懇願でなんとか生き残ったから、
西軍大名の中では異質な存在だよ。
実質、詰んだ。
0201人間七七四年
2012/08/17(金) 12:28:14.89ID:qqMQcmeD0202人間七七四年
2012/08/17(金) 18:13:58.98ID:K30oLrAp島津も結局同様な理由だし
0203人間七七四年
2012/08/17(金) 19:29:12.87ID:dbzd/bNqそうなれば、半ば手中に収めた天下もどう転ぶかわからない。
そんな事は家康は百も承知。
全土没収をにおわせて、三割でも残せば関ヶ原本戦敗北で腰が抜けた毛利は
飛びつく事も計算済。
と言ったところではないか。
0204人間七七四年
2012/08/17(金) 22:45:46.78ID:K30oLrAp客が渋ったところにサッと今なら特別価格!とか言ってちょっと安くしてお得感を出させるみたいなもんか
0205人間七七四年
2012/08/17(金) 23:54:50.11ID:URuGupm/「災いは西からやってくる」と言い残したって本当か?
0206人間七七四年
2012/08/18(土) 08:26:27.79ID:0idYjllU大義名分もないから味方につく者もいない。
本隊が安泰だから家康に対抗できるなんて夢のまた夢。
毛利を買いかぶりすぎ。
島津は辺境の地が幸いした。実際強かった。
0207人間七七四年
2012/08/18(土) 12:15:48.62ID:8SebFGAV島津戦と何度も滅亡しかけたけど、外交戦略とかで長期的には
切り抜けてきたのにな。
朝鮮に行ったときに吉統が当主だったのが詰みだったか
0208人間七七四年
2012/08/18(土) 20:02:00.75ID:sHmG6gaHかと言って本領安堵を約して置いて、やっぱり止め〜た、全土没収ね。
では流石の毛利も玉砕覚悟で戦うだろうよ。
そうなれば島津もどう動くかわからんし、伊達だって背後から何をやらかす
かわかった物ではない。
0209人間七七四年
2012/08/18(土) 22:46:07.88ID:XemMjPT/頑張って秀吉に気に入られて羽柴姓の許しを得たり
将軍家からの「義」の偏諱を捨てて「吉」の字をもらったり
吉統なりに権力者対策はしっかりこなしてるんだが…
相手が秀吉だったのが運の尽きか
0210人間七七四年
2012/08/20(月) 14:43:43.16ID:kTe/NF7tわかってて言ってるかもだけど、エゲレス人の方が戦死者は多かった。
無差別砲撃で町は壊滅したけど。
0211人間七七四年
2012/08/23(木) 20:44:47.76ID:UcWf8kU4大友義統は唐入りの戦場で、小西行長討死の虚報を聴いて、
生死を確認せず勝手に自軍を撤退したのが致命的なのよ
そのため、敵に追撃されていた小西軍だけでなく、
撤退せず援護に残った黒田軍も窮地に追い込んで、大苦戦させた
結果的にデマに踊らされ友軍を見捨てて、自軍だけ逃げたわけだから
どこの戦場でも、これやったら改易レベルの大失態ではある
0212人間七七四年
2012/08/27(月) 14:27:19.55ID:cPLLv36c0213人間七七四年
2012/08/28(火) 22:28:20.82ID:5NHMimrSその場合は家康は有力外様大名各個撃破を取る形になって天下の実権握るのに史実より
相当時間かかるから、途中で伊達政宗や黒田如水らが横槍入れて天下取り失敗、
最低限豊臣・徳川連合政権くらいしか天下掌握できなかった思う
0214人間七七四年
2012/09/02(日) 17:49:18.50ID:8FobzUsx0215人間七七四年
2012/09/03(月) 02:49:19.21ID:4pBXkSYkイギリス側が油断して
大砲の射程内に入ったからでしょ
本当なら薩摩側の射程外から安全に砲撃で来たのに
0216人間七七四年
2012/09/03(月) 21:34:04.93ID:ZmojNh2/地震で全滅したんだし。
0217人間七七四年
2012/09/03(月) 22:01:54.25ID:GK3DgYj2一族郎党が全滅とかw
0218人間七七四年
2012/09/03(月) 22:18:51.81ID:Zv6mnecW0219人間七七四年
2012/09/03(月) 22:30:27.53ID:KjkpDAeE0220人間七七四年
2012/09/04(火) 19:08:05.86ID:bggtWsLjこれ以外なかろう。
0221人間七七四年
2012/09/04(火) 20:12:54.27ID:rq1jb6J30222人間七七四年
2012/09/04(火) 21:24:32.49ID:ZsBDxqVJ0223人間七七四年
2012/09/04(火) 22:48:48.05ID:Ny5XJGOj0224人間七七四年
2012/09/05(水) 13:36:12.76ID:7ZTvl0ni0225人間七七四年
2012/09/05(水) 17:42:56.61ID:DSIyxXiU大阪の説話とか読む限りそれはない。
なぜなら、秀吉が大阪巡行中に戯れで手をつけた町娘がその子をはらんで、言い出せずにそのままになったという話が残ってるから。
だから、種がないじゃなくて、やり過ぎて減ってただけだと思う。
0226人間七七四年
2012/09/05(水) 22:16:33.09ID:2oohrYvE0227人間七七四年
2012/09/09(日) 13:34:25.09ID:st+Qx8Fk大阪市立図書館蔵書にあったから。昔。
引っ越ししたりその他蔵書整理してなくなってたら知らんが。
0228人間七七四年
2012/09/09(日) 18:21:50.51ID:XoThvyrzあと数代は続いたと思うけどなあ。
0230人間七七四年
2012/09/10(月) 13:40:41.25ID:ECFGhHN60231人間七七四年
2012/09/11(火) 11:53:47.24ID:xv8tdN67子孫が4人の所領・権限を相続できないか、織田家からの養子に乗っ取られて詰みだったような気がする
羽柴家はすでに乗っ取られつつあるし
丹羽家はとりあえず長重の代までは大丈夫
0232人間七七四年
2012/09/11(火) 22:23:47.35ID:9Bl/jlvIそのあたりの家と言うものに対する考え方は、
多分、現在の視点とは違うと思うので、連中がそれを「詰んでいた」と、
考えるかどうかは怪しいと思う。家の存続的には安泰なわけだし。
そもそも、独立大名ならともかく、家中の者たちなわけで、
言い出せば、家来になった段階で大名家としては詰みww
0234人間七七四年
2012/09/12(水) 08:27:01.89ID:o1Z53j38家康の子信吉が再興したのに、嗣子なく再び詰んでしまった。
0235人間七七四年
2012/09/15(土) 22:39:02.49ID:eGnVWhGa「あれ、有名なあそこのウチ絶えてるじゃん?んじゃ今度からお前の名字〇〇な」
「ははっ(え〜…!?)」
0236人間七七四年
2012/09/15(土) 23:02:58.89ID:0ZNzSq4rかなりの期間、尊氏の血統を引き継いだ
0237人間七七四年
2012/09/23(日) 14:28:54.16ID:i+xOq4pU御家≧血統という感じだし
0238人間七七四年
2012/09/23(日) 15:18:06.86ID:wr+LlIWPアカの他人の越後の長尾が継いで、
江戸時代には吉良になっちゃた。
0239人間七七四年
2012/10/03(水) 01:05:13.24ID:j6x0Y69Hしかもその後は九州の秋月だしね
池田家は小牧長久手で徳川から壊滅的なダメージ被ったのに江戸時代は準一門で勝ち組
すごいリカバリー力だ
滅亡するその時までは逆転の可能性はあるんだね
0240人間七七四年
2012/10/03(水) 08:45:35.57ID:ytEv9VMC跡を継いだのは先代の実子だから、吉良に戻ってる
0242人間七七四年
2012/10/05(金) 08:12:21.89ID:9tvUEENJ0243人間七七四年
2012/10/06(土) 01:04:48.60ID:43e4Qy85必須ではないが
0244人間七七四年
2012/10/06(土) 09:19:19.33ID:iASD/EDQとして幕末まで血統を残した。
50万石前後の大封を得ながら、子孫は雲散霧消してしまった福島正則や加藤
清正と比べてどちらが良かったのか、考えさせられる。
0245人間七七四年
2012/10/06(土) 09:35:44.77ID:V/BMd6mo福島は秀忠ごときに流されちゃったから無念だろうね。
0246人間七七四年
2012/10/06(土) 09:41:02.22ID:y9mTylE2加藤「まぁあとから考えるとそうだなー」
0248人間七七四年
2012/10/07(日) 02:35:32.74ID:CkId778k福島が「なんでこの俺たちがこんなことしなきゃならないんだ」と愚痴を漏らした
それを聞いた加藤が「嫌なら国に帰って戦の準備をしろ」と言ったやりとり
0249人間七七四年
2012/10/07(日) 02:40:40.44ID:CkId778k0250人間七七四年
2012/10/07(日) 06:54:35.02ID:cLmo/4bM0251人間七七四年
2012/10/07(日) 08:05:51.50ID:tRneiCCB0253人間七七四年
2012/10/08(月) 13:47:29.40ID:/8LW6B390254人間七七四年
2012/10/08(月) 18:00:44.74ID:qppGjtPa家康さえ死ねば豊臣天下復活は容易に可能だからそれまで待とうという考えだったのかも。
0255247
2012/10/08(月) 21:44:13.89ID:yJXp8OpXそれ、「時すでに遅し」の典型例だな
何人ついてくるんだその当時の福島にw
まあ清正の言葉は冗談交じりの愚痴返しだったんだろうけど。
0256人間七七四年
2012/10/08(月) 23:31:52.84ID:L+WRLita0257人間七七四年
2012/10/09(火) 07:57:06.08ID:hUQWpych大坂陣の勃発前、福島の所に大坂の使者が行った時の返答の中に
「5年早いか、遅ければ・・・・」と言ったと読んだ気がする。
嘘か本当か知らないが、5年前なら徳川政権の基盤も安定しておらず、豊臣家
への忠誠心を持ち続けているものも多かったと言う事だったと思う。
0258人間七七四年
2012/10/09(火) 09:53:04.56ID:Wn/Xuzw4毎日ヤケ酒かっくらって死に急いで逝った主計守さんもいますしね
0259人間七七四年
2012/10/09(火) 10:44:47.24ID:s715slVf0260人間七七四年
2012/10/09(火) 11:19:26.62ID:WW/xU3lsどっかに子孫がいてもいいのにな
0261人間七七四年
2012/10/09(火) 11:27:02.22ID:s715slVfなんだけどな
熊本県民は馬鹿だから細川の末裔を知事にしてたがw
0262人間七七四年
2012/10/09(火) 14:36:11.30ID:JGFEVeDb0263人間七七四年
2012/10/11(木) 15:53:14.13ID:dFWmiAYm5年早ければまだ清正も生きてたから・・・という事だろ
0264人間七七四年
2012/10/12(金) 08:24:55.31ID:JqtS+Zm1豊臣家にとってこの二人が他界したのは痛かった。
0265人間七七四年
2012/10/12(金) 08:37:47.28ID:C1wL9JYT生きてたけど役立たず、実の母親を人質に差し出したろ。
0266人間七七四年
2012/10/12(金) 09:00:31.03ID:pfScZJWVいざとなれば城下を焼け野原にしてでも戦え!」という激烈な遺言を残されたのに恫喝に負けて
ホイホイ母親を差し出して「許してください!徳川殿に背くなどしません」などと
弱腰の極みの対応をして母親からも怒られたひ弱な嫡男さんじゃないですか
なお弟はやる気満々だった模様
0267人間七七四年
2012/10/12(金) 14:10:30.34ID:lgem7TiF小牧長久手くらいでしょ?
関が原なんて実際は包囲殲滅される陣形なんだし
案外前田利家は戦えば勝てると本気で思ってたのかもよ
0268人間七七四年
2012/10/12(金) 14:57:30.87ID:cIlL6Ol/負けはしないってのなら、そこそこ居るだろうが、
徳川に勝つ可能性はドコも無い。
前田と豊臣直参の連合軍なら味方する大名もそこそこいたんじゃなかろうか。
どのみち前田単独じゃどうにもなんが。
0269人間七七四年
2012/10/12(金) 16:01:23.27ID:imLJbyZQ0270人間七七四年
2012/10/12(金) 18:03:52.10ID:GpChHWv0豊家の危機とあらば怨醜をこえて三成や清正が手を汲んでくれるかもしれない
秀頼様を表に推し出せば恩顧武将は手を出せないから内府はたちまちに死ぬ
たとえ俺が死しても武門の前田家の嫡男たるもの家中を一つにして城を枕に討ち死にしてくれるはず
内府は年だからもしかしたら変事でたちまちに死ぬやもしれん
まさか息子が嫁を差し出す腰抜けだったと知ったら直々に叩き斬られてたでしょうなw
>>268
上杉・毛利・島津くらいか一応ガチでぶつかれるのは
0271人間七七四年
2012/10/13(土) 12:28:03.44ID:hfLyKUFD0272人間七七四年
2012/10/13(土) 21:03:11.31ID:pQsB10xT0273人間七七四年
2012/10/14(日) 02:19:22.86ID:JWSIDQO7本能寺の変後、北条・上杉相手に武田遺領の
相当部分を確保したのだし、かなりなものだと思うけど。
0274人間七七四年
2012/10/14(日) 07:27:37.96ID:4kCqkYw70275人間七七四年
2012/10/14(日) 10:58:50.70ID:JWSIDQO7北条も上杉も進出してきたじゃん。、
0276人間七七四年
2012/10/14(日) 15:15:09.19ID:1Np5oHtb火事場泥棒ではなくて織田家の了承を得ての行動じゃなかったっけ?
確か柴田と秀吉のそういう書状が残っているはず。
0277人間七七四年
2012/10/14(日) 16:51:07.07ID:EY7d7zBL信長包囲網で信長が劣勢に立たされていたから、充分に信長を葬る事が出来た。
近畿を統一された後から動いていては遅すぎる。
0278人間七七四年
2012/10/14(日) 21:32:42.91ID:S6GiVV4Yでも、近畿って、その信長が統一してもしばらくは政情不安定だったわけでね…。
よその地方のものからすれば、統一したからどうした程度でしかないよ。
どうせすぐに荒れて維持できないと思ってるからね。
0279人間七七四年
2012/10/15(月) 00:37:16.21ID:saoCElsd今までそうだからって今後もそうである保証なんて無いんだ。
0280人間七七四年
2012/10/15(月) 01:43:58.67ID:tzW368tW浅井・朝倉が元気なうちに信長を葬っておけばよかったって事。
勝頼が動いた長篠の戦い(1575)は浅井・朝倉・三好・松永がすでになく、
長島一向一揆も制圧されて、越前侵攻で一向宗もやられた後の年で、
信長にとって余裕があった年だよ。信長にとっては「決戦は望むところだ!」ってな時に
わざわざ決戦してしまうなんてのは戦略をまるでわかってないないに等しい。
0281人間七七四年
2012/10/15(月) 02:31:00.87ID:tzW368tW0282人間七七四年
2012/10/15(月) 08:01:52.15ID:HDEyw9Pk間違えた。
浅野幸長だった。
すまん。
利長くんは大坂からの使者を「拙者は隠居の身。高岡の兵を出しても千人程度
お力にはなれません。」と帰した後、徳川・豊臣両家の間で悶々として、今で
言ううつ病になったそうだね。
0283人間七七四年
2012/10/15(月) 13:25:20.05ID:nq6sDb+M勝頼は戦略がダメなのが大名として痛かった。戦術家としては信長や
もしかして親父より優秀だったのに。
信長と勝頼見ているとよく言われる戦略>戦術というのを体現している
2人だと思う。
信長は戦術家としては中位だけど戦略家として優れていた。
勝頼は戦術家として優秀だったけど戦略家としてダメだった。
お兄さんが生きていれば叔父の信繁のように優秀な弟として活躍
出来たかもしれん。
0284人間七七四年
2012/10/15(月) 13:37:13.42ID:iQgfDLhK条件が違いすぎる
0285人間七七四年
2012/10/15(月) 13:41:17.69ID:avzgb464尾張の小大名だった信長ってテンプレが嘘なのに
0286人間七七四年
2012/10/15(月) 15:49:14.38ID:7bPq4sVF没落しかかった松平家の嫡男をぶん盗ったり
0287人間七七四年
2012/10/15(月) 19:08:03.50ID:CbWREYIdというより、戦略がイマイチな人間は大名に向いてない。
0288人間七七四年
2012/10/15(月) 20:08:31.44ID:bPCXaAiF0289人間七七四年
2012/10/15(月) 20:28:32.23ID:LuAEZI6T織田との関係悪化させたまま死んだしねー
織田との関係が良好な状態で信玄が死んでれば織田と同盟という選択肢もあっただろうに
0290人間七七四年
2012/10/15(月) 20:58:10.59ID:YYbZo71Z武田と上杉の泥沼の戦いに信長の命令で援軍出さされたりとか
0291人間七七四年
2012/10/15(月) 23:11:20.19ID:nq6sDb+Mでも信玄死後も勝頼さえ上手くやればというかその気になれば
織田との同盟は可能だったはず。
信長のように頭は下げるのはタダといわんばかりの土下座外交
だろうがなんだろうが手段選ばなかったら道はあったはず。
勝頼がその方法を選ぶには武田での彼の立場は磐石じゃなかったのかな。
0292人間七七四年
2012/10/15(月) 23:32:01.38ID:uFGY8wZh0293人間七七四年
2012/10/16(火) 00:20:49.99ID:1QR8+wJR北条とは同盟
上杉とはファニーウォー状態だけど謙信とやりあうとか絶対に嫌w
となると新しい領土取りに行くなら東海道沿いに尾張・美濃方面しか無い
織田と同盟すれば上杉と潰し合いになるわけで
0294人間七七四年
2012/10/16(火) 07:50:10.61ID:d4fP2rIN駿河や上州を放棄し、甲斐,信濃の地方勢力として甘んじる気が有れば、その手も
有ったかもしれない。
0295人間七七四年
2012/10/16(火) 09:32:17.18ID:jxH4mVdS0296人間七七四年
2012/10/16(火) 10:10:37.83ID:+1M49cxaは揶揄されるけど気概はたいしたもんだと思う。
プライドだけでは生き残れない。
プライドを捨てられなかったのだからあの結末も止む終えなしだろう。
0297人間七七四年
2012/10/16(火) 12:48:10.55ID:7nz6EsgP武田家中ではどうも信長を嫌う風潮があったっぽい。
そもそも織田との同盟のときだって、家臣団が軒並み反対する中、秋山が必死に説得してどうにか締結したって話だし。
あと勝頼の心境がわかる和歌がどっかの神社に奉納されているらしい。
その内容は「織田と和睦したほうがいいのは分かっているけど、どうしようもない」というもの。
家臣団が許さないのだろう。
0298人間七七四年
2012/10/16(火) 13:08:43.37ID:+1M49cxa>その内容は「織田と和睦したほうがいいのは分かっているけど、どうしようもない」というもの。
家臣団が許さないのだろう。
別スレでそのエピソードか載っていて読んだ。
何か切なかったな。
0299人間七七四年
2012/10/16(火) 18:28:41.03ID:dxAhnDVg武田の古い体制の家臣団を粛清して再編できていればねー
使える人材は長篠で死んで、クズばかり残っちゃったし
0300人間七七四年
2012/10/16(火) 18:32:46.25ID:GEYfB5fz0301人間七七四年
2012/10/18(木) 01:51:26.90ID:GWXTrsVD全体的に反対の声が強かったんじゃないの?
とりわけ譜代衆は。
しかし武田家の中に根本的に織田を毛嫌いする人間が多いのはなぜだろう?
比叡山の件で不快感を持ったか?あるいは家柄の問題か?
0302人間七七四年
2012/10/18(木) 06:22:18.90ID:zsVzTQVz0303人間七七四年
2012/10/18(木) 09:57:23.04ID:IeRtD1Dw0304人間七七四年
2012/10/18(木) 12:35:59.39ID:heFhLZEB信玄のせい?
0305人間七七四年
2012/10/18(木) 21:49:26.76ID:CKsPkaip包囲網が瓦解したあとは「もう怖いもんなんかねーや」って態度になって
双方が緊張状態になって長篠に到った
まったく接点がなかったわけでもない。上杉にも洛中洛外図屏風送ったり
周り敵だらけでとにかくこれ以上敵が増えないようにしていた
0306人間七七四年
2012/10/18(木) 22:23:00.39ID:FmcuBOOUスレの趣旨とはずれますが、
信長さんは現金なお人ですなあ、とww
北条とかへの対応もそうですが
0307人間七七四年
2012/10/19(金) 00:14:12.15ID:wUCfgLol0308人間七七四年
2012/10/19(金) 00:53:46.23ID:9+5GkdL3信玄時代の信長の土下座外交をみてるからなー
そのときの気持ちを引きずって、あんな土下座野郎と組めるか、みたいな気持だったのかも
信長のすごさは平気で土下座外交でもなんでもできるタフさだな
0309人間七七四年
2012/10/19(金) 01:01:03.45ID:zZVPK1PB甲陽軍鑑では織田がかなり悪く書かれているし、江戸時代、信長はあまり評判が良くなかったようだがこれは武田旧臣がからんでいるとも。
単純に主家を滅ぼされた恨みって言えばそうなのかもしれないけど、それだけじゃなさそう。
0310人間七七四年
2012/10/19(金) 01:40:33.30ID:4B6byhio残党狩りのせいで織田への憎しみになったのか
どちらにせよ負の連鎖ですね
0311人間七七四年
2012/10/19(金) 12:37:05.30ID:oBu8xMXgもろ手を挙げて征服者を受け入れたところなんて世界史上でもまずない
0313人間七七四年
2012/10/19(金) 23:58:06.77ID:zZVPK1PB徳川は特に武田旧臣から憎しみを受けていはいないと思うが・・・
まあ武田旧臣は「徳川にやられた」って感覚はあまりないのかも。
「信長あの野郎・・・」とかは思っている人間も多いだろうが
0314人間七七四年
2012/10/20(土) 05:33:38.71ID:3vgyk9Rcだったら滅亡すれば?って話でしょ
同業他社からは価値のない技術と思われてるからどこも提携持ちかけないんだからw
技術的に劣るホンハイだからこそシャープを相手にしてるわけでね
武田ブランドなんてひけらかしても「あんたの時代はもう終わったんだよw」って言われて終わり
0315人間七七四年
2012/10/20(土) 07:56:32.54ID:WBJCrz6Dそれをちょっと誇っている風があったから、徳川憎し、なんて思っていないだろうね。
むしろ再就職先を用意してもらってありがとう、ぐらいの感覚では。
0316人間七七四年
2012/10/20(土) 09:09:07.27ID:yx3riYMo0317人間七七四年
2012/10/20(土) 10:42:34.50ID:z+x+bggH武田狩りしてる織田を憎むのは当たり前
織田の手先で戦ったけどこっそり武田遺臣を積極的にスカウトして
家臣にしてる徳川を憎むのはありえないでしょ
路頭に迷うところを職までくれるんだから
「信玄殿はまことの名将であった。勝頼殿は武運拙くお敗れになり申したが
それは武門につきもの。できるならこれからは我が方でお力を振るってくださいますまいか」と
お願いされれば「おぉ…徳川殿ぉ!」ってなるでしょ
0318人間七七四年
2012/10/20(土) 10:47:30.52ID:yx3riYMo武田旧家臣を憎んでいたかもしれんな
0319人間七七四年
2012/10/20(土) 13:16:36.29ID:prtyk/4f0321人間七七四年
2012/10/20(土) 14:54:46.88ID:GAIzt78B0322人間七七四年
2012/10/21(日) 01:32:06.16ID:eAOgUkeb松永さんのことかwww
0323人間七七四年
2012/10/23(火) 02:44:45.72ID:sxAdAYQp上杉景勝の悪運の強さはなかなかのものがあるな
0324人間七七四年
2012/10/23(火) 02:51:23.51ID:HIY4Hmjn悪運だけじゃく判断力もあると思う
関ヶ原に引き返す徳川軍を追撃してたら、戦後に取り潰されていただろ…
0325人間七七四年
2012/10/23(火) 14:18:34.23ID:0aMc50A+0326人間七七四年
2012/10/23(火) 18:14:47.60ID:jh9c4gp4御館の乱でも当初は景虎方が多くて武田北条伊達芦名もこぞって敵方
この中で御館を逆襲して奪って敵大名もこぞって撃退
武田は兵を引いただけで北条と戦ってたわけでもないし
天正10年6月まで滅亡せず森を退けるなど大いに敢闘してた結果本能寺が起きたんだから十分実力でしょ
上杉の内戦は御館の乱後も1年余り続き内乱がほぼ終結する天正8年半ばまでには
佐々長縄・神保長住・長連龍の派遣や北陸方面軍・飛騨口別働隊の働き・本い願寺の和睦受諾により
元々攻め取ったばかりで謙信の死により空白地に近かった能登・加賀に加え越中の諸将も織田方に帰参
さらに新発田も蜂起するなど絶望的な状況で越中中部で9倍もの織田軍を2年も食い止めたんだし
0327人間七七四年
2012/10/23(火) 19:39:23.39ID:3G1qD3XA0328人間七七四年
2012/10/23(火) 21:31:51.80ID:4LFJKy2Eまあでも治部に賭けてる時点で、やり手と言えるかは微妙じゃないですか?
旧来の友誼?
それと上杉のお家とどっちが大事なの?って話で。
0329人間七七四年
2012/10/23(火) 23:38:44.99ID:Vnj6m9vw月山富田城での敗北しても備後では押していたから間違いなく大寧寺の変だね。
あれで交易利権がなくなって誰も得しない状態になり分裂した。
0330人間七七四年
2012/10/23(火) 23:47:00.94ID:fB2kn2c6嫡流がバタバタと衰退したのに、庶流が戦国期を乗り切り、
しまいにゃ子孫が総理とか、神がかりすぎる。
0331人間七七四年
2012/10/24(水) 00:59:49.10ID:ndE5b0iD親友筆頭の大谷さんは元より
宇喜多さんとか真田父子とか治部に賭けた人は割りといるじゃないスか
二股かけてない奉行の人とか
ここ一番で中途半端な対応をしたばっかりに知名度が上がらない三番目の友の佐竹さんもいるけど
0332人間七七四年
2012/10/24(水) 23:06:35.74ID:ZDkEm0NUで、結果論ではありますけどお家(と自身の命)が吹き飛んじゃった人多数なわけで、
「やり手だけど身代パー」では、このスレの趣旨に沿うなら
その時点で詰んでる、ってことじゃないかと。
0333人間七七四年
2012/10/29(月) 10:52:26.54ID:7iXsjGwo真田とかは治部さんの人徳じゃなくてその後の恩賞と家康への反感もデカそうだけど
西軍が勝ってれば信濃・上野はほぼ確実に手に入ってただろうし
0334人間七七四年
2012/10/29(月) 11:33:30.74ID:TrK6CFoJ0335人間七七四年
2012/10/29(月) 12:18:07.70ID:9mm7gd6N上杉討伐に向かった家康を背後から挟み撃ちにしようとしたり
人質とったり、正論だけでもないけどな
普段正論ばっかり言っているのに俺達にはそんな手を使うのかよ
とか武断派から思われただろうな
0336人間七七四年
2012/10/29(月) 20:44:29.56ID:3s5xFW50そんなものは必要ないっって突っぱねたりしてるけど
駆け引きや機微が出来ない人だったんだろうね
布陣がまともに機能していれば正攻法で勝っていただろうに
0337人間七七四年
2012/10/29(月) 20:58:46.35ID:wlk3RSjQ日和見していた伊達に背後を突かれる。
0339人間七七四年
2012/10/30(火) 08:00:23.00ID:zUguDdng白石城や川俣城を落としたり、最上救援の為奥羽国境に援軍を送って
いますが・・・
0340人間七七四年
2012/10/30(火) 12:58:47.95ID:/RvPpl5T宇都宮家が詰まないようにする名案って何かないですかね
0341人間七七四年
2012/10/30(火) 19:00:03.30ID:6UbuN5uN0343人間七七四年
2012/10/31(水) 07:22:35.14ID:J1JGs1Rm秦氏という珍しい氏族なんだし
0345人間七七四年
2012/10/31(水) 11:56:59.86ID:+Es05jQZもう少し早い段階で武茂氏辺りから養子を入れるとか
もっとも結城氏の様に養子がいても追い出される可能性も高い
浅野長政が取り次ぎ役になった時点で詰んでいたと言う事か
0347人間七七四年
2012/10/31(水) 20:46:23.22ID:DmeK0gXlその頃の武茂氏って宇都宮配下ではなく佐竹配下ではなかったか。
それはちょっと無理っぽい。
養子に大反対した芳賀が、親浅野の今泉・北条を殺したのが決定的だったんだと思う。
同年、改易だし。
養子話が流れてから4年の間があって、浅野としては我慢してたけど
自分の親派が殲滅されてキレてしまった、という感じなのかな。
宇都宮氏は今でも男系血統が守られてるのが、せめてもの救いだね
0348人間七七四年
2012/11/01(木) 00:11:33.71ID:dWf3DiRuかと思ったら元康が継ぐ予定だったから詰みではなかったか
0349人間七七四年
2012/11/01(木) 01:41:38.43ID:IdpffuZg0350人間七七四年
2012/11/01(木) 01:42:09.14ID:7nBBXTNU長宗我部さんは関ヶ原後の兄殺しが決定打でしょうね
絶体絶命の状況でも内紛止めなかったから完全に見放されたんじゃない?
0351人間七七四年
2012/11/01(木) 07:22:39.95ID:+wV2avuyお家騒動自体は島津だってやらかしているわけで。仮にお家騒動がまずくて大名としてはキツくても高家として存続くらいはして良かったんじゃねぇの?
少なくとも山内にあんな徹底的な弾圧くらうほどのことは長曽我部自体やらかしてないでしょうに
0352人間七七四年
2012/11/01(木) 12:07:27.85ID:yZe8Qolg「よく来たな。死ぬがよい」と虐殺する大河の主役だからな
0353人間七七四年
2012/11/01(木) 12:11:24.98ID:gN7R+J/R何処に属しているかは問題にならないかと
それに宇都宮国綱と佐竹義宣は従兄弟であり、宇都宮氏と佐竹氏は広綱・義昭の代から親密な関係にあるから
むしろ宇都宮一族で、佐竹氏とも関係の深い武茂氏が宇都宮宗家を継ぐ事は宇都宮ー佐竹の関係強化にもなると思う
家系的にも武茂氏は二度、宗家に養子を出しているから申し分ないし
でも、佐竹義宣や上杉景勝(養子はいた)も子供はいなかったのに、養子を押し付けられた話は聞かない
やはり取次役が石田から浅野に変わった事が宇都宮氏没落への起点か
0355人間七七四年
2012/11/01(木) 15:21:08.03ID:Jd++iOAr栄枯盛衰激しいなぁー
0356人間七七四年
2012/11/01(木) 19:33:03.70ID:dxTYTVBx>何処に属しているかは問題にならないかと
妻を迎えるなら大した問題ではないが、養嗣子なら問題大有りだろw
>家系的にも武茂氏は二度、宗家に養子を出しているから申し分ないし
家系というなら芳賀氏も入嗣してるし、当主の実弟が筆頭宿老やってんだぜ。
それを差し置いて何で三代100年以上も前に血筋が別れた所、それも他家に靡いた所から養子に出すんだ。
そもそも>>345の
>もう少し早い段階で武茂氏辺りから養子を入れるとか
この仮定自体がおかしいだろ。当主が20代半ばなのに養子なんか取らない。
0358人間七七四年
2012/11/02(金) 12:03:57.04ID:hAZjYxzU??「アニキ!」
0359人間七七四年
2012/11/02(金) 19:40:02.70ID:CXgsW5az>その20代半ばの当主に養子を取れと言ってきた訳だが
そういう予測不可能な無茶振りに対して
>もう少し早い段階で武茂氏辺りから養子を入れるとか
なんてバカな仮定は成り立たないだろ。と指摘している訳で。
頭の回転の遅いお前でもご理解いただけましたか?
0360人間七七四年
2012/11/05(月) 20:23:57.22ID:PiXUy4480361人間七七四年
2012/11/07(水) 03:26:47.25ID:AwruDtoK0362人間七七四年
2012/11/07(水) 05:20:31.55ID:9l9ZlC6x武田征伐後の東海道見物の時点でかなり警戒心を失ってる兆候は出てると思う
ありえない話だけどあの時徳川が全力で襲い掛かれば間違い無く本能寺状態だったろうし
というわけで織田信長が詰んだのは武田征伐の成功と思う
0363人間七七四年
2012/11/07(水) 08:44:37.13ID:P28dNrBBなんだろうねえ??
0364人間七七四年
2012/11/07(水) 12:36:19.10ID:AEGrftCi論点ずらしで得意気になってるとか、大した頭の働きですねw
0365人間七七四年
2012/11/07(水) 13:02:54.30ID:DDd2vjPR戦国大名、信長だって人間だし四六時中気ぃ張って生きてないだろ
むしろ宿敵の武田を滅ぼしてやっと安堵した感じ
本能寺だってまさか腹心中の腹心の明智が反転して襲ってくるとは思わんでしょう
最期は日頃折檻して恨まれていて寝首かかれた張飛と同じ目にあったけど
独裁的で張飛にとっての劉備みたいに前もって注意するように言う人間がいなかったのが理由か
0366人間七七四年
2012/11/09(金) 12:34:36.62ID:c5cv/Sk4家臣や子供ですら警戒してたし
独裁者は猜疑心が強くないと生き残れない
0367人間七七四年
2012/11/09(金) 21:39:18.52ID:9E/p6MdKその猜疑心をうまく制御できなかった点が、
羽柴家の「詰み」だったんですかねぇ
(一応子孫は残ってますけど)
0368人間七七四年
2012/11/10(土) 01:51:07.37ID:Qt4BvyQ4ただし地位によってその比重が異なるのがミソ
0369人間七七四年
2012/11/10(土) 15:01:38.64ID:tWrHbCmb追っ払えばよかったな
0370人間七七四年
2012/11/10(土) 15:57:40.34ID:AMjy0Euaそのまま家康を東海に置いておいて朝鮮で壊滅させりゃ良かったのに
0371人間七七四年
2012/11/10(土) 20:59:42.94ID:lNIZuKFz伊達も一緒にな
0372人間七七四年
2012/11/12(月) 02:24:16.85ID:+9MeEk00唐入りに関しては、秀吉をはじめとして勝てると見越して渡航している
家康に大陸での領土を確保させないために、あえて渡航させなかった見てもいいかも
結果的には唐入りは大失敗だったので、渡航しない方が正解だったわけだけど、これは結果論だから仕方ないかと
0373人間七七四年
2012/11/13(火) 13:56:21.62ID:/KgvRHlx天下取る前から計画練っていたし、秀吉自身ももう少し長生きしていたら唐入りしただろう
0374人間七七四年
2012/11/13(火) 15:38:13.26ID:V8UK60mE結局後継者が迷惑するんだよな
0375人間七七四年
2012/11/13(火) 16:25:35.31ID:8jV+jcUw他は知らないけど、信玄は天下を取る戦略なんて最初から持っていない
信長を見て、真似しようとしただけ。だから晩年なんでしょ
0376人間七七四年
2012/11/13(火) 16:29:28.76ID:JGX0LuOrそろそろノブといっちょやったるかと思ったらおっちんだ
謙信も今年も小田原攻めるかなーと思ってたら卒中った
一方家康は成功した
0377人間七七四年
2012/11/13(火) 16:36:30.03ID:V8UK60mE0378人間七七四年
2012/11/13(火) 18:05:57.73ID:5XxA9/Bkあれだけ子供がいたら、早死したらヤバイことになるわな。
0379人間七七四年
2012/11/13(火) 22:22:52.49ID:sA9nYOsZ秀康は結城家にいった段階で関係ないか
0380人間七七四年
2012/11/14(水) 16:51:15.07ID:RYHDtwmG・嫡男は死没、他に正室の子なし
・側室との男子が6人、しかも若年
秀康(26)
秀忠(21)
忠吉(20)
信吉(17)
忠輝(8)
義直(0)
・次男が他家の養子になっている為、三男が後継者候補
・正式な後継者指命なし
確かに御家騒動フラグ立ちまくりだな
健康に気を遣ったからといって長生き出来る訳ではないし
かなり綱渡り的な天下取りだったと言える
0381人間七七四年
2012/11/14(水) 21:22:06.43ID:qaen5Xgm秀忠を後継者指名はしてないかもしれないけれど、
秀康を担ぐ重臣がいるかな?
他家に養子に行ったやつを
(孫へのつなぎとはいえ)当主に据えて大失敗した甲州武田家の例は
まだ重臣たちの記憶にあるんじゃないかと。
0382人間七七四年
2012/11/15(木) 01:10:26.68ID:I/plaqZ1難局を乗りきるには秀忠より勇猛な秀康を担ぐのも手と考えるのもいるかな、なんて
孫策と孫権みたいな。でも関ヶ原以後なら勇猛さは必要ないか
…だめだ秀忠って字みてると津川正彦と西田敏行の「秀忠」って言ってる絵面しか浮かばねぇ
0383人間七七四年
2012/11/15(木) 04:10:51.75ID:JK4tyyG/関が原後に家康急死で幕府も開かれず内大臣の肩書きもなくなるわけで
武断派が家康亡き後の徳川に従うとも思えないしね
徳川としてはもう一度豊臣政権の枠組み内で勢力を温存する方向に方針戻さざるをえない
そうなると秀忠よりは結城秀康の方が都合がいい
幕府ができて家康が健在の頃でも権力闘争で揉めてたくらいなのに家康が急死したらねぇ・・・
案外結城秀康が継げば豊臣の世が長く続くかもね
0384人間七七四年
2012/11/15(木) 08:18:12.90ID:1UvWDNiI特に徳川は滅亡した戦国大名ではないだろ。
0385人間七七四年
2012/11/19(月) 18:57:38.76ID:CQQ0tRtS>>384
まあ上杉が謙信急死で景勝と影虎が家督争いしたり
織田も本能寺で信長だけでなく後継予定だった信忠まで横死して
信雄と信孝で家督争いした事を考えると可能性もなくもないね…
0386人間七七四年
2012/11/20(火) 10:45:48.19ID:66T1yDTb山崎の合戦に勝てたとしても前途多難だよねー
0387人間七七四年
2012/11/20(火) 13:57:30.64ID:Fw/L7LjM山崎で秀吉さえ倒してしまえば、直ぐに動ける大勢力は他にいないし
取り敢えず一息つける
0388人間七七四年
2012/11/20(火) 16:30:04.83ID:I32nSKDnすぐに武田が美濃に乱入して明智と同盟しただろうし
0391人間七七四年
2012/11/20(火) 21:14:59.66ID:4ohaaX7i秀吉敗走(もしくは死亡)、勝家が光秀を討つって展開になったら、
時間はかかっても織田家による統一はなされてたのかな?
0392人間七七四年
2012/11/20(火) 21:24:08.92ID:yiwsMa62その場合、
・勝家の寿命がいつ尽きるか
・信州以東は家康に任せる(切り取り放題黙認)ことが、勝家にできるか
・対上杉のフタである北陸方面をを前田と佐々に任せられるか
これによって、織田家による統一のタイムスケジュールが伸び縮みすると思われる。
0393人間七七四年
2012/11/21(水) 08:45:44.77ID:i9u/Q8Tb現職の将軍足利義昭でも連れ戻すしかない。
0394人間七七四年
2012/11/21(水) 10:54:35.37ID:JFL/FhLYせめて細川親子や筒井が味方になるよう根回しができていれば
山崎の合戦に勝利できたかもしれないし、その後の展望も見いだせるかも
でも根回しをするという事は、主君を打つ事をバラスという事であり、リスクを考えたら
根回しをしようにも出来ない状況だったと思われるので、どうやっても詰んでるぽい
0396人間七七四年
2012/11/22(木) 10:36:11.72ID:8lxIaL2V寿命が延びていたらって53の爺の言うセリフと違うわな、ただえさえ謙信や信長より長生きなのに
0397人間七七四年
2012/11/22(木) 11:06:15.58ID:e5up6b6T戦略なしで運がよかっただけなのが信長だろ
0398人間七七四年
2012/11/22(木) 13:51:54.34ID:7mqzJp6M0399人間七七四年
2012/11/22(木) 15:59:58.11ID:2/tr1rYJつまり武田上杉は実力が無かったと言えるな
0400人間七七四年
2012/11/22(木) 16:18:25.82ID:7BoqHf6S0401人間七七四年
2012/11/22(木) 17:01:35.56ID:HrkHeeLX0402人間七七四年
2012/11/22(木) 18:36:27.18ID:YetDC3w8包囲網作られて攻めこまれひいひい言ってた奴だし
謀反に振り回され最後は運も尽きて滅亡www
0403人間七七四年
2012/11/22(木) 19:53:45.50ID:avx578iw上杉→柴田←明智
北条→徳川←明智
状況的にはどこも苦しかったんだよな
山崎で勝っていれば毛利も停戦破棄して羽柴方を攻める可能性が高いし
柴田や徳川も背後を脅かされて積極的には攻められない
羽柴や柴田さえ潰してしまえば枝葉の方は明智に降るだろうし
勝機はあったと思うのだがね
0404人間七七四年
2012/11/22(木) 22:41:45.97ID:R4HQtNgt六角さんところはうまく立ち回れば将軍担いで天下に大を成せた(かもしれない)。
まあ中途半端に関わってしまったからな。観音寺城は名城だけどあそこから大津あたりに移転できる器量があれば違ったかもしれない
0406人間七七四年
2012/11/23(金) 00:25:10.39ID:uGbEv9plそういう状況からして明智としては対抗勢力が動くのに時間がかかると思ってたんだろうけど、
蓋開けてみれば羽柴はスピード違反級の大返し、柴田・徳川も速攻で動いてそれぞれ近江・尾張まで来てたと。
山崎で勝ったとしても無傷ってわけにはいかないし、間をおかず柴田・徳川と連戦になったらほぼ目は無いんじゃないか?
前もって連携の手はずが整ってて柴田らが動き出そうとするタイミングで上杉らが仕掛けたら話は変わるけど
0407人間七七四年
2012/11/23(金) 02:43:01.48ID:eIepHY+Fその辺しっかりとしてないあたり行き当たりばったりの謀反だったと言わざるを得ないし
だれそれの陰謀論だった、なんか到底成り立たないんだろうけども
あと姻戚関係だから味方してくれるだろうという甘い目測もあったんだろうな
交通事故を起こした女がまずすることは警察に電話・救急車を呼ぶ、じゃなく
恋人・家族にどうするか相談する、みたいな
家族なら味方してくれて当然だから悪いことしても救ってくれるはずだって考え
0408人間七七四年
2012/11/23(金) 08:18:29.67ID:z8Sx734w戦略音痴の北条氏康のせいで直前に越相同盟が成立し、
おかげで北条氏康、上杉謙信、徳川家康の三方面で戦ってた。
信玄はその三方面を勝ち抜いたけど、信長に3年近い猶予を与えてしまったな。
信長は北条氏康に感謝してもしきれないと思う。
0409人間七七四年
2012/11/23(金) 09:41:41.20ID:jjet8cwz単純にアホだから
0410人間七七四年
2012/11/23(金) 17:27:31.16ID:zi8y/I3T田舎で小競り合いしてるのとは違うだろう。
0411人間七七四年
2012/11/23(金) 18:24:38.16ID:fkpRvxqkまあシナとかもそういう感じか 異民族に征服されて王朝が何度も樹立
0412人間七七四年
2012/11/23(金) 20:39:52.61ID:eIepHY+Fパターン@
・軍事力が強力な連中(異民族)が中原を制覇
・次第に雅な風習に染まり初期の軍事政権色がなくなり文官が優位に
・完全に官僚が幅を利かせる
・北からの異民族が軍事力を背景に中原の連中を追っ払い制覇
・次第に雅(ry
パターンA
・異民族の国なんて我慢ならん、俺たち漢民族の国をたてるんだ(でも先祖は異民族)
・やった、ふぬけた連中をぶったおせたぞ
パターンB
・宦官と外戚の暗闘で暗殺や幼帝即位・賄賂が横行して政治が腐敗し王朝が末期症状に
・「よし来た!」といくつかの地方領主が反乱
・倒した勢力を吸収しつつ何人かに絞られる
・「皇帝の天命は去った。天に選ばれし私が伐つ」または「君側の奸を伐つ」とかなんとか大義名分を声明
・最後の勝利者になり、ただの人が皇帝に祭り上げられる
・竜王の化身だの常人より魁偉な風貌をしていただの母胎にいるとき日輪が腹に入ってきただの
後付けで神格化される
0413人間七七四年
2012/11/23(金) 20:57:16.08ID:xh8jfEX40414人間七七四年
2012/11/23(金) 21:43:01.13ID:94OL+lJy牽強付会を承知で言うと、北条は武田と戦ってなかった場合、
永禄十二年か元亀元年の段階で関宿入手。
天正の頭位には房相一和。
以下、三、四年は早いペースで関東制圧を進めれる上に、
御館の乱に巻き込まれない……てか起きないだろうから、
当然勝頼と対立する必要も無く……
……まあ勝頼との対立は、別の事情で起きたかもしれないが、
なんとなく、北条が詰んだのは氏康のせいかもしれないww
氏政は、親父をグーパンチしても良いと思うwww
0415人間七七四年
2012/11/23(金) 23:18:15.06ID:umZWYy14ていうか夏殷周秦漢全部ただの人が王や皇帝名乗ってるだけだし
「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という陳勝・呉広の言葉は真理だよ
0416人間七七四年
2012/11/24(土) 00:22:00.61ID:TDzdtj+m中国の革命理論は儒教から来る天人相関説から来ることを思うと
天がその時代最も徳の高い人間を選び、その人間が徳をもって天下を治める(天命思想)
身も蓋もないことを言えば、最終的な勝者が天命を受けていたのだ、勝ったから徳がある、だから皇帝を名乗る、となってしまう
0418人間七七四年
2012/11/24(土) 14:13:31.29ID:S7jDgNf/本願寺と戦ってたの佐久間であって信長じゃないし
信長は元々斉藤と小競り合いを繰り返してただけ。
斉藤が幼君で分裂&稲葉山乗っ取りクーデター騒ぎ&不景気で
次々戦う物もなく無血開城するほど弱体化してたから大勢力になり地方から脱却できただけで
そうでなきゃただの田舎大名で終わってたのが信長
0419人間七七四年
2012/11/24(土) 15:18:05.89ID:rWCHyBtr0420人間七七四年
2012/11/24(土) 15:20:44.20ID:zLCpmUW80421人間七七四年
2012/11/24(土) 17:12:07.93ID:g5zmtVw9煽るなら他でお願いします
0422人間七七四年
2012/11/26(月) 18:54:59.46ID:7wHn7gHLある意味正しかった…
もう少し早い時期に信長に手を出してたら武田の二の舞だし
隆景が秀吉と講和したのは大友や尼子残党がハイエナでの侵攻の可能性
おまけに関が原後の広家は土下座してまでも存続懇願してくれたから
後に徳川幕府を倒せたんだよね?
0423人間七七四年
2012/11/26(月) 22:35:50.12ID:+CQo4ynJ0424人間七七四年
2012/11/26(月) 23:22:28.30ID:M8mqaF4i倒すなら関ヶ原で倒しておくべきだろw
布陣見れば吉川が密約反故にして突っ込めば東軍総崩れじゃねーか
0426人間七七四年
2012/11/27(火) 19:03:52.35ID:B0q9I945当主も連罪だけど
>>424
長曾我部とか何しにわざわざ来たんだって位置にいるよな
0427人間七七四年
2012/11/28(水) 19:38:45.51ID:wAyX7EF70428人間七七四年
2012/11/28(水) 20:05:58.92ID:2owKRwHq無類の巨大城郭で落とされない自信があったんだろう
でも宿敵に「どうやったら落とせますか」と聞かれて簡単に対処法を教えちゃうバカ
0429人間七七四年
2012/11/28(水) 20:29:24.17ID:FL/itsx0江戸時代に別物に変化してしまうし
0430人間七七四年
2012/11/28(水) 20:42:26.23ID:GZgTrBmeのこのこ出張っていたら、伊達に後ろからやられているだろうし、
どのみち詰んでいる所を首の皮一枚で切り抜けたのは、大したもんだよ。
0431人間七七四年
2012/11/28(水) 21:55:26.14ID:dS4EQl4J堀家の足元パタパタ煽ってた史料がちらほら見えるし
0434人間七七四年
2012/11/28(水) 23:43:11.72ID:2owKRwHqって煽りまくったのに生き残ったな
0435人間七七四年
2012/11/29(木) 08:54:44.51ID:gEIUb2b8いい加減、理解しろよ
0436人間七七四年
2012/11/30(金) 20:56:15.59ID:8UXR3/YH0437人間七七四年
2012/12/01(土) 07:34:01.97ID:Da4+bpoxむしろ要所要所での堀家の頑張りは何気に凄いよな
結局潰されたけど
0439人間七七四年
2012/12/01(土) 20:48:59.35ID:Da4+bpox毛利と徳川が戦い消耗した後、徳川に襲い掛かるポジション
0440人間七七四年
2012/12/01(土) 23:43:32.71ID:yksj0suHバカだ
やる気まんまんの毛利秀元が味方を蹴散らしてでも突撃してれば
後ろの連中が雪崩れをうって背後を襲って家康は死んでた
後世、一万五千の大軍を率いながら弁当食ってただ帰ってきたアホと言われてると知ったら本人も浮かばれまい
0441人間七七四年
2012/12/02(日) 13:27:17.57ID:BwLR6inbやる気ないなら千か2千程度の兵しか連れて来ないだろ
本当に6千も連れてきていたとすると兵役の倍ぐらいだし、むしろやる気ありまくり
手柄立てる気満々で来たとしか考えられない
0442人間七七四年
2012/12/03(月) 02:13:06.27ID:UTcbVoKuそれを大阪近辺で西軍方に足止めされ仕方なく西軍に参加したと。
まあ盛親、(秀元)、安国寺、長束は京極が大津城で9月14日まで頑張った時点で詰みかな?
広家や秀秋、脇坂以外の関ヶ原に布陣した西軍諸侯にも言えるけど。
ただ決戦に間に合ったとして、元康やら宗茂が何処に布陣するのかは知らんが・・・
0443人間七七四年
2012/12/03(月) 02:34:20.99ID:k8Dxv58s途中で捕まったのと家臣がいらんことしたのが災いしたね
0444人間七七四年
2012/12/03(月) 02:36:33.14ID:9d/LoVpl勝頼もこんな感じだったのかな
0445人間七七四年
2012/12/03(月) 08:32:02.90ID:M/KsWuZi国道20号か旧甲州街道を使えるだろ
0446人間七七四年
2012/12/03(月) 15:57:23.00ID:TmsIEUhV0447人間七七四年
2012/12/03(月) 18:10:57.32ID:onk8Dudm三大滅亡の元
傲慢(による人心離反)・慢心(による油断)・判断力の欠如
も加えて六大敗亡とするか
0448人間七七四年
2012/12/04(火) 01:07:28.38ID:E/FJOdQW酒色は「酒と女」って意味だぞ。
0449人間七七四年
2012/12/04(火) 04:37:18.15ID:YemUyIRJ0450人間七七四年
2012/12/04(火) 08:53:50.86ID:muLXJpyP0451人間七七四年
2012/12/04(火) 11:31:55.02ID:N7KhQE+B軍記を見る限りでは序列争いや家督争いによる崩壊と言うパターンが多いな
0452人間七七四年
2012/12/04(火) 15:40:18.83ID:PVOGMmY00453人間七七四年
2012/12/05(水) 09:58:56.29ID:cvxdm3kj0454人間七七四年
2012/12/11(火) 21:17:43.66ID:Dc9sBo6Fhttp://www.youtube.com/watch?v=X30TI_QCUS4
BLOWIN
http://www.youtube.com/watch?v=GILh5ogQSko
HOT
http://www.youtube.com/watch?v=kNbs_e0L9KA
0455人間七七四年
2012/12/12(水) 00:45:25.37ID:zcO0jKQC家来に嫌われまくってたから本能寺無くても必ず滅んだ
0456人間七七四年
2012/12/12(水) 08:38:30.99ID:nL/osYz0あの瞬間だけ魔に魅入られたように無防備になっただけだと思うけど
0457人間七七四年
2012/12/12(水) 09:16:58.70ID:wqCoo1g0油断詰みは信長。
人生詰んだ俺は堕落詰みだ。
0458人間七七四年
2012/12/12(水) 09:44:26.41ID:+dA2OYao0459人間七七四年
2012/12/12(水) 09:58:49.66ID:dS0tc68S公家を呼んでお茶会とか慢心しすぎだろ
0460人間七七四年
2012/12/12(水) 11:46:24.73ID:WcL4T7aR0461人間七七四年
2012/12/12(水) 13:53:06.58ID:oF+y9Cb7そして相対的に見ると結局織田が強い事になる
0462人間七七四年
2012/12/12(水) 13:59:58.55ID:WcL4T7aR浅井朝倉斉藤本願寺武田上杉長島一揆北畠赤井
織田に勝てない大名なんていないだろ
0463人間七七四年
2012/12/12(水) 14:05:34.33ID:+8a2hlnnその中では浅井朝倉は惜しかったし本願寺も大分健闘したけどさ
0465人間七七四年
2012/12/12(水) 15:05:16.78ID:WcL4T7aR分裂・離反の連鎖などにつけこんで火事場泥棒しただけじゃん
こんなん誰でもできるわ
0466人間七七四年
2012/12/12(水) 19:05:54.74ID:Y+VBVcXl愛知県岐阜県京都府と争うとか
山梨県長野県静岡県の半分で愛知岐阜関西全域(和歌山のぞく)と争うとか
無理ゲーだよね
0467人間七七四年
2012/12/12(水) 19:39:11.45ID:WcL4T7aR尾張一国ですら57万石+津島港のチート収入で信秀時代に朝廷への献品ダントツ一位
これに美濃やら伊勢やら近江やらチート収入ばかりの国が分裂状態&寝返りだらけの火事場泥棒で手に入ったんだし
こんだけチート国力ありゃ誰でも勝てるだろ
0468人間七七四年
2012/12/13(木) 01:02:07.24ID:4mbAf2sEまあ上杉は生き残ったけど、他はチート大名の織田にすり潰される運命にあったと。
名門の血筋も門徒の力も空しいもんだな。
0469人間七七四年
2012/12/13(木) 12:06:41.80ID:r47AmPN9織田なんて信玄はおろか勝頼に蹴散らされまくった雑魚だしな
対斉藤でも7回くらい負けて斉藤のクーデター騒ぎと分裂につけこんで火事場泥棒しただけだし
0471人間七七四年
2012/12/13(木) 15:51:47.29ID:AbfdtuJP大軍を整え、補給を完ぺきにすることらしいからね
信長は常に敵より多い兵を用意し、しかもたらふく食わせていた
それができたこと自体が才能というんだろうね
0472人間七七四年
2012/12/13(木) 17:42:07.17ID:qZncw10x0474人間七七四年
2012/12/13(木) 20:09:56.82ID:NFhyAkHn上杉憲政、今川氏真、徳川秀忠、豊臣秀頼とかでもやってる
秀頼や秀忠は信長より遥かに有能だといいたいのかアホ
0475人間七七四年
2012/12/13(木) 21:05:04.07ID:0d9fhH0s0476人間七七四年
2012/12/13(木) 21:49:16.23ID:DFCpxVQZ京都府はほとんど足利氏寄りの豪族ばかりだし、
信長は関西全域から叩き出されて滋賀県4分の1を
かろうじて守ってただけなんだけどな。
あげくに残った領土も、三重で弟は死ぬわ、柴田は怪我するわ、岐阜東部は侵食されるわ、
愛知の林、佐久間、平手に加えて岐阜西部の3人衆まで、同盟相手の徳川、水野ともども壊滅するわ、
もう散々な状態
0477人間七七四年
2012/12/13(木) 23:29:29.44ID:dPCLKwg60478人間七七四年
2012/12/14(金) 00:43:59.37ID:/h6M96CS何ヵ月も書き込みがないよりは
いいたいことは分かるけど
0479人間七七四年
2012/12/14(金) 01:01:18.53ID:EqW6xkXQ関が原時の畿内方面だけで18万動員したし(石田三成人数書立)
戦国で一番多く動員しただろうし最も有能なんじゃね
0480人間七七四年
2012/12/14(金) 01:21:14.38ID:DCuFy69y0481人間七七四年
2012/12/14(金) 02:04:29.06ID:E205Oc3G0482人間七七四年
2012/12/14(金) 06:04:34.59ID:gixdjWIa甲江和与してれば毛利以外はもう降したも同然だったのにね
0483人間七七四年
2012/12/14(金) 12:06:05.58ID:s/CeUSD5意味がわからん
講和すれば、攻められないとでも?
友愛で党をクビになった爺さんか?
どんだけ生きれば良いと思ってるのかは別にして武田信玄が上洛するまで死ななければ、武田幕府は成立しえただろ
信長の選択肢は武田を滅亡させるしかない。
0484人間七七四年
2012/12/14(金) 12:43:04.84ID:Cvr59sTMうわ、まだそんな事信じている人いたんだ。
上洛すれば幕府成立ってw
0485人間七七四年
2012/12/14(金) 14:49:02.75ID:mtghvxqL勝頼は長篠後は西方への進出は完全に諦めてる
武田は勝頼の息子信勝が織田の血(養女だが)を引いてるし組めない訳ではない
同盟すれば北陸方面も武田の仲介で上杉を取り込めるかもしれんし
そうなれば東は武田と上杉に任せて西に集中できるわけで
信長は統一後のことを考えて敵対大名は全部潰しにかかったんだろうけどさ
まぁ秀吉的な統一が後に豊臣政権を崩壊させたことを考えれば間違いでもないんだろうが
0486人間七七四年
2012/12/14(金) 21:25:22.25ID:s/CeUSD5ゲームと歴史の区別が付かない引きこもりは寝てろ
源氏の名血で京の公家と繋がりが有るような奴が甲斐から上洛を果たしたとしたら、
直ぐに旧体制を元にした幕府は出来る。
守護代に繋がる家とかとは話が違う
0488人間七七四年
2012/12/14(金) 22:02:15.10ID:3vGtEHPoなんか時系列おかしくないか。
長篠後の織田からすれば、武田の方から進出してこない限りは捨て置けばいい訳で、和睦する必要は無い。
実際、それで西や北陸に集中できた。
ましてや武田と同盟なんて上杉を余計に刺激するだけで、何のメリットも無い。
上杉と武田が和睦するのは御館の途中だから。
0489人間七七四年
2012/12/15(土) 17:31:32.51ID:6nNEniMK1豊臣秀頼
2織田信長
3細川晴元
4大内義隆
5大友義鎮
6伊達稙宗
7足利晴氏
8上杉憲政
0491人間七七四年
2012/12/15(土) 20:59:45.18ID:E/T/DxMwまったくだw
機を見るに敏、と褒めるべきか、
田舎もんは自分の身代さえ守れりゃいいのかよ、と罵るべきか。
0492人間七七四年
2012/12/15(土) 21:14:37.73ID:MH6PQssl実際は織田に降ってても問題なかったんだろうな
どーせ甲斐一国に押し込まれて信濃の大名は織田の与力になったんだろうし
0493人間七七四年
2012/12/16(日) 09:04:13.24ID:hFcEN0dZ他にもそういう無理矢理な例ってあるの?
0494人間七七四年
2012/12/16(日) 12:05:10.16ID:MbjU1MUDそんな例いくらでもあると思うが。
朝倉、浅井、北畠、山名も似たようなもんだし。
村重が信長に弁明しに行こうとしたら、中川に止められて謀反を決意したら
真っ先に中川が寝返ったでござるの巻とかな。
0495人間七七四年
2012/12/16(日) 13:37:38.84ID:uiO2OGJuそんな例いくらでもある。
三好秀次、藤田氏邦、小早川秀秋、結城秀康、佐野信吉、高坂昌信、山県昌景、直江兼続、、
0496人間七七四年
2012/12/17(月) 03:22:55.44ID:/vqWpYnvしょせん豪族なんだし自分の権益を守れるかどうかしか本質的に興味はないんだから
0497人間七七四年
2012/12/17(月) 16:10:47.03ID:MmdqKR010498人間七七四年
2012/12/17(月) 16:48:10.83ID:GXI63/t80499人間七七四年
2012/12/19(水) 03:16:28.16ID:O9CCJNkeどこの国の歴史学んでるんだ
0500人間七七四年
2012/12/19(水) 09:26:27.50ID:llSfdtM4もう没落を通り越して滅亡したみたいな感じになってただろうな
やけくそで無楽斎とか言ってたし
0501人間七七四年
2012/12/19(水) 11:36:39.48ID:bnQk4hpu信雄・秀信は改易
信孝は死亡
0502人間七七四年
2012/12/19(水) 12:53:14.88ID:5nGFPKRw以後スルー願います
0503人間七七四年
2012/12/20(木) 13:38:56.94ID:pevICFKa長篠以降も勝頼はそれなりの規模の軍事行動をおこせていたし、北条も徳川も勝頼との
直接決戦は避けるほどの軍事力を持っていた。
それが、高天神城を攻撃された時に後詰めも出せずに見殺しにした事で、勝頼の声望が
地に落ちて家臣の離反を招き、信長・家康の攻撃に対してたいした抵抗もできずに
天目山に至った。
逆に言えば家康にとって高天神城を落とした一手が「王手」であって、純粋に戦略的には
無価値な高天神城を孤立させるために、城攻めの前にきっちりと高天神城を孤立させて
後詰めが不可能な状況に持って行った家康の戦略的な堅実さ(ねちっこさ)は見事といわざるを
えない。
勝頼もまさかその一手が大きな影響を与えるとは思ってなかったろうし、たとえれば羽生の
「伝説の5二銀」を打たれたような、そんな決定的な局面だったと思う。
ifの話をすれば、高天神城自体は敵中に孤立していて戦略的な意味はほとんどなかったので、
勝頼が高天神城を落とされる重要性を認識して撤退していれば、家臣団の離反も招かずに
延命のための行動の自由は保てていた可能性は高いと思う。
信長・家康の進行に対しても、もっと食い止めて時間を稼いで、外交的に挽回するとか。
0504人生七七四年
2012/12/20(木) 20:01:55.63ID:wkXi66p6勝頼の息子を指名してたせいだと思ったが。
0505人間七七四年
2012/12/20(木) 20:35:31.28ID:5M5o3NQv性格が破綻してたんろう つまり幼児教育からして失敗そして詰んでいた
0506人間七七四年
2012/12/20(木) 21:31:02.95ID:L0+2Uiinんでそいつらが家臣になってるでしょ
0507人間七七四年
2012/12/20(木) 21:37:06.83ID:6tYdDYH6そこまでさかのぼると、詰みとはいえないんじゃないかな。
不安材料ではあるけど、致命的なほどではないと思う。
勝頼の息子を指名したとしても、その後うまく経営していく方法はいくらでもあったろうから。
0508人間七七四年
2012/12/21(金) 15:40:29.57ID:kyDiEvld有楽斎って全体でみれば出世しまくりだろ
徳川に何の縁もなく大した兵を率いてなかったのに
戦後になって5万石の大名だろ?
5万石がしょぼいみたいに言われてるが本多忠勝ですら10万石ちょっと
井伊直政の子供が35万石貰っただけで新顔の徳川家臣としては優秀なくらい
最盛期の織田を知るって言っても本能寺の変はほかならぬ信長が招いたことだし
むしろ滅亡しなかっただけマシな方じゃないか?
0509人間七七四年
2012/12/21(金) 15:53:13.93ID:CGS2g9Tw0510人間七七四年
2012/12/21(金) 16:27:04.95ID:3d8wxdHf0511人間七七四年
2012/12/21(金) 22:29:47.73ID:XyIg89pP北条とか織田とか言い訳が見苦しいし話が先に進まない
0512人間七七四年
2012/12/24(月) 10:42:48.02ID:ve9cyoPL0513人間七七四年
2012/12/24(月) 12:59:01.75ID:Ng9ykPG10514人間七七四年
2012/12/24(月) 14:50:44.56ID:/kKCmLaH北条ですら江戸時代に生き残ったもんな。
0515人間七七四年
2012/12/26(水) 11:28:22.10ID:hQ+CUb66内ヶ島ぐらいじゃないのか?
0516人間七七四年
2012/12/26(水) 15:08:32.87ID:JIY1ADJJ0517人間七七四年
2012/12/26(水) 20:05:54.09ID:Fyz/HwI80518人間七七四年
2012/12/28(金) 11:56:36.79ID:+l/IWTwh0520人間七七四年
2012/12/30(日) 11:38:52.15ID:pd31QNHK滅び方が美しい
比べて武田はやはり源氏
0521人間七七四年
2012/12/30(日) 16:01:52.93ID:rHuX9KJ1「へっあんな猿なんかに従えるかよ。こっちには上杉武田の猛攻にも耐えた小田原城あるんだぜ」
って調子こいてるうちに囲まれて
「やばいよやばいよ」「出撃しようよ」「やっぱ籠ってようよ」っていたずらに月日を重ねて
総攻めされてろくに戦わずに滅んだ家が美しいって?
0522人間七七四年
2012/12/30(日) 19:27:46.90ID:PrSvCppM521はこの板じゃ生きていけないだろうなw
0523人間七七四年
2012/12/30(日) 21:05:33.78ID:S4kF2+Ni城燃やし、城下町も燃やし、町人を路頭に迷わして、
その上で一族全滅する方が、美しいと感じる向きがあっても良い、と思う。
私は賛成しないけどねw
あとまあ福原焼いて落ち延びた伊勢平氏さんあたりが、どう違うの?
と言われたら、反論できないのも確かだけど。
0525人間七七四年
2012/12/31(月) 12:59:32.44ID:UarhPV61八王子城 1日で落城
美しいらしい
0526人間七七四年
2012/12/31(月) 13:11:50.14ID:9El47jln兵力比は7.5倍
忍城1000小田原1000に手も足もでず
韮山500に大苦戦
0527人間七七四年
2012/12/31(月) 21:04:53.39ID:R0i3ZAG+皆、最後まで裏切らず戦っているなぁ
0529人間七七四年
2013/01/01(火) 11:22:59.31ID:Iht3Uxs1軍記物によれば、天正18年1月20日の小田原評定において、北条氏邦は出撃を提案。
氏照氏邦のどちらかが先陣。どっちがするかは、くじ引きで決める云々とあります。
しかし北条氏直は、天正17年12月26日の書状で、
上野国衆に対し氏邦の指揮下に入るよう指示しています。
氏邦が上野方面の指揮を執ることは、
軍記物の記述より一月は前に決まっていたことが分かるのです。
さように軍記物は、あてにならない節があります。
巷間、後北条は「小田原城の堅固さをあてに豊臣への臣従を拒んだ」と言われています。
しかし「氏政の上洛には、配下の諸勢から五騎程ずつ出させることを依頼するので、
各国衆への奏者には下知しておく事」(天正17年7月14日。氏政から氏邦へ)
「氏政の上洛費、一貫八四八文三十日までに納入すること」(天正17年10月14日。氏忠から高瀬紀伊守へ)
などなど見られるように、臣従を拒んだ、とまでは言えません。
精々、臣従に積極的ではなかった、程度のことでしょう。
秀吉は、連絡無い! と言っていますが、
少なくとも11月段階で宿老の一人を上洛させていますから、それは過言です。
それで充分と言う話もあります。最低領国の分割が必要な程度には後北条領国は巨大だったと言う事でしょう。
上野では検地が行われ、軍役が課せられ、馬廻衆の集住が進められています。
下総も、まあ同じ状況でした。
武蔵に、独立国衆領を抱えていたとは言え、直轄領だけで結構な規模でしたから。
ですので北条が詰んだのは、その領国を豊臣政権に負けない規模に拡大できなかった時だと思います。
ちなみに、なんで積極的でなかったか? と言いますと、こっから先は妄想ですが、この段階で秀吉は唐入りを公言してるんですよね。
で、一般論から言いますと、そういう場合、新規の外様は先陣です。
0530人間七七四年
2013/01/01(火) 15:06:31.64ID:eN5ckuXP関東八州諸城人数覚書や北条家人数覚書に1000と書いてる
お前松田典秀の軍勢を小田原と書いてないのに下山の誤記を取り上げて小田原だとか勝手に捏造した前スレの馬鹿だろ
0531人間七七四年
2013/01/01(火) 20:04:20.34ID:w4PmCAJCと、言うと、指揮下の軍勢は居なかった、とか言いそうですね。この人。
なにしろ、このスレッドは「滅亡した大名家はどの時点で詰んでいたか」であり、
前スレなんぞ存在しないのに…いやはや。
ツッコミ入れるときりがないのですが、どうやら行間読めないと言う病気の方のようなので、
これまでに。お大事に。
0532人間七七四年
2013/01/01(火) 20:58:46.22ID:eN5ckuXPそれはないな
松田の横の所には何もかかれてないし
最低でも指揮下の軍勢は別の所だろ
0533人間七七四年
2013/01/01(火) 21:02:26.08ID:KDyPcKcG普通に考えて守備はそこだろ
確か子供の笠原が豊臣方に寝返ろうとして氏直に成敗されてたはず
0534人間七七四年
2013/01/04(金) 11:08:59.78ID:2RT3cVmS1000人じゃなくて1000騎だからそんなものだと思う
謙信の小田原包囲が11万5千人で3000騎ぐらいだから
1000騎なら4万人ぐらいの計算になるし
0535人間七七四年
2013/01/04(金) 13:00:54.70ID:sVTb18Qx0536人間七七四年
2013/01/04(金) 13:04:57.16ID:emBCRlh7馬上身分だけを示すとかアホすぎるだろ
3月28日豊臣秀吉状で
5万騎にて山中城攻め崩しとか書いてるけど馬上身分だけで5万もいたのかって話
0537人間七七四年
2013/01/04(金) 16:25:37.52ID:vT+YMa52馬、関係ない
0538人間七七四年
2013/01/11(金) 09:40:10.22ID:+eUzeJBi大袈裟にするためわざとやってるのか、無知でやっているのかは謎だが
どのみち騎馬武者だけの数か、雑兵まで含めているのかは常識で考えれば簡単に分かる事だ
0539人間七七四年
2013/02/08(金) 01:41:34.77ID:QAmVlXPCこんだけ戦力があるんだぞー、というアピールだろうね
0540人間七七四年
2013/02/08(金) 09:22:42.89ID:1wX/hx8A0541人間七七四年
2013/02/14(木) 05:15:07.20ID:T9o5lKGn0542人間七七四年
2013/02/14(木) 06:49:13.45ID:1QQflUCE0543人間七七四年
2013/02/14(木) 07:07:48.41ID:MxNAfLHJ0544人間七七四年
2013/02/14(木) 16:10:57.88ID:SuN30rCm0546人間七七四年
2013/02/14(木) 20:29:05.36ID:MxNAfLHJ0547人間七七四年
2013/02/14(木) 21:14:16.64ID:pCxoAMJp> 義龍生きてたら混乱も分裂もクーデタ騒ぎも起きないから
1556年から1561年までの間に信長は反信長勢力への義龍の介入を斥け尾張をほぼ掌握し、西方からの脅威もほぼ無くなっている。
そうした信長の猛攻をいつまでしのげたもんか。
0548人間七七四年
2013/02/14(木) 21:21:36.04ID:MxNAfLHJ龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか 二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する
と寝返りばかりおきまくったりしてそれまでの間は撃退しまくってるし
義龍生きてたら混乱も分裂もクーデターも起きるわけないからそんな美濃攻略は不可能
0549人間七七四年
2013/02/14(木) 21:31:01.71ID:MxNAfLHJ六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、
斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、
尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、
宗教統制を改革中に急死。
0550人間七七四年
2013/03/07(木) 10:57:12.88ID:DLxhOUw6だから義龍も信長の美濃侵攻は難なくはね返せるが逆に尾張に
侵攻しようとすると背後の浅井が動くので難しかった。
義龍若死にが無ければ、そのままお互い決め手の無いまま両者
とも寿命を迎えた可能性もある。
0551人間七七四年
2013/03/07(木) 14:01:12.35ID:ygLG4Uh6織田と挟撃すれば領地増やせたと思うのだが
0553人間七七四年
2013/03/08(金) 13:59:14.72ID:ZsRHwgH7549 名前:記憶喪失した男 忍法帖【Lv=5,xxxP】(1+0:3) :2013/03/11(月) 20:14:24.46 ID:lhu94D0j0 ?2BP(333)
戦国時代板見ていた。
どうしても、不思議な謎があるんだよ。
つまり、おれの組織体験において、天皇家と公家は忍術を使う。
つまり、朝廷が戦国時代で負けたのは、家康の伊賀越えにおいてである。
というのがおそらく歴史の真相であり、天皇家の秘密。
背中の後ろに隠れる。壁の後ろに隠れるなどの単純な視覚技術によって、
本人と影武者が入れ替わることである。
熊野にも近い。
つまり、天皇家の隠れ里なのだ。
http://ncode.syosetu.com/n1646be/28/
わたしは自分の幻覚譫妄状態における秘密をほとんどばらした。
それによると、
日本で重要な県は、
一、山梨:富士山を登る山梨側の登山道に、富士の秘密基地がある。
二、和歌山:三重県の熊野の隠れ里が和歌山県側にある。
三、宮崎:天孫降臨の地として、天皇の別荘地。
忍者と、朝廷と、空海と、蘭亭序をくっつけて考えているのはおれと天皇家くらいだろう。
0561人間七七四年
2013/03/11(月) 23:10:22.39ID:VtjlTHp70563人間七七四年
2013/03/12(火) 13:07:02.55ID:YvwLBXEB0564人間七七四年
2013/03/13(水) 00:46:57.00ID:VrLVywI7少弐さんはよくもまぁあれだけ討死してるのに一族が絶えなかったよな
大量討死するのが前提で子作りに励んだとしか思えない
天庵さまはあれだけ負け続けてなぜ死なないw
そのかわり家臣団が死にすぎてピンチだけど、こちらもなぜか忠臣が枯渇しないんだよなぁ
0565人間七七四年
2013/03/13(水) 21:17:34.51ID:evX2Whfa城の大半落としても、捕虜にしても起誓文取り交わして返還するのが慣わしだから
0566人間七七四年
2013/03/20(水) 18:36:34.58ID:s5sx/dcB業者じゃ生産する気ない、もうあきらめろって
0567人間七七四年
2013/03/20(水) 18:51:41.84ID:lSOBUMwz0568人間七七四年
2013/03/24(日) 07:48:26.49ID:9n2T3WkG信長の盟友を気取るには少々石高が低すぎてバランス取れてないよ、その辺信長死ぬまで服従してた家康は弁えてたね
0569人間七七四年
2013/03/24(日) 11:25:03.77ID:kj7b/kH30570人間七七四年
2013/03/28(木) 18:59:47.06ID:igSD+C7R浅井を江北の領主なんて誤解をしてるから、わけが判らなくなる。
浅井は領主の圧迫から国人を解放した英雄に過ぎない。
そんなのが急に領主面して明日から織田と組むとか言ったって平和呆けした国人どもなら暴動を起こすだけ
三河の小さいなりにも親分を張った松平某の孫で大国今川でもそれなりに幅を利かせてた松平元康公とは一緒にはできん
0571人間七七四年
2013/03/28(木) 23:22:29.86ID:C7GeTACe従属でも一定の独立性を保てたから今川時代よりは立場が良いし
0572人間七七四年
2013/04/03(水) 23:58:06.14ID:euG7FCtX0573人間七七四年
2013/04/04(木) 00:11:11.84ID:PAYLAyiL0574人間七七四年
2013/04/09(火) 20:01:58.71ID:zHMi5ore義道も義定も義清も特に落ち度ないだろ
0575人間七七四年
2013/04/13(土) 18:45:21.43ID:gf8sSVYI黒田官兵衛親子 伊達政宗 真田信之 前田家 直江兼続 立花宗茂 織田有楽斉
豊臣家 秀次粛清劇で詰み
武田家 信玄の弟の信繁の死で詰み
さすがに秀次一族の粛清劇は明らかにやりすぎで
家康と利家も嘆き眉を潜めた
0576人間七七四年
2013/04/13(土) 19:51:37.43ID:hKo/MA2l0577人間七七四年
2013/04/13(土) 21:49:14.37ID:lkURtdkS秀次事件ではあれ以上最善の対応はあるまい
生まれてすぐ秀頼を殺すと言う手もあるが、現実的じゃないしな
0578人間七七四年
2013/04/13(土) 23:46:00.65ID:gf8sSVYIせめて弟の秀長が長生きしていれば
状況はかなり違っていたはず…
あまり優遇しなかった黒田もいち早く家康についた
0579人間七七四年
2013/04/14(日) 02:50:55.13ID:MPZpKPXp臣下になって20年も経たない程度の関係だから
主家と心中する程の関係を形成するのはかなり困難
ちなみに黒田は優遇されていたと思うけど
秀吉の配下としては新参の外様に当たるが、蜂須賀や堀尾といった割と古い武将や
縁戚の浅野などと同じぐらいの待遇を受けていた訳だし
0580人間七七四年
2013/04/14(日) 13:23:07.58ID:ph0Dv9LL武家官位制や武家清華家など国家体制内序列秩序を確立させ下克上されないシステムを作ろうとした。
それを破壊したのは子飼の福島を中心とした武断派の暴挙
0581人間七七四年
2013/04/14(日) 16:57:26.39ID:GKo/qn6n0582人間七七四年
2013/04/14(日) 21:30:07.82ID:q0SJhLiC0583人間七七四年
2013/04/16(火) 17:07:47.27ID:Qoy+HWIKそれとも一条や今川のように・・・・
0584人間七七四年
2013/04/21(日) 19:47:42.54ID:xVTYET0X0585人間七七四年
2013/06/03(月) 00:14:24.53ID:2ybziRMx0586人間七七四年
2013/06/03(月) 00:38:44.39ID:1wmnsEVf東海道 ・・・ 同盟国の今川ががっちり
関東 ・・・ 同盟国の北条に配慮
上野 ・・・ 長野にコテンパン
信濃 ・・・ 謙信にコテンパン
ってのがね
村上にも手こずってたくらいだし
駿河に侵攻した時に北条が邪魔せずに同盟を継続してくれてれば歴史はだいぶ違っただろうね
0587人間七七四年
2013/06/05(水) 18:53:37.92ID:kMfWUrxI0588人間七七四年
2013/06/05(水) 19:17:16.59ID:mLfvyrtb0590人間七七四年
2013/06/20(木) 00:21:03.92ID:u+DJvWi2その上、内訌で自壊していったからつけ入る隙は多かったと思う
まあ、毛利自身も内訌に苦しんでいたから決して楽だったとは言えないが
0591人間七七四年
2013/06/29(土) 18:29:25.32ID:JJS0YRkkなまじ力があるからガンガン同盟破棄しまくって気づけば周りは敵だらけ
三国同盟破棄で駿河侵攻して平定したり、甲相同盟反古にした御舘の乱介入で北信割譲など短期的には上手くいってるように見えるけど
それがかえって反武田連合(仮)の結成に繋がってるというね
0592人間七七四年
2013/06/29(土) 19:05:48.34ID:57WgTR5O滅亡の危機なんてまったくなかったしね。
軍記講談の誇張に騙されすぎ
0593人間七七四年
2013/06/29(土) 19:27:52.55ID:Ckwd2El6まーたそうやって無知なレスした後に、
武田厨を装って過去の論破レスをコピペして
さらに追撃でコピペ荒らしだがは市ねってレスするくだらない三段階自演するのか?
さすが基地外在日織田厨の日課は恨が源泉だから日本人には理解不能だな。
0594人間七七四年
2013/06/30(日) 09:20:41.49ID:TukDea0U0595人間七七四年
2013/06/30(日) 09:42:23.35ID:Cjj0p3sG0596人間七七四年
2013/06/30(日) 12:25:18.72ID:W4MkKgMc武田厨を装うコピペが投下され、織田厨がだが認定するくだらないコンボ発動の繰り返しで荒らしてんじゃねぇかw
あきらかに織田厨が罠に陥れるための様式美じゃんw
しかもそのコピペに対しても、す「すでに論破されたネタ」
などと主張するが一度たりとも論破している過去レスは見たことないし、
コピペに対してキチンと反論コピペをつくって無力化すればといっても
「キチガイの相手をするやつはいない」とか言って織田厨は常に逃げてるだけ。
0598人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:JQrPbQuU三国同盟を破ったのは今川。
今川が上杉と結んで武田を挟撃しようとしたので
越後が動けない冬に武田が駿河攻めをした。
甲相同盟にしたって、北条が武田に丸投げしてぜんぜん越後にやってこないことを勝頼は不審がってるし
その状況に付け込んで徳川が武田領へ侵攻してるのをこれ以上は放置できない状況の中で
ピンチの景虎のために景勝との間で和睦させる努力をしてたじゃねぇか。
実際、勝頼が景虎支援をしていたから、景勝は「あれは表向きだよ」って家臣にあわてて説明してる。
景虎と景勝の和平を勝頼は見届けてから徳川攻めへ急いで向かってるし。
年頭贈答で氏直と勝頼は挨拶してるし、その後、勝頼は織田・徳川攻撃を義昭・毛利に約束してて北条を敵視してない。
そんなときに厩橋北条がいきなり北条から離反する状況が生まれると同時に
北条と徳川が同盟し家康が信康を斬るトンデモ展開になって
北条と徳川が伊豆と駿河で武田攻めの挟撃を開始したのであって
武田が破ったわけじゃない。
0599人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:JQrPbQuU>>597とか具体的根拠すら書かないアホレスで煽ってるだけだし
0600人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:vnBC75jH0602人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:NgwXgPdF氏邦勢+上野国衆こぞって出兵して坂戸方面攻撃しまくってるのに
0603人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:Z2ERuH5n厩橋北条や他上野諸侯を先に派遣し7/17沼田城攻略 そのまま越後上田荘に侵攻し樺沢城などを攻略
さらに坂戸城も攻撃
8月になると氏邦本軍も上野に進出し9月には越後方面へ進撃上田荘まで進出
これだけでも相当な数じゃないの?
上野の景虎派諸将、例えば北条(きたじょう)なんかは越後で越冬してるよ
冬期で坂戸とかあの辺りで万余の兵糧は確保は乱捕りしたって難しいかと
0604人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:di09zCqI0605人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:z+EtltV40606人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:HCbxY6uD5/13に景虎が春日山から退去したのを受けて
氏政が勝頼に支援要請がきたので5/29日以前に越後へ向け先陣の信豊出陣。
6/29に春日山近辺に到着した勝頼が、
真田相手に勝頼は北条軍来ないって不満言ってる。
8/22徳川軍が駿河田中城攻撃開始。
8/28徳川に対応すべく勝頼は越後を去る。
9/4駿河山西地方へ侵攻していた徳川軍が退却。
これと同時期で北条がやっと坂戸城攻め開始。
またこの時期には景虎は勝頼から支援を受けていると書いている書状もある。
9月下旬再度、徳川が田中城を攻める動きを示したので、
9/22先陣を穴山に派遣し、
勝頼本人も出陣の意向を高天神城へ伝える。
9/24勝頼が景勝へ約束した景勝と景虎の和睦が破れたことを不満に思う書状を出す。
0607人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:HCbxY6uD0609人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:HCbxY6uD蒲沢城将になったのは12月に氏政が河田に在城するように命じてからで、それ以前は沼田城将だったね…
それで北条氏邦が沼田城守備に変更になったんだった。
そういや白井長尾の長尾憲景も北条方だったね。
0610人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:JQrPbQuU天正7年8月に武田と北条が敵対関係になるものの
終始押されっぱなしの氏政は一年後の8/19に、
ついに武田の攻勢への守備に自信をなくして
突如、家督譲渡をやって当主である時期での汚名を受けることを避けて
19歳の氏直に当主の座を押し付け隠居した。
甲相同盟破綻から1年で当主の地位から逃亡する氏政w
0611人間七七四年
2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:JQrPbQuU北条は織田に降伏して織田分国にしてもらえるよう土下座してきたと書いてるほど
織田の属国となり大名の地位を捨て去るほど勝頼に追い詰められた氏政www
氏政が落ちぶれ濡れ雑巾のような哀れな姿が目に浮かぶwww神奈川県民の恥www
0612人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:zp+el1M5逆に追い詰められていたのは勝頼の方だよなぁ。
四面楚歌で信長が動いたら武田方即離散。
しかし、勝頼の何がいけなかったのだろうか。
個人的には勝頼は頑張っていたと思うんだけどなぁ。
やっぱ外交?
0613人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:KS2htism織田による和睦詐欺
0614人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:qOIcwj0i0615人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:Hw/CLJLn北条が織田と通じた場合もっと悲惨なことになってたよ
景虎は間違いなく越中戦線で柴田勝家とぶつかる訳で北条的には織田と全面戦争するのは避けたいところだろうし
だから景勝と組んで上野ゲットしたまでは次善の策だったと思う
後は和睦詐欺の間に徳川を抑えつつ北条を屈服させてればね
これがどう考えても無理っぽいから詰んでるわけで
0616人間七七四年
2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:pnd4iOa+0617人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:e3ZPc43/結局上杉が放棄した東上野を真田が切り取っただけ
0618人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:9SMvkEpj0619人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:PnikgRVW織田に土下座した時の3月の氏政は「このままでは北条は滅亡してしまう」って嘆いているくらいだからな。
>>610
氏政は氏直が出陣中に抜き打ちで隠居表明するほど焦りまくりw
これ沼田城落城前に当主の座を降りりて責任逃れするためwww
これに調子づいた勝頼が北条と決戦すべく出陣表明し、
一機に金山城館林城を焼き討ちしてまわったので
氏政も全軍を率いて本庄まできたものの
勝頼が利根川を渡ってきたのでさっそく逃亡www
佐竹もモタモタして小山止まりで足利に来ないので
義重の違約を抗議してる。
その後、沼田攻略成功で真田が手空きになったので
天正9月が始まるや八王子方面などからの不意の北条からの攻撃に備えるべく新府城築城の人夫を出させてる。
その勢いを知った里見も同盟参加交渉が開始され
伊豆では武田水軍が圧倒しまくりで
本格的な武田・佐竹・里見同盟と佐竹ルートによる織田との和睦交渉も追加された。
この伊豆での優勢から伊豆の入り口にあたる戸倉城の笠原政晴が武田に寝返り韮山城を攻めたので
武田はついに小田原突撃への道が切り開かれ、勝頼も出陣し
最前線ラインが12/5には玉川表(三島)まで食い上げられた。
そして寒さが厳しくなってきたので19日に勝頼は帰国し24日に新府城に初めて入城した。
来年には小田原まで食い破るつもりだったろうが、木曽氏の織田への内通と浅間山噴火で武田はパニックのまま滅亡。
0620人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:KoteBJgL利根川を渡る寸前には膳城で勝頼は鎧も着けずに突っ込んで落城させた素肌攻めやって、
士気の上がり方がハンパなかったって話だから
氏政のビビりようも相当だったろうな。
まあ、なんにせよ由良の金山城を背後に利根川を渡河するあたり勝頼の自信の程が窺われる。
まあ謙信と違って利根川渡っても西上野から帰れるから、
謙信ほどのリスクは無いのだけどそれでも鉢形城を横に見ながらの撤退にはなるからな。
しかし金山城の堅城ぶりは異常だよな。
北条はなにもやってないが、金山城が落ちないから利根川以南や
金山以東が上杉側に染まらずに済んでるからな。
0621人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:e3ZPc43/どうしてこういうすぐにバレるような嘘つくかね?w
新府城の縄張り見ればわかるが明らかに信濃方面からの敵に対する城であって東からの攻撃にはある意味無防備に近い
普通に考えれば木曽や飯田方面からくる織田と徳川を最終的に食い止めるための城
0622人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:pH/Z3Ehmんなわけねーだろ気持ち悪いからどっか行け。
信濃一国丸々あんのに織田への心配なんかするわけねーだろ。
八王子方面からのすぐ甲斐侵入出来るからその備えだ。
0623人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:e3ZPc43/だが君はホント馬鹿だなぁ新府城周辺の地形も読めないらしいw
そもそも新府城がもし北条の甲斐侵攻への備えなら韮崎にあるのもおなしな話だw
むしろそれなら躑躅ヶ崎館から岩殿城のネットワークを利用するのが当たり前
八王子から上野原経由で北条が来るなら岩殿で阻止する
0624人間七七四年
2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:24XOzyyF織田とはこの時期序序に友好関係が結ばれているのだから
時期的にいっても場所でいっても対北条用なのは明白でしょ
都留郡には北条の直接的な攻撃がされてるし
逆に織田とは同盟関係結ばれつつあるんだし徳川も駿河や遠江突破できてないし
0625人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:7rawA8yp韮崎の新府城が北条からの甲斐防衛の拠点という話になってるけど
北条が新府城に到達したと仮定すると甲府盆地を蹂躙されて根拠地を失ってる前提にならないか?
0626人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:Nro02kHO攻撃に回る場合には逆で敵地に近い所に普請すると思うが防御が目的なら敵に攻撃されにくい所に築こうとするだろ
特に本拠地が簡単に攻撃にさらされたら危険だろうし
0627人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:FEfd8mAA0628人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:7rawA8ypここ抜かれたらもう甲斐府中まで突っ込まれる
もちろん上杉と北信濃からの後詰が前提なのは間違いないが
北条は駿河で阻止、八王子方面から来るなら最終防衛ラインは小山田の岩殿城
織田とは和睦交渉云々言ってる人がいるがだから防御固めない理由にはならないw
0629人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:Nro02kHO2年連続で侵攻された都留郡においたんじゃ危険すぎるしありえんわ
天正8年・9年と連続して北条の甲斐侵攻がありこの時期に築かれたものだし
織田とはこの時期序序に友好関係が結ばれているのだから
時期的にいっても場所でいっても対北条用なのは明白でしょ
都留郡には北条の直接的な攻撃がされてるし
逆に織田とは同盟関係結ばれつつあるんだしわざわざ大枚はたいて無理に防衛拠点築く必要ない
0630人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:4D8D6k39天正9年3/17に北条軍が再度、甲斐へ侵入し棡原(上野原市)で劇破してる。
北条の大規模奇襲に備えて躑躅ヶ館の放棄の際の詰め城(信濃諸将や上野諸将との合流に都合がいい)であり、
一方、織田と武田の和平は順調にいっており最終的には織田勝長の返還まで進展しており
織田と武田の間ではそれほどの危機はない。
0631人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:i6xbO0dn同盟が成立しつつある織田方に対して大枚はたいて防衛拠点構えるとか本拠地移転したとか
相当馬鹿だな
0632人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:4D8D6k390633人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:7rawA8yp誰も都留に本拠地置けなんて言ってる奴いね〜しw
そもそも都留の近くに岩殿城があることも知らないらしい
もし本当に北条からの甲斐防衛の拠点を考えるのであればそもそも躑躅ヶ崎館で十分なわけでね
もし岩殿が落ちた場合武田としては勝沼で迎撃するしかない
勝沼突破されたらもう甲斐は終わり
甲府盆地の特性を理解せずに自作自演してる奴は頭悪すぎて笑える
0634人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:kyY0SkMd八王子、鉢形、飯能、青梅からの北条軍の甲斐侵入を阻止出来ると思い込むほど織田厨はアホなんかワロスw
それに躑躅館の水堀は鉄砲すら防げない幅で全く防備に向かない政庁だから、
敵に奪われそうになったら焼いて新府へ撤兵するのは理に叶う。
0635人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:7rawA8ypお前の言うそれらの経路からの甲斐侵入に対応するなら甲斐盆地に侵入される前に山岳部で防ぐのが当たり前だろうがw
甲斐盆地蹂躙された武田に信濃の豪族が従うとでも?w
根本的な認識がオカシイって気づけよw
0636人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:9mW/SswP0637人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:7rawA8yp>>629
>>630
>>631
>>632
>>634
>>636
全部自演です
お疲れ様でしたw
0638人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:Nro02kHOお前の論理だともし本当に織田からの領国防衛の拠点を考えるのであればそもそも
甲斐になんか拠点築く必要なし
木曽・伊那・高遠あたりが落ちて諏訪などが蹂躙されたら信濃全土が蹂躙されたといえるため
信濃蹂躙された武田に信濃や甲斐の豪族が従うわけがなく、新府城など対織田の防衛としては何も役に立たないといえるんだがw
0639人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:i6xbO0dn北条の侵攻に直接さらされにくい場所が新府だから新府に城築いただけ
本拠地が簡単に敵に攻撃されたら危険でかなわん
本拠地として築城しただけであって単なる防衛拠点じゃないのは
勝頼が新府を本拠として使ってることからも明白で、元の躑躅館じゃ場所でも
地勢的にも防衛に難があるから移転しただけ
0640人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:7rawA8yp>信濃蹂躙された武田に信濃や甲斐の豪族が従うわけがなく、新府城など対織田の防衛としては何も役に立たないといえるんだがw
甲府盆地蹂躙された武田に信濃や甲斐の豪族が従うわけがなく、新府城など対北条の防衛としては何も役に立たないといえるんだがw
っていう考え方はないのね君の世界ではw
甲斐は武田の根拠地なんだから信濃が蹂躙されたとしても最後の防衛拠点として韮崎の新府城に意味はある
>>639
で?
君の本拠地の定義もよくわからんが甲斐の端っこにある新府城が健在で
北条に甲府盆地蹂躙されてて新府城は何から甲斐を防衛してるんだい?
何度も言うが甲府盆地の特性を地図で見てから書き込まないと恥かくよw
0641人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:Nro02kHO甲府盆地地帯以外で防衛に向いてるのはやっぱり岩殿のある都留郡か韮崎が中心だが
都留郡じゃ北条方の攻撃が予想され危険だから単純に安全かつ防衛拠点に向いた韮崎方面が選ばれただけじゃないの?
0642人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:9mW/SswP新府城に来る前に北条は全滅させられてるんじゃね?w
0643人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:Nro02kHOいや、お前の理論>>633>>635(甲斐盆地蹂躙された武田に信濃の豪族が従うとでも)になぞらえて
その理論なら対織田戦の防衛拠点の場所としておかし過ぎるだろって言ってんだが
別に根拠地だから意味はあるといわれても信濃が蹂躙されまくって信濃の豪族がまともに従うわけないんだし(お前の理論)
その後の防衛なんて全く意味をなさないだろ
本拠地は敵に攻撃されやすい所においたら危険だからされにくいかつされても安全そうな韮崎にしただけだろ
別に本拠地が占拠されなきゃ北条が撤退した後で取り返せばいいだけだろ
0644人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:7rawA8ypだからその理屈だと韮崎は信濃方面から甲府盆地を防衛するための防衛拠点にならないか?
甲府盆地内で防衛が無理なのはずっと指摘してるわけだが
東からの敵や御坂峠通って甲府盆地に進出を狙う北条軍という前提なら勝沼辺りが最終防衛ライン
>>643
甲府盆地が蹂躙されて盆地に続く峠や拠点が北条に抑えられるのに何を取り返すんだお前?w
0645人間七七四年
2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:7rawA8yp0646人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:SCLT8oAHそれどころか信長の息子を返却するほど織田と武田の間は進展。
鉢形、飯能、青梅、八王子から甲斐へ侵攻できる為、岩殿城で最終防御は成り立たない。
北条の侵攻に備える為→たびたび北条が侵攻してきてる。信濃諸将が諏訪方面から&上野諸将が佐久海野方面から援軍に来援するのに最も都合がよい位置に新府城がある。
0647人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:ZVoRCR2+前も長篠城の地形に俺は詳しいとか言って馬鹿な発言を繰り返していたし
今も日本海に詳しいみたいなアホ話してるしw
0648人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:FMvUOhzS対織田ってのは今までの通説で対北条側の論理を興味津々で読んでるんだけど
「築上の時期的に対北条用なのは明白」って言われてもね
もっと説得力ある説明ないのかな?
>>646の話も別に躑躅ヶ崎館に集結しても同じ話しだしさ
通説覆すにはいかにも弱いというか一人の妄想にしか見えないんだけど
0649人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:FMvUOhzS謙信スレでも「冬の日本海は荒れてない」とか書いてるのなw
相手して損したわw
キチガイじゃん
0650人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:nTgIrGps織田と同盟成立しつつある時期に北条に2年連続で甲斐に侵攻されてる状況無視して
対織田用の拠点(本拠地)を大枚はたいて作るとか考えにくいもんなぁ
0651人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:FMvUOhzS長篠で重臣も消えて1580年頃には対北条戦でも軌道に乗ってきてた時期だろうし
勝頼の取り立てた側近が育ってきてた時期でもあるだろうし
そういう意味で信玄体制からの脱皮という意味で城を移したという可能性もちょっと感じるんだが
0652人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:SCLT8oAH織田の侵攻の時に新府城に籠城して北信からの上杉の援軍待ちをしなかったんじゃないか。
勝頼は見事に新府をスルーして躑躅館に入ってんじゃん。
実際の戦いで証明されてる話だろ。
0653人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:FMvUOhzSそれは対北条用の城だという根拠にはならないと思うけどね
客観的に見て
新府城は支城群も含めて1万程度の軍勢で守る構造らしいから
離反が相次いで城を維持できなくなったってのが通説じゃないの?
あと新府城は天正壬午の乱で家康が籠城して諏訪方面から甲斐に向けて進撃してた
北条氏直を撃退してる訳だが
だからと言って対北条用ではないとも言い切れないがね
0654人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:vuoM/7Qi上野を攻めるなら躑躅ヶ崎より新府のが交通の便が良い
そういう意味なら対北条用といえるかも
0656人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:ZVoRCR2+氏邦も花園城→鉢形城と移転して両人とも西武蔵に在城して
いつでも甲斐へ進入できる超隣接地で牽制してる。
武田としては、両名の連携による大規模侵攻の可能性を想定して
新府城を築いたと考える方が合理的。
0657人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:r8Z3OQoc0658人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:ZVoRCR2+織田の侵攻自体が噴火日からだしな。
0659人間七七四年
2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:2yPdMWzo0660人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:Pz96xdgN0661人間七七四年
2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:h2igJWUT0662人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:4gajyWK/天災なめんな
理屈わかってる現代の火山でも間近で見ると洒落にならんのに
浅間山クラスの霊山があのタイミングで噴火したらこの世の終わりと思っても無理は無い
0663人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:GqurQmyj0664人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:tGxd94/p何いってんだこいつ
0665人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:TPVMPh3o0666人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:63opjzS80667人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:AxT751bn0668人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:gAmTm1Ou0669人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:8bbTGnrZ永禄4年頃から病にかかっている長慶を見て5年に義輝が裏で指図した反三好政権大規模蜂起が起きたものの畠山高政を長慶嫡子義興の指揮のもと大勝し六角を和睦に追い込む。
しかし6年に入ると細川晴元と細川氏綱が死んで事実上、細川管領家が滅亡同然になり、
細川政元暗殺以来の細川の分裂闘争が無くなり混乱の種が根絶されたものの、
なんと三好家臣団も心服していた三好義興が22歳で死去してしまう。
長慶の1人息子にして、此人父祖に劣らず器量勝れて一度は天下の乱をも相鎮む可し人だったので、皆が惜合ったと記されていたほど。
これにより長慶は判断力を失い迷走した。
長慶の跡を継いだ養子義継では三好家臣団をまったく統制出来ず三好は崩壊した。
信長は食べてくださいとばかりのイージーモードの畿内制圧が可能だった理由である。
0670人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:gFF5Iy62つうか優秀過ぎて、逆に長慶の期待が高くなり過ぎ、死去した時の失望感が半端なくなり精神が磨耗してしまった。
0671人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:K6TrfmCm0672人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:auqfSUjl三人衆に傀儡にされたからって、単独で宿敵の松永の所まで行って和解。
信長に対しては成す術なく降伏。
安堵されたのは、たったの河内の北半国。南半国は宿敵の畠山に安堵されてるし。
最期は信長に追放された義昭を匿って終わり。
普通、あの状況で匿うか・・・?
0673人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:5AkZdG/tまぁ畠山と協調しがちな大和もこの時期に松永が掌握して、
三好勢力が最大版図になった時だけど。
統治期間が浅過ぎるし、反三好な国人を統御するには
三人衆と敵対した方が統治しやすかったのかも。
ただ松永弟の子の丹波守護代内藤氏も六角氏に攻められたりと
松永自体もけっこう劣勢だったから義昭上洛戦に協力する流れになったのだろうね。
義昭をかばって失敗したのは毛利が弱気になってしまったために本願寺との協調の調整に失敗したんだろうね。
あと三好氏自体も反織田と親織田で分裂して抗争開始してしまい義継の計算どおりにならんかったんだろ。
0674人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:IGJtPi46概ね同意だけど
天正元年って4月は信玄死亡で甲斐へ撤退、7月は義昭追放と石成戦死、
8月は浅井・朝倉の滅亡、長逸・政康が敗走して以後行方不明。
この直後に河内で謀反とか、どう考えても成算が無い。
義継はバカとしか思えないんだが。
0675人間七七四年
2013/07/15(月) NY:AN:NY.ANID:V2wdro4O0676人間七七四年
2013/07/15(月) NY:AN:NY.ANID:uXkNvDS3織田と浅井にも姻戚あったような
0677人間七七四年
2013/07/15(月) NY:AN:NY.ANID:uBOu+gtp尼子経久
大内義興 武田氏 毛利元就
0678人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:VaneZFqP信長が浅井を家臣扱いしたので関係が崩壊した。
信長はアスペなので、まったくその不満が理解できずに逆ギレ
0679人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:Z9uftilC身の程をわきまえろと
0680人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:A/nl4qxC0681人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:kJSA8LA50682人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:yeGgMkzFゲームだとめちゃくちゃ強いのにのぅ
0683人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:Z9uftilC0684人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:c35zIHqS0685人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:0PmMYmUZ0686人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:kJSA8LA5帰雲城を取り戻さなければ……、もしくは取り戻した後に一族揃って祝ったりしなければ……
0687人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:1NrnA7Zw信玄の死によって運よく救われたけどその前は滅亡一直線だったし
0688人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:CFtnrWbn0689人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:NVzyYHj3信長がプッチンしなければ本能寺の変後でも武田は同盟者として生き残ったでそ
0690人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:Xk2ErsLL徳川の立場ってどうなるの?
三河+遠江半国で終了確定なんだけど
後に弱体化した勝頼時代でも北条はかなり苦戦してたから
氏康が死んだ北条は武蔵での影響力を失って相模に圧迫されてたかもしれん
0691人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:DL0UY4/0全く弱体化してない勝頼+佐竹結城宇都宮那須皆川連合に押されただけなんだけど。
勝頼が弱体化しだすのは北条の二年連続の郡内侵攻・高天神城落城・新府築城のある天正8年・9年頃になってようやくだろ
0692人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:XvJfRcGw武田はまったく弱体化してねーよ。
>>北条の二年連続の郡内侵攻
速攻で撃退されてますがw
それどころか天正9年には伊豆三島」まで武田軍が侵食してて
当時箱根の手前を守る山中城(現三島市山中新田)
が無かったので、もう小田原城の目と鼻の先まで武田。
>>高天神城落城
信長の和睦詐欺で、実質的に停戦状態だったので
落城寸前まで使者の往来も普通にできていて
高天神側も一切、救援要請もしてこなかったので
安心して北条と勝頼は戦ってた。
しかも3月に高天神を落とした織田は武田の反撃から逃れるために
すぐ南化玄興の和睦ルートを持ち出して甲江同盟を結んだと思わせて
これには武田だけでなく佐竹や里見も騙されてる(8月)
しかも高天神と田中城と用宗城や江尻城がこの地域の武田方の防衛城だが
家康はこれらの城攻めに悉く失敗しまくり。
さらに高遠には仁科盛信が常駐することになり即援体制が成立し家康は手も足もでなくなる。
>>新府築城
天正9年に築城開始だぞ。テキトーな曖昧話すんなよ。
0693人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:n9t9PNETちなみに柴田と戦う景勝への支援で越中へ勝頼が援軍約束したりしてる中で、
信長は和睦詐欺をやりまくって柴田を支援してるんだな。
武田と和睦詐欺やれば柴田や徳川に対して武田は消極的にならざるを得ないからね。
0694人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:vgqKBFR+これらの城は結局、穴山が降伏するまで落城しなかったね。
なんであんなに家康は長期間に及んで大苦戦してんだろうね。
0695人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:isN4fC+1城攻めが不得手なイメージに繋がるんだよ
0696人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:nB1vsepM田中城がどうやっても落ちないから、そのさらに後ろの用宗城を攻めてみたけど、
やっぱり全く落ちそうになかったってことだろうね。
0697人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:7/5Cthcr0698人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:he8AGbFi小田原落城してたのは間違いない。
佐竹に続いて、里見も参戦だから小田原から逃亡した北条は滅亡確定。
0699人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:42dhxX1q0700人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:2rwD79mu北条 秀吉の命に背いて 説得した家康にもサジを投げられた時点
0701人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:dNo24Lvh信玄の死によって運よく救われたけどその前は滅亡一直線だったし
0702人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:goNxDcw2信長を裏切った時点で詰み
0703人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:fEM7IfLJ0704人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:oepnlzowこの時点で詰んでたとか将棋じゃあるまいしないだろ
スレ立て人は結果論脳の池沼だな
0705人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:Mt9W3Z41詰んでたが織田側が勝手に将棋盤ひっくり返して帰っちゃった
0706人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:oepnlzow内乱の連発で崩壊状態の上杉を9倍もの兵力差と神保・長・佐々など送り込んだりして火事場ドロしたのにろくに進めてないからね
越後に織田軍がなだれこんできたら100%織田方は撃退されてただろ
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない、松倉の一枝城にすぎない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は4/2に長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず(景勝→島津忠直書状で、長沼より更に南東部ですら上杉方が駐屯してるのがわかる)
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田に
あと数月で落とせるわけがない
まず手も足も出ず苦戦しまくりの須田のいる松倉城どうするかだな
実際に攻め込んで撃退されたり苦戦してる。松倉城でも飛騨口別働隊は撃退され
ろくな備えもない魚津城では4ヶ月もかかり
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦し
天正12年段階ですら富山奪い返されたりしてる
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
しかも当時の上杉は石高もしょぼく御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化
0707人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:s9kM1QZc魚津城攻防で柴田ら45000の大軍は5000そこそこの上杉軍に瞬殺されてただろうな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
0708人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:Mt9W3Z41死ねよ
0709人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:n4eZxXR6その度に信玄・謙信・直正らの死、朝廷を介した講和、義元の不慮の事故など超幸運で乗り切ってきたよな
本能寺ではその分のツケが回ってきたんだろうけど
0710人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:Xcpwllfj0711人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:v/7SVTSM本能寺も織田家としては詰んでなかったのに、信忠がなぁ…
信長が信忠の立場なら、神速の逃げ足で速攻で京から逃げただろうに
0712人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:wEe3yzj1信長がむちゃくちゃやり過ぎてるし。
秀吉なんて信長生前から秀吉の凄さは公認されてたどころか、
信長より苦労人秀吉の方が人情の機微も理解しており優秀だったのは宣教師や毛利の史料でわかるし。
秀吉も信忠に仕えるなんてことは絶対にしないな。
0713人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:bKZMUs0F家臣のアドバイスや意見をむちゃくちゃ嫌うとか
超短気とか宣教師が信長について書き残してるからね。
信長のような恐怖支配を信忠ができないと家臣を統制できないし、
やったらやったで謀反が起きて信忠は殺されるだけ。
どっちみち積み。
0714人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:DagkE8od信忠が生きてればもし秀吉が光秀撃ちとっても信忠から加増される程度だろうね
他の織田家の武将たちにとっては微妙な勢力バランスだし信忠の影響力は強い
0715人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:bKZMUs0Fし・か・も川尻と滝川が信忠が失敗しないように保護wwww
森らは信忠の意見を無視しても後で信長に直訴すりゃいいやwwwwなんて姿勢だったし
0716人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:DagkE8od・ 柴田と羽柴は信忠に取り入ることが生き残りの最優先課題
これは三法師の扱いを見ればわかる
・ 信忠が生きて安土もしくは美濃で体勢を立てなおしていれば滝川や川尻、森が
旧武田領を失う可能性も低い
・ 信雄や信孝を羽柴や柴田が担ぐ事もできない
そりゃ信長時代のような訳にはいかないし立て直すのに数年掛かるかもしれんが
羽柴が突出してなんて時代は永遠に来ない
0717人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:rI7EtCix信長の死は言いわけにならんわなあ。
神流川合戦の敗因は士気の低下ではなく完全に戦術面。
緒戦では戦歴豊富な氏邦を他国衆組の上野国衆が撃退するなど滝川軍は多いに氏直を破るチャンスがあった。
本戦で氏直本体のわざと敗れたふりをして退き敵を味方陣中奥深くまで釣りこみ
周りから包囲殲滅する作戦に破れた(戦後の某書状・滝川事書・軍記などで共通している)
のだから完全に戦術負け
滝川軍の士気が崩壊したなどとデタラメをでっち上げているのは徳川時代の糞講談
石川留書だけ
信長が死んで織田軍が瓦解したなんて理屈は通らない
秀吉も細川も池田も筒井も柴田も前田も徳川もみんな元気でやってる。
しかも徳川は北条を排除して甲斐・信濃を領有化
信長なんて義龍死んで幼君龍興(領国混乱状態)に攻め入っても何回も撃退されたし
当主が死んだからどうこうとか単にいいわけ。
>>・ 上野は滝川の本拠地でもなくしかも統治初めて数ヶ月
厩橋城は滝川の本拠地になってたはずだが?
0718人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:6WTiWWD2馬鹿かこのコピペ野郎はw
0719人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:jiMoInVvチョンを馬鹿って言うと馬鹿に失礼だろ
0720人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:7v8v35D1安土の信長側近団や、
秀吉や柴田らは基本的に信忠と接点ないし、
信忠岐阜新政権は滝川や河尻らが発言力を強め、
秀吉らは排除されるから破綻するのは目に見えてる。
0721人間七七四年
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:bdf5HbAF信長は多くの人を殺害した。
そして「鬱憤を散じた」というのである。
異常に感じるほど残忍なやりかたが多かった。
それでも敵対者は次々と現れ必死に戦った。
戦功を積み重ねても、謀反の心を持たなくても
信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない
不安定な状況に家臣たちは置かれていた。
一門と譜代重視のもと、譜代でない家臣には
より強い不安感があった。
独断専行的で、合議の仕組みもなく
弁明・弁護の場も与えられず
家臣に連帯がなく孤立的で、
信長への絶対服従で成り立っている体制が
家臣の将来への不安感を強め、謀反を生むのである。
領域支配には譜代と家長権を振るえる子供や弟の登用が中心になる。
自分のそばにいて手足のごとく動き、あるいは自分の意を体して
各地に赴く者たちも譜代であった。
信長の政権の基盤は一門・譜代にあった。
長住は信長の怒りを買って越中を追われ、二度と戻ることはなかった。
もう用済みだったのである。
一度でも失敗すれば、それを理由に存在を否定される。そのようにして国人層の多くが命脈を絶たれた。
0722人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:aLhaDoZI0723人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:3IehAO9F0724人間七七四年
2013/07/28(日) NY:AN:NY.ANID:6SOkJLLD健常な社会常識や通念で経営している敵に勝つことは簡単。
その結果、アンドロイド端末が売り上げの大半を占めるサムソン帝国に奴隷のように従う朝鮮人と言う構図が生まれた。
0725人間七七四年
2013/08/01(木) NY:AN:NY.ANID:uinDrXKEあまりにも寂しいので、詳しい方よろしく。
0726人間七七四年
2013/08/02(金) NY:AN:NY.ANID:yVSc22/N将軍統治の若狭が不安定になり、
朝倉軍の退路が脅かされた時。
0728人間七七四年
2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:x7cK8figまずはローンがんばれ
0729人間七七四年
2013/10/01(火) 05:47:33.86ID:3B/Sqg1F0730人間七七四年
2013/10/01(火) 18:31:10.37ID:DMpUYtI3織田は本能寺囲まれた時点で積み
吉良は赤穂老子に囲まれた時点で積み
徳川は慶喜将軍になった時点で積み
矢口は旦那に踏み込まれた時点で積み
0731人間七七四年
2013/10/02(水) 11:59:41.65ID:g9j6oEvH0733人間七七四年
2013/10/02(水) 17:03:51.87ID:uCn04YHx0734人間七七四年
2013/10/03(木) 11:21:45.96ID:p4Oa78z/織田厨が削除依頼板に自作自演を駆使し
自分で書き込んだ内容しか存在しないので、
証明するソースはありません。
0735人間七七四年
2013/10/04(金) 01:23:26.10ID:z+HLXXxm普通に考えて、滅亡したときの出来事を挙げても意味ないだろ。
もっと前段階で積んでる例をあげろよ
0736人間七七四年
2013/10/05(土) 01:16:33.46ID:9FVUQ+Br0738人間七七四年
2013/10/11(金) 16:45:38.27ID:sqYAQD36大内を吸収した毛利家を相手しなければならなかった時点で詰んでた。
0739人間七七四年
2013/11/20(水) 12:56:34.95ID:6GLUdHcc0740人間七七四年
2013/11/20(水) 16:08:48.28ID:64Q4pwXs0741人間七七四年
2013/11/20(水) 17:08:40.59ID:WnyHmsPx裏切ってないから。それいい加減な本を読みすぎ。
天正7年正月も普通に武田と北条は年頭贈答もやってる。
8月末に突然、厩橋北条高広が後北条を見限って離反してから
関係が悪くなったというのが表面上の出来事だが、
実際には水面下で徳川と北条の同盟交渉がなされており、
9/5に同盟成立して武田と北条の手切れになっている。
つまり、裏切りの背反行為をしたのは北条の方だ。
0743人間七七四年
2013/11/20(水) 18:29:00.13ID:WnyHmsPx安い大衆本を読んだレベルで
シッタカし得意になっててアホすぎwww
8月には家康を討つために駿河へ出陣してる勝頼が
なんでわざわざ北条を裏切って挟撃されるリスクを
自分から背負う必要性があるんだよ?
しかも4/6の時点で毛利の出馬要請に答えて
義昭のために出陣するって返答してるのに、
なぜ北条を裏切るんだ?明確な返答をしてくれよ?
0744人間七七四年
2013/11/21(木) 13:12:21.81ID:UimDDhod0745人間七七四年
2013/11/21(木) 15:18:27.10ID:YqHetXFo0746人間七七四年
2013/11/21(木) 16:35:07.65ID:s17UwsEC超絶ビビって越相同盟を破棄して、信玄に土下座した北条・・・・
0747人間七七四年
2013/11/23(土) 01:44:09.50ID:P4PEpJGo手元の戦国時代年表後北条氏編によれば、
天正七年の8月20日のことなのですが、と。
同じく、天正七年の七月中には佐竹と連合の段取りを進めていましたよね、と。
0749人間七七四年
2013/11/23(土) 09:00:54.67ID:ECZkvuS1しかし北条は全く援軍を出さずに勝頼に丸投げ。
家康が武田領を荒らし回り、
武田もついに徳川攻めに向かうと、
北条が激怒。
北条がむちゃくちゃで傲慢でしょ。
勝頼は最後まで北条の顔を立てて景勝の援軍要請も拒絶して中立和睦方針で動いてる。
景勝が勝手に武田はこっちの味方と風聞ばらまいてるだけ。
そもそも景勝が勝頼に大金を送った話からして軍記話だし。
0750人間七七四年
2013/11/23(土) 09:39:08.28ID:R/1BiOvh9/7に武藤三河守を急ぎ越後へ派遣して交渉している。
10/17に早くも菊姫を甲府から送り出し、
同日に景勝が求めた起請文も出してる。
それらが10/20に到着し婚儀がなされたので、
急ぎ10/20に甲越同盟成立でしょ。
9/6に佐竹が蘆名に甲相同盟破綻を告げて、
勝頼の使者が蘆名領を通過するのを許可してくれるように求めて、
本格的に同盟に向けて佐竹も動き出してるし、
10/8に勝頼が太田に佐竹から起請文が届いたのを喜んでる。
すべて北条と徳川が同盟したことが契機で動いてる。
0751人間七七四年
2013/11/23(土) 09:49:02.92ID:R/1BiOvhどうせ、その本は超北条マンセーの黒田のバカが関わってる本なんじゃねーのか?
あいつの関わる本は中立性皆無だから。
0752人間七七四年
2013/11/23(土) 11:50:06.72ID:U+3j7ijnその話だと徳川北条の同盟は天正7年でなく天正6年という主張になるけど、
そういう話なのか?
天正6年
>9/7に武藤三河守を急ぎ越後へ派遣して交渉している。
>10/17に早くも菊姫を甲府から送り出し、
>同日に景勝が求めた起請文も出してる。
>それらが10/20に到着し婚儀がなされたので、
>急ぎ10/20に甲越同盟成立でしょ。
>9/6に佐竹が蘆名に甲相同盟破綻を告げて、
>勝頼の使者が蘆名領を通過するのを許可してくれるように求めて、
>本格的に同盟に向けて佐竹も動き出してるし、
>10/8に勝頼が太田に佐竹から起請文が届いたのを喜んでる。
>すべて北条と徳川が同盟したことが契機で動いてる。
天正7年9月5日、北条徳川同盟成立
0753人間七七四年
2013/11/23(土) 12:06:26.70ID:qhTtPg1g黒田基樹あたりがまた年代をいじくってるんだろ?
だいたい菊姫を娶り、甲越同盟成立が天正7年10月20日なのは、
上杉古文書・諸国古文書抄・武田氏系図・越後古實聞書などにも出てるし
東大史料編纂所の大日本史料にも書いてある。
0754人間七七四年
2013/11/23(土) 13:10:59.34ID:U+3j7ijn天正7年
> 天正7年正月も普通に武田と北条は年頭贈答もやってる。 >>741
> 勝頼は最後まで北条の顔を立てて景勝の援軍要請も拒絶して中立和睦方針で動いてる。
> 景勝が勝手に武田はこっちの味方と風聞ばらまいてるだけ。
> そもそも景勝が勝頼に大金を送った話からして軍記話。 >>749
天正7年 3月24日 上杉景虎自害
>8月末に突然、厩橋北条高広が後北条を見限って離反してから
>関係が悪くなったというのが表面上の出来事だが、
> 実際には水面下で徳川と北条の同盟交渉がなされており、
>9/5に同盟成立して武田と北条の手切れになっている。
>つまり、裏切りの背反行為をしたのは北条の方だ。 >>741
天正7年
>9/7に武藤三河守を急ぎ越後へ派遣して交渉している。
>10/17に早くも菊姫を甲府から送り出し、
>同日に景勝が求めた起請文も出してる。
>それらが10/20に到着し婚儀がなされたので、
>急ぎ10/20に甲越同盟成立でしょ。
>9/6に佐竹が蘆名に甲相同盟破綻を告げて、
>勝頼の使者が蘆名領を通過するのを許可してくれるように求めて、
>本格的に同盟に向けて佐竹も動き出してるし、
>10/8に勝頼が太田に佐竹から起請文が届いたのを喜んでる。
>すべて北条と徳川が同盟したことが契機で動いてる。 >>750
納得した。
0755人間七七四年
2013/11/23(土) 23:06:15.66ID:9L4S9y/p編者は下山治久氏。
見たところ、黒田氏の名前は無いですな。
で、関係するところを抜き出すと。
天正七年三月、勝頼願文を掲げ、北条の滅亡を祈祷
同年七月二四日、佐竹義斯が、勝頼が北条と断絶すると通告してきたと書状に書く。
(下野須賀文書よりとのこと)
同年八月二十日、勝頼が景勝と同盟。
同年八月二七日、北条が勝頼景勝の同盟の噂が流れているとして、足柄城の普請。
同年八月二八日、キタジョウ氏が武田に従属。
同年九月三日、北条が武田との断絶を千葉氏に報せる。
同年九月五日、北条が徳川と和睦。
0756人間七七四年
2013/11/24(日) 08:57:36.87ID:U3p7aiLI同盟を“結ぼうとした”ことが原因とあるわけですね。
これは八月の事である、と。
ところが>>747 によれば、武田も佐竹と同盟を“結ぼうとした”
これは、七月の事。
実際に“結んだ”のは十月のことと>>750 にはありますが、
>>741 によれば水面下で動いたらアウトらしいから、アウトですよね?
もちろん、実際に“結んだ”日に論点を変えても同じである。
だって、遠相同盟成立の前に、北条方の国衆調略しているから。
0757人間七七四年
2013/11/24(日) 09:12:47.07ID:U3p7aiLI北条氏がここを攻めてるから状況報告せよ、と勝頼が真田昌幸に指示出してるのですな。
天正六年九月十日のお話。
氏政が富岡氏に感謝の書状を出してるし、景勝が深沢氏らに撃退を讃えてたりで、
北条が御館の乱に援兵出してるのは確かなのに、なんで“全く”出してない、
みたいな話がまかり通ってるんでしょう。不可思議だ。
撃退された? しょぼい、となるなら分からんではないけど。
0758人間七七四年
2013/11/24(日) 12:21:59.56ID:DLjWeWss下山治久ってたしか黒田と同じ北条氏研究会の人だよね。
なるほど立場・立ち位置はわかった。
天正七年三月、勝頼願文を掲げってのは正直、初めて知った。
それが見つかった場所の都道府県はどこ?それとも写し?所有者は誰?年代比定の決め手はどこにあった?
良かったらその文書内容を転記してくれないか?
下野須賀文書も同様に教えてくれるとうれしい。東京都で5つ見つかり
群馬県史に収録された須賀文書だと直近が天正8年だから違うしなぁ。栃木県で新たに発見されたんかな?
ちなみに天正7年5月に氏政→由良成繁宛で、
景虎が死んでしまったので上野国は北条が差配するって書状を出していて、
この時点で外交上、北条が西上野の武田領の一掃を宣言したとされているが、
勝頼が北条滅亡を祈願してるのが事実とするならば、すでに北条と武田の関係は修復不可能になって
それぞれが同盟相手を探していたのかも知れませんね。
特にこの時期の後北条は由良氏に加増したり(5/6)
沼田城の河田重親の小田原参陣とともに不動山城への拠点移動を許可したり(5/9)と
上野国の防衛シフトを大幅再編成しており、武田を刺激した可能性もあります。
この期間、勝頼は4/6に毛利宛に出陣する約束の書状を出し、8月中には実際、駿河へ徳川攻めで出陣しており、
8/20に勝頼と景勝が同盟を結ぶことが、まず考えられないということもあります。
>>同年八月二十日、勝頼が景勝と同盟の根拠はどこから出てるのでしょうか?
>>753のように一般的に10/20とされていますが。
>>遠相同盟成立の前に、北条方の国衆調略しているから。
厩橋北条の件を指してますか?あれは武田側が調略したものでないので、
一般的に後北条を見限った行為とされてますが。
と言うのも景虎討死後は伊達の支援を受けた黒川清実や
蘆名の支援を受けた本庄秀綱や神余親綱らに対する
伊達と蘆名の支援が止まってしまったことが挙げられます。
また厩橋北条とほぼ同時期に那波顕宗も後北条を見限ってます。
3/24に景虎が死んでいるので、擁立するべき大将と大義名分が存在しなくなったので、
後北条の行動は侵略行為に変質してしまったことと、
勝者として上杉氏を継ぎ事実上の越後の国主となった景勝を
現実問題として認めなければならないことが反映されて、諸将の次の行動に反映したと言える。
>>北条が御館の乱に援兵出してるのは確かなのに
6/29に越後府中にいた勝頼は、真田昌幸宛てに北条が援軍出さないことに不満を表しています。
8/28北条の援軍がまったく届く報もないく、この日ついに徳川の攻勢を無視できなくなり勝頼は越後府中を後にします。
勝頼撤退を知って丸投げしていた北条がやっと動いたと言うことでしょう。
この勝頼の越後府中滞在期間中、景勝と景虎の和平仲介の調停をしています。
9/24には景勝と景虎の和平が破綻したのを嘆いているし、10/7には大熊と市川らが景勝の援軍依頼を拒否したりしてます。
0759人間七七四年
2013/11/24(日) 12:49:10.52ID:DLjWeWssこれが元ネタ??
0760人間七七四年
2013/11/24(日) 18:17:57.87ID:DLjWeWss氏政と景勝の同盟関係を構築し、同時に景勝と景虎の和睦を図っていたので
8/20に景勝と勝頼の同盟が成立していたような話を書いているのですが
妄想が含まれているようで、意味がよくわかりません。
また宮崎求馬氏所蔵文書によれば
2月の時点で北条氏は武田との戦いを考え警戒していたので、
5月には小田原城の普請を始めて軍事衝突に備えていたとも書いていました。
0761人間七七四年
2013/11/24(日) 18:33:37.39ID:DLjWeWss天正6年8/20に景勝と勝頼が同盟結んだに違いないから
8/28に勝頼は越後府中から甲斐に帰っていったに違いないって言う
妄想が一人歩きした結果生まれた、なぜか一年ずれての天正7年8/20同盟説なんだな。
0762人間七七四年
2013/11/25(月) 16:06:05.22ID:qqP8NIRP漁夫の利を狙っていた北条が、
せめて駿河に援軍出して徳川牽制協力でもしてくれたら丸く収ってた話なんだよな。
勝頼が撤退して北条が逆ギレした挙句に、
せっかく勝頼がまとめた景勝と景虎の調停和睦をぶち壊し、
景虎敗死に導いたのが北条。
それをさらに勝頼が悪いと逆恨みした北条。
これで武田と北条の仲が崩壊。
むしろ景虎なんて北条にとってはどうでもよく越後上野侵略の口実に過ぎす、
景虎死んだら早速、北条が上野を支配する宣言まで出すもんだから、
上野諸将の離反を招き、
またまた武田が裏で調略しているに違いないとキチガイ思考をしただけだろ。
0764人間七七四年
2013/11/25(月) 21:45:19.12ID:8l6Jaq8Jそもそも2月の時点で北条は武田を敵視してるじゃん。
それに対して願文掲げて何が悪いの?
願文は他人に見せるものだとか勘違いしてんのか?
影響は外に現れんのだが。
0765人間七七四年
2013/11/25(月) 22:02:40.62ID:6XKsDN/Bお前恥ずかしい奴だなぁ
0766人間七七四年
2013/11/27(水) 12:39:13.63ID:jMABUFqu0767人間七七四年
2013/11/28(木) 07:38:17.69ID:SDnofF8Oわずか34500の寡兵に29万の大軍がありながら緒戦の駿河伊豆国境地帯の戦闘に敗戦、
韮山城500に大苦戦し、小田原1000や忍城1000などの雑魚城に全く自力では手も足も出ず
一柳直末堀尾嫡男前田重臣平岩弟依田戦死に 氏家負傷とアホっぷりを晒してたし
0768人間七七四年
2013/11/28(木) 07:41:50.53ID:ueAa8yBQが加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で一柳や堀尾の嫡男や前田重臣、依田や平岩弟が戦死し、氏家が負傷し、韮山500や忍城1000に大苦戦し
小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。
0769人間七七四年
2013/11/28(木) 07:44:14.95ID:pmWPgh85伊達が味方すりゃ佐竹や相馬や宇都宮や結城なんて瞬殺されるだろうし
その後大軍となった伊達軍が徳川や上杉・真田などを蹴散らして終り
1
0770人間七七四年
2013/11/28(木) 07:45:00.57ID:oAv56un0政宗が北条に味方してたら100%勝ってたのは間違いない
0771人間七七四年
2013/11/28(木) 07:46:12.00ID:1Jabx8e3普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
0772人間七七四年
2013/11/28(木) 14:22:55.53ID:/Ag1TT0Y8 :人間七七四年:2013/02/18(月) 03:54:17.37 ID:hEnpT6NC
>>6
あれ年代で分類されてるってことぐらい知ってていってるよね?
知った上で、無関係な北条編とか加えて三十巻とか言ってるわけ?
何が目的なの?
10 :人間七七四年:2013/02/20(水) 06:58:49.07 ID:ZVTlg31h
>>8-9
好き勝手言うな
書状をこちらで読めない状態ではコメントできん
週末のいくつかを費やして探し出すからしばらく待ってろ
過大評価の信長と過小評価の秀吉
31 :人間七七四年[sage]:2013/11/11(月) 10:27:56.33 ID:/1X1HoE0>>根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ
859:人間七七四年 07/22(月) 08:33 HlF9Iybk [sage]
天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状
天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙(阿波国古文書)
上記の書状の日付、誰から誰に宛てられたものか、
書状内容の転記と共に書いてください。
尾張県史でも偽書状って指摘されてるのを、なんの言及もせずにさらにとソースに出したり
写しの書状を写しじゃないと言い張ったり、そもそも架空でっち上げデタラメ書状ばっか出して捏造しまくってないではやく返答しろやカス!
0773人間七七四年
2013/11/28(木) 14:32:26.21ID:/Ag1TT0Y天下執りを目指して方々に出兵している秀吉は家康一人に構ってられない
長久手のみに集中していればいい一地方大名にすぎない家康とは根本的に違うよね
家康は長久手の時点で天下が執れたとでも?
0774人間七七四年
2013/11/28(木) 14:38:04.14ID:pmWPgh85>>長久手のみに集中していればいい一地方大名にすぎない家康とは根本的に違うよね
史実で総兵力を集中させて対信雄戦に挑んだ秀吉を家康1人に構ってられないからとか
北条の変心や上杉景勝の川中島侵攻にほとんどの兵力を残しわずか8000しか連れてなかった家康が
小牧長久手に集中してたとか相変わらず妄想をデッチあげてるな。いい加減学習しろよクズ野朗
秀吉はhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/440-447
のように領国中の兵力総動員して短期決戦に臨んだが、秀吉の指揮采配能力があまりにもクズすぎたせいで
わずか16000の雑魚信雄・徳川勢に10000人殺された上に、その後の攻防でも下記のように膠着状態に陥ってる。
長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
0775人間七七四年
2013/11/28(木) 14:39:02.11ID:oAv56un0お前は本当に無知だな。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
0776人間七七四年
2013/11/28(木) 14:39:35.44ID:1Jabx8e33月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
0777人間七七四年
2013/11/28(木) 14:40:35.55ID:oAv56un0世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
0778人間七七四年
2013/11/28(木) 14:41:16.40ID:pmWPgh85秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
0779人間七七四年
2013/11/28(木) 14:44:05.50ID:7CN2qh1hお前は散々他スレで論破された内容繰り返してアルツハイマーか?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/145-153
家康に短期決戦挑んで総力戦挑んでるのが史料からわかるだろうが
グダグダいって言い訳してんじゃねぇよクズ野郎
0780人間七七四年
2013/11/28(木) 14:45:45.46ID:ueAa8yBQ3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
0781人間七七四年
2013/11/28(木) 14:46:48.59ID:oAv56un0家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の
兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に
転進せざるをえなくなり不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で
手も足も出ず諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
0782人間七七四年
2013/11/28(木) 14:48:12.18ID:1Jabx8e3135000の兵力があっても合計わずか16000程度の雑魚信雄に決戦で1万人ぶち殺される強さしか発揮できないレベルの指揮能力の秀吉なら
あと徳川北条の計40000が加われば確実に秀吉なんて討ち取れる。
開戦前から重臣がこぞって秀吉に人質を奪われていたために、あの会戦早々から領国が離反連鎖で崩壊状態の信雄ですら
松ノ木城・戸木城・浜田城・蟹江・前田・下市場・長久保・東駒野・二重掘・浜田城など秀吉に勝ちまくってたからね。
尾張でも石田毛利氏や毛利秀頼、松ノ木城近辺の諸将など会戦当初からあっさり信雄を見捨てててるのに
自力じゃ全くと言っていいほど秀吉は切り取れてないしな
0783人間七七四年
2013/11/28(木) 14:48:44.13ID:oAv56un0兵力が3倍程度に増えるなら、当然豊臣方の損害は史実の9倍の9万程度に増えるからな。
それこそ秀吉が討ち取られてていいレベルだろ。
0784人間七七四年
2013/11/28(木) 14:49:41.86ID:7CN2qh1h残りの地域でしか戦闘は行われてないじゃん
領国から遥かに離れた戸木城も秀吉方は敗北
秀吉方本陣から近距離の松ノ木城でも秀吉方は敗北(4月〜6月頃は戦闘が確認でき、信雄方から何回も戦功を賞されてる)
二重掘合戦では信雄方に奇襲くらって楽田から敗走(4月下旬→5月上旬にかけて)
おまけに前田・下市場・浜田・蟹江・長久保あたりは秀吉方本陣の大垣・伊勢浜田などから近距離にある拠点なのに信雄方に奪回されてる
信雄や家康は降伏なんてしてない
一時講和停戦しただけ。翌年も家康なんか浜松会議で抗戦する気まんまんなくらいに軍議開いたり
北条との同盟強化や諸城普請、人質収集など会戦に備え、秀吉方も秋には着々と出兵計画進めていたが
直前の天正14年春になったら秀吉がビビッて織田信雄に取り成し仲介を必至に依頼して、おまけに母と妹を人質に出して
「ワシに従ってくれ〜」とばかり土下座してきたので余りにかわいそうになった家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と離反の連鎖で領国軍事機密露見&天正11年からの徳政連発で極度に疲弊してたのに
ビビリまくってたのが実態
0785人間七七四年
2013/11/28(木) 14:51:00.03ID:pmWPgh85VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
0786人間七七四年
2013/11/28(木) 14:56:34.59ID:1Jabx8e33/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0787人間七七四年
2013/11/28(木) 14:57:56.88ID:5Ls/PeGf秀吉は24万もの規格外の兵力でもって500か1000しかいない韮山城や小田原城や忍城で醜態晒しまくってたからね。
結局わずか34000程度の北条に対し24万程度の瞬殺するに十分すぎる兵力で持って前田重臣や堀尾嫡男、一柳など重臣を悉く殺されまくって北条方の重臣が運よく戦意なし&伊達の帰参の影響などで
開城になっただけだし。
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
0788人間七七四年
2013/11/28(木) 15:09:33.20ID:wJfH3cJy織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
0789人間七七四年
2013/11/28(木) 15:10:16.63ID:wJfH3cJy尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
0790人間七七四年
2013/11/28(木) 15:11:08.46ID:wJfH3cJyとっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
0791人間七七四年
2013/11/28(木) 15:11:48.11ID:wJfH3cJyさらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
0792人間七七四年
2013/11/28(木) 15:23:05.35ID:0PRpEeBl真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0793人間七七四年
2013/11/28(木) 15:45:13.85ID:oAv56un0とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、最も外様であろう池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力や采配能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
0794人間七七四年
2013/11/28(木) 15:46:06.51ID:ueAa8yBQ尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0795人間七七四年
2013/11/28(木) 15:46:56.40ID:pmWPgh85近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
0796人間七七四年
2013/11/28(木) 15:49:23.14ID:R8N4iD/lその後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
0797人間七七四年
2013/11/28(木) 15:50:43.53ID:R8N4iD/l信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0798人間七七四年
2013/11/28(木) 16:01:57.75ID:pmWPgh85その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0799人間七七四年
2013/11/28(木) 16:03:46.55ID:pmWPgh85三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は 秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
0800人間七七四年
2013/11/28(木) 16:05:45.79ID:1Jabx8e3進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山から
おびき出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日
にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてたとえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である
京までも騒乱に陥れる一大事だった(長久手町史本文編
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。その後も秀吉の決戦構想はは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる。伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
0801人間七七四年
2013/11/28(木) 20:24:09.18ID:GQtgJTYN数年は余裕で掛かるからな。アメリカのアフガン攻撃、イラク攻撃も同じ。家康を倒すのは簡単だが、倒した後の領国
経営が難しいのよ。
家康は怖くはないが、九州島津氏の台頭はさすがの秀吉も怖かったんだよ。家康を倒した後に数年領国経営に掛かりきり
となり、数年の間に状況が変わるかもしれない。であれば家康を臣下にして、時を待たずに九州征伐に移せば、島津氏を
倒せる自信が秀吉にはあったんだよ。
0802人間七七四年
2013/11/28(木) 20:56:28.85ID:SDnofF8Oあらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0803人間七七四年
2013/11/28(木) 20:57:09.43ID:pmWPgh85三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。合戦時の陣立書にもはっきり名前がある。秀長、蒲生氏郷も
遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と
美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、
合戦記などでも同じ数字が用いられている
0804人間七七四年
2013/11/28(木) 21:07:53.72ID:1Jabx8e3確かに国力的にはその通りだな。だが史実では135000と総動員して寝返りで崩壊中の雑魚信雄の分国に攻め込んだら
わずか16000そこそこの雑魚信雄に1万人殺された後、秀吉方は二重掘合戦でわずか1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって
楽田から大敗走。本陣の眼前にある蟹江・前田・下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されたあげく、戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城などいずれも1000貫そこそこの雑魚領主が
わずか500程度で篭もった城に大苦戦し、結局会戦当初から総じて離反だらけで崩壊状態の信雄分国を全くと言っていいほど切り取れなかったじゃんよ。
>>戦闘自体は1カ月で終わったとしても
一ヶ月どころか、1年かけても終わらなかったじゃん。
秀吉は短期決戦構想があったのは書状から明らかだが、結局長久手で想像を絶する大敗を喫し結局家康や信雄に土下座して母や妹まで差し出してる。
>>戦後処理で数年は余裕で掛かる
そんな戦争中世の合戦にねーよクズ
>>家康を倒す
直接対決でガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
>>家康は怖くない
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
0805人間七七四年
2013/11/28(木) 21:10:05.20ID:NSOOz9nwさらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
0806人間七七四年
2013/11/28(木) 21:11:41.09ID:NSOOz9nw島津を攻めたのは天正14年晩秋と大きく時期がずれてるし秀吉はその時点で島津が気になるから
徳川攻めを中止したなどと一言も触れていない。
秀吉は天正13年秋から翌年春にかけて下記のように着々と侵攻計画練ってた。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
直前になったらビビリまくって信雄に仲介頼んだり母や妹を差し出して戦いを避けてる。
家康も家康で軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
0807人間七七四年
2013/11/28(木) 21:23:14.29ID:NSOOz9nw出兵計画始めただの信濃に軍勢をいれ差し遣わすだの一柳に尾張星崎から三河の情報収集を命じたり
来春三河に出兵するだの、西国四国の人数そのほか兵糧の儀を船手で用意させたり侵攻計画を散々書きまくってる様子しか見られないのに
島津を気にして出兵取りやめたとか相当馬鹿な妄想だな。
0808人間七七四年
2013/11/28(木) 21:25:11.15ID:oAv56un0その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0809人間七七四年
2013/11/28(木) 21:26:14.87ID:pmWPgh85雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
0810人間七七四年
2013/11/28(木) 21:27:13.91ID:oAv56un0真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0811人間七七四年
2013/11/28(木) 21:28:32.38ID:1Jabx8e3あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0812人間七七四年
2013/11/28(木) 21:29:48.37ID:ueAa8yBQ信雄・輝元・氏政にボロクズのように負ける武将なんてそうそういないだろうし
0813人間七七四年
2013/11/28(木) 21:32:06.89ID:5Ls/PeGf織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
0814人間七七四年
2013/11/28(木) 22:17:27.51ID:ueAa8yBQ一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
0815人間七七四年
2013/11/28(木) 22:20:34.86ID:ueAa8yBQVS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
0816人間七七四年
2013/11/28(木) 22:21:25.98ID:oAv56un0○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ
○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ
○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ
0817人間七七四年
2013/11/28(木) 22:22:18.02ID:ueAa8yBQ信雄家臣の吉村・木造など1000貫そこそこの雑魚領主に大敗した雑魚
0818人間七七四年
2013/11/28(木) 22:23:02.23ID:pmWPgh85わずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!
ってまるで漫画だな。
アホすぎる
さすが戦国最強豊臣軍
0819人間七七四年
2013/12/02(月) 23:45:25.75ID:T4LqPnxw秀吉の親戚筋の小出氏が3万石で幕末まで存続
高台院の木下氏が2万5千石で幕末まで存続
0820人間七七四年
2013/12/02(月) 23:58:36.32ID:Sl51AfGd0821人間七七四年
2013/12/07(土) 22:51:56.02ID:4HxBycJ5大坂の陣も謀りことだ
結局秀吉家康とは合わないと常高院は恨み節…
0822人間七七四年
2013/12/10(火) 14:06:04.16ID:7EtuaJjr0823人間七七四年
2013/12/21(土) 21:16:22.81ID:1QPzHhMZ重ねたんだぜ。淀君の行くところ必ず落城する。
こういうのを踏んだり蹴ったりの人生というのかな。
0824人間七七四年
2013/12/26(木) 15:13:15.29ID:u2VjwS5L0825人間七七四年
2014/01/08(水) 11:44:02.25ID:eKRVumZN0826人間七七四年
2014/01/10(金) 10:26:54.56ID:GlnBMz9t0827人間七七四年
2014/02/02(日) 19:54:18.99ID:5XQFcdXH0828人間七七四年
2014/02/19(水) 18:41:40.49ID:N+Cbg1HD0830人間七七四年
2014/07/26(土) 01:31:45.57ID:ch8EvkC5しかし、家光さん一代限りか。
0831人間七七四年
2014/09/12(金) 21:22:52.15ID:vbWIznOJ安芸武田は元繁の戦死で詰み。
尼子は政久の戦死と嫡流と新宮党の対立で詰み。経久の存在がでかすぎた。
0834人間七七四年
2014/09/17(水) 20:52:02.15ID:y5AZIvYv大内義隆を討った陶みたく別の謀反人が出て結局詰んだと思うが…
0835人間七七四年
2014/09/17(水) 22:41:36.38ID:G1EoiP/G0836人間七七四年
2014/09/20(土) 08:02:57.09ID:Qr5rZEri歴史って面白いって思う
浅井の血が徳川将軍につながったりしてるから
0837人間七七四年
2014/09/20(土) 11:12:47.48ID:INjJtaGj天下がとれないことか? それとも織田豊臣徳川時代も生き残ることか?
どちらを取るかで判断が変わる
例えば、上杉武田島津伊達北条がガチで天下を取る可能性は0だよ
出来るとしたら、豊臣や徳川みたいに、主家のナンバー2辺りにいて
天下を盗むぐらいしか方法はないのね。
徳川も領土的に、近畿から遠いから、火事場泥棒しないと天下をとれなかったわけ
0838人間七七四年
2014/09/20(土) 20:41:31.38ID:+4D5MAaq0839人間七七四年
2014/09/21(日) 11:21:28.11ID:gNIeuAqy甲斐武田も若狭武田も…
てか武田系で詰まなかったのは蝦夷の蠣崎ぐらい?
0840人間七七四年
2014/09/21(日) 15:28:08.52ID:FX1cmuU70841人間七七四年
2014/09/21(日) 20:48:39.19ID:gNIeuAqy他に1度も詰まなかったのは相馬、上杉、相良、島津ぐらいか?
一旦詰んで復活は北条、諏訪、細川、立花辺り?
0843人間七七四年
2014/09/22(月) 08:18:41.68ID:CPn1DwHh上杉じゃなく、長尾じゃね?
家の存続と考えればそうなるのかな?
0844人間七七四年
2014/09/28(日) 15:11:26.23ID:hz5codE/実際に別の謀反人が続出したよ
氏真は強引な草刈りをして、謀反人をことごとく滅ぼした
一方、氏真を立てる有力者もいた
結局内乱で疲弊して、家康の再侵攻に対抗できなくなったけど
0845人間七七四年
2014/09/29(月) 20:40:04.63ID:aB3fWFyd関東のno.1は北条として2は佐竹、3は里見か?
北条はアンチの佐竹、里見、宇都宮が揃って秀吉小田原侵攻に
味方して潰れたからなぁ…
0846人間七七四年
2014/09/30(火) 00:37:48.63ID:FUUBty6b秋田に飛ばされはしたけど幕末まで残って、新政府について生き残った
0847人間七七四年
2014/09/30(火) 06:32:58.18ID:X9WQ+5LKそれにより北条や伊達の伸長を抑制し、更に中央政権と結ぶ事によって活路を見出だしていった
そうして何とかギリギリ防ぎ切った
0848人間七七四年
2014/09/30(火) 10:51:11.54ID:+P5UJQUE関ヶ原の時さっさと家康に援軍寄越せばよかったのか?
佐竹義宣→減封だけど存続
岩城貞隆→改易だけど復活
相馬義胤→改易だけど復活
蘆名盛重→改易だけど佐竹家臣
多賀谷重経→改易して最後まで浪人…
何この扱いの差は
0849人間七七四年
2014/09/30(火) 12:59:25.75ID:vbNeinJG太田多賀谷氏も越前結城家で3万2千石も与えられている
多賀谷氏だけ扱いが酷かった訳ではないよ
単に重経個人が何かやらかしたのだろう
小山会議の後に待ち伏せして家康を殺そうとしたとかいう逸話もあるが、実際のところは分からない
ただ、当時は既に隠居の身でありながら流浪するはめになったのだから
やはり何か重大な事をやらかしたのだろう
0850人間七七四年
2014/10/07(火) 18:47:54.61ID:tXOkBjdO産まれる前から詰んでいた
0851人間七七四年
2014/12/09(火) 12:19:07.55ID:R3Q1q3ti0852人間七七四年
2014/12/09(火) 17:05:26.74ID:5l8yeYC+大名として残れたと思うんだよな
0853人間七七四年
2014/12/12(金) 22:42:52.16ID:TnOUOWT40854人間七七四年
2014/12/12(金) 22:50:54.50ID:2ENkXUA1武田とは同盟を模索し続け、その間に長宗我部、毛利、島津征伐を済ませるべきだった
0855人間七七四年
2014/12/13(土) 05:44:04.83ID:UniqjtdR0856人間七七四年
2014/12/13(土) 07:41:29.28ID:UdXFMJDQ0857人間七七四年
2014/12/13(土) 07:51:36.61ID:Te/+pp3j身内からからも大身の謀反だらけだし
0859名無しさん@そうだ選挙に行こう
2014/12/13(土) 13:00:01.67ID:EmFMHa9I君らの会話凄いな。論点とか存在して無くね?
0860名無しさん@そうだ選挙に行こう
2014/12/13(土) 13:11:51.20ID:s9ahyQzT諏訪に乗っ取られて滅茶苦茶にされた武田から目を背けたいんだろ
0861名無しさん@そうだ選挙に行こう
2014/12/13(土) 13:21:35.25ID:EmFMHa9I0862名無しさん@そうだ選挙に行こう
2014/12/13(土) 13:58:34.49ID:s9ahyQzTそれともおーぷんのように第三者になりすますか?w
0863名無しさん@そうだ選挙に行こう
2014/12/13(土) 23:57:01.74ID:RxpusZptその時点で誰がみても時限爆弾型の滅亡フラグが立っていたんだよ。
0864人間七七四年
2014/12/14(日) 00:17:07.62ID:INrzhVIN評論家やテレビの解説者と同じ
0865人間七七四年
2014/12/14(日) 00:36:36.01ID:JAcRbBzy伝えたいことをしっかり伝えるために書状は書かれる。
当時は紙も高級品だからな。
0866名無しさん@そうだ選挙に行こう
2014/12/14(日) 02:25:14.51ID:btwMen3gすげえ希望的観測にしか思わんだろ
0867人間七七四年
2014/12/24(水) 17:58:59.43ID:wdCqjXdJ向かわなかったらどうなってたの?
0868人間七七四年
2014/12/29(月) 12:58:02.98ID:RCTHwxY40869人間七七四年
2014/12/29(月) 14:25:15.76ID:0TlHdgJR信長殺してから朝廷に使者出したり細川や筒井に合力求めたり
つまり最初っから詰んでるw
0870人間七七四年
2014/12/29(月) 15:54:45.68ID:I/z47Hej言われてみれば、細川や筒井が味方さえすれば秀吉なんか敵じゃ無かったかも。
0871人間七七四年
2014/12/29(月) 21:36:21.04ID:gPPZT6Gs発作的に行動して本能寺をファイヤー→奇跡のように近畿圏のボンクラーズが「光秀さんマジパネェ一生ついてくッス」にならないと、ちょっと明日が見えない。
こんな主人公補正みたいなことが起こるのが本物の英雄なんだろうけど、光秀にはそれがなかったんだねぇ。
0872人間七七四年
2014/12/30(火) 01:39:25.50ID:sFq+yz7f普通になんとかなった気もするけどな。
0873人間七七四年
2014/12/30(火) 06:31:40.00ID:tK6EO/AR徳川もいる。
この3つを連続で、しかも軽微な損害程度で倒さないと次の相手が厳しい。
光秀が軍事上の天才でもなければ無理じゃないかな?
0874人間七七四年
2014/12/30(火) 09:49:23.77ID:W8pS4C2d織田最強軍だぞう
0875人間七七四年
2014/12/30(火) 20:32:10.81ID:u+7xPto00876人間七七四年
2014/12/30(火) 22:12:23.64ID:qTSuSwdo一方50000の最弱毛利軍が30000の羽柴軍に大返しを許すヘタレぶり
0877人間七七四年
2014/12/31(水) 04:11:53.37ID:nfbtApgp滝川と上杉と戦うだろうし。
0878人間七七四年
2014/12/31(水) 09:11:59.41ID:YvClClnT当面の敵は羽柴だけかと
明智にしてみれば、毛利は空気読めよ〜って気持ちだったろうな
0879人間七七四年
2014/12/31(水) 10:22:23.05ID:RzcIufiT大人しく家臣やってればよかった
0880人間七七四年
2014/12/31(水) 17:22:02.03ID:+AovDk3/死を秘匿したが、効果及ばず。
あ、信玄の死亡秘匿は義就のパクリだよw
0882人間七七四年
2015/02/01(日) 01:06:29.92ID:8p9x1uqe慶長5年(1600年)河内狭山1万1,000石 北条氏盛
慶長6年(1601年)出羽米沢30万石 上杉景勝
慶長7年(1602年)常陸国水戸25万石 武田信吉(断絶)
元和元年(1615年)大和国宇陀郡、上野国甘楽郡5万石 織田信雄
0883人間七七四年
2015/02/06(金) 18:00:50.22ID:6QakFSpc甲江和与詐欺で武田を奇襲滅亡させたのが運の尽き
0885人間七七四年
2015/02/07(土) 07:41:01.49ID:sHVl2K/q0886人間七七四年
2015/02/11(水) 15:37:16.05ID:e1n5y68u@応仁の乱
A義輝暗殺
B信長から離反時
Cその他
0887人間七七四年
2015/02/11(水) 18:23:16.80ID:jmJE/nvCどれも違う
これだ
明応の政変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
0888人間七七四年
2015/02/11(水) 22:10:57.11ID:SxGqvCp60889人間七七四年
2015/02/12(木) 23:58:42.50ID:Ns8jKU7U播磨の浦上、河内の畠山、越前の朝倉
近江の六角、阿波の三好、尾張の織田
これだけの勢力に上洛されながらよく続いたものだ。
0890人間七七四年
2015/02/13(金) 15:39:16.64ID:dlXnRESU遺伝子に欠陥があるんだろ
0891人間七七四年
2015/02/14(土) 21:29:50.14ID:E2YAyeVG仲が良かったからこそ幕府を開けた
0892人間七七四年
2015/02/15(日) 19:54:54.33ID:YQOUhcmA仲が良い:三好、松永、長宗我部、豊臣、後北条、北条、平家
仲が悪い:織田×2、伊達、島津、上杉×2、毛利
0893人間七七四年
2015/02/16(月) 00:06:10.00ID:Ds3Zmhy9失敗しても十分な責任(原因)追及が成されず、なあなあで問題解決を先送り
これでは進歩も成長もない
ぬるま湯で育ったボケボケ大名一門に危機管理など出来よう筈もないのである
乱世に仲良しグループは無用!
0894人間七七四年
2015/02/16(月) 03:10:53.36ID:/56y090O政宗は東に、宗景は西に勢力広げてたら黒田や宇喜多の運命も変わってなんとかなってたかも
0896人間七七四年
2015/02/20(金) 23:55:58.79ID:6sDFXpKP弟が凄い頑張っただけかもしれんが。
0897人間七七四年
2015/03/08(日) 20:02:38.56ID:rEsZZb3J宇喜多。
0898人間七七四年
2015/03/08(日) 21:10:28.40ID:vFvpdW2u0899人間七七四年
2015/03/08(日) 22:12:22.64ID:viR8ZSn30900人間七七四年
2015/03/11(水) 18:25:14.35ID:M+Z1553U0902人間七七四年
2015/03/12(木) 18:26:44.80ID:ooDe/QYi0904人間七七四年
2015/03/18(水) 02:20:51.40ID:IHYEP5Xq0905人間七七四年
2015/03/18(水) 07:05:19.84ID:UPzTTnl30906人間七七四年
2015/03/18(水) 22:41:02.01ID:mRqqhhde0908人間七七四年
2015/03/19(木) 07:00:48.60ID:QfxP3sjPそもそも不仲だから婚姻関係を結ぶ場合が多い訳で
嫁の実家や娘の嫁ぎ先と戦になる事はよくある
0909人間七七四年
2015/03/19(木) 17:15:58.32ID:0EQFTuoK信玄は政治家としてはかなり優秀だったけど、別に戦上手だったわけじゃない
それがあれだけ版図を拡大できたのは甲州金あってのこと
上杉謙信は真の戦上手な上に佐渡金山があったけどな
0910人間七七四年
2015/03/19(木) 23:01:11.99ID:tJT+yMvH0911人間七七四年
2015/03/20(金) 07:37:27.88ID:pbslQCqz0912人間七七四年
2015/03/20(金) 08:18:05.21ID:joeTd9qm0913人間七七四年
2015/03/20(金) 09:14:36.14ID:bQpfzmBD0914人間七七四年
2015/03/20(金) 11:23:41.66ID:g3rmC1Q/0915人間七七四年
2015/03/20(金) 19:15:35.93ID:lqTzHumR0916人間七七四年
2015/03/21(土) 22:08:14.11ID:q9vIo0930917人間七七四年
2015/03/23(月) 16:19:34.45ID:bbwXn5mlどうせ村上義清も弱小大名とか思ってるにわかなんだろな
0918人間七七四年
2015/03/24(火) 06:52:02.52ID:yqJ1fusz0920人間七七四年
2015/03/25(水) 06:46:44.17ID:0Qt0lGj/直家もびっくりするだろう
0922人間七七四年
2015/03/25(水) 14:21:02.33ID:JDAb4lZr0923人間七七四年
2015/03/26(木) 13:55:23.01ID:Y+axJPCt0924人間七七四年
2015/03/26(木) 14:37:05.39ID:ILA5173z負けて数が減ったんだ
0925人間七七四年
2015/04/04(土) 15:22:00.84ID:lM8kW/x9再建間もない松平軍(西三河の6〜7割ほどを領有か)の寡兵を相手に負け続けた
おそらく>>922が突っ込んだのは、そういった事例のことだろう
どうやら氏真は戦が下手過ぎて、数で押すことすら叶わなかったようだ
従って、「今川氏真でもできる」という反論は不適切
0926人間七七四年
2015/04/21(火) 12:14:00.58ID:A8okbDOh0927人間七七四年
2015/04/21(火) 17:26:26.76ID:vc3M1rEj0928人間七七四年
2015/04/22(水) 12:13:19.33ID:5HS7El040929人間七七四年
2015/04/22(水) 16:11:36.04ID:xrXRuWRs0930人間七七四年
2015/04/23(木) 11:06:26.89ID:5X5FygcD0931人間七七四年
2015/04/23(木) 15:53:28.68ID:gksNa0tm三成と友情を結んだ時
0932人間七七四年
2015/04/24(金) 00:07:20.13ID:6Q88oTg40933人間七七四年
2015/04/24(金) 15:14:17.39ID:b/m8kZBe0934人間七七四年
2015/04/25(土) 02:26:33.70ID:4+KoyUQa0935人間七七四年
2015/04/25(土) 03:24:36.76ID:FgvcL4lz0937人間七七四年
2015/04/25(土) 16:54:00.31ID:crAQnbiY垂井から引き返して、石田の挙兵を思いとどまらすべく、佐和山城に入った時。
二人とも越前と津軽に末裔を残しているから負け組とは言えないかもな。
0938人間七七四年
2015/04/25(土) 18:31:37.42ID:kXAb9mSn0939人間七七四年
2015/04/25(土) 21:16:06.88ID:qJSGyyvy隆信が本家相続した時の所領=本家5000町+分家1570町
佐賀藩政下の龍造寺一族所領=本家10770石+分家77800石
分家出身の隆信が本家相続し彼と彼の嫡孫が死んだ後
最終的に分家が本家分のパイを切り分ける形で収まった
0940人間七七四年
2015/04/25(土) 22:33:45.35ID:MmzSW21H0941人間七七四年
2015/04/25(土) 22:50:06.15ID:3awUMLVG今川:了俊が九州から呼び戻された時
後北条:長尾が上杉の名跡を継いだ時
豊臣:豊臣姓になった時
上杉:太田道灌が死んだ時
0942人間七七四年
2015/04/27(月) 01:05:05.82ID:rK7MXsWU逆に考えると人生に詰みなんて無いんだな。
諸将を従えるスペックさえあれば、謀反やら暗殺でどこからでも
一発逆転が起こりうる。
0943人間七七四年
2015/04/27(月) 13:56:26.01ID:8vcNfP+10944人間七七四年
2015/04/27(月) 16:05:26.95ID:7Y4U7X/6晴元さんはどうしたら良かったんだろ
0945人間七七四年
2015/04/29(水) 08:07:25.05ID:pEVsuL4v0946人間七七四年
2015/04/29(水) 11:14:54.94ID:/zATnlG50947人間七七四年
2015/05/06(水) 02:37:07.98ID:tEY5dEtw息子が思いの外義理堅かった時点
0948人間七七四年
2015/05/06(水) 20:11:12.74ID:DLGQQExg親父の悪事が息子に報い
0949人間七七四年
2015/05/13(水) 12:06:19.59ID:IKb2ebrw他の国々のように、日本もさらに多くの原子力発電所を作ろうとしています。
彼らは幻想の中に生きています。人々は、放射の影響で不必要に死んでいます。
ahjzfl-1/04zpzf/n0gkne
何千もの鳥や魚が死んでいます。原因は集中豪雨の結果です。
その中には、各原子力発電所によって大気中に放射される核放射能が含まれます。
magazines/rwhnd8/kxz1kf/ewe6t0
人々は肺炎やインフルエンザやHIV/エイズに抵抗できなくなっています。
magazines/33116k/yitdsf/u198z0
あらゆる種類の癌の増大もまた核放射能によるものです。
33116k/04zpzf/30g6fe
認知症の過程は放射能汚染によって加速します。
magazines/ljbue8/pnv97m/xchu67
マイトレーヤは、世界中の原子力発電所を直ちに閉鎖することを助言されます。
33116k/yitdsf/u198z0
マイトレーヤが公に話し始めるとき、彼はこのことについて話されるでしょう。
magazines/ahjzfl-1/pzytyf/vk7zly
0950人間七七四年
2015/05/13(水) 23:24:42.83ID:z1IJ1j1o0951人間七七四年
2015/05/14(木) 20:13:54.56ID:W6KxVF1eあれで高天神に援軍出せなくなって落とされた
0952人間七七四年
2015/05/17(日) 09:06:05.10ID:qyXr0Qweまあ、長篠で詰んでいたけどね。あとの7年間はゾンビ晒していただけ。
ただ、そのゾンビを成仏させるきっかけを作ったのは間違いなく御館の乱だけど。
0953人間七七四年
2015/05/17(日) 09:16:37.47ID:qyXr0Qwe上杉景勝がそう。滅びる3秒前で、越中は柴田に平定されるわ、国内は新発田重家が
東半分無双するわ、南からは森長可が破竹の進撃をするわで、本能寺がなければ
1582年中に確実に滅んだと言われている。
春日山城も、森長可によって確実に落城しただろうしね。
あの時の上杉景勝も、間違いなく詰んでいた。
0954人間七七四年
2015/05/17(日) 16:31:57.89ID:vo4oT0r20955人間七七四年
2015/05/18(月) 12:26:41.16ID:qR6uRXqM謙信の死
御館の乱
乱後の中郡の反景勝勢力とそれを支援する伊達葦名との攻防
新発田の乱
織田はつくづく運だけは一流。
しかし実力は皆無なので、上杉の自爆に付け込んで北陸を長・佐々・斉藤・神保らに、柴田らも加えてコソドロさせて
越中能登は城割と国人の粛清で、国内を空洞状態にしたヌルゲー勝負でも
柴田45000森6000滝川10000+伊達・葦名・新発田20000と総勢90000前後で挑みかかっても
上杉6000に撃退されまくるアホっぷり。
これだけ実力差があってはいくら兵力差があろうと
自爆状態を火事場ドロボウされようと勝てるわけがない。
0956人間七七四年
2015/05/18(月) 12:27:22.77ID:qR6uRXqM普通の大名なら速攻で滅ぼされる四面楚歌でも上杉はろくに侵攻許さず撃退してるからな
兵力差や状況からいうと、滅亡寸前というか1週間前後で滅ぼされるような状況でも2年近く膠着続いてるわけで。
新発田・伊達・蘆名・上野の滝川・上野の森・越中の柴田と15倍前後の敵に攻められても崩壊しない上杉は強すぎる
0957人間七七四年
2015/05/18(月) 12:29:16.72ID:rhBCebx7柴田は天正8年から2年もかけて45000の大軍で越後に向けて侵攻してたのに越中でほとんど進めてないし
森はとっくに撃退されてますけど。
4/2の上杉の書状で森が撃退されてる事がわかるし、4月下旬の上杉→島津忠直書状でも、上杉方の島津が長沼城より南方の仁科地方にすら駐屯していたのがわかる
0958人間七七四年
2015/05/18(月) 12:30:45.71ID:uT0EXw0v柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦 してるし
金森ら飛騨口部隊は松倉城に手も足も出ず
森6000は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名→下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田に
あと数月で落とせるわけがない
まず手も足も出ず苦戦しまくりの須田のいる松倉城どうするかだな
0959人間七七四年
2015/05/18(月) 12:33:22.62ID:dUpHbtXT柴田45000滝川20000森6000新発田・伊達・葦名連合15000と合計で自軍の10倍以上もの敵と戦っても滅ぼされなかった上杉は強すぎだわな「
普通の武将なら半月程度で滅んでもいい兵力差だが上杉は柴田に天正8年〜10年の2年でほとんど進撃許してないし
ほとんど備えなしの松倉城の枝城にすぎない魚津ですら織田軍はあれだけ苦戦してるし
0960人間七七四年
2015/05/18(月) 12:38:39.35ID:Z9kaP1Fz越中を制圧したのは上杉が内乱で景虎や北条や伊達葦名とやりあってた隙に、神保などを送り込んで攻略・調略しただけだし
実力では魚津城くらいしか取れてないよ
新発田にしても東半分制圧なんて講談にすら書かれてないし
0962人間七七四年
2015/05/18(月) 16:38:42.04ID:cWp3bUEiもうバレバレなのに臆面もなくやれるってアスペ確定やろ
0964人間七七四年
2015/05/18(月) 21:15:49.23ID:fDWHJNgx菅沼遼太のレス見るならまんが日本の歴史の方がよほどタメになる
0965人間七七四年
2015/05/18(月) 21:30:07.62ID:+EAOEt8d…ああ、あれは浅間山噴火のせいだから仕方無いんだっけか
0966人間七七四年
2015/05/19(火) 01:58:04.72ID:MbcbgZUlなんだかんだ最後まで生き残ったからな
0967人間七七四年
2015/05/19(火) 03:20:02.61ID:KreNOKHp武田:御館の乱で景虎死んだ時
北条:伊達に裏切られた時
浅井:朝倉が先に滅んだ時
織田:光秀の作った飯にまずいといった時
豊臣:秀長が先に死んだ時
大谷:三成が膿の入った茶を飲み干した時
石田:金吾に関白を約束した時
0970人間七七四年
2015/05/19(火) 07:46:08.76ID:iTdOeA3L景勝は全く詰んでないだろ。
内乱の連発で崩壊状態の上杉を9倍もの兵力差と神保・長・佐々など送り込んだりして火事場ドロしたけど
実力ではろくに進めてないからね
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない、松倉の一枝城にすぎない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は4/2に長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず(景勝→島津忠直書状で、長沼より更に南東部ですら上杉方が駐屯してるのがわかる)
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
0971人間七七四年
2015/05/19(火) 07:46:40.06ID:DznuUa6f兵力差や状況からいうと、滅亡寸前というか1週間前後で滅ぼされるような状況でも2年近く膠着続いてるわけで。
新発田・伊達・蘆名・上野の滝川・上野の森・越中の柴田と15倍前後の敵に攻められても崩壊しない上杉は強すぎる
0972人間七七四年
2015/05/20(水) 04:35:17.11ID:SY8hxlsX0973人間七七四年
2015/05/20(水) 21:20:41.40ID:8JQ0tyTfむしろそれは上杉が瀕死だった証拠だな
信長は重要な局面では兵を集結させて決戦に挑むが、上杉は家臣に丸投げで自ら動くような事は全くなかったし
むしろ真逆の中国地方に主力を差し向けて自らも出陣しようとしていた
つまり武田滅亡後、織田にとっては毛利が最大の懸念であったということだ
更に四国討伐軍まで組織して戦線を拡大しようとしていた
もはや当時の上杉は織田にとって全く脅威ではなかった事は間違いない
0974人間七七四年
2015/05/20(水) 23:16:57.85ID:TMrNf3MFそんな妄想論言われても上杉は御館の乱も、その後の中郡での黒川清実、本庄秀綱らとの戦いでも大将自ら動いてるし
信長は柴田軍45000に森6000滝川20000に新発田・伊達・葦名連合まで外交によって動かしてるから十分軍の数は派遣してる
毛利は120万石前後あるのに対して、上杉はわずか30万石前後でしかないから、割合から考えればもっともっと少ない兵力を送っても解決する戦争に対して
信長は毛利よりもずっと多大な兵力を派遣してる
0975人間七七四年
2015/05/20(水) 23:20:21.61ID:LUw1PKyHなんで>>970のレスが上杉が瀕死だった証拠になるのかね?
実際に柴田45000は天正10年段階ですら上杉方に富山城奪い返されたりしてほとんど天正8年半ばから二年かけて自力では進めてないんだが。
天正8年以前は上杉は内乱とそれに続く中郡や下郡の諸氏やそれに介入した伊達や葦名との戦争に追われてたし
状況や兵力比から考えれば上杉は毛利の10倍くらいはよく健闘しとるよ。
0976人間七七四年
2015/05/20(水) 23:23:35.36ID:/7HcBOGwそりゃ、上杉は8000前後しかいない状況で、新発田・伊達・葦名と別の敵までいたから脅威ではなかっただろうが、
逆に言えば上杉は柴田45000森6000滝川20000新発田伊達葦名連合20000と凄い数の敵に囲まれて侵攻を受けながら
森や滝川を撃退したり、柴田に越中でほとんど前進をさせなかったりと相当なレベルの力戦をしてたのは間違いない。
兵力でいえば10倍程度は違うから、上杉が雑魚なら2週間くらいで速攻で滅んでる。
0977人間七七四年
2015/05/20(水) 23:24:11.25ID:TMrNf3MF御館の乱
乱後の中郡の反景勝勢力とそれを支援する伊達葦名との攻防
新発田の乱
織田はつくづく運だけは一流。
しかし実力は皆無なので、上杉の自爆に付け込んで北陸を長・佐々・斉藤・神保らに、柴田らも加えてコソドロさせて
越中能登は城割と国人の粛清で、国内を空洞状態にしたヌルゲー勝負でも
柴田45000森6000滝川10000+伊達・葦名・新発田20000と総勢90000前後で挑みかかっても
上杉6000に撃退されまくるアホっぷり。
これだけ実力差があってはいくら兵力差があろうと
自爆状態を火事場ドロボウされようと勝てるわけがない。
0978人間七七四年
2015/05/20(水) 23:55:37.74ID:1Uy40vTbこいつ生きてて恥ずかしくないのかなw
0980人間七七四年
2015/05/21(木) 19:07:18.08ID:XNFrGwt6こんなの読む奴は本人以外にいないw
0981人間七七四年
2015/05/24(日) 22:25:23.60ID:ihXYOYe5森は二本木に陣を敷き、春日山落城へ準備万端だったけど。
森が崩壊したのは本能寺の変が起きてから。
それでも、森は信濃国人に裏切られ孤立無援の中、裏切り者どもから取った人質を利用し見事に信濃から脱出している。
しかも、人質を皆殺しにするという見事そのもの。
だから、本能寺の変がなければ、早ければ6月中、遅くとも夏の間に春日山城落城という大功績は
森長可の名とともに歴史に残ったであろう。
0982人間七七四年
2015/05/24(日) 22:31:10.03ID:ihXYOYe5柴田勝家は魚津城では苦戦していないけどね。
越中、能登の鎮撫にやや時間をかけているが、これは新規占領地なら仕方がないこと。
魚津城を落とし、越中から上杉景勝の勢力の一掃に成功した。
だから、あとは森を援護して、春日山を落とすことだけしか残っていなかった。
だが、多分その必要はなかったと思う。もう上杉は終わっていたから、あとは武田と同じく
末期裏切りが続出、森長可単独で春日山は落ち、上杉景勝は1582年限りだっただろう。
あと、柴田勝家は秀吉に負けたから過小評価されているけど、少なくとも上杉景勝よりは
格上だよ。謙信には負けたけど、景勝に負けたことは一度もない。
0983人間七七四年
2015/05/25(月) 14:37:50.23ID:iSdLZZ8g上杉は御館の乱や新発田の乱で崩壊状態の所を9倍もの兵力と佐々長神保ら地元勢力の派遣によってコソドロ的に火事場泥棒されたのに
越中中部〜魚津松倉で2年も食い止めてたし
松倉城でも飛騨口別働隊は撃退され
ろくな備えもない魚津城では4ヶ月もかかり
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦し
天正12年段階ですら富山奪い返されたりしてる
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
しかも当時の上杉は石高もしょぼく御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化
御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
どうみても景勝>>>>柴田(織田家トップクラス)だな
0984人間七七四年
2015/05/25(月) 14:40:25.61ID:rpZvdqfG越中や能登は上杉が内乱で戦ってる隙に神保やら長やら斎藤やら送り込んで火事場泥棒しただけじゃん
上杉の内乱が終結し出すのは天正8年半ば頃だがこの頃までには越中や能登の衆は大半織田方に寝返ってる
しかし柴田はその後2年もかけて自力ではほとんど切り取れていない
兵力差は上杉8000前後柴田450000と格段の差があるにもかかわらず。
しかも上杉は国内に新発田そして伊達葦名という別の敵まで居る状況で。
これでははっきり言って景勝の方が10枚くらい上手と言わざるを得ない
0985人間七七四年
2015/05/25(月) 14:41:13.36ID:gNp/gJRe越中は景勝が御館の乱や新発田の乱や中郡での神余、本庄、黒川やそれを支援する伊達や蘆名と戦ってる隙をついて神保や長や佐々長縄や飛騨口別働隊などを送り込んでコソドロしただけだな
むしろそんなヌルゲーで戦ってた割に上杉が越中に出陣を少しできるようになるとまるで侵攻できてない。
信濃では4/2に森長可が長沼城攻防で敗北し、長沼城を上杉に奪われた後、さらに仁科地方まで奪われてるのが4/2上杉景勝書状と
4/20頃の上杉→島津忠直書状でわかり
上杉は島津に仁科地方の防衛を命じている
5月の佐竹宛書状でも富山城は奪回されて残念だが、信濃口は全く堅固で問題ないとか書いている
0986人間七七四年
2015/05/25(月) 14:43:07.54ID:gNp/gJRe>>越中、能登の鎮撫にやや時間をかけているが、これは新規占領地なら仕方がないこと。
越中には禍根が多く
何のしがらみのない織田は侵攻する上で非常に有利だった。
現に神保を送り込んで御館の乱や新発田の乱の隙にコソドロするのは成功してる
御館の乱の隙に火事場泥棒する事に成功して
越中中部まで楽に進めたのだがそれ以降柴田軍は自力ではほとんど城を攻略できていない
0987人間七七四年
2015/05/25(月) 14:43:29.50ID:rpZvdqfG織田はろくに切り取れず天正10年時点ですら小島に富山城奪回されたりするアホっぷりだからな。
0988人間七七四年
2015/05/25(月) 14:44:18.76ID:gNp/gJRe越中に織田方別働隊と神保や佐々などが送り込まれたのは1579年
しかし上杉はその時期御館の乱で内戦中、その後中郡での攻防やそれを支援する伊達や蘆名との攻防中であり、越中に派兵する余裕などない
もっというと動員兵力5000前後の上杉には、織田900万石と交戦する事などハナから不可
しかし実際には上杉の内乱が少し収束しだす1581年前後から(実際には新発田の乱や伊達や蘆名との攻防は継続中だが)
織田は信濃、上野、下越、越中、奥州と5方面から80000以上の兵力で攻めこんでも
ほとんど戦果が無いどころか、信濃でも上野でも撃退されたりしてる
それほど織田と上杉では圧倒的に指揮能力や采配能力に桁違いに差がある
0989人間七七四年
2015/05/25(月) 14:46:54.98ID:gNp/gJRe森って4/2に長沼城攻防戦で上杉に敗れた後、長沼どころかそれよりはるか南方の仁科地方すら上杉に奪われてたんですが
上杉は島津に仁科地方の防衛を命じている
5月の佐竹宛書状でも富山城は奪回されて残念だが、信濃口は全く堅固で問題ないとか書いている
天正10年4/4上杉景勝書状
…(中略)
各相談、如何ニ取懸候共、堅固之仕置尤候、
去而又信州口之儀、長沼之地、昨二日乗取候、森敗軍候、
彼仕置申付之上、人数差遣候、令出馬、新発田退治案中ニ候、千言萬句其地用心相極候、謹言
山吉景長殿
せり沼友重殿
天正10年4/11上条政繁→直江(きん史堂古文書)
…飯山長沼武主之儀、誠推参ニ雖可被思召不顧憚申立候ヲ、謙信様御代二も堀江新地ニ被差置候條
彼者ヲ可被仰付候間、尤塞蔵院、芋川ニ被差添候者、大略五百余可有御座候由奉存候、「
歴代古案
直江→西方房家
天正10年4/29書状
芳札被見、乃、上様御樽被差上則令被伐露候、自分へも送給祝著申候、次、仁科筋人数被遣由に候
吉左右候ハ、重而御注進待入候、将又、先達而以書中申入候、其元敵地への往復、不通ニ可被相留由
堅御掟候間、左様御心得尤候、恐々謹言、
追而、青梅給候、賞申候、以上
0990人間七七四年
2015/05/25(月) 14:47:32.01ID:rpZvdqfG普通の大名なら速攻で滅ぼされる四面楚歌でも上杉はろくに侵攻許さず撃退してるからな
兵力差や状況からいうと、滅亡寸前というか1週間前後で滅ぼされるような状況でも2年近く膠着続いてるわけで。
新発田・伊達・蘆名・上野の滝川・上野の森・越中の柴田と15倍前後の敵に攻められても崩壊しない上杉は強すぎる
織田が長沼城奪回の話が出てくるのは信長記の中の一つである総見記だな
それでそれによると4/5に長沼を織田方が奪回したと書かれているが
しかし実際には4/11にも長沼の城に島津忠直が駐在しているのは明らかで
総見記や信長記程度の信憑性でいいなら
上杉年譜の4/7条でも島津は信州長沼ニ居城し
などと書かれていて、島津はずっと信州のとどまり続けているのがわかる
それで信濃史料P191によると「上杉景勝が信濃岩井に命じて芋川とともに仁科地方を警備させめ、西方房家をしてどう方面を警固させる」という意の書状として>>622と上杉年譜
4/28景勝→岩井書状が紹介されてる
これによると信濃の虎空山に相るへし仁科表調儀に及びなは一段に手裏に入るへき段、
芋川越前守所ヨリ申遣す條、早速真木島へ相移り越前守と相談し
などと書いていて
上杉が仁科地方の警備を行っていて
牧島城や虚空山城を領有していたのは明らか。
虚空山城は安曇野から善光寺寺平、小県につながる地域に立っている城
これは上杉がずっと抑えていたんだから信濃戦線は上杉がずっと優先で4/4の上杉軍による織田撃破以降織田は何もできなかたんだろうな
0991人間七七四年
2015/05/25(月) 14:48:09.16ID:gNp/gJRe景勝が強くなかったら御館の乱で景虎、伊達、蘆名、北条、武田に攻め込まれて2週間で滅亡してるし
御館の乱後でも中群や下群でも国人が反旗を翻して伊達や蘆名がそれを後押ししてたから
柴田45000と中郡、下郡の国人と伊達や蘆名で速攻で滅ぼされてる
0992人間七七四年
2015/05/25(月) 14:49:09.07ID:rpZvdqfG毎回こういう馬鹿なレス見ると思うんだけど
織田の越中や能登侵攻って景勝が御館の乱やそれに続く中郡での諸氏との攻防や新発田の乱で伊達・葦名・新発田・黒川・本庄秀綱などと戦ってる隙に
神保や佐々や長などを送りこんでコソ泥しただけの越中平定をまるで自力で勝ち取ったみたいなバカな印象操作されてもな
ただの火事場泥棒じゃん
逆に上杉の内戦が落ち着き出す天正8年中盤(とはいっても新発田が挙兵するのだが)〜天正10年6月までで
織田軍は自力じゃほとんど越中中部から進めてないぞ。
0993人間七七四年
2015/05/25(月) 14:51:18.15ID:gNp/gJReただの松倉城の枝城にすぎない上にろくな備えもない魚津城に3か月も4か月もかけるようでは
越後攻略なんて到底無理だろう。
兵力差から考えれな10倍ほど差があるので2週間程度くらいで決着がつくべき戦争だが
上杉の方が指揮能力や采配能力が格段に上なので、ずっと膠着状態が続いている
森長可なんて信濃で見事に撃破されてるからな
0994人間七七四年
2015/05/25(月) 14:52:08.23ID:gNp/gJRe御館の乱で景虎、伊達、蘆名、北条、武田に攻め込まれて2週間で滅亡してるし
御館の乱後でも中群や下群でも国人が反旗を翻して伊達や蘆名がそれを後押ししてたから
柴田45000と中郡、下郡の国人と伊達や蘆名で速攻で滅ぼされてる
・兵数に関しては上杉の兵力については謙信時代の軍役帳や、景勝時代の豊臣家の陣立書で証明済み。
謙信の軍役帳によると越後の動員兵力はわずか5000程度
景勝時代の陣立書によると、越後に出羽の庄内に北信4軍と佐渡が入った状態でやっと10000。
柴田勝家が45000なのは享禄以来年代記と末森記全編利家武功覚書に書いてる
滝川20000は滝川家記録の滝川一益事書に書いてる
・信長死後越中侵攻できなかったのは景勝は越後でわずか兵力5000であり、
佐々10000と小笠原4000(天正11年〜13年頃まで交戦)真田2000(天正10年〜天正12年まで交戦)
葦名・伊達約15000、新発田2000と自軍の6.5倍程度の敵と同時に戦ってるんだから
勢力が簡単に拡張できないなんて当たり前だがね。
景勝が越中に長期間張り付いて攻城を行った時期なんてないし、信濃で戦ってた期間の方が長いしその信濃ではきっちり領土拡張できてる
・信濃は全く空白地帯になっていない。信濃守護嫡流の小笠原定慶は徳川の支援を受けて送り込まれて以降
安曇・筑摩を中心に勢力を伸ばし、上杉との対戦時に至るまでには4000もの兵力を動員できるようになってるのが、「東筑摩郡・松本・塩尻市誌」に書いてる
また、真田なども上杉に抗戦してるし香坂・海野なども上杉に抗戦してるが景勝5000が出ていくとあっさり討伐されてる。
0995人間七七四年
2015/05/25(月) 14:52:39.97ID:gNp/gJRe勢力拡張できないと無能なんてバカな発想は普通はしないわな
それでも上杉は信濃方面で徳川の後援を受けた小笠原定慶に勝ちまくって勢力拡張しまくってるから十分すぎるほど有能
0996人間七七四年
2015/05/25(月) 14:53:03.84ID:/1ms2uguお前は算数を習った事があるか?
信長生前は上杉はわずか5000に兵力で柴田軍45000+森6000+滝川20000+新発田伊達葦名連合20000前後と同時に戦ってるんだぞ。
算数の割合を習った事がある人間なら、上杉の兵力で、柴田軍森軍滝川軍新発田伊達葦名と同時に敵に回しながら
新発田を討伐できる、なんてバカな発想はしないわな。
敵の方が10倍以上多いのだから、普通なら1か月程度で瞬殺されてる。
0997人間七七四年
2015/05/25(月) 14:53:32.24ID:/1ms2ugu0998人間七七四年
2015/05/25(月) 14:53:59.02ID:jgUjRMzW0999人間七七四年
2015/05/25(月) 14:54:19.88ID:rpZvdqfG1000人間七七四年
2015/05/25(月) 14:59:17.26ID:RIgPUani10011001
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