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戦国ちょっといい話30

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0001人間七七四年2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0773人間七七四年2012/02/06(月) 18:28:20.07ID:GxVBBIF5
たかだか三万石で大坂城攻めの先鋒を勤めるのは怖すぎて
普通の武士ならテンション上がらない

・・・勝成は別として
0774人間七七四年2012/02/06(月) 19:53:02.91ID:CsLik4wO
さすがに勝成も初めは先峰を辞退したけど
家康が先峰はどうしても先峰は譜代じゃないといけないと勝成を説き伏せて先峰を任命した。
その時の条件が兵士の生余奪権と成功した際に十万石以上の所領だった。
0775人間七七四年2012/02/06(月) 19:59:08.25ID:vou0y3iK
名乗り出るのが居なかったらお前ら大将首を取ってこなかったら俺が殺す、ってなってた可能性もありそうだなw
0776人間七七四年2012/02/06(月) 20:05:09.34ID:WFrRyY/U
>>774
そう言う流れなら勝成の家臣への無茶振りも解らんではないな
兎に角勢い付けたかったんだろ
0777人間七七四年2012/02/06(月) 20:29:02.10ID:iodz87Hl
>>775
むしろ酒の勢いも相まって「じゃあ俺が穫ってくるからそこで震えて見てろ!」ってなりかねんのじゃないか
0778人間七七四年2012/02/06(月) 21:41:43.27ID:CsLik4wO
十万石の件だが、相変わらず大将自ら先陣を切って戦った為、家康の怒りを買って大和郡山六万石に抑えられたけど(それでも倍増だが)
家康の死後、約束通り勝成の縁の土地である備後福山十万石が与えられた。
0779人間七七四年2012/02/06(月) 21:51:35.62ID:UX+KPOYa
>>770
流石さん、小林さん、富士さん、河口さんらの大領主も忘れないで!!1111
0780人間七七四年2012/02/06(月) 22:17:13.05ID:WYFK1w6+
>>772
水野関係の本だと、水野が総大将っている
実際、松平忠輝は戦線参加してないし
水野が指示で戦ったことは、いろいろな逸話からわかる
0781人間七七四年2012/02/06(月) 22:31:25.58ID:MLSXUNRB
>>780
そりゃ総大将は普通は戦わない
0782人間七七四年2012/02/06(月) 22:34:45.71ID:WYFK1w6+
ちょっと誤字が見苦しかったんで

水野関係の本だと、勝成が大和口総大将と書かれている
実際、松平忠輝は戦線参加してないし
水野の指示で戦ったことは、いろいろな逸話からわかる

ちなみに俺が読んだ本は、
「福山物語 開祖水野勝成一代記」「福山開祖・水野勝成」
残念ながら>>759の逸話は書かれてなかったように思うが、
河村新八郎は大垣城攻めのときにも活躍しているようだから、
このころは若くなかったように思う
0783人間七七四年2012/02/06(月) 22:35:35.36ID:mALZKV4h
>>779
おっと、渡邊もいたな。
0784人間七七四年2012/02/06(月) 23:01:06.99ID:U6OVXIbG
伊達家は、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍による関ヶ原の戦いの際、東北地方で東軍方として戦い、
家康が天下を握った後には、恩賞として主君の伊達政宗と共に片倉景綱は江戸に屋敷を与えられた。しかし景綱は
一度それを受け取った後、

「この屋敷は政宗にお与えください。」

と返上し、代わりに豊臣秀吉に認められていた「道中活火縄勝手」を家康にも願い出て許可されたという。
また、1615年に江戸幕府が制定した「一国一城令」により、一つの藩に城は原則一つと定めた後も、仙台藩は政宗の
居城である仙台城の他に、景綱の白石城が例外的に存続を許されたという。 家康に二つの特権を認められた景綱の逸話である。
0785人間七七四年2012/02/06(月) 23:52:39.29ID:UX+KPOYa
>>783
渡邉さんってどのあたりの豪族?
0786人間七七四年2012/02/07(火) 00:28:36.01ID:q+Nci7QK
道中活火縄勝手ってなに?
0787人間七七四年2012/02/07(火) 00:31:18.07ID:zB43rPZ/
移動、行軍する際も火縄を常に使えるようにしていて良いということじゃない?
0788人間七七四年2012/02/07(火) 02:03:42.35ID:4t4jcK2H
>>785
都留郡とか西湖のあたりとか。南朝方に組したのでも歴史に残る。
0789人間七七四年2012/02/07(火) 11:28:30.50ID:GqgXgo7T
>>786
参勤交代の大名行列の時でも伊達家のは火縄に火を付けたまま歩いていたそうな。
まあ、二本松の辺りを通る時だけ、らしいけどさ。

・・・この話でいいのかな?
0790人間七七四年2012/02/07(火) 12:17:13.07ID:fRk4l5Wx
続きは悪いスレ行きだな。
ヒョエーさん的に…。
0791人間七七四年2012/02/07(火) 12:44:56.49ID:v01JPR8f
喜連川「早く今年も伊達の行列来ないかな ((o(´∀`)o))ワクワク 」
0792人間七七四年2012/02/07(火) 16:21:43.63ID:AAj5Iw8F
>>770
むしろ武田より跡部、穴山、栗原らの国人のほうが
力が強いくらいの時代だな。
西関東には、上杉配下の小大名も一杯だしカオス。
0793人間七七四年2012/02/07(火) 16:45:17.92ID:lPunP/p5
>>766
遅レスかもしれないけど
甲冑研究の第一人者である笹間良彦先生曰く
越中具足(三斎様が考案した鎧)は合理的であるが外見が地味なため広く流行せず
肥後細川家にしか使われなかったとのこと
0794人間七七四年2012/02/07(火) 17:16:06.31ID:39eNQ2ur
>>793
細川藩士A:おいおい、こんな地味なの使わなきゃいけないのかよ・・・・
細川藩士B:殿の考案だから仕方ないだろ・・・・
細川藩士A:俺らももっと朱色で派手な鎧着て戦場駆け回りたいぜ。そう思わないか?
細川藩士B:まあなあ・・・

三斎様:貴様らの望み通り鎧を紅に染めてくれるわ!また歌仙を増やしてしまったわ・・・・

0795人間七七四年2012/02/07(火) 17:24:33.56ID:CCFqtkxD
辞書だと
細川越中守重賢(しげかた)の考案になる実用的な具足。
とあるが・・・
0796人間七七四年2012/02/07(火) 19:04:43.52ID:lPunP/p5
>細川越中守重賢(しげかた)の考案になる実用的な具足。
けど三斎流とも言われるから実際はどうなんだろうね
因みに鎧の各部分にも名称が付けられている

越中頭形:頭形型の鉢形式の一つで天板の伏板前方が眉庇の上に重なり、眉庇下端は水平になっている
越中ジゴロ:裾広の広がり率は少なく肩摺板は直線で、縁を韋覆輪とする実用的シコロ
越中篭手:小篠を並べ、所々に鎖繋ぎした篭手で最小限の防護で腕の動きには優れている
越中袖隠し:当世袖の小鰭で当世袖を短縮したごときの大きさの袖
越中佩楯:小篠を並べ、所々に鎖繋ぎした佩楯で最小限の防護をした佩楯
越中脛当:篠濡当を所々に繋ぎ、家地も立挙げもない
越中頬:顎と頬の下半分ぐらいを覆ったナマコ形の頬当
越中脇引:筏金を鎖地に散らした脇引
0797人間七七四年2012/02/07(火) 19:09:19.82ID:cIaYpOXq
越中褌:両側に紐がついている
0798人間七七四年2012/02/07(火) 19:25:46.92ID:q+ExRxP4
越中守:狐がついている
0799人間七七四年2012/02/07(火) 19:52:36.57ID:CCFqtkxD
越中詩郎:ヒップアタック
0800人間七七四年2012/02/07(火) 21:43:59.33ID:yc3q1VzK
>>796
戦国時代が大坂の陣で終わらなければ、実用具足がもっと普及したのかなぁ
0801人間七七四年2012/02/07(火) 22:27:00.34ID:dkobOKig
あの時点ですでに袖が省略され始めてたから
戦国時代が終わってなかったら逆に鎧その物が終わる流れになるだろう
0802人間七七四年2012/02/08(水) 01:47:40.78ID:R2Ig7J2/
とりあえずヨーロッパの銃兵みたいに胴と兜だけになるかも
0803人間七七四年2012/02/08(水) 03:04:06.59ID:AgaVFJAt
武田家はキチガイ揃いと思っているアナタ!
今に残る「信玄」のつく語彙から、往事の武田家を偲ぼう(かなり恣意的なチョイスです)。


信玄グッズ1

「信玄足(しんげんあし)」

田圃仕事の時に履く、足が沈まないようにするための大きな履き物。
要は田下駄のこと。

むかし信玄の頃、先陣を切った武士が泥田に足を取られ転倒した。
武士は軍令に従って見捨てられ、足場にされて踏み殺されてしまった。

用心下駄・安気足・信玄草履などとも言うが、いまでは信玄足というのが普通である。


信玄グッズ2

「信玄袋(しんげんぶくろ)」

ある時信玄と武将達が弓比べに興じていた。
ところが番の者が余りに遠くに的をやりすぎたので、誰の弓も届かなくなってしまった。

その時なにがしという小者が、「私ならこう致します」といって一目散に的に走っていくと、
番をしていた者の首を刎ね飛ばし、その袴に包んでて持ってきた。人々はなるほどと感心した。

この時、番士の首を包んだ袴が便利だったので、別に信玄袋といって作るようになったという。


陣吉(じんよし?じんきち?)

@今から六十年も前まで、(中略)山人たちが草刈りに出る時は、メンパという気で作った楕円形の
弁当箱に、蓋の方を熱い飯を一ぱいつめて、それを陣吉という袋に入れ、馬の背に付けて行った。

陣吉は麻のさらし布で作って、両方に口を付け麻の縄紐をつけた。背負うにも馬につけるにも大そう
都合良く出来ている。

この陣吉は武田信玄が考え出した者で、戦いに行く時や戦いの場で、たくさんの兵士達の弁当を作る
時に使った。まず陣吉に米を入れ、大きな釜へ袋のままに入れて煮、すぐ戦場へ背負って出かけたのだった。

その後、戦いが無くなって、袋のまま煮る必要もなくなり、麻から紺野木綿布となり、両口袋も片口に
変わってきて、今では本当の陣吉は見られなくなってしまった。

A
武田信玄は信州を攻める時、兵士の食料袋として陣吉という食料袋を作らせた。

それまで兵士達はお互い食料を巡って争い、奪われて殺される者、奪って死罪になるものが多かった。
そこで信玄は(@とほぼ同内容)という袋を作らせ、陣吉と名付けた。

この陣吉に、長沢の弘法水で作った一夜作りの味噌と米を入れ、そのまま煮て食べさせるようにしたのである。
ふつうの味噌は一年くらい経たなければうまく食べられないものだが、一晩で食べられることから、日々の戦に
大そう都合が良く、この味噌さえあればほかに何もおかずはいらなかった。
この地方(高根町)では、この陣場味噌がなまって、じんだ味噌と呼んでいる(以下@とほぼ同内容のため後略)。
0804人間七七四年2012/02/08(水) 03:16:19.84ID:AgaVFJAt
ごめん、陣吉は信玄の名がつく語彙じゃなかった・・・・・。

あと、Aには、現在元々の陣吉は残っていないが、今でも野良弁当の袋をこう呼んでいるとありました。

それから余談ですが、甲斐郡内には戦国中期まで貨幣が流通しておらず(価値がないのではなく金属が
必要量存在していない)、石の矢尻を使い、物々交換のための荷駄を奪って口を糊していたそうです。

うーん、世紀末覇王伝説。
0805人間七七四年2012/02/08(水) 09:06:35.92ID:86taPy9a
何気に怖いグッズ揃いw
男塾だな武田家は
0806人間七七四年2012/02/08(水) 10:30:57.97ID:1MPYlyQt
突っ込みどころしかない・・・
0807人間七七四年2012/02/08(水) 10:56:55.42ID:cDmWnN4l
>>803
信玄餅はないのか?
0808人間七七四年2012/02/08(水) 11:10:30.14ID:6TljQzOf
>>805
男塾で武田信玄絡みだと「大鐘音」と「万人橋」だな。「万人橋」は敵方だけど。
0809人間七七四年2012/02/08(水) 11:10:48.86ID:EAXJm3od
ええ加減に恣意的の誤用は止めえや
つーか本来の意味知らんと使こうとるアホ多過ぎや
0810人間七七四年2012/02/08(水) 11:37:55.27ID:TAJigT+Q
>>809
解説してもらえればありがたい
0811人間七七四年2012/02/08(水) 12:17:42.71ID:cDmWnN4l
まだ書かれてないようなので。時専で風林火山再放送、諏訪頼重切腹の回、放送記念に。

諏訪家切腹の作法

諏訪頼重は妻の弟武田晴信に敗れ、甲斐の東光寺に幽閉。ついに切腹の時を迎えた。
神長官守矢氏の残した『守矢頼真書留』によると、

切腹に先立ちサケ、サカナを所望したところ、酒は持ってきたが肴はないと武田の家臣が応
えた。それに対して、頼重は「武田では切腹の作法を知らないと覚える。肴とは刀のこと。わ
れらほどの武士に腹を切らせることは、武田家では今までなかったのであろう。」 といって
作法通りに立派に切腹した。

とのことであった。これは、東勝寺で北条高時とその一門自害の際、得宗御内人だった諏訪
入道直性が「この後に続く人はこれを肴に」と自らの腹を切った刀を長崎円喜入道の前に置
いた故事(太平記)によったものであろう。
0812人間七七四年2012/02/08(水) 13:07:20.14ID:7sanaMZN

                    ,r'"´丿ヽ ̄`ヽ、
                 / ,r;:;:、 ⌒   ,ィ;:!
               /  ,イ;:;:;;:;::ゞ、 i ,r;:;:;:,、j
               _」 ,′'´r ェェ-、  j;:イェェ、l、        ΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛ
             / ゝ,イ j `ヽ`"´.::;;  ト、"´ ヾi     /                      ヽ
             ! ,イl〈〈    ,ィjハノ。 。,j、、,,.  l   < ワシが武田家総帥法性院信玄である!!!
                |  Y」 i; ,r'´r-、ニニニ = i! ,/    ヽ                     /
             !  ,'  / ,イ,ゞ-j!ーi!ーl-{ i! |      V^V^V^V^V^V^V^V^V^V^V^V^V´
               ,>,イ  ,!  i/       ,! il,!
            /.:.:/ i .,'  / -‐' "´ ̄ ̄``、ハヽ
           /.:.:/  | ,' /  ‐'´ ̄ ̄``ヽ `j ,!
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0813人間七七四年2012/02/08(水) 13:17:56.63ID:gEjj8zOj
>>812
戒名名乗ってバッカじゃね
0814人間七七四年2012/02/08(水) 13:20:37.98ID:7sanaMZN
>>813
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          _,l;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l,,_
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  ,r', 广'`ヽl:::l ::::. .::     ゙::.   l::l ノ^i`、         l ̄l ハヽヽ
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0815人間七七四年2012/02/08(水) 15:06:57.19ID:g3j7+yLu
>>810
しい‐てき【恣意的】

[形動]気ままで自分勝手なさま。
論理的な必然性がなく、思うままにふるまうさま。
「―な判断」「規則を―に運用する」

提供元:「デジタル大辞泉」

気ままなチョイス、という意味なら>>803の使い方は間違ってない
0816人間七七四年2012/02/08(水) 15:20:13.84ID:TAJigT+Q
>>815
どのように恣意的かどれが誤用で何が本来の姿なのかを聞きたいのだけど
山梨県民じゃないからさっぱりなので
0817sage2012/02/08(水) 15:55:21.49ID:+JUVUADs
鍋島直茂の甲冑観。

鎧は質実ならば簡素なものでよい。ただし兜は立派なものにせよ。
討死にすれば、首に添えられて敵の大将のお目に掛かるものだからな。

伝鍋島直茂所用の甲冑(佐賀祐徳稲荷博物館蔵)の兜は風格ある
銀箔押の六十二間小星兜で、たしかにその言にふさわしい。

でも、鎧(銀箔押碁石頭札白糸威二枚銅)もけっこうおしゃれなんだよな。
袖も銀箔押札を色々威した大袖だし。
0818人間七七四年2012/02/08(水) 18:01:52.95ID:/S/nxhT/
戦国時代までだな
戦場で個の美意識を表現出来たのは。
幕末にも先祖伝来の甲冑で参陣した武士もいたようだが、
時勢は洋式にあった
0819人間七七四年2012/02/08(水) 18:05:22.31ID:TAJigT+Q
もっと時代が下ればノーズアートとか出てくるけど
0820人間七七四年2012/02/08(水) 21:04:38.37ID:7T5LRf9p
明治期の士官の軍服は各自のオーダーメイドで、日露戦争後半でも好んで肋骨服を着ていたものもいる
0821人間七七四年2012/02/09(木) 00:23:03.96ID:1OB5edw3
二俣城の開城(長篠以降の方)の話が読みたくてwiki検索したけどなかったorz
依田信蕃ェ
0822人間七七四年2012/02/09(木) 02:15:16.63ID:xXCSSQS+
幕末の装備は難しいな。
甲冑は機動力を極端に落とすし、鉄砲には負ける。
けど、混戦や切り合いがないわけじゃない。
0823人間七七四年2012/02/09(木) 04:42:49.77ID:RQkSHSm+
>>811

浅利信在「武田家では戦場にて討ち取られる以外に死ぬなどは思いもよらぬことだったもので」
0824人間七七四年2012/02/09(木) 09:51:12.47ID:lEX13qG0
>>821
世間は武田の攻撃は有名なのに、徳川の逆襲には冷淡
長篠後の徳川大逆襲はそれなりに面白いのに
0825人間七七四年2012/02/09(木) 12:05:43.58ID:46z8qJoE
当面再起不能と思われてた勝頼がなんかあの軍みすぼらしくね?と笑われながらも
万の軍勢率いて徳川大逆襲をなんとか止める所まで含めて興味深い期間だな
0826人間七七四年2012/02/09(木) 12:22:52.86ID:BSGw/QGL
>>825
kwsk
0827人間七七四年2012/02/09(木) 13:51:14.97ID:vVozkXvT
上杉謙信が遠征先から甥の喜平次に宛てた手紙で
「お手紙ありがとう。戦勝祈願のお守りが届きとても嬉しく思っています。
こちらももうすぐ暇になりますので帰りましたらまたお話しましょう
追伸:かえすがえすもお手紙嬉しかったです。また字が上手になったようなので、お手本を送りますね」
というものがある。この時に送られた謙信直筆の習字のお手本も現代まで残っている。
美しく丁寧な字でいろはを書いてあり、子の無い謙信の甥への細やかな愛情が伺われる。
謙信に育てられた景勝も後年一人息子の定勝に御手製の習字練習帳を送っている。

ところで謙信の喜平次宛御手製お習字ドリルはこれ一回だけではなく、
現存してるだけでもひらがなカタカナに漢字ドリル(朱で手書きされた読み仮名付き)
書状の書き方講座に家臣達の宛名帳だのあり、
最初のお手本も第一次関東遠征の最中に書かれたものらしいが、案外暇だったのか
よなべしてドリル作ってる謙信を想像するとちょっと面白い。
0828人間七七四年2012/02/09(木) 13:59:18.86ID:/tKJ1ZfL
このスレで軍神様がおかん扱いなのは伊達ではないw
0829人間七七四年2012/02/09(木) 14:15:13.54ID:EfqxaWlW
景勝(それより後継ぎの指名を…)
0830人間七七四年2012/02/09(木) 14:33:52.36ID:TXmLzQSp
>>827
我らが将がこのような柔弱の将に負けるはずがない、正面突撃だ!と仰せです
皆の衆天あ・・・もとい大将の威光を信じて突撃じゃ!
0831人間七七四年2012/02/09(木) 14:43:37.39ID:Zid33v49
そんな謙信さんも軍記物を信じれば、DQN四天王も裸足で逃げ出す虐殺惨殺皆殺しマニア。
0832人間七七四年2012/02/09(木) 14:54:51.33ID:ilcNbu4v
まあ軍記だからね
0833人間七七四年2012/02/09(木) 15:55:20.28ID:46z8qJoE
>>826
勝頼は長篠後に若年や隠居や僧や農民でも戦える者は復帰参加して従軍しろと命令を出し
とりあえず軍を再建して遠江駿河救援戦に向かったのだが
武田軍が農民を連れてきてる、なんだかみすぼらしいと兵が噂してると
家忠日記に書かれちゃうくらいの姿だったらしい
しかしそれによって徳川反攻戦は高天神城と小山城-田中城防衛ラインで停滞し
当代記で手際のいい勝頼は侮れない将だとの評されたと。そんなかんじ
0834人間七七四年2012/02/09(木) 15:58:39.37ID:46z8qJoE
あの信長も秀吉ねねの夫婦喧嘩をやんわり仲裁したり乞食に優しかったりで
公私じゃ別の顔を見せるもの
0835人間七七四年2012/02/09(木) 16:08:23.56ID:sdN2f5HR
毛利元就も手紙だけ見てると
嫁大好き、息子可愛い、孫心配のマイホームじいちゃんだが、
実際やってることは、謀殺戦争大粛正だしなー。
0836人間七七四年2012/02/09(木) 16:24:34.29ID:ZjV+ohtj
手紙での虫けら扱いは文面通りにとると中途半端に嫌な爺だけどなw
0837人間七七四年2012/02/09(木) 18:43:07.74ID:7IzmYrqM
>>834
封建社会じゃあ親族・配下の面倒見がよくないとあっという間に分列フラグが立つからなぁ
0838人間七七四年2012/02/09(木) 20:05:05.69ID:e6hyZtGC
>>833
なるほど勝頼かっこいいね
それにしても農民をつれてきてるとか言われてるあたり武田軍は兵農分離した戦闘のプロだったんだろうな
織田厨また敗北
0839人間七七四年2012/02/09(木) 20:13:02.98ID:Zid33v49
>>838
この場合は軍装のことだよ。

だいたい兵農分離は現象に過ぎず、それで強いとか弱いとか、兵の動員に至るまで
何の関係もない。
0840人間七七四年2012/02/09(木) 20:14:46.38ID:46z8qJoE
兵農分離はあまり関係の無い話だが?
0841人間七七四年2012/02/09(木) 20:18:30.46ID:e6hyZtGC
兵農分離(笑)と本当は言いたかったんだけどあてつけに言ってやっただけw
農民は武具とか持ってないってことだろ つまりそれまでは戦闘のプロだったから武具が揃ってたと
0842人間七七四年2012/02/09(木) 20:21:24.58ID:Oaf9NwIT
そういう変な争い持ち込むなよ
0843人間七七四年2012/02/09(木) 20:43:22.02ID:YXx3abdC
単に敗戦後すぐで何とか軍としての体裁整えるのが精一杯で、武具やら整える暇なくてボロかったのを揶揄されただけだろうに。
つーか農民=武器持ってないってなんだそりゃ〜
0844人間七七四年2012/02/09(木) 20:54:10.60ID:06GbpPgE
武装がショボイから農民連れてきてるって侮ってるだろ
0845人間七七四年2012/02/09(木) 20:56:02.51ID:BSGw/QGL
そりゃ武田軍の武威も落ちるわな
末端の兵士にみすぼらしいと馬鹿にされるようじゃ
立て直せないうちに滅亡か
0846人間七七四年2012/02/09(木) 20:57:48.39ID:06GbpPgE
まあ武装だけそろっても弱兵は弱兵
基本農民は最強だけどな
0847人間七七四年2012/02/09(木) 21:12:04.79ID:AZZWS2y2
戦国最強は首切り茂吉と言う農民だったらしい。
17歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と 怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
0848人間七七四年2012/02/09(木) 21:13:32.21ID:06GbpPgE
蹴り倒される信長(笑)
0849人間七七四年2012/02/09(木) 21:16:08.74ID:zTl/CmhY
しかし首切り茂吉のコピペって有名な割に、
まとめスレ見たら茂吉の話がまだ載ってないような気がする
0850人間七七四年2012/02/09(木) 21:17:18.46ID:Oaf9NwIT
よその争い持ち込むバカは居るわ、2ch内のネタスレで作られたネタ持ち込むバカは居るわ……
0851人間七七四年2012/02/09(木) 21:18:26.45ID:Qr7bo9BN
槍相手に鎌で激戦とか人間じゃねーな……
0852人間七七四年2012/02/09(木) 21:19:54.31ID:zTl/CmhY
あ、2ちゃんねるで作られたネタだったのか
さすがにオーバーすぎるけど、元ネタがあると思ってた
0853人間七七四年2012/02/09(木) 21:23:55.18ID:ro6Nu5fs
あるだろ 伊勢長島で半裸で餓死寸前の非武装農民相手に織田軍壊滅とか
0854人間七七四年2012/02/09(木) 21:34:47.54ID:CQCdKDTP
そろそろ春休み突入した大学が多いだろうから、バカが大量に湧いてきても、
まあしょうがないかと。
0855人間七七四年2012/02/09(木) 22:05:34.63ID:9aBbVzZW
首狩り茂吉のコピペはネタとして好きなんだけど言葉遣いが戦国期の農民ぽければと思う
まあ、このスレでそう言うのは不粋かもしれんけど
0856人間七七四年2012/02/09(木) 23:10:41.76ID:zPiE/uGq
天正19年(1591)2月、千利休が豊臣秀吉の怒りに触れ切腹した。死地に赴く利休を細川忠興と古田織部のみが
見送り、秀吉の勘気を恐れず師を見送った二人は、数寄者として大いに名を上げた。

同じく利休の弟子であった蒲生氏郷は、二人に後れを取ったことを、深く後悔した。
そこで氏郷は、利休の養子・千少庵をかくまい、徳川家康・前田利家等、有力者に千家赦免を願い出た。
(早く、早くお許しをいただかねば・・・)

懸命の嘆願が実り、ついに文禄3年(1594)千家再興の許しが出され、秀吉が没収していた利休の家財・茶道具が
少庵に返還された時、氏郷は病の床に着いていた。

文禄3年2月、氏郷重体の報を聞いた少庵は、ただちに伏見蒲生屋敷に駆けつけた。
死相の濃く現れた氏郷を、あえて少庵は激励した。

「ま、まだご回復半ばと見えまするな。貴方様は、まだ若い上に文武両道たる事、日の本に一、二の将におわし、
皆々大切に思っております。失礼ながら、ご養生がおろそかと見えますぞ?ご油断無きよう。」

氏郷はこれに答えず、一首の和歌を少庵に示した。

“限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風”
(花は、いつかは散るものを、この氏郷という『華』を散らさんと、春の山風が吹き付けて来よるわ。
運命とは、気の短いものよ。)

「・・・殊勝なお心掛け。」
氏郷の『辞世』を見た少庵は、思わず落涙し、「さ、されど」その上で涙を押さえ、返歌をしたためた。

“降ると見ば 積らぬ先に 払えかし 雪には折れぬ 青柳の枝”
(貴方様は、散り行く花などでは無く、積る雪にも折れずにしなり、ついには払う青柳にございます!
しっかりなされませ!)

返歌で氏郷を叱咤して、少庵は蒲生屋敷を後にした。(長夜茶話他より)


少庵の激励も空しく2月7日、蒲生氏郷は世を去った。享年40。
少庵の孫・江岑宗左の言行録『江岑夏書』において、蒲生氏郷の名は『利休七哲』の筆頭として書かれている。
0857人間七七四年2012/02/09(木) 23:12:21.35ID:wQ/wxWSe
>>853
いやいや、一向衆徒武装してるだろw
本願寺も雑賀衆も金あるし
0858人間七七四年2012/02/09(木) 23:20:08.20ID:Vh8nGdb6
>>857
降伏開城した後だから武装解除されてるかな
0859人間七七四年2012/02/09(木) 23:32:59.50ID:CIsAQyup
開城退去は武器は持ったままだろ。武器は私物だし。
武装解除は近代以降の概念
0860人間七七四年2012/02/10(金) 00:28:26.09ID:h92ZWXCD
>>856
氏郷の辞世の句はこの時代の武将のものとしては屈指のものだと思うけど、
これに対する返歌があったんだなあ。
0861人間七七四年2012/02/10(金) 00:56:32.02ID:xO0XYn2s
少弐政資の辞世が好き

花ぞ散る 思えば風のとがならず
時至りぬる 春の夕暮れ

花の散り様にもいろんな捉え方がある
0862人間七七四年2012/02/10(金) 01:14:25.83ID:N/8HrRSC
確かにいい句だな・・・さわやかだよ
0863人間七七四年2012/02/10(金) 11:06:30.08ID:did6RLua
少弐は戦死の家系だよなあ
0864人間七七四年2012/02/10(金) 20:07:57.08ID:xO0XYn2s
少弐家は戦になれば当主が魁するような家風だったんだろう。
そうとしか思えない当主の戦死率。
爽やかなまでに無常を受け入れる辞世と言い、
鎌倉以来の武家の名門の武士的な上品さがある
0865人間七七四年2012/02/10(金) 20:34:56.44ID:WTZ3zLJg
ライバルの菊池が勤皇の誉れ高いぶんその割を食らった評価受けてきた感じ
菊池が没落した後に台頭してきたライバルが大内というのもまた
0866人間七七四年2012/02/10(金) 21:29:41.09ID:415rCOFC
少弐家当主「私が死んでも代わりはいるもの」
0867人間七七四年2012/02/10(金) 21:32:16.18ID:U17yYi2S
まあ少弐氏の場合、当主古人云々よりその官位である大宰少弐の方が
本質だった節は確かにあるw
0868人間七七四年2012/02/11(土) 01:31:42.04ID:Q8NC4alX
>>867
だからこそ大内義隆は上官の大宰大弐への任官を望んだわけだw
0869人間七七四年2012/02/11(土) 04:42:23.16ID:IhwJQFzD
>少庵の孫・江岑宗左の言行録『江岑夏書』において、蒲生氏郷の名は『利休七哲』の筆頭として書かれている。
逆にゲヒ殿は七哲の中で底辺扱いされたり
下手すると金森長近(こちらは長子の道安を匿った)あたりと入れ替えられてたりで
千家の後嗣からはあんまり好かれて無いっぽいね
利休の気概を一番濃く受け継いだのは織部だと思うんだけどねえ
0870人間七七四年2012/02/11(土) 07:32:15.79ID:wEhKoqhj
>>869
そういう位置だからこそあれだけはっちゃけられたのかも知れんよ。
0871人間七七四年2012/02/11(土) 07:40:21.05ID:dIJ7p0EA
蒲生氏郷は肉体は衰えても志は健在だったんだろうな
オレの今の心境は少弐政資に同感する・・・
0872人間七七四年2012/02/11(土) 07:47:44.65ID:wEhKoqhj
>>861
そういや「死にともな」のオリジナルって結局誰のどれなんだろうか。
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