戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0761人間七七四年
2012/02/05(日) 20:51:30.46ID:Kde3qX/o無頼者と名君、両方のイメージあるし
0762人間七七四年
2012/02/05(日) 20:56:20.41ID:LDCtRY8Sくらいの勢いだったのかな?
0763人間七七四年
2012/02/05(日) 22:02:27.03ID:0zdz7MT7当時の勝成は3万石程度の小大名でいきなり
大和口の総大将を任命されたからな。
後藤又兵衛や真田幸村といった豊臣方の主力相手に
自分より格上の伊達政宗や松平忠輝といった
ひとくせもふたくせもある連中を率いらなければならないという
プレッシャー(いくらあの勝成でもあっただろう)で一杯だった。
そういう時の景気付けの酒宴だから勝成も相当気合が入っていただろう。
だからこそ河村新八郎の首取り宣言は勝成にとっては相当うれしかったのだろう。
たとえハッタリでもいいから場を盛り上げたかっただろう。
それに応えた河村新八郎もすごいけど
0764人間七七四年
2012/02/05(日) 23:16:11.41ID:fQ6Vj62c0765人間七七四年
2012/02/06(月) 02:01:53.17ID:BvjymRen0766人間七七四年
2012/02/06(月) 03:09:55.39ID:896oDCxg細川越中守忠興は、武具の研究に最も熱心な武将であった。
時には自ら手を下して作ったこともあるといい、
勇ましさ、美しさを兜に表現する名人であったらしい。
当時は兜を作る際、多くの大名が忠興に教えを乞うた。
忠興は参勤交代時にいつも京都に滞在し、
大納言烏丸光広を訪問しているのだが、
ある時その烏丸家に、近国大名の使者が忠興を追ってきた。
「越中守様のご指示どおりの兜を作りたい」とその使者は言う。
そこで忠興は注意事項を詳しく書き添えて、使者に与えた。
すると使者は内容を一読すると、小癪にも
「立物の下木は桐の木を、というのは間違いでは?
桐の木は折れ易いものです。」と問いただした。
忠興はたちまち顔面を紅潮させ、激怒した。
「汝は弓取りの使いとも思えぬ!
戦いに挑んで誰が生きて帰ろうと思う。
なぜ桐の立物を厭う。軽いほうが動きやすいのだ。
立物の折れるほど働いてこそ、武士の誉れぞ!」
使者は返す言葉がなかったという。
0767人間七七四年
2012/02/06(月) 03:47:49.44ID:Otl5hA4/武田家に仕えた浅利信在は、家中に置いて比類なき剛の者であった。
信在は常々、「自分が討ち死にするなど思いもよらぬことだ」と言っていた。
どんな状況に陥っても「(ここで死ぬなどは)思いもよらぬことだ」と言って
平然としていたので、郎党足軽に至るまで浮き足立つことを知らなかった。
ところがある時、信在は病に倒れ、あっというまに死去した。
慌てて葬儀に駆けつけた同僚達は、
「討ち死にすら思いもよらぬ方だったのに、まして急に病死なさるなど思いもよらぬことだ」
と言って、その武勇を偲び泣いたということである。
以上、武田家の陸戦モンスターの思いもよらぬ死でした。
それにしても武田家、比類ない剛の者が累々といすぎである。
0768人間七七四年
2012/02/06(月) 05:15:29.77ID:Otl5hA4/永正(信縄〜信虎期)のころ、甲斐郡内の地侍達は離合集散を繰り返していた。
それが余りに激しくなったので、互いに誰が敵か味方かも分からなくなり、
道を行くのにも贈答を交わすのにも難儀するようになってしまった。
そこで浅間社に季節の供物を納めた時に置く立物に、細い吹き流しをつけるようになった。
この色と立物の置かれた場所を見ることで、国内外の外交関係が一目瞭然になった。
いまでも浅間神社ではこの習慣があり、寺社・商家・部落・馬借等の関係が見て取れるという。
(日国記)
0769人間七七四年
2012/02/06(月) 05:18:51.45ID:N+VT5Uzh>互いに誰が敵か味方かも分からなくなり、
>道を行くのにも贈答を交わすのにも難儀するようになってしまった。
って、どんだけ世紀末救世主伝説な世界なんだよ
甲斐の国、恐ろしすぎる
0770人間七七四年
2012/02/06(月) 08:29:55.90ID:mALZKV4h北条、今川、武田のどの勢力の影響下かに加えて、地元勢力の小山田、加藤のどれに属するか、全く属しないか、武田でも、信縄・信恵派か信虎派があって…グチャグチャ。
0771人間七七四年
2012/02/06(月) 09:16:13.26ID:MTaC9/Z7>>766の別バージョン
こっちでは忠興の家臣ってことになってるな
0773人間七七四年
2012/02/06(月) 18:28:20.07ID:GxVBBIF5普通の武士ならテンション上がらない
・・・勝成は別として
0774人間七七四年
2012/02/06(月) 19:53:02.91ID:CsLik4wO家康が先峰はどうしても先峰は譜代じゃないといけないと勝成を説き伏せて先峰を任命した。
その時の条件が兵士の生余奪権と成功した際に十万石以上の所領だった。
0775人間七七四年
2012/02/06(月) 19:59:08.25ID:vou0y3iK0776人間七七四年
2012/02/06(月) 20:05:09.34ID:WFrRyY/Uそう言う流れなら勝成の家臣への無茶振りも解らんではないな
兎に角勢い付けたかったんだろ
0777人間七七四年
2012/02/06(月) 20:29:02.10ID:iodz87Hlむしろ酒の勢いも相まって「じゃあ俺が穫ってくるからそこで震えて見てろ!」ってなりかねんのじゃないか
0778人間七七四年
2012/02/06(月) 21:41:43.27ID:CsLik4wO家康の死後、約束通り勝成の縁の土地である備後福山十万石が与えられた。
0780人間七七四年
2012/02/06(月) 22:17:13.05ID:WYFK1w6+水野関係の本だと、水野が総大将っている
実際、松平忠輝は戦線参加してないし
水野が指示で戦ったことは、いろいろな逸話からわかる
0782人間七七四年
2012/02/06(月) 22:34:45.71ID:WYFK1w6+水野関係の本だと、勝成が大和口総大将と書かれている
実際、松平忠輝は戦線参加してないし
水野の指示で戦ったことは、いろいろな逸話からわかる
ちなみに俺が読んだ本は、
「福山物語 開祖水野勝成一代記」「福山開祖・水野勝成」
残念ながら>>759の逸話は書かれてなかったように思うが、
河村新八郎は大垣城攻めのときにも活躍しているようだから、
このころは若くなかったように思う
0784人間七七四年
2012/02/06(月) 23:01:06.99ID:U6OVXIbG家康が天下を握った後には、恩賞として主君の伊達政宗と共に片倉景綱は江戸に屋敷を与えられた。しかし景綱は
一度それを受け取った後、
「この屋敷は政宗にお与えください。」
と返上し、代わりに豊臣秀吉に認められていた「道中活火縄勝手」を家康にも願い出て許可されたという。
また、1615年に江戸幕府が制定した「一国一城令」により、一つの藩に城は原則一つと定めた後も、仙台藩は政宗の
居城である仙台城の他に、景綱の白石城が例外的に存続を許されたという。 家康に二つの特権を認められた景綱の逸話である。
0786人間七七四年
2012/02/07(火) 00:28:36.01ID:q+Nci7QK0787人間七七四年
2012/02/07(火) 00:31:18.07ID:zB43rPZ/0789人間七七四年
2012/02/07(火) 11:28:30.50ID:GqgXgo7T参勤交代の大名行列の時でも伊達家のは火縄に火を付けたまま歩いていたそうな。
まあ、二本松の辺りを通る時だけ、らしいけどさ。
・・・この話でいいのかな?
0790人間七七四年
2012/02/07(火) 12:17:13.07ID:fRk4l5Wxヒョエーさん的に…。
0791人間七七四年
2012/02/07(火) 12:44:56.49ID:v01JPR8f0792人間七七四年
2012/02/07(火) 16:21:43.63ID:AAj5Iw8Fむしろ武田より跡部、穴山、栗原らの国人のほうが
力が強いくらいの時代だな。
西関東には、上杉配下の小大名も一杯だしカオス。
0793人間七七四年
2012/02/07(火) 16:45:17.92ID:lPunP/p5遅レスかもしれないけど
甲冑研究の第一人者である笹間良彦先生曰く
越中具足(三斎様が考案した鎧)は合理的であるが外見が地味なため広く流行せず
肥後細川家にしか使われなかったとのこと
0794人間七七四年
2012/02/07(火) 17:16:06.31ID:39eNQ2ur細川藩士A:おいおい、こんな地味なの使わなきゃいけないのかよ・・・・
細川藩士B:殿の考案だから仕方ないだろ・・・・
細川藩士A:俺らももっと朱色で派手な鎧着て戦場駆け回りたいぜ。そう思わないか?
細川藩士B:まあなあ・・・
三斎様:貴様らの望み通り鎧を紅に染めてくれるわ!また歌仙を増やしてしまったわ・・・・
と
0795人間七七四年
2012/02/07(火) 17:24:33.56ID:CCFqtkxD細川越中守重賢(しげかた)の考案になる実用的な具足。
とあるが・・・
0796人間七七四年
2012/02/07(火) 19:04:43.52ID:lPunP/p5けど三斎流とも言われるから実際はどうなんだろうね
因みに鎧の各部分にも名称が付けられている
越中頭形:頭形型の鉢形式の一つで天板の伏板前方が眉庇の上に重なり、眉庇下端は水平になっている
越中ジゴロ:裾広の広がり率は少なく肩摺板は直線で、縁を韋覆輪とする実用的シコロ
越中篭手:小篠を並べ、所々に鎖繋ぎした篭手で最小限の防護で腕の動きには優れている
越中袖隠し:当世袖の小鰭で当世袖を短縮したごときの大きさの袖
越中佩楯:小篠を並べ、所々に鎖繋ぎした佩楯で最小限の防護をした佩楯
越中脛当:篠濡当を所々に繋ぎ、家地も立挙げもない
越中頬:顎と頬の下半分ぐらいを覆ったナマコ形の頬当
越中脇引:筏金を鎖地に散らした脇引
0797人間七七四年
2012/02/07(火) 19:09:19.82ID:cIaYpOXq0798人間七七四年
2012/02/07(火) 19:25:46.92ID:q+ExRxP40799人間七七四年
2012/02/07(火) 19:52:36.57ID:CCFqtkxD0801人間七七四年
2012/02/07(火) 22:27:00.34ID:dkobOKig戦国時代が終わってなかったら逆に鎧その物が終わる流れになるだろう
0802人間七七四年
2012/02/08(水) 01:47:40.78ID:R2Ig7J2/0803人間七七四年
2012/02/08(水) 03:04:06.59ID:AgaVFJAt今に残る「信玄」のつく語彙から、往事の武田家を偲ぼう(かなり恣意的なチョイスです)。
信玄グッズ1
「信玄足(しんげんあし)」
田圃仕事の時に履く、足が沈まないようにするための大きな履き物。
要は田下駄のこと。
むかし信玄の頃、先陣を切った武士が泥田に足を取られ転倒した。
武士は軍令に従って見捨てられ、足場にされて踏み殺されてしまった。
用心下駄・安気足・信玄草履などとも言うが、いまでは信玄足というのが普通である。
信玄グッズ2
「信玄袋(しんげんぶくろ)」
ある時信玄と武将達が弓比べに興じていた。
ところが番の者が余りに遠くに的をやりすぎたので、誰の弓も届かなくなってしまった。
その時なにがしという小者が、「私ならこう致します」といって一目散に的に走っていくと、
番をしていた者の首を刎ね飛ばし、その袴に包んでて持ってきた。人々はなるほどと感心した。
この時、番士の首を包んだ袴が便利だったので、別に信玄袋といって作るようになったという。
陣吉(じんよし?じんきち?)
@今から六十年も前まで、(中略)山人たちが草刈りに出る時は、メンパという気で作った楕円形の
弁当箱に、蓋の方を熱い飯を一ぱいつめて、それを陣吉という袋に入れ、馬の背に付けて行った。
陣吉は麻のさらし布で作って、両方に口を付け麻の縄紐をつけた。背負うにも馬につけるにも大そう
都合良く出来ている。
この陣吉は武田信玄が考え出した者で、戦いに行く時や戦いの場で、たくさんの兵士達の弁当を作る
時に使った。まず陣吉に米を入れ、大きな釜へ袋のままに入れて煮、すぐ戦場へ背負って出かけたのだった。
その後、戦いが無くなって、袋のまま煮る必要もなくなり、麻から紺野木綿布となり、両口袋も片口に
変わってきて、今では本当の陣吉は見られなくなってしまった。
A
武田信玄は信州を攻める時、兵士の食料袋として陣吉という食料袋を作らせた。
それまで兵士達はお互い食料を巡って争い、奪われて殺される者、奪って死罪になるものが多かった。
そこで信玄は(@とほぼ同内容)という袋を作らせ、陣吉と名付けた。
この陣吉に、長沢の弘法水で作った一夜作りの味噌と米を入れ、そのまま煮て食べさせるようにしたのである。
ふつうの味噌は一年くらい経たなければうまく食べられないものだが、一晩で食べられることから、日々の戦に
大そう都合が良く、この味噌さえあればほかに何もおかずはいらなかった。
この地方(高根町)では、この陣場味噌がなまって、じんだ味噌と呼んでいる(以下@とほぼ同内容のため後略)。
0804人間七七四年
2012/02/08(水) 03:16:19.84ID:AgaVFJAtあと、Aには、現在元々の陣吉は残っていないが、今でも野良弁当の袋をこう呼んでいるとありました。
それから余談ですが、甲斐郡内には戦国中期まで貨幣が流通しておらず(価値がないのではなく金属が
必要量存在していない)、石の矢尻を使い、物々交換のための荷駄を奪って口を糊していたそうです。
うーん、世紀末覇王伝説。
0805人間七七四年
2012/02/08(水) 09:06:35.92ID:86taPy9a男塾だな武田家は
0806人間七七四年
2012/02/08(水) 10:30:57.97ID:1MPYlyQt0809人間七七四年
2012/02/08(水) 11:10:48.86ID:EAXJm3odつーか本来の意味知らんと使こうとるアホ多過ぎや
0811人間七七四年
2012/02/08(水) 12:17:42.71ID:cDmWnN4l諏訪家切腹の作法
諏訪頼重は妻の弟武田晴信に敗れ、甲斐の東光寺に幽閉。ついに切腹の時を迎えた。
神長官守矢氏の残した『守矢頼真書留』によると、
切腹に先立ちサケ、サカナを所望したところ、酒は持ってきたが肴はないと武田の家臣が応
えた。それに対して、頼重は「武田では切腹の作法を知らないと覚える。肴とは刀のこと。わ
れらほどの武士に腹を切らせることは、武田家では今までなかったのであろう。」 といって
作法通りに立派に切腹した。
とのことであった。これは、東勝寺で北条高時とその一門自害の際、得宗御内人だった諏訪
入道直性が「この後に続く人はこれを肴に」と自らの腹を切った刀を長崎円喜入道の前に置
いた故事(太平記)によったものであろう。
0812人間七七四年
2012/02/08(水) 13:07:20.14ID:7sanaMZN,r'"´丿ヽ ̄`ヽ、
/ ,r;:;:、 ⌒ ,ィ;:!
/ ,イ;:;:;;:;::ゞ、 i ,r;:;:;:,、j
_」 ,′'´r ェェ-、 j;:イェェ、l、 ΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛΛ
/ ゝ,イ j `ヽ`"´.::;; ト、"´ ヾi / ヽ
! ,イl〈〈 ,ィjハノ。 。,j、、,,. l < ワシが武田家総帥法性院信玄である!!!
| Y」 i; ,r'´r-、ニニニ = i! ,/ ヽ /
! ,' / ,イ,ゞ-j!ーi!ーl-{ i! | V^V^V^V^V^V^V^V^V^V^V^V^V´
,>,イ ,! i/ ,! il,!
/.:.:/ i .,' / -‐' "´ ̄ ̄``、ハヽ
/.:.:/ | ,' / ‐'´ ̄ ̄``ヽ `j ,!
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0814人間七七四年
2012/02/08(水) 13:20:37.98ID:7sanaMZN_,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,_
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0815人間七七四年
2012/02/08(水) 15:06:57.19ID:g3j7+yLuしい‐てき【恣意的】
[形動]気ままで自分勝手なさま。
論理的な必然性がなく、思うままにふるまうさま。
「―な判断」「規則を―に運用する」
提供元:「デジタル大辞泉」
気ままなチョイス、という意味なら>>803の使い方は間違ってない
0816人間七七四年
2012/02/08(水) 15:20:13.84ID:TAJigT+Qどのように恣意的かどれが誤用で何が本来の姿なのかを聞きたいのだけど
山梨県民じゃないからさっぱりなので
0817sage
2012/02/08(水) 15:55:21.49ID:+JUVUADs鎧は質実ならば簡素なものでよい。ただし兜は立派なものにせよ。
討死にすれば、首に添えられて敵の大将のお目に掛かるものだからな。
伝鍋島直茂所用の甲冑(佐賀祐徳稲荷博物館蔵)の兜は風格ある
銀箔押の六十二間小星兜で、たしかにその言にふさわしい。
でも、鎧(銀箔押碁石頭札白糸威二枚銅)もけっこうおしゃれなんだよな。
袖も銀箔押札を色々威した大袖だし。
0818人間七七四年
2012/02/08(水) 18:01:52.95ID:/S/nxhT/戦場で個の美意識を表現出来たのは。
幕末にも先祖伝来の甲冑で参陣した武士もいたようだが、
時勢は洋式にあった
0819人間七七四年
2012/02/08(水) 18:05:22.31ID:TAJigT+Q0820人間七七四年
2012/02/08(水) 21:04:38.37ID:7T5LRf9p0821人間七七四年
2012/02/09(木) 00:23:03.96ID:1OB5edw3依田信蕃ェ
0822人間七七四年
2012/02/09(木) 02:15:16.63ID:xXCSSQS+甲冑は機動力を極端に落とすし、鉄砲には負ける。
けど、混戦や切り合いがないわけじゃない。
0825人間七七四年
2012/02/09(木) 12:05:43.58ID:46z8qJoE万の軍勢率いて徳川大逆襲をなんとか止める所まで含めて興味深い期間だな
0827人間七七四年
2012/02/09(木) 13:51:14.97ID:vVozkXvT「お手紙ありがとう。戦勝祈願のお守りが届きとても嬉しく思っています。
こちらももうすぐ暇になりますので帰りましたらまたお話しましょう
追伸:かえすがえすもお手紙嬉しかったです。また字が上手になったようなので、お手本を送りますね」
というものがある。この時に送られた謙信直筆の習字のお手本も現代まで残っている。
美しく丁寧な字でいろはを書いてあり、子の無い謙信の甥への細やかな愛情が伺われる。
謙信に育てられた景勝も後年一人息子の定勝に御手製の習字練習帳を送っている。
ところで謙信の喜平次宛御手製お習字ドリルはこれ一回だけではなく、
現存してるだけでもひらがなカタカナに漢字ドリル(朱で手書きされた読み仮名付き)
書状の書き方講座に家臣達の宛名帳だのあり、
最初のお手本も第一次関東遠征の最中に書かれたものらしいが、案外暇だったのか
よなべしてドリル作ってる謙信を想像するとちょっと面白い。
0828人間七七四年
2012/02/09(木) 13:59:18.86ID:/tKJ1ZfL0829人間七七四年
2012/02/09(木) 14:15:13.54ID:EfqxaWlW0830人間七七四年
2012/02/09(木) 14:33:52.36ID:TXmLzQSp我らが将がこのような柔弱の将に負けるはずがない、正面突撃だ!と仰せです
皆の衆天あ・・・もとい大将の威光を信じて突撃じゃ!
0831人間七七四年
2012/02/09(木) 14:43:37.39ID:Zid33v490832人間七七四年
2012/02/09(木) 14:54:51.33ID:ilcNbu4v0833人間七七四年
2012/02/09(木) 15:55:20.28ID:46z8qJoE勝頼は長篠後に若年や隠居や僧や農民でも戦える者は復帰参加して従軍しろと命令を出し
とりあえず軍を再建して遠江駿河救援戦に向かったのだが
武田軍が農民を連れてきてる、なんだかみすぼらしいと兵が噂してると
家忠日記に書かれちゃうくらいの姿だったらしい
しかしそれによって徳川反攻戦は高天神城と小山城-田中城防衛ラインで停滞し
当代記で手際のいい勝頼は侮れない将だとの評されたと。そんなかんじ
0834人間七七四年
2012/02/09(木) 15:58:39.37ID:46z8qJoE公私じゃ別の顔を見せるもの
0835人間七七四年
2012/02/09(木) 16:08:23.56ID:sdN2f5HR嫁大好き、息子可愛い、孫心配のマイホームじいちゃんだが、
実際やってることは、謀殺戦争大粛正だしなー。
0836人間七七四年
2012/02/09(木) 16:24:34.29ID:ZjV+ohtj0838人間七七四年
2012/02/09(木) 20:05:05.69ID:e6hyZtGCなるほど勝頼かっこいいね
それにしても農民をつれてきてるとか言われてるあたり武田軍は兵農分離した戦闘のプロだったんだろうな
織田厨また敗北
0839人間七七四年
2012/02/09(木) 20:13:02.98ID:Zid33v49この場合は軍装のことだよ。
だいたい兵農分離は現象に過ぎず、それで強いとか弱いとか、兵の動員に至るまで
何の関係もない。
0840人間七七四年
2012/02/09(木) 20:14:46.38ID:46z8qJoE0841人間七七四年
2012/02/09(木) 20:18:30.46ID:e6hyZtGC農民は武具とか持ってないってことだろ つまりそれまでは戦闘のプロだったから武具が揃ってたと
0842人間七七四年
2012/02/09(木) 20:21:24.58ID:Oaf9NwIT0843人間七七四年
2012/02/09(木) 20:43:22.02ID:YXx3abdCつーか農民=武器持ってないってなんだそりゃ〜
0844人間七七四年
2012/02/09(木) 20:54:10.60ID:06GbpPgE0845人間七七四年
2012/02/09(木) 20:56:02.51ID:BSGw/QGL末端の兵士にみすぼらしいと馬鹿にされるようじゃ
立て直せないうちに滅亡か
0846人間七七四年
2012/02/09(木) 20:57:48.39ID:06GbpPgE基本農民は最強だけどな
0847人間七七四年
2012/02/09(木) 21:12:04.79ID:AZZWS2y217歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と 怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
0848人間七七四年
2012/02/09(木) 21:13:32.21ID:06GbpPgE0849人間七七四年
2012/02/09(木) 21:16:08.74ID:zTl/CmhYまとめスレ見たら茂吉の話がまだ載ってないような気がする
0850人間七七四年
2012/02/09(木) 21:17:18.46ID:Oaf9NwIT0851人間七七四年
2012/02/09(木) 21:18:26.45ID:Qr7bo9BN0852人間七七四年
2012/02/09(木) 21:19:54.31ID:zTl/CmhYさすがにオーバーすぎるけど、元ネタがあると思ってた
0853人間七七四年
2012/02/09(木) 21:23:55.18ID:ro6Nu5fs0854人間七七四年
2012/02/09(木) 21:34:47.54ID:CQCdKDTPまあしょうがないかと。
0855人間七七四年
2012/02/09(木) 22:05:34.63ID:9aBbVzZWまあ、このスレでそう言うのは不粋かもしれんけど
0856人間七七四年
2012/02/09(木) 23:10:41.76ID:zPiE/uGq見送り、秀吉の勘気を恐れず師を見送った二人は、数寄者として大いに名を上げた。
同じく利休の弟子であった蒲生氏郷は、二人に後れを取ったことを、深く後悔した。
そこで氏郷は、利休の養子・千少庵をかくまい、徳川家康・前田利家等、有力者に千家赦免を願い出た。
(早く、早くお許しをいただかねば・・・)
懸命の嘆願が実り、ついに文禄3年(1594)千家再興の許しが出され、秀吉が没収していた利休の家財・茶道具が
少庵に返還された時、氏郷は病の床に着いていた。
文禄3年2月、氏郷重体の報を聞いた少庵は、ただちに伏見蒲生屋敷に駆けつけた。
死相の濃く現れた氏郷を、あえて少庵は激励した。
「ま、まだご回復半ばと見えまするな。貴方様は、まだ若い上に文武両道たる事、日の本に一、二の将におわし、
皆々大切に思っております。失礼ながら、ご養生がおろそかと見えますぞ?ご油断無きよう。」
氏郷はこれに答えず、一首の和歌を少庵に示した。
“限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風”
(花は、いつかは散るものを、この氏郷という『華』を散らさんと、春の山風が吹き付けて来よるわ。
運命とは、気の短いものよ。)
「・・・殊勝なお心掛け。」
氏郷の『辞世』を見た少庵は、思わず落涙し、「さ、されど」その上で涙を押さえ、返歌をしたためた。
“降ると見ば 積らぬ先に 払えかし 雪には折れぬ 青柳の枝”
(貴方様は、散り行く花などでは無く、積る雪にも折れずにしなり、ついには払う青柳にございます!
しっかりなされませ!)
返歌で氏郷を叱咤して、少庵は蒲生屋敷を後にした。(長夜茶話他より)
少庵の激励も空しく2月7日、蒲生氏郷は世を去った。享年40。
少庵の孫・江岑宗左の言行録『江岑夏書』において、蒲生氏郷の名は『利休七哲』の筆頭として書かれている。
0857人間七七四年
2012/02/09(木) 23:12:21.35ID:wQ/wxWSeいやいや、一向衆徒武装してるだろw
本願寺も雑賀衆も金あるし
0859人間七七四年
2012/02/09(木) 23:32:59.50ID:CIsAQyup武装解除は近代以降の概念
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