戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっといい話29
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戦国ちょっと悪い話29
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0738人間七七四年
2012/02/04(土) 10:52:36.89ID:itxgZTSB知られるが、元は近江浅井氏に仕えた武家の出である。親友であった斎藤
利三が主君・明智光秀とともに本能寺の変を起こして敗れ、謀反人として
本能寺跡に晒されたことを知ると、その夜に遺骸を持ち去り手厚く葬った。
梟首台の衛兵を槍を振るって襲ったとも、東陽坊長盛という仲間の僧侶が
読経で気を逸らしたとも言われる(両方かも知れない)。奪われた方には
たまったものではないが、羽柴勢が制圧した洛中でやらかすには襲う方も
命懸けである。更に福(後の春日局)ら利三の遺児を匿ったとも伝わる。
長盛が住職を務めた京都の真正極楽寺には長盛と友松夫婦、利三の墓が
仲良く並んでいる。
教科書では長谷川等伯や狩野永徳と同じ文化人としてしか紹介されないが、
画業に専念する前の恐らく最後の武勇伝である。
0739人間七七四年
2012/02/04(土) 11:00:18.62ID:GDxTLFHmあとホントかどうか知らんけど親父さんが秀吉に尊敬されてたってのも理由の一つかね?
0740人間七七四年
2012/02/04(土) 14:00:52.01ID:Kny0XdF+0741人間七七四年
2012/02/04(土) 17:39:46.53ID:WNZu97OLおそらく天狗のせいにされたんだろう
0742人間七七四年
2012/02/04(土) 17:56:12.44ID:HN975UnA(゚Д。)
~~~~~~
0743人間七七四年
2012/02/04(土) 20:03:23.32ID:AC264RHe山本常朝
『勝茂公が話されたことだ。
「朝鮮での戦で加藤嘉明が敵船を乗っ取ったときには、
鎧に簑の毛の如く矢が刺さりながらも、
敵船に乗り降り、ものにして武功を立てられた。
以前、太閤様のお供で吉野で花見に行ったのだが、
花よりもなにも、あのときの加藤嘉明の武者ぶりは美しかった。」
と仰せられたとのことだ。
続けて、
「加藤嘉明は、上方におられたとく、
西方の立花勢を攻撃せよとの命をうけ、
戦いが終わり御挨拶に登城したとき、
ちょうど井伊直政が将軍様のお目見えを司どっていたが、
関ヶ原で肩先に手傷をうけられたのを、
白い布で結び付けて首にかけ、
片手をつきながらの礼儀作法、
その姿、気迫、すべて見事なもので、
とても言葉では言い表わせないほどであった。
天下無双の英雄、勇士とも申すべきで、
これから百年、千年の後までも手本とするべきである。」
と仰せられたとのことである』
0744人間七七四年
2012/02/04(土) 20:06:07.09ID:AC264RHe↓
加藤嘉明は、上方におられたとき、
誤字失礼
0745人間七七四年
2012/02/04(土) 20:09:59.92ID:GDxTLFHm0746人間七七四年
2012/02/04(土) 20:11:41.55ID:WNZu97OL0747人間七七四年
2012/02/04(土) 21:35:19.61ID:1Xe2UHRd塙団右衛門の暴走にかこつけて抜け駆けした時か
0748人間七七四年
2012/02/04(土) 21:56:33.11ID:99UI8nFM徳川家康が、今川家で人質だった幼少期に彼を教育したのは
祖母の源応尼だった。
彼女は三河国刈谷城城主水野忠政の妻で徳川家康の外祖母にあたり、
また家康の祖父松平清康の後妻でもあった人物である。
初め、水野忠政に嫁いで水野忠重・於大の方ら3男1女を生む。
だが、隣の岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、
松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたと言われている。
清康の死後、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが、
いずれも夫に先立たれている。
その後、今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼(げんおうに)と名乗る。
松平竹千代(徳川家康)が今川家に人質で来た際、義元に乞うて竹千代が元服するまでの8年間、
その育成にあたった。
家康の駿府時代に家康の陰や日向になって支えた。
0751人間七七四年
2012/02/05(日) 00:49:22.91ID:dcWCbTTd司馬懿もそれに習って詩を詠んでいる。それは讌飲詩だ。
天地開闢 日月重光
遭遇際会 畢力選方
将掃穢甫 還過故郷
肅清万里 総斉八荒
告成帰老 待罪武陽
これが司馬懿が唯一残した詩で、劉邦が残した詩なみの下手くそさであり、
後世でこれはあまりの下手くそさにネタにされているが、司馬懿の相変わらずの狸ぶりが示されている。
この詩は郷土に隠棲し静かに暮らそうとの内容が書いてある詩であり
皇帝に二心が無いことを示すために詠んだのではないか。
しかし司馬懿はこの詩を詠んだ約10年後クーデータを起こし魏の実権を奪ったのであった。
0752人間七七四年
2012/02/05(日) 00:50:52.40ID:h7QUPY570753人間七七四年
2012/02/05(日) 00:56:28.89ID:51k4F3fk賤ヶ岳の戦いでは敵だった佐久間盛政を突き出した農民を処刑した話もある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1012.html
戦国時代は同じようなことをしても結果オーライもあれば、裏目に出る場合も
あって生き抜くのは本当に大変だったと思う。天下人3人に逆らっても本人や
子孫が生き長らえた人もいれば、忠勤に励んだのに冷遇や取り潰しに遭ってる
家もあるし。
0754人間七七四年
2012/02/05(日) 01:09:31.21ID:h7QUPY57「選方」→「遐方」
「穢甫」→「群穢」
「武陽」→「舞陽」
「穢甫」で意味が通るとはちょっと思えないし、
司馬懿が舞陽侯になったことも知らないのか、本当にコピペだけだ
0756人間七七四年
2012/02/05(日) 01:14:54.81ID:Ddi9pHqs0757人間七七四年
2012/02/05(日) 02:32:58.46ID:u4UsXiXG父を幼くして亡くした後、叔父元就の意向で政略結婚に出されることになる。
はじめ備後庄原甲山城の山内豊通(推定二十歳以上年上)に嫁ぐも間もなく死別。
次いで安芸竹原小早川家の当主興景に嫁ぐが、これも安芸銀山城攻めの陣中で若くして病没。
従弟の隆景が竹原小早川家を継いだのはこの縁による。
その後は備後神辺城の杉原豊後守室、伯耆尾高城の行松正盛の継室となり、
正盛病没後は先夫豊後守の一族・杉原盛重(推定二十歳年下)の妻として一生を終える。
独立勢力の当主を含む五人の夫が皆、親毛利方、或いは毛利の忠実な家臣となったことから、
政略外交官として元就の期待に十二分に応えたと言えるだろう。
0758人間七七四年
2012/02/05(日) 16:30:34.49ID:0zdz7MT7松平清康が死んでから生まれているし
0759人間七七四年
2012/02/05(日) 19:38:01.57ID:ceyndC/V家臣たちと酒宴の席を設けた。
宴も盛り上がって来た頃、勝成は杯を皆の前に掲げ、上機嫌で言った。
勝成「おい!この合戦で『我こそは大将首を上げてやる!』という者は前に出よ!
前祝にこの杯をとらしてつかわす!」
家臣一同「・・・・・・」
勝成「・・・・・・おい、誰かおらんのか?」
家臣一同「・・・・・・」
勝成「・・・・・・おい、誰もおらんのか!?」
気まずい空気が流れた。
いくら酒の席のことであっても、主君と家臣一同の前での首取り宣言。
果たせなければ、単なるお調子者。家中の笑いものになることは明白である。
たかが酒宴の座興にしては、武士としてあまりにもリスクが大きすぎた。
が、誰も名乗りでなければ、それはそれで勝成に恥をかかせることになる。
『く、空気が重い・・・』『だ、誰か名乗り出てくれ・・・』
『ちょ、と、殿がキレかけてるぞ?』『早く、早く誰か・・・』
その時、河村新八郎という若者が進み出て、首取り宣言。勝成から杯を受け取り、呑み干したのである。
勝成の機嫌も直り、一同はホッとしたものの、今度は新八郎のことが心配になった。
「お前、なんであんなムチャな宣言したんだよ?出来なかったらどうするんだ」
「だって、誰かが名乗り出ないと殿のお立場が無かったでしょう?
まあ、大将首が取れなければ切腹すれば済むことですよ」
そして大阪の役。
河村新八郎は大阪方の豪傑 薄田兼相と一騎打ち。
見事その首をあげ、家中のみならず天下にその名を知らしめたという。
0761人間七七四年
2012/02/05(日) 20:51:30.46ID:Kde3qX/o無頼者と名君、両方のイメージあるし
0762人間七七四年
2012/02/05(日) 20:56:20.41ID:LDCtRY8Sくらいの勢いだったのかな?
0763人間七七四年
2012/02/05(日) 22:02:27.03ID:0zdz7MT7当時の勝成は3万石程度の小大名でいきなり
大和口の総大将を任命されたからな。
後藤又兵衛や真田幸村といった豊臣方の主力相手に
自分より格上の伊達政宗や松平忠輝といった
ひとくせもふたくせもある連中を率いらなければならないという
プレッシャー(いくらあの勝成でもあっただろう)で一杯だった。
そういう時の景気付けの酒宴だから勝成も相当気合が入っていただろう。
だからこそ河村新八郎の首取り宣言は勝成にとっては相当うれしかったのだろう。
たとえハッタリでもいいから場を盛り上げたかっただろう。
それに応えた河村新八郎もすごいけど
0764人間七七四年
2012/02/05(日) 23:16:11.41ID:fQ6Vj62c0765人間七七四年
2012/02/06(月) 02:01:53.17ID:BvjymRen0766人間七七四年
2012/02/06(月) 03:09:55.39ID:896oDCxg細川越中守忠興は、武具の研究に最も熱心な武将であった。
時には自ら手を下して作ったこともあるといい、
勇ましさ、美しさを兜に表現する名人であったらしい。
当時は兜を作る際、多くの大名が忠興に教えを乞うた。
忠興は参勤交代時にいつも京都に滞在し、
大納言烏丸光広を訪問しているのだが、
ある時その烏丸家に、近国大名の使者が忠興を追ってきた。
「越中守様のご指示どおりの兜を作りたい」とその使者は言う。
そこで忠興は注意事項を詳しく書き添えて、使者に与えた。
すると使者は内容を一読すると、小癪にも
「立物の下木は桐の木を、というのは間違いでは?
桐の木は折れ易いものです。」と問いただした。
忠興はたちまち顔面を紅潮させ、激怒した。
「汝は弓取りの使いとも思えぬ!
戦いに挑んで誰が生きて帰ろうと思う。
なぜ桐の立物を厭う。軽いほうが動きやすいのだ。
立物の折れるほど働いてこそ、武士の誉れぞ!」
使者は返す言葉がなかったという。
0767人間七七四年
2012/02/06(月) 03:47:49.44ID:Otl5hA4/武田家に仕えた浅利信在は、家中に置いて比類なき剛の者であった。
信在は常々、「自分が討ち死にするなど思いもよらぬことだ」と言っていた。
どんな状況に陥っても「(ここで死ぬなどは)思いもよらぬことだ」と言って
平然としていたので、郎党足軽に至るまで浮き足立つことを知らなかった。
ところがある時、信在は病に倒れ、あっというまに死去した。
慌てて葬儀に駆けつけた同僚達は、
「討ち死にすら思いもよらぬ方だったのに、まして急に病死なさるなど思いもよらぬことだ」
と言って、その武勇を偲び泣いたということである。
以上、武田家の陸戦モンスターの思いもよらぬ死でした。
それにしても武田家、比類ない剛の者が累々といすぎである。
0768人間七七四年
2012/02/06(月) 05:15:29.77ID:Otl5hA4/永正(信縄〜信虎期)のころ、甲斐郡内の地侍達は離合集散を繰り返していた。
それが余りに激しくなったので、互いに誰が敵か味方かも分からなくなり、
道を行くのにも贈答を交わすのにも難儀するようになってしまった。
そこで浅間社に季節の供物を納めた時に置く立物に、細い吹き流しをつけるようになった。
この色と立物の置かれた場所を見ることで、国内外の外交関係が一目瞭然になった。
いまでも浅間神社ではこの習慣があり、寺社・商家・部落・馬借等の関係が見て取れるという。
(日国記)
0769人間七七四年
2012/02/06(月) 05:18:51.45ID:N+VT5Uzh>互いに誰が敵か味方かも分からなくなり、
>道を行くのにも贈答を交わすのにも難儀するようになってしまった。
って、どんだけ世紀末救世主伝説な世界なんだよ
甲斐の国、恐ろしすぎる
0770人間七七四年
2012/02/06(月) 08:29:55.90ID:mALZKV4h北条、今川、武田のどの勢力の影響下かに加えて、地元勢力の小山田、加藤のどれに属するか、全く属しないか、武田でも、信縄・信恵派か信虎派があって…グチャグチャ。
0771人間七七四年
2012/02/06(月) 09:16:13.26ID:MTaC9/Z7>>766の別バージョン
こっちでは忠興の家臣ってことになってるな
0773人間七七四年
2012/02/06(月) 18:28:20.07ID:GxVBBIF5普通の武士ならテンション上がらない
・・・勝成は別として
0774人間七七四年
2012/02/06(月) 19:53:02.91ID:CsLik4wO家康が先峰はどうしても先峰は譜代じゃないといけないと勝成を説き伏せて先峰を任命した。
その時の条件が兵士の生余奪権と成功した際に十万石以上の所領だった。
0775人間七七四年
2012/02/06(月) 19:59:08.25ID:vou0y3iK0776人間七七四年
2012/02/06(月) 20:05:09.34ID:WFrRyY/Uそう言う流れなら勝成の家臣への無茶振りも解らんではないな
兎に角勢い付けたかったんだろ
0777人間七七四年
2012/02/06(月) 20:29:02.10ID:iodz87Hlむしろ酒の勢いも相まって「じゃあ俺が穫ってくるからそこで震えて見てろ!」ってなりかねんのじゃないか
0778人間七七四年
2012/02/06(月) 21:41:43.27ID:CsLik4wO家康の死後、約束通り勝成の縁の土地である備後福山十万石が与えられた。
0780人間七七四年
2012/02/06(月) 22:17:13.05ID:WYFK1w6+水野関係の本だと、水野が総大将っている
実際、松平忠輝は戦線参加してないし
水野が指示で戦ったことは、いろいろな逸話からわかる
0782人間七七四年
2012/02/06(月) 22:34:45.71ID:WYFK1w6+水野関係の本だと、勝成が大和口総大将と書かれている
実際、松平忠輝は戦線参加してないし
水野の指示で戦ったことは、いろいろな逸話からわかる
ちなみに俺が読んだ本は、
「福山物語 開祖水野勝成一代記」「福山開祖・水野勝成」
残念ながら>>759の逸話は書かれてなかったように思うが、
河村新八郎は大垣城攻めのときにも活躍しているようだから、
このころは若くなかったように思う
0784人間七七四年
2012/02/06(月) 23:01:06.99ID:U6OVXIbG家康が天下を握った後には、恩賞として主君の伊達政宗と共に片倉景綱は江戸に屋敷を与えられた。しかし景綱は
一度それを受け取った後、
「この屋敷は政宗にお与えください。」
と返上し、代わりに豊臣秀吉に認められていた「道中活火縄勝手」を家康にも願い出て許可されたという。
また、1615年に江戸幕府が制定した「一国一城令」により、一つの藩に城は原則一つと定めた後も、仙台藩は政宗の
居城である仙台城の他に、景綱の白石城が例外的に存続を許されたという。 家康に二つの特権を認められた景綱の逸話である。
0786人間七七四年
2012/02/07(火) 00:28:36.01ID:q+Nci7QK0787人間七七四年
2012/02/07(火) 00:31:18.07ID:zB43rPZ/0789人間七七四年
2012/02/07(火) 11:28:30.50ID:GqgXgo7T参勤交代の大名行列の時でも伊達家のは火縄に火を付けたまま歩いていたそうな。
まあ、二本松の辺りを通る時だけ、らしいけどさ。
・・・この話でいいのかな?
0790人間七七四年
2012/02/07(火) 12:17:13.07ID:fRk4l5Wxヒョエーさん的に…。
0791人間七七四年
2012/02/07(火) 12:44:56.49ID:v01JPR8f0792人間七七四年
2012/02/07(火) 16:21:43.63ID:AAj5Iw8Fむしろ武田より跡部、穴山、栗原らの国人のほうが
力が強いくらいの時代だな。
西関東には、上杉配下の小大名も一杯だしカオス。
0793人間七七四年
2012/02/07(火) 16:45:17.92ID:lPunP/p5遅レスかもしれないけど
甲冑研究の第一人者である笹間良彦先生曰く
越中具足(三斎様が考案した鎧)は合理的であるが外見が地味なため広く流行せず
肥後細川家にしか使われなかったとのこと
0794人間七七四年
2012/02/07(火) 17:16:06.31ID:39eNQ2ur細川藩士A:おいおい、こんな地味なの使わなきゃいけないのかよ・・・・
細川藩士B:殿の考案だから仕方ないだろ・・・・
細川藩士A:俺らももっと朱色で派手な鎧着て戦場駆け回りたいぜ。そう思わないか?
細川藩士B:まあなあ・・・
三斎様:貴様らの望み通り鎧を紅に染めてくれるわ!また歌仙を増やしてしまったわ・・・・
と
0795人間七七四年
2012/02/07(火) 17:24:33.56ID:CCFqtkxD細川越中守重賢(しげかた)の考案になる実用的な具足。
とあるが・・・
0796人間七七四年
2012/02/07(火) 19:04:43.52ID:lPunP/p5けど三斎流とも言われるから実際はどうなんだろうね
因みに鎧の各部分にも名称が付けられている
越中頭形:頭形型の鉢形式の一つで天板の伏板前方が眉庇の上に重なり、眉庇下端は水平になっている
越中ジゴロ:裾広の広がり率は少なく肩摺板は直線で、縁を韋覆輪とする実用的シコロ
越中篭手:小篠を並べ、所々に鎖繋ぎした篭手で最小限の防護で腕の動きには優れている
越中袖隠し:当世袖の小鰭で当世袖を短縮したごときの大きさの袖
越中佩楯:小篠を並べ、所々に鎖繋ぎした佩楯で最小限の防護をした佩楯
越中脛当:篠濡当を所々に繋ぎ、家地も立挙げもない
越中頬:顎と頬の下半分ぐらいを覆ったナマコ形の頬当
越中脇引:筏金を鎖地に散らした脇引
0797人間七七四年
2012/02/07(火) 19:09:19.82ID:cIaYpOXq0798人間七七四年
2012/02/07(火) 19:25:46.92ID:q+ExRxP40799人間七七四年
2012/02/07(火) 19:52:36.57ID:CCFqtkxD0801人間七七四年
2012/02/07(火) 22:27:00.34ID:dkobOKig戦国時代が終わってなかったら逆に鎧その物が終わる流れになるだろう
0802人間七七四年
2012/02/08(水) 01:47:40.78ID:R2Ig7J2/0803人間七七四年
2012/02/08(水) 03:04:06.59ID:AgaVFJAt今に残る「信玄」のつく語彙から、往事の武田家を偲ぼう(かなり恣意的なチョイスです)。
信玄グッズ1
「信玄足(しんげんあし)」
田圃仕事の時に履く、足が沈まないようにするための大きな履き物。
要は田下駄のこと。
むかし信玄の頃、先陣を切った武士が泥田に足を取られ転倒した。
武士は軍令に従って見捨てられ、足場にされて踏み殺されてしまった。
用心下駄・安気足・信玄草履などとも言うが、いまでは信玄足というのが普通である。
信玄グッズ2
「信玄袋(しんげんぶくろ)」
ある時信玄と武将達が弓比べに興じていた。
ところが番の者が余りに遠くに的をやりすぎたので、誰の弓も届かなくなってしまった。
その時なにがしという小者が、「私ならこう致します」といって一目散に的に走っていくと、
番をしていた者の首を刎ね飛ばし、その袴に包んでて持ってきた。人々はなるほどと感心した。
この時、番士の首を包んだ袴が便利だったので、別に信玄袋といって作るようになったという。
陣吉(じんよし?じんきち?)
@今から六十年も前まで、(中略)山人たちが草刈りに出る時は、メンパという気で作った楕円形の
弁当箱に、蓋の方を熱い飯を一ぱいつめて、それを陣吉という袋に入れ、馬の背に付けて行った。
陣吉は麻のさらし布で作って、両方に口を付け麻の縄紐をつけた。背負うにも馬につけるにも大そう
都合良く出来ている。
この陣吉は武田信玄が考え出した者で、戦いに行く時や戦いの場で、たくさんの兵士達の弁当を作る
時に使った。まず陣吉に米を入れ、大きな釜へ袋のままに入れて煮、すぐ戦場へ背負って出かけたのだった。
その後、戦いが無くなって、袋のまま煮る必要もなくなり、麻から紺野木綿布となり、両口袋も片口に
変わってきて、今では本当の陣吉は見られなくなってしまった。
A
武田信玄は信州を攻める時、兵士の食料袋として陣吉という食料袋を作らせた。
それまで兵士達はお互い食料を巡って争い、奪われて殺される者、奪って死罪になるものが多かった。
そこで信玄は(@とほぼ同内容)という袋を作らせ、陣吉と名付けた。
この陣吉に、長沢の弘法水で作った一夜作りの味噌と米を入れ、そのまま煮て食べさせるようにしたのである。
ふつうの味噌は一年くらい経たなければうまく食べられないものだが、一晩で食べられることから、日々の戦に
大そう都合が良く、この味噌さえあればほかに何もおかずはいらなかった。
この地方(高根町)では、この陣場味噌がなまって、じんだ味噌と呼んでいる(以下@とほぼ同内容のため後略)。
0804人間七七四年
2012/02/08(水) 03:16:19.84ID:AgaVFJAtあと、Aには、現在元々の陣吉は残っていないが、今でも野良弁当の袋をこう呼んでいるとありました。
それから余談ですが、甲斐郡内には戦国中期まで貨幣が流通しておらず(価値がないのではなく金属が
必要量存在していない)、石の矢尻を使い、物々交換のための荷駄を奪って口を糊していたそうです。
うーん、世紀末覇王伝説。
0805人間七七四年
2012/02/08(水) 09:06:35.92ID:86taPy9a男塾だな武田家は
0806人間七七四年
2012/02/08(水) 10:30:57.97ID:1MPYlyQt0809人間七七四年
2012/02/08(水) 11:10:48.86ID:EAXJm3odつーか本来の意味知らんと使こうとるアホ多過ぎや
0811人間七七四年
2012/02/08(水) 12:17:42.71ID:cDmWnN4l諏訪家切腹の作法
諏訪頼重は妻の弟武田晴信に敗れ、甲斐の東光寺に幽閉。ついに切腹の時を迎えた。
神長官守矢氏の残した『守矢頼真書留』によると、
切腹に先立ちサケ、サカナを所望したところ、酒は持ってきたが肴はないと武田の家臣が応
えた。それに対して、頼重は「武田では切腹の作法を知らないと覚える。肴とは刀のこと。わ
れらほどの武士に腹を切らせることは、武田家では今までなかったのであろう。」 といって
作法通りに立派に切腹した。
とのことであった。これは、東勝寺で北条高時とその一門自害の際、得宗御内人だった諏訪
入道直性が「この後に続く人はこれを肴に」と自らの腹を切った刀を長崎円喜入道の前に置
いた故事(太平記)によったものであろう。
0812人間七七四年
2012/02/08(水) 13:07:20.14ID:7sanaMZN,r'"´丿ヽ ̄`ヽ、
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! ,イl〈〈 ,ィjハノ。 。,j、、,,. l < ワシが武田家総帥法性院信玄である!!!
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0814人間七七四年
2012/02/08(水) 13:20:37.98ID:7sanaMZN_,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,_
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0815人間七七四年
2012/02/08(水) 15:06:57.19ID:g3j7+yLuしい‐てき【恣意的】
[形動]気ままで自分勝手なさま。
論理的な必然性がなく、思うままにふるまうさま。
「―な判断」「規則を―に運用する」
提供元:「デジタル大辞泉」
気ままなチョイス、という意味なら>>803の使い方は間違ってない
0816人間七七四年
2012/02/08(水) 15:20:13.84ID:TAJigT+Qどのように恣意的かどれが誤用で何が本来の姿なのかを聞きたいのだけど
山梨県民じゃないからさっぱりなので
0817sage
2012/02/08(水) 15:55:21.49ID:+JUVUADs鎧は質実ならば簡素なものでよい。ただし兜は立派なものにせよ。
討死にすれば、首に添えられて敵の大将のお目に掛かるものだからな。
伝鍋島直茂所用の甲冑(佐賀祐徳稲荷博物館蔵)の兜は風格ある
銀箔押の六十二間小星兜で、たしかにその言にふさわしい。
でも、鎧(銀箔押碁石頭札白糸威二枚銅)もけっこうおしゃれなんだよな。
袖も銀箔押札を色々威した大袖だし。
0818人間七七四年
2012/02/08(水) 18:01:52.95ID:/S/nxhT/戦場で個の美意識を表現出来たのは。
幕末にも先祖伝来の甲冑で参陣した武士もいたようだが、
時勢は洋式にあった
0819人間七七四年
2012/02/08(水) 18:05:22.31ID:TAJigT+Q0820人間七七四年
2012/02/08(水) 21:04:38.37ID:7T5LRf9p0821人間七七四年
2012/02/09(木) 00:23:03.96ID:1OB5edw3依田信蕃ェ
0822人間七七四年
2012/02/09(木) 02:15:16.63ID:xXCSSQS+甲冑は機動力を極端に落とすし、鉄砲には負ける。
けど、混戦や切り合いがないわけじゃない。
0825人間七七四年
2012/02/09(木) 12:05:43.58ID:46z8qJoE万の軍勢率いて徳川大逆襲をなんとか止める所まで含めて興味深い期間だな
0827人間七七四年
2012/02/09(木) 13:51:14.97ID:vVozkXvT「お手紙ありがとう。戦勝祈願のお守りが届きとても嬉しく思っています。
こちらももうすぐ暇になりますので帰りましたらまたお話しましょう
追伸:かえすがえすもお手紙嬉しかったです。また字が上手になったようなので、お手本を送りますね」
というものがある。この時に送られた謙信直筆の習字のお手本も現代まで残っている。
美しく丁寧な字でいろはを書いてあり、子の無い謙信の甥への細やかな愛情が伺われる。
謙信に育てられた景勝も後年一人息子の定勝に御手製の習字練習帳を送っている。
ところで謙信の喜平次宛御手製お習字ドリルはこれ一回だけではなく、
現存してるだけでもひらがなカタカナに漢字ドリル(朱で手書きされた読み仮名付き)
書状の書き方講座に家臣達の宛名帳だのあり、
最初のお手本も第一次関東遠征の最中に書かれたものらしいが、案外暇だったのか
よなべしてドリル作ってる謙信を想像するとちょっと面白い。
0828人間七七四年
2012/02/09(木) 13:59:18.86ID:/tKJ1ZfL0829人間七七四年
2012/02/09(木) 14:15:13.54ID:EfqxaWlW0830人間七七四年
2012/02/09(木) 14:33:52.36ID:TXmLzQSp我らが将がこのような柔弱の将に負けるはずがない、正面突撃だ!と仰せです
皆の衆天あ・・・もとい大将の威光を信じて突撃じゃ!
0831人間七七四年
2012/02/09(木) 14:43:37.39ID:Zid33v490832人間七七四年
2012/02/09(木) 14:54:51.33ID:ilcNbu4v0833人間七七四年
2012/02/09(木) 15:55:20.28ID:46z8qJoE勝頼は長篠後に若年や隠居や僧や農民でも戦える者は復帰参加して従軍しろと命令を出し
とりあえず軍を再建して遠江駿河救援戦に向かったのだが
武田軍が農民を連れてきてる、なんだかみすぼらしいと兵が噂してると
家忠日記に書かれちゃうくらいの姿だったらしい
しかしそれによって徳川反攻戦は高天神城と小山城-田中城防衛ラインで停滞し
当代記で手際のいい勝頼は侮れない将だとの評されたと。そんなかんじ
0834人間七七四年
2012/02/09(木) 15:58:39.37ID:46z8qJoE公私じゃ別の顔を見せるもの
0835人間七七四年
2012/02/09(木) 16:08:23.56ID:sdN2f5HR嫁大好き、息子可愛い、孫心配のマイホームじいちゃんだが、
実際やってることは、謀殺戦争大粛正だしなー。
0836人間七七四年
2012/02/09(木) 16:24:34.29ID:ZjV+ohtj■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています