戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0700人間七七四年
2012/02/02(木) 00:43:42.05ID:1y8j49HQ「下の者に対して教育する場合、
小さな過失は単に訓戒にとどめておき、
大事の過失、許すべきでない罪を犯した時には、
その者の一命をも取り上げざるをえないこともる。
『大公』に、双葉のうちに断たねば斧を用いるようになる、
とあるように、物事は初期に処置しなくては、
ついに増長して後に困難するようになると樹木にたとえ戒めている。
ここで気をつけなければいけないのは、
小さな過ちを取り上げて何回も折檻していたのでは、
ついには折檻に慣れてしまって平気になってしまうものだ。
『呂氏春秋』に、命令が過酷すぎれば聴かれず、
禁事が多すぎれば正常な生活も行われなくなる
、とあり、教育や指導における手加減の難しさが書かれている」
東のパーフェクトの教育論および指導論です
0701人間七七四年
2012/02/02(木) 01:22:57.02ID:+k99GtUy正宗の養育係であった喜多という異父姉がいた。この喜多は、文武両道に通じ男性にも引けを取らない賢女だったと
伝えられ、一説には、景綱は待遇に不安を感じて
「諸国を巡って名将に仕え、天下に名を広げたく思います。」
と、姉に相談したところ、
「主君を裏切れば天がそれを許さないでしょう。誠意をもってお仕えする事が
貴殿の幸せにつながります。」
と諭され、景綱は思い留まったという。その後の政宗の飛躍ぶりは言わずもがなである。
以上、姉の見る目は正しかったというお話。
0702700
2012/02/02(木) 01:35:58.11ID:1y8j49HQやはり養育者の人選は重要だ
現代は学校の先生選べないから、
自分の子供がオカシナ教師の受け持ちになったらと考えると恐ろしい
>>700
×その者の一命をも取り上げざるをえないこともる
○その者の一命をも取り上げざるをえないこともある
訂正します
0703人間七七四年
2012/02/02(木) 02:01:53.82ID:m7TCDHS90704人間七七四年
2012/02/02(木) 09:51:41.67ID:tf+4A38A長男とそれ以外
正室の子とそれ以外
では扱いに差があったんだね
庶子の扱いとか雑な人もいるし
子供はみんな平等で可愛いは当たり前というのは現代感覚か
0705人間七七四年
2012/02/02(木) 10:06:37.34ID:uYgv3FEKただ、家を繁栄させるのが個より重視された時代だから
そういう扱いになったんじゃないかな。
上の子より下の子をかわいがるとろくな事にならないのは
過去の事例からもわかってるのに無くならないのはそういうことなんだろう。
0706人間七七四年
2012/02/02(木) 10:48:34.75ID:ypE5Rt2pいや、今でも愛人の子供とかはいい感じには見られないよ
しかも財産分与で土地、財産とかが絡んでくるケースでは子供は平等に、なんてとてもとても・・・
戦国や源平さながらの骨肉の争いを演ずるのは今でも珍しくなかったりする
0707人間七七四年
2012/02/02(木) 11:26:33.36ID:6maJbAPe戦国と現代を比べること自体ナンセンスじゃね?
現代なら私生児も無問題、子供はみんな平等って流れでもねーし
兄弟のいざこざとか考えると家康はそういう面でも恵まれてたのかなと思うわ
その分か知らんが家臣団がかなりアレだけどw
0708人間七七四年
2012/02/02(木) 11:37:42.68ID:boISgwmx側室って家に管理されてる存在だし、今の愛人という意味とは別物かと
0709人間七七四年
2012/02/02(木) 11:48:36.21ID:fU4P0csmちゃんと囲っておくのが側室
そういう戦国大名の正室の仕事や権限なんか興味あるな
まあ戦国時代だと大名家によってかなり違うだろうし織田家なんかなんの権限もなさそうだけど
秀吉のときでも徳川幕府の大奥ほどきちんと制度化されてなかったんだろうし
0711人間七七四年
2012/02/02(木) 20:57:55.84ID:A5HdWI/u上記に近い時代に差別主義者がいた。
その差別主義者冉閔は、石虎の養孫であり頭角を表し北中郎將、游撃將軍を歴任等を歴任した。
慕容格に石虎が大敗した時も冉閔率いる兵だけは無傷であったので
皆彼を恐れたというエピソードがあるほどの戦上手であった。
彼は石虎の養孫であるが、父は漢族で漢族出身であった、そのことが後の人生の転機となるのである。
石虎が没すると、彼は一気に君主に成りあがろうとし石一族を擁立するが排斥されそうになったため、
いずれも石氏を皆殺しにしている。
そして、漢族以外の人間を皆殺しにしようとし、胡族20万人を大虐殺したのである。
鼻が高いだけの漢民族も大量に殺戮されたという。
そして漢族だけで構成される漢族史上国家を設立しようとした。
しかし異民族が漢族が共存していた華北で行うのは無謀であり
その試みは無残に失敗し勢力は驚くほどの速度で縮小していった。
同じ漢族の国家である晉に援軍を要請したがそれすら無視されている。
わずか冉閔の冉魏は3年で滅亡し16国の一つには数えられていないのである。
0712人間七七四年
2012/02/02(木) 21:24:07.25ID:5T+2X2Sz今川の寿桂尼とかのように国政にがっつりな所もあるし。
まぁ他国から嫁に来た場合とか特にそうだけど、
お互いの家の利益調性者的な立場も期待されていた面もあるだろうから、
奥向きばかりじゃ無いんじゃないかなぁ。
0713人間七七四年
2012/02/02(木) 21:29:37.69ID:ypE5Rt2p0714人間七七四年
2012/02/02(木) 22:17:50.11ID:h/3x0HG10716人間七七四年
2012/02/02(木) 22:50:38.82ID:DbXWAQ2D謙信時代→当然室がいないので、直江景綱の室が謙信の奥向きも務める
景勝時代→菊姫と四辻殿が相次いで亡くなった後
室を取らなかったので直江船が奥向きを務める
というような感じだったらしいが
0717人間七七四年
2012/02/02(木) 23:54:51.68ID:A5HdWI/u石勒が融和に努めてる
0718人間七七四年
2012/02/03(金) 01:00:51.12ID:dLpyUa4Zマジレスするよ!
1回目は正直ちょっと面白かったよ、その戦国じゃねーよ!ってな。
でも2回目からは面白くないんだよ・・・うん、繰り返しの同じネタは退屈でつまらない。
0719人間七七四年
2012/02/03(金) 02:07:47.01ID:dgBQhmXy殿、いけませぬ!これは釣り野伏にござる!
ここは拙者が身代わりに……さあ、早くお逃げくだされ!
やぁ、総大将>>719はこれにあるぞーっ!!
申し上げます!
>>719殿、お討ち死に!
0720人間七七四年
2012/02/03(金) 02:10:15.11ID:z7JU1nru何度も言わせんな
0721人間七七四年
2012/02/03(金) 02:24:57.49ID:QLyHwq6I0722人間七七四年
2012/02/03(金) 02:41:04.70ID:hSACMzPL0723人間七七四年
2012/02/03(金) 02:52:18.00ID:6HgHKC9pオレは読みもしないし気にならないからいいけど、
嫌がってる人も多数だから止めればいいのに
0724人間七七四年
2012/02/03(金) 04:02:34.28ID:466tvGeFカタカタ一生懸命長文書いて
例え罵詈雑言でも皆から気にしてるレス貰えるのが何よりというな・・・
煽り耐性無さ過ぎじゃわざわざ御褒美与えてどうする
0725人間七七四年
2012/02/03(金) 04:10:07.66ID:kP89qAt8昔、一生懸命に逸話をコピペして、みんなに叩かれたからだったと記憶
0726人間七七四年
2012/02/03(金) 04:30:23.53ID:QLyHwq6I同じ頃冉魏の首脳部である太子冉智、妻の董氏、幹部が自ら命を断った。
ここに冉魏はわずか3年で滅亡したのであった。
しかし冉閔を斬り殺した5月から山の周囲、7里で一滴も雨が降らなくなり、
草木が枯れ、蝗蟲が大発生する天変地異が12月まで続いたのである。
一滴もずっと雨が降らないのは、現代でもそうだが
当時は迷信がはびこっていた時代であり慕容儁は冉閔の祟だと考えたのであった。
12月、慕容儁は祟りを沈めるため使者に弔わせ武悼天王を冉閔に追悼したのである。
そうすると、何故かその日のうちに大雪が降り始めたのであった。
こうして祟りは晴れたのである。
0727人間七七四年
2012/02/03(金) 08:19:32.97ID:jAuNm70S罵声だろうと相手されることにエクスタシー感じてんだよこの手の糞餓鬼は
分かったらもう餌与えんな
0730人間七七四年
2012/02/03(金) 16:22:58.04ID:jDRsc2OD0731人間七七四年
2012/02/03(金) 16:29:58.88ID:sTB4l2dSまあ、スルーしましょうよ
0732人間七七四年
2012/02/03(金) 19:37:41.23ID:g39Xtjb4時代変わっちゃってるのがむしろかわいいんだがw
0733人間七七四年
2012/02/03(金) 20:04:29.05ID:lNzRr7sA受けて「思い止まらないなら、お前を討って自害する」という場面になって
いたな。
0734人間七七四年
2012/02/03(金) 20:07:18.51ID:8HE5RLeU路上で待ち受けてを、なぜか「路上で持ち上げて」と空目してしまい
ずいぶん剛強なお喜多さんの出てくる漫画だと思ってしまったw
0735人間七七四年
2012/02/04(土) 00:32:52.13ID:a6n6rtik織田信長がまだ尾張を支配できていない頃、親族の織田信賢と戦いになった。
戦いの中、信賢側の弓の名人・林弥七郎と、信長の鉄砲の師匠・橋本一巴が遭遇した。
2人は知り合いだったので、弥七郎は「逃がさんぞ」と声をかけ、一巴は「分かっておる」と答えた。
弥七郎は四寸ほどの矢じりをつけた矢を放ち、一巴は鉄砲に2つ弾をこめて撃った。
矢は一巴の脇の下に深く刺さり、弥七郎は鉄砲弾を受けて倒れた。
そこへ信長の小姓・佐脇藤八(前田利家の弟)が近づいてきて、弥七郎の首を取ろうとした。
弥七郎は立ち上がれないまま太刀を抜き、佐脇藤八の左肘あたりに斬りつけたが、藤八に首を取られた。
林弥七郎、弓と太刀との働き比類なき仕立なり。 by 太田牛一
0736人間七七四年
2012/02/04(土) 09:24:59.05ID:68W5ajpd0738人間七七四年
2012/02/04(土) 10:52:36.89ID:itxgZTSB知られるが、元は近江浅井氏に仕えた武家の出である。親友であった斎藤
利三が主君・明智光秀とともに本能寺の変を起こして敗れ、謀反人として
本能寺跡に晒されたことを知ると、その夜に遺骸を持ち去り手厚く葬った。
梟首台の衛兵を槍を振るって襲ったとも、東陽坊長盛という仲間の僧侶が
読経で気を逸らしたとも言われる(両方かも知れない)。奪われた方には
たまったものではないが、羽柴勢が制圧した洛中でやらかすには襲う方も
命懸けである。更に福(後の春日局)ら利三の遺児を匿ったとも伝わる。
長盛が住職を務めた京都の真正極楽寺には長盛と友松夫婦、利三の墓が
仲良く並んでいる。
教科書では長谷川等伯や狩野永徳と同じ文化人としてしか紹介されないが、
画業に専念する前の恐らく最後の武勇伝である。
0739人間七七四年
2012/02/04(土) 11:00:18.62ID:GDxTLFHmあとホントかどうか知らんけど親父さんが秀吉に尊敬されてたってのも理由の一つかね?
0740人間七七四年
2012/02/04(土) 14:00:52.01ID:Kny0XdF+0741人間七七四年
2012/02/04(土) 17:39:46.53ID:WNZu97OLおそらく天狗のせいにされたんだろう
0742人間七七四年
2012/02/04(土) 17:56:12.44ID:HN975UnA(゚Д。)
~~~~~~
0743人間七七四年
2012/02/04(土) 20:03:23.32ID:AC264RHe山本常朝
『勝茂公が話されたことだ。
「朝鮮での戦で加藤嘉明が敵船を乗っ取ったときには、
鎧に簑の毛の如く矢が刺さりながらも、
敵船に乗り降り、ものにして武功を立てられた。
以前、太閤様のお供で吉野で花見に行ったのだが、
花よりもなにも、あのときの加藤嘉明の武者ぶりは美しかった。」
と仰せられたとのことだ。
続けて、
「加藤嘉明は、上方におられたとく、
西方の立花勢を攻撃せよとの命をうけ、
戦いが終わり御挨拶に登城したとき、
ちょうど井伊直政が将軍様のお目見えを司どっていたが、
関ヶ原で肩先に手傷をうけられたのを、
白い布で結び付けて首にかけ、
片手をつきながらの礼儀作法、
その姿、気迫、すべて見事なもので、
とても言葉では言い表わせないほどであった。
天下無双の英雄、勇士とも申すべきで、
これから百年、千年の後までも手本とするべきである。」
と仰せられたとのことである』
0744人間七七四年
2012/02/04(土) 20:06:07.09ID:AC264RHe↓
加藤嘉明は、上方におられたとき、
誤字失礼
0745人間七七四年
2012/02/04(土) 20:09:59.92ID:GDxTLFHm0746人間七七四年
2012/02/04(土) 20:11:41.55ID:WNZu97OL0747人間七七四年
2012/02/04(土) 21:35:19.61ID:1Xe2UHRd塙団右衛門の暴走にかこつけて抜け駆けした時か
0748人間七七四年
2012/02/04(土) 21:56:33.11ID:99UI8nFM徳川家康が、今川家で人質だった幼少期に彼を教育したのは
祖母の源応尼だった。
彼女は三河国刈谷城城主水野忠政の妻で徳川家康の外祖母にあたり、
また家康の祖父松平清康の後妻でもあった人物である。
初め、水野忠政に嫁いで水野忠重・於大の方ら3男1女を生む。
だが、隣の岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、
松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたと言われている。
清康の死後、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが、
いずれも夫に先立たれている。
その後、今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼(げんおうに)と名乗る。
松平竹千代(徳川家康)が今川家に人質で来た際、義元に乞うて竹千代が元服するまでの8年間、
その育成にあたった。
家康の駿府時代に家康の陰や日向になって支えた。
0751人間七七四年
2012/02/05(日) 00:49:22.91ID:dcWCbTTd司馬懿もそれに習って詩を詠んでいる。それは讌飲詩だ。
天地開闢 日月重光
遭遇際会 畢力選方
将掃穢甫 還過故郷
肅清万里 総斉八荒
告成帰老 待罪武陽
これが司馬懿が唯一残した詩で、劉邦が残した詩なみの下手くそさであり、
後世でこれはあまりの下手くそさにネタにされているが、司馬懿の相変わらずの狸ぶりが示されている。
この詩は郷土に隠棲し静かに暮らそうとの内容が書いてある詩であり
皇帝に二心が無いことを示すために詠んだのではないか。
しかし司馬懿はこの詩を詠んだ約10年後クーデータを起こし魏の実権を奪ったのであった。
0752人間七七四年
2012/02/05(日) 00:50:52.40ID:h7QUPY570753人間七七四年
2012/02/05(日) 00:56:28.89ID:51k4F3fk賤ヶ岳の戦いでは敵だった佐久間盛政を突き出した農民を処刑した話もある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1012.html
戦国時代は同じようなことをしても結果オーライもあれば、裏目に出る場合も
あって生き抜くのは本当に大変だったと思う。天下人3人に逆らっても本人や
子孫が生き長らえた人もいれば、忠勤に励んだのに冷遇や取り潰しに遭ってる
家もあるし。
0754人間七七四年
2012/02/05(日) 01:09:31.21ID:h7QUPY57「選方」→「遐方」
「穢甫」→「群穢」
「武陽」→「舞陽」
「穢甫」で意味が通るとはちょっと思えないし、
司馬懿が舞陽侯になったことも知らないのか、本当にコピペだけだ
0756人間七七四年
2012/02/05(日) 01:14:54.81ID:Ddi9pHqs0757人間七七四年
2012/02/05(日) 02:32:58.46ID:u4UsXiXG父を幼くして亡くした後、叔父元就の意向で政略結婚に出されることになる。
はじめ備後庄原甲山城の山内豊通(推定二十歳以上年上)に嫁ぐも間もなく死別。
次いで安芸竹原小早川家の当主興景に嫁ぐが、これも安芸銀山城攻めの陣中で若くして病没。
従弟の隆景が竹原小早川家を継いだのはこの縁による。
その後は備後神辺城の杉原豊後守室、伯耆尾高城の行松正盛の継室となり、
正盛病没後は先夫豊後守の一族・杉原盛重(推定二十歳年下)の妻として一生を終える。
独立勢力の当主を含む五人の夫が皆、親毛利方、或いは毛利の忠実な家臣となったことから、
政略外交官として元就の期待に十二分に応えたと言えるだろう。
0758人間七七四年
2012/02/05(日) 16:30:34.49ID:0zdz7MT7松平清康が死んでから生まれているし
0759人間七七四年
2012/02/05(日) 19:38:01.57ID:ceyndC/V家臣たちと酒宴の席を設けた。
宴も盛り上がって来た頃、勝成は杯を皆の前に掲げ、上機嫌で言った。
勝成「おい!この合戦で『我こそは大将首を上げてやる!』という者は前に出よ!
前祝にこの杯をとらしてつかわす!」
家臣一同「・・・・・・」
勝成「・・・・・・おい、誰かおらんのか?」
家臣一同「・・・・・・」
勝成「・・・・・・おい、誰もおらんのか!?」
気まずい空気が流れた。
いくら酒の席のことであっても、主君と家臣一同の前での首取り宣言。
果たせなければ、単なるお調子者。家中の笑いものになることは明白である。
たかが酒宴の座興にしては、武士としてあまりにもリスクが大きすぎた。
が、誰も名乗りでなければ、それはそれで勝成に恥をかかせることになる。
『く、空気が重い・・・』『だ、誰か名乗り出てくれ・・・』
『ちょ、と、殿がキレかけてるぞ?』『早く、早く誰か・・・』
その時、河村新八郎という若者が進み出て、首取り宣言。勝成から杯を受け取り、呑み干したのである。
勝成の機嫌も直り、一同はホッとしたものの、今度は新八郎のことが心配になった。
「お前、なんであんなムチャな宣言したんだよ?出来なかったらどうするんだ」
「だって、誰かが名乗り出ないと殿のお立場が無かったでしょう?
まあ、大将首が取れなければ切腹すれば済むことですよ」
そして大阪の役。
河村新八郎は大阪方の豪傑 薄田兼相と一騎打ち。
見事その首をあげ、家中のみならず天下にその名を知らしめたという。
0761人間七七四年
2012/02/05(日) 20:51:30.46ID:Kde3qX/o無頼者と名君、両方のイメージあるし
0762人間七七四年
2012/02/05(日) 20:56:20.41ID:LDCtRY8Sくらいの勢いだったのかな?
0763人間七七四年
2012/02/05(日) 22:02:27.03ID:0zdz7MT7当時の勝成は3万石程度の小大名でいきなり
大和口の総大将を任命されたからな。
後藤又兵衛や真田幸村といった豊臣方の主力相手に
自分より格上の伊達政宗や松平忠輝といった
ひとくせもふたくせもある連中を率いらなければならないという
プレッシャー(いくらあの勝成でもあっただろう)で一杯だった。
そういう時の景気付けの酒宴だから勝成も相当気合が入っていただろう。
だからこそ河村新八郎の首取り宣言は勝成にとっては相当うれしかったのだろう。
たとえハッタリでもいいから場を盛り上げたかっただろう。
それに応えた河村新八郎もすごいけど
0764人間七七四年
2012/02/05(日) 23:16:11.41ID:fQ6Vj62c0765人間七七四年
2012/02/06(月) 02:01:53.17ID:BvjymRen0766人間七七四年
2012/02/06(月) 03:09:55.39ID:896oDCxg細川越中守忠興は、武具の研究に最も熱心な武将であった。
時には自ら手を下して作ったこともあるといい、
勇ましさ、美しさを兜に表現する名人であったらしい。
当時は兜を作る際、多くの大名が忠興に教えを乞うた。
忠興は参勤交代時にいつも京都に滞在し、
大納言烏丸光広を訪問しているのだが、
ある時その烏丸家に、近国大名の使者が忠興を追ってきた。
「越中守様のご指示どおりの兜を作りたい」とその使者は言う。
そこで忠興は注意事項を詳しく書き添えて、使者に与えた。
すると使者は内容を一読すると、小癪にも
「立物の下木は桐の木を、というのは間違いでは?
桐の木は折れ易いものです。」と問いただした。
忠興はたちまち顔面を紅潮させ、激怒した。
「汝は弓取りの使いとも思えぬ!
戦いに挑んで誰が生きて帰ろうと思う。
なぜ桐の立物を厭う。軽いほうが動きやすいのだ。
立物の折れるほど働いてこそ、武士の誉れぞ!」
使者は返す言葉がなかったという。
0767人間七七四年
2012/02/06(月) 03:47:49.44ID:Otl5hA4/武田家に仕えた浅利信在は、家中に置いて比類なき剛の者であった。
信在は常々、「自分が討ち死にするなど思いもよらぬことだ」と言っていた。
どんな状況に陥っても「(ここで死ぬなどは)思いもよらぬことだ」と言って
平然としていたので、郎党足軽に至るまで浮き足立つことを知らなかった。
ところがある時、信在は病に倒れ、あっというまに死去した。
慌てて葬儀に駆けつけた同僚達は、
「討ち死にすら思いもよらぬ方だったのに、まして急に病死なさるなど思いもよらぬことだ」
と言って、その武勇を偲び泣いたということである。
以上、武田家の陸戦モンスターの思いもよらぬ死でした。
それにしても武田家、比類ない剛の者が累々といすぎである。
0768人間七七四年
2012/02/06(月) 05:15:29.77ID:Otl5hA4/永正(信縄〜信虎期)のころ、甲斐郡内の地侍達は離合集散を繰り返していた。
それが余りに激しくなったので、互いに誰が敵か味方かも分からなくなり、
道を行くのにも贈答を交わすのにも難儀するようになってしまった。
そこで浅間社に季節の供物を納めた時に置く立物に、細い吹き流しをつけるようになった。
この色と立物の置かれた場所を見ることで、国内外の外交関係が一目瞭然になった。
いまでも浅間神社ではこの習慣があり、寺社・商家・部落・馬借等の関係が見て取れるという。
(日国記)
0769人間七七四年
2012/02/06(月) 05:18:51.45ID:N+VT5Uzh>互いに誰が敵か味方かも分からなくなり、
>道を行くのにも贈答を交わすのにも難儀するようになってしまった。
って、どんだけ世紀末救世主伝説な世界なんだよ
甲斐の国、恐ろしすぎる
0770人間七七四年
2012/02/06(月) 08:29:55.90ID:mALZKV4h北条、今川、武田のどの勢力の影響下かに加えて、地元勢力の小山田、加藤のどれに属するか、全く属しないか、武田でも、信縄・信恵派か信虎派があって…グチャグチャ。
0771人間七七四年
2012/02/06(月) 09:16:13.26ID:MTaC9/Z7>>766の別バージョン
こっちでは忠興の家臣ってことになってるな
0773人間七七四年
2012/02/06(月) 18:28:20.07ID:GxVBBIF5普通の武士ならテンション上がらない
・・・勝成は別として
0774人間七七四年
2012/02/06(月) 19:53:02.91ID:CsLik4wO家康が先峰はどうしても先峰は譜代じゃないといけないと勝成を説き伏せて先峰を任命した。
その時の条件が兵士の生余奪権と成功した際に十万石以上の所領だった。
0775人間七七四年
2012/02/06(月) 19:59:08.25ID:vou0y3iK0776人間七七四年
2012/02/06(月) 20:05:09.34ID:WFrRyY/Uそう言う流れなら勝成の家臣への無茶振りも解らんではないな
兎に角勢い付けたかったんだろ
0777人間七七四年
2012/02/06(月) 20:29:02.10ID:iodz87Hlむしろ酒の勢いも相まって「じゃあ俺が穫ってくるからそこで震えて見てろ!」ってなりかねんのじゃないか
0778人間七七四年
2012/02/06(月) 21:41:43.27ID:CsLik4wO家康の死後、約束通り勝成の縁の土地である備後福山十万石が与えられた。
0780人間七七四年
2012/02/06(月) 22:17:13.05ID:WYFK1w6+水野関係の本だと、水野が総大将っている
実際、松平忠輝は戦線参加してないし
水野が指示で戦ったことは、いろいろな逸話からわかる
0782人間七七四年
2012/02/06(月) 22:34:45.71ID:WYFK1w6+水野関係の本だと、勝成が大和口総大将と書かれている
実際、松平忠輝は戦線参加してないし
水野の指示で戦ったことは、いろいろな逸話からわかる
ちなみに俺が読んだ本は、
「福山物語 開祖水野勝成一代記」「福山開祖・水野勝成」
残念ながら>>759の逸話は書かれてなかったように思うが、
河村新八郎は大垣城攻めのときにも活躍しているようだから、
このころは若くなかったように思う
0784人間七七四年
2012/02/06(月) 23:01:06.99ID:U6OVXIbG家康が天下を握った後には、恩賞として主君の伊達政宗と共に片倉景綱は江戸に屋敷を与えられた。しかし景綱は
一度それを受け取った後、
「この屋敷は政宗にお与えください。」
と返上し、代わりに豊臣秀吉に認められていた「道中活火縄勝手」を家康にも願い出て許可されたという。
また、1615年に江戸幕府が制定した「一国一城令」により、一つの藩に城は原則一つと定めた後も、仙台藩は政宗の
居城である仙台城の他に、景綱の白石城が例外的に存続を許されたという。 家康に二つの特権を認められた景綱の逸話である。
0786人間七七四年
2012/02/07(火) 00:28:36.01ID:q+Nci7QK0787人間七七四年
2012/02/07(火) 00:31:18.07ID:zB43rPZ/0789人間七七四年
2012/02/07(火) 11:28:30.50ID:GqgXgo7T参勤交代の大名行列の時でも伊達家のは火縄に火を付けたまま歩いていたそうな。
まあ、二本松の辺りを通る時だけ、らしいけどさ。
・・・この話でいいのかな?
0790人間七七四年
2012/02/07(火) 12:17:13.07ID:fRk4l5Wxヒョエーさん的に…。
0791人間七七四年
2012/02/07(火) 12:44:56.49ID:v01JPR8f0792人間七七四年
2012/02/07(火) 16:21:43.63ID:AAj5Iw8Fむしろ武田より跡部、穴山、栗原らの国人のほうが
力が強いくらいの時代だな。
西関東には、上杉配下の小大名も一杯だしカオス。
0793人間七七四年
2012/02/07(火) 16:45:17.92ID:lPunP/p5遅レスかもしれないけど
甲冑研究の第一人者である笹間良彦先生曰く
越中具足(三斎様が考案した鎧)は合理的であるが外見が地味なため広く流行せず
肥後細川家にしか使われなかったとのこと
0794人間七七四年
2012/02/07(火) 17:16:06.31ID:39eNQ2ur細川藩士A:おいおい、こんな地味なの使わなきゃいけないのかよ・・・・
細川藩士B:殿の考案だから仕方ないだろ・・・・
細川藩士A:俺らももっと朱色で派手な鎧着て戦場駆け回りたいぜ。そう思わないか?
細川藩士B:まあなあ・・・
三斎様:貴様らの望み通り鎧を紅に染めてくれるわ!また歌仙を増やしてしまったわ・・・・
と
0795人間七七四年
2012/02/07(火) 17:24:33.56ID:CCFqtkxD細川越中守重賢(しげかた)の考案になる実用的な具足。
とあるが・・・
0796人間七七四年
2012/02/07(火) 19:04:43.52ID:lPunP/p5けど三斎流とも言われるから実際はどうなんだろうね
因みに鎧の各部分にも名称が付けられている
越中頭形:頭形型の鉢形式の一つで天板の伏板前方が眉庇の上に重なり、眉庇下端は水平になっている
越中ジゴロ:裾広の広がり率は少なく肩摺板は直線で、縁を韋覆輪とする実用的シコロ
越中篭手:小篠を並べ、所々に鎖繋ぎした篭手で最小限の防護で腕の動きには優れている
越中袖隠し:当世袖の小鰭で当世袖を短縮したごときの大きさの袖
越中佩楯:小篠を並べ、所々に鎖繋ぎした佩楯で最小限の防護をした佩楯
越中脛当:篠濡当を所々に繋ぎ、家地も立挙げもない
越中頬:顎と頬の下半分ぐらいを覆ったナマコ形の頬当
越中脇引:筏金を鎖地に散らした脇引
0797人間七七四年
2012/02/07(火) 19:09:19.82ID:cIaYpOXq0798人間七七四年
2012/02/07(火) 19:25:46.92ID:q+ExRxP4■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています