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戦国ちょっといい話30

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0001人間七七四年2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0653人間七七四年2012/01/29(日) 23:04:04.52ID:J1U8VOXD
>>652
確か、明智から毛利への密使が間違えて羽柴の陣に入ってしまって
急いで撤退していく羽柴軍を不審に思った毛利が調べて初めて、信長が死んだって気付いたが通説じゃなかったっけ?
0654人間七七四年2012/01/29(日) 23:13:18.80ID:/TYHd38b
どっちが正しいねん(笑)
0655人間七七四年2012/01/30(月) 05:51:29.66ID:35cGvL6C
>>652
当時2ちゃんは無かった
0656人間七七四年2012/01/30(月) 10:49:45.02ID:QD1iStZI
能と高虎


大坂夏の陣から数ヶ月経た頃。

藤堂高虎に徳川家康が何気に尋ねた。
「あれは何と申したか、能の名手で、聚楽第でも見事に舞っておった、
しかもなかなかの槍の使い手で・・」
「喜多七太夫、でございまするか。」
「そう、そう、七太夫!あの者は、どうしておるかのう。」

なおもチラ見しながら家康が聞くと、高虎はやにわに平伏して言った。

「じっ、実は、七太夫は九州におりまする。どうかお許しを!」
秀吉の死後もその恩顧を忘れず、大坂の陣にも大坂城にて戦った喜多七太夫は、
いよいよ落城という時、旧知の高虎のもとに逃げ込んだ。
「武士とはいえ、もとは能役者、斬るにあたわず。なんとか逃げる手筈を・・。」
そこで、黒田長政あての添え状を持たせて九州へ逃した、と言う。

「おおかた、そのようなことであろうと思うておったわ。
能役者としてお前が後見するが良い。」

家康の許しを得て、喜多七太夫は京に戻り「喜多流」を起こす。
能楽五流の一つとなった「喜多流」は、藤堂家らの恩顧を受けて栄えたという。

高虎は常に言い続けてきたのだ。
「人を斬るばかりが武士ではない、人を生かすもまた武士なり」
                             ・・・よく言う
0657人間七七四年2012/01/30(月) 10:53:29.43ID:3CjR41MJ
黒田の若殿から請願あがっての出来レースぽい一幕だなw

命と才能生かすためのお芝居だから何も問題ないが
0658人間七七四年2012/01/30(月) 19:24:45.58ID:MDyxEeR3
こういう皆が得した話は和むなあ
0659人間七七四年2012/01/30(月) 19:36:43.34ID:O2ZocYWo
そだね、ホッコリした♪
0660人間七七四年2012/01/30(月) 21:10:13.68ID:Xi8WiCTj
戦国時代に名将と呼ばれた男がいる、それは白起である。
当時から太公望以上の功績とも言われ白起は秦に仕えること
40年、魏、楚、趙、韓などの大軍を撃破し続け向かうところ敵なしであった。

秦は、趙の領土である上党を攻め、ここに戦国時代最大の合戦である長平の戦いが始まった。
はじめに秦は趙の廉頗を攻め立てるが、守る廉頗は秦軍手強しと見るや土塁と城を築き長期戦に移行したのである。
これにより秦軍は攻めあぐね、長期戦による疲弊も出てきた。廉頗の作戦に秦軍は劣勢であった。

そこで秦は総大将を無敵の将軍であった白起に交代し宰相、范雎の提案に従い実戦経験がないながらも
兵法の大家との評判が高いが実戦経験がない机上の兵法家であった青二才趙括を総大将にさせるように仕向けた。

この策は見事にはまり、趙は実験経験がない青二才の超活を総大将にしたところを見ると
白起は総大将として出陣した。白起は策を用い趙括を兵に挑発させた怒った趙括が城から打って出てきたところを
伏兵で退路を遮断し城を占領したのである。

そのような戦況で補給線が遮断され40数日が過ぎ趙括率いる趙軍は餓えと渇きにより混乱に陥った。
同士討ちして仲間の肉を食べて餓えを凌ぐものもいたのである。結局趙括は打開しようと精兵をもって切り込んだが討ち死にした。
趙括指揮下の兵は武器を捨てて全軍降ったのである。

白起は捕虜を秦に連行するには食料が足りず、また返せば禍根となるため全員を食料をやると伝え捕虜を全員生き埋めにしたのである。
少年兵240名だけは許されたのである。こうして秦は趙に大勝したのであった。

しかし白起の功績を抑止しようとする范雎により趙と秦の間で趙が秦に城をわずか6城引き渡すだけの和議が行われてしまう。
和議の後秦はいくら趙の城を攻めようが落とすことが出来なかった。そこで白起に指揮を交代させようとしたが病気だとして白起は固辞したのである。

白起によると「秦の国力は低下し趙の国力は増強している。今まで勝ってきたのは当然のことで、今は趙は結束し国力を整えている。
今戦っても勝てない」とのことだったがそれを受け昭襄王は布団をはぎ取り「病気だというなら寝てても指揮をとれ」と白起に伝えたのである。
白起は「指揮を取れば命は助かるが趙を攻めても犠牲が多く勝てないので諸侯に号令すれば天下を取れる。」と主張したが昭襄王は無言で立ち去ったのであった。(要約)

そして白起は死を賜ることになった。
死ぬにあたって白起は「私が死ぬのは長平で多くの人々を殺したという天罰である」といい死んでいった。白起は同情され秦の民衆に神として祀られたという。
0661人間七七四年2012/01/30(月) 21:14:02.34ID:mCm8H6af
無視
0662人間七七四年2012/01/30(月) 21:39:48.93ID:kcTccEY9
例の「いい話だ」の荒らし、芸風を変えつつもいつまでも荒らし続けるんだろうなぁ…
0663人間七七四年2012/01/30(月) 22:32:44.14ID:9b+Wu5iZ
いい加減にしろ支那畜の歴史なんぞどうでもいいわ
0664人間七七四年2012/01/30(月) 22:39:15.47ID:GTPHhQfu
こっちなら歓迎されるぞ多分

世界史ちょっといい話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1327366681/
0665人間七七四年2012/01/30(月) 22:48:20.05ID:JqdZMtOd
>664
あちらの戦国時代で戦に限れば最高クラスの名将の有名なエピですしいまさら・・・
0666人間七七四年2012/01/30(月) 22:58:29.11ID:Wxt9SJKF
個人的には既出でさえなければメジャーなネタも大歓迎
>>664のスレでどうかは知らんが
0667人間七七四年2012/01/30(月) 23:42:00.23ID:FuWDvGoQ
>>656 で和んだのに くだらない荒らしのせいで台無しだな。
0668人間七七四年2012/01/30(月) 23:48:44.46ID:YdIPamUO
そうやって反応するから味占めて居つくのだ
0669人間七七四年2012/01/31(火) 00:18:16.07ID:ZdAjZkdo
まあ普通の人間ならそろそろ射精した後のように
自分で白けるものさ。
0670人間七七四年2012/01/31(火) 13:10:46.19ID:vF+4Fqq8
ならば遅漏過ぎるのではないか
0671人間七七四年2012/01/31(火) 17:44:05.81ID:F8Irf6CL
前漢時代に司馬相如という男がいた。彼は皇帝が死ぬと共に職を失いとても貧乏であり、そのことで困っていたが、
その反面あらゆる才に優れ琴の名手でもあった。

そんな彼は卓王孫の家で生活していたことがあり
あるとき卓王孫の家で月の明るい夜に琴を奏でていると
家の主人である卓王孫の娘である卓王君がその見事な琴に聞き惚れたのである。
それからはいつも、彼女は彼の琴の音を聞くようになった。
卓王孫は貧乏な相如に娘はが近づいていくのが気に入らなかった。
しかしいつ日か相如と卓王君は夫婦となり卓王孫の家を去っていった。

また一説によると文章家であった相如がラブレターを送り王君が惚れ込んだという話もある。
その説でも卓王君は相如とこっそり家を抜け出している。

いずれにせよ駆け落ちしたのである。

卓王孫は財宝を多く持っており貧乏な居候に過ぎなかった相如にかわいい娘である王君が嫁いだことを気に入らなかったため
娘の様子を意に介さなかったのである。

彼が蜀地方に行く時に昇遷橋がありその橋を歩いて渡るときに
橋の柱に、「私は、大きな車や肥えた馬に乗れるようになってからでなければ、
再びこの橋を渡り返すことはせぬ」と書いて誓い、その後、蜀の国に滞留した。
その後、望み通り出世することができて、この橋を渡って帰った。

そのようないいはなしである。
0672人間七七四年2012/01/31(火) 17:49:48.57ID:F8Irf6CL
余談

卓文君は自分の所有物を売り払い、
臨卭の街に酒場を開いた。そこで、卓文君は自らホステスとして働き、
司馬相如は上半身裸で召使いのようにして働いた。卓王孫は自分の娘がこのような仕事をしていることを恥じ、親戚などからの勧めもあって、
卓文君に召使いを100人、100万銭、前回の結婚の際の嫁入り道具を与えた。これで、
司馬相如は結婚を認められたことになる。2人は成都に移り住み、土地を買い入れて、地主となった。(wikiより)

と唐物語は正確なことを書いておらずに捏造に近い編集を行なっているのである。
女は、何年も貧しいなかを連れ添った甲斐があり、親疎に拘らず世間の人々もこの上なく羨むような身分になることができた。
と上記の話のあと書いているが、その後に親の恩恵を受けているわけであり、出世して親類に認めさせたわけでもなく
出世して貧乏を脱出したわけでもない。

これでは、話自体は良くなるが正確さは伝わらず間違った印象を与えることになる。
史料を読むときには気を付けなければならないといういい話スレの低能向けの話である
0673人間七七四年2012/01/31(火) 18:00:47.39ID:LZJfaO5L
かまうから喜んじまっただろ。
ちゃんとスルーしとけ。
0674人間七七四年2012/01/31(火) 20:47:49.73ID:DuYKZNe3
んじゃお口直しに
島津4兄弟で有名な話ですがまとめには出て無いみたいなんで

「軍略の家久」
島津家久は日新斎に軍略を得たりと予言されてはいたが幼少より優秀だったわけでは無く
4兄弟の中では唯一身分の低い妾の子である事に劣等感を抱いていた
そんなある日、4兄弟は連れたって馬追いをした時のこと
生駒にて飼育されている様々な馬を見て回ってる時に歳久は
「毛色の違う馬は色々いますがどの馬も母馬に似るものです、人間も似たようなものでしょうね」と言い放った
歳久の言いたい事を察知した義久は即座に否定した
「子馬が必ずしも母馬に似るわけでは無いだろうし、人間は畜生とは違い学問に励み徳を積めば父母よりも立派になるだろうし怠れば父母より劣る事になろう」
後日家久はその言葉を励みに日夜勉学武芸に励むようになり数年のうちに日新斎の予言通りの立派な将に育つ事となった

4兄弟ネタでは珍しく義弘が空気で、歳久からシャギ臭のする話
0675人間七七四年2012/01/31(火) 20:51:38.62ID:GfTf/cYP
イイハナシダナー
しかし長兄トキで次兄ラオウな四兄弟だな
0676人間七七四年2012/01/31(火) 20:52:14.15ID:pOgZGRIS
歳久「よくできた弟〜〜〜〜〜〜!!」
0677人間七七四年2012/01/31(火) 20:59:26.75ID:zVVVqgvW
喜多七太夫の小ネタでも

七太夫は幼少時、秀吉に近侍し、その芸達者ぶりから大変可愛がられた。
腰巾着のように、秀吉の傍を離れずにいることから、
ついたあだ名が「六平太(ロッペイタ)」

このロッペイタという名、ポルトガル語由来の言葉といわれ、
南蛮製の巾着の名であったといわれる。
この「六平太」という名は、喜多流宗家が使用する名乗りの1つとして、受け継がれている



「腰巾着」の意味自体は、あまり良いものではないと思うんだが、
外来語があだ名になった珍しさと、芸人らしい才気煥発さを指しているのだろうということで、こっちに。
0678人間七七四年2012/01/31(火) 21:09:42.33ID:RU81pUcm?2BP(0)
本当は兄弟仲が悪かったんだろ?って言いたくなる話だな
0679人間七七四年2012/01/31(火) 21:52:39.45ID:F8Irf6CL
お口直しに

魏晋南北朝時代、奴隷から皇帝まで登り詰めた男がいた。石勒である。
石勒は智に優れ、このような策を決めている。

烏丸の張伏利度が配下二千で自らの勢力圏である楽平に籠もっていた。
劉淵はそれを見て張伏を招聘しようとしたが、固辞し続けるばかりだった。
そこで石勒が張伏を配下にする役目となったのである。
石勒は劉淵と裏で口を合わせ、罪を犯かしたということにし劉淵の元から石勒が張伏の元に逃げたのである。
張伏は石勒の帰順を受け入れ、あろうことか義兄弟にまでなったのである。
そして石勒は重複の命令で軍を率い、大活躍をしたのである。
その様子を目の当たりにし張伏配下は石勒に心服したのであった。

そして最初からの予定通り石勒は張伏の配下を調略した後、機を見て配下と共に
張伏を捉えてこう言ったのである「これから大事を起こすときに、張伏と私のどちらが君主としてふさわしい」と。
当然、張伏の配下は張伏ではなく石勒を推した。石勒は張伏を開放し予定通り
張伏配下と共に劉淵の元に帰ったのである。
その功績により石勒は督山東征討諸軍事となり、張伏の衆は石勒の配下となった。
石勒が劉淵の元で立てた初の手柄である。
0680人間七七四年2012/01/31(火) 21:58:58.16ID:DuYKZNe3
貧乏籤に定評のある歳久だから、計算して悪役を演じた可能性もあるけど
若い内は兄弟なんてこんなもんだろ、妾の子が劣等感からグズってりゃいっそ突き放したくもなる
0681人間七七四年2012/01/31(火) 22:02:22.25ID:GfTf/cYP
六平太というと某山内大河の汚れ創作キャラ思い出す
あれは悪い話向けだが
0682人間七七四年2012/01/31(火) 22:26:43.23ID:spF9iIt/
http://sep.2chan.net/may/b/src/1328015735764.jpg
http://may.2chan.net/b/res/99378344.htm
0683人間七七四年2012/01/31(火) 22:27:33.22ID:rbArCQ5D
歳久入れて島津四兄弟なら穂井田元清を入れて毛利四兄弟でいいと思う (´・ω・`)
0684人間七七四年2012/01/31(火) 22:40:46.41ID:t7lbLay8
>>680
まあそう言うな少し前でさえ長男と末っ子で
結構扱いに格差があったんだ幼い心じゃ腐りもするさ

ガキの頃本家に行って食事の後さっきまで遊んでた同い年の長男の子供のいる上座に行ったら
爺さんに「さがりおろー!」並の事言われてビビった記憶あるわ
昔ならその比じゃ無いだろ
0685人間七七四年2012/01/31(火) 23:51:07.46ID:BFBhbbFS
徳川忠長「そうだそうだ」
0686人間七七四年2012/02/01(水) 00:00:12.71ID:le3Xxwrv?2BP(0)
家康の水と船じゃないけど兄弟の仲も難しかったんだろうな
仲良かったり親が差をつけなかったりしてかえって後でもめたりとか
0687人間七七四年2012/02/01(水) 14:46:10.32ID:tNGFSDSf
幼い子供が妾腹がどうとかとかいきなり分かるわけないじゃん。
周りにそのように扱われたから幼い子が劣等感持つようになったんだろうに。
頭押さえつけられて育たねえって馬鹿にされたら大人でも腐るわ。
0688人間七七四年2012/02/01(水) 15:20:56.48ID:a2Xl/ZuX
実の兄弟でも不仲だったり異母兄弟でも仲良しだったり、
周囲の扱いとか本人同士の相性とかかね
現在より死が身近だったろうから、まさしく「兄がいなくなれば
俺が当主!」ってのも遠い世界の話じゃないだろうし
0689人間七七四年2012/02/01(水) 15:55:09.64ID:khspt0tp
うっきー「本家?」
松永ダンジョー「俺たちは悪いスレ帰ろうな」
0690人間七七四年2012/02/01(水) 15:59:32.17ID:skUZo674
>>683
あそこは隆景より下が虫けらだからなぁw
0691人間七七四年2012/02/01(水) 17:25:47.18ID:frXrfoZw
織田も四男以下は扱いがわるいような。
0692人間七七四年2012/02/01(水) 18:04:38.06ID:I7Ddn724
>>683
父親の正妻への思い入れが
島津と毛利じゃ段違いだからじゃね?
元就は「死んだ女房がここにいたらさー」だの
「死んだ女房だったらさー」とか、のちのちまで言い過ぎw
0693人間七七四年2012/02/01(水) 18:37:56.46ID:a2Xl/ZuX
恋女房?に便乗だけど新郎新婦どちらもすごく幼いうちに
一緒になると特に抵抗もなく自然ラブラブになるのかなーって
秀頼千姫や利常珠姫で思った。
どちらも思春期迎えてからだと好きなタイプじゃないとか
思っちゃって上手く行かなかったり?

珠姫の、父親(将軍)にダーリン早く返して!って直球で
ねだるエピソード好きw 身分の高い人は我が儘も自重って
もっと後の世の常識なのかね
0694人間七七四年2012/02/01(水) 18:50:11.51ID:e8IVJ+k9
京極忠高と初は仲悪かったようだけどな
0695人間七七四年2012/02/01(水) 18:58:28.72ID:cinzOU/j
もっとも、子供のころから一緒に生活していると恋愛感情はわかなくなるという実験結果もヨーロッパにはあるそうだ
0696人間七七四年2012/02/01(水) 19:25:45.20ID:skUZo674
幼い頃に嫁入りした場合は嫁修行と称して年頃になるまでは隔離染みたことされるんじゃなかったっけ?
0697人間七七四年2012/02/01(水) 23:24:21.30ID:Lrxs/9kK
あるときに劉暾は石勒を打倒するために石勒配下であった王彌に献策をした。
その策の内容は「曹嶷を支配下に治め、石勒を騙し討ちにした後に曹嶷の兵と共に
石勒の勢力を併呑する」ということであった
飛杓と呼ばれたほどの武勇だが、悪い面であるその蛮勇のせいで
石勒に疎まれ暗殺される危険性を感じていた王彌は乗ることとした。

そのために劉暾が曹嶷を説き伏せるべく死者として密書持ち派遣されるが、
なんと劉暾が石勒の騎兵に東阿に捕獲されてしまったのである。
そして、密書が見つかったため陰謀が露見し石勒はそれに大いに怒り劉暾を即殺害した。

さて王彌は危機を迎えた。
悲劇的なことに王彌は策が露見したことを知らず石勒を騙し討ちにしようと石勒の元に向かったが
逆に陰謀を把握していた石勒に殺されてしまったのである。その後王彌の勢力は石勒に併呑された。
一代の梟雄の死に様であった。
0698人間七七四年2012/02/01(水) 23:29:12.74ID:9RnzwFma
チャンコロの歴史なんぞどうでもええわ
いい加減うぜえから消えちまえ
0699人間七七四年2012/02/01(水) 23:30:00.57ID:Zv5vXJfq
>>698
専ブラ使ってたらNGIDで一発だよ。おすすめ。
0700人間七七四年2012/02/02(木) 00:43:42.05ID:1y8j49HQ
武田信繁
「下の者に対して教育する場合、
小さな過失は単に訓戒にとどめておき、
大事の過失、許すべきでない罪を犯した時には、
その者の一命をも取り上げざるをえないこともる。
『大公』に、双葉のうちに断たねば斧を用いるようになる、
とあるように、物事は初期に処置しなくては、
ついに増長して後に困難するようになると樹木にたとえ戒めている。
ここで気をつけなければいけないのは、
小さな過ちを取り上げて何回も折檻していたのでは、
ついには折檻に慣れてしまって平気になってしまうものだ。
『呂氏春秋』に、命令が過酷すぎれば聴かれず、
禁事が多すぎれば正常な生活も行われなくなる
、とあり、教育や指導における手加減の難しさが書かれている」

東のパーフェクトの教育論および指導論です
0701人間七七四年2012/02/02(木) 01:22:57.02ID:+k99GtUy
伊達家に仕え、その跡取りである伊達正宗の守役を19歳のころから勤めていた片倉景綱には
正宗の養育係であった喜多という異父姉がいた。この喜多は、文武両道に通じ男性にも引けを取らない賢女だったと
伝えられ、一説には、景綱は待遇に不安を感じて

「諸国を巡って名将に仕え、天下に名を広げたく思います。」

と、姉に相談したところ、

「主君を裏切れば天がそれを許さないでしょう。誠意をもってお仕えする事が
 貴殿の幸せにつながります。」

と諭され、景綱は思い留まったという。その後の政宗の飛躍ぶりは言わずもがなである。
以上、姉の見る目は正しかったというお話。
07027002012/02/02(木) 01:35:58.11ID:1y8j49HQ
>>701
やはり養育者の人選は重要だ
現代は学校の先生選べないから、
自分の子供がオカシナ教師の受け持ちになったらと考えると恐ろしい

>>700
×その者の一命をも取り上げざるをえないこともる
○その者の一命をも取り上げざるをえないこともある
訂正します
0703人間七七四年2012/02/02(木) 02:01:53.82ID:m7TCDHS9
細かいことだけど、正宗じゃなくて政宗な
0704人間七七四年2012/02/02(木) 09:51:41.67ID:tf+4A38A
>>684
長男とそれ以外
正室の子とそれ以外
では扱いに差があったんだね
庶子の扱いとか雑な人もいるし
子供はみんな平等で可愛いは当たり前というのは現代感覚か
0705人間七七四年2012/02/02(木) 10:06:37.34ID:uYgv3FEK
昔もそうだったと思うよ。
ただ、家を繁栄させるのが個より重視された時代だから
そういう扱いになったんじゃないかな。

上の子より下の子をかわいがるとろくな事にならないのは
過去の事例からもわかってるのに無くならないのはそういうことなんだろう。
0706人間七七四年2012/02/02(木) 10:48:34.75ID:ypE5Rt2p
>>704
いや、今でも愛人の子供とかはいい感じには見られないよ
しかも財産分与で土地、財産とかが絡んでくるケースでは子供は平等に、なんてとてもとても・・・
戦国や源平さながらの骨肉の争いを演ずるのは今でも珍しくなかったりする
0707人間七七四年2012/02/02(木) 11:26:33.36ID:6maJbAPe
>>706
戦国と現代を比べること自体ナンセンスじゃね?
現代なら私生児も無問題、子供はみんな平等って流れでもねーし

兄弟のいざこざとか考えると家康はそういう面でも恵まれてたのかなと思うわ
その分か知らんが家臣団がかなりアレだけどw
0708人間七七四年2012/02/02(木) 11:37:42.68ID:boISgwmx
側室を愛人と一緒にするのもどうかな
側室って家に管理されてる存在だし、今の愛人という意味とは別物かと
0709人間七七四年2012/02/02(木) 11:48:36.21ID:fU4P0csm
家臣が管理してるのをつまみ食いするのが愛人
ちゃんと囲っておくのが側室
0710人間七七四年2012/02/02(木) 12:02:30.39ID:Rr3YahV/?2BP(0)
奥さんの管轄や権利なんかだと酒を出したりするのは奥さんの管轄だったって聞いた気がするけど
そういう戦国大名の正室の仕事や権限なんか興味あるな
まあ戦国時代だと大名家によってかなり違うだろうし織田家なんかなんの権限もなさそうだけど
秀吉のときでも徳川幕府の大奥ほどきちんと制度化されてなかったんだろうし
0711人間七七四年2012/02/02(木) 20:57:55.84ID:A5HdWI/u
チャンコロ、支那畜などと連呼している差別主義者がいるが
上記に近い時代に差別主義者がいた。

その差別主義者冉閔は、石虎の養孫であり頭角を表し北中郎將、游撃將軍を歴任等を歴任した。
慕容格に石虎が大敗した時も冉閔率いる兵だけは無傷であったので
皆彼を恐れたというエピソードがあるほどの戦上手であった。
彼は石虎の養孫であるが、父は漢族で漢族出身であった、そのことが後の人生の転機となるのである。

石虎が没すると、彼は一気に君主に成りあがろうとし石一族を擁立するが排斥されそうになったため、
いずれも石氏を皆殺しにしている。

そして、漢族以外の人間を皆殺しにしようとし、胡族20万人を大虐殺したのである。
鼻が高いだけの漢民族も大量に殺戮されたという。
そして漢族だけで構成される漢族史上国家を設立しようとした。
しかし異民族が漢族が共存していた華北で行うのは無謀であり
その試みは無残に失敗し勢力は驚くほどの速度で縮小していった。

同じ漢族の国家である晉に援軍を要請したがそれすら無視されている。

わずか冉閔の冉魏は3年で滅亡し16国の一つには数えられていないのである。
0712人間七七四年2012/02/02(木) 21:24:07.25ID:5T+2X2Sz
状況によっても色々違うだろうしな。
今川の寿桂尼とかのように国政にがっつりな所もあるし。
まぁ他国から嫁に来た場合とか特にそうだけど、
お互いの家の利益調性者的な立場も期待されていた面もあるだろうから、
奥向きばかりじゃ無いんじゃないかなぁ。
0713人間七七四年2012/02/02(木) 21:29:37.69ID:ypE5Rt2p
義姫とか信玄の嫁さんもだね
0714人間七七四年2012/02/02(木) 22:17:50.11ID:h/3x0HG1
当時の華北を「異民族と漢族が共存していた」とするのもかなり無理があるような
0715人間七七四年2012/02/02(木) 22:22:01.96ID:nazdpI3H
>>714
触るな
0716人間七七四年2012/02/02(木) 22:50:38.82ID:DbXWAQ2D
奥さんが機能しないことに定評のある上杉家では
謙信時代→当然室がいないので、直江景綱の室が謙信の奥向きも務める
景勝時代→菊姫と四辻殿が相次いで亡くなった後
室を取らなかったので直江船が奥向きを務める
というような感じだったらしいが
0717人間七七四年2012/02/02(木) 23:54:51.68ID:A5HdWI/u
共存ではないが一緒の生活はしていた。
石勒が融和に努めてる
0718人間七七四年2012/02/03(金) 01:00:51.12ID:dLpyUa4Z
もうこういう子を見るとかわいそうで黙ってられないんだわ。
マジレスするよ!
1回目は正直ちょっと面白かったよ、その戦国じゃねーよ!ってな。
でも2回目からは面白くないんだよ・・・うん、繰り返しの同じネタは退屈でつまらない。
0719人間七七四年2012/02/03(金) 02:07:47.01ID:dgBQhmXy
>>718
殿、いけませぬ!これは釣り野伏にござる!
ここは拙者が身代わりに……さあ、早くお逃げくだされ!
やぁ、総大将>>719はこれにあるぞーっ!!


申し上げます!
>>719殿、お討ち死に!
0720人間七七四年2012/02/03(金) 02:10:15.11ID:z7JU1nru
荒らしに構う奴も荒らし
何度も言わせんな
0721人間七七四年2012/02/03(金) 02:24:57.49ID:QLyHwq6I
戦国時代の定義は戦乱で乱れてる時代からスレ違いではありません
0722人間七七四年2012/02/03(金) 02:41:04.70ID:hSACMzPL
うざ
0723人間七七四年2012/02/03(金) 02:52:18.00ID:6HgHKC9p
なんでそこまで意地になれるのか知りたい
オレは読みもしないし気にならないからいいけど、
嫌がってる人も多数だから止めればいいのに
0724人間七七四年2012/02/03(金) 04:02:34.28ID:466tvGeF
今更言う事じゃないが世の中には色んなアレがいるんだよ
カタカタ一生懸命長文書いて
例え罵詈雑言でも皆から気にしてるレス貰えるのが何よりというな・・・

煽り耐性無さ過ぎじゃわざわざ御褒美与えてどうする
0725人間七七四年2012/02/03(金) 04:10:07.66ID:kP89qAt8
>723
昔、一生懸命に逸話をコピペして、みんなに叩かれたからだったと記憶
0726人間七七四年2012/02/03(金) 04:30:23.53ID:QLyHwq6I
5月、慕容儁は自らに差別的な罵倒をした冉閔を斬り殺し
同じ頃冉魏の首脳部である太子冉智、妻の董氏、幹部が自ら命を断った。
ここに冉魏はわずか3年で滅亡したのであった。

しかし冉閔を斬り殺した5月から山の周囲、7里で一滴も雨が降らなくなり、
草木が枯れ、蝗蟲が大発生する天変地異が12月まで続いたのである。
一滴もずっと雨が降らないのは、現代でもそうだが
当時は迷信がはびこっていた時代であり慕容儁は冉閔の祟だと考えたのであった。

12月、慕容儁は祟りを沈めるため使者に弔わせ武悼天王を冉閔に追悼したのである。
そうすると、何故かその日のうちに大雪が降り始めたのであった。
こうして祟りは晴れたのである。
0727人間七七四年2012/02/03(金) 08:19:32.97ID:jAuNm70S
リアルでもネットでも誰にも相手にされないから
罵声だろうと相手されることにエクスタシー感じてんだよこの手の糞餓鬼は
分かったらもう餌与えんな
0728人間七七四年2012/02/03(金) 11:22:48.18ID:GG07s3BZ
>>725
逸話じゃなくて年表の貼り付け
0729人間七七四年2012/02/03(金) 15:45:21.49ID:IIp0gqpt
>>725
ウィキペディア丸写しが最初だったと思う
0730人間七七四年2012/02/03(金) 16:22:58.04ID:jDRsc2OD
そして趣向を変えて大いばりのつもりの文書もやっぱり目新しくもないという
0731人間七七四年2012/02/03(金) 16:29:58.88ID:sTB4l2dS
ネタが被ってたりもしていたな
まあ、スルーしましょうよ
0732人間七七四年2012/02/03(金) 19:37:41.23ID:g39Xtjb4
つーか、戦国時代ってのを言い訳にしてたはずなのにあっさりネタ切れて
時代変わっちゃってるのがむしろかわいいんだがw
0733人間七七四年2012/02/03(金) 20:04:29.05ID:lNzRr7sA
>>701「伊達の鬼 片倉小十郎」という漫画だと、出奔する弟を路上で待ち
受けて「思い止まらないなら、お前を討って自害する」という場面になって
いたな。
0734人間七七四年2012/02/03(金) 20:07:18.51ID:8HE5RLeU
>>733
路上で待ち受けてを、なぜか「路上で持ち上げて」と空目してしまい
ずいぶん剛強なお喜多さんの出てくる漫画だと思ってしまったw
0735人間七七四年2012/02/04(土) 00:32:52.13ID:a6n6rtik
弓vs鉄砲


織田信長がまだ尾張を支配できていない頃、親族の織田信賢と戦いになった。
戦いの中、信賢側の弓の名人・林弥七郎と、信長の鉄砲の師匠・橋本一巴が遭遇した。
2人は知り合いだったので、弥七郎は「逃がさんぞ」と声をかけ、一巴は「分かっておる」と答えた。
弥七郎は四寸ほどの矢じりをつけた矢を放ち、一巴は鉄砲に2つ弾をこめて撃った。
矢は一巴の脇の下に深く刺さり、弥七郎は鉄砲弾を受けて倒れた。

そこへ信長の小姓・佐脇藤八(前田利家の弟)が近づいてきて、弥七郎の首を取ろうとした。
弥七郎は立ち上がれないまま太刀を抜き、佐脇藤八の左肘あたりに斬りつけたが、藤八に首を取られた。

林弥七郎、弓と太刀との働き比類なき仕立なり。 by 太田牛一
0736人間七七四年2012/02/04(土) 09:24:59.05ID:68W5ajpd
藤八って出奔した後に三方ヶ原で戦死するんだっけか
0737人間七七四年2012/02/04(土) 09:29:15.96ID:v4AHn37T
>>736
そういや信長公記にあったね。
0738人間七七四年2012/02/04(土) 10:52:36.89ID:itxgZTSB
「雲龍図」「花卉図」等を描いた海北友松は豊臣〜徳川時代の絵師として
知られるが、元は近江浅井氏に仕えた武家の出である。親友であった斎藤
利三が主君・明智光秀とともに本能寺の変を起こして敗れ、謀反人として
本能寺跡に晒されたことを知ると、その夜に遺骸を持ち去り手厚く葬った。

梟首台の衛兵を槍を振るって襲ったとも、東陽坊長盛という仲間の僧侶が
読経で気を逸らしたとも言われる(両方かも知れない)。奪われた方には
たまったものではないが、羽柴勢が制圧した洛中でやらかすには襲う方も
命懸けである。更に福(後の春日局)ら利三の遺児を匿ったとも伝わる。

長盛が住職を務めた京都の真正極楽寺には長盛と友松夫婦、利三の墓が
仲良く並んでいる。

教科書では長谷川等伯や狩野永徳と同じ文化人としてしか紹介されないが、
画業に専念する前の恐らく最後の武勇伝である。
0739人間七七四年2012/02/04(土) 11:00:18.62ID:GDxTLFHm
こういうのってお咎め無しというか逆に褒められることも多いよな、勝者の余裕ってとこだろうか
あとホントかどうか知らんけど親父さんが秀吉に尊敬されてたってのも理由の一つかね?
0740人間七七四年2012/02/04(土) 14:00:52.01ID:Kny0XdF+
まあ絵師と坊主に襲われる方のが失態だしな
0741人間七七四年2012/02/04(土) 17:39:46.53ID:WNZu97OL
絵師と坊主に負けました首さらわれましたじゃカッコ付かないもんな
おそらく天狗のせいにされたんだろう
0742人間七七四年2012/02/04(土) 17:56:12.44ID:HN975UnA
大猿じゃ、怪しげな大猿が攫っていったのじゃ!

(゚Д。)
~~~~~~
0743人間七七四年2012/02/04(土) 20:03:23.32ID:AC264RHe
葉隠からです。
山本常朝
『勝茂公が話されたことだ。
「朝鮮での戦で加藤嘉明が敵船を乗っ取ったときには、
鎧に簑の毛の如く矢が刺さりながらも、
敵船に乗り降り、ものにして武功を立てられた。
以前、太閤様のお供で吉野で花見に行ったのだが、
花よりもなにも、あのときの加藤嘉明の武者ぶりは美しかった。」
と仰せられたとのことだ。
続けて、
「加藤嘉明は、上方におられたとく、
西方の立花勢を攻撃せよとの命をうけ、
戦いが終わり御挨拶に登城したとき、
ちょうど井伊直政が将軍様のお目見えを司どっていたが、
関ヶ原で肩先に手傷をうけられたのを、
白い布で結び付けて首にかけ、
片手をつきながらの礼儀作法、
その姿、気迫、すべて見事なもので、
とても言葉では言い表わせないほどであった。
天下無双の英雄、勇士とも申すべきで、
これから百年、千年の後までも手本とするべきである。」
と仰せられたとのことである』
0744人間七七四年2012/02/04(土) 20:06:07.09ID:AC264RHe
加藤嘉明は、上方におられたとく、

加藤嘉明は、上方におられたとき、


誤字失礼
0745人間七七四年2012/02/04(土) 20:09:59.92ID:GDxTLFHm
伽藤さんは相変わらずかっこいいな、武士としての完成度が高いというか
0746人間七七四年2012/02/04(土) 20:11:41.55ID:WNZu97OL
まるで自分が東軍にいたかのような物言いだな
0747人間七七四年2012/02/04(土) 21:35:19.61ID:1Xe2UHRd
地味加藤さんが朝鮮で敵船を乗っ取った時ってえとアレか?
塙団右衛門の暴走にかこつけて抜け駆けした時か
0748人間七七四年2012/02/04(土) 21:56:33.11ID:99UI8nFM
徳川家康の祖母源応尼
徳川家康が、今川家で人質だった幼少期に彼を教育したのは
祖母の源応尼だった。
彼女は三河国刈谷城城主水野忠政の妻で徳川家康の外祖母にあたり、
また家康の祖父松平清康の後妻でもあった人物である。
初め、水野忠政に嫁いで水野忠重・於大の方ら3男1女を生む。
だが、隣の岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、
松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたと言われている。
清康の死後、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが、
いずれも夫に先立たれている。
その後、今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼(げんおうに)と名乗る。
松平竹千代(徳川家康)が今川家に人質で来た際、義元に乞うて竹千代が元服するまでの8年間、
その育成にあたった。
家康の駿府時代に家康の陰や日向になって支えた。




0749人間七七四年2012/02/04(土) 23:30:06.27ID:r+L+VGxg
>>748
再婚の回数がすごいな
於大の方も再婚してるけど比較にならない
よっぽどの美女だったのかな
0750人間七七四年2012/02/05(日) 00:47:01.36ID:eOtWNGPJ
>>748
こんな落語あったな。つぎからつぎへと婿が死ぬ美人の
嫁さんの話。
0751人間七七四年2012/02/05(日) 00:49:22.91ID:dcWCbTTd
三国時代の魏では詩が盛んで、曹操、曹植、曹丕と皇族詩人を輩出している。
司馬懿もそれに習って詩を詠んでいる。それは讌飲詩だ。
天地開闢 日月重光
遭遇際会 畢力選方
将掃穢甫 還過故郷
肅清万里 総斉八荒
告成帰老 待罪武陽


これが司馬懿が唯一残した詩で、劉邦が残した詩なみの下手くそさであり、
後世でこれはあまりの下手くそさにネタにされているが、司馬懿の相変わらずの狸ぶりが示されている。
この詩は郷土に隠棲し静かに暮らそうとの内容が書いてある詩であり
皇帝に二心が無いことを示すために詠んだのではないか。
しかし司馬懿はこの詩を詠んだ約10年後クーデータを起こし魏の実権を奪ったのであった。
0752人間七七四年2012/02/05(日) 00:50:52.40ID:h7QUPY57
吉川元春「ならわしは長命だ」
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