戦国ちょっといい話30
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0001人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0604人間七七四年
2012/01/26(木) 19:57:54.77ID:jJZ111pk諱決めた→通字決めなきゃ→皆、頭の方を通字にしてる→通字は秀
と思ってましたwソースなんてないですがw
0605人間七七四年
2012/01/27(金) 13:46:27.74ID:2ntAG9Egだれかがどっかで書き込んでたけど、
親戚の清正とかが鍛冶屋の息子だったり、姉の夫も名も無い百姓だったり
まわりに碌な親戚連中がいないのでそれほどたいした家とは思えないってあったな。
俺もそう思うわ。
だいたいこの当時富裕な百姓って地侍も同じで、
それなりの武家とは親交もあったろうし、
そのつてでそれなりの武士が速い時代に秀吉の遠い親戚ってことで
家臣に名をつらねていてもおかしくないだろうけど、
そんな資料は今のところないしな。
0606人間七七四年
2012/01/27(金) 14:21:16.56ID:ehS28Uyg智、秀吉と秀長、旭は異父同母とか言われても弥右衛門の死去年や4人の
年齢差を考えると嘘臭く見える
弥右衛門=竹阿弥説とかもあるが竹阿弥は実在しない人物だった可能性すら
考えたりする
0608人間七七四年
2012/01/27(金) 22:28:54.96ID:a/Qhg6lJ『元の木阿弥』の語源は筒井順慶の親父の順昭に由来するって説もあるらしいね。
ここにwikiのコピぺ貼るのも無粋なんで、各々「筒井順昭」でググるよろし
0609人間七七四年
2012/01/27(金) 22:31:14.01ID:lccBk0JZ地味なのに「元の木阿弥」「洞ヶ峠」と、2つもことわざを生み出す筒井家
0610人間七七四年
2012/01/27(金) 22:56:21.34ID:Vrejnsn+0611人間七七四年
2012/01/28(土) 01:40:31.60ID:Jn8C25A3大友氏は一族や国人の反乱を防ぐためあらゆる策を講じた。
そのひとつに偏諱の乱発がある。
これを受けると領地の大小はあってもみな直参となり、有力者を分断する
ことになる。
だから有力者には当主・嫡男だけではなく、次男以下、
更にはその近親者にも偏諱を行った。当然、被官層ももれなく偏諱。
しかも大友の威光が高まるにつれて、有力な一族や周辺国の大名・その一族にも
次々に偏諱を受けていくようになった。
だから同名さんが増えてしまった。同名者が複数いる例。
鑑康
鑑種
鎮種
鎮実
鎮秀
鎮賢
鎮純
鎮直
鎮信
統虎
0612人間七七四年
2012/01/28(土) 08:23:07.75ID:pLwH/qgN0613人間七七四年
2012/01/28(土) 09:57:34.75ID:FUcJn9Ix0614人間七七四年
2012/01/28(土) 10:02:29.32ID:pi3tb3f50616人間七七四年
2012/01/28(土) 11:56:36.37ID:boVBREML変えすぎだろう…
0617人間七七四年
2012/01/28(土) 12:54:00.64ID:MPnlgZY1相手に誰? って思われないんだろうか
0618人間七七四年
2012/01/28(土) 12:57:00.09ID:J+yyiK1h0619人間七七四年
2012/01/28(土) 13:12:17.69ID:MPnlgZY1それじゃあ出会い頭に会った時、いや今は○○と改めたって言うのかね
0620人間七七四年
2012/01/28(土) 13:17:05.64ID:3hD+lZsV0621人間七七四年
2012/01/28(土) 13:22:24.74ID:MPnlgZY1特に問題ないってことか
0622人間七七四年
2012/01/28(土) 13:25:08.08ID:4faSkx4S0623人間七七四年
2012/01/28(土) 13:31:43.60ID:pQaPwTAf別人だと思ってた二つの名前が同一人物だったり
その逆もあったりするし
0624人間七七四年
2012/01/28(土) 13:35:02.25ID:MPnlgZY10625人間七七四年
2012/01/28(土) 14:09:40.30ID:XMVCfJ3m0626人間七七四年
2012/01/28(土) 14:13:12.39ID:6RNaz/r10627人間七七四年
2012/01/28(土) 14:25:59.94ID:cGf6rbGG0628人間七七四年
2012/01/28(土) 14:27:44.79ID:MPnlgZY10629人間七七四年
2012/01/28(土) 18:13:13.43ID:pLwH/qgN0631人間七七四年
2012/01/28(土) 21:06:11.30ID:6YM77AK00632人間七七四年
2012/01/28(土) 22:38:07.32ID:hF5IVVvb佐伯家とかの大神一族系の他門衆や
同門衆でも三大支族の志賀家と田原家は
偏諱を受けないみたいだけどね。
0634人間七七四年
2012/01/29(日) 00:48:22.56ID:7B+B5ExM0635人間七七四年
2012/01/29(日) 00:58:10.63ID:lzWD42wk0636人間七七四年
2012/01/29(日) 01:43:36.32ID:0W6epqBK(長宗我部信親とか秀次の家臣団とか例外はあるけど)
0637人間七七四年
2012/01/29(日) 01:44:25.70ID:TPZanYLJ0638人間七七四年
2012/01/29(日) 01:57:30.14ID:0W6epqBK伊達氏の通字「宗」や千葉氏系の「胤」は当主の下の字になることが多いから
家臣で頭の字に頂いてるのをよく見る
0644人間七七四年
2012/01/29(日) 13:59:39.50ID:P0DDgbd7みたいなんだけど、19代の大友義長から足利家から義の字の偏諱を受けて
通字としたため、通字じゃない方を慣習的に偏諱するようになっていったみたい。
同紋衆でも家格の高い田原家や志賀家は親を通字のままにしてたようだけど
佐伯家とかの大神一族系の他紋衆は、惟の字を平安の頃から通字にしてるから
基本的に偏諱は受けない信念があるようだ。
0645人間七七四年
2012/01/29(日) 14:14:14.43ID:zB0rRwcG簡単に言えば政虎と改名した時は正式に家督を継いでいなく
憲政個人の代理補佐役いわゆる陣代だったので、
山内の通字を使ってなかったと考察されている
0646人間七七四年
2012/01/29(日) 14:55:33.71ID:FHD6h9E1それも大体そうなんだが、結構例外も多い。
佐伯鎮忠(惟教の息子)とか田原鑑道(親賢の養父親資の弟)、統高親子とか
南志賀家の鑑隆・鎮隆親子とか。
そもそも吉弘ももともと田原一族だが、分離しちゃったし。
>>640
そう直参はみんなもらえる。
鑑連の代わりに加判衆になった戸次鎮秀も戸次の別家の当主。
だから鑑連も戸次一族の中でただ一人もらっているわけじゃなく、
みんなもらっている中の一人。
0647人間七七四年
2012/01/29(日) 15:02:41.84ID:FHD6h9E1「親」の他にも「直」「能」「氏」「秀」なんかもよく使う。
ついでに義長以前にも義右(第17代当主)がいる。
それ以前は将軍の下の字をもらっていたが、この頃から「義」の字を
もらうようになった。
なぜかというと「義」の字の方が高いからw
>>611に追加。
鎮忠
鎮則
2人どころかひどいのは3人同名さんがいる。
0648人間七七四年
2012/01/29(日) 16:15:37.70ID:dV7cpYjB備中高松城で対峙する毛利輝元と羽柴秀吉であったが、秀吉は輝元の陣に使者を派遣し、
安国寺恵瓊を呼んで、和議についての話を始めさせた。
秀吉からの和議の条件は以下の通り
・伯耆の国は矢橋川を境界とする
・備中は河辺川を境界とする
・残りの中国筋は尽く毛利家の進退するものとする
・清水宗治には切腹を仰せ付けられること
「この条件であれば信長公へ御和平は相整い、毛利の御家もつつがなく、秀吉も面目を立てることが
出来ます」
安国寺恵瓊はこの条件を持って毛利輝元に報告する。毛利の現状からすれば上々の
和議内容であろう。しかし輝元はこれに断固として反対した
「国分け(領土割譲)の事はともかく、当家にあれだけの忠義を尽くした清水に切腹を申し付けるなど、
そのようなことは出来ない!断じて罷りならん!」
安国寺は説得したものの、輝元は2度にわたってそう言い切った。
こうして状況は膠着した。ここに秀吉は密かに蜂須賀彦右衛門正勝、生駒雅楽頭親正を安国寺のもとに派遣し
内々にこう説得した
「毛利は現実を見るべきだ。近辺の国主はみな尽く秀吉になびいている。それらは全て証拠のあることである。
特に、小早川隆景殿が弟同然としていた上原元将さえ毛利と手切れをいたしましたぞ!
この現状では、この和平案を承諾するのが最善ではないか!」
安国寺、答える
「輝元様があれだけ言い切られた上は、これ以上説得した所で聞かれはしないだろう。」
それから安国寺は密かに高松城に入り、清水宗治に対面すると、これまでの和睦交渉の経緯を
ありのままに伝えた。
宗治は聞き終わると
「私の切腹の有無の事だけで和睦交渉が滞っているのですね。
毛利の御家の安否がどうなろうとも、拙者の事をお捨てにならないと決断された。
生々世々(生まれ変わり生き変わっても永遠に)、かたじけない儀であります。
このように扱って頂いたこと、家の面目、これに過ぎるものはありません。
こんな時は一命を投げ打ち、後代に名を残すことこそ武士の願うところであります。
この一命、片時も無駄に伸ばすつもりはありません。
しかし御両三殿(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)に申し上げても、私の切腹には賛同されないでしょう。
そうなれば秀吉との和平が整うこともありません。
安国寺殿、秀吉のもとに行き、清水は条件を承知した。御両三殿の御意に背いても切腹する。そう伝えて欲しい。
そして早々に和平のことを調え、この高松城に残る者たちは無事、毛利本陣に送り届けるようにし、
その上でこの事を御両三殿に披露してください。」
安国寺恵瓊は直ぐに秀吉のもとに向かい、この事を語った。
秀吉は感動し
「神妙無比である。清水の望むとおりにしよう」
と、清水宗治に伝えた。
こうして清水宗治は、6月4日、切腹することと決まった。
清水宗治が切腹するまでの過程である。
(萩藩閥閲録)
0649人間七七四年
2012/01/29(日) 18:35:56.38ID:lzWD42wk清水だって毛利の中じゃ外様なのに
0650人間七七四年
2012/01/29(日) 19:02:30.89ID:zB0rRwcG0651人間七七四年
2012/01/29(日) 20:13:27.85ID:skFjOdns国人衆が歯が抜けるようにボロボロ織田に下ってあっという間に滅亡だからな
0652人間七七四年
2012/01/29(日) 20:33:24.55ID:bIApyMfZ清水宗治が切腹する二日前に信長死んでるけど
そういうフォロー?
0653人間七七四年
2012/01/29(日) 23:04:04.52ID:J1U8VOXD確か、明智から毛利への密使が間違えて羽柴の陣に入ってしまって
急いで撤退していく羽柴軍を不審に思った毛利が調べて初めて、信長が死んだって気付いたが通説じゃなかったっけ?
0654人間七七四年
2012/01/29(日) 23:13:18.80ID:/TYHd38b0656人間七七四年
2012/01/30(月) 10:49:45.02ID:QD1iStZI大坂夏の陣から数ヶ月経た頃。
藤堂高虎に徳川家康が何気に尋ねた。
「あれは何と申したか、能の名手で、聚楽第でも見事に舞っておった、
しかもなかなかの槍の使い手で・・」
「喜多七太夫、でございまするか。」
「そう、そう、七太夫!あの者は、どうしておるかのう。」
なおもチラ見しながら家康が聞くと、高虎はやにわに平伏して言った。
「じっ、実は、七太夫は九州におりまする。どうかお許しを!」
秀吉の死後もその恩顧を忘れず、大坂の陣にも大坂城にて戦った喜多七太夫は、
いよいよ落城という時、旧知の高虎のもとに逃げ込んだ。
「武士とはいえ、もとは能役者、斬るにあたわず。なんとか逃げる手筈を・・。」
そこで、黒田長政あての添え状を持たせて九州へ逃した、と言う。
「おおかた、そのようなことであろうと思うておったわ。
能役者としてお前が後見するが良い。」
家康の許しを得て、喜多七太夫は京に戻り「喜多流」を起こす。
能楽五流の一つとなった「喜多流」は、藤堂家らの恩顧を受けて栄えたという。
高虎は常に言い続けてきたのだ。
「人を斬るばかりが武士ではない、人を生かすもまた武士なり」
・・・よく言う
0657人間七七四年
2012/01/30(月) 10:53:29.43ID:3CjR41MJ命と才能生かすためのお芝居だから何も問題ないが
0658人間七七四年
2012/01/30(月) 19:24:45.58ID:MDyxEeR30659人間七七四年
2012/01/30(月) 19:36:43.34ID:O2ZocYWo0660人間七七四年
2012/01/30(月) 21:10:13.68ID:Xi8WiCTj当時から太公望以上の功績とも言われ白起は秦に仕えること
40年、魏、楚、趙、韓などの大軍を撃破し続け向かうところ敵なしであった。
秦は、趙の領土である上党を攻め、ここに戦国時代最大の合戦である長平の戦いが始まった。
はじめに秦は趙の廉頗を攻め立てるが、守る廉頗は秦軍手強しと見るや土塁と城を築き長期戦に移行したのである。
これにより秦軍は攻めあぐね、長期戦による疲弊も出てきた。廉頗の作戦に秦軍は劣勢であった。
そこで秦は総大将を無敵の将軍であった白起に交代し宰相、范雎の提案に従い実戦経験がないながらも
兵法の大家との評判が高いが実戦経験がない机上の兵法家であった青二才趙括を総大将にさせるように仕向けた。
この策は見事にはまり、趙は実験経験がない青二才の超活を総大将にしたところを見ると
白起は総大将として出陣した。白起は策を用い趙括を兵に挑発させた怒った趙括が城から打って出てきたところを
伏兵で退路を遮断し城を占領したのである。
そのような戦況で補給線が遮断され40数日が過ぎ趙括率いる趙軍は餓えと渇きにより混乱に陥った。
同士討ちして仲間の肉を食べて餓えを凌ぐものもいたのである。結局趙括は打開しようと精兵をもって切り込んだが討ち死にした。
趙括指揮下の兵は武器を捨てて全軍降ったのである。
白起は捕虜を秦に連行するには食料が足りず、また返せば禍根となるため全員を食料をやると伝え捕虜を全員生き埋めにしたのである。
少年兵240名だけは許されたのである。こうして秦は趙に大勝したのであった。
しかし白起の功績を抑止しようとする范雎により趙と秦の間で趙が秦に城をわずか6城引き渡すだけの和議が行われてしまう。
和議の後秦はいくら趙の城を攻めようが落とすことが出来なかった。そこで白起に指揮を交代させようとしたが病気だとして白起は固辞したのである。
白起によると「秦の国力は低下し趙の国力は増強している。今まで勝ってきたのは当然のことで、今は趙は結束し国力を整えている。
今戦っても勝てない」とのことだったがそれを受け昭襄王は布団をはぎ取り「病気だというなら寝てても指揮をとれ」と白起に伝えたのである。
白起は「指揮を取れば命は助かるが趙を攻めても犠牲が多く勝てないので諸侯に号令すれば天下を取れる。」と主張したが昭襄王は無言で立ち去ったのであった。(要約)
そして白起は死を賜ることになった。
死ぬにあたって白起は「私が死ぬのは長平で多くの人々を殺したという天罰である」といい死んでいった。白起は同情され秦の民衆に神として祀られたという。
0661人間七七四年
2012/01/30(月) 21:14:02.34ID:mCm8H6af0662人間七七四年
2012/01/30(月) 21:39:48.93ID:kcTccEY90663人間七七四年
2012/01/30(月) 22:32:44.14ID:9b+Wu5iZ0664人間七七四年
2012/01/30(月) 22:39:15.47ID:GTPHhQfu世界史ちょっといい話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1327366681/
0665人間七七四年
2012/01/30(月) 22:48:20.05ID:JqdZMtOdあちらの戦国時代で戦に限れば最高クラスの名将の有名なエピですしいまさら・・・
0668人間七七四年
2012/01/30(月) 23:48:44.46ID:YdIPamUO0669人間七七四年
2012/01/31(火) 00:18:16.07ID:ZdAjZkdo自分で白けるものさ。
0670人間七七四年
2012/01/31(火) 13:10:46.19ID:vF+4Fqq80671人間七七四年
2012/01/31(火) 17:44:05.81ID:F8Irf6CLその反面あらゆる才に優れ琴の名手でもあった。
そんな彼は卓王孫の家で生活していたことがあり
あるとき卓王孫の家で月の明るい夜に琴を奏でていると
家の主人である卓王孫の娘である卓王君がその見事な琴に聞き惚れたのである。
それからはいつも、彼女は彼の琴の音を聞くようになった。
卓王孫は貧乏な相如に娘はが近づいていくのが気に入らなかった。
しかしいつ日か相如と卓王君は夫婦となり卓王孫の家を去っていった。
また一説によると文章家であった相如がラブレターを送り王君が惚れ込んだという話もある。
その説でも卓王君は相如とこっそり家を抜け出している。
いずれにせよ駆け落ちしたのである。
卓王孫は財宝を多く持っており貧乏な居候に過ぎなかった相如にかわいい娘である王君が嫁いだことを気に入らなかったため
娘の様子を意に介さなかったのである。
彼が蜀地方に行く時に昇遷橋がありその橋を歩いて渡るときに
橋の柱に、「私は、大きな車や肥えた馬に乗れるようになってからでなければ、
再びこの橋を渡り返すことはせぬ」と書いて誓い、その後、蜀の国に滞留した。
その後、望み通り出世することができて、この橋を渡って帰った。
そのようないいはなしである。
0672人間七七四年
2012/01/31(火) 17:49:48.57ID:F8Irf6CL卓文君は自分の所有物を売り払い、
臨卭の街に酒場を開いた。そこで、卓文君は自らホステスとして働き、
司馬相如は上半身裸で召使いのようにして働いた。卓王孫は自分の娘がこのような仕事をしていることを恥じ、親戚などからの勧めもあって、
卓文君に召使いを100人、100万銭、前回の結婚の際の嫁入り道具を与えた。これで、
司馬相如は結婚を認められたことになる。2人は成都に移り住み、土地を買い入れて、地主となった。(wikiより)
と唐物語は正確なことを書いておらずに捏造に近い編集を行なっているのである。
女は、何年も貧しいなかを連れ添った甲斐があり、親疎に拘らず世間の人々もこの上なく羨むような身分になることができた。
と上記の話のあと書いているが、その後に親の恩恵を受けているわけであり、出世して親類に認めさせたわけでもなく
出世して貧乏を脱出したわけでもない。
これでは、話自体は良くなるが正確さは伝わらず間違った印象を与えることになる。
史料を読むときには気を付けなければならないといういい話スレの低能向けの話である
0673人間七七四年
2012/01/31(火) 18:00:47.39ID:LZJfaO5Lちゃんとスルーしとけ。
0674人間七七四年
2012/01/31(火) 20:47:49.73ID:DuYKZNe3島津4兄弟で有名な話ですがまとめには出て無いみたいなんで
「軍略の家久」
島津家久は日新斎に軍略を得たりと予言されてはいたが幼少より優秀だったわけでは無く
4兄弟の中では唯一身分の低い妾の子である事に劣等感を抱いていた
そんなある日、4兄弟は連れたって馬追いをした時のこと
生駒にて飼育されている様々な馬を見て回ってる時に歳久は
「毛色の違う馬は色々いますがどの馬も母馬に似るものです、人間も似たようなものでしょうね」と言い放った
歳久の言いたい事を察知した義久は即座に否定した
「子馬が必ずしも母馬に似るわけでは無いだろうし、人間は畜生とは違い学問に励み徳を積めば父母よりも立派になるだろうし怠れば父母より劣る事になろう」
後日家久はその言葉を励みに日夜勉学武芸に励むようになり数年のうちに日新斎の予言通りの立派な将に育つ事となった
4兄弟ネタでは珍しく義弘が空気で、歳久からシャギ臭のする話
0675人間七七四年
2012/01/31(火) 20:51:38.62ID:GfTf/cYPしかし長兄トキで次兄ラオウな四兄弟だな
0676人間七七四年
2012/01/31(火) 20:52:14.15ID:pOgZGRIS0677人間七七四年
2012/01/31(火) 20:59:26.75ID:zVVVqgvW七太夫は幼少時、秀吉に近侍し、その芸達者ぶりから大変可愛がられた。
腰巾着のように、秀吉の傍を離れずにいることから、
ついたあだ名が「六平太(ロッペイタ)」
このロッペイタという名、ポルトガル語由来の言葉といわれ、
南蛮製の巾着の名であったといわれる。
この「六平太」という名は、喜多流宗家が使用する名乗りの1つとして、受け継がれている
「腰巾着」の意味自体は、あまり良いものではないと思うんだが、
外来語があだ名になった珍しさと、芸人らしい才気煥発さを指しているのだろうということで、こっちに。
0679人間七七四年
2012/01/31(火) 21:52:39.45ID:F8Irf6CL魏晋南北朝時代、奴隷から皇帝まで登り詰めた男がいた。石勒である。
石勒は智に優れ、このような策を決めている。
烏丸の張伏利度が配下二千で自らの勢力圏である楽平に籠もっていた。
劉淵はそれを見て張伏を招聘しようとしたが、固辞し続けるばかりだった。
そこで石勒が張伏を配下にする役目となったのである。
石勒は劉淵と裏で口を合わせ、罪を犯かしたということにし劉淵の元から石勒が張伏の元に逃げたのである。
張伏は石勒の帰順を受け入れ、あろうことか義兄弟にまでなったのである。
そして石勒は重複の命令で軍を率い、大活躍をしたのである。
その様子を目の当たりにし張伏配下は石勒に心服したのであった。
そして最初からの予定通り石勒は張伏の配下を調略した後、機を見て配下と共に
張伏を捉えてこう言ったのである「これから大事を起こすときに、張伏と私のどちらが君主としてふさわしい」と。
当然、張伏の配下は張伏ではなく石勒を推した。石勒は張伏を開放し予定通り
張伏配下と共に劉淵の元に帰ったのである。
その功績により石勒は督山東征討諸軍事となり、張伏の衆は石勒の配下となった。
石勒が劉淵の元で立てた初の手柄である。
0680人間七七四年
2012/01/31(火) 21:58:58.16ID:DuYKZNe3若い内は兄弟なんてこんなもんだろ、妾の子が劣等感からグズってりゃいっそ突き放したくもなる
0681人間七七四年
2012/01/31(火) 22:02:22.25ID:GfTf/cYPあれは悪い話向けだが
0682人間七七四年
2012/01/31(火) 22:26:43.23ID:spF9iIt/http://may.2chan.net/b/res/99378344.htm
0683人間七七四年
2012/01/31(火) 22:27:33.22ID:rbArCQ5D0684人間七七四年
2012/01/31(火) 22:40:46.41ID:t7lbLay8まあそう言うな少し前でさえ長男と末っ子で
結構扱いに格差があったんだ幼い心じゃ腐りもするさ
ガキの頃本家に行って食事の後さっきまで遊んでた同い年の長男の子供のいる上座に行ったら
爺さんに「さがりおろー!」並の事言われてビビった記憶あるわ
昔ならその比じゃ無いだろ
0685人間七七四年
2012/01/31(火) 23:51:07.46ID:BFBhbbFS仲良かったり親が差をつけなかったりしてかえって後でもめたりとか
0687人間七七四年
2012/02/01(水) 14:46:10.32ID:tNGFSDSf周りにそのように扱われたから幼い子が劣等感持つようになったんだろうに。
頭押さえつけられて育たねえって馬鹿にされたら大人でも腐るわ。
0688人間七七四年
2012/02/01(水) 15:20:56.48ID:a2Xl/ZuX周囲の扱いとか本人同士の相性とかかね
現在より死が身近だったろうから、まさしく「兄がいなくなれば
俺が当主!」ってのも遠い世界の話じゃないだろうし
0689人間七七四年
2012/02/01(水) 15:55:09.64ID:khspt0tp松永ダンジョー「俺たちは悪いスレ帰ろうな」
0691人間七七四年
2012/02/01(水) 17:25:47.18ID:frXrfoZw0692人間七七四年
2012/02/01(水) 18:04:38.06ID:I7Ddn724父親の正妻への思い入れが
島津と毛利じゃ段違いだからじゃね?
元就は「死んだ女房がここにいたらさー」だの
「死んだ女房だったらさー」とか、のちのちまで言い過ぎw
0693人間七七四年
2012/02/01(水) 18:37:56.46ID:a2Xl/ZuX一緒になると特に抵抗もなく自然ラブラブになるのかなーって
秀頼千姫や利常珠姫で思った。
どちらも思春期迎えてからだと好きなタイプじゃないとか
思っちゃって上手く行かなかったり?
珠姫の、父親(将軍)にダーリン早く返して!って直球で
ねだるエピソード好きw 身分の高い人は我が儘も自重って
もっと後の世の常識なのかね
0694人間七七四年
2012/02/01(水) 18:50:11.51ID:e8IVJ+k90695人間七七四年
2012/02/01(水) 18:58:28.72ID:cinzOU/j0696人間七七四年
2012/02/01(水) 19:25:45.20ID:skUZo6740697人間七七四年
2012/02/01(水) 23:24:21.30ID:Lrxs/9kKその策の内容は「曹嶷を支配下に治め、石勒を騙し討ちにした後に曹嶷の兵と共に
石勒の勢力を併呑する」ということであった
飛杓と呼ばれたほどの武勇だが、悪い面であるその蛮勇のせいで
石勒に疎まれ暗殺される危険性を感じていた王彌は乗ることとした。
そのために劉暾が曹嶷を説き伏せるべく死者として密書持ち派遣されるが、
なんと劉暾が石勒の騎兵に東阿に捕獲されてしまったのである。
そして、密書が見つかったため陰謀が露見し石勒はそれに大いに怒り劉暾を即殺害した。
さて王彌は危機を迎えた。
悲劇的なことに王彌は策が露見したことを知らず石勒を騙し討ちにしようと石勒の元に向かったが
逆に陰謀を把握していた石勒に殺されてしまったのである。その後王彌の勢力は石勒に併呑された。
一代の梟雄の死に様であった。
0698人間七七四年
2012/02/01(水) 23:29:12.74ID:9RnzwFmaいい加減うぜえから消えちまえ
0700人間七七四年
2012/02/02(木) 00:43:42.05ID:1y8j49HQ「下の者に対して教育する場合、
小さな過失は単に訓戒にとどめておき、
大事の過失、許すべきでない罪を犯した時には、
その者の一命をも取り上げざるをえないこともる。
『大公』に、双葉のうちに断たねば斧を用いるようになる、
とあるように、物事は初期に処置しなくては、
ついに増長して後に困難するようになると樹木にたとえ戒めている。
ここで気をつけなければいけないのは、
小さな過ちを取り上げて何回も折檻していたのでは、
ついには折檻に慣れてしまって平気になってしまうものだ。
『呂氏春秋』に、命令が過酷すぎれば聴かれず、
禁事が多すぎれば正常な生活も行われなくなる
、とあり、教育や指導における手加減の難しさが書かれている」
東のパーフェクトの教育論および指導論です
0701人間七七四年
2012/02/02(木) 01:22:57.02ID:+k99GtUy正宗の養育係であった喜多という異父姉がいた。この喜多は、文武両道に通じ男性にも引けを取らない賢女だったと
伝えられ、一説には、景綱は待遇に不安を感じて
「諸国を巡って名将に仕え、天下に名を広げたく思います。」
と、姉に相談したところ、
「主君を裏切れば天がそれを許さないでしょう。誠意をもってお仕えする事が
貴殿の幸せにつながります。」
と諭され、景綱は思い留まったという。その後の政宗の飛躍ぶりは言わずもがなである。
以上、姉の見る目は正しかったというお話。
0702700
2012/02/02(木) 01:35:58.11ID:1y8j49HQやはり養育者の人選は重要だ
現代は学校の先生選べないから、
自分の子供がオカシナ教師の受け持ちになったらと考えると恐ろしい
>>700
×その者の一命をも取り上げざるをえないこともる
○その者の一命をも取り上げざるをえないこともある
訂正します
0703人間七七四年
2012/02/02(木) 02:01:53.82ID:m7TCDHS9■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています