トップページsengoku
1001コメント403KB

戦国ちょっといい話30

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2011/12/11(日) 21:46:15.43ID:NURhlo81
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0583人間七七四年2012/01/25(水) 00:45:48.03ID:qXk8QNMS
吾妻鏡は家康も収集してた
0584人間七七四年2012/01/25(水) 01:08:08.03ID:8OTx067s
頼朝マニアの家康が吾妻鏡読んだら、気を悪くしそうだ。
0585人間七七四年2012/01/25(水) 03:40:38.10ID:IYTivm79
>>584
むしろ出版して広めてますがな
0586人間七七四年2012/01/25(水) 05:35:47.49ID:2+GdgyCD
家康「頼朝公も大変だな。御家人が言うこと聞かなくて・・・」
0587人間七七四年2012/01/25(水) 08:59:18.42ID:MIp6tndC
写本させて教育した後は出版する
これが家康流出版ビジネスか
0588人間七七四年2012/01/25(水) 11:43:39.01ID:lx9tGg+e
家康流というか書物の管理・出版は立派な既得権益だよね。
0589人間七七四年2012/01/25(水) 11:47:34.26ID:REPIzGSg
>>582
血統を重んじるのは日本も同じ。
「日本の祭祀はすべて悪魔によって考案された」と書いているよ。
貴重な仏像もあるのは事実だし、布教を邪魔しない人については特に何も書く必要もないだろう。
0590人間七七四年2012/01/25(水) 11:59:24.52ID:QPlLZ0E+
>>576
氏康「戦わずして勝つ」
直家「戦わずして勝つ」

同じ事いっても明らかに意味と手段違うもんな
0591人間七七四年2012/01/25(水) 12:20:43.18ID:PKYnQ7s3
謙信「和議が相成ったからには誓いの盃じゃ」
直家・秀久・元就・為信「では我が郷里の銘酒でも」
六韜なんて和訳版すら見た事ないが、こんなことまで書いてあるのか。
0592人間七七四年2012/01/25(水) 13:24:10.36ID:lx9tGg+e
>>591
なぜ仙石が
0593人間七七四年2012/01/25(水) 13:49:27.21ID:PKYnQ7s3
>>592
ごめん、素で打ち間違えたようだ。漫画板に帰るね。
さあ古織殿も一緒に帰りましょうぞ。
0594人間七七四年2012/01/25(水) 13:52:43.82ID:wNeS96vo
センゴクを久秀と間違うのは何回か見たような
そのたびに弾正の陰謀と言われてたけど、
実は十河あたりの陰謀だったりして
0595人間七七四年2012/01/25(水) 18:53:21.76ID:ackwj7cA
爆弾正と仙石の何がアレかって語感が近すぎるとこだろ
十回秀久or久秀って言ったらどっちがどっちか分からなくなるわ
0596人間七七四年2012/01/25(水) 19:21:06.66ID:JdTtOPNg
爆弾正は秀吉より地位が高かったから「久秀」

センゴクさんは秀吉より地位が低かったから「秀久」
0597人間七七四年2012/01/25(水) 20:25:25.78ID:kVqEqsdV
久久でいいや
0598人間七七四年2012/01/25(水) 20:32:17.26ID:wJtVSMIX
尼子秀久「たまには日の目を見たいな...」
0599人間七七四年2012/01/25(水) 20:33:15.44ID:EiFFBlZo
織田信秀:秀吉の「秀」はここから?
織田秀信:秀吉の偏諱をうけている
曽祖父と曾孫でややこしい
0600人間七七四年2012/01/25(水) 21:25:09.53ID:CCveSuNi
佐久間信信殿は果報者にござるな
0601人間七七四年2012/01/25(水) 23:22:26.65ID:K5DM1WEs
>>599
丹羽長秀の可能性も
0602人間七七四年2012/01/26(木) 00:01:56.18ID:vtu5mV5x
つーか秀吉の「秀」に関しては、弟も最初から「秀」長(信長時代は長秀)を名乗っているところから、
秀吉の生家の通字が「秀」だったという可能性もある。
0603人間七七四年2012/01/26(木) 19:22:55.87ID:xCKS1zlX
>>602
秀吉の父は木下弥右衛門秀ナントカや竹阿弥秀ナニガシってことか
なんかちょっと偉い人に見えてくるな
異父弟の秀長は百姓出身だって言うには多芸だしやっぱりそれなりに富裕層だったのかな
秀吉って父に関して何で語らなかったんだろう
幼いうちに死んだにしても大政所から色々聞いてるだろうに
0604人間七七四年2012/01/26(木) 19:57:54.77ID:jJZ111pk
順序としては、
諱決めた→通字決めなきゃ→皆、頭の方を通字にしてる→通字は秀
と思ってましたwソースなんてないですがw
0605人間七七四年2012/01/27(金) 13:46:27.74ID:2ntAG9Eg
>>603
だれかがどっかで書き込んでたけど、
親戚の清正とかが鍛冶屋の息子だったり、姉の夫も名も無い百姓だったり
まわりに碌な親戚連中がいないのでそれほどたいした家とは思えないってあったな。
俺もそう思うわ。
だいたいこの当時富裕な百姓って地侍も同じで、
それなりの武家とは親交もあったろうし、
そのつてでそれなりの武士が速い時代に秀吉の遠い親戚ってことで
家臣に名をつらねていてもおかしくないだろうけど、
そんな資料は今のところないしな。
0606人間七七四年2012/01/27(金) 14:21:16.56ID:ehS28Uyg
そもそも竹阿弥って何者なんだよといつも思う
智、秀吉と秀長、旭は異父同母とか言われても弥右衛門の死去年や4人の
年齢差を考えると嘘臭く見える

弥右衛門=竹阿弥説とかもあるが竹阿弥は実在しない人物だった可能性すら
考えたりする
0607人間七七四年2012/01/27(金) 18:23:30.10ID:SnMkKwoq
>>579
風呂椅子ワロタw
0608人間七七四年2012/01/27(金) 22:28:54.96ID:a/Qhg6lJ
竹阿弥で思い出した。

『元の木阿弥』の語源は筒井順慶の親父の順昭に由来するって説もあるらしいね。

ここにwikiのコピぺ貼るのも無粋なんで、各々「筒井順昭」でググるよろし
0609人間七七四年2012/01/27(金) 22:31:14.01ID:lccBk0JZ
むしろそれが一番有名な説だと思ってた
地味なのに「元の木阿弥」「洞ヶ峠」と、2つもことわざを生み出す筒井家
0610人間七七四年2012/01/27(金) 22:56:21.34ID:Vrejnsn+
どっちもあまり意味で使われないなw
0611人間七七四年2012/01/28(土) 01:40:31.60ID:Jn8C25A3
偏諱にちなんだ笑える話。

大友氏は一族や国人の反乱を防ぐためあらゆる策を講じた。
そのひとつに偏諱の乱発がある。
これを受けると領地の大小はあってもみな直参となり、有力者を分断する
ことになる。
だから有力者には当主・嫡男だけではなく、次男以下、
更にはその近親者にも偏諱を行った。当然、被官層ももれなく偏諱。
しかも大友の威光が高まるにつれて、有力な一族や周辺国の大名・その一族にも
次々に偏諱を受けていくようになった。

だから同名さんが増えてしまった。同名者が複数いる例。
鑑康
鑑種
鎮種
鎮実
鎮秀
鎮賢
鎮純
鎮直
鎮信
統虎
0612人間七七四年2012/01/28(土) 08:23:07.75ID:pLwH/qgN
鎮虎さんはいないのか
0613人間七七四年2012/01/28(土) 09:57:34.75ID:FUcJn9Ix
長政は?
0614人間七七四年2012/01/28(土) 10:02:29.32ID:pi3tb3f5
しげしげと眺めてしまったぜ
0615人間七七四年2012/01/28(土) 10:18:38.72ID:+wDDcbcQ
>>612
西の完璧超人さんが立花姓初期に名乗っていた模様
0616人間七七四年2012/01/28(土) 11:56:36.37ID:boVBREML
立花宗茂って晩年の名前なのな
変えすぎだろう…
0617人間七七四年2012/01/28(土) 12:54:00.64ID:MPnlgZY1
あまり頻繁に変えられちゃ、名前変えた後に手紙送る時
相手に誰? って思われないんだろうか
0618人間七七四年2012/01/28(土) 12:57:00.09ID:J+yyiK1h
花押があるから
0619人間七七四年2012/01/28(土) 13:12:17.69ID:MPnlgZY1
ああそうか 花押があったか
それじゃあ出会い頭に会った時、いや今は○○と改めたって言うのかね
0620人間七七四年2012/01/28(土) 13:17:05.64ID:3hD+lZsV
諱は普段出ないんだろうから苗字+通称や官位(自称を含む)で区別してんじゃねぇの
0621人間七七四年2012/01/28(土) 13:22:24.74ID:MPnlgZY1
んじゃどれだけ名前変えても、日常的な人付き合いでは
特に問題ないってことか
0622人間七七四年2012/01/28(土) 13:25:08.08ID:4faSkx4S
手紙に出てくる個人名のいい加減さは、このスレではお約束じゃないか・・・
0623人間七七四年2012/01/28(土) 13:31:43.60ID:pQaPwTAf
学者もそれで名前の比定に苦労してるしな
別人だと思ってた二つの名前が同一人物だったり
その逆もあったりするし
0624人間七七四年2012/01/28(土) 13:35:02.25ID:MPnlgZY1
当て字も多いから、名前が違うくらいなんでもなかったか…
0625人間七七四年2012/01/28(土) 14:09:40.30ID:XMVCfJ3m
上杉政虎→輝虎に改名した時、上杉憲政に今どんな気持ちか聞いてあげたい
0626人間七七四年2012/01/28(土) 14:13:12.39ID:6RNaz/r1
将軍相手ならしょうがない、もしくは喜ばしいだろ
0627人間七七四年2012/01/28(土) 14:25:59.94ID:cGf6rbGG
工場長とこも元が誰だかわからなくなるくらい乱発してるよな
0628人間七七四年2012/01/28(土) 14:27:44.79ID:MPnlgZY1
蒲生さん多すぎる…蒲生製造工場か
0629人間七七四年2012/01/28(土) 18:13:13.43ID:pLwH/qgN
工場長がもう連発しすぎ
0630人間七七四年2012/01/28(土) 19:01:42.01ID:qbaKdBiP
誰か>>614に突っ込んであげて〜
0631人間七七四年2012/01/28(土) 21:06:11.30ID:6YM77AK0
大友鎮鎮殿は果報者にござるな
0632人間七七四年2012/01/28(土) 22:38:07.32ID:hF5IVVvb
>>611
佐伯家とかの大神一族系の他門衆や
同門衆でも三大支族の志賀家と田原家は
偏諱を受けないみたいだけどね。
0633人間七七四年2012/01/28(土) 23:19:10.89ID:cgmmRaMB
>>625
輝政になられるよりは良かったんじゃ…
0634人間七七四年2012/01/29(日) 00:48:22.56ID:7B+B5ExM
ところで山之内上杉の代々の通字って『憲』だろうになんで『政虎』なん?
0635人間七七四年2012/01/29(日) 00:58:10.63ID:lzWD42wk
そういや輝も義輝の輝だな。なんかルールでもあんのかね
0636人間七七四年2012/01/29(日) 01:43:36.32ID:0W6epqBK
偏諱は下の字を相手の上の字に授けるのが一般的と聞いた
(長宗我部信親とか秀次の家臣団とか例外はあるけど)
0637人間七七四年2012/01/29(日) 01:44:25.70ID:TPZanYLJ
偏諱は基本通字じゃない方だった気がする
0638人間七七四年2012/01/29(日) 01:57:30.14ID:0W6epqBK
>>637
伊達氏の通字「宗」や千葉氏系の「胤」は当主の下の字になることが多いから
家臣で頭の字に頂いてるのをよく見る
0639人間七七四年2012/01/29(日) 07:55:09.96ID:RiiIGYll
>>625
赤の他人の人質に景虎の名前が付けられた時の景勝にもどんな気持ちか聞いてあげて
0640人間七七四年2012/01/29(日) 09:45:05.11ID:pwDUF/l5
>>611
戸次鑑連も特に武功を称されてとかいうことじゃないんだな
0641人間七七四年2012/01/29(日) 13:37:36.14ID:M6ettp4l
>>634
娘との縁組ですらない養子だからか?
0642人間七七四年2012/01/29(日) 13:44:15.87ID:szfVGw5T
>>634は家督をついだのに、通字じゃないのな、て話だったようなのに
いつの間にか偏諱全般の話に
0643人間七七四年2012/01/29(日) 13:58:43.83ID:4xQB+Gft
>>639
直江「それについては私がお答えしよう」
0644人間七七四年2012/01/29(日) 13:59:39.50ID:P0DDgbd7
大友家の同紋衆は、元々大友氏が通字としていた親の字を同じく通字としていた
みたいなんだけど、19代の大友義長から足利家から義の字の偏諱を受けて
通字としたため、通字じゃない方を慣習的に偏諱するようになっていったみたい。
同紋衆でも家格の高い田原家や志賀家は親を通字のままにしてたようだけど

佐伯家とかの大神一族系の他紋衆は、惟の字を平安の頃から通字にしてるから
基本的に偏諱は受けない信念があるようだ。
0645人間七七四年2012/01/29(日) 14:14:14.43ID:zB0rRwcG
>>634
簡単に言えば政虎と改名した時は正式に家督を継いでいなく
憲政個人の代理補佐役いわゆる陣代だったので、
山内の通字を使ってなかったと考察されている
0646人間七七四年2012/01/29(日) 14:55:33.71ID:FHD6h9E1
>>632
それも大体そうなんだが、結構例外も多い。
佐伯鎮忠(惟教の息子)とか田原鑑道(親賢の養父親資の弟)、統高親子とか
南志賀家の鑑隆・鎮隆親子とか。
そもそも吉弘ももともと田原一族だが、分離しちゃったし。

>>640
そう直参はみんなもらえる。
鑑連の代わりに加判衆になった戸次鎮秀も戸次の別家の当主。
だから鑑連も戸次一族の中でただ一人もらっているわけじゃなく、
みんなもらっている中の一人。
0647人間七七四年2012/01/29(日) 15:02:41.84ID:FHD6h9E1
>>644
「親」の他にも「直」「能」「氏」「秀」なんかもよく使う。

ついでに義長以前にも義右(第17代当主)がいる。
それ以前は将軍の下の字をもらっていたが、この頃から「義」の字を
もらうようになった。
なぜかというと「義」の字の方が高いからw


>>611に追加。

鎮忠
鎮則

2人どころかひどいのは3人同名さんがいる。
0648人間七七四年2012/01/29(日) 16:15:37.70ID:dV7cpYjB
天正10年(1582)6月

備中高松城で対峙する毛利輝元と羽柴秀吉であったが、秀吉は輝元の陣に使者を派遣し、
安国寺恵瓊を呼んで、和議についての話を始めさせた。

秀吉からの和議の条件は以下の通り

・伯耆の国は矢橋川を境界とする
・備中は河辺川を境界とする
・残りの中国筋は尽く毛利家の進退するものとする
・清水宗治には切腹を仰せ付けられること

「この条件であれば信長公へ御和平は相整い、毛利の御家もつつがなく、秀吉も面目を立てることが
出来ます」

安国寺恵瓊はこの条件を持って毛利輝元に報告する。毛利の現状からすれば上々の
和議内容であろう。しかし輝元はこれに断固として反対した

「国分け(領土割譲)の事はともかく、当家にあれだけの忠義を尽くした清水に切腹を申し付けるなど、
そのようなことは出来ない!断じて罷りならん!」

安国寺は説得したものの、輝元は2度にわたってそう言い切った。
こうして状況は膠着した。ここに秀吉は密かに蜂須賀彦右衛門正勝、生駒雅楽頭親正を安国寺のもとに派遣し
内々にこう説得した

「毛利は現実を見るべきだ。近辺の国主はみな尽く秀吉になびいている。それらは全て証拠のあることである。
特に、小早川隆景殿が弟同然としていた上原元将さえ毛利と手切れをいたしましたぞ!
この現状では、この和平案を承諾するのが最善ではないか!」

安国寺、答える
「輝元様があれだけ言い切られた上は、これ以上説得した所で聞かれはしないだろう。」

それから安国寺は密かに高松城に入り、清水宗治に対面すると、これまでの和睦交渉の経緯を
ありのままに伝えた。
宗治は聞き終わると

「私の切腹の有無の事だけで和睦交渉が滞っているのですね。
毛利の御家の安否がどうなろうとも、拙者の事をお捨てにならないと決断された。
生々世々(生まれ変わり生き変わっても永遠に)、かたじけない儀であります。
このように扱って頂いたこと、家の面目、これに過ぎるものはありません。

こんな時は一命を投げ打ち、後代に名を残すことこそ武士の願うところであります。
この一命、片時も無駄に伸ばすつもりはありません。
しかし御両三殿(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)に申し上げても、私の切腹には賛同されないでしょう。
そうなれば秀吉との和平が整うこともありません。

安国寺殿、秀吉のもとに行き、清水は条件を承知した。御両三殿の御意に背いても切腹する。そう伝えて欲しい。
そして早々に和平のことを調え、この高松城に残る者たちは無事、毛利本陣に送り届けるようにし、
その上でこの事を御両三殿に披露してください。」

安国寺恵瓊は直ぐに秀吉のもとに向かい、この事を語った。
秀吉は感動し

「神妙無比である。清水の望むとおりにしよう」

と、清水宗治に伝えた。
こうして清水宗治は、6月4日、切腹することと決まった。

清水宗治が切腹するまでの過程である。
(萩藩閥閲録)
0649人間七七四年2012/01/29(日) 18:35:56.38ID:lzWD42wk
毛利家ってなんでこんなに家内の結束が固いんだろうな
清水だって毛利の中じゃ外様なのに
0650人間七七四年2012/01/29(日) 19:02:30.89ID:zB0rRwcG
出典から分かるように大本営発表だから美談にしてるが・・・
0651人間七七四年2012/01/29(日) 20:13:27.85ID:skFjOdns
まあこれ御両三殿がすぐに了承してたら高天神城落城後の武田みたいに
国人衆が歯が抜けるようにボロボロ織田に下ってあっという間に滅亡だからな
0652人間七七四年2012/01/29(日) 20:33:24.55ID:bIApyMfZ
え?これ備中高松城攻めの話だぞ?
清水宗治が切腹する二日前に信長死んでるけど
そういうフォロー?
0653人間七七四年2012/01/29(日) 23:04:04.52ID:J1U8VOXD
>>652
確か、明智から毛利への密使が間違えて羽柴の陣に入ってしまって
急いで撤退していく羽柴軍を不審に思った毛利が調べて初めて、信長が死んだって気付いたが通説じゃなかったっけ?
0654人間七七四年2012/01/29(日) 23:13:18.80ID:/TYHd38b
どっちが正しいねん(笑)
0655人間七七四年2012/01/30(月) 05:51:29.66ID:35cGvL6C
>>652
当時2ちゃんは無かった
0656人間七七四年2012/01/30(月) 10:49:45.02ID:QD1iStZI
能と高虎


大坂夏の陣から数ヶ月経た頃。

藤堂高虎に徳川家康が何気に尋ねた。
「あれは何と申したか、能の名手で、聚楽第でも見事に舞っておった、
しかもなかなかの槍の使い手で・・」
「喜多七太夫、でございまするか。」
「そう、そう、七太夫!あの者は、どうしておるかのう。」

なおもチラ見しながら家康が聞くと、高虎はやにわに平伏して言った。

「じっ、実は、七太夫は九州におりまする。どうかお許しを!」
秀吉の死後もその恩顧を忘れず、大坂の陣にも大坂城にて戦った喜多七太夫は、
いよいよ落城という時、旧知の高虎のもとに逃げ込んだ。
「武士とはいえ、もとは能役者、斬るにあたわず。なんとか逃げる手筈を・・。」
そこで、黒田長政あての添え状を持たせて九州へ逃した、と言う。

「おおかた、そのようなことであろうと思うておったわ。
能役者としてお前が後見するが良い。」

家康の許しを得て、喜多七太夫は京に戻り「喜多流」を起こす。
能楽五流の一つとなった「喜多流」は、藤堂家らの恩顧を受けて栄えたという。

高虎は常に言い続けてきたのだ。
「人を斬るばかりが武士ではない、人を生かすもまた武士なり」
                             ・・・よく言う
0657人間七七四年2012/01/30(月) 10:53:29.43ID:3CjR41MJ
黒田の若殿から請願あがっての出来レースぽい一幕だなw

命と才能生かすためのお芝居だから何も問題ないが
0658人間七七四年2012/01/30(月) 19:24:45.58ID:MDyxEeR3
こういう皆が得した話は和むなあ
0659人間七七四年2012/01/30(月) 19:36:43.34ID:O2ZocYWo
そだね、ホッコリした♪
0660人間七七四年2012/01/30(月) 21:10:13.68ID:Xi8WiCTj
戦国時代に名将と呼ばれた男がいる、それは白起である。
当時から太公望以上の功績とも言われ白起は秦に仕えること
40年、魏、楚、趙、韓などの大軍を撃破し続け向かうところ敵なしであった。

秦は、趙の領土である上党を攻め、ここに戦国時代最大の合戦である長平の戦いが始まった。
はじめに秦は趙の廉頗を攻め立てるが、守る廉頗は秦軍手強しと見るや土塁と城を築き長期戦に移行したのである。
これにより秦軍は攻めあぐね、長期戦による疲弊も出てきた。廉頗の作戦に秦軍は劣勢であった。

そこで秦は総大将を無敵の将軍であった白起に交代し宰相、范雎の提案に従い実戦経験がないながらも
兵法の大家との評判が高いが実戦経験がない机上の兵法家であった青二才趙括を総大将にさせるように仕向けた。

この策は見事にはまり、趙は実験経験がない青二才の超活を総大将にしたところを見ると
白起は総大将として出陣した。白起は策を用い趙括を兵に挑発させた怒った趙括が城から打って出てきたところを
伏兵で退路を遮断し城を占領したのである。

そのような戦況で補給線が遮断され40数日が過ぎ趙括率いる趙軍は餓えと渇きにより混乱に陥った。
同士討ちして仲間の肉を食べて餓えを凌ぐものもいたのである。結局趙括は打開しようと精兵をもって切り込んだが討ち死にした。
趙括指揮下の兵は武器を捨てて全軍降ったのである。

白起は捕虜を秦に連行するには食料が足りず、また返せば禍根となるため全員を食料をやると伝え捕虜を全員生き埋めにしたのである。
少年兵240名だけは許されたのである。こうして秦は趙に大勝したのであった。

しかし白起の功績を抑止しようとする范雎により趙と秦の間で趙が秦に城をわずか6城引き渡すだけの和議が行われてしまう。
和議の後秦はいくら趙の城を攻めようが落とすことが出来なかった。そこで白起に指揮を交代させようとしたが病気だとして白起は固辞したのである。

白起によると「秦の国力は低下し趙の国力は増強している。今まで勝ってきたのは当然のことで、今は趙は結束し国力を整えている。
今戦っても勝てない」とのことだったがそれを受け昭襄王は布団をはぎ取り「病気だというなら寝てても指揮をとれ」と白起に伝えたのである。
白起は「指揮を取れば命は助かるが趙を攻めても犠牲が多く勝てないので諸侯に号令すれば天下を取れる。」と主張したが昭襄王は無言で立ち去ったのであった。(要約)

そして白起は死を賜ることになった。
死ぬにあたって白起は「私が死ぬのは長平で多くの人々を殺したという天罰である」といい死んでいった。白起は同情され秦の民衆に神として祀られたという。
0661人間七七四年2012/01/30(月) 21:14:02.34ID:mCm8H6af
無視
0662人間七七四年2012/01/30(月) 21:39:48.93ID:kcTccEY9
例の「いい話だ」の荒らし、芸風を変えつつもいつまでも荒らし続けるんだろうなぁ…
0663人間七七四年2012/01/30(月) 22:32:44.14ID:9b+Wu5iZ
いい加減にしろ支那畜の歴史なんぞどうでもいいわ
0664人間七七四年2012/01/30(月) 22:39:15.47ID:GTPHhQfu
こっちなら歓迎されるぞ多分

世界史ちょっといい話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1327366681/
0665人間七七四年2012/01/30(月) 22:48:20.05ID:JqdZMtOd
>664
あちらの戦国時代で戦に限れば最高クラスの名将の有名なエピですしいまさら・・・
0666人間七七四年2012/01/30(月) 22:58:29.11ID:Wxt9SJKF
個人的には既出でさえなければメジャーなネタも大歓迎
>>664のスレでどうかは知らんが
0667人間七七四年2012/01/30(月) 23:42:00.23ID:FuWDvGoQ
>>656 で和んだのに くだらない荒らしのせいで台無しだな。
0668人間七七四年2012/01/30(月) 23:48:44.46ID:YdIPamUO
そうやって反応するから味占めて居つくのだ
0669人間七七四年2012/01/31(火) 00:18:16.07ID:ZdAjZkdo
まあ普通の人間ならそろそろ射精した後のように
自分で白けるものさ。
0670人間七七四年2012/01/31(火) 13:10:46.19ID:vF+4Fqq8
ならば遅漏過ぎるのではないか
0671人間七七四年2012/01/31(火) 17:44:05.81ID:F8Irf6CL
前漢時代に司馬相如という男がいた。彼は皇帝が死ぬと共に職を失いとても貧乏であり、そのことで困っていたが、
その反面あらゆる才に優れ琴の名手でもあった。

そんな彼は卓王孫の家で生活していたことがあり
あるとき卓王孫の家で月の明るい夜に琴を奏でていると
家の主人である卓王孫の娘である卓王君がその見事な琴に聞き惚れたのである。
それからはいつも、彼女は彼の琴の音を聞くようになった。
卓王孫は貧乏な相如に娘はが近づいていくのが気に入らなかった。
しかしいつ日か相如と卓王君は夫婦となり卓王孫の家を去っていった。

また一説によると文章家であった相如がラブレターを送り王君が惚れ込んだという話もある。
その説でも卓王君は相如とこっそり家を抜け出している。

いずれにせよ駆け落ちしたのである。

卓王孫は財宝を多く持っており貧乏な居候に過ぎなかった相如にかわいい娘である王君が嫁いだことを気に入らなかったため
娘の様子を意に介さなかったのである。

彼が蜀地方に行く時に昇遷橋がありその橋を歩いて渡るときに
橋の柱に、「私は、大きな車や肥えた馬に乗れるようになってからでなければ、
再びこの橋を渡り返すことはせぬ」と書いて誓い、その後、蜀の国に滞留した。
その後、望み通り出世することができて、この橋を渡って帰った。

そのようないいはなしである。
0672人間七七四年2012/01/31(火) 17:49:48.57ID:F8Irf6CL
余談

卓文君は自分の所有物を売り払い、
臨卭の街に酒場を開いた。そこで、卓文君は自らホステスとして働き、
司馬相如は上半身裸で召使いのようにして働いた。卓王孫は自分の娘がこのような仕事をしていることを恥じ、親戚などからの勧めもあって、
卓文君に召使いを100人、100万銭、前回の結婚の際の嫁入り道具を与えた。これで、
司馬相如は結婚を認められたことになる。2人は成都に移り住み、土地を買い入れて、地主となった。(wikiより)

と唐物語は正確なことを書いておらずに捏造に近い編集を行なっているのである。
女は、何年も貧しいなかを連れ添った甲斐があり、親疎に拘らず世間の人々もこの上なく羨むような身分になることができた。
と上記の話のあと書いているが、その後に親の恩恵を受けているわけであり、出世して親類に認めさせたわけでもなく
出世して貧乏を脱出したわけでもない。

これでは、話自体は良くなるが正確さは伝わらず間違った印象を与えることになる。
史料を読むときには気を付けなければならないといういい話スレの低能向けの話である
0673人間七七四年2012/01/31(火) 18:00:47.39ID:LZJfaO5L
かまうから喜んじまっただろ。
ちゃんとスルーしとけ。
0674人間七七四年2012/01/31(火) 20:47:49.73ID:DuYKZNe3
んじゃお口直しに
島津4兄弟で有名な話ですがまとめには出て無いみたいなんで

「軍略の家久」
島津家久は日新斎に軍略を得たりと予言されてはいたが幼少より優秀だったわけでは無く
4兄弟の中では唯一身分の低い妾の子である事に劣等感を抱いていた
そんなある日、4兄弟は連れたって馬追いをした時のこと
生駒にて飼育されている様々な馬を見て回ってる時に歳久は
「毛色の違う馬は色々いますがどの馬も母馬に似るものです、人間も似たようなものでしょうね」と言い放った
歳久の言いたい事を察知した義久は即座に否定した
「子馬が必ずしも母馬に似るわけでは無いだろうし、人間は畜生とは違い学問に励み徳を積めば父母よりも立派になるだろうし怠れば父母より劣る事になろう」
後日家久はその言葉を励みに日夜勉学武芸に励むようになり数年のうちに日新斎の予言通りの立派な将に育つ事となった

4兄弟ネタでは珍しく義弘が空気で、歳久からシャギ臭のする話
0675人間七七四年2012/01/31(火) 20:51:38.62ID:GfTf/cYP
イイハナシダナー
しかし長兄トキで次兄ラオウな四兄弟だな
0676人間七七四年2012/01/31(火) 20:52:14.15ID:pOgZGRIS
歳久「よくできた弟〜〜〜〜〜〜!!」
0677人間七七四年2012/01/31(火) 20:59:26.75ID:zVVVqgvW
喜多七太夫の小ネタでも

七太夫は幼少時、秀吉に近侍し、その芸達者ぶりから大変可愛がられた。
腰巾着のように、秀吉の傍を離れずにいることから、
ついたあだ名が「六平太(ロッペイタ)」

このロッペイタという名、ポルトガル語由来の言葉といわれ、
南蛮製の巾着の名であったといわれる。
この「六平太」という名は、喜多流宗家が使用する名乗りの1つとして、受け継がれている



「腰巾着」の意味自体は、あまり良いものではないと思うんだが、
外来語があだ名になった珍しさと、芸人らしい才気煥発さを指しているのだろうということで、こっちに。
0678人間七七四年2012/01/31(火) 21:09:42.33ID:RU81pUcm?2BP(0)
本当は兄弟仲が悪かったんだろ?って言いたくなる話だな
0679人間七七四年2012/01/31(火) 21:52:39.45ID:F8Irf6CL
お口直しに

魏晋南北朝時代、奴隷から皇帝まで登り詰めた男がいた。石勒である。
石勒は智に優れ、このような策を決めている。

烏丸の張伏利度が配下二千で自らの勢力圏である楽平に籠もっていた。
劉淵はそれを見て張伏を招聘しようとしたが、固辞し続けるばかりだった。
そこで石勒が張伏を配下にする役目となったのである。
石勒は劉淵と裏で口を合わせ、罪を犯かしたということにし劉淵の元から石勒が張伏の元に逃げたのである。
張伏は石勒の帰順を受け入れ、あろうことか義兄弟にまでなったのである。
そして石勒は重複の命令で軍を率い、大活躍をしたのである。
その様子を目の当たりにし張伏配下は石勒に心服したのであった。

そして最初からの予定通り石勒は張伏の配下を調略した後、機を見て配下と共に
張伏を捉えてこう言ったのである「これから大事を起こすときに、張伏と私のどちらが君主としてふさわしい」と。
当然、張伏の配下は張伏ではなく石勒を推した。石勒は張伏を開放し予定通り
張伏配下と共に劉淵の元に帰ったのである。
その功績により石勒は督山東征討諸軍事となり、張伏の衆は石勒の配下となった。
石勒が劉淵の元で立てた初の手柄である。
0680人間七七四年2012/01/31(火) 21:58:58.16ID:DuYKZNe3
貧乏籤に定評のある歳久だから、計算して悪役を演じた可能性もあるけど
若い内は兄弟なんてこんなもんだろ、妾の子が劣等感からグズってりゃいっそ突き放したくもなる
0681人間七七四年2012/01/31(火) 22:02:22.25ID:GfTf/cYP
六平太というと某山内大河の汚れ創作キャラ思い出す
あれは悪い話向けだが
0682人間七七四年2012/01/31(火) 22:26:43.23ID:spF9iIt/
http://sep.2chan.net/may/b/src/1328015735764.jpg
http://may.2chan.net/b/res/99378344.htm
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています